第二節 粗暴なり、脱獄犯

 一般に牢屋敷は過密状態である。牢屋敷、乃至ないし、牢座敷の土地に比して罪人が多いのがその理由である。

 一罰百戒は他人事、俺は大丈夫。そう高をくくって火遊びをする阿呆は、いつの時代もいるものだ。


 ところで牢屋敷では「糞一杯」という通過儀礼がある。これは、茶碗に盛り付けた人糞を新入りに食わすという恐ろしいものである。

 これは江戸時代の伝馬町牢屋敷で実際にあったとされ、断れば、袋叩きの末殺されることも当たり前である。

 とにかく数を減らさねば、ぎゅうぎゅう詰めで、眠ることもままならないからだ。新入りは土間の上で雑魚寝、あるいは一畳の数人から十人がすし詰めであったと言うから驚きだ。


 幸い、愁慈郎はその憂き目に合わずに済んでいた。

 理由は、ここが天嵐様こと樹洞の神・玄慈様のお膝元、生国であるということ。

 下劣な真似はするな、という教えが、末端の張番まで行き届いている。牢内での暴力沙汰は、小突き合いくらいならばまだしも、本格的な殴り合いは両成敗で、罪の増加を意味することになる。

 また、恩赦として品行方正に過ごせば、多少なりとも反省の気概ありとされる。赦免とまではいかずとも、減刑は十分望める。


 しかし、愁慈郎は徹底して例の女天狗神使――朽梨くちなしに嫌われている。同時に、愁慈郎自身が、彼女に屈することを恥辱としていた。


 なんとなれば愁慈郎は純血の鬼である。両のこめかみからは、金剛石の如き立派な角が二本、生えていた。

 鬼といえば山の妖怪大将である。いや、妖怪すなわち鬼。それくらいの種族だ。

 そういう矜持が邪魔をしている。鬼が天狗の言いなりになってなるものか、と。

 なにより、天狗どもの高慢さ、鼻についたあの態度はいけ好かない。

 人を食ったような、人を見下すあの目つきがなおさら気に食わぬ。



 二日が過ぎ、三日が過ぎた。


 愁慈郎は、張番狸が声をかけて給仕係と挨拶するのを聞いた。

 飯の時間だ。といっても、焼いた麦とちょびっとの岩塩と水だけである。

(腹減ったな)

 愁慈郎は秋には十九になる。現在、十八歳だ。食べ盛りである。

 それが、わびしい一掴みの焦がし麦と岩塩では、身が持たない。

 目方が減れば、山の仕事にも不都合が出る。すじと肉が落ちれば、膂力も体力も落ちる。鬼にとって、貧弱な体は痴態そのものだった。大柄で隆とした体躯こそが鬼の誇りである。


俺等おには枝切れみてえな体躯の青瓢箪てんぐどもとは違うんだ、糞)

 椀に盛られた焦がし麦をばりばり食らって、塩を舐めて水で流し込む。

 同じ牢にいる若い男――猫又である――は、かさ増しのつもりか麦の椀に水と塩を入れ、ふやかしていた。

 女々しいとは思わなかった。飢えは、屈強な戦士さえ弱兵にしてしまう。

 あの猫又の素性は知らないが、顔貌のいい男だ。傷がなく、けれど手足はしなやかに筋張っている。

 どこぞの商人の子が、道場稽古なりをしていたのだろう。はずみで人を殺めたとか、そんなところか。


 愁慈郎は狭い牢に二人しかいない僥倖を、どう受け取るべくか考えあぐねていた。

 ここは普通の牢屋敷ではない。長屋に押し込められるのが罪人の常だが、己はなぜか特別に個室めいた牢に入れられている。

 重罪人、ということだろう。


 猫又が麦粥をすすっている音が聞こえる。

 妖怪だろと人間だろうと、罪状を申し渡されるまでの間でさえ、飢えにはかなわない。

 愁慈郎は襤褸から漂う汗じみと悪臭にうんざりしながら、壁に寄りかかってまぶたを閉じた。


 しばらくして、誰かが己の肩を揺すっているのに気づいた。

 日を射れる窓からは月が差している。

「なんだ、お前」


 肩を揺すっていたのは、猫又だった。

 愁慈郎の黒髪とは違い、彼の毛色は金髪で、ところどころ黒い虎柄の模様が入っている。

 近くで顔を見ると少女のように屈託がない、可愛らしい面である。

 美青年というやつだろう。愁慈郎には衆道の趣味などなかった。そんな己をして、唸らせるほどの美男である。


「よう、お前がシュウジロウやな? あの天狗のお気に入りの」

「手前は」

「ギンヤ。銀の夜で、銀夜っちゅう。お前、何しでかしたか知らんが、ちょいとまずいで。俺があれこれ言える義理やないけど、今や運命共同体、小耳に入れとこ思うてな」

「は? えっ、どういうことだ、銀夜。そもそもお前だってそのまずい状態じゃあないのか」

 銀夜はずいぶん上方訛りのきつい男である。和魅大陸かずみの西――かつて冥尽神将みょうじんしんしょうが治め、大陸の中枢としていた京戸みやこの妖怪だろうか?


「俺が何したか今はええ。ええか、お前、明朝に死罪や。俺と一緒に斬首らしいで。あの高飛車な女がそういいにきよった」

 お前のでまかせじゃないのか、と言いつけようとしたが、十分有り得る話である。

 とうとう死罪か、と思った。

「おい、諦めてくれんな。どうせやけっぱちであの女にあたっとったなら、最後に一仕事付き合え」

「なにさす気だよ」

「脱獄。諾々だくだくと首差し出す気は俺にはない。こんな獣臭い山なんぞさっさと出ていきたいねん」


 他の天嵐民が聞いたら、普通に激怒しそうなことを言う銀夜。

 愁慈郎はしかし、この男の必死さに、この状況でも諦めない意志に、強い興味を持っていた。

 それに、彼の言う通り脱獄に加担すれば、己も助かるかもしれないという思いがあった。

 国許にはいられないかもしれないが、生き延びられる可能性はある。


(あの天狗からおめおめと尻尾を巻いて逃げるのも業腹だが、今は意地はってる場合じゃねえ)

 愁慈郎の判断は早かった。

「ここからどう出る?」

「お前を参考にする。まあ見とれ」


 すると銀夜はさっと立ち上がって、「おい、飯はまだかゴラァ! こちとら夜明けには死罪やぞ! 肉くらい早う持ってこんか! 同じ牢のガキを食い殺すぞ!」とわめき始める。

 張番の狸は慌てて飛んできた。

 穏やかに仕事を終えて隠居したいのが世の常、ひとの常。

 張番は「な、ど、どうした」と慌てて牢の前まで来る。


「腹が減った。なんかよこせ」

「阿呆が、飯は済ませただろう。だいたい、どうした。大人しくして恩赦を――」

「死罪やろ。聞いたであの女から」

「だとしても、潔く――」

「するかボケ。死にとうないねん」


 銀夜は牢の隙間から腕を突き出すと、張番の襟を掴んだ。

「わっ」

「すまんな、まあ許せ」

 そういって張番の顔を二度、格子に打ち付けて意識を奪うと、腰から提げている鍵束をさっと盗み出し、牢の鍵を開ける。


「うまく行った」

「ほんとにやりやがった」

「はよしろ。音が漏れたかもわからん」


 銀夜という男は、その美貌に似合わず、結構な粗暴者らしいと愁慈郎は思った。

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