午後17時。
今日は華の金曜日。
何の予定もないくせに、いつもより少しだけ仕事を早上がりした私は、帰宅してすぐにコーヒーを淹れる。
夕飯はいつもそれほど食べない。
だって、あんまり満腹になると夜気持ち悪くなって眠れなくなることが多いから。
帰ってきてすぐのコーヒータイムは、私の癒しの時間。
しかも明日から2日間の休み。
この平和で静かな時間に、インターホンが鳴り響いた。
「はーい。」
宅配かな?
ネットショッピングはよくしているから、何の気なしに扉を開けると、そこに立っていたのは。
「おぉ、れいなちゃん!悪いな突然。」
「……モラウさん?」
以前、ナックルと外で食事していた時に一度だけ会ったことがある。
ナックルの上司らしい大男のことを、ナックルは確か師匠とか呼んでいた気がする。
ふと、足元にもう一つの影。
真っ黒の毛並みで、垂れ耳。
胸元に白い模様が入っていて可愛らしい見た目の大型犬。
その大きなわんちゃんが、どこか気まずそうに地面をじっと見つめながら、軽くしっぽを振っていた。
大きな背丈のモラウさんを見上げる事に必死で気が付かなかった。
「わんちゃん…?」
「突然で悪いついでに、こいつを一日だけ預かっちゃくれねぇか。」
「え、ええ!?うちでですか!?」
本当に突然だ。
というか、なんで私に?
なんで家を知っているのか。
モラウさんとは一度しか会ったことがない上に、ナックルから聞いている"鬼みたいな修行"をさせてくる鬼みたいな人、という印象しかない。
「犬苦手だったか?
コイツは大丈夫だ、躾はしっかりされてるからな。」
「いや、好きですけど…誰のわんちゃんですか?」
「あー…
悲しい事に、まだ誰のものってわけじゃねえんだよなぁ。」
保護犬とか、そういうことだろうか。
正直言って急な話で、迷惑ではある。
けど、昔犬を飼っていたこともあって可哀想な気持ちがないわけでもない。
「ナックルじゃダメなんですか?犬とかすごい好きだし…。」
「それがなぁ…あいつはダメなんだよ、今。」
含みのある言い方。
よくわからないけど、ナックルはダメらしい。
そういえば、毎日取り合っている連絡が、
今日はまだ一度も返信がきていなかった。
「まぁ、一日だけなら…。」
「助かる!本当にありがとう!
明日引き取りついでに美味いもんでも買ってくるよ。」
「いえそんな、お気になさらず。」
そう言ってわんちゃんに目を向けると、変わらず俯いているくせに先ほどよりもしっぽが大きく振られていた。
「ふふ、嬉しいの?」
しゃがんで頭を撫でると、びくっと体を震わせて目を見開いた。
突然触られて驚いちゃったかな、と思ったが、次の瞬間には自分から手に頭を擦り付けてきていた。
「懐っこいですね、かわいい。」
「懐っこくて愛嬌あるのだけが取り柄でな。
まぁ、よろしく頼んだ。昼前くらいには引き取りに来るから。」
じゃ、と言ってモラウさんは行ってしまった。
「あ、名前聞いてない。」
しまった、モラウさんの連絡先を聞くのも忘れた。
一日くらいまぁいいかと自分を納得させて、その大きな犬を家の中へ手招いた。
「おいで、お腹減ってるかな?」
「クゥーン…」
寂しげな声。
多分、お腹が減っているということなんだろうか。
「困ったな、うちドッグフードとかないし…。」
そう呟くと、大きな体で「わん!」と言って炊飯器を鼻でつついた。
「…ご飯、食べられるの?」
「わん!わん!」
目をキラキラと輝かせて炊飯器の前でお利口に座っている様子を見るに、食べ慣れているのだろうか。
まぁ、これでいいならそれに越したことはない。
「じゃあ、冷ますからちょっと待っててね。」
「キューン…」
耳をぺたんと折りたたみ、待ちきれないと言った様子で時々地団駄を踏む。
「そういえば、なんて呼ぼうか。」
まいったなぁ、こういうの考えるの苦手なんだよね。
「…モラウさんが連れてきたし、モーくんはどう?」
「ガルルル」
気に入らなかったみたい。
「じゃあ、クロ?」
「わん!」
良かった、クロは受け入れてもらえたようだ。
それにしてもすごく賢い。
まるで人間と会話しているみたいな感覚になった。
冷ました白米を適当にお皿によそって床に置くと、飢えていたようにガツガツと食べ始めた。
「なんか…食べっぷりがナックルにそっくり。」
「…っ!」
そう呟くと、クロがぴたりと動きを止めて私をじっと見つめた。
「ど、どうしたの?美味しくない?」
私をじとっと見つめたあと、ふいっとまたご飯に視線を戻して食べ始める。
ご飯を食べ終えたクロは、満足そうに伏せた。
「お利口だねぇ。」
頭を撫でると、
途端に尻尾が床を叩く。
そして、どんどん速くなる。
「ふふ。」
可愛い。
そのまま耳の後ろを掻いてやると、クロは目を細めながら喉を鳴らした。
「気持ちいいの?
……ナックル呼んでみようかな、喜びそう。」
なんの気なしに、無類の動物好きのナックルを呼んでみることにした。
本当はそんなこと、全部都合の良い言い訳で、私がナックルに会いたいだけだったけど。
電話を数コールかければ大抵出てくれて、ぶっきらぼうに、電話の向こうから「なんだよ?」と聞こえてくる声が、今日は聞こえない。
何回かコールを繰り返したあと、留守電に繋がってしまったのでそのまま切った。
「あーあ残念、会いたかったのにな…」
心の声を漏らすと、今まで撫でられて気持ちよさそうにしていたクロが、目を丸くしてスクッと立ち上がった。
「ん、どうしたの?」
口をはくはくと開閉させて、少し体がぶるぶると震えているようにも見えた。
けど、すぐに座り込んでまた黙って撫でられている。
不思議な子だ。
「とりあえず私、お風呂入ってくるから。
お利口さんで待てる?」
「わふっ!」
クロが頭をこくんと頷かせて軽く吠えて返事をした。
妙に頭がいい。
保護犬で、ここまで躾が行き届いていることってあるのだろうか?
そんなことを考えながらズボラな私は、いつも通り服を脱ぎ捨てながら脱衣所へ向かう。
「ギャウウウン!!!!」
「えっ!な、な、なに!?」
突然クロが大きな声で吠えた。
もはや遠吠えに近い。
驚いてクロに視線を向けると、部屋の隅で小さくなってぶるぶる震えていた。
私は心配になって、下着姿でクロに近づいて頭を撫でた。
「どうした?どこか痛い?」
「キューン…キューン…」
切ない声を出しながら、私を見つめるクロ。
視線があっちにいったりこっちにいったりと、落ち着かない様子だった。
「一人になるのが寂しいの?一緒にお風呂入る?」
気を利かせてつもりだったのだが、クロは舌を出してハアハアと息を荒くしながら、大きく頭を横に振った。
その動きに最大限の拒絶を感じて、どうしたらいいかわからなかった私は、とりあえずさっさとお風呂に入って一緒にいてあげることにした。
「うーん、ごめんね、わかんないや。
すぐ出てくるから少しだけ待っててね?」
「クゥーン…」
ふさふさの尻尾がパタパタと床を叩いている。
いいのかな、と思ってクロから離れて再び脱衣所へ向かう。
脱衣所の扉を閉める前にもう一度クロに視線を向けると、なぜか体を壁に向けたまま頭だけこちらを向いて、横目でじっと見つめられていた。
「?」
変なわんちゃん。
そう思いながら熱いシャワーを浴びて一日の疲れを落とした。
バスタオルで体を拭いて、いつも私が寝る前の格好へ着替える。
パジャマ代わりのTシャツに、ズボンは履かずに下着だけ。もちろんノーブラで。
結局、これが一番楽でいい。
「お待たせ〜、お利口にしてた?」
そう言ってリビングに戻る。
すると、さっきまで床に伏せていたクロがぴくりと耳を動かした。
「わん。」
「えらいえらい。」
しゃがんで頭を撫でようとした時。
ぴたり、とクロが固まった。
「……?」
じっ…と私を見る。
いや、正確には
顔を見て、逸らして。
また見て、逸らして。
何度かそれを繰り返したあと。
「クゥゥン……。」
情けない声を漏らしながら、その場でくるりと後ろを向いた。
「えっ。」
そのまま壁際まで歩いていき、ぺたんと座り込む。
背中だけをこちらに向けて。
「どうしたの?」
近付けば
ぱたん、ぱたん。
と、尻尾だけは床を叩いている。
「機嫌悪いの?」
問いかけると、クロはちらりと振り返った。
その目はどこか困ったようで。
次の瞬間には、また慌てて顔を逸らす。
「……?」
「わふ。」
「え?」
「わふっ。」
短く鳴いて、今度は自分の前足で顔を隠すように伏せた。
「もしかして……。」
れいなは首を傾げる。
「眠いの?」
「…………。」
数秒の沈黙。
そして。
「クゥーン……。」
諦めたような声を出しながら、クロはそのまま床に突っ伏した。
「ふふ、変な子。」
頭を撫でると、嬉しそうに尻尾を振る。
けれど最後まで、クロは私の方をまともに見ようとはしなかった。
そのくせ、私がキッチンへ行けば後ろをついてきて。
ソファに座れば足元に寝転がって。
私が立ち上がれば、ちゃんと顔を上げて確認する。
近くにはいたい。
でも、まともに見られない。
そんな矛盾した態度に、私はますます首を傾げるばかりだった。
「……もしかして、照れ屋さん?」
「ッ!!」
勢いよく顔を上げたクロは、信じられないものを見るように目を見開いたあと。
「ギャンッ!」
と一声鳴いて、前足で顔を覆った。
「えぇ!?なんで!?」
まるでクロに怒られた気分だった。
床に突っ伏したまま尻尾だけをばたばた振るクロを見て、私は思わず吹き出した。
「ふふっ、ほんと変なわんちゃん。」
その時だった。
♪〜〜
静かなリビングにスマホの着信音が響く。
「あ、電話。ナックルかな?」
テーブルの上に置いてあったスマホを見る。
表示された名前に、思わず「あ」と声が漏れた。
「◯◯さんだ。」
会社の先輩。
何度か仕事終わりにご飯へ行ったことがある、気さくで話しやすい人だ。
「もしもし?」
『あ、れいなさん?今大丈夫?』
「はい、大丈夫です。」
『明日休みだよね?よかったらさ、駅前に新しくできたイタリアン行かない?』
「え?」
『前に行ってみたいって言ってたじゃん。
一人だと行きづらくてさ。』
「うーん……。」
突然の誘いに、視線が泳ぐ。
その瞬間。
ガタンッ!!
「ひゃっ!?」
勢いよく立ち上がったクロが、テーブルに前足をかけた。
「クロ!?」
『どうしたの?』
「えっ、あ、ごめんなさい!預かってるわんちゃんが……。」
「グルルル……。」
低い唸り声。
さっきまで床に突っ伏していたとは思えないほど険しい顔で、クロはスマホを睨みつけていた。
『……怒ってる?』
「え、いや、そんなこと……。」
「ワン!!」
『うわっ。』
「クロ!?ダメだよ!」
慌てて首元を抱き寄せる。
すると、今度は
「クゥーン……。」
と、途端に情けない声を出して、クロは私の膝に頭を押し付けてきた。
『……もしかして、寂しいタイプ?』
「かもしれません。」
『はは。じゃあ、また今度誘うよ。』
「……すみません。」
電話を切る。
静かになった部屋で、クロはしばらく私の膝に顔を埋めたまま動かなかった。
「……クロ?」
「クゥン。」
「もしかして、ヤキモチ?」
冗談半分でそう言うと、
ぴたりと、尻尾が止まった。
「……なーんて。」
「…………。」
「そんなわけないよね。」
そう言って笑いながら頭を撫でると、クロは顔を上げて、じっと私を見つめた。
ぺろ。
「え?」
頬をひと舐めして。
もう一度、私の膝に顔を埋める。
「……かわいいね。」
聞こえるはずもないのに。
『行くな。』
そんな声が聞こえた気がした。
「ひっつき虫の甘えん坊で、ヤキモチ妬き?
彼氏にしたら大変そ〜。」
私の冗談に、クロの耳がぴくりと動く。
「………ナックル今日忙しいのかな?
連絡、返ってこないや。」
「…キューン。」
「慰めてくれるの?いい子だね。」
両手でクロの顔を撫でくりまわすと、嬉しそうに目を細めて音がするほど尻尾を床に叩きつける。
ふと時計を見ると、もう22時を回っていた。
いつもなら夜更かしするところだけど、今日はナックルからの連絡もないし、クロも緊張してるだろうから早めに就寝することにした。
「もう寝よっか、おいで。」
「わふっ」
私が寝室の扉を開けると、トコトコついてきて、ベッドの下に座り込むクロ。
「下でいいの?一緒にベッドで寝ようよ。」
途端にクロのしっぽが止まった。
じっとベッドを見て、それから私を見る。
またベッドを見る。
そして。
すっ。
と、ベッドから一歩離れた。
「え?」
「クゥン。」
「上がらないの?」
「……。」
ぷいっ。
横を向く。
「え、もしかして遠慮してる?」
「…………。」
「えぇ~、気にしなくていいのに。」
クロは頑なだった。
ベッドの横に伏せて、「俺はここで十分です」みたいな顔をしている。
「ふふ。」
思わず笑ってしまう。
「お利口だね。」
頭を撫でると、しっぽが揺れる。
「でも。」
私はベッドの端から身を乗り出した。
「大型犬ってあったかいんでしょ?」
「……?」
「湯たんぽ代わりになってもらおうかな。」
「!?」
クロの目が見開かれる。
「おいで。」
ぽんぽん。
ベッドを叩く。
「クゥン……。」
「大丈夫だって。」
「…………。」
「ほら。」
「…………。」
「クロ。」
名前を呼ぶ。
優しく笑いかける。
「一緒に寝よ?」
沈黙。
数秒後。
「クゥゥン……。」
観念したような声。
ゆっくりと前足をベッドにかける。
「よいしょ。」
大きな体が遠慮がちに上がってくる。
けれど、端っこ。
落ちそうなくらい端っこに丸くなる。
「なんでそんな隅っこなの。」
「……。」
「もっとこっち。」
「…………。」
「クロ。」
腕を伸ばして首元を引き寄せる。
「わっ、あったか!」
「!!」
びくっ。
「ふふ。」
もふもふの首元に頬を寄せて、
そのままちゅっとキスをした。
「これならよく眠れそう。」
「…………。」
クロは固まったまま動かない。
ふわふわの感触が心地よくて、クロにぎゅう、と抱きついたままうとうとし始める。
「明日はモラウさんと帰っちゃうんでしょ…?
寂しくなってきちゃったな。」
ここまで賢い犬ならうちで引き取ってもいいかも。
そしたら、ナックルがうちに来る理由もできるし、なんて邪な考えが頭をよぎる。
「おやすみ、クロ。」
もふり、と首元に顔を埋める。
「……ナックルにも会いたかったな。」
眠たげな声でそう呟けば。
「…………。」
腕の中の大きな体が、ほんの少しだけ強張った気がした。
「明日、ちゃんと連絡くれるかなぁ。」
返事はない。
けれど、私の頬に柔らかな鼻先がちょんと押し当てられた。
「ふふ。おやすみ。」
そのまま、私は目を閉じた。
微睡の中で、ふと目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。
まだ眠い。
腕の中には、昨晩からずっと抱いていたあたたかな温もり。
落ち着く匂いがする。
「……クロ。」
眠気に負けたような声で名前を呼んだ。
返事はない。
もふもふの毛並みを求めて、クロの首元に顔を埋めた。
「ん………?」
違和感に気がつく。
温かいけど、柔らかくない。
むしろ、硬い。
寝ぼけた頭で指先を動かす。
触れたのは、柔らかな毛ではなく、
しっとりとした、筋肉。
「んぇ?」
ゆっくりと目を開けた。
視界いっぱいに飛び込んできたのは、肌色。
乱れた黒髪、
長めの睫毛、
ぱっちりと開いた見覚えのある瞳。
「………ナック、ル…?」
掠れた声で名前を呼ぶ。
目の前の本人は、真っ赤な顔でひどくぎこちない動きで視線を逸らした。
「……オゥ。」
「…………。」
頭が、ついていかない。
昨日、
モラウさんが犬を連れてきて。
クロって名前をつけて。
ご飯を食べさせて。
一緒にベッドで寝て。
そして。
「え?」
胸元に顔を埋めて、体に抱きつく私の腕。
ナックルの下半身に絡みついた、私の足。
ぎゅうっ、と
無意識に抱きついていた腕に力が入る。
「うわっ。」
「えっ、えっ!?なんで!?なんでナックル!?」
慌てて飛び起きようとして、シーツに足を取られる。
「危ねっ!」
伸びてきた腕に支えられて、そのままナックルの胸にぶつかった。
「ご、ごめん!」
「いや……。」
「え、待って、クロは!?」
「……………俺だ。」
「……え?」
「だから……。」
数秒の沈黙。
気まずそうに頭を掻いて。
「クロ、俺。」
「…………。」
「…………。」
「…………えぇぇぇぇぇぇ!!!???」
朝の静かな部屋に、私の絶叫が響き渡った。
「え、な、な、なんで犬!!???」
「念能力の事故っつーか……師匠の知り合いに変な能力者がいてよ。
その人物に一番似てる動物になるんだと。」
「ゴリラとかじゃないの!?」
「テメェ喧嘩売ってんのかコラ!!!」
突っ込みたいことが多すぎる。
犬だったこともそうだし、昨日の自分の言動もそうだし、何より目の前のナックルが全裸である。
「て、いうか服は!!???」
「……犬になった時にブカブカになって、師匠に回収された。」
「じゃあなんで一緒に寝てたの!?」
「俺ァ下で寝ようとしてた!!」
食い気味にナックルが叫ぶ。
「え?あ…!!」
「お前が『湯たんぽ代わり〜』とか言って引っ張り込んだんだろうが!!」
「え、ええ!?」
「つーかお前…。」
「な、なに!?」
ナックルが、一段と顔を赤くさせた。
「……俺の名前、呼びすぎ。」
「………は、はぁっ!?」
「ずーっと呼んでたぞ、寝ぼけながら…。
会いたいとか…………好きだとか。」
顔に熱がどんどん集まっていくのがわかる。
「う、うそ……。」
「…嘘じゃねェ。」
ナックルは気まずそうに視線を逸らしたまま、ぼそりと続ける。
やめて、何も聞きたくない。耳を塞ぎたい。
「会いたかったとか、明日ちゃんと連絡くれるかなとか……。」
「や、やめて……。」
「……好きって、」
「やめてぇぇぇぇぇ!!!」
枕を掴んでナックルの顔面に押し付ける。
「忘れて!!今すぐ忘れて!!」
「無理だろ!!俺ァ目の前でそれ言われてたんだぞ!?」
ベッドの上でわちゃわちゃと暴れると、
その拍子にするり、とシーツがずれた。
「……。」
ナックルの視線が、ぴたりと止まる。
「…………お前。」
「え?」
「その格好……。」
「格好?」
寝起きの鈍い頭で、自分の体を見下ろす。
ぶかぶかのTシャツ。
むき出しの脚。
そして、
「……あ。」
下着。
「…………。」
「…………え?」
数秒の沈黙。
「ええええぇぇぇっ!!!???」
「だから俺ァ昨日から見ねェようにしてたんだろうが!!」
「な、なんで言ってくれなかったの!?」
「言えるかァ!!!
犬の姿で『お前今下パンイチだぞ』ってどうやって伝えんだよ!!」
「じゃあ昨日の夜も!?お風呂上がりも!?!?」
「見てねェ!!」
「絶対見たでしょ!?」
「見えてねェって言ったら嘘になるけど見ねェように頑張ってたんだよ!!」
「どっちなの!?」
「男としての理性と犬の本能で死ぬほど戦ってたんだよ俺ァ!!」
「最悪なんだけど!!」
「俺が一番最悪だっつの!!!」
真っ赤な顔で叫びながら私にぐいぐいシーツをかけてくるナックルと、頭を抱えて転げ回る私。
「え、ていうことは……待って。」
「ンだよ。」
「…つまり、私、昨日から一晩中この格好で、ナックルに抱きついてたってこと…?」
「俺だって好きでそうしてたわけじゃねェ!!!」
穴があったら入りたいとは、まさにこの事だった。
いや、もういっそのこと埋めてほしい。
「れいな。」
「…いません。」
私はシーツをじりじりと頭の上まで引っ張り上げた。
「れいなは死にました。」
「勝手に殺すな。」
べしっとシーツの上から頭を小突かれる。
「もう無理……ナックルの顔なんか、もう一生見れない……。」
「…そんなにか?」
「そんなにだよ!!!」
ベッドに突っ伏したまま叫ぶと、ナックルはぽりぽりと頬を掻いた。
「……じゃあ。」
「…?」
「そんなに恥ずかしいなら、もっと恥ずかしいことして上書きするか?」
「…………は?」
ナックルが真っ赤な顔のまま、どこか気まずそうに視線を逸らす。
「黒歴史って更新すると、前のやつ薄れるだろ。」
「……。」
「だから、その……。」
「……。」
「今のうちにもう一個でけェ恥ずかしいこと作っとけば、」
「作るわけないでしょ!!!」
枕が飛んだ。
「いっでぇ!」
「なんでそうなるの!?馬鹿なの!!!??」
喉が掠れるほどの声量が出る。
「いやだって、お前昨日俺に好きだの会いたいだの、」
「忘れてって言ってるでしょ!!!!!」
「無理だっつってんだろが!!!!」
興奮した私とナックルで取っ組み合いになる。
指ごと絡めるようにぎゅっと捕まえられて、心臓が跳ねた。
「離して!!!」
「暴れんなって!!」
気付けば、恋人繋ぎみたいになっていた。
でも、そんな甘い雰囲気とは似ても似つかない。
ぐぐぐっ…とお互いに力を込める。
押し返しても、びくともしない。
「なに、これ!!」
「だから落ち着けっつってんだろ!」
「ナックル、手加減してるでしょ!」
「してるに決まってんだろ!!」
「むかつく!!」
「本気でやったらお前の手潰れるわ!!」
「うっ……!」
悔しくてさらに力を込める。
ぎり、ぎり。
指の間に熱が伝わる。
なのに、どれだけ押してもナックルの手は揺るがない。
「…っもう!」
「だから諦めろって。」
「やだ!!」
「なんでだよ!」
「恥ずかしいから!!!」
「それとこれは関係ねェだろ!!」
言い合いながら、ふと視線がぶつかる。
絡まった指。
真っ赤な顔。
ぐぐぐ、と力比べを続けたまま。
「……。」
「……。」
「……お前、いつまでやる気だよ。」
「…ナックルが先に離して。」
「お前が落ち着いたらな。」
「だって、急に離したら負けた気がするし!」
「俺もだよ!!」
ぎりぎり、と恋人繋ぎのまま睨み合う。
その時、
ずる、とまたシーツがずれた。
「……れいな。」
「な、なに。」
「シーツ。」
「え?」
視線を辿って、自分の格好を思い出す。
「…………。」
「…………。」
「いやあああああ!!!」
反射的に隠そうとしても、手は繋がれたまま。
「手ぇ離して!!」
「だからお前も離せって!!」
「ナックルが握ってるんでしょ!!」
「お前だって握り返してんだろ!!」
真っ赤な顔で言い合って。
気付けば、さっきまでの勢いはどこかへ消えていた。
「……。」
「……。」
ふ、とナックルの額がこつりとぶつかる。
「……いいか?」
低い声。
繋いだ手はそのまま。
うるさいくらいに鳴っていた心臓が、
一際大きく跳ねた。
恥ずかしいけど、嫌ではない。
「……。」
「……。」
「……嫌なら押し返せ。」
数秒待っても、何もない。
ナックルは大きく息を吐いて。
「……いいんだな。」
そっと目を閉じた。
触れるだけの、小さなキス。
ナックルの顔が、ゆっくり離れていく。
「……これ、上書き…できたの?」
震える声で聞くと。
「……いや。」
ナックルは耳まで真っ赤にしながら答えた。
「前のやつ全部ひっくるめて、余計忘れられなくなった。」
「ダメじゃん!!」
思わず叫べば、ナックルも「知らねェよ」と顔を逸らす。
それでも、繋いだ手は離れなかった。
さっき触れた唇の感触が頭から離れない。
「……。」
「……。」
気まずい。
恥ずかしい。
なのに、離れたいとは思わなかった。
「……れいな。」
名前を呼ばれる。
顔を上げれば、すぐ近くにナックルの赤い顔。
少しだけ、距離が縮まる。
額がこつりと触れた。
「……。」
ナックルが何か言いかけて、結局飲み込む。
代わりに、繋いだ手に少しだけ力がこもった。
ゆっくりと伏せられる視線。
近付いてくる顔。
「…………。」
さっきよりずっと遅くて、ずっと慎重だった。
どくん、と心臓が跳ねる。
「……っ。」
あと少し。
ほんの少しで触れる、その瞬間。
ピンポーン。
インターホンの音が、やけに大きく響いた。
「……。」
「……。」
もう一度。
ピンポーン。
『ナックル、迎えに来たぞー。』
真っ赤な顔をしたナックルが、
弾かれたみたいに、ぱっと離れた。
「わ、悪ィ!」
「え、あ、う、うん……!」
『留守かー?』
「い、います!!
ちょ、ちょっと待ってください!!」
慌ててベッドから飛び降り、部屋の隅に脱ぎっぱなしだったズボンを引っつかむ。
「すみません!今行きますー!!」
玄関へ駆けていったあと。
寝室に残されたナックルは、
シーツをぎゅっと握りしめたまま天井を見上げた。
「……マジかよ。」
耳まで真っ赤な顔を片手で覆う。
「……師匠来んのが、あと十分遅かったらヤバかった……。」
ナックルが一人、ぽつりと呟く。
「お待たせしました!」
「いやいや、急に悪かったな!」
という声が聞こえてきて。
ナックルは深く深くため息をついた。
「……とりあえず、服ください。」
ぼそりと呟いて、もう一度シーツを頭まで引っ張り上げた。
閉める余裕のなかった寝室の扉から少しだけ見えたのだろう。
全裸でベッドにいるナックルを見て、モラウさんがはた、と目を見開いた気がした。
「あー…邪魔した感じか?」
「えっ…あ!ちが、違います!何もしてないです…って、いうか!!
犬!!ナックルだって、言ってくれればいいのに…っ!!!」
ガハハハと笑ってモラウが言った。
「悪ィ悪ィ!ナックルがよぉ、うじうじしてるから後押しするつもりでな、つい!」
「師匠。」
「お?」
「黙っててください。」
「おー怖ぇ怖ぇ。」
奥の寝室から低い声が聞こえてくる。
気にも留めていないモラウさんが、笑いながら紙袋を渡してきた。
「これ、出来の悪いうちの犬を預かってもらったお礼。
あとナックルの服な。」
そう言われてすぐにナックルの服を寝室へ投げ込んだ。
それから紙袋の中を覗き込んだれいなが、目を丸くした。
「えっ、これ…!」
ここから電車で1時間以上かかる場所にある、大人気カフェの限定スイーツ。
前々から食べてみたいとは思っていたものの、手が出せなかったれいなにとっては、これ一つで全てを許せてしまいそうになるくらいにはレアなものだった。
「えええ!?これ、ずっと食べてみたかったやつです!!」
「喜んでもらえて何よりだ。」
「モラウさん、神です……!」
「だろ?」
モラウさんは、鬼なんかじゃない。
少なくとも、限定スイーツを持ってくるタイプの鬼ではなかった。
さっきまでの羞恥と混乱が一瞬で吹き飛ぶくらいには嬉しいかった。
「お前、ちょろすぎねェか。」
「うるさい!」
いつの間にか服を着たナックルが、しかめっ面で寝室から出てきた。
白い特攻服。
いつもの格好。
いつもと違うのは、いつものガチガチに固めたリーゼントヘアじゃなく、寝癖のついた黒髪が少し乱れているところくらいか。
モラウさんはニヤニヤしながらナックルの首根っこをガシッと掴む。
「よし、休養は十分だな。修行行くぞ。」
「え、今すぐ!?待っ……!!」
ナックルが抵抗する間もなく、モラウさんに引きずられていく。
「悪ィ、れいな!」
「う、うん……」
玄関のドアが閉まる直前、ナックルが振り返って真っ赤な顔で小さく言った。
「……今日、また来るから。」
次の瞬間、
「ほら行くぞー!」
というモラウさんの声とともに、ナックルは強引に外へ連れ出された。
バタン、とドアが閉まる。
部屋に一人残された私は、顔を両手で覆って床にへたり込んだ。
「……ばか。」
恥ずかしくて、でも口元が緩むのを止められない。
まだほんのり熱の残る頬を両手で押さえた。
ちなみに。
夕飯をまともに食べていないことがナックルに知られた結果、「コーヒーだけで済ますとか馬鹿か!!」と本気で怒られ、なぜか毎日夕飯を作りに来るようになったのは、また別のお話。