飢餓都市の秩序はいつ崩れるのか:レニングラードが示す道徳の臨界点【後編】
女性の生体は、男性のそれよりも環境に対して抵抗力がある
はじめに
カニバリズム(人肉食)の容疑者は、1941年12月に26人、翌1942年1月に366人、2月前半だけで494人を数えた。そして1943年以降、記録はゼロになる。この急激な増減は、飢餓の死亡ピークと完全に重なっている。だが、この数字は二通りに読める。一つは「飢えれば人は獣になる」という恐怖の物語。もう一つは、その正反対の物語だ。本記事は、後者にこそ目を向けたい。
飢餓と犯罪をめぐっては、二つの極端な通念がある。「飢えれば多くの人が犯罪に走る」という見方と、「日本人は秩序正しいから略奪は起きない」という見方だ。レニングラードの数字は、そのどちらも退ける。崩れるのは社会のごく薄い周縁部にすぎず、しかもそれは日本人だからではなく、人間だからである。
前編では、包囲が続く872日間の物質的次元、つまり身体・統計・生存を扱った。本記事はその続編として、危機が終わった後にこそ現れる時間的・社会的次元を扱う。世代を超える身体の刻印、極限下での記録の継続、そして飢餓のなかで人々が何を守り、何を失ったか。レニングラードを鏡として、日本で起こりうる事態を見据えたい。
前編の振り返りと後編の射程
前編で確認したのは、4つの構造だった。
包囲開始前から存在した脆弱性が致死率を規定したこと。
死者数の統計が政治的に構築され、真の数は今も不明であること。
疎開が救済ではなく二次的死亡を生む過程だったこと。
そして生存を分けたのが個人の強さではなく関係性の網だったこと。
これらはすべて、包囲という危機が継続する最中に起きた事象である。
だが、危機の射程はそこで終わらない。包囲解除は1944年1月だが、それは終わりではなく始まりだった。子どもたちの身体に刻まれた痕跡は数十年後に表面化し、極限下で続けられた記録は80年後の現代に届き、飢餓が呼び込んだ犯罪は社会秩序の脆さを露わにした。後編は、この「終わってから始まる」時間構造を追う。
1. 飢えた子どもは何十年生きるか:包囲が刻んだ世代継承の痕跡
死にゆく生体の予備力が、すべて使い果たされたわけではなかった
包囲を生き延びた子どもたちは、その後どうなったのか。書籍第7章のイーゴリ・コズロフ(Igor Kozlov)とアラ・サムソノヴァ(Alla Samsonova)の調査が、まず短期の影響を記録している。1945年に実施された就学前児童の身体計測では、戦前の同年代と比べて、身長は男子で最大4.1%、女子で最大4.3%低かった。体重の差はさらに大きく、男子で最大9.4%、女子で最大6.0%低い。
特に目を引くのは、下半身の成長が止まっていたことだ。4-5歳の子どもで、上半身と下半身の比率が1.7に達していた。これは新生児に近いプロポーションである。つまり、飢餓は体全体を一律に縮めたのではなく、最も成長すべき部位の発達を選択的に止めた。成長のリズムそのものが歪められた、と言ってもいい。
長期の影響はさらに重い。書籍第8章のリディヤ・ホロシニナ(Lidiya Khoroshinina)は、包囲を子ども時代に経験した成人を戦後数十年にわたり追跡した。結果は、対照群より早い死亡(男性で1.3年、女性で1.8年)、そして特定の疾患の頻度上昇である。女性の2型糖尿病は対照群の9.2%に対し26.3%、つまり3倍近い。男性の複雑型冠動脈硬化は26.4%に対し37.1%だった。
ここで一つの仮説が浮かぶ。胎児期や幼少期の栄養不良が、成人後の病気のかかりやすさをあらかじめ決めてしまうという「バーカー仮説(Barker hypothesis)」だ。たとえるなら、家の基礎工事の段階で生じた歪みが、何十年も経ってから壁の亀裂として現れるようなものである。ただ、ホロシニナ自身は慎重で、虚血性心疾患では有意差が出なかったことも正直に認めている。単純な決定論には立たない姿勢だ。
注目すべきは、エピジェネティクス(後天的に遺伝子の働き方が変わる仕組み)という概念が登場するはるか前から、危機の世代継承が静かに観察されていたことである。
同じ構造は、第二次大戦末期のオランダでも記録された。1944-45年の冬、ナチス占領下のオランダ西部で人為的な飢餓が起きた。この「オランダ飢餓の冬研究(Dutch Hunger Winter Study)」は、胎児期に飢餓を経験した世代に心血管疾患・糖尿病・統合失調症の有病率上昇と、遺伝子発現の変化を実証してきた。レニングラードとオランダ。2つの独立した自然実験が、同じ結論に達している。
「日本でそんな極端な飢餓は起きないでしょ」と思う読者もいるだろう。もっともな反応だ。ただ、これは程度ではなく構造の問題である。日本の低出生体重児の比率はOECD諸国で最高水準にある。若年層の栄養状態は二極化しつつある。軽度でも長期の栄養ストレスが世代に影響を残しうるなら、レニングラードのデータは遠い過去の話ではない。
2. 記録は崩壊に抗う:極限下の知的活動の意味
遺体を踏み越えて
水も暖房もない解剖室で、病理学者たちは餓死者を解剖し続けた。書籍第6章のヴァディム・チルスキー(Vadim Chirsky)が描くのは、文字通り「遺体を踏み越えて」進む日常である。病理解剖率は1942年3月に20%、4月に約50%、6月にはほぼ100%へと上昇した。死者が増えたからではない。混乱のなかでも記録する体制が、徐々に立て直されていったからだ。
彼らが残したデータは具体的で容赦ない。栄養性ジストロフィー(極度の栄養失調による全身の萎縮)で死んだ人の心臓は174グラム、正常の330グラムのほぼ半分。肝臓は860グラムで、正常の1,800グラムから半分以下に縮んでいた。体が自らの組織を燃やして生き延びようとした痕跡である。
さらにチルスキーらは、合併症が時期によって移り変わることも突き止めた。最初は肺炎が83%を占め、次に赤痢が70%に達し、最後に結核と壊血病が現れた。
医学研究機関も動き続けた。レニングラード輸血研究所は、飢餓状態の人の血液を生化学的に分析し、1941年12月から1942年3月までに約2,000件の血漿分析を行った。保存容器が足りず、ワインボトルが流用された。研究所のフィラトフ(A. N. Filatov)は抗ショック溶液を開発している。前編で触れた精神神経学の医師は「活動的な状態を保つことが生存に重要だ」と説いた。研究すること自体が、研究者を生かしていた。
なぜ彼らは、餓えながら顕微鏡を覗き続けたのか。理由は二つある。記録する行為そのものが生きる目的となり、生理的な崩壊を遅らせたこと。これは前編で論じた「生きる意志」の延長線上にある。
もう一つは、より射程の長い理由だ。記録が残ったからこそ、80年後の現代がこのデータから学べる。再栄養症候群(飢えた体に急に栄養を与えると害になる現象)の知見は、今日の災害医療を支えている。記録とは、時間を超えて崩壊に抗う行為である。
ところが、話はここで終わらない。包囲の長期的影響を追うはずだった研究は、戦後の1946-48年に計画から「消失」した。冷戦下で研究資源が放射線研究へ移されたという事情もある。だが、それだけだろうか。記録は、後世が過去を裁くための証拠にもなる。誰が、なぜ、これだけの死を防げなかったのか。その問いを呼び起こす記録は、権力にとって都合が悪い。知の継続が断ち切られるとき、そこには別の力学が働いている。
3. 飢餓のなかで、人は何を守ったか:犯罪の段階性と道徳の頑健性
彼らに馬具をつけて畑を耕させられるほどだ
包囲下の犯罪は、ある日突然爆発したわけではない。飢餓の進行に合わせて、段階的に姿を変えていった。書籍第9章のボリス・ベロゼロフ(Boris Belozerov)が描く犯罪の変遷は、一つの臨床経過のように読める。
3.1 犯罪は段階を追って姿を変えた
第1段階は、包囲初期の1941年秋。配給カードの偽造や不正取得、軽微な窃盗が中心だった。まだ社会の枠組みは保たれている。
第2段階は、飢餓が深刻化する1941年11月から12月。組織的な横領、闇市場、投機が広がる。食料を扱う立場の者による着服が目立ち始めた。冒頭のエピグラフ、食堂職員が太っていて「馬具をつけて畑を耕させられるほどだ」という労働者の皮肉は、この格差を突いている。
第3段階は、飢餓がピークに迫る1941年12月から1942年1月。武装強盗が現れ、パンを運ぶ車両が襲撃された。
第4段階、飢餓のピークである1942年1月から2月。カニバリズムが出現する。
冒頭で挙げた数字を、ここで改めて見てほしい。容疑者は1941年12月に26人、1942年1月に366人、2月前半に494人。この曲線は、同じ時期の死亡曲線とぴたりと重なる。
重要なのは、犯罪が現れるタイミングが、個人の性格や民度ではなく、飢餓の生理学的な深度に対応していたことである。深度が深まるにつれて、窃盗から組織的横領、強盗、そして最終的にカニバリズムへと、決まった順序で犯罪の形態が推移していった。ただし、ここで言えるのはあくまで出現の「タイミング」であって、「規模」ではない。どれだけの人が滑り落ちたのか。それは、次に見るように、まったく別の話である。
3.2 飢えても、ほとんどの人間は一線を守った
では、犯罪はどのように収束したのか。教化や道徳的覚醒によってではない。1943年、ラドガ湖経由の食料供給が安定すると、武装強盗は前年の10分の1に減少した。カニバリズムの記録は消えた。食料が戻ると、犯罪は引いていった。犯罪が現れ、消えるタイミングは、確かに飢餓の深度に対応している。
だが、ここで相対値の罠に注意したい。曲線が一致するという事実は、犯罪の「規模」については何も語っていない。規模を見れば、まったく別の物語が立ち上がる。飢餓ピーク時の市内人口をおよそ200万〜250万人とすれば、全包囲期間の軍事法廷有罪15,193人は人口の1%にも満たない。
カニバリズムの容疑者886人に至っては、0.04%、つまり2,500人に1人以下である。極限の禁忌を踏み越えた者は、やはりごく一部だった。この数字は絶対値として小さく、社会的頑健性の高さを示している。
だが、窃盗や横領の数字を同じようには読めない。国家防衛委員会令第1379C号(1942年3月3日)は、食料窃盗を執行猶予なしの死刑に定めた。盗めば死である。15,193人という軍事法廷有罪は、摘発され裁かれた者の数であって、盗まなかった者の数を直接示すものではない。死刑という極限の威嚇が、どれだけの行動を抑え込んだのか、記録は語らない。低い犯罪数を、そのまま道徳の頑健性の証拠として読むことはできない。
もっとも、威嚇の効果を過大に見積もるのも誤りだろう。1942年だけで52万人が餓死していくなかで、いずれ飢えて死ぬ者にとって、死刑という脅しがどれほどの抑止力を持ちえたかは疑わしい。死がすでに目前にある者を、別の死で脅すことの効果は限られる。低い犯罪数の背後では、国家の威嚇と人々自身の自制が分かちがたく絡んでおり、どちらがどれだけ効いたかを記録から切り分けることはできない。
仮に、記録に残らなかった犯罪が実際にはこの10倍あったとしよう。それでもカニバリズムは人口の0.4%、犯罪全体でも数%にとどまる。暗数を10倍に見積もっても、規模の結論は動かない。摘発の有無を超えて、犯罪に走った者はやはり少数だった。
読み取るべきは、二つの事実が共存するという構造である。飢餓はたしかに一部の人間を犯罪へ追い込む。だが、その一部はごく薄く、大多数は最後まで一線を越えなかった。
3.3 二つの通念を、同じ数字が退ける
ここまで来ると、日本で語られる二つの通念を、同時に検証できる。
一つは、「飢餓に追い込まれれば、多くの人が犯罪に走る」という見方だ。だが、レニングラードの数字はこれを支えない。犯罪率が平時の何倍になろうと、暗数がどれだけあろうと、犯罪に走るのは人口のごく一部にとどまる。多数派は、飢えてもそのまま死を選ぶ。日本の国民性を踏まえれば、その傾向はむしろ強く出る可能性が高い。
飢餓が起きたとき、最も起こりそうなのは略奪の蔓延ではなく、多くの人々が静かに栄養失調で亡くなっていく光景である。
もう一つは、「日本人は秩序正しいから、危機でも略奪は起きない」という見方だ。確かに、東日本大震災で略奪がほとんど報告されなかったことは、世界的に称賛された。だが、秩序を保ったのは日本人が特別だからではない。レニングラードの市民も、前編で触れたサラエヴォの市民も、極限の飢餓のなかで大多数が一線を守った。
秩序の頑健性は、特定の国民性ではなく、人間そのものに備わっている。一方で、その頑健性も万能ではない。飢餓が一定の深度を超えれば、ごく一部は越える。「日本人だから絶対に大丈夫」という慢心も、また根拠を欠く。
つまり、両方の通念が、同じ数字によって退けられる。「多くが犯罪に走る」も誇張であり、「日本人だけは別格」も思い込みである。正しくは、人間は極限でも、大多数が一線を越えない。ただしその秩序は、人々の自制だけで保たれたのではなく、死刑をはじめとする国家の威嚇とも分かちがたい。
秩序は、人々の自制だけでなく、国家暴力によっても維持された。そして危機下では、平時には許されない強権的措置が「非常事態」の名で正当化される。皮肉なことに、人々が自ら一線を守っているときほど、国家は厳罰を見せつける。食糧危機は、社会秩序の問題であると同時に、統治形態の問題でもある。
4. 鏡を見終えた後に:レニングラードが日本に残す宿題
時限爆弾
逆説から始めたい。飢えた都市が残した最も価値あるものは、皮肉にも飢餓そのものの記録だった。80万から150万の死は取り返しがつかない。だが、その死を記録し続けた病理学者と研究者がいたからこそ、現代の私たちはこのデータから学べる。惨事は、記録されてはじめて未来への教訓に変わる。記録されない惨事は、ただ繰り返されるだけだ。
後編で見てきた三つの事実を、改めて並べてみる。子どもの身体に刻まれた痕跡は数十年後に表面化した。極限下で続けられた記録は崩壊に抗い、時間を超えて届いた。そして道徳は、飢餓という生理学的条件の従属変数だった。これらはいずれも、前編の最後に置いた「危機は終わってから始まる」という視座を裏づけている。
日本の脆弱性は、数字の上で明らかだ。食料自給率は37%、窒素肥料の原料はほぼ全量が輸入、人口は都市に集中し、地域の紐帯は薄い。エピグラフに掲げた「時限爆弾」は、栄養性ジストロフィーが遅れて致命的になる病態を指した言葉だが、この脆弱性そのものにも当てはまる。今は静かだが、いつ作動するか分からない。
しかも、現代の飢餓は必ずしも空腹の顔をしていない。レニングラードの飢えは、痩せ細った身体として目に見えた。これに対し、先進国で進行するのは「隠れた飢餓(hidden hunger:カロリーは足りているのに微量栄養素が欠乏する状態)」である。超加工食品(UPF:家庭の台所には存在しない原材料を含み、工業的工程で製造された食品様物質)が食卓を占めるほど、エネルギーは過剰でありながら、身体が必要とする栄養は痩せていく。
では、何をすべきか。ここで安易な処方箋を並べるつもりはない。既存システムの外に、自律的なネットワークを横へ構築していくという方向性には、確かに意義がある。だが、その図式はこれまで繰り返し論じてきたし、ここで再展開しても新しいものは生まれない。
代わりに、レニングラードが残した三つの宿題を、そのまま手渡したい。
第1に、記録すること。何が起きているかを書き留める行為は、後世への最も確実な贈り物であり、同時に権力が消したがるものでもある。
第2に、関係を編み直すこと。前編で見たように、生死を分けたのは個人の備蓄ではなく関係性の網だった。
第3に、人間への現実的な信頼を持つこと。極限の飢餓のなかでも、大多数は犯罪に走らずに死んでいった。その背後に国家の威嚇があったことを差し引いてもなお、この事実は、危機を考えるときの現実的な出発点になる。
ただし、その一線が崩れる二つの経路、つまり物理的な欠乏と情報の混乱からは、目を離さないこと。慢心は危険だが、絶望もまた、データに反している。
民俗学者の柳田國男(1875-1962)は、歴史に名を残さない無数の人々を「常民(じょうみん)」と呼んだ。飢饉や災害を生き延びてきたのは、英雄ではなく、こうした名もなき多数だった。
彼らが何を蓄え、誰と支え合い、どう記録を伝えたか。レニングラードの872日が問いかけるのは、結局のところ、私たち自身がどの常民でありうるか、という問いである。
鏡を見終えた後に残るのは、解決策ではなく、宿題だ。その重さを引き受けるところから、すべては始まる。
参考資料
ジョン・バーバー、アンドレイ・ジェニケヴィチ編『包囲されたレニングラードの生と死、1941-44年:ロシアおよび東欧の歴史と社会研究』(原題:Life and Death in Besieged Leningrad, 1941-44: Studies in Russian and East European History and Society、Palgrave Macmillan、2005年)
デヴィッド・バーカーによる成人疾病の胎児期起源仮説(バーカー仮説)に関する一連の研究(1980年代以降)
オランダ飢餓の冬研究(Dutch Hunger Winter Study:1944-45年の飢餓を経験した世代の長期追跡コホート研究)
河合隼雄『影の現象学』(思索社、1976年)
中村哲『天、共に在り:アフガニスタン三十年の闘い』(NHK出版、2013年)
レベッカ・ソルニット『災害ユートピア:なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(原題:A Paradise Built in Hell: The Extraordinary Communities That Arise in Disaster、2009年/高月園子訳、亜紀書房、2010年)
柳田國男『先祖の話』(筑摩書房、1946年)
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