第三節 素性
牢屋敷は四方に
「女郎かい俺らは」小声でぼやく銀夜。
「女郎より危険なのを閉じ込めるんだから、溝くらいあるだろ」
「ふん。俺は別に殺しなんぞしとらんわ。ただのこそ泥やん」
銀夜は道場稽古ではなく、泥棒らしい。
愁慈郎たちは張番が持っていた鍵で押収品保管蔵から己の荷物を取り返すと、くだんの溝を前にしていた。
周囲には見回りの同心がいたが、歩く道順は一定であると銀夜は言った。
事実、彼らは割り当てられた巡回路を回るだけである。
物音を立てず、こっそりと移動をする。無論、相手はひとだ。妖怪と人間の混成。鼻のいい千疋狼は、あくまで追手隊である。
相手にするのに難儀な剛腕の持ち主――とくに鬼なんかは「
銀夜は虫の擬声を出したり、夜間に雀の鳴き真似をするなどして巧みに警戒の網に穴を開けると、そこを愁慈郎とともに脱走した。
こいつの素性は一体なんなのだろう。
恐ろしく手際がよい。侵入もこのようにうまくやったに相違あるまい。
「おい、銀夜」
「なんや」
「俺がいなくても逃げられたはずだ。お前、何企んでる」
「後で話すってのはあかんか」
「疑わしい相手を、後ろからその溝に落とすくらいの用心は持っているつもりだ」
銀夜は鉤縄をくるくる回し、溝の対岸に投げて、築地塀の屋根に引っ掛ける。
「ここから出るだけなら俺一人でええ。いや、一人のがええわ。それに関してはお前より俺のが技能ある。いいな?」
「ああ。重々理解してるよ」
「けど、この先味方のおらん俺には、一人でも使える仲間が欲しい。ましてお前のような山歩きに詳しいやつならなおさら」
「俺がいつ山に詳しいと」
「お前、あの女と散々言い合っとったやんけ。
愁慈郎は閉口した。この男は愁慈郎と
だが実際は、聞き耳を立てていたのだ――頭頂部の猫耳で。
「おら渡るぞ。ついてこい。落ちても助けんからな」
銀夜は鉤縄に捕まった。両手足で、枝を行き来する
――黒っぽい装束を選べ。
銀夜は、さっき蔵でそういった。理由を尋ねると、月明かりが反射しないからだそうだ。
彼らは上から下まで黒っぽい装束で、かつ、顔も布で覆っている。
(乱破かよ俺は)
愁慈郎は慣れない綱渡りをしながら思った。
乱破、素破、草、細作、突破、隠密、
忍者という名称は昭和期に生まれたとされており、当時は、先述のような呼び名を、地域や陣営によって使い分けていた。
築地塀まで渡ると、銀夜は「こっからや」と鼻を鳴らす。
「なにが」
「ここは城やぞ。山城。攻めるに難く、守るに易い。当然、人質を閉じ込める機能にも直結する。……俺らはまだええ。石垣を下るのはええねん。指引っ掛けて降りられるから」
「……堀か」
「ああ。薬研堀、堀切。それに土塁。ここ仁嵯城は堅城。文字通り、草の根一本残らず抜いとるわ。土塁や堀の斜面には指をかける穴凹がない」
二人は二の丸廓をこそこそ進む。篝火が焚かれている。
夜番への煮炊きの味噌粥が、腹の虫を刺激した。
「あとにせい。涎たらしとる場合とちゃうぞ」
「わかってる。どう抜ける……」
愁慈郎は、手にした一張の弓を見た。
弦が張ってある。一般に弓は使うとき以外弦を外す。でなければ緩んで馬鹿になるからだ。
騒ぎを起こし、その隙に抜けるのが理想である。
しかし。
(ひと殺しは勘弁だ)
愁慈郎にひとを殺す度胸などない。まして、相手は城務めである。つまり、侍だ。
癇癪を起こして一人殺せば、咎は、愁慈郎どころの騒ぎではない。周囲に及ぶ。一族郎党に至るまでが無宿人。文字通り、路頭に迷う。
「愁慈郎」
「なんだ」
「あの酒壺狙えへんか。でかい大徳利の、隣の」
「ああ。高そうなあれか。狙える」
陶器の酒壺が、篝火脇の、やや暗いところにある。大きさは、縦横三尺もある。どんな大酒飲みが使うのか。おおかた、皆で分けるものであろうが。
あれが突然割れたら、城兵はたちまち目をそちらに向ける。
愁慈郎は矢をつがえた。
満月のように弓弦が引かれ、呼吸をとめ一拍。
ビャウッ。
風を切る矢が、酒壺を粉々に割った。
ばしゃりと酒が散り、あたりに酒気が舞う。
「うわっ、なんだくそっ」
「バカッ、お前
「佐々木殿の酒壺だぞ、誰ぞ、このような粗相をした馬鹿者は!」
――まずいことをしたか?
隣の銀夜を見ると、「事故やろ」と小声でいい、「ついてこい」と促した。
仁嵯城は本丸と二の丸だけの連郭式だが、北と南、西を切り立った岩壁に守られた要害である。比高が一町(百九メートル)もある岩壁だ。普請時に垂直に切り出したものと見える。駆け下りることはできない。あそこを登って逃げるのはありえない。
天狗ならば飛び立ったり、あるいは降り立って攻め込めるだろう。が、それを見越した対空用の天狗隊を、仁嵯城は配備している。天狗には天狗である。
一方の東は、山の斜面と地続きであった。
ゆえに、土塁と、土塁を作るために穿った堀を利用した防御を備えていた。
二人は石垣を足や手指を隙間にかけたりしてお降りていく。
途中、愁慈郎が足をすべらせたが、幸い、二尺ほど下はもう地面で、足をひねることなく無事に降りられた。
「土塁や。これはどうしたもんか」
「滑るってのは」
「下見てみい」
土塁の下、堀には、乱杭と呼ばれるものが設置され、縄で縛り付けられていた。
先端を鋭く尖らせた竹や木材を縄で縛り、土塁から落ちる兵を串刺しにする備えだ。
下手に滑っていけば、「ぐさり」である。
愁慈郎は、実質ここまで己がお荷物であることを自覚していた。
なので、すぐに決断した。
「斜面に指を立てて降りる」愁慈郎は言った。「掴み具合で方向を変える。力を込めすぎると指がもげるぞ、気をつけろ」
「本気か?」
「脱獄に気づかれるのもすぐだ。四の五の言ってられんだろ」
銀夜は「それもそうや」と満足げに頷いた。なんだか試されたみたいで腹立たしいが、愁慈郎は黙って耐えた。
土塁の斜面に指を立てて、滑り落ちる。乱杭が迫る。
体を傾けて鋭い先端を避けて、堀のそこまで降りた。
「空堀でよかった」
愁慈郎は、安堵していた。水堀ならばお手上げだったのだ。
よしんば水堀でも泳げばいい。しかし今は初春。肌寒い夜に延々水の中にいたら、風邪では済むまい。
「いくで。まだ気は抜けん」
銀夜はそう言って、愁慈郎を促した。
この男の素性が、いよいよ、気になるところだった。
堀を抜けた先には人工的な守りはない。
変わりに、山狩に警戒せねばならず、二人は休まず歩き続けた。
東側の街道を使うという手は、まず、愁慈郎が断ち切った。
「理由は?」と銀夜。
「お前が具足を着込んだ侍だったら、まずどこを行軍する?」
「馬に乗って、街道。ほんで、どっかの宿場に陣を敷いて、そこから命令を飛ばし山狩ってとこやな」
「だろ。なら、馬が歩きにくい山中を突き進んで、さっさとこの
愁慈郎は言葉に詰まった。
それから、どうする?
故郷には帰れまい。間違いなく、そこにはもう神社から送られた社人が待っている。
よもや慈悲深い玄慈様が、郎党を根絶やしにするとは思えない。
しかし、これ以上国許で悪さをすれば、どのような沙汰が下るのか。考えたくない。
「国抜けしかないわな」
銀夜がはっきり言った。
二人は、夜の山を行軍する。お互いの右肩に白い布切れを結びつけて、それを目印にしていた。月明かりが白く反射するので、意外と、見える。
また、「銀」という問いに「鬼」と返す符丁を作っておいた。いざとなれば、これで敵味方を判断する。
「国抜け……」
「ためらっとる場合とちゃうで。国許におってもどうにもならん。お尋ね者や」
山を歩く。愁慈郎は匂いを嗅いだ。常に、向かい風を相手に進む。そうすれば、匂いが運ばれる風下に立てる。
己の匂いもさらに下へ流れるが、風上に立つよりはいい。
獣の匂いはわずか。熊や猪の気配はない。狼の気配もない。
小動物がうろうろしているくらいか。
「お尋ね者か。たしかにな」
「お前、何しでかした? 獣狩やろ。まさか人を射抜いたんか」
「いや。俺は御神域で獣に矢を射かけて、赤不浄を起こした」
「アカフジョウ?」
「血の穢れで、玄慈様の御庭を汚したんだ。注意不足とはいえ、許されることじゃない」
「ふーん。俺はまァ、殿様のお宝を盗もう思ってな。ヘマして捕まってん。度合いで言えば、俺も死罪やろ」
「銀夜。お前、よもやどこぞの間諜じゃあるまいな」
銀夜はふん、と鼻を鳴らす。
「さあな。まあ、俺が持っとる情報を欲しがるやつがおれば、相応の値で売るわ」
「なんでそんなこと」
「
愁慈郎は獣狩だ。山野と川があれば生きていける。
しかし、銀夜のような連中はそうでもないのだろう。
「お前の素性は、一応、乱破としておくが?」
「意外や意外、旗本かもわからんで」
「なら飯の種に困らんだろ。……俺は仕官してねえし、ただの猟師の子だ。
「……くそ、おまえ、人を疑ったほうがええぞ。俺はお前の情報を、お前を恨む誰かに売るかもしれん」
「そうか。そうはならないことを信じる」
夜の山。表情は見えない。
しかし、銀夜が明らかに戸惑っているのは、空気でわかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます