天海国
第三章 海を眺むる
第一節 赤潮の湖
玄命八年五月九日
朝日を千々に反射する赤い湖面が、凪いだ風に小さな波紋を奔らせている。
波紋には、歪みが生じ、幾重にも重ねたような奇妙な雲海を形作っている。
鏡写しになる巨大な雲の海。遠くに、入道雲が浮かんでいるのだ。それは海の下に激しい雷雨を伴わせるのだと、物知りな銀夜が言った。
愁慈郎は、興味本位でその湖の水を指で触れた。
「それ大丈夫なの? 触って」すっかり、ごく普通の乙女の口調を晒すようになった朽梨。彼女にとっては、そちらのほうが素直な喋り方なのだろう。
トゲも険もなく、こちらとしても、喋りやすい。
「いや、気になるだろ。しょっぱいかな」
指にしびれはない。匂いに刺激臭や、苦みのある香りはない。手の甲に塗っても同じだ。毒気は感じられなかった。
唇に塗ってみると、塩気特有の刺激がピリッとした。
舐めてみると、だいぶ塩っぱい。というより塩っ辛い。
「なんだこりゃ」
「どんな味がしたの?」と
「すげえ塩っ辛い。銀夜、この水の色といい味といい、なんなんだ?」
「
銀夜の説明は当たっている。
この湖は塩っ気の強い塩湖だ。
生存競争は厳しい。その中で生きられるものは限られる。シオヒゲムシはその一種である。
赤色の湖面――無論これは、血の海とかそういう比喩表現ではない。
シオヒゲムシの効果であった。
実世界では、ドナリエラ・サリナ――ドナリエラという呼び名のほうが一般的だろう。健康サプリメントとして注目を浴びる微細藻類である。
それは、ベータカロテンを生成することでも知られる。このベータカロテンが赤い色素を持つゆえに、赤潮時には、水面が赤くなるのだ。
特にドナリエラは高濃度の塩分が生じる水質を好む。塩湖や海洋などがそうだ。
そしてこれが繁殖することによって、赤潮が引き起こされるのであった。
当然、この時代、この世界の人々はまだ科学というものに明るくない。
なので漠然と、「なんだか小さな虫(=シオヒゲムシのこと)の働きで、水が赤くなる」ということ、そして「その働きは塩気が関係しているらしいぞ」くらいの認識を持つ程度だった。
さて。
愁慈郎らがこの赤潮に遭遇した場所は、湖である。
――
宝玉貝の別名で知られる
貝砂湖という名の由来は、用済みになった海鳴貝の貝殻が擦り切れ、風化し、砂のようになっていることから来ている。その貝砂が湖浜を形成し、さながら、陸地にぼかんと口を開けるようにできた海のようにも見えた。
その貝砂湖には、緋色の羽毛を持つ細長い足の鳥が数多く生息していた。
この苛烈な環境――濃すぎる塩分濃度のおかげで、大半の生物が生存競争を諦めた土地に生きる貴重な動物だ。
真っ当な魚は育たないし、魚を餌にする鳥獣も寄り付かない。しかし、先述のような「
異国ではフラミンゴとも呼ばれる生物で、実際に、
緋鶴は例のシオヒゲムシとか、この塩湖にいる小エビなんかを食べるらしい。
「なあ、緋鶴って美味いのか?」
愁慈郎が問うた。となりの朽梨は「塩っ辛いんじゃないの?」という推測をしている。
「やめとけ、ひどいぞ、ありゃ」
銀夜が顔の前で手を降る。表情も曇り気味だ。
緋鶴そのものを食べるものはそうそういない。
理由は単純で、「不味い」からだ。
脂っこく、臭く、いやに塩っ気のある肉は――お世辞にも食えたものではない。
「飢えて死ぬってとき以外は食わへんって、あんなん。百姓が翌年の種籾に手えつけなかん、ってくらい追い詰められたら、食うんちゃうか」
「そんなに不味いのか」
さて、その貝砂湖は、富の象徴である。
他ならない海鳴貝は、このような特異な環境でしか育たないからだ。
富を巡った争いは、戦乱の
ゆえに、ここは神恵戸幕府直轄地となった。御用地というやつだ。
その管理と運営は
すなわちこの海鳴宝玉貝砂湖は
入るにせよ住むにせよ、何にしてもまずは神様へへ詣でるのが礼儀作法である。
「どうしたの愁慈郎」朽梨が、思わず聞いた。
愁慈郎はこの湖面を眺め、「あ、いや。とうとう来たんだなって思っただけだ。
とはいえまだ湖。
東端に出て、その海岸線沿いに大海原を前にすれば、驚きは倍増するだろう。
銀夜はそれをわかっているから、あえて「ほれ、いくぞ」と先を促すだけにとどめた。
愁慈郎らは貝砂湖にある、貝砂天海神社の境内へと入った。
潮風に強い素材を選ぶのが、この
なまじこの神社のそばは塩水湖であるゆえ、ここでは湖面を滑る風も、大敵であった。
澄んだ海の色に塗られた鳥居は石造り。
建物や土蔵には海鼠壁を用い、湿気や防火の備えを徹底している。
強い海風を防ぐための防風林もまた特徴と言えるだろう。
鈴をガラガラ鳴らして、二拝二拍手一拝。
これまでの旅路がどうにかうまく言ったことを感謝して、それから、旅がうまくいきますように、とささやかな願い事をする。
愁慈郎らは、かれこれ
「この貝の欠片、なんぼくらいになんねやろ」
「価値があるのは中身の真珠でしょう。貝殻に価値があったら、今頃人でごった返してるわよ」
海鳴貝の真珠は宝石に例えられるが、貝殻自体は「きれいだね」くらいで済まされるだけだ。
言うまでもないが、当然素人が貝を持っていって育てても真珠なんて作れやしない。
相応の技術と経済力を持ったものが揃って初めて、その生産が可能となる。
「いや、わかっとるけど。土産くらいにはならんかと思って」
「ああ。どうなのかしら。細工物とかは
「昨日見てくればよかったな。……おいさっきから、愁慈郎、どないした? お上りさんみたいになっとるぞお前」
「いや、なんか視線を感じるから」
あたりの参拝客を、それとなく銀夜は一瞥した。
こちらに視線を向けるものは、純粋な「山のひとかな」というもので、嫌な敵意などはない。
というのも朽梨が典型的な山伏の格好に近い神使装束だから、海の国では注目を集めるのだ。
けれど、愁慈郎が言う視線とはそういうのではない。
さきほどからやたらと周りを気にしている愁慈郎に、銀夜は眉をしかめる。
「お前が気づいて俺が気づけんっていうと、穢れの気配かなんかやろ。それか獣か。御神域に穢れなんぞありえへんし」
朽梨が言った。「まさか、霊獣だったりして」
そんな阿呆な、と愁慈郎は思った。
霊獣は神様仏様の使いだ。
いくら朽梨が神使様で、己と銀夜がその護衛の社人だったとして。
一介の行脚似すぎない自分たちに、霊獣が遣わされるとは思えない。
(だとしたら、一体何が俺達を見ていたんだ)
愁慈郎は、奇妙な気配に、わずかに身震いした。
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