第四節 仁義

 歩く。

 円を描くようにして北上、山の斜面を尾根沿いに進み、今度は西へ折れて下った。

 その間、一度だけ休んだ。半刻(一時間)ずつ互いに仮眠を取り、また歩き出した。


 途中、春みかんが生っている低木があり、二人はそこでみかんをもぎ取り、食べた。

 愁慈郎は皮ごと食った。銀夜は柑橘類が苦手だとぼやいたが、空腹には抗えず、結局二つのみかんを平らげ、進んだ。


 ある村外れに、ぽつねんと建つ家があった。人がいれば食い物を譲ってもらおうと思ったが、あいにく空き家である。

 が、もともとは山師かなにかの家だったのだろう。愁慈郎は壁にかけてあった持槍もちやりと、大山刀おおながさを一振り拝借した。


「ここらで一旦、軍議といかんか」

 銀夜は、空き家から北西に進んだところにある洞穴を指差す。

 愁慈郎は頷いた。


 空き家には、周辺の地図が書かれた紙があった。それをありがたくもらっておいたのだ。

 無論、簡素なものである。軍事用の地図と比べれば粗末だが、あるとないとでは雲泥だ。


「国を抜けるなら、北西が一番近い。ただ、国境くにざかいをどう抜けるかだ」

「俺が使った抜け道がある。金山かなやまの跡や。まだ使えるとええけどな」

「そこは、ここから幾日いくじつかかる」

「五里(二十キロ)もない。一日で踏破できる。……さすがに今日たどり着くとなると相当な強行軍やで」


 言わんとすることはわかる。

 己も銀夜も、まずは休まねばならない。

 飯もまともに食えていないから、体力も落ちている。

 こんな状態で、万が一、巨大な獣と出くわせばおしまいだ。まして、侍と争うなどもってのほか。

 銀夜の実力は正直わからないが、ただの猟師にすぎない愁慈郎が、職業として武士をやっている、いわゆる職業軍人である兜武者に勝てる道理などない。


「ここまで来たんや。一刻くらい休んでも、バチはあたらん」

「十分バチあたりなことをしてんだろ、俺らは」


 愁慈郎がそう言うと、銀夜は「俺が半刻、先に寝る」とふてくされてしまった。


 銀夜が眠って、四半刻ほど。

 夜が明け始めた。

 愁慈郎のねむけもいよいよ危うい。

 交代して眠りについた。


 そうして、ふとした瞬間。

「おい愁慈郎、まずい」

 銀夜が己の体を揺すった。

 飛び起きた愁慈郎は、泡を食って弓を掴んだ。弦を張ったままにしてある。

「どうした」

「悲鳴がした。子供の」


 愁慈郎は「くそ、助けてほしいのは俺らだ」と悪態をつきつつ、問う。「方角は?」

 問答の間に細帯で槍を背中に結んで固定する。

「未(北北西)のほう」

「いくぞ。放ってられん」


 洞穴から飛び出す愁慈郎。銀夜は「お人好しめ」と吐き捨てつつも、助ける気のようで、すぐについてきた。


 原生の森林だ。乱伐を受けていない樹齢のある木々が多い。

 そうした木立を抜けた先、開けた場所がある。およそ五十五坪ほど、場が広い。

 矢を射るにしろ、槍をぶん回すにしろ、好都合だ。


 愁慈郎は箙から雁股かりまたの矢を取り出した。

 雁股とは先端が二股に割れた鏃である。主に、狩猟に用いられる矢だ。鳥や獣を射る際に使う。

 先んじて駆け出した愁慈郎は、目標の半町(五十五メートルほど)手前で、舌を打った。

 相手が悪いと、そう言わざるを得ない。


 そこにいたのは狼である。

 狼――なのだが、大柄で、しかも黒ずんだ瘴気をまとっている。


(糞っ、穢獣ケダモノだ)

 穢獣ケダモノ――赤不浄、黒不浄。すなわち、血の気と骸の気から生じる瘴気が生んだ、汚穢の獣である。

 討伐というよりは討ち祓う――が要諦となる。

 殺すだけでは意味がない。


 しかし。

(見捨ててはおけん)

 愁慈郎は、人並みの善意くらい持っている。人並みに正義、仁義というものを理解しているつもりだ。

 襲われているのは、十四、五歳ほどの娘。天狗だ。しかもフクロウ系の。

(なんの嫌がらせだ)と思ったが、無論、あの子を見捨てる理由にはならぬ。


 愁慈郎は矢をつがえた。

 ぎゅっと弦を引き絞る。張りが甘い。かれこれ半日もの間、弦を張っていたのだ。馬鹿になるのも無理からぬこと。


「外すものか。当ててみせる」

 愁慈郎は祝詞のようにつぶやき、矢を放った。

 ビャオッと矢が空気を切り裂く。

 雁股が狼の右前足、その脛を裂いた。

 思わず眉をしかめた。狙いは肩関節だったのだ。骨のつなぎ目を砕き、移動能力を奪う算段であった。

 が、狼の穢獣ケダモノはこちらに狙いを変えた。


 愁慈郎は叫ぶ。

「逃げろ! 人を呼べ!」

「わ、わかっ――わかった! お姉ちゃん! お兄ちゃん! 助けて!」

 娘が叫びながらまろびだす。

 兄か姉か、そばにいるのだろうか。いずれにせよ、愁慈郎と銀夜だけでやるより、人手があったほうがよい。


 狼がじりじりと迫る。

 愁慈郎は弓が役に立たないと察した。二対一、しかも相手は速い狼。弓の基本は「見つからずに一撃必殺」か、「集団運用」が基本。

「相手に見つかった個人の射手いて」など、「どうぞお食べください、殺してください」と、鴨が葱を背負って来たようなものだ。


 弓を放り捨てた。

 変わりに、背中に回して細帯で固定していた槍を構える。

 前後に素早く振りしごき、穂鞘ほさやを払った。

 穂先は片刃の短刀、菊池槍というもの。

 全長一間半(二・七メートル)、一般に槍足軽が使うような槍である。

 異形の如く長い、長柄槍と違う。突く、払う、切る、そして――。


 狼が走り出した。愁慈郎をめがけ、鋭く突っ込んでくる。

 愁慈郎は「らァッ!」と怒鳴り、槍を上から思い切り振り下ろし、

 ――ぶっ叩いた。

 のである。


 ゴンッ、と槍の太刀打ちで、狼の頭蓋をぶん殴った。

 怯んだ狼穢獣ケダモノへ、愁慈郎はすかさず、またぶん殴る。

 ゴン、ゴッ、ゴシャッと殴って殴って殴りまくる。


 槍とは、突く武器ではないのか?

 答えは、是。しかし、それ「だけ」を運用法としているわけではない。


 槍は戦国期の主力武器である。

 金のかかる鉄砲、育成に時間がかかる弓を除けば、槍が最強の武器だった。

 そしてその槍は、戦乱の中で長さが二間を超え、阿呆のようなものだと三間半(六・三メートル)を超えた。

 ここまで長いと、もはやまともに一点を突くなど無理が生じる。構えても先端がブレるし、重たくしなるから、そもそも穂先自体が飾りに近い。

 そこで、長柄槍を構えた足軽を密集させた槍衾や、この大質量の槍を、相手の陣笠や兜越しにぶん殴る運用法が確立されたのだ。

 槍衾はときに騎馬武者すら圧倒した。やりでぶん殴れば、大抵の敵はすくんだ。


 考えても見てほしい。一貫以上もある質量が唸りを上げて頭上から叩き込まれるのだ。

 鉄の笠、兜をかぶっていようが衝撃は凄まじい。首や背骨を痛め、気を失い、最悪そのままポックリだ。


 それは、穢獣ケダモノも同じであった。

 愁慈郎の持槍は典型的な槍。重さは一貫(三・七五キロ)ほどか。

 殴り続けられた穢獣ケダモノはだらりと舌を放り出し、ぐったりと虫の息だ。

「よし、殺さずに済んだ」

 慈善の心ではない。瘴気を撒き散らさないために気を失わせただけだ。


 しかし、銀夜が来ないのが不思議だ。

 一体どうしたのだろうか。


「おい銀夜、なにしてんだ!」

 愁慈郎が怒鳴ると、ふと、なにかが飛んできた。

 それは銀夜だった。

 愁慈郎は咄嗟に槍を捨てて彼を抱きとめて、数歩たたらを踏みつつ耐える。


「あの女、強すぎる」

 銀夜がげほげほと咳き込んだ。

 出血はないが、明らかに殴られたと思われる。

 愁慈郎は銀夜を隣に立たせて、捨てた槍をつま先で蹴り上げて掴む。


「ほう、神使に刃を向けるか」

 木立から現れたのは、例の女天狗――梟福殿朽梨きょうふくでんくちなしだ。

「どうやら死にたいらしい」

 朽梨の手には、八尺の杖。刃はない。が、鉄の石突が両端にある。

 そもそも頑丈そうな樫の杖だ。あたりどころ次第では死ぬ。


 愁慈郎は最悪の状況に、舌を打った。

 ここ数日だけで、一生分の舌打ちをしていると思った。


「私にこれ以上の失敗は許されん。そこに直れ」

「何いってんだてめえ。状況を考えろ。穢獣ケダモノがいるんだぞ。見えてんだろ!」愁慈郎は苛立った。いい加減、朽梨の功名心に呆れと激憤が込み上げていた。


「お前が赤不浄を起こさねば発生せなんだ」

「水掛け論をしてる場合じゃねえ! 祓えるのはお前だけだろ! 俺の首なら後でくれてやる。俺だって獣狩だ。わかってる、俺のせいでこういうのが生まれることは」

 自分でも謝罪しているのか弁明しているのかいよいよわからない。

 命を奪う因果な暮らしに、思うところがあるのは事実だ。

 必要とされる職能であるという誇りもある。

 諸々がない混ぜになって、理由のわからない言葉の濁流になってしまった。


「頼む、俺には穢れを祓えないんだ」

 銀夜は成り行きを静かに見守っていた。

 朽梨は目を細めた。

「……いいだろう。だが馬鹿はするなよ」

 彼女は杖をおろした。


 それから素早く刀印を結んで、縦に二回振った。

「天嵐の御魂において命ずる」

 それから、聞き取れない何かを発した。

 おそらくは祝詞だろう。常人に聞き取れないのは、それが神の御鶴声であらせられる所以だ。


 愁慈郎の背後、そこでぐったりと倒れている狼穢獣ケダモノに、翠緑のいかずちが落ちた。

 パァン、と空気が割れるような音。

 恐る恐る振り返ると、狼が霧状に霧散し、消えていくではないか。


「おい愁慈郎、どうすんねん。二人がかりでも勝てるかわからんぞ」

「俺が時を稼ぐ。お前はいけ。もう俺の案内あないはいらんだろ」

「ふざけんな、ここで見捨てたら寝覚めが――」


 朽梨が杖を手に、こちらを睨んだ。

「私は神使ゆえ、罪人を逃すことは罷り通らん。それはわかるな」

「ああ」

「しかし。誠を見せた者への助命嘆願はできる。……すまなかった」

 朽梨は素直に頭を下げた。

 矜持と誇りが服を着て歩くような天狗が、鬼と猫又に。


「お姉ちゃん!」

 そこに、さっきの少女がかけてきた。

 愁慈郎は思わず、「なに?」と素っ頓狂な声を出していた。

楠姫くすのき、なにをしている!」

「神社にお供えを持っていこうとしたら、穢獣ケダモノに。あのお兄さんが助けてくれて……罪人、って、どういうこと?」


 朽梨が困惑している。

 銀夜は「今のうちに逃げるのは、誠に反するんやろうな」とため息をついた。

「お前だけでも逃げればいい。俺は恨まん」

「俺が、俺を恨むようになる。朋輩ツレは見捨てん。それが俺の誠で、義っちゅうわけや」


 愁慈郎は妙な因果と因縁に巻き込まれたのかもしれない。そう思い、もう一度朽梨を見た。

 彼女もまた似たようなことを思ったのかもしれない。

「ついて参れ。……なんて奇妙な日だ」

 朽梨が、思わずといったふうに愚痴を漏らした。

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