『ToR - Promise Horizon -』(第八稿)Part.2
第二幕:秘密結社
転移の暗闇は、一瞬だったはずなのに
途方もなく長く感じられた。
次に肺を満たしたのは、腐敗と泥、
そして何かが煮詰まったような
重く湿った空気だった。
冷たい石畳の上に膝をつく。
夜だった。
街灯はない。
窓の隙間から漏れるわずかな蝋燭の光が、
泥にまみれた細い路地を照らしている。
道の端に、布に包まれた何かが転がっていた。
大地はそれから視線を外し、
藤堂から渡された粗末な修道士のローブを
深く被り直した。
十四世紀、ヨーロッパ。
黒死病(ペスト)が猛威を振るう時代。
藤堂の指示は
修道院に潜り込んだ奴らの足がかりを潰せという
大まかなものだけだった。
武器は、小型のEMP(電磁パルス)発生器と、発煙筒のみ。
街の中心へ向かって歩く。
静寂はなかった。
どこかで絶え間なく咳き込む音が響き、
犬の遠吠えが風に乗って聞こえる。
すれ違う数少ない人々は、
一様に汚れた布で口と鼻を覆い、
互いを避けるように壁際を歩いていた。
誰もが他者を感染源として疑い、怯えきっている。
広場に出ると、松明を掲げた修道士の一団がいた。
彼らが歩くたび、
広場の隅にうずくまっていた住民たちが這い寄る。
「どうか、聖水を……」「お祈りを……」
懇願する住民たちに対し、
修道士たちは立ち止まることなく、
錫杖で無言のまま彼らを払いのけた。
その時、
払いのけようと腕を振った一人の修道士のフードが、
風でわずかにめくれた。
松明の光が照らし出したのは、
人間の肌ではなかった。
首の付け根から顎にかけて、
オリーブ色の硬質な鱗がびっしりと覆っている。
(……あいつらだ)
大地は息を殺し、
一定の距離を保ちながら一団の跡をつけた。
彼らが向かったのは、
街を見下ろす丘の上に建つ巨大な修道院だった。
石造りの高い外壁に囲まれ、
入り口には松明を持った夜番が立っている。
正面からの侵入は不可能だった。
大地は外壁に沿って暗がりを歩き、裏手へ回った。
壁面に太い蔦が絡みついている箇所を見つける。
ローブの裾を帯に挟み込み、
石の隙間と蔦に指をかけて慎重に登り始めた。
百年間の休眠から目覚めたばかりの身体は重かったが、
アドレナリンが痛みを麻痺させていた。
壁を越え、中庭の植え込みに音もなく着地する。
修道院の内部へ侵入すると、
すぐに「異変」に気がついた。
外の街を覆っていた強烈な死臭が、完全に消えている。
それどころか、カビや埃の匂いすらない。
廊下を進むにつれ、
蝋燭の火は青白い人工的な光源へと変わり、
空気は不自然なほど冷たく、無臭になっていった。
大地は壁に手を触れた。
石と石の継ぎ目が、
透明な樹脂のようなもので
隙間なくコーティングされている。
十四世紀の建築技術に存在するはずのない代物だ。
修道院の奥深くは、
外界から完全に「密閉」されていた。
頭上の通気口に目をつけ、
古い鉄格子を音を立てずに外す。
狭い通気ダクトの中を這い進み、
青白い光が漏れる真上の格子から下を覗き込んだ。
そこは、広い円形の部屋だった。
中央には、高さ一メートルほどの円筒形の機械が設置され、
低い駆動音を立てている。
その周囲の円卓に、
六人の修道士が座っていた。
彼らがフードを脱ぐ。
一見すると人間の顔の造りをしているが、
皮膚の下から硬質な鱗が覗き、
瞳孔は縦に鋭く割れていた。
間違いない。
未来のディストピアで人間を家畜のように管理していた、
あの白いスーツの兵士たちと同じ種族だ。
彼らの口から漏れるのは、
摩擦音と高低差を組み合わせた、
人間には発音できない言語だった。
翻訳機はないため詳細は分からない。
だが、彼らの行動がすべてを物語っていた。
一人が円筒形の機械のパネルを操作する。
機械の青白い光が強くなり、
部屋の空気がさらに澄み渡る。
彼らはその機械——
おそらく強力な『大気浄化フィルター』——
の近くから離れようとせず、
外の世界の話題をしているのか、
時折、忌々しそうに
修道院の外の方角を睨みつけていた。
大地の脳内で、すべてのピースが繋がった。
(なぜ、プラズマ兵器やタイムトラベル技術を持つほどの奴らが、
この時代を力で制圧しないのか?)
(なぜ、わざわざ人間に化け、
宗教というシステムを利用して裏から支配しようとしているのか?)
理由は簡単だった。
奴らは、この時代の「空気」に耐えられないのだ。
遥か昔から地下の閉鎖環境で進化してきた彼らは、
地上のウイルスや細菌、ペスト菌に対する免疫力を
完全に失っている。
この無菌室から一歩でも出れば、彼らは死ぬ。
未来のディストピアで
彼らが常に完全密閉の白いスーツを着ていたのも、
そのためだったのだ。
彼らの最大の武器は恐怖による支配だが、
彼ら自身が、目に見えない地上の病原菌に
最も怯えていた。
大地はダクトの中で静かに体勢を変え、
ポーチからEMP(電磁パルス)発生器を取り出した。
安全ピンを引き抜き、
格子の隙間から真っ直ぐに落とす。
——カンッ。
硬い金属音が部屋に響いた。
レプティリアンたちが一斉に床を見る。
その時、円筒形の機械の足元に転がった
手のひらサイズの装置が、
強烈な閃光を放った。
「グギャッ……!?」
密閉空間で乱反射した電磁パルスが、
円筒の機械の回路を焼き切った。
青白い光が明滅し、
低い駆動音が完全に停止する。
大地はダクトを後退し、廊下へ飛び降りた。
そのまま部屋の正面扉の前に立ち、
重い木製の扉を蹴り開ける。
部屋の中では、
浄化フィルターが止まったことで
パニックが起きていた。
大地は彼らには目もくれず、
部屋の隅にあった重い鉄の燭台を掴み上げ、
奥の壁にはめ込まれた巨大なステンドグラスに向かって
渾身の力で投げつけた。
ガシャァァァンッ!!
色鮮やかなガラスが粉々に砕け散り、
そこから十四世紀の夜の空気が——
腐敗と泥と、無数の雑菌を含んだ生の風が、
一気に無菌室へと雪崩れ込んだ。
レプティリアンたちの反応は、劇的だった。
彼らは喉を掻き毟り、
縦割れの瞳を見開いて床に倒れ込んだ。
プラズマ兵器を構えようとする腕が痙攣し、
激しい咳き込みと共に
鱗の色がどす黒く変色していく。
大仰な正義の言葉を投げかける気にはならなかった。
ただ、怯えて他者を支配しようとした者たちの脆い結末を、
冷徹に見下ろす。
大地は懐の転送デバイスのスイッチを押し込んだ。
強烈な光が視界を包み込み、中世の暗闇は完全に消え去った。
肺を満たしたのは、清潔で無機質な空気だった。
目を開けると、滑らかな白い床と、高い天井、
そして壁一面のガラス窓があった。
外には、青く透き通った空と、
ガラスと金属で構成された
近代的な都市の風景が広がっていた。
百年後の
赤黒いスモッグに包まれたディストピアは、
そこにはない。
「転送確認。
座標、生体反応ともに正常。」
背後から、ヒールが床を叩く足音が近づいてきた。
振り返ると、
黒いロングコートを着た三十代前半の女性が、
タブレットから目を離して大地を見ていた。
切れ長の目をした、感情の読めない顔立ちだ。
「藤堂はどこだ」
大地が問うと、
女性はアゴで部屋の奥をしゃくった。
「いるわよ。随分と老けたけれど。」
重厚なデスクの奥に座っていたのは、
白髪交じりの男だった。
顔には深いシワが刻まれているが、
その鋭い目つきには、
地下水道で出会ったあの
レザージャケットの若者の面影が
確かに残っていた。
「ご苦労だった、久我山くん。
あんたが十四世紀の足がかりを潰したことで、
歴史の軌道は大きく修正された。
奴らは再び地下へ引っ込み、
人類は自力でここまで文明を発展させた。」
藤堂はコーヒーカップを置き、静かに告げた。
「ここは2136年。
『時間管理局』だ。」
大地は息を吐き、
近くのソファに腰を下ろした。
「あかりは……妹の意識は戻ったのか。」
ロングコートの女性——
水原と名乗った——が、
タブレットの画面をスワイプしながら答えた。
「脳波の異常なノイズは消えた。
でも、まだ目覚めていないわ。」
「なぜだ。歴史は直ったはずだろ。」
「あなたが潰したのは、
あくまで奴らが人間社会に介入しようとした
『結果』の一つに過ぎない。
奴らがなぜ地下に潜り、
なぜ外界の空気に耐えられない身体になったのか。
その根本的な原因(エラー)は、もっと遠い過去にある。」
水原は空間にホログラムの年表を展開し、
ある一点を指し示した。
「約六千五百万年前。
巨大隕石の衝突により、
地球の生態系がリセットされた時代。
奴らの祖先が、地下へと逃げ込んだその瞬間よ。」
「そこへ行けと?」
「ええ。
あかりさんを目覚めさせるには、
根本の因果を修正するしかない。」
大地は窓の外を見た。
元の世界とは違うが、
確かに人が人として生きている街がある。
しかし、自分の目的は歴史を救うことではなく、
妹を救うことだ。
「……分かった。行く」
大地が立ち上がると、
水原もタブレットを閉じて歩き出した。
「私も同行するわ。
この局で、時空理論と
パラドックスの法則を最も理解している人間が
立ち会う必要がある。」
「足手まといにはなるなよ。」
「そっちこそ。」
感情の起伏を見せない水原の横顔を見ながら、
大地は次の時代の遠さを思った。
六千五百万年前。
すべてが始まった場所。
しかし彼らはまだ気づいていなかった。
その因果の根本に触れることが、
どれほど残酷なパラドックスの引き金を
引くことになるのかを。


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