【知里幸恵文学碑・資料室】
知里幸恵さんは、6歳のとき近文(旭川)で伝道活動をしていた伯母の金成マツに預けられ、祖母とともにマツの家で暮らしました。
彼女が旭川で暮らしていた場所が現在の旭川市立北門中学校の敷地内にあり、それを記念して1990(平成2)年に校舎の前庭に知里幸恵文学碑が建立されます。
その後1997(平成9)年、校内の一角に「郷土資料室」が設けられ、2007(平成19)年には「知里幸恵資料室」が整備されます。
ここに収められている資料は、知里さんと同じ学校に通っていた荒井ミチさんの娘で、長年小学校教諭を勤められた荒井和子氏から寄贈されたものが多く、書籍等には掲載されていない知里さんの写真なども展示されています。
同資料室は一般に開放されていますが、事前に学校への連絡が必要です。
さて、知里幸恵が近文(旭川)の上川第三尋常小学校に入学したのは1909(明治42)年ですが、同年いわゆる「アイヌ学校」である上川第五尋常小学校(のちの豊栄小学校)が開校し、そちらに移されます。
アイヌの子供たちは日本語が良くわからず風俗習慣も違うという理由で、明治41年に「特別教育規程」が作られ和人の子供と分離して教育されることになったのです。
教師は和人なので日本語しか話せません。
優しい先生もいましたが、中にはひどい暴力を振るう教師もいました。
幸恵の一年下の女の子が、自宅の時計が止まったせいで午後の授業に遅れ、うまく日本語で説明できずにいきなり教師に殴り飛ばされたことがありました。
その子は倒れたショックで失禁してしまい、幸恵が廊下に連れ出し黙って後始末をします。
教師はただ見ているだけでした。
いつしか学校では「お姉さん」的存在となり、6年生の時は先生に頼まれて下級生の自習の面倒を見るまでになります。
自習時間ではオルガンを弾いて歌ったり、日本語でわからないところをアイヌ語で教えてくれるので人気だったそうです。
幸恵は尋常小学校を優秀な成績で卒業し、一年後女子職業学校を受験し109人中4位の成績で合格します。
しかし「ここはあんたの来るところじゃない」と心ない言葉を浴びせる同級生もいて、親しい友人も作れず孤独な日々を送っていました。
言語学者の金田一京助がマツの家にやってきたのはそんな時期でした。
1918(大正7)年8月、金田一は有名なユカㇻの語り手である幸恵の祖母モナㇱノウㇰを訪ねてきます。
彼はそこで初めて幸恵と出会い、美しい日本語を書き綴る一方完璧なアイヌ語を話し、ユカㇻも暗唱できる幸恵に驚きます。
金田一は祖母のユカㇻを記録したり話に興じるうちに旭川行きの最終列車を逃してしまい、家に一泊することとなりました。
これが「近文の一夜」と称される金田一京助と知里幸恵との出会いであり、金田一は「東京へ出して勉強をさして上げたい」と約束します。
のちの『アイヌ神謡集』につながる一歩となったのです。
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