便利という毒、平等と言う毒

週末にマイクロプラスチックの問題をとりあげた番組を観ていました。海を漂ったプラスチックは、紫外線で分解されて最終的に血液に吸収されるまで細かくなり、胎盤にも入る、脳にも入る、ということで、いやはや、たいへんなことになったと思う。

私の少年時代、青年時代、プラスチックと言うのは珍しいものだった記憶がある。ゴム動力の紙と竹ひごのつばさの飛行機の、車輪やプロペラも木製のものがあって、プラスチックのものはモダンな感じがした。おもちゃでもプラレールとかブロックのおもちゃはモダンなもので、私が持っていた汽車のおもちゃは(デザインはディーゼル車だった)ブリキと金属のもので、モーターが入っていた。私よりも裕福な家のこどもで、ドイツ製の超高級な列車の模型を持っているのがいたが、主流は金属製だった。自動車のおもちゃも金属製で、ブリキのものとダイキャストのものがあった。多くははずみ車が入っていて、何回か『ジャージャージャーと地面で回して、勢いが付いたところで床に置くと走り始めた』。

私の周りにも自動車が好きな少年がいたのだが、興味深いところは、その『省略化されたダイキャストの自動車のおもちゃの中でも、今思うと抽象的な美を感じていたことで、必ずしもリアルなものが少年たちのこころをとらえたとは言えなかった』。マッチボックスやら国産のモデルが流行ったのはだいぶ後のこと。

私はプラモデル世代だが、最初の頃のプラモデルはものすごく小さかった。私が記憶している最古のプラモデルは『複葉機のモデル』で、吹くとプロペラが回転した。こどもの手に乗るくらいだから、全長3~4cmだったのではないか?それがやがて大きいプラモデルが現れ、海外からレベルとかが入ってきた。モノグラムのプラモデルは高価で、とうてい少年の財布で買えるものではなかったことを覚えている。

それがいま、モッケオフ(ひとつ数十円、一枚5円で買い取り、むこうにしたら、もっけの幸い、笑)の中古買取おもちゃのコーナーへ行くと、ほぼすべてがプラスチック製で、ビニールの袋に入っている。

私の時代、少年たちの自転車でもプラスチックの部品が使われていた事実は思いうかばない。サドルすら革だったし、ブザーもブリキ製で、差し込み式の電池ランプでもガラスと金属でプラスチックの部品は無かった。

私のループトップの自転車ローズには、プラスチック部品がひとつもない。前プラスチック世代の『セルロイドのハンドルバー・グリップが唯一の樹脂製部品』だが、あのグリップの中はじつは厚紙で、表のセルロイド部分はペットボトルぐらいの厚さしかない。うちのハンドルバー・グリップは、すでに100年ほど使用しているわけで、まだ平気。さらにいよいよダメになった時はセルロイドはよく燃える。一瞬にして燃えるので紙を燃やすのと変わらない。海に流れて蓄積される惧れはない。

ところが、最新の自転車には、ものすごくプラスチック部品が使われている。チェンケース、ヘッドライト、サドル、ハンドルバーグリップ、変速のシフター、ブレーキレバー、反射鏡、変速器やスポークプロテクター、チャイルドシート。

そこへ加えて、ヘルメットというかなりの『かさ』のあるプラスチックが使われる。海洋プラスチック汚染で悪質なものは、そのリストの上のほうに発泡スチロールやABS樹脂、ウレタンフォームがくるが、自転車のヘルメットの原材料はそうしたものがほとんど。環境には決してヘルメットはフレンダリーなものではない。そこにカーボンファイバーのフレームが加わり、6年ほどで使い捨てる樹脂サドル、プラスチックフォームの入ったドロップハンドル用のバーテープも使い捨てだ。電池式ヘッドライトも20年使う人はいないだろうから、あれもプラスチックごみと環境ホルモンの元の電子基板のかたまりだから、環境悪だ。しかも電池自体が環境にやさしくない。

こうしたものはただの時代の変化であって、進歩ではない。むしろ環境悪の分、退化だろう。

私はだから紙と同様に燃やせるか、腐れば土にかえるコットンのハンドルバー・テープしかドロップハンドルには使わない。私のランドナー(27号は前世に戻した。(笑)元の名前は『サントス・デュモン』)には鉄プーリーの変速器が付いているので、プラスチック部品はテールランプの親指ほどのキャップだけ。それも60年以上使っているわけだから罪は少ない。

私が少年時代、お菓子を買いに行くと、紙袋に小さいシャベルで入れてくれたのを覚えている。餅菓子屋でも、それは器用に紙にくるんでくれて、そこにぶら下げるようにひもをかけてくれた。駅弁などもくるんだ上にひもをかけてぶら下げられていた。そうした技が消え、『便利なようにプラスチック全盛』になって現在がある』。それは果たして進歩なのか?『退化』なのではないか?

いまやスマホとキーボードで、字を書かなくなり、昔はいなかったぐらいの字の汚い人が増えた。昔、とくに江戸時代の人の字は毎日筆で書いていた関係で、ずいぶん字の巧い人がいる。退化だと私は思うが。夏に八百屋でスイカを買うと、ひもを網になるように結んだバッグに入れてくれた。ビニールのバッグなどはなかった。現代の人に『スイカをビニールのバッグを使わずに持ち運ぶ方法』を答えさせると面白いのではないか?ひもでネットを作れるだろうか?風呂敷の使い方すらわからない人が増えたのではないか?風呂敷があれば、一升瓶でもうまく運べる。そうここに書くと、『脳をスマホに入れている人はすぐにググる』だろう(爆)。

昨日、遺伝子操作の特集番組をやっているのを、家事をしながら横目で観ていたが、容姿外観に差があるのは不平等だ、能力の差があるのは不平等だ、と遺伝子を操作した赤ん坊、デザイナーズ・ベイビィを作る話をやっていた。そうした考えの大きいうねりが、主にアメリカと一部のアジアで出ていることが興味深いと思った。

ひとつは、国威発揚のために、そうした遺伝子操作の果てに生まれるサイボーグのような運動選手や兵士をつくる欲望だろうし、また頭脳・知能に優れた人物を量産して、『自分の国を世界一にする』という、カビの生えたような『古い世界制覇の欲望』が裏にあると感じる。同じことはナチス・ドイツが人種政策,優生政策でやっていたし、旧ソヴイエトも人間よりはるかに腕力の強いチンパンジーやゴリラと人間をかけ合わせ、最強の体力と疑問を持たずに任務を遂行する通常より低い知能のスーパー兵士を造る計画があったことが知られている。昨日の番組の中で、日本の隣国の科学者の背景に、人間の図とゴリラの図が比較で一枚に描かれた図面が貼られていたのを見て、『ああ、無宗教の唯物主義者のすることは半世紀以上たっても同じなんだ』、と思った。

フランスの画家、ドミニック・アングルはかなり理想化した女性像を描いていたが、哲学者で詩人のポール・ヴァレリィはそれを、『ある種の外観の女性を何世紀にもわたって淘汰して、交配していったら、こういう人になるだろうと思われる爬虫類のような不気味な感じの女性』と評した(爆)。

現代のAIのつくる美人の女性の顔に、それと同じような、なんとも言えない爬虫類的な薄気味の悪さを私は感じる。その『美男・美女』の感覚は誰のものを基準とするのか?現代に生きている人は、すべて数千年、数万年の時代を生き延びてきた子孫なわけで、それは、すべて何かの意味があって生存競争に勝ってきた。それを浅はかな1代、2代の好みでひとつのタイプを遺伝子操作で大量生産してどうするのか?それは何か一つの環境変化で大絶滅の可能性を秘めていると言える。

私は最近の『あけび46個』だか『宮益坂48手』だとかいう人たちを美人だと思ったことがない。それはほんの一時期の、時代の好みだろう。同様に、私は原節子などという私の前の世代の人も美人だと感じたことがない。明治時代の黒田清輝の『智・感・情』だったかの3枚ひとセットの絵も、体系は日本人ではなく、そこへ合成された顔も『四天王のひとりが性転換したような感じ』(笑)で魅力を感じない。ここ100年未満でそれだけの変化だ。それを遺伝子をそう簡単にいじってしまって、果たして、数万年、数億年の単位で生き延びてきた、生物の多様性戦略を崩すのが、ほんとうに人類の幸福につながるのか?

知的能力に関してもそうで、多くの人はアインシュタインを天才と言って神格化するが、彼は少年時代『学校一のバカ』と言われていたことは伝えられない。今でいう『浮きこぼれ』だろう。学校でやっていることがあまりに簡単でバカバカしく思えた結果であったと思われる。私は実際に同様の人を日本人で知っている。彼も完全に社会にはまらず、ある意味日本社会では落伍者だったが、知能指数は何通りの別のやり方でやっても220を超え、数学や音楽では天才的だった。しかし、一方でそれは発達障害と裏表であったという印象を私は持っている。あのレオナルド・ダ・ヴインチだって、事務処理能力はほぼなく、つぎからつぎへと移り気に仕事をやって、未完成で投げ出し、住む都を変えて締め切りから逃げ回り、最後はフランスまで行った。彼も今でいう事務処理能力のない『発達障害』だったのだろうと私は考えている。

同じことはモーツアルトにもリヒャルト・ワーグナーにも言える。2人とも経済感覚はゼロで、ワーグナーに至っては、一つの国の国王を経済破綻に追い込みかねない勢いだった(笑)。

重要なのは、そうしたエキセントリックな人たちを責めるのではなく、そうしたある意味破綻したところのある人に、自由に仕事をさせる社会が重要で、遺伝子をいじればどうにかなる、という問題ではない。ケンブリッジ大学はノーベル賞の獲得者数で世界一だったか2位だったか。そこの理由は、『ゆるい社会』にあったのだろうと私は思う。昔から『ケンブリッジにある重要なもの。それは7番目の自由。変人である自由だ。』と言われている。突出した能力の変人・奇人が能力を発揮できる寛容な社会が重要だと私は考える。

むかし、ファッション・モデルたちと遊び暮らしていた時期があった。しかし、その多くの人たちが『その時代のタイプ』で、みんな集まると、個性が希薄で、体格や背格好すらも同じような感じで不思議に感じたのを覚えている。そうした、ひとつのタイプを『集める』のは、誰の審美眼によっているのか?

そうした遺伝子操作の果てにくるのは、手塚治虫のマンガのナチスの行進のように脚をラインダンスのようにあげたスーパー遺伝子兵士?スポーツ界では遺伝子サイボーグ選手?どこかのスタジアムでは『淘汰されたあとの残りのような美女たち』のマスゲーム?それを決定しているのは、ごくありきたりの、美男美女でもなく、身体能力が高いわけでもない、ノーベル賞がとれるほどの頭脳も独創性もない、たまたま時流に乗れたスーパー金持ち?それは、面白くもない『白アリ社会』だと私は思います。その一握りのエリートが運動不足で自分の食欲への自制心もない肥満漢だったら最悪だと思いますね。

プロフィール

roughton

自然と調和して、自転車の上のEthicalな生活をして、健康長寿。

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