AI時代の創作倫理 |全四回予定 全文版<260531改稿>
昨年11月末に、わたしはAIでの音楽制作についての考察、推論、事実の確認、そして今後に向けての展望についての記事を一度したためた。
そして、その公開を見送った。
理由はいくつかある。当然ながら状況も、技術も、業界の動き方も変わっていく。それに伴い、配信プラットフォーム側の対応も変わる。それ以外にも、多くのことが議論され、そして変化していくだろう。ゆえに、こうした内容の文章は、すぐに時代遅れな、ズレた記述になってしまう。
だが、だからこそ、「この時点ではこういう状況であり、こう感じていた」と残していくことには意味があるように思う。公開はしないが、前回書いた全文もそのまま残してある。この記事もいずれ古くなるだろう。そのときにはまた、新しい状況と新しい心境で、何かを記したい気持ちが生まれているはずだ。
まず本記事では、自分自身の感覚が「どう変わったか」を軸に、AIをクリエイティブに使うことについて記していく。
生成AIという脅威
以前の私は、AIが生成する音楽に対してもっと強い恐怖と違和感、そして少しの嫌悪感を持っていた。
自分の役割を奪われるかもしれないという恐怖。
人間が作っていない音楽が当たり前に許容されることへの疑問。
生成ボタンひとつで音楽が出てくることへの抵抗。
それは、職業として音楽制作に携わる立場としては、おそらく自然な反応だったと思う。自分が時間をかけて身につけてきた技術や耳や判断が、ある日突然、生成ボタンひとつと同じ棚に並べられるかもしれない。その感覚に対して、何も思わうな、というほうが難しい。
もちろんその感情は完全に消えることはないと思う。
ただ、変わったのは、順序である。
ツールとしてのAI
今の私は、AIをかなり便利なツールとして受け入れている。音楽においての具体例を挙げれば、ちょっとしたアイディアのブレインストーミング。仮歌、スケッチのモックアップ、練習用トラック、パーソナライズされたBGM。使い道はさまざまで、実際に使ってみると、そこには面白さがあることにも気づく。
そして音楽以外では、もっと露骨にその便利さを感じている。
いまでは私は多くの調べごとやアイデアの具現化の助けをChatGPTに頼っている。
その信憑性、精度には賛否があるが、すくなくとも私が利用する範囲では、支障なく使えている(と、思っている)。
元来調べ物が好きなわたしには、日常的にふと浮かんだ疑問や、勉強したい興味のある事柄を、従来のWeb検索よりはるかに効率的に整理してくれるLLMの発達は、ひとつの革命だったと思う。
そんな中、ある日ふと、AIを使ったコーディング、いわゆるヴァイブコーディングを試してみると、従来自分では本来作れなかったはずのものが、目の前で形になっていく。その体験は率直に楽しかった。Webサイトのモックアップや、UIベースのエディタを使ったHP制作でも同じである。自分の中にあるイメージが、AIとのやりとりによって、少しずつ形になっていく。
もちろん、それで自分を「プログラマーだ」、とは思わない。Webデザイナーになったとも思わない。AIによって成果物らしきものを作れたことと、その職能を名乗れることは別だ、とは認識している。そのはずである。
しかし、名乗らなければ問題がない、というわけでもない。
AIが奪う仕事
AIで簡単なツールを作れてしまえば、そのぶん誰かに頼まない仕事は生まれる。AIとUIツールでWebサイトをある程度形にできてしまえば、誰かに発注しない作業は生まれる。
実際、こうしたAIを使った制作の楽しさについて話したとき、ある本業の人から、仕事がいよいよなくなっていくのを日々実感する、というようなことを言われたことがある。悪意はなかった。けれど、その言葉に、私は言葉を返すことができなかった。
音楽ではAIに仕事を奪われることを恐れていた自分が、別の領域ではAIによって誰かに頼まなくて済むことを楽しんでいた。その矛盾は、かなり痛かった。
AIに仕事を奪われることを恐れていた自分が、気づけばAIによって誰かの仕事を発注前に消す側にもなっていた。それが、無意識に人を傷つけることにもつながってしまう。この出来事は、自分にとっては非常にショッキングだった。
同時に、「ああそうか、音楽が出来ない人でも、音楽が作れると感じられたら、きっと楽しいんだろうな」ということが、ようやくはじめて想像できた。
このことを抜きにして、AIについて語るのは難しい。
便利で、速く、楽しく、自分では届かなかった場所へ手を伸ばせるようになる。だからこそ、人間がそれまで担っていた判断や仕事や時間は、いつのまにか省略されていく。
これは音楽に限った話ではない。
文章、画像、映像、コード、デザイン、音楽。AIによって生成されるコンテンツ全体に対して、私たちはすでにかなりの速度で慣れつつある。
便利なものに慣れると、人間は必ず何かを省略する。
調べること。考えること。試行錯誤すること。失敗すること。誰かに頼むこと。時間をかけて判断すること。
音楽において
今回は、あくまでわたしがいち音楽ラヴァーであり、音楽制作に従事する立場として、音楽を中心にして考えていきたいと思う。
社会における情報はもうとっくに飽和しているはずだ。
人生で何冊の本が読めるか。何本の映画が観られるか。仮に生きている時間を全部音楽を聴くことに費やしたって、「存在するすべての音楽」を聴くことは物理的に不可能だ。
それでも、作品は増え続ける。
「新しいものを続けることに、そもそもどこまで意味があるのか」という問いは、AI以前からすでに存在していたはずで、私も時々そう思う。
AIはその問いを新しく生んだのではない。
ただ、圧倒的に加速させた。
これまでも、それらは増え続けていた。だが、そこには、最低限の物理的な限界があった。
音楽でいえば、曲をつくる時間、レコーディングをする時間、ミックスする時間、書き出す時間。人間が関わる以上、どこかに労力、そして時間がかかっていた。
AIは、その作業のかなり多くを短縮することができる。
もちろん、それによって良いこともある。
アイデアをすぐ試せる。自分では作れないものを聴いてみることができる。音楽制作の入口に立てなかった人が、音楽的な遊びに触れられる。これはかなり大きな変化だと思う。
ただ、作業が短縮されるとき、そこには一緒に失われる感覚や作業がある。
参考にしたい曲を探す時間。
細かな変化を何度も聴き比べる時間。
うまくいかないまま弾き直す時間。
間違った方向へ進んで、戻ってくる時間。
自分の耳で「これは違う」と思う時間。
作業の中には、短縮してよいものもある。
だが、短縮することで失われる、「感覚の訓練」も混じっているのではないだろうか。
便利であること自体は、決して悪ではない。
だからこそ、AIには怖さがある。
正確には、AIそのものが怖いというより、AIによって楽をすることに慣れてしまう、その感覚に怖さがある、というのが正しいかもしれない。
本来なら時間をかけて聴き分けていたこと、調べていたこと、失敗して覚えていたこと、判断していたことを、いつのまにか忘れてしまうかもしれない。
聴き手側で言えば、AIによって生成された音楽に耳が慣れることによって、音楽が持つ身体性や文脈について興味を持たない人がより増える可能性もある。
もちろん、身体性があるから、文脈があるから高尚だ、などというつもりはない。だが、短尺・短命にエンタメが向かっていくほど、それはAIが得意とする領域に近づいていく。
将来的には、AI生成の音楽だけを大量に聴いて育つ子供が現れるかもしれない。そのとき、何を「自然な演奏」と感じるのか。あるいは、感じなくてもよいのか。人が作ったものと、区別はつくのか。そこには単純に興味がある。
作り手側に視点を移せば、楽な作業に慣れることによって失われるものは多い。
もちろん、すべての技術を守るべきだとは思わない。技術は常に変わってきた。手でやっていた作業が機械化されることもあれば、スタジオでしかできなかったことが自宅でできるようになることもある。それには恩恵もある。
しかし、そこには見極めが必要である。
省略してよい作業と、省略することで感覚そのものが失われる作業は違う。
事務的、実務的な領域なら、AIの存在は、かなりに助けになるだろう。クリエイティブな領域でも、案出し、壁打ち、モックアップ、仮素材としてなら十分に有用だと思う。
一方で、大半をAIのアイデアに任せ、それを人間がなぞるだけになると、話は変わる。それは制作補助というより、制作判断そのものを外部化している状態に近い。
否定と肯定
AIについて語るとき、議論はすぐに二分される。
AIは創作を破壊するのか。
新しい道具なのか。
人間の仕事は奪われるのか。
クオリティが高ければ良いのか。
権利的にクリーンなら問題ないのか。
けれど、その問いの立て方では、個人的にはまだ足りていないように思う。
個人で練習用のバックトラックを作ること。
自分のラフデモをAIに読み込ませて、アレンジの方向性を眺めること。
AIを使ってコードを書き、自分用の小さなツールを作ること。
AI生成物をほぼそのまま掲げて、自分をアーティストや専門職として名乗ること。
AI生成した楽曲を、ただ大量にストリーミングへ流し込むこと。
これらは、同じ「AI利用」ではない。
もちろん、それが「どこまでの範囲か」ということはそれぞれ変わるし、人によって許容範囲も違う。ゆえに、混ぜて語ることはできない。
AIを使ったから全部アウト、便利だから全部OK。どちらも適切な議論とは言い難いだろう。
また、少し悲観的に見れば、AIに置き換わっていない領域のうちには、単にAIのクオリティがまだ足りていないから置き換わらずにすんでいる、というものが、ないとも言い切れない。この速度の発達なら、充分にあり得る話だろう。
すでに置き換わったもの。
置き換わりつつあるもの。
まだ置き換わっていないが、将来的には置き換わるかもしれないもの。
そう並べてしまえば、極論、人間の仕事は、AIの性能向上を待っているだけの領域にも見えてきてしまう。
だとすれば、AIを使うか使わないかは、最初から技術の問題だけではない。
それは、何をAIに任せ、何を人間に残したいのかという、態度の問題でもある。
AIがまだできないから人間に価値がある、では弱い。
AIができるようになっても、それでも何を人間に残したいのか。
そこから先が、創作倫理なのだと思う。
ただし、AIの発展も魔法のように無限に伸びていくわけではない。AIはソフトウェアのように見えるが、実際には膨大な計算資源、半導体、メモリ、ストレージ、電力、冷却、データセンター、そして資本によって支えられている。
この制約がどこで天井になるのかはわからない。小型モデル、専用チップ、オンデバイス化、運用効率化によって別の方向に進む可能性もある。
重要なのは、AIを魔法のように無限に広がるものとして見ないことだ。AIにも資源があり、コストがあり、物理的な制約がある。
この連載においては、AIについて、単純な賛否を語るのではなく、そうした複合的な要素を念頭におき、さまざまな角度から考えたい。
AIが創作の入口を増やすこと。
AIがオリジナリティの問いを露出させること。
AIによって人に頼むことが「あえて選ぶこと」になっていくこと。
AIに夢中になることで、自分の判断や時間がどう変わるのかということ。
それらを通して考えたいのは、AIを使うかどうかではなく、AIによって省略されるものの中に何を残すべきか、ということだ。
私の中で、AIへの肯定と抵抗は別々に存在しているわけではない。
むしろ、肯定しているからこそ抵抗がある。
もしAIが明らかに使い物にならないものなら、ここまで考える必要はなかった。しかし実際には、AIは便利で、面白く、かなり使える。だからこそ、それが当たり前になったあとに、人間の側で何が省略され、何が鈍っていくのかが気になる。
AIは、使えないから怖いのではない。
使えてしまうから怖い。
その怖さを、まずは認めるところから始めたい。
最後までお読みいただきありがとうございました。
AI創作倫理|2. AIは答えではなく、仮説を出す
昨年11月末に、AIでの音楽制作についての考察、推論、事実の確認、そして今後に向けての展望についての長い記事を一度したためた。
そして、公開を見送った。
理由はいくつかある。当然ながら状況も、技術も、業界の動き方も変わっていく。それに伴い、配信プラットフォーム側の対応も変わる。それ以外にも、多くのことが議論され、そして変化していくだろう。ゆえに、こうした内容の文章は、すぐに時代遅れな、ズレた記述になってしまう。
だが、だからこそ、「この時点ではこういう状況であり、こう感じていた」と残していくことには意味があるように思う。この記事もいずれ古くなるだろう。そのときにはまた、新しい状況と新しい心境で、何かを記したい気持ちが生まれているはずだ。
前回は、AIに対する自分の感覚がどう変わったのかについて書いた。
AIについて考えるとき、感情的な否定も肯定も適切ではない、と述べた。
かつては恐怖や違和感の方が強かったが、実際に使ってみると、その便利さや面白さを無視することはできなかった。
今回は、AIを補助として使うことの肯定的な側面について考えたい。
AIは、人間の代わりに完成品を作る機械である以前に、創作に触る入口を増やす道具でもある。少なくとも私は、そう感じるようになった。
創作の入口として
AIは、人間の代わりに完成品を作る機械である以前に、創作に触る入口を増やす道具でもある。
ここでまず肯定しておきたいのは、AIには誰も困らない使い道もたくさんある、ということだ。
AIの使い道が、すべて誰かの仕事を省略するものだとは思わない。むしろ、今まで誰にも頼めなかったもの、頼むほどの予算も規模もなかったもの、自分の中では必要だったが形にする手段がなかったものが、AIによって初めて生まれることもあるはずだ。
それは誰かの仕事を奪うというより、これまで存在しなかった小さな道具や、個人的な補助線を増やすことに近い。
専門家に頼むほどではない。予算もない。だが、自分にとっては確かに必要だったもの。
AIは、そういう「仕事未満」の欲求を形にする。
自分用の小さな管理ツール。
一日だけ使う資料。
頭の中のアイデアを整理するための仮図。
誰かに説明する前のモックアップ。
まだ作品未満のデモ。
公開するほどではないけれど、自分には必要な文章。
これらは、今までなら存在しないまま消えていたかもしれない。
AIは、そうした個人利用の目的の多くを担うことができる。
音楽で言えば、楽器プレイヤーが練習用のバックトラックを作る用途は、良いのではないかと思う。もちろん人間のグルーヴと合わせて練習するに越したことはないが、多様なバッキングトラックで演奏を試せることには、楽しみもあるだろう。
現在も、無料で公開されているバッキングトラックも数多く存在するは、より自分の目的に合わせて生成できる。それは作品を名乗るための行為ではなく、自分の演奏を鍛えるための環境作りである。
自分用のBGMや、パーソナライズされたラジオ曲のようなものも同じだ。音楽は、主体的に聴き入るための娯楽であると同時に、空間を彩るテクスチャでもある。
「音楽そのもの」ではなく、「音が鳴っている環境」だけを求めている状況は確かにある。
作業中、散歩中、移動中、店内、部屋で何となく過ごす時間。そこでは、誰が作ったか、どんな制作背景があるか、どれほどの演奏技術があるかよりも、空間にちょうどよく鳴っていることが優先される。
そうした場面においてAI音楽が利用されていることを、いきなり文化の破壊と呼ぶのは少し粗いと思う。
むしろ、そういう使い方にはかなり可能性がある。自分の気分や用途に合わせて、存在しないラジオ局を作るようなものだ。真剣に作品として向き合う音楽とは違うが、音楽的な環境を自分用に調整する道具としては、かなり自然に見える。
制作補助としても使える。
自分のラフなデモをもとに、アレンジの方向性を一度眺める。
仮歌を作る。仮想コライトのように別の角度からアイデアを出してもらう。
作りたい音楽の条件をプロンプトにして、参考用の音楽を生成する。
これは、AIに曲を作らせるというより、「リファレンス曲を掘りに行く」感覚に近い。
従来の制作でも、参考になる曲を探し、聴き込み、イメージを膨らませるのは当たり前のプロセスだ。ただ、どれだけ探してもドンピシャの参考曲が見つからないことはある。
たとえば、テンポはこのくらいで、ビートはハウスやガレージの速いものに近い。けれどウワモノは渋谷系的で、ギターや鍵盤の質感はもっとポップで、でも全体は過剰な情報量にはしたくない…そういう複数の条件を持った参考曲は、探そうとすると意外と見つからないことも多い。
「もし存在するならこういう曲を参考にしたい」という条件でAIに生成を試すことはできる。
重要なのは、その曲の構成やメロディをそのまま使うことではない。それでは単なる盗用になってしまうからだ。
そうではなく、ここでポイントになるのは自分が探そうとしていた方向の輪郭を、一度聴いてみることだ。
言わずもがな、どんなマスターピースを参考にしても、誰もがマスターピースを作れるわけではない。経験のあるクリエイターであれば、日頃から多様な音楽を参考にしているはずで、「何からインスピレーションを得たか」そのものは本質ではないようにも思う。
AIに向けてプロンプトを書く行為そのものにも意味がある。
どういうテンポで、どういう楽器で、どういうグルーヴで、どういう温度感で、何を避けたいのか。AIに説明しようとすると、普段は感覚で済ませていることを言葉にしなければならない。
プロンプトを書くことは、自分の音楽性を定義することでもある。
思い返せば、従来の音楽制作でも、作り手が方向性として定義すること、それを伝えることは、AIにプロンプトを入力する行為と、非常に近い。
「BPMは130くらいで…そうだな。ロック。でも、ロックなんだけどハードすぎない方がいいな。
夏の曲だから明るいコードを使いたいな。キーはDにしよう。
サビではシンセサイザーやストリングスを使って、広がる感じや清涼感を出したいな。
コーラスやハーモニーを積むのも良いだろう。」
そういった"楽曲の設計図"のようなものを描きながら、あるいは共有しながら音楽はつくられる。
ただ、それは感覚的な部分も多く、文字列としては明示されていなかったかもしれない。
プロンプトを書くという「行為」が産まれたことで、はじめてそれに気付いたという人もいるのかもしれない。
自分のメロディやアレンジの骨格をAIに渡し、仮にアレンジさせて聴いていると、普通に「いいじゃん」と思う瞬間がある。
もちろん、それをそのまま完成品にすることとは話が違う。
この場合は、最終的には自分ですべてやり直すことが前提である。
ただ、アレンジの初期段階において一番必要なのは、細部の完成度ではなく、ゴールを決めることだったりする。
「なんとなく、こういう感じかもしれない」
という仮の完成像が見えること。
それがあるだけで、かなりの制作のインスピレーションになる。
頭の中にはすでに正解が思い描けていたとしてま、作り始めの段階、あるいは途中の段階では、そのギャップが生まれ、曲がよいと思えなくなってしまうことも正直多い。
AIが作るモックアップは、そのゴールの仮像を一度見せてくれる。
それは、少なくとも私にとっては、完成品ではない。
しかし、制作の初期段階で「この曲はこういう方向に行けるかもしれない」と思わせてくれる参照物としては、かなり有用である。
AIが見せてくれるのは答えではなく、仮説だといっても良いかもしれない。
その仮説を受け入れるのか、否定するのか、別の方向へ行くのか。
最後に判断するのは、やはり人間である。
AIへの抵抗が以前より薄れた理由には、もうひとつある。
音楽は、形にならなければ止まってしまうからだ。
毎日音楽を作っていると、ひとつの曲を形にするのにどれだけ時間がかかるか、どの工程がどれだけ大変かが嫌というほどわかる。良いメロディがあっても、適切なアレンジがされていなければ良く聴こえない。頭の中では鳴っていても、デモにできなければ他人には伝わらない。
本当は良い曲のはずなのに、ラフな弾き語りや粗いデモのまま止まっているものはたくさんある。
それは、単に作り手の怠慢という話ではない。時間、技術、体力、環境、予算、他人に頼むハードル。音楽が形になるまでには、いくつもの関門がある。
その関門を越えるための補助としてAIが使えるなら、それはかなり大きい。
AIによって、止まっていた音楽が一度動き出す。
10年前に、自分のスキルが足りず、良いと思えていなかったデモ。それが、「今なら、良くできるかも」そういう風にインスピレーションを与えてくれる力が出力物にはある。
まだ完成品ではないとしても、進むべき道はわかる。
そこに価値がないとは思えない。
良いアウトプットのためにどんな手段を使ってでもインスピレーションを得る、気持ちは、音楽制作においてかなり大切だと思う。
ただし、それは手抜きとは違う。
手抜きとは、AIを使うことそのものではない。
AIが出したものを、自分で判断しないまま完成品として扱うことにあると思う。
逆に、AIを使ってでも曲を前に進め、そこから人間が判断し、直し、選び、仕上げるなら、それは制作の一部として十分に意味がある、と自分は感じるようになった。
もちろん、人によっては、その使い方にすら抵抗があるだろう。
自分が何時間も、何日も悩んで、うまく形にできなかったアレンジを、AIが数秒でそれっぽく出してくる。
それを聴いて「便利だ」と思う人もいれば、「自分が苦労していたものは何だったのか」と感じる人もいるはずだ。
その不愉快さは、よくわかる。
これを参考にしてしまっていいのか。
これで曲が前に進むなら、自分がやる意味は何なのか。
そう感じることは、決して不自然ではない。
AIへの抵抗は、単に「新しい技術が嫌い」という話ではない。
自分の時間、自分の試行錯誤、自分の失敗、自分の修練が、数秒の生成物と比較されてしまうことへの抵抗でもある。
そこにある痛みを無視して、「便利なんだから使えばいい」と言ってしまうのは、少し乱暴だと思う。
現状のAI音源を完成品として信用できるかというと、そこにはまだ疑問がある。これは「なんとなくAIっぽいから嫌い」という話ではない。音源として聴いたときに、生成物特有のヌルヌルとした質感がある。
低ビットレートの音源に似た高域のロス、圧縮された音源のような不明瞭さ、タイムストレッチやピッチチェンジを行ったときのようなアーティファクト、トランジェントの均一さ、全体にモヤのかかった質感。
また、AIはジャンルらしさの平均的な輪郭を出すのはかなり上手いが、その曲だけに必要な偏り、引き算、余白、音の奥行き、歌との距離感を作るところではまだ弱いように感じる。
R&Bやジャズ、あるいは音数の少ないポップスでは、「鳴っていないこと」そのものが音楽的な意味を持つ。フィルを入れない、ハイハットを刻まない、ベースを動かさない、という判断によって歌やグルーヴが成立することがある。
しかし現状のAI出力物は、本来なら空いていてほしい場所にも、フレーズや音を埋めてしまう傾向にある気がする。それはおそらく、学習において音が鳴っていない箇所は「データが存在しない箇所」として認識されてしまい、「無音」というデータを持つことが難しいという技術的な部分があるのではないかと推測する。
これは、プロの制作現場で音を扱っている人間ほど気になりやすい部分かもしれない。一般のリスナーには大きな問題にならないこともあるだろう。だが、完成品として流通させるなら、この違和感を無視することはできない。
つまり、AIは入口としてはかなり有用だ。
ただし、完成品として信用できるかどうかは別である。
AIを使っていると、結局のところ、こちらがどれだけ情報を与えられるかがかなり重要になる。
適切な情報を与えることを繰り返し、ダメなところはダメだと言い、足りない情報があれば追加する。曖昧だった条件を言語化する。
そこまでやって、ようやく自分の考えていることに近づいていく感覚がある。
これは単に「プロンプトの上手い、下手」という話ではない。むしろ、アシスタントを育てることや、外注先に要件を正しく伝えること、クライアントと認識をすり合わせることに近い。
何が欲しいのか。何が違うのか。どこまでは許容できて、どこからは違うのか。参考にすべきものは何で、避けるべきものは何か。
それを伝える能力が、そのままAIを使う能力になる。
AIを使って「全然ダメだ」と感じる場合、その原因がモデル側にあることももちろんある。実際、現状のAIには明確な限界がある。ただ一方で、使う側が十分な情報を与えられていない、何がダメなのかを具体的に言語化できていない、修正の方向を示せていない、という場合もあるのではないかと思う。
その意味で、AIを使うことは、こちらの言語化能力や資料準備能力をかなり問う。
AIに仕事をさせるには、まず自分の脳に仕事をさせなければならない。
ただし、ここにも罠がある。
AIを使うことは、必ずしも楽をすることではない。
適切な情報を与え、資料を用意し、何度も修正し、ダメなところを指摘し、自分の意図に近づけていく。その過程は、かなり重い。
そこまでやるならもはや「自分でやった方が早い」場面もあるだろう。
あるいは、専門家に頼めば一瞬でもっと良いクオリティで返ってきたかもしれない場面もある。
それでもAIを使い続けてしまうのは、生成や応答そのものが気持ちよくなってしまう、その特性からかもしれない。
休みなくすぐに応答がある。何度でも試せる。
少しずつ良くなっている"気が"する。自分の脳が拡張されているように感じる。
その感覚に夢中になっているうちに、実は遠回りしていることには、気づけない。
AIは人間を怠けさせるだけではない。
AIは、人間を過剰に試行させることもある。
だから、AIを使う能力には、「使わない」判断も含まれる。
自分でやる方が早いのか。
AIに仮説を出させるのが良いのか。
専門家に頼むべきなのか。
その見極めもまた、人間の側に残る仕事である。
AIをうまく使う能力は、人に頼む能力ともかなり近い。
要件を整理する。資料を用意する。違うものは違うと言う。良いものは良いと判断する。
それは、外注先や共同制作者に対しても必要な能力である。
もしAIとのやりとりによって、自分の意図を伝える力が鍛えられるなら、それは人と作ることの質を上げる可能性もある。
AIが見せてくれるのは答えではなく、仮説である。
そして、その仮説をどう扱うかに、人間の仕事が残る。
AI創作倫理|3. AIはオリジナリティの問いを露出させた
昨年11月末に、AIでの音楽制作についての考察、推論、事実の確認、そして今後に向けての展望についての記事を一度したためた。
そして、今回の記事としては破棄した。
理由はいくつかある。当然ながら状況も、技術も、業界の動き方も変わっていく。それに伴い、配信プラットフォーム側の対応も変わる。それ以外にも、多くのことが議論され、そして変化していくだろう。ゆえに、こうした内容の文章は、すぐに時代遅れな、ズレた記述になってしまう。
だが、だからこそ、「この時点ではこういう状況であり、こう感じていた」と残していくことには意味があるように思う。この記事もいずれ古くなるだろう。そのときにはまた、新しい状況と新しい心境で、何かを記したい気持ちが生まれているはずだ。
前回は、AIを補助として使うことについて書いた。
AIが見せてくれるのは、完成品というより仮説である。自分の中にある曖昧なイメージを一度外に出し、それを見ながら判断する。その使い方であれば、AIには大きな意味がある。
では、その仮説をもとに作られたものは、誰の作品なのか。
今回は、AIによって露出したオリジナリティの問題について考えたい。
オリジナリティを決めるもの
AI以前から、「そもそも何をもってオリジナリティなのか」という問いは存在していた。
ポップミュージックにおいて、完全にゼロから生まれるものなどほとんどない。誰もが、これまで聴いてきた音楽、触れてきた文化、好きだったメロディ、憧れた音色、身体に染み込んだリズムの影響を受けている。
メロディを作ることも、ゼロから何かを思いつくというより、人生で耳にしてきた膨大な音楽の中から、心地よい動きの断片を取捨選択し、再構築することに近い。
学習し、要素を細かく分解し、可能性を探索し、再構築し、出力する。
構造だけ見れば、人間の創作とAIの生成は似ている部分がある。
だからこそ、この問題はややこしい。
人間も何かを参照し、影響を受け、模倣し、組み替えている。にもかかわらず、それがAIに置き換わった瞬間、急に「それはズルだ」「それは嘘だ」「自分で作っていない」という感覚が生まれる。
その感覚は、単なる保守反応として片付けられない。
しかし一方で、「人間もAIも結局同じようなものだ」と言い切ることもできない。
見極めるべきなのは、どこが同じで、どこが違うのかだと思う。
人間の創作にも模倣や再構成はある。
しかしそこには、時間、身体、記憶、失敗、好み、恥ずかしさ、判断、責任が介在している。何を選び、何を捨て、どこで止めるのか。その判断の集積を、私たちはひとまず「その人の作品」と呼んできた。
AI生成においても、プロンプトを書く人間の判断はある。出力を選ぶ判断もある。だが、その判断がどの程度作品の核を担っているのか、どこからが単なる発注行為で、どこからが創作と呼べるのかは、かなり曖昧になる。
つまり、AIによって新しく生まれたのは、「オリジナリティとは何か」という問いそのものではない。
その問いが、より露骨に、より逃げられない形で突きつけられるようになったということなのだと思う。
さらに言えば、AIは基本的に学習に基づいて出力する。
だから、学習していないもの、新しい発想、既存の組み合わせから大きく外れたものを、何の指示もなしに出すことはかなり難しいのではないかと思う。
人間もまた、過去に聴いたもの、見たもの、触れてきた文化から逃れられない。だが、人間の模倣は完璧ではない。記憶違い、身体の癖、技術の限界、誤解、好み、環境、偶然。そうしたズレによって、本人が意識しないままオリジナリティのようなものが生まれることがある。
AIの場合、解像度の低い指示を与えれば、どうしても学習元の平均値に寄ったものが出やすい。「〇〇を△△風に」程度のものでは、薄めた二番煎じのようなものになる可能性が高い。
ただし、これはAIが常に凡庸だという意味ではない。
ありえない条件を与える。通常なら結びつけないジャンルや制約を組み合わせる。人間が手癖では選ばない方向へ無理に振る。そうした使い方をすれば、AIは単なる平均値生成ではなく、発想の外側を試す装置にもなり得る。
つまり、AIにオリジナリティがあるかどうかというより、AIに何を試させるのかが重要になる。
AIは自動的に新しいものを生む魔法ではない。だが、人間が与える条件次第で、人間だけでは試しにくい組み合わせを探索する道具にはなる。
AIは自動的にオリジナリティを出す装置ではない。
オリジナリティが出るとすれば、多くの場合、人間が与える問いの奇妙さに由来する。
ここで、「AIを使いこなす」という問題が出てくる。
AIは誰でも使える。
しかし、誰でも上手く使えるわけではない。
これは音楽だけの話ではない。文章でも、画像でも、映像でも同じだと思う。AIはそれっぽいものを非常に速く返してくる。その速さは便利だが、同時に危うい。
間違った情報が、「それっぽさ」によって事実のように見える。
不自然な画像が、「それっぽさ」によって成立しているように見える。
音楽が、「それっぽさ」によって完成品に見える。
AIは入口を開く。
それ自体は歓迎されてよいだろう。
ただし、入口が開かれることと、出てきたものを完成品として判断できることは別である。
ここで言いたいのは、知識がある人間の方が偉い、という話ではない。むしろAIの良さは、知識や技術が十分でない人にも入口を開くことにある。
楽器が弾けない人が音楽的なアイデアを試したり、絵が描けない人が視覚イメージを作ったり、文章を書くのが苦手な人が考えを整理したりできる。そのこと自体は、かなり肯定的に見ている。
ただし、知識は優越のためではなく、自分が何を知らないのかを知るためにある。
AIを使いこなすというのは、何でも自分で作れるようになることではない。出力されたものを見て、どこが使えて、どこが怪しくて、どこは専門家に委ねるべきなのかを判断できるようになることだ。
使いこなすとは、プロンプトを書くことだけではない。
出力を信用しすぎないことでもある。
音楽で言えば、「R&Bっぽい」ものが出てきたとして、それが本当にR&Bのグルーヴや余白を持っているのか。
「ジャズっぽい」ものが出てきたとして、それがただテンションコード風に濁っているだけなのか、実際に和声として機能しているのか。
生成された仮歌が自然に聴こえたとして、そのメロディが本当に歌いやすいのか、歌として強いのか。
そこを判断するには、結局、人間側に知識と耳が必要になる。
ただし、その知識は「知らない人を馬鹿にするためのもの」ではない。
知らないことを知るための足場である。
AIを使うために、全員が専門家になる必要はない。
ただ、専門家でない自分が何を判断できて、何を判断できないのかは知っておいた方がいい。
知識や経験が少ない場合、AIが出した結果を「洗練されていない」と判断しにくいことはあるのではないだろうか。
「それっぽさ」だけを是としてしまう。
個人の楽しみまでは、その段階でも別に大きな問題にはならないだろう。
問題は、それをそのまま作品として流通させ、さらに自分のアーティスト性や職能の証明として扱い始めるときだ。
個人で遊んでいる分には問題はない。SNSで「AIで曲を作ってみた、楽しい」と言う程度なら、それも音楽の入口として理解できる。
ただ、それを自分の作品として公開し、さらにアーティスト性や作家性の根拠として扱い始めると、かなり話が変わる。
抵抗を覚えるのは、素人がAIを使うことそのものではない。
判断を介在させないまま、完成品としてビジネスに接続してしまう態度である。
そういう態度に対しては、強い違和感を持たれても仕方がないと思う。
AIに関して強い拒否感を示す人の中には、そういったことが許せない、という意見の人もいるだろう。
生成できることと、完成を判断できることは違う。
さらに言えば、出力物を作れることと、職能を名乗れることも違う。
AIに任せた範囲を曖昧にしたまま名乗ることへの違和感は、単に「その創作物を本当に自分が作ったのか」という問題だけではない。
もっと大きいのは、その職能に付随する社会的な責任や判断プロセスを引き受けているのか、という問題である。
こうした態度に違和感があるのは、成果物の出来だけが問題なのではない。
判断、実務管理、相手とのやりとり、修正対応、権利意識、現場の力学といった構造を理解できているのかが見えづらいからだ。
職能とは、出力物を一つ作れることではない。
その出力物を、誰かの目的に合わせ、現場の中で成立させ、必要な責任を引き受けられることまで含んでいる。
これはAIに限った話ではない。
極端に言えば、楽器がうまいだけではミュージシャンにはなれない。
「良い音で、テクニックのある演奏ができる」ことは重要だ。むしろ前提かもしれない。
しかし現場には、それとは別の考え方がある。譜面や資料を送る・読むこと、ディレクターの意図を理解すること、他の演奏者の音を聴くこと、リハーサルでの振る舞い、修正に対応すること。
それ以外にも、場を円滑に進めることといったメンタル的な、コミュニケーション的な部分まである。
「いいやつだから仕事を頼みたい」っていうことは、冗談ではなく本当に存在する。
それらは、単に上手い演奏をすることとは別の職能である。
作曲も、デザインも、プログラミングも同じであろう。
作品を作れることと、その仕事を引き受けられることは違う。
ここで、「AIアーティスト」という言葉も整理しておきたい。
一口にAIアーティストと言っても、少なくとも二種類ある。
ひとつは、AIによって作られた架空のペルソナを、シンガーやアーティストに見立てるものだ。実在しない声、ビジュアル、プロフィールを持つAIシンガー、AIアイドル、AIペルソナ型アーティスト。
これは、従来のボーカロイド、バーチャルシンガー、キャラクターソング、架空バンドとも地続きの部分があり、AIであることが明示され、背後にプロデューサーや制作主体がいるなら、単純に否定できるものではない。
もうひとつは、AI生成物をほぼそのまま利用し、それを自分の創作成果として掲げ、自らをアーティストと名乗る人間である。
強い抵抗を覚えやすいのは、主に後者ではないだろうか。
問題は、架空のペルソナそのものではない。
AIに作らせたものを、自分の音楽的技術や作家性の成果として名乗る態度である。
AIは、オリジナリティの問題を新しく作ったのではない。
昔からあった問いを、逃げられない形で露出させた。
そして、その問いに対する答えは、AIを使うかどうかだけでは決まらない。
何を任せ、何を省略し、何を判断し、どう名乗るのか。
そこに制作の態度が出るのだと思う。
そしてその問いは、最終的には「人に頼むこと」「人と作ること」を、これからどう選ぶのかという問題にもつながっていく。
AI創作倫理|4. 人と作ること、2つの贅沢
昨年11月末に、AIでの音楽制作についての考察、推論、事実の確認、そして今後に向けての展望についての記事を一度したためた。
そして、今回の記事としては破棄した。
理由はいくつかある。当然ながら状況も、技術も、業界の動き方も変わっていく。それに伴い、配信プラットフォーム側の対応も変わる。それ以外にも、多くのことが議論され、そして変化していくだろう。ゆえに、こうした内容の文章は、すぐに時代遅れな、ズレた記述になってしまう。
だが、だからこそ、「この時点ではこういう状況であり、こう感じていた」と残していくことには意味があるように思う。この記事もいずれ古くなるだろう。そのときにはまた、新しい状況と新しい心境で、何かを記したい気持ちが生まれているはずだ。
ここまで、AIが創作にもたらす怖さ、補助としての可能性、そしてオリジナリティの問題について書いてきた。
AIは使えてしまう。しかも、かなり便利に使えてしまう。だからこそ、人間が担っていた仕事や判断や時間が、知らないうちに省略されていく。
今回は、AI時代に人と作ることの意味について考えたい。
人に頼むことは、これからより「あえて選ぶこと」になっていく。
「人」の存在
AIについて考えるとき、便利さやクオリティだけではなく、「人間が関わること」の位置づけがどう変わるのかも避けられない問題になる。
AIに対する嫌悪は、必ずしも出力物のクオリティだけに向けられているわけではない。
質や自然さといった評価軸とは別に、「そもそも何を学習して作られたのか」という不信感がある。既存の創作物や声や作風を、許諾なく学習したものなのではないか。
そのイメージがある限り、いくら出力物のクオリティが上がろうが、人間の判断が介在しようが、そもそも根底から受け入れられない人はいるだろう。
さらにもうひとつ、バックボーンが存在していないことそのものへの嫌悪もある。
誰かが生活の中で作ったわけではない。
何かを経験し、悩み、身体を使い、時間をかけてたどり着いたものではない。そう感じられるものに対して、作品以前の段階で距離を取りたくなる人はいるだろう。
これらは、クオリティとは別のレイヤーの話である。
もちろん、すべての作品に濃い背景や物語が必要だとは思わない。BGMとして、環境として、機能的に楽しむ場面では、誰が作ったかを気にしないこともある。
ただ、アーティストの作品として聴く場合には、音の背後にいる主体を無視できない人もいる。
人は音だけを聴くわけではない、実際には、「誰が、なぜ、どう鳴らしたのか」の情報に価値を感じる人は少なくないだろう。
クオリティが上がれば解決する問題と、クオリティが上がっても残る問題がある。
音質の不自然さ、不自然な歌唱、MIDI出力やステムの粗さ、アレンジの平均値感、ミックスの不明瞭さ。これらは、技術の進歩によって改善されていくかもしれない。
一方で、学習元への不信、背景のストーリー不在、AI出力を自分の作家性として名乗る問題、slop的な大量流通、人間の仕事が「あえて選ぶもの」になっていくこと。これらは、単にクオリティが上がれば解決する問題ではない。
学習ソースの問題も、その一つだ。
AI音楽生成サービスが何を学習しているのか、その学習元は権利的に正当なのか。これは当然重要な問題である。便利だから無条件に許されるわけではない。
この論点は訴訟、ライセンス、制度設計によって現在進行形で動いている。
当たり前だが業界側も、この問題を放置しているわけではない。Spotifyは2025年9月に、なりすまし対策、スパムフィルター、AI使用に関するクレジット表示の強化を発表している。 [※脚注と出典]
また、UMGとUdioは2025年10月に著作権侵害訴訟を和解し、ライセンス済み音楽を用いたAI音楽制作プラットフォームで協業すると発表した。WMGとSunoも2025年11月に提携を発表し、アーティストやソングライターの保護と補償を掲げている。 [※脚注と出典]
さらに2026年5月には、SpotifyとUniversal Music Groupが、参加アーティストの楽曲を対象にAIカバーやリミックスを作れる有料機能について合意したと報じられている。これは、AI音楽が単なる対立の対象から、ライセンスと収益化の枠組みに移り始めていることを示している。 [※脚注と出典]
ただし、ライセンスが済めばすべて解決するわけではない。
学習元がクリーンかどうかは最低条件であって、十分条件ではない。[※脚注と出典]
クリーンなAIでも、slopはslopになり得る。
ライセンス済みでも、アーティスト性の問題は消えない。
AI slopの問題は、単に「低品質な音楽が嫌だ」という話ではない。流通の問題であり、収益分配の問題であり、音楽を発見する体験の問題である。
人間が低品質な音源を作ることと、AIが低品質な音源を大量生成することは、同じではない。人間が趣味で作った音楽なら、生産速度には限界がある。生活も、技術習得も、録音も、書き出しも、何かしらの手間がかかる。
しかしAIは、ものの数時間でアルバムを何枚も作れてしまう。その速度で配信プラットフォームに流し込まれれば、それは作品というより単なるデータの貝塚であろう。
Deezerは2026年4月、AI生成トラックが新規アップロードの44%、1日あたり約75,000曲に達していると発表している。また、AI生成曲のタグ付け、レコメンドからの除外、ハイレゾ版保存の停止なども進めている。 [※脚注と出典]
このとき問題になるのは、音楽の中身だけではない。
プレイリストやランダム再生による音楽の発見体験を壊す。
検索性を悪化させる。
人間のアーティストを探しているリスナーの好奇心を濁らせる。
ストリーミングの限られた収益プールを汚す。
プラットフォームそのものの信用を下げる。
AI slopは、単なる音楽的な低品質の問題というより、流通環境を汚してしまう問題として捉えた方がよいのではないかと思う。
ここで、AIペルソナ型アーティストについても整理しておきたい。
実在しない歌手やキャラクターが歌うこと自体は、音楽文化にとって新しい話ではない。従来のボーカロイド、バーチャルシンガー、キャラクター音楽では、実在しない主体を立てながらも、背後には作曲家、作詞家、編曲家、ボーカルエディター、映像作家、CGチーム、ライブ演出、照明、音響など、多くの人間の営みが存在していた。
むしろ、そうした表現では「架空の存在を、どれだけ本気で成立させるか」自体が創作だった。バーチャルライブであれば、映像、照明、モーション、音響、同期技術のベンチマークでもあり、人間の工夫が可視化され、強化される場でもあった。
だから、架空であること自体が問題なのではない。
架空であることを成立させるための人間の営みが見えにくいことに、違和感が生まれているのではないだろうか。
AIペルソナ型アーティストを否定したいわけではない。
ただし、AIであることが明示され、背後のプロデューサーに音楽的な知識や責任があり、権利処理がクリーンで、人を騙さないことは最低条件になると思う。
さらに、大量生成された楽曲をカタログのように並べるだけなら、それはキャラクター表現というより、AI生成物の流通パッケージに近い。
ここで、もう少し広く制作現場の話に移りたい。
AIによって、どの仕事が減るのかを軽々しく断定するつもりはない。
仮歌、デモ制作、BGM、作詞、作編曲、ミックス。どの領域にも、それぞれ専門性と職業価値がある。
ただし、変化が起きるとすれば、特定の職能そのものが急に不要になるというより、「人に頼む前に、まずAIで試してみる」という発注前のプロセスが広がることではないかと思う。
以前なら誰かに相談したり、仮で依頼したり、ラフを作ってもらったりしていた場面で、まずAIに投げてみる。そこである程度形になってしまえば、外部に頼む理由は以前より強く問われる。
これは、その仕事の価値が低いという意味ではない。
むしろ逆で、AIで試せるものが増えるほど、人に頼むときには「なぜその人に頼むのか」がより明確に問われるようになる、ということだ。
AIに仕事を取られるなんて冗談じゃない、という感情は、実はAIそのものに向けられているわけではないのかもしれない。
AIは道具である。
本当に痛いのは、その道具を前にして「別にこれでいいじゃん」と判断する人間や市場の方だ。
自分が時間をかけて担ってきた仕事。
修練してきた技術。
失敗しながら身につけてきた判断。
人とやりとりしながら成立させてきた現場の力学。
それらが、ある日「AIでも十分」と見なされる。
そこにあるのは、単なる失業不安だけではない。自分の仕事に含まれていた価値を、相手がそもそも見ていなかったのではないか、という怒りである。
ただ、ここで考えておきたいのは、「別にAIでもいい」と思う態度は、AIによって突然生まれたものではないということだ。
人間に対しても、もともとそういう態度はあった。
安く済ませたい。早く終わらせたい。簡単でいい。そこまでこだわっていない。誰がやっても大きく変わらないと思っている。
AIは、その態度を新しく作ったというより、実行しやすくしたのだと思う。
以前なら、本当は価値を見ていなくても、人に頼むしかなかった。
しかしAIがあれば、人に頼まなくてもそれっぽいものが手に入る。
そのとき初めて、「その人に頼んでいた理由」が、実はその人の価値を認めていたからではなく、単に他に手段がなかったからだったのかもしれない、ということが見えてしまう。
AIは、人間の仕事を軽く見積もる態度を作ったのではない。
もともとあったその態度を、実行可能にしてしまった。
だから、敬意がないものはAIに置き換わる。
時間とお金は、敬意である。
これはAIに限った話ではない。
人に頼むなら、その人の時間を確保する。
その人の判断に対して対価を払う。
その人が積み重ねてきた経験や身体や現場感に、きちんとコストを用意する。
それは単なる支払いではなく、「あなたと作ることを大切にしている」という意思表示である。
逆に、安く叩く、早く終わらせようとする、相手の判断や準備や修正の時間を見積もらない、という態度は、AI以前から人間に対して行われてきた。
AIは、その態度を新しく作ったのではない。
ただ、それを実行しやすくしただけなのだと思う。
だから、敬意がないものはAIに置き換わる。
もともと相手の時間や判断を大切にしていなかった仕事ほど、「AIでいいじゃん」と言われやすくなる。
逆に、本当に大切にしていることに対しては、AIがどれだけ発達しても、人に頼む理由が残る。
なぜなら、それが大切だからだ。
大切な曲だから、あの人に弾いてほしい。
大切な作品だから、あの人に歌ってほしい。
大切なプロジェクトだから、一緒に考えてほしい。
大切な判断だから、信頼している人の耳を通したい。
人に頼むことは、単にAIでは足りない部分を補うことではない。
その人と作りたい、その人の時間と判断を通したい、という選択でもある。
AIで済ませられるものが増えるほど、人に頼むことは、その人が何を大切にしているかを示す行為になる。
人に頼むことは、あえて選ぶことになっていく。
これは、まったく新しい話ではない。
打ち込みやサンプル音源、ソフト音源、宅録環境の発達によって、生演奏や大きなスタジオ録音は、すでに「あれば理想だが、なくても成立させられる」ものになっている場面が多い。
オーケストラや大編成の録音はもちろん、小編成の生録音であっても、予算やスケジュールによっては簡単に選べるものではない。
ただし、それは音楽産業が単純に縮小しているという話ではない。制作手段が増え、低コストでも成立させられる選択肢が増えたということでもある。
もちろん、それによって生演奏の価値が消えたわけではない。
良いプレイヤーが入ることでしか出ないニュアンスやグルーヴは確実にある。
ただ、制作の選択肢が増えたことで、生演奏は常に当然の前提ではなく、予算や目的に応じて選ぶものになっている。
AIも、その延長線上にあるのかもしれない。
人間の作家、演奏者、歌い手、エンジニア、ディレクターに頼むことは消えない。
しかし、それはより「あえて選ぶこと」として意識されるようになる。
ここに、二つの贅沢がある。
人に頼むことは、コストとしての贅沢であり、体験としての贅沢でもある。
ひとつは、悪い意味での贅沢である。
AIでできることが増えれば増えるほど、人間を巻き込むことは、以前より過剰なコストとして見えやすくなる。「ぜいたく品」なんて言葉はあるが、「なんでわざわざコストをかけるんだ」という、好意的ではない意見も存在するだろう。
もうひとつは、良い意味での贅沢である。
人に頼むことは、同じ時間を過ごすことでもある。
同じ曲を良くするために、同じゴールへ向かって走ることでもある。
そこには、AIでは代替しにくい仲間意識や達成感がある。
そこで人と過ごした時間は、きっと「贅沢な時間」だろう、とわたしは考える。
ただ、AIによって一人でできることが増えるほど、人と作る時間は、より意識的に選ばれるものになっていくのだと思う。
AIで済ませられるからこそ、人に頼むことは余計になる。
しかし、AIで済ませられるからこそ、人に頼むことはより豊かにもなる。
この二律背反が、AI時代の「贅沢」なのだと思う。
そして、便利さの問題は、社会や権利だけではない。
使っている本人の内側にも起きる。
AIの怖さは、人間を怠惰にすることだけではない。
むしろ、人間を過剰に活動させることもある。
GPTと話し続ける。claudeで延々と実装を進める。Sunoで何度も曲を生成する。
それぞれは創作の補助であり、思考の拡張であり、たしかに便利な道具である。
しかし、すぐに応答が返ってきて、少しずつ良くなっているように感じられ、次の一手を試したくなる構造は、かなり強い刺激でもある。
気づけば一日中AIに張り付いている。
思考が進んでいるように感じる。
制作が前に進んでいるように感じる。
しかし実際には、生成や応答そのものに夢中になっているだけかもしれない。
AIは、時短の道具であると同時に、遠回りを気持ちよくしてしまう道具でもある。
AIを使っていると、自分の脳がブーストされているように感じる。
だが、ブーストされた脳が、必ずしも目的地に向かっているとは限らない。
応答が即時にある、その感覚があまりに気持ちよく、やめ時がわからなくなる。これは単なる便利さではなく、創作欲と射倖心を同時に刺激するものだと思う。
いわば、一種のドーパミンジャックのような状態である。
AIは使われていく。
便利だし、面白いし、当たり前になる。
ただし、楽しいからこそ危ない。
便利だからこそ、やめ時を失う。
自分の脳が拡張されているように感じるからこそ、実際には何が進んでいて、何がただ刺激として消費されているだけなのかを見失いやすい。
もちろん、この問題は音楽に限らない。
文章にも、画像にも、映像にも、コードにも、同じように「AIによって何が省略されるのか」という問いはある。
AI時代に残すべきものは、特定の工程そのものではないのかもしれない。
メロディも、歌詞も、アレンジも、ミックスも、演奏も、文脈によってはAIが関わり得る。
ただし、その工程が何を担っていたのか、何を省略しているのか、人間を使う理由は何なのかを忘れないこと。
AI時代の創作倫理とは、AIを「良しとするか、悪しとするか」のスタンスを決めることではない。
AIによって省略されるものの中に、何を残すべきかを考えることだ。
そして同時に、AIによって過剰に刺激される好奇心に、どこでストッパーをかけるかを考えることでもある。
AIはよい付き合い方をすれば、きっと助けになってくれる。
誰かの仕事を雑に省略するのではなく、今まで形にならなかったものを形にするためにも使われてほしい。
ただし、楽しく使っているその瞬間に、自分が今、何を代替、そして省略しているのかについては、忘れたくない。
それは誰かの仕事かもしれない。
誰かの時間かもしれない。
自身の判断かもしれない。
人と一緒に作ることで得られたはずの、達成感かもしれない。
やっぱり人っていいよね、という感覚は、これからも残るように思う。いや、残っていてくれなければ困る、と思う。
ただし、それは以前のように当たり前の前提ではなく、より意識的に選び取るものになっていくのだと思う。
…という文章を、私はかなりの部分AIに助けてもらいながら書いている。その事実そのものが、すでにAIによる手助けからは離れられない時代にいる、というオチでもある。
この文章は何割が自分の言葉で、それにどれだけの価値があるのか。それを決める役目だけは、やっぱり人間のままだ。
脚注
<<IEAはデータセンター向け電力需要が2024年の460TWhから2030年には1,000TWh超、2035年には1,300TWhへ伸びると見ており、AI普及が強いケースでは2035年に1,700TWhを超える可能性にも触れている。メモリやストレージについても、IDCは2026年のDRAM/NAND供給成長が歴史的水準を下回ると見ている。つまりAIの成長には、技術だけでなく資源とインフラの制約もある。 (引用に回す※ソース確認)>>
