『Time of Ring』(第九稿)Part.2
第二幕:秘密結社
転移の暗闇は、一瞬だったはずなのに途方もなく長く感じられた。
次に肺を満たしたのは、腐敗と泥、
そして何かが煮詰まったような重く湿った空気だった。
冷たい石畳の上に膝をつく。
夜だった。
しかし、街灯はなく、
窓の隙間から漏れるわずかな蝋燭の光が、
泥にまみれた細い路地を照らしている。
十四世紀、ヨーロッパ。
黒死病(ペスト)が猛威を振るう時代だ。
藤堂から渡された粗末な修道士のローブを深く被り直し、
大地は、街の中心である広場へと歩みを進めた。
広場は、異様な熱気に包まれていた。
絶え間なく咳き込む音が響く中、
人々は一人の男を取り囲んでいた。
自称「聖者」を名乗るその男は、
ただの濁った泥水を
「神の祝福を受けた奇跡の水」と称し、
法外な値段で売りつけていた。
病の恐怖に正気を失った民衆は、
なけなしの全財産を差し出し、
先を争うようにその泥水を飲み干している。
恐怖は人の思考を奪い、
ニセの権威に
いとも簡単にすがらせてしまう。
大地は、思考を放棄して
短期的な安心を買い求める群衆の姿に、
未来のディストピアで見た
バーコードの人間たちと同じ
「危うさ」を感じ取っていた。
「やめなさい!
傷口と傷口をくっつけるな!
菌が移る!」
広場の隅から、
狂騒を引き裂くような鋭い声が響いた。
見れば、簡素な衣服を着た一人の女性が、
処刑台の柱に縛り付けられていた。
彼女の足元には薪が積まれ、
周囲の修道士たちが
「神を冒涜する魔女だ!」
と煽り立てている。
群衆もまた、彼女を嘲笑していた。
イザベラと呼ばれるその薬師の娘は、
迷信に抗い、
煮沸や隔離といった
物理的な衛生管理で
人々を救おうとしていた異端の女医だった。
大地は群衆を掻き分け、
処刑台の傍らで
息も絶え絶えになっているペスト患者に近づいた。
ローブの懐から、
出発前にAIの推論で持たされていた「薬」を取り出す。
それは未来の強力な解熱鎮痛剤と抗生物質だったが、
見た目はただの粗末な石の粉末に偽装されていた。
大地はそれを水に溶かし、
無言で患者の口に流し込んだ。
数分後。
患者の激しい呼吸が嘘のように落ち着き、
顔を覆っていた異常な汗が引いていった。
静まり返る広場。
「……この女の言うことは、正しい。」
大地が低く響く声で告げると、
奇跡を目の当たりにした群衆はどよめき、
処刑の進行は完全に停止した。
その混乱の最中だった。
騒ぎを見つめていた数人の奇妙な修道士の集団に、
一人の貧民がすがりついた。
「どうか、私にもその薬を……!」
修道士が忌々しそうに腕を振り払った瞬間、
貧民の手が修道士のフードに引っかかり、
顔を覆っていた精巧な仮面ごと
乱暴に剥ぎ取ってしまった。
松明の光が照らし出したのは、
人間の肌ではなかった。
首の付け根から顎にかけて、
オリーブ色の硬質な鱗がびっしりと覆い、
瞳孔は縦に鋭く割れている。
だが、群衆が悲鳴を上げるより早く、
異変は起きた。
「グギャッ……!」
外の空気に触れた瞬間、
その修道士は喉を掻き毟り、
激しく痙攣して石畳に倒れ込んだ。
十四世紀の泥と腐敗を含んだ風を吸い込んだ彼の鱗は、
数秒でどす黒く変色し、そのまま息絶えてしまった。
残りの修道士たちはパニックに陥り、
逃げるように修道院の方角へと姿を消した。
大地と、縄を解かれたイザベラは顔を見合わせた。
奴らは神の使いでも、恐るべき悪魔でもない。
外の空気にすら耐えられない、
極端にひ弱な存在なのだ。
「あの修道院に入る道を知っているわ。
昔、患者から古い食糧搬入口の場所を聞いたの。」
イザベラの先導で、
二人は修道院の裏手へと回った。
太い蔦が絡みつく石壁を登り、
使われなくなった狭いダクトを這い進む。
修道院の内部は、
外の街を覆っていた強烈な死臭が
完全に消えていた。
石の継ぎ目は
透明な樹脂でコーティングされ、
空気は不自然なほど冷たく、無臭だ。
外界から完全に密閉された「無菌室」だった。
ダクトの格子から下を覗き込むと、
広い円形の部屋で、
フードを脱いだレプティリアンたちが
密談を交わしていた。
彼らは、強力な大気浄化フィルターのそばから
離れようとしない。
自分たちだけ安全な無菌室に逃れ、
外の人間たちが病で死に絶えるのを待ちながら、
裏から歴史を操ろうとしているのだ。
大地とイザベラはダクトを抜け、
部屋の正面扉を蹴り開けた。
驚愕して振り返るレプティリアンたち。
大地は彼らには目もくれず、
部屋の隅にあった重い鉄の燭台を掴み上げた。
そして、イザベラと共に呼吸を合わせ、
奥の壁にはめ込まれた巨大なステンドグラスに向かって、
渾身の力で投げつけた。
ガシャァァァンッ!!
色鮮やかなガラスが粉々に砕け散る。
そこから、十四世紀の夜の空気が——
腐敗と泥と、無数の雑菌を含んだ生の風が、
一気に無菌室へと雪崩れ込んだ。
レプティリアンたちの反応は劇的だった。
彼らは喉を掻き毟り、
武器を構えることすらできず、
次々と床に倒れ込んでいく。
恐怖で人間を支配しようとした者たちの権威は、
ただの「空気」によって、呆気なく崩れ去った。
「一緒に行かないか」
振り返った大地に、
イザベラは静かに首を振った。
「私はここで、あなたが見せてくれたものを書き残します。
いつか、未来の誰かが必要とするかもしれないから。」
彼女の力強い決意を目に焼き付け、
大地は懐の転送デバイスのスイッチを押し込んだ。
強烈な光が視界を包み込み、
中世の暗闇は完全に消え去った。
目を開けると、滑らかな白い床と、高い天井、
そして壁一面のガラス窓があった。
外には、青く透き通った空と、
ガラスと金属で構成された
近代的な都市の風景が広がっている。
百年後の赤黒いスモッグに包まれたディストピアは、
そこにはない。
「転送確認。
座標、生体反応ともに正常。」
背後から近づいてきたのは、
黒いロングコートを着た三十代前半の女性——
観測司令の水原だった。
部屋の奥のデスクには、
白髪交じりになった藤堂が座っている。
かつてのレザージャケットの若者の面影を残しながら、
彼は時間管理局の局長として歴史を監視していた。
「歴史の軌道は修正された。だが……」
藤堂の言葉に、
大地はガラス越しのモニターを見た。
そこに映るあかりの脳波データは、
未だ異常なノイズを発したままだ。
「奴らが免疫を失った根本の原因(エラー)は、
もっと遠い過去にある。」
水原がホログラムの年表を展開し、
約六千五百万年前の座標を指し示した。
奴らがなぜ地下に逃げ込み、
過保護な無菌空間で生きる道を選んだのか。
その因果の根源を断つため、
大地は休む間もなく、
さらなる過去へと旅立つ決意を固めた。


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