それは、何でもない、いつも通りの高校の帰り道。
委員会の集まりがあり、普段より帰りが遅くなったスバルが、少し薄暗い通学路を歩いていた時のこと。
「ん?」
そこで、スバルはふと電柱の下に何やら動く物体が居るのを発見したのだ。
最初は虫か?なんて思って無視しようとしたが、何故かこの時は無性にその存在がなんなのか確かめたくなったんだ。
スバルは電柱の傍まで歩くと、スバルが虫だと思っていた物体がコウモリであることに気づく。
「うわ!コウモリじゃん。珍しいな」
こんな都会の街中にコウモリが居るなんて。
そのコウモリはうまく飛べないようで、よくよく近くで見てみれば、どうやら羽を怪我しているらしい。
折れているのか、血の様なものが流れていた。
「………」
スバルは、そんなコウモリの姿がなんだか可哀想で、放っておけなくなってしまった。
なんとかしてやれないかな?とコウモリに手を伸ばすが、噛み付かれる。
「痛っ」
慌てて手を離すが、噛み付かれた指からは血が流れていた。
スバルは噛まれた指を見つめながら、感染症とか大丈夫かな?と考えるが、直ぐに視線をコウモリに戻す。
恐らくスバルが怖いのだろう。怪我もしてるし、このコウモリにはこれが精一杯の抵抗なのだろう。
スバルはそんなコウモリに、今度はゆっくり手を伸ばす。
「…っ」
すると、コウモリはまた近づいてくるスバルの指に噛み付く。スバルは、指に鋭い痛みを感じながらもそれをぐっと我慢してコウモリに向かって笑って見せた。
「怖かったな、もう大丈夫だぞ。俺がお前を助けてやる」
果たして、コウモリ相手に効果があるのかは分からないが、捨て猫などにこうして声を掛けて安心させる動画を見たことがあるので一か八か試してみた。
結果は……
「人間の言葉がわかるのか?賢いなお前」
スバルに敵意が無いことを理解したのか、コウモリは噛み付いていた指を解放してくれる。
スバルはそのままコウモリを手のひらに乗せて、手当をするために足早に家へ向かった。
家に着くと、リビングにも寄らずに自室に直行する。
母親からのおかえりにだけちゃんとただいまと返して。
「えっと、どうすれば治るんだ?」
いざコウモリを机の上に乗せ、早速治療を始めようとしたはいいものの、何をすれば治るのか分からない。
とりあえず、血が流れてる羽に包帯を巻こう。
スバルは救急箱から包帯を取り出すが、コウモリには少し大きすぎる。
仕方無いので小さくカットする。とりあえず怪我をしている部分を水で洗い流し、包帯を巻いてやる。
「どうだ?キツくないか?」
包帯を巻かれたコウモリはスバルの言葉に羽をバタバタと振った。どうやら返事をしているようだ。
包帯の方は問題ないらしい。しかし、コウモリは尚も苦しそうで、今にも死んでしまうのではないかと思うほど元気がない。
もしかしたらお腹がすいているのかもしれない。スバルは急いでコウモリが食べれる物を調べる。
「蚊やハエなどを食べて生きてる……まじか」
目の前のコウモリは検索したコウモリに何やら似ていないが、どうやらコウモリ全般の主食は害虫らしい。
しかし、今すぐ害虫を用意出来るはずもないスバルは頭を悩ませる。
「うーーん」
スバルは悩みコウモリに目を向ける。そのコウモリの羽は元々赤みがかっていて、何処か偉そうな雰囲気がある。
しかし、その姿は拾った時より明らかに衰弱していて、とにかく今は体力の回復が最優先だ。
「仕方ねえ。俺が何か庭で昆虫探してくるから!ちょっと待ってろよ!」
スバルが決死の思いで立ち上がろうとした瞬間、キー…とコウモリが弱々しく鳴いた。
スバルはその鳴き声に腰を下ろす。
「どうした?別に置いていこうって訳じゃ……」
するとコウモリはスバルの指から流れ出ていた血を舐めた。
そういえば、コウモリを治すことに必死で自分の怪我の手当を忘れていた。
もしかして心配してくれたのか?とコウモリに視線を送るが、どうやら違うようだ。
「…もしかして、血を飲んでるのか?」
舐め取られた後も次から次へと血が流れ出てくる指に張り付き、血を飲んでいるコウモリにスバルは驚く。
血を飲むなんて、そんな吸血鬼じゃないんだから。
スバルは傷つけないように優しく指を離す。
「こら、血なんて飲んだら余計弱っちゃうぞ」
喉が渇いてるなら水を持ってきてやるから、と続けようとした言葉は、コウモリが翼を羽ばたかせスバルに飛んで見せることで喉の奥に消えていった。
「え?!治ったのか?!」
コウモリが飛んだ衝撃でスバルの巻いた包帯が取れ、怪我をしていた部分は綺麗に元に戻っていて、思わず目を見開く。
「あ…!」
すると、コウモリは数秒スバルの顔をじっと観察したかと思えば、部屋の窓から外に飛んでいく。
スバルは止めることもせず、コウモリが去っていくのをただ眺めていた。
「良かった。元気になって」
「………」
▽▲▽▲▽▲▽▲
「ってことが一週間前にあったんだよ」
「…は?」
通学中、その時のことを友人であるオットーに話すと、顔を顰められる。
「アイツ元気にしてるかな〜」
「いやいやいや!なんですかその話?! っていうかなんで今更そんなことを僕に?」
「だって今突然思い出したんだよ」
「忘れますかぁ?普通…」
オットーは呆れたようにため息を吐いた。
オットーは高校に入ってから出来た、数少ない友達の一人だ。 スバルは小中で色々あり、高校は地元から離れたところを選んだので、知り合いはいなかった。
そして、そんな高校一年生の時に隣の席だったのがオットーだ。何故かオットーとは驚く程に気が合う。まるで昔からの友人かのように。
「全く、そんな得体の知れない生き物無闇に助けちゃダメなんですよ」
「なんで?」
「ナツキさんはただでさえ面倒事を引き寄せる才能があるのに、わざわざ自分から面倒事に首を突っ込むのやめてくれませんか。それで色々とばっちりを食らうのいつも僕なんですからね?」
「あはは、そうだっけ?」
「そうですよ!」と騒ぎ立てるオットーを無視して足早に校門に向かう。
そんなスバルの様子に見慣れているオットーはやれやれ、と肩を竦める。
突然だが、スバルは朝が大好きだ。それは何故か。
──毎朝、校門前に立っている天使に会えるからだ。
「エミリアたん!」
「おはようスバル。今日もいい朝ね!」
そう、スバルの好きな人であるエミリアが毎朝校門で挨拶運動をしているのだ。
エミリアたんは優しくて可愛くて強くてまさに女神だ。エミリアたんマジEMT!!
「おはようエミリアたん!今日も相変わらず可愛すぎて俺の目が眩しさで潰れちゃう所だったぜ」
「ごめんちょっと何言ってるかわかんない」
「おはようございますエミリアさん」
すると、スバルに追いついたオットーも同様にエミリアにおはようの挨拶をする。
エミリアもオットーに気づき、いつも通りとびきりの笑顔で、「オットーくんもおはよう!」と微笑んだ。
「エミリアさんは朝から元気ですね、いつもお疲れ様です」
「うん!私すっごく朝強いのよ」
「朝に強いエミリアたんもEMT」
「もう、スバルってば茶化さないの!」
エミリアへの挨拶がスバルの毎日の楽しみだ。
生徒会に所属しているエミリアは日々多忙で、この挨拶運動も生徒会活動の一種だそうだ。
しかし、エミリアはそんな多忙を感じさせないほど毎日元気満タンだ。
「スバルくん!!」
すると、横腹に急激な痛みが走り、「うわあ!」と思わず叫んでしまう。
「れ、レムさん…いきなり抱きつくのは危ないからやめようね?」
「すいません。スバルくんを見つけた嬉しさでつい…」
今スバルに突進してきた青髪の女の子はレム。オットーと同じくスバルの友人なのだが、何故かスバルに好意を寄せてくれている子だ。
「バルス、朝っぱらから騒がしいわね。頭に響くから口を閉じなさい」
遅れて登場してきたこの赤髪の女の子はレムの姉のラム。レムとは違い、スバルに厳しく、軽蔑の眼差しで見られることもよくある。
「ラムがこの時間に登校なんて珍しいな。いつも遅刻ギリギリなのに」
「ええ、本来であれば時間ギリギリまで眠っていたわ。でも今日はレムの係の仕事が朝からなのよ」
「あーね」
別々で登校すればいいのでは、と思ったが、この双子は二人で一つなのできっとそんな発想にはならないんだろうなと思い口を塞ぐ。
「あ!そうだスバル、今日私たちのクラスに転校生が来るらしいから早めに教室に行っててくれる?」
「転校生?こんな時期にですか?」
「うん。私も詳しいことはよく知らないんだけど…」
エミリアの言葉にオットーが眉を顰める。確かに転校とかって四月の入学式シーズンとか夏休み終わりなどに来るイメージがあるが、なんでこんな中途半端な時期なのだろうか?
「了解!じゃあ先に教室行ってるな」
「ええ、行ってらっしゃい」
エミリアに見送られ教室まで歩いたスバル達はクラスが違うので途中でレムラムと別れ、オットーと二人自分達の教室に向かっていた。
教室に着いて、自分の席に座り教科書の整理をする。
ちなみにスバルの席は窓際の一番後ろ、一人席で隣の人に気を遣わなくていいスバルにとって特等席だ。
それからホームルームが始まるまでオットーと他愛もない話をして過ごした。
暫くするとエミリアが朝の挨拶運動を終え教室に入ってくる。スバルと違い友達の多いエミリアはクラスの人気者だ。
そのため席に着くまでにほぼ全員のクラスメイトからおはようと言われていた。流石はこのクラスの委員長だ。
「皆さん席に着いてください。今日は転校生を紹介するのデス!」
みんな大好きペテ公先生が教室に入ってくると、いきなりそんな事を言い出すので、クラスメイト達がざわつき出す。
『転校生だって!』『女の子かな?』『イケメンだったらどうする?!』『可愛い子来ねぇかな』『どんな人だろうね?』『楽しみ〜』
「皆さん静粛に!それでは入ってきてください」
ペテ公先生の呼び掛けにより静かになった教室の扉が開かれる。クラスの全員が扉に注目し、スバルも例外なく転校生に興味を持っていた。
ーーそして、入ってきた転校生の姿に、教室中が息を呑んだ。
「それでは黒板に自分の名前を書くのデス!」
ペテ公先生の指示を受け、転校生が黒板に名前を書く音だけが教室に響く。
すると、書き終わった転校生は教室を見渡すように振り返る。
「それでは自己紹介を始めるのデス」
「…アベルだ。他に紹介することはない」
アベルのその言葉をきっかけに、女子から黄色い悲鳴が上がる。
アベルと名乗る転校生は教室中の誰もが見惚れるほど美しく、非常に顔の整った男だった。 一言で表すのならこの様な男をイケメンと呼ぶのだろう。
スバルの友達のラインハルトやユリウスもイケメンに分類されるが、アベルの顔はそれとはまた違った美しさがある。
「自己紹介ありがとうございます。アベルくんの席ですが、窓際の一番後ろの席が一つ空いているのでそこを使うのデス」
クラスメイトの視線が一気にスバルの方に集まる。窓際の一番後ろの席って……俺の隣じゃねぇか?!
せっかく隣が居ない一人の席を楽しんでいたのに、寄りにもよって転校生と隣なんて…
ペテ公先生の言葉に静かに従い、アベルがスバルの隣まで歩いてきて、そのまま席に座った。
すると、アベルと一瞬目が合う。スバルは慌てて何か言わなければと口を動かす。
「え、えっと…ヨロシク?」
「……ああ」
…会話終了。
アベルはそれだけ言うと何事も無かったかのように視線を前に戻した。
そして、段々と教室中がザワついて行き、女子はアベルをイケメンだとか彼氏にしたいだとか言っているのが聞こえる。男子は男子で、そんなアベルを生意気だとか性格悪そうなど悪口を言っているのが聞こえてくる。 男子に至っては僻んでいるだけじゃねーか。
こういう奴はだいたいキラキラした陽キャグループに吸収されるのだろう。
たまたま席が隣なだけで、スバルとは一生関わることがないようなタイプだ。
▽▲▽▲▽▲▽▲
一限終了後、アベルは案の定女子の大群に囲まれていた。
スバルはいつもより騒がしい自分の席に違和感を感じながらも、次の授業の準備を進めていた。
「ねえねえ、どこから来たのー?」
「アベルくん、すっごいカッコイイね!」
「教科書とかないんじゃない?私の貸してあげるよ!」
(あからさまに女子に好かれてんなぁ…)
聞きたくなくても耳に入ってくる会話に、イケメンって羨ましいなと思いながらも、特に気にするようなこともなかった。
「………」
「ね、ねえ、聞いてる?」
「もしかして緊張してるのかな」
しかし、驚いたことに大勢の女子に囲まれ、質問攻めにあっているアベルは、一言も喋らない。
うんともすんとも言わないアベルに女子たちが困惑しだしている。
スバルも、何も言わないアベルに対して多少の疑問を抱いたが、この手のタイプはグイグイくる女子が苦手そうだなと勝手に結論づけて納得する。
そうこうしていると二限目のチャイムが鳴り、みんな一斉に席に着く。
スバルは予め準備をしていたので、欠伸をしながら授業が始まるのを待つ。 すると、隣から「おい」と声を掛けられ、びっくりして大きい声が出そうになるのを寸でのところで抑える。
「な、なに?」
「教科書がない。見せろ」
「教科書?ああ…」
そういえば転校初日だったな。
スバルは二人で教科書が見れるように机をくっつける。
あれ?そういえばこいつさっき、女子に教科書貸そうかとか言われてなかったっけ?ないなら借りれば良かったのに。
それに、初対面なのに何故かタメ口だし、さっきから妙に上から目線な気がする。
……さてはこいつ、いいとこの坊ちゃんだな?まあイケメンだしな。
そんなこんなで二限目が終わり、転校生は今度は男子に囲まれていた。
「お前、どっから来たん?」
「スポーツとかやってる?」
「あんな大勢の女子に囲まれてもスカしてるとか、お前面白ぇ奴だな!」
どうやら女子に興味を示していないところに好感を抱いたらしい。やっぱり僻んでたんじゃねーか。
「………」
「おーい?」
「聞いてんのか?」
しかし、やはりアベルは何も喋らない。
流石にここまで来ると緊張とかそんな理由じゃない。恐らく敢えて無視しているのだろう。
何も言わない転校生に教室中が沈黙する。みんな転校生に興味津々で聞き耳を立てていたからだ。
「何お前、喋れないの?」
「なんとか言えよ!」
無視されていることに腹を立てた男子が大声でアベルを怒鳴るが、アベルはただ事務的にノートを机の中にしまっていた。
そのアベルの様子に男子の顔が段々と赤くなっていく。
今にも爆発しそうなその空気に耐えられず、スバルはトイレに避難しようと気配を消して席を立つ。
「待て。どこに行く」
「えっ…」
すると、スバルが席を立った瞬間それまで何の反応も示さなかったアベルが口を開いた。
アベルを囲んでいた男子達も、遠巻きにこちらの様子を伺っていた女子達も、一斉にクラスメイト達の視線がスバルに向けられる。
「聞こえなかったか?何処に行くのかと聞いている」
「え、何処ってトイレだけど…」
「そうか」
アベルはそれだけ確認するとスバルから視線を外しまた授業の準備に戻った。
……は?え?な、何が起こったんだ?
とりあえず、スバルに集められたクラスメイト達の視線から逃げたくて、教室を飛び出す。
「ナツキさん!」
「スバル!」
すると、スバルの名前を呼ぶ友人の声が重なって聞こえた。
スバルが振り返ると、そこにはエミリアとオットーがスバルの後を追ってきていた。
「ナツキさん、アベルさんと知り合いなんですか?」
「いや、全く知らない。今日初めて会った」
「そうなの?でもアベルくん、とってもスバルに懐いてるみたい」
「……いや、ほんとに俺なんも知らないんだけど」
エミリアが言いたい事はわかるが、スバルにはアベルと過去に知り合った記憶が無いし、会っていたならあんなイケメンそうそう忘れる訳が無い。
「いや、あの転校生…反応があからさますぎます。まるでナツキさん以外に興味がありません」
「私も思った!最初は緊張してるのかなって思ったんだけど、それも違うみたいだし…」
「なんで俺?今回に関しては俺全く心当たりないんだけど」
オットーとエミリアのスバルに疑惑の目を向け始める。
確かに日頃から色々やらかしすぎて弁明出来ないけど、今回はほんとになんもしてないんだって!
「スバル、そう言っていっつも私達に隠れて危ないことしてる…」
「本当に何も知らないんですか?」
「二人して俺を疑うなよ!マジで何も知らないって!」
スバルは身の潔白を証明するように両手をあげて首を横に振る。
そんなスバルに尚も疑いを持っていた二人だったが、授業開始を知らせるチャイムが鳴り、三人は慌てて教室に戻った。
そして三、四限目の授業も無事に終わり、昼休みに入ったところでスバルはいつも通り購買に昼食用のパンを買いに行こうと立ち上がる。
「何処に行く」
すると、立ち上がった瞬間先程と同じような質問をアベルにされる。
アベルが口を開いたことによって、また教室の空気の流れが変わる。まるで、アベルの一挙手一投足で教室が動いているような、そんな錯覚に陥る。
「…購買だよ」
「購買?何のために」
「昼食買いに行くんだけど…」
何故初対面のクラスメイトにこんな尋問のようなことをされているんだろう。
スバルはアベルの異様な圧に負けて正直に全て答えてしまう。
「案内しろ」
「は?!」
するとアベルも立ち上がり、スバルの後を着いてこようとする。 途端に教室中がザワつき、視線を泳がせばオットーと目が合う。
パチパチと目を閉じてオットーに助けを求める。
オットーはそんなスバルのSOSに目を見開いて首を横に振る。
(あの野郎…!)
「何をしている。早くしろ」
「え?!わ、わかった」
いつの間にか扉まで移動していたアベルから鋭い視線で睨まれ、スバルは慌てて財布とスマホ片手に走り出す。
▽▲▽▲▽▲▽▲
購買に着くと、既にお昼を買いに来た生徒たちでごった返していた。この中から狙いのパンをゲットするのは至難の業だが、なんと言ってもスバルはこの競走のプロだ。
スイッチの入ったスバルは隣で人混みに眉を顰めるアベルに声をかける。
「なんか欲しいもんある?」
「……トマトジュース」
「意外な好みだな…っし、任せとけ!」
アベルから帰ってきたリクエストがあまりにも予想外過ぎて思わず素で笑ってしまう。
気合いを入れ直し、スバルはおしくらまんじゅう状態の人混みの中を掻き分けて進んだ。
そして、高校二年間の間に購買戦争で培った知識と粘り強さを活かし、無事に欲しいものを手に入れたスバルは流されるように人混みから抜け出した。
「よっしゃ!今回もお目当てのものゲット!」
「ここの者達は揃いも揃って何をしているんだ」
「何って、お昼ご飯調達?」
アベルは帰還したスバルに目を細め、そのまま視線を購買に移した。アベルが前いた学校には購買なかったのかな。
「ほら、トマトジュース買ってきたぞ」
うちの高校は不思議で、パンからおにぎり、弁当にデザート、そしてトマトジュースまで置いているなんとも豊富な品揃えなのだ。
食品は大体売ってるし、なんなら電池や充電器なども売ってる。便利だなあと思う反面、こんな品揃えいいことある?とも思う。
ちなみにここは店員のロム爺に欲しいものを言うと裏から商品が出てくる仕様だ。在庫なんかがどうなってるのかはわからん。
スバルからトマトジュースを受け取ったアベルは不思議そうにパッケージを眺めていた。
「どうした?なんかこだわりとかあったか?」
「これはどのようにして飲むのだ?」
「え?」
紙パックをぐるぐると回して観察するアベルの姿にスバルは驚く。
もしかして紙パックで飲み物飲んだことないのか?こいつ。
スバルは冗談かと思ったが、アベルの顔にその様子がないようなのでトマトジュースを受け取りストローを刺してやる。
「ほら、ここから吸って飲むんだよ」
「……ほう」
アベルは興味深そうにストローが刺さったトマトジュースを眺めると、そのまま飲み始める。
イケメンがトマトジュースを好き好んで飲んでいる姿は非常にシュールだが、イケメン故にその姿すらかっこよく見える。
「ねえ、見て見てあの人」
「やだ!超カッコイイ〜!」
「あんな人うちの学校に居たっけ?」
すると、アベルの美貌に周りの女子がざわつき始める。
スバルは騒がしくなり始めたこの場を脱するべく、アベルの手を掴み走り出す。
「やべっまた囲まれる前に逃げるぞ!」
▽▲▽▲▽▲▽▲
無事に校舎を抜けて、いつもスバルが昼食を食べている裏庭の奥の方にポツンと置いてあるベンチまで来たスバルは後ろを振り返り、誰も着いてきていないか念入りに確認する。
「巻けたか?」
「周囲に人の気配はない」
「なにその漫画みたいなセリフ。もしかして厨二病か?」
「ちゅうにびょう…?」
「知らないのかよ」
やっぱりアベルはどっか金持ちの坊ちゃんか不思議ちゃんのどっちかだな。
何故こうも懐かれているのか分からないが、転校初日で緊張していてたまたま隣の席だったスバルをいいように使ってる説が濃厚だ。
スバルはベンチに腰掛け、購買で勝ち取ったパンを開封してそのまま食べ始める。
お昼の時間はあっという間に終わってしまう。この場所は教室からも遠いので早めに食べてしまう必要があるのだ。
「普段からここで食べているのか」
すると、スバルの隣に腰掛けてきたアベルがそんな事を聞いてくる。
「うん。ここは静かで誰もいないし、ゆっくり過ごすにはもってこいだろ?」
「そうだな」
「それよりも、お昼そんだけで足りるのかよ」
「足りないな」
「足りないのかよ!」
そりゃそうだろうが、なんでもっとがっつりした物を買わなかったんだろうか。もしかして金欠?いや、こいつお金もってそうだしそれはないか。
「…一口食うか?」
スバルは恥を忍んで食べかけのパンをアベルに差し出してみる。
「必要ない。人間の食事では腹は膨れん」
「は??」
スバルは帰ってきたアベルの返事に首を傾げる。
人間の食事って、じゃあお前は人間じゃねーのかよ。
「やっぱ厨二病なのか?」
「意味は知らんが違うな」
「ふーん。変なやつ」
それから会話が途切れて気まづい空気が流れる。
そういえば、まだなんでこんなに好意的なのか聞いてなかったな。
「アベルってもしかして人見知りとか?」
「気にした事がないな。何故だ」
「だってさっきクラスの皆に囲まれてた時一言も話してなかったじゃん」
「そこらの有象無象と生産性のない会話をすることに価値があると?」
「ん…?……じゃあ今この状況は?」
人見知りな訳ではなく、めちゃくちゃやばい思想持ってるタイプの人間だった。 同じ高校生とは思えないな。
ってかじゃあいまこうしてスバルと話してる時間も無駄だと思われてるのか、ちょっとショック。
「この状況?貴様と食事を共にしていることに対してか?」
「そうだけど…もし邪魔なら俺、今日は教室でご飯食べるけど」
スバルがそう言って先程購買で買った商品の入ったレジ袋を持って立ち上がろうとすると……
「待て。何故貴様がここを去る必要がある」
「え。だって生産性のない会話はお嫌いなのでは?」
「たわけ。貴様と彼奴らとでは前提が違う」
「…?と言いますと?」
「貴様は特別だ」
そういったアベルの黒瞳がスバルの瞳を真っ直ぐに射抜く。二人の間を風が通り抜け、アベルの髪が風に揺れる。
その姿に数秒見惚れていたスバルだったが、すぐに両手で頬を叩き我に返る。
「特別って、俺ら初対面だよな?」
「…何?」
すると、アベルはスバルの発言に眉を顰める。
もしかしてどっかで会ったことがあるのか? どうしよう、本当に何も思い出せない。
アベルはスバルの反応に暫く眉を顰めていたが、少ししてから何かを思い出したかのような顔をしたかと思ったら辺りを見渡し、視線をスバルに戻した。
「そういえば貴様と会った時と今では姿が違ったな」
「え?」
そう言ったアベルが指を鳴らすと、ぼふん!という音と共に目の前に煙が発生し、次の瞬間にはアベルの姿が消えていた。
「は?!」
スバルはその事実に驚き、慌ててアベルが座っていたベンチに手を触れる。 まだ温かい、直前までアベルが座っていた証拠だ。
一体何処に……
「おい。此処だ」
「え?!上から声が…って、は?」
何故か上空から声が聞こえ、慌てて上を向くと、そこには先日助けたコウモリの姿があった。
「お、お前は!あの時助けたコウモリ?!」
「コウモリではない。吸血鬼だ」
コウモリは「やっと思い出したか」ともう一度人間の姿に戻った。
スバルは目の前で行われる超常現象に目を見開き思わずアベルの身体を撫で回してしまう。
「どうなってんだ?!さっきまでコウモリだったのに今度はまた人間になってる!?」
「おい、不敬だぞ」
「すげぇ!どうやってんだよ!?」
触って確認したが、アベルには特にこれといった異常はなく、普通の人間と何も変わらない。
暫くされるがままだったアベルだが、鬱陶しくなったのかスバルの手を叩き落とす。
スバルは改めてアベルの姿をじっと見つめる。
「吸血鬼ってあの人間の血吸うやつ?」
「随分漠然とした認識だが、そうだ」
「…冗談じゃないんだよな?」
「ああ」
スバルはアベルの言葉に目を伏せる。
アベルはそんなスバルの反応に片目を瞑り、自身のカミングアウトを少し後悔した。
スバルにとってアベルは害をなすかもしれない存在で、このまま恐れられ避けられるのがオチ。
あの時の礼を告げるだけのはずが、欲を出しすぎた。やはり人間と共に生活などできるはずがないか、とアベルがスバルの前から姿を消そうとした瞬間。
「良かった、無事で」
「………」
「羽はもう大丈夫なのか? あ、でも出ていく前にもう治ってたか。あの後どうなったんだろうって思ってたけど元気そうで安心した」
「…貴様、怖くないのか」
「怖い?アベルが?」
アベルの問にスバルが首を傾げる。
アベルの瞳を見つけ返す。会ってまだ数時間だが、アベルの表情はずっと変わらない。
でも今はなんだか不安そうに見える。
「なんで?怖くなんかねぇよ。友達だろ?」
「友、だと?」
「あれ、もしかして俺の自意識過剰だった…?」
スバルの言葉にアベルは片目を瞑り、顎に手を添える。
「…友か。そうか」
「…?」
それにしても本当に吸血鬼なのかな。まあ今さっきコウモリに変身する姿も見たし嘘ではないんだろうけど。
ってかめちゃくちゃ太陽当たってるけど大丈夫なのかな?
「太陽の光で灰になるなど、何世紀前の吸血鬼を想像している」
「え?声に出てた?」
「貴様の考えていることなど手に取るようにわかる」
今どき?の吸血鬼って太陽大丈夫なんだ。なんか想像していたより人間っぽいのかな。
不思議と吸血鬼を前にしてスバルに驚きや恐怖はなかった。 そりゃあ、コウモリに変身した時は驚いたけど、なんでだろう。
もしかしたら、この数時間アベルと一緒にいて、スバルも無意識にアベルを好意的に見ていたのかも。
「俺と貴様は友にはなれない」
「え?」
すると、何故かアベルに突然そんなことを言われ、スバルは驚く。
今の話の流れでそんな事言うか?普通。 やっぱりスバルの自意識過剰だったのか、でも面と向かって言われると結構悲しい。
「そ、そっか…えっと…」
スバルはそれから、なんて返せばいいのか分からず、気まづさからこの場を離れようとする。
しかし、続いたアベルの言葉に度肝を抜かれる。
「何故なら、貴様は俺の番になるからだ」
「…え?」
「吸血鬼は人間の血を好む。しかし、存在を人間に悟られるのは好ましくない。故に吸血鬼は人間の番を探す」
「は、え、番?番って、あれか…えーと」
「番とは吸血鬼がパートナーに選んだ人間の事を指す。俺の場合は貴様だな」
アベルの淡々とした説明にスバルはとりあえず首を縦に振る。
「番は吸血鬼に対して血を献上する」
「血を……」
「ああ、早速だが貴様の血を飲ませろ。あの日以来血を飲んでいないせいでこの姿を維持するのが難しくなってきている」
「うん……うん?!え?! なんでナチュラルに俺お前の番になってるの?!」
話の内容を理解することに専念していたスバルはようやく自分が置かれている立場に気付く。
アベルの説明の通り吸血鬼が人間の血を飲むってのは知ってる。 それから人間に吸血鬼の存在を知られるのがやばいのも、今まで生きてきた中で吸血鬼の目撃情報を耳にしなかったことから事実だとわかる。
その事から吸血鬼が特定の人間から血を貰う契約をするのが一般的って話も納得できる。
この契約ってのがアベルの言う番ってやつで、そこまでは理解していたが、何故スバルはアベルの番になっているのだ?
「俺が貴様を気に入った。理由が他に必要か?」
「必要だろ!番ってそんな簡単になれるもんなの?!」
「ああ、俺が直接貴様から吸血して印を付ける」
「印?」
「簡単に言えば俺のモノであるという証だ」
アベルの言葉にスバルは少し考える。
番なんて言うくらいだしそれって生涯を共にするパートナー的なヤツなのでは?
それなら無理だ、何故ならスバルはーー
「ごめん!俺好きな人居るからお前のモノにはなれない!」
そう、スバルには、エミリアという心に決めた人がいるのだ。
将来はエミリアと結婚して平穏な家庭を築きたい。 その為今は毎日エミリアへアプローチ中なのだ。
……まあ、全く効果は感じられないんだけどな。
しかし、アベルはスバルの言葉に目を細め、何を言っているんだと言わんばかりに顔を歪めた。
「何を勘違いしている。貴様とはあくまでも契約を交わすだけだ。色恋なぞ好きにすればいい」
「え?番ってやつになるのに他の子と付き合ったりしてもいいの?」
アベルはスバルのその言葉に溜息を吐く。
明らかに呆れられている。そんな反応をされるとスバルが勘違いしたみたいで恥ずかしくなってしまう。
「恋愛感情から人間と契約を結ぶ吸血鬼も稀にいるが、大体の場合、吸血鬼と人間が契約を交わすのは利害の一致だ」
「利害の一致?」
「そうだ。俺たち吸血鬼は血を貰う代わりに、契約者に降りかかる厄災を跳ね除ける」
「厄災って、具体的にどんな事?」
「そうさな、手頃なモノで言えば風邪や病にかかる事が無くなる」
「え?!まじで?!」
アベルの提示した条件にスバルが食いつく。
病気にかからないって、めっちゃ最高じゃん!
確かに血を吸われるのは痛いかもしれないけど、その一瞬の痛みで今後一生病気にならないなら安いものなのでは?!
スバルは目の色を変えてアベルの詰め寄る。
「なろう!今すぐにでもなろう!」
「突然なんだ。まだ全ての契約内容を話していないが…」
「そんなの後でいいから!ほら、ガブッと行っていいぞ!腹減ってるんだろ?」
スバルはアベルの言葉を遮りアベルに首を差し出す。
もし説明している途中に心変わりでもされたら敵わない。スバルの夢は天寿を全うすることなので、これ以上の好条件はない。 それに、こんなチャンスもう二度とないだろう。
アベルはスバルの変わり身の速さに訝しげな顔を浮かべていたが、すぐにため息を吐き、スバルの肩に手を添えた。
「もう一度確認するが、貴様は契約に同意するんだな?」
「うん!するする!同意するぜ!」
「ふむ。その言葉、違えるなよ」
すると次の瞬間、アベルの顔が近づいてくる。
肩にアベルの吐息がかかり擽ったい。もうすぐ始まるんだ、とスバルは痛みに耐えようと、ギュッと目を閉じる。
それからアベルがスバルの肩に牙を押し付け、ピリッとした痛みが一瞬走ったかと思った瞬間ーー
「…ふぅ、っ…あ、う、んん…」
少し痛みを感じたかと思ったら、次の瞬間には痛みは消えてなくなり、代わりに牙を立てられている部分が甘く痺れる感覚にスバルは身体の力が抜けていくのがわかる。
全く予想してなかった感覚に、背中がゾクゾクと震え、力なくアベルに縋り付くことしか出来ない。
「…あ、あべ、る。まって…!」
しかし、スバルの制止の声は届かず尚もアベルに血を吸われ続けている。
段々と頭がふわふわとしていき、まともに考えることすらままならなくなっていく。
スバルはただ、与えられる快楽に身を委ねることしか出来ない。
暫く刺激に耐えていると、漸くアベルの牙が首から抜かれる。
スバルがぐったりと先程までの余韻に浸っていると、アベルが頭を優しく撫でてくる。
「少し刺激が強すぎたか。まあいい、無事に契約が終わったぞ」
アベルの言葉を流し聞きしていると、続くように昼休み終了のチャイムが鳴った。
「やばい…早く教室に戻んねぇと…」
スバルは寄りかかっていたアベルから身体を離し、早く教室に戻ろうとベンチから立ち上がろうとする。
しかし、それは叶わなかった。
「え?」
ベンチから立ち上がったはずが、何故か次の瞬間には地面にへたり込んでいた。
何が起きたのか分からず、もう一度立ち上がろうとするが、何故かそれが出来ない。
「腰が抜けたか。その状態で午後の授業に参加するのは無理であろうな」
アベルがそんな事を言い出したかと思えば、次の瞬間浮遊感を感じ、すぐにアベルに抱き上げられたのだと気付く。
一体全体何がどうなっているのか。スバルは未だに荒い息を何とか落ち着かせ、すぐ傍に居るアベルに視線を移す。
「な、なんで…」
「?」
「吸血って、もっと痛いもんじゃねえの…?なんで、あんな…」
気持ちいいのか、と続く筈だった言葉をスバルは飲み込む。
しかし、スバルが言いたいことはアベルに伝わったらしく、「ああ」とアベルがスバルの瞳を見つめ返したかと思えば口を開く。
「吸血は痛みを伴わないよう、吸血鬼の牙から催淫効果のある唾液が出るようになっているからな」
「なっ…」
「俺はその事も伝えようとしたが…急かしたのは貴様だ」
スバルはアベルの言葉に空いた口が塞がらない。 小さい頃よく大人から人の話は最後まで聞けと言われていた理由が今わかった。
「…番になったらどんくらいのペースで吸血すんの?」
「毎日だ。貴様たち人間も毎日食事をするだろう」
「ちなみに…契約解除とかって…」
「なに?」
すると、スバルの言葉にアベルの瞳がギロッとスバルを睨む。
「貴様は俺との契約に同意した筈だが…俺の聞き間違いか?」
「あ、いや…ちょっと毎日これはキツいって言うか…その…」
スバルは涙目になりながらも何とかならないかとアベルに抗議する。そんなスバルを冷ややかな目で見下ろしたアベルは溜息を吐く。
「貴様に再度契約の内容を説明する。一つ、吸血鬼は番から血を貰い受ける代わりに番を厄災から守ること。二つ、一度結んだ契約は死ぬまで解除されない。三つ、吸血鬼は契約を交わした瞬間から番の血液しか受け付けない」
「そ、そんな…死ぬまでって…」
つまり、スバルは死ぬまでアベルに血をあげ続けないと行けないのか。
エミリアたんとの完璧な結婚生活に既にヒビが入り始めていることに気づいたスバルはその場で放心状態になる。
すると、そんなスバルに追い打ちをかけるかのようにアベルが続けた。
「ああ、それと貴様はこの先老いることはない。吸血鬼の寿命は人間に比べれば遥かに長い。血の鮮度が衰えぬように契約を交わした瞬間から貴様の成長は止まっている」
「………え」
アベルの爆弾発言に今までの条件が全て可愛く見えてくるぐらいに衝撃を受けたスバルが、ばっ!と体を起こす。
「は?!老いないって…歳をとならいってことかよ?!そんなの聞いてねぇぞ!」
「聞かれなかったからな」
「そんな事質問する訳ないだろ?!」
「今更幾ら騒いだところで現実は変わらない。大人しく受け入れよ。ナツキ・スバル」
アベルに名前を呼ばれ、瞳を見つめられれば、何故か急に身体の力が抜けていき、顔をアベルの胸に預けるようにして浅く息を吐く。
「な、なんだ…これ」
「今日はこのままスバルの家に帰るとしよう」
「まて、なにしたんだよ。なんで身体に力が入らねぇんだ…?」
「何もおかしなことなどない。貴様は俺のモノなのだから、俺の命令を聞くのは至極当然のことだ」
つまり、スバルはアベルに逆らえないわけか。 これまたスバルの知らない契約内容なんですが?
うまく動かせない身体を動かすのは諦め、今できる精一杯の反撃として、アベルを睨む。
しかし、アベルはそんなスバルの抵抗に怒るどころか、ニンマリと笑みを浮かべ、「そういえば…」とスバルに顔を近づけ……
「この間の礼がまだだったな」
そう口にしながらスバルのおでこにキスをした。
スバルは次の瞬間鳥肌が立ち、尚も口角を上げ、愉快そうに笑っているアベルを一発ぶん殴ってやりたい衝動に駆られるが、それは叶わなかった。
「クソっ!覚えとけよこの変態クソ野郎!」
「ナツキ・スバル。静かにしろ」
「んぐっ…」
すると、今度は口を開けなくなる。なんだその能力、強すぎるだろ!
アベルは大人しくなったスバルを横目で確認すると、背中から急に翼が生えてくる。 その姿にびっくりして目を見開いていると、一気にスバルを抱えたままアベルが空へ上昇した。
「大人しくしろ。舌を噛むぞ」
短くスバルに耳打ちしたアベルは、言い終わると同時に一気に空を駆けていく。
速すぎることは無いが、決して遅くもない速さにスバルが目を回していれば、直ぐにアベルの動きが止まった。
どうやらスバルの家に着いたようだ。 アベルは窓からスバルの部屋に侵入すると、スバルをベッドへ下ろした。
「もう喋ってもよいぞ」
「ぷはぁ! お前な…!空も飛べるのかよ!」
「当たり前だ。俺を誰と心得る」
「ってかあれ!なんか俺の身体操るやつ辞めろよ!あんなの契約内容になかったじゃん!」
スバルは自由になった腕で自身を抱き締め、アベルから距離をとる。
あれはマズイ。全く身体が動かなかったし、このままじゃスバルはこの先一生アベルの奴隷になってしまう。
「距離を取ろうが意味は無いぞ。来い、ナツキ・スバル」
「うぐっ…うぐぐぐぐ」
スバルは行きたくないのに勝手に動いてしまう足を何とか止めようとするが、全く効果はなかった。
気がついたらアベルの目の前まで来ていて、スバルは眉を顰める。
「契約内容にないのは当たり前だ。これは俺の能力だからな」
「お前の…?」
「ふん。俺は貴様が想像しているよりも遥かに凄い吸血鬼ということだ」
そう宣言したアベルの顔は得意げで、スバルはそんなアベルの顔を真っ向から睨む。
今こうしてその能力とやらを使われていることも気に食わないし、こんなアベル有利な契約を今後一生続けていかないといけないのも嫌だ。
「やだ。契約解除する!」
「話を聞いていなかったのか?無理だ」
「無理じゃない!するったらする!」
「ここまで幼稚だといっそ清々しいな。まあいい。俺は一度家に帰る」
「は?!」
アベルはそう口にすると速やかに窓際まで移動し、先程と同じように翼を広げた。
スバルはそんなアベルにすかさず待ったをかける。
「待て!」
「安心しろ。また夜に来る」
「来んな!じゃなくて、これ解いてから行けよ!」
「ああ。術は一時間ほどで切れる。暫くそのまま反省していろ」
「反省すんのは俺じゃなくてお前の方だろ!……あ、ちょ!待ってアベル!ごめんごめん謝るから〜〜!」
しかしスバルの制止の声を無視して、そのまま遥か彼方に消えていくアベルの後ろ姿に、スバルはわなわなと震えながら「この野郎ー!!」と窓に向けて言い放ったのだった。
▽▲▽▲▽▲▽▲
あれから一時間後、アベルの言った通り術が解けたスバルは自由に動けるようになり、今は絶賛復讐計画を立てているところだった。
と言っても、計画はもう始まっている。 まず、アベルが今日の夜に来るなんて馬鹿なことを言っていたので部屋中の窓と鍵を閉めて、部屋の四つ角には盛り塩をしておいた。
まあこれだけやれば入ってくる心配はないが、念には念をと十字架、ニンニク、懐中電灯(太陽役)を用意している。まあ懐中電灯は役に立たないと思うけど。一応ね。
生憎、今日は両親が実家に帰っていて居ないので、お昼の騒動については知られていないのが幸運だった。(今考えたら近所迷惑だったごめんなさい)
そんなこんなで、邪魔の入らない環境で、スバルはじっくりアベルへの復讐の計画を立てていたのだ。
あの後戻ってこないスバルを心配したエミリアとオットーから百件近くLINEが入っていて本当に申し訳なかった。流石に本当のことを言う訳にも行かないので誤魔化したけど。
兎に角これからのことについて計画を立てないと。 アベルの話が本当なら凄く困る。だって元よりスバルは天寿を全うしたいがためにアベルと契約したのに、老いないなんて本末転倒ではないか。
まず、プランA、アベルを倒して契約を解除させる。
恐らくこれは無理だ。理由は至って単純、スバルが弱いから。
プランB、アベルに血を与えない。
これも無理。理由は先程の謎の術のせいでスバルはアベルの命令に逆らえないから。
プランC、めちゃくちゃ不健康な生活を送り血を不味くしてアベルの方から離れていってもらう。
もうこれしか行けそうなのがないな。よし!これで行こう!
人間の血の善し悪しが味に関係してんのかわかんないけど、さっき吸血鬼(非公式)について色々調べてたけどそういったケースが多かったし、多分効果あると思う。
スバルは早速作戦に取り掛かろうと、カップラーメンを買いにコンビニに向かおうと立ち上がる。
「よし!この作戦でアベルと契約解除してやるぞ!」
「──ほう。どんな作戦だ?」
「だから、血をめちゃくちゃ不味くして……って、え?」
聞こえるはずのない返事にスバルが慌てて後ろを振り返る。 すると、そこにはスバルの勉強机に腰掛けスバルの復讐ノートを読んでいるアベルの姿があった。
スバルはアベルの姿に空いた口が塞がらなくなってしまう。 なんで家の中に居るんだよ?!
「おまっ、どうやって中に入った!」
「普通に窓からだが」
「窓全部閉まってたはずなんだけど?!」
スバルが窓に視線を寄越すと、確かに鍵まで閉めていたはずの窓が全開になっていた。
「なんでだよ!」
「俺が開けた」
「どうやって!」
「こうやってだ」
すると、アベルは親指の腹を噛みちぎり、その傷口から血が溢れて来たかと思えば、宙で血の形が変形していき、最後には鍵に姿を変えた。
「何それ?!どうやってんだ…」
「吸血鬼は自身の血を自在に操ることができる。常識だぞ」
「俺には全然常識じゃねぇよ!」
「そんなことより、貴様の作戦とやらはこれの事か?」
アベルは勝手に読んでいた復讐ノートのプランCを指さしながらスバルに見せてくる。
スバルは慌ててアベルからノートを取り返して後ろに隠した。
計画がバレてしまった。完全に誤算だった。どうしよう…
すると、目の前から「ふっ…」と鼻で笑う声が聞こえ、スバルはばっと顔を上げスバルを睨む。
「…何笑ってんだよ」
「いや? 考える計画まで幼稚だと思ってな」
「なっ、これでも結構考えた作戦なんだぞ!」
「そうか。だが残念だな。その作戦では意味が無い」
アベルは勝手に座った椅子をグルっと回し窓の外を眺めていた。 スバルはそんなアベルに「意味が無いって、どういう意味だ」と声を掛ける。
するとアベルは、数秒考える素振りを見せ、視線をスバルに向けた。
「人間によって血の味はそれぞれだが、それは生来のモノであって本人の体調によって左右されるものではない」
「そんな……」
「…だが、一つ方法があるのも事実だがな」
「えっ、あるのか?」
アベルの意外な返答にスバルは興味津々に聞き返す。
「それは感情だ。血の味は対象者の感情によって変化すると言われている」
「感情…」
「例えば、恐怖や不安と言った感情は最も血を不味くさせるらしい」
スバルはアベルの言葉に確かに…と頷く。 イメージ的には想像しやすいし、しっくりくる。
なら、スバルもそういった感情でいればアベルも嫌気が刺すはず。
スバルがそんな事を考えていれば、目の前から大きなため息の音が聞こえた。
「馬鹿か、貴様は」
「…なんも言ってねぇけど」
「言っただろう。貴様の考えなど筒抜けだ。 それより、もう忘れたか?」
「何を」
「吸血の時の事だ」
アベルの言葉にスバルは一瞬キョトンとして、それからすぐに頬を真っ赤に染める。
そんなスバルの反応を見たアベルはもう一度溜息を吐くと、人差し指で頬を叩きながら説明を続けた。
「最初に言った通り、吸血鬼の牙には吸血によって痛みを伴わないように催淫効果のある唾液が対象者に注がれる。何故だかわかるか」
「何故って…痛くないようにって自分で言ってるじゃん」
「違う。何故痛みを伴わないようにしていると思うかを聞いている」
「なんで痛くないようにしてるか? 確かに、なんでわざわざそんなこと……」
そこまで考えて、ようやくアベルが言いたいことの意味を理解する。そうか、だから全然痛くないし、寧ろ気持ちいいと感じたのか。
スバルはその事実に項垂れる。 ならプランCも失敗という訳か。
次の作戦を考えないと…とスバルがノートを開こうとした時、不意に後ろから肩を押され、ベッドに倒れ込む。
こんなことをするのは一人しかいない。 スバルは文句を言ってやろうと起き上がろうとするが、腰に重みを感じで、アベルに馬乗りになられているのだと気付く。
「何すんだ!どけ!」
「さっきの話には続きがある」
「はあ?さっきの話って…感情によって血の味が変わるやつ?」
「そうだ」
背後でアベルが頷いた気配を感じる。 今そんな事どうでもいいからとっとと退いて欲しいんだけど。
無理やり立ち上がろうとするが、体格でアベルに負けているスバルでは、抜け出すのは容易ではない。
そんなスバルに構わず、アベルは会話を続ける。
「恐怖や不安で血が不味くなるように、血を美味しくする方法もある」
「血を美味しくする方法…?」
「ああ、なんだかわかるか?」
「…わかんねぇ。ってかいいから退けって」
スバル嫌な予感を感じ、一刻も早くここから逃げ出した方がいいと直感する。
スバルが一か八か全体重を掛けて起き上がろうとした瞬間、首を舌が這う感覚に、慌てて手で首を隠す。
「何してんの?!」
「退けろ」
アベルの声がすぐ近くに聞こえる。 アベルはスバルに覆いかぶさり完全に抜け出せなくなっている。
スバルはアベルが何をしようとしているのかを察して、首を横に振る。
「やだよ!ってかなんで首なんか舐めてんだ!」
「喧しい。貴様にはムードというものが無いのか」
「あってたまるかこんな時に!」
まただ、アベルと話していると、いつの間にかアベルのペースに持っていかれてる。
アベルの言葉には人を従わせる圧があり、スバルも一瞬萎縮してしまう。それが吸血鬼だからなのか、アベルだからなのかは分からない。
だが、今ここで問題なのはいつもアベルの言葉に流されてしまうという点なので、スバルは必死にアベルを退かす方法を考える。
「昼吸ってただろ!」
「貴様は毎日昼しか食事をしないのか」
「ぐっ…でも、嫌なもんは嫌なの!」
「契約を結んでいる以上、貴様に拒否権は無い」
痺れを切らしたアベルは、首を守っている手にキスを落とす。
耳元で、ちゅ、と何度も何度もキスが落とされ、まるで開けてくれと言わんばかりの行為に、スバルは叫び出しそうな感覚を何とかぐっと飲み込む。
「ばか、やめろって…!」
「………」
「…っクソ。なんで…」
血を吸いたいなら、今までみたいに無理やりスバルに命令すればいいのに。何故それをしないのか。
こんな回りくどいやり方なんてする意味、アベルには無いはずなのに。
スバルがそんな無意味な行為に耐えていると、突然耳元にふっ、と息が掛かる。
「〜〜ッ!!」
「ほう、耳が弱いのか」
「おおおおま…!っ弱くねぇよ!」
嘘でだ。スバルは耳が弱い。
しかし、スバルのプライドがそれをアベルに知られることを許さない。 アベルはそんなスバルの反応に口角を上げ、スバルの片耳を擽るように舐める。
「ちょっ!やめっ…ばばばばか!どこ舐めてんだテメェ!!」
「別に弱くないなら構わないだろう?」
「ヒッ…み、耳元で喋んな…」
しかし、アベルはそんなスバルを無視して尚も刺激を続けた。
ーークソっ。クソクソクソっ!絶対嫌なのに…!でもこのままじゃ……!
「わかった!吸っていいから!もうやめろ!」
「なんだ、貴様の善がる顔をもう少し拝んでやろうかと思ったのだが」
「クソっ…おまえまじでしね」
「はっ、お断りだな」
スバルは首に回していた手を退ける。 すると、アベルの動きも止まり、同時に少し顔が離される。
するとアベルはスバルの肩を掴み仰向けにさせると、向かい合うような形になる。
相変わらずムカつく顔のアベルを睨めば、アベルは挑発的に笑い、スバルの首に手を滑らせる。
「っ…そういうのいいから、とっとと吸って帰れ」
「吸うなと言ったかと思えば早く吸えと宣う。何とも傲慢な奴よの」
「うっせぇ。お前ほどじゃねーよ」
スバルがお返しとばかりに舌を出してアベルに返せば、アベルは笑みを崩さず、そのままスバルの首筋に牙を立てる。
すると、一瞬の痛みにスバルは目を強く閉じる。 しかし、痛みは直ぐに快楽に変換され、スバルはシーツを強く握りしめて、何とかその感覚に耐える。
一回目と比べて、二回目は比較的直ぐに終わり、アベルの牙が抜かれる感覚にスバルは大きく息を吐く。
そのまま荒い息を整えるスバルに、アベル独り言のように呟く。
「…甘いな」
「あ?」
「そういえば、答え合わせがまだだったな」
「なんのだよ」
スバルがアベルを見上げて問えば、アベルは唇に付いた血を舐め取り、言った。
「吸血の時、気持ちいいと思っただろう」
「………それは、まあ」
「それだ」
スバルはアベルの言葉の意味を暫く考え、血を美味しくする方法とやらに心当たりを覚える。
どうやら吸血鬼の牙には一石二鳥な機能が備わっているようだ。 まじでどうやって契約解除しようこれ。
そんなことを考えていると、頭がクラクラしてきて、視界が徐々に歪んでいく。
「……?」
「──吸いすぎたか。良い、少し休め」
そう言って頭を撫でてくるアベルに、何故か腹が立って途切れそうな意識の中で反抗する。
「おま、えに。偉そうに言われる筋合いは……」
ない。と言い終わる前にスバルの意識が途切れる。
▽▲▽▲▽▲▽▲
意識を失ったスバルを眺め、アベルはスバルの目に掛かっている前髪をそっと撫でる。
「…黙っていれば、少しはマシかもな」
アベルの目の前ですぅすぅと寝息を立てるスバルに、自分でも驚く程優しい声色になっていた。
アベルが番を取るのは生まれてから千年以上経って初めてのことである。
今まで番を作らなかった理由は単純で、アベルがアベル以外を信用していないからだ。
アベルは高位の血族の生まれで、常に命を狙われていたアベルは産まれた瞬間から死と隣り合わせの暮らしをしていた。 そして、アベルは過激な権力争い勝ち上がり、吸血鬼の王の座に君臨した。
しかし、王の座などただの飾りに過ぎず、寧ろ王になってからの方が死を身近に感じた。
正直、ただでさえ数が少ない同族同士で潰し合いなど、時間の無駄としか言いようがない。
吸血鬼は長命のため繁殖本能が人間よりも乏しく、現代では同族を見かけることは殆ど無い。
千年前と違い、人間の支配する社会になったこの時代に適応するようにして、生き残りの吸血鬼達は人間社会に溶け込んでいった。
そうして殆どの吸血鬼が身分を隠して生活するようになったことによって、アベルの勝ち取った玉座も唯のガラクタへと変化した。
アベルはその事実を悲しむでも悔やむでもなく、ただ静かにこの時代に溶け込み生きることを選んだ。
そうして百年おきに身分を変えながら、俗世を渡り歩いていたアベルだったが、ある時運悪く時代遅れな考えを持つ過激派の同族に遭遇してしまったのだ。
その時はちょうど仕事終わり、いつも通り路地裏でコウモリの姿になって移動しようとしていた時だった。
殺気を感じ、咄嗟に回避を試みるが、次の瞬間右肩に鋭い痛みが走った。
『……貴様、同族か』
『は、はは!ヴィンセント・ヴォラキア!何百年貴様を探したことか! これで、王の座も俺のものにっ…!!』
『ふん、くだらん。こんなゴミに等しい肩書きなどくれてやる』
アベルは刺された右肩を抑え、そのまま刺した本人である同族に視線を移し、目を細める。
『…だが、余を傷つけた報いは受けてもらうぞ』
『なにを…』
『ドロイ・クランツ。自害しろ』
『っ何故、俺の名前を…!』
アベルがそう命じれば、名を呼ばれた同族の男は、そのまま自分の作り出した血の刃を心臓に貫き息絶えた。
そのまま塵になる同族を見下ろし、アベルは懐かしい光景に失笑する。
そこそこ同族についての情報を耳にしていたアベルは、昔と違い、現代では番とやらを作り、生き延びる吸血鬼が増えていることを知っていた。
しかし、アベルは番を作らなかった。もし番を作っていれば、今この状況で血を分けてもらい生き延びることもできたかもしれない。
でも後悔はなかった。 だって、他人に依存して生きる己など想像できなかったから。
まともに人間の血を吸っていないアベルの肩は自然回復せず、尚も傷口から血を垂れ流していた。
『……ここで終わりか』
後悔や恐怖は無かった。元より、目標や志は無く、生きているから生きていただけのこと。死ぬのならそれもまた"運命"だろう。
アベルは薄暗い路地裏を抜け、血が少なくなり、人型も保てなくなった身体で道路の端で死を待っていた。
──そんなアベルに声をかけたのが、スバルである。
『うわ!コウモリじゃん。珍しいな』
アベルはその声に目を開く。 すると、目の前には珍しそうにアベルを見つめる人間がいた。
どうせ物珍しさで近づいてきた人間だ。そんなことを思っていると、不意に人間がアベルに手を伸ばしてくる。
アベルはその手に噛みつき、抵抗する。
『痛っ』
これで諦めると思っていたが、人間は再度アベルに手を伸ばして来る。
今度はゆっくりと近づいてくる手に、アベルは同じように噛み付いてさっきと同じように離れさせようとする。
──しかし。
『怖かったな、もう大丈夫だぞ。俺がお前を助けてやる』
そう、たかがコウモリ相手に優しく微笑みかけた少年に、アベルは少しの間考え、指から牙を抜いた。
初めてだったのだ、あんなに優しく微笑みかけられたのは。人間の姿を模倣していた時には何度かそうして近づいてきた奴も居たが、その瞳の奥には下心が含まれていた。
しかし、この少年にはそうした下心を一切感じない。 アベルはそんな少年に興味を持った。
この人間を知りたいと、生まれて初めて人間に興味を持った。
それから少年の手のひらに乗せられ、少年の自宅まで運ばれたアベルは机の上に乗せられ、傷付いた羽を丁寧に洗い流される。
多少の痛みはあったが、アベルはそれらの行為を大人しく受けていた。 血が出ていたからか、少年はアベルの羽に包帯を巻いてくれるが、それだけではアベルの体調は回復せず、段々と視界が霞んでゆく。
『蚊やハエなどを食べて生きてる……まじか』
すると、元気の無いアベルを心配してコウモリについて調べていたであろう少年から、そんな声が聞こえてくる。
それはコウモリの主食についての内容だった。 もちろんアベルは吸血鬼なのでそんなものは食べないし、それらを食べたところで元気にもならない。
結局このまま死ぬだけなのだ。最後に興味深い人間に会えたことは幸運だった。
アベルがそうして目を閉じようとした瞬間、悩んでいた少年が立ち上がる。
アベルは、まさか…と少年の顔を見上げる。
『仕方ねえ。俺が何か庭で昆虫探してくるから!ちょっと待ってろよ!』
そう言った少年にアベルは目を張った。何故他人……人でもないアベルにこれ程までに尽くすことが出来るのか。
見返りがないことなど分かりきっているのに。
アベルはそうして本当に部屋を飛び出していこうとする少年に口角を上げた。
そのままなけなしの力を振り絞り少年の腕から流れ出る血を飲み込んだアベルは力を取り戻し、負傷した肩を自身の血で治療する。
すると、少年は驚いたような顔でアベルを見つめてくる。
アベルはそんな少年の顔を観察し、忘れぬように脳に保存する。
それから開いていた窓から外に飛び立つアベルの背後から、心底安心したかのような声で
『良かった。元気になって』
と聞こえ、アベルは胸がざわめくのを感じた。
暫く飛んだ後、人気のない通路で人間の姿に戻ったアベルは飛んできた方向を眺め、頭の中は先程の少年のことでいっぱいだった。
「…この感情は一体なんだ?」
今、目の前で眠っているスバルに触れるアベルは、自身の胸をざわつかせるナツキ・スバルという存在に心底夢中だった。理由は分からない、だから知りたい。
この感情を、人はなんと呼ぶのだろうか。アベルは、もっと人間について知りたいと思った。
番なんて、そんなものアベルには関係ない話だと思っていた。でも、今はそうは思わない。こうしてアベルの役に立っているのだから。
「貴様が誰を好きになろうが、誰と結婚しようが、構わない」
アベルはスバルに好意を寄せている。その事に本人は気づいていないが、それでもこれは本心からの言葉だった。
──何故なら。
「貴様が誰を想っていようが、最後には俺の元へ帰ってくるのだから」
この長い長い人生を、目の前の少年と生きよう。
そうすれば、この胸から湧いてくる感情にも、いずれ名前を付けられる時がくるのだから。
終わり。