『ToR - Promise Horizon -』Part.1(第三稿)

プロローグ:長い眠り


網膜を焼き尽くすような「赤」。

肺を満たすのは、空気が炭化する不快な悪臭と、
生焼けの肉の匂いだった。

『空を撃ち落とせ! この誇り高き大地を渡すな!』

地響きのような咆哮。

見上げれば、硬質な鱗に覆われた巨大な二足歩行の生物たちが、
空から迫り来る「巨大な火の壁」に向かって絶望的な抵抗を試みている。

彼らの皮膚が熱風でひび割れ、剥がれ落ちていく。

息ができない。熱い。痛い。

場面が、ノイズと共に唐突に切り替わる。

今度は、耳鳴りがするほどの絶対的な「静寂」。

見渡す限りのプラチナホワイトの空間で、
華奢な身体と巨大な頭部を持つ無数の人影が、
次々と自らの生命維持装置をシャットダウンしていく。

彼らに感情はない。

ただ、冷たい絶望だけが空間を満たしている。

その時、彼らすべての思念が一つの単語となって、
脳髄に直接叩き込まれた。

『——クロニウム』

「……っ!!」

久我山大地(24)は、硬いパイプ椅子から跳ね起きた。

全身が嫌な汗で濡れ、
心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく警鐘を鳴らしている。

大口を開けて酸素を吸い込むと、
肺に入ってきたのは火の粉でも無機質なオゾンでもなく、
強烈な消毒液の匂いだった。

「……また、か」

額の汗を手の甲で乱暴に拭い、大地は深く息を吐き出した。

国立医療センターの地下病棟。

深夜の廊下には、蛍光灯の冷たい光と、
等間隔に響く心拍モニターの無機質な電子音だけが存在していた。

大地は重い足取りで、ガラス越しの無菌室を覗き込んだ。

そこに横たわっているのは、妹のあかり(17)だ。

彼女はもう、一ヶ月間目を覚ましていない。

原因不明。治療法なし。

ただ静かに、彼女を構成する細胞の活動が停止へ向かっている。

顔色はシーツよりも白く、かろうじて上下する胸の動きだけが、
彼女がまだこの世界に繋ぎ止められている唯一の証だった。

ガラスに額を押し当て、大地は血が滲むほど唇を噛んだ。

あかりが倒れたあの日からだ。

あの、肌が焼け焦げるような、
あるいは完全に凍りつくような、
他者の滅びを疑似体験する
「生々しすぎる悪夢」を見るようになったのは。

あれは、ただの夢じゃない。 大地は確信していた。

夢から覚めた後も、右手には火傷のような幻痛が残り、
耳の奥では見たこともない言語の断末魔が響き続けている。

大地はポケットからスマートフォンを取り出し、
震える指で検索窓に文字を打ち込んだ。

『クロニウム』

夢の中で聞いた、唯一の明確な単語。

数日前、偶然にもこのキーワードから
一つの論文に辿り着いていた。

執筆者は、韮山健太郎。

かつて量子物理学の異端児と呼ばれ、
現在は都内の外れで
「長期冷凍睡眠(コールドスリープ)による不治の病の治療」を掲げる
怪しげなベンチャー企業を立ち上げている男だ。

医学の道を外れたその技術が、
あかりを救う唯一の手段になるかもしれない。

そして何より、韮山に会えば、
自分を蝕むこの狂った悪夢の正体が分かる気がした。

大地はもう一度、ガラス越しの妹を見つめた。

「……待ってろ。絶対に、どうにかしてやる」

誰にともなく呟き、大地は深夜の病院を後にした。

三日後。

旧市街の地下深く、廃工場を改装した韮山の研究所は、
想像以上に雑然としていた。

剥き出しの配線、
壁を埋め尽くす巨大なサーバー群、
そしてその中央に鎮座する、
三基の無骨なコールドスリープ・カプセル。

「いいか、これは単なる医療実験じゃない。
空間の位相を固定するテストだ」

白衣を乱雑に羽織った韮山は、
神経質に爪を噛みながらコンソールを叩いていた。

「高額な報酬は出す。

だが、何が起きても自己責任だ。

サインしたな?」

「金はどうでもいい」

大地は、渡された実験着に着替えながら韮山を睨みつけた。

「俺は、あんたの論文にあった
『クロニウム』って言葉に惹かれて来たんだ。

あれは、ただの理論上の素粒子じゃないだろ」

韮山の手が、ピタリと止まった。

血走った瞳が、ゆっくりと大地に向けられる。

「……お前、なぜその言葉を知っている?

論文にはダミーの数式しか載せていないはずだ」

「夢で見たんだよ」

大地は一歩近づいた。

「空が燃えて、トカゲの化け物が焼かれる夢の中でな」

韮山の顔から、サッと血の気が引いた。

「まさか……時空の干渉波を受信しているのか?」

その時だった。

——ドゴォォォォン!!!

研究所の分厚い防爆扉が、突如として飴細工のように吹き飛んだ。

爆煙の中から現れたのは、警察でもテロリストでもなかった。

漆黒のタクティカルギアに身を包んでいるが、
そのヘルメットの奥で光る瞳は、
明らかに人間のそれではない。

縦に割れた、爬虫類のような黄金の瞳孔。

「なっ……!?」

「チィッ、もう嗅ぎつけやがったか!」

韮山はパニックに陥る大地を突き飛ばし、
強引にカプセルの中へと押し込んだ。

「聞け! 奴らは歴史の監視者だ!
俺の研究が完成する前に、
この施設ごと時空の狭間に消し去るつもりだ!」

「歴史の監視者!? あんた、一体何を作って——」

「時間がない! お前だけでも逃がす!」

韮山がコンソールの赤いレバーを叩き落とした瞬間、
カプセル内に極低温の冷却ガスが勢いよく噴出した。

武装集団の一人が、
プラズマ状の光線を放つライフルを韮山に向ける。

視界が白く染まっていく中、
大地の目に最後に映ったのは、
閃光に飲み込まれていく韮山の姿と、
研究所の中央で暴走を始める
巨大なエネルギーコアの異常な発光だった。

(あかり……っ!!)

鼓膜を破る爆音。

そして、全身の細胞がミキサーにかけられるような絶対的な重力場。

意識がブラックアウトする直前、
大地の脳裏に、あの『夢』で聞いた爬虫類の咆哮が、
不気味に共鳴して響き渡った。


第1章:奪われた未来

肺の中で、無数のガラス片が砕け散るような激痛が走った。

「ガハッ……、ゲホッ、オォォ……ッ!」

凍りついていた気管が急激に解凍され、
大地は粘ついた胃液をカプセルの床にぶちまけた。

全身の筋肉が痙攣し、
指先ひとつ動かすことすら途方もない労力を要求される。

視界を覆っていた霜が徐々に晴れていくが、
そこに広がる景色は、
想像していた「最先端の未来病院」などでは決してなかった。

錆びた鉄骨。
ひび割れたコンクリート。
そして、鼻をつく強烈な硫黄とヘドロの匂い。

カプセルのハッチが鈍い音を立てて脱落した。

這うようにして外へ転がり出た大地は、
泥まみれの床に手をつき、
荒い息を吐きながら周囲を見渡した。

廃墟だ。

それも、何十年も放置され、
徹底的に破壊し尽くされたような地下空間。

壁面には見覚えのある
「韮山量子力学研究所」のロゴが残っていたが、
原形を留めないほどにひしゃげている。

「……あかり……」

掠れた声で妹の名を呼ぶが、当然返事はない。

あの襲撃はどうなった?
韮山は?
今は一体、西暦何年なんだ?

混乱する大地の耳に、
規則的な機械音が飛び込んできた。

——ガシャッ、ガシャッ、ガシャッ。

反射的に瓦礫の陰に身を隠す。

暗がりの中から現れたのは、
四足歩行の異形な機械兵器だった。

装甲には赤黒いエンブレムが刻まれ、
頭部にあたるセンサーユニットが、
昆虫のように不気味な動きで周囲をサーチしている。

(なんだ、あれは……ドローンか?)

大地が息を殺したその瞬間。

足元の瓦礫が、微かに崩れた。

カラカラーッ、という乾いた音が地下空間に響き渡る。

ピタリ、と機械兵器の動きが止まった。

次の瞬間、センサーユニットが真っ赤に発光し、
大地の隠れている瓦礫に
複数のロックオン・レーザーが集中する。

「チィッ!」

高周波の駆動音が響き、
機械兵器がプラズマの砲門を向けた。

死を覚悟し、大地が身を固くした直後——。

視界の端から、黒い疾風が飛び出した。

「伏せて!」

鋭い声と共に、
ロングコートを翻した女が瓦礫を蹴って宙を舞う。

彼女は機械兵器の装甲の隙間に、
銀色に光るディスク状のデバイスを叩き込んだ。

「空間固定(フェーズ・ロック)」

女が指を鳴らす。

瞬間、機械兵器の周囲の空間そのものが
「ゼリーの中で硬直したように」歪み、
プラズマ砲の発射プロセスが完全にフリーズした。

その隙を突き、女は高周波ブレードを抜き放ち、
機械の中枢を一刀両断に切り裂いた。

火花を散らして崩れ落ちる残骸。

女はブレードの熱を振り払うと、
瓦礫に座り込む大地を冷たい瞳で見下ろした。

「110年ぶりの寝起きにしては、随分と寝相が悪いね」

「……あんたは?」

警戒しながら問う大地に、
女は黒いコートの埃を払いながら短く答えた。

「水原。この時代の『時間管理局』の執行官だ。
……立て。
次のおもちゃが来る前に、ここから出るよ」

水原に連れられて廃墟を抜け出した大地は、
地上に出た瞬間、息を呑んで立ち尽くした。

「これが……未来、なのか?」

空は、分厚い鉛色の雲と赤黒いスモッグに覆われている。

地平線の彼方までそびえ立つのは、
幾何学的で無機質な巨大な黒曜石のタワー群。

街を歩く人々は皆、
首の後ろに生々しいプラグを埋め込まれ、
感情を失った顔で下を向いて歩いている。

上空には、先ほどの機械兵器よりもさらに巨大な武装ガンシップが、
獲物を探すようにゆっくりと旋回していた。

それは、徹底的に管理され、
搾取されているディストピアそのものだった。

「歓迎するよ。西暦2136年だ」

水原は、廃ビルの陰に身を潜めながらシニカルに笑った。

「どうなってる。
俺のいた時代から、一体何があった?」

「『何があったか』じゃない。
『歴史を書き換えられた』んだよ」

水原は壁の端末にデバイスを接続し、
ホログラムのディスプレイを展開した。

「君が冷凍睡眠に入る直前、
研究所を襲撃した連中を覚えているか?」

大地の脳裏に、
ヘルメットの奥で光っていた爬虫類のような
黄金の瞳孔がフラッシュバックする。

「あいつらは、テロリストじゃないのか?」

「表の歴史では存在しないことになっている、最古の秘密結社さ。
我々は奴らを『レプティリアン』と呼んでいる」

水原の指がホログラムを弾く。

「彼らは本来、地底に身を潜めるだけの敗北者だった。

だが、韮山の研究所から
『時間跳躍の基礎理論』とエネルギーコアを強奪したことで、
すべてが変わった。

奴らは過去のあらゆる時代に干渉し、
人類の文明発展を裏から操作した。

その結果が……
この、彼らが地上の支配者として君臨する2136年だ」

「歴史を……奪った?」 大地の声が震えた。

「じゃあ、あかりは……俺の妹はどうなった!?」

水原の冷ややかな目が、初めてわずかに伏せられた。

「君の妹が意識不明になった理由を教えてやろう」

水原の言葉は、物理的な暴力よりも鋭く大地の胸を抉った。

「彼女の脳は、
レプティリアンが歴史を改変するたびに生じる
『タイムパラドックスの矛盾』を、
無意識に処理させられているんだよ」

「……は?」

「君の妹は、最初のクロニウム暴走事故で時空の歪みをモロに浴びた。

その結果、彼女の意識は
『すべての世界線の記憶(エラーログ)』を受信する
アンテナになってしまった。

奴らが過去を変え、世界線が分岐するたびに、
その巨大な矛盾のしわ寄せが彼女の脳に流れ込んでいる。

彼女が目覚めないのは、
無数の歴史の矛盾に押し潰されて、
意識がフリーズしているからだ」

大地の頭が真っ白になった。

自分だけが未来へ逃げている間、
あかりは暗闇の中で、
歴史が書き換わる強烈なノイズを
一身に受け続けていたというのか。

「……助ける方法は」

大地の声は、地を這うように低かった。

「あいつを、そのエラーログから解放する方法はあるのか」

「一つだけ」

水原は、大地の目を真っ直ぐに見据えた。

「奴らが過去に仕掛けた
『特異点(歴史介入のポイント)』を、
我々の手で一つ残らず破壊し、
この狂った歴史を本来の軌道に引き戻すことだ」

水原は、大地の胸ぐらを軽く突いた。

「君は、110年という時間をカプセルの中で『スキップ』した。

つまり、今のこの狂った因果律の鎖に組み込まれていない、
唯一の『特異点(イレギュラー)』だ。

だからこそ、君が過去に介入しても
パラドックスの反動を受けにくい」

「俺に、過去を変えろって言うのか」

「奴らから、歴史を奪い返すんだよ」

水原は、懐から拳銃サイズの転送デバイスを取り出し、
大地に押し付けた。

「やるか、やらないか。
ここで一生、奴らの奴隷として這いつくばって生きるか。
それとも、妹のために歴史という巨大なシステムに喧嘩を売るか。
選べ」

大地は、押し付けられた冷たい金属のデバイスを強く握りしめた。

脳裏に浮かぶのは、
病室で自分を見つめていた、あかりの虚ろな瞳。

『未来って、どんな感じなんだろうね』

「……決まってるだろ」

大地の瞳に、かつてない強烈な意志の光が宿った。
恐怖はあった。
だが、それ以上に、
妹にこの泥まみれの狂ったディストピアを
「お前の生きたかった未来だ」などと
報告するわけにはいかなかった。

「やってやる。爬虫類だろうが未来人だろうが、
俺の妹の脳みそをゴミ箱代わりにした奴らは……
全員、歴史から引きずり下ろしてやる」

水原の唇の端が、微かに吊り上がった。

「交渉成立だ。
歓迎するよ、時間管理局へ。
——さあ、最初の『歴史泥棒』を狩りに行こうか」

赤黒いスモッグの空の下、
大地の第二の人生
——血と泥にまみれた歴史介入バトルが、
今、静かに幕を開けた。



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コメント

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『ToR - Promise Horizon -』Part.1(第三稿)|古井和雄
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