bb3180d8 No.3085
「今日からお世話になります、水木亜里沙です。よろしくお願いします」
鏡に向かって、何度も練習した裏声に近いソプラノで挨拶をする。
目の前に広がる光景は、数ヶ月前までの自分には想像もできないものだった。
淡い水色のチェックのエプロンを締め、長い黒髪を揺らす。
鏡の中にいるのは、どこからどう見ても清楚な女性保育士だ。
あの時、園長から手渡された不思議なカプセル。
それを飲み干した瞬間、私の体格、骨格、そして声までもが、劇的な変化を遂げた。
「男性保育士」という夢を追いかけ、何度も不採用通知を受け取って打ちひしがれていた日々。
最後に訪ねたこの園の園長は、慈愛に満ちた(あるいは、少し茶目っ気のある)笑みを浮かべて言ったのだ。
「女性としてなら採用します。ただし、ここでの生活も、女子寮でも、絶対に『彼』だったことは秘密ですよ?」
保育室に足を踏み入れると、木の温もりとクレヨンの匂いが鼻をくすぐった。
「あ!新しい先生だ!」
「お姉さん、お名前は?」
小さな子供たちが、一斉に私の周りに集まってくる。
彼らの視線は真っ直ぐで、純粋だ。
男性だった頃の自分が見ていた景色よりも、ほんの少し視点が低くなった気がする。
「水木亜里沙、ありさ先生だよ。みんな、仲良くしてね」
しゃがみ込んで子供たちと目線を合わせ、自然と手を差し出す。
すると、一人の男の子が私のエプロンのポケットを指差した。
「先生、そのくまさん可愛い!」
「これ?可愛いでしょう。みんなに会えるのを楽しみにしてたんだよ」
ポケットからひょっこりと顔を出すマスコットを揺らすと、子供たちの笑い声が響く。
これだ。
私がずっとやりたかったのは、この笑顔を守ることだった。
午前中の保育は、驚くほどスムーズに過ぎた。ピアノの伴奏や読み聞かせ、外遊び。
体力には自信があったが、女性の体での全力疾走は、今までとは勝手が違う。
ふとした瞬間に、つい足を開いて座りそうになったり、重い荷物を軽々と持ち上げそうになったりして、冷や汗をかく場面もあった。
「水木先生、ちょっといいかしら?」
先輩の女性保育士に声をかけられるたび、心臓が跳ね上がる。
バレたのか? 立ち振る舞いが不自然だったか?
「お肌、すごく綺麗ね。スキンケア、何を使ってるの?」
「あ、ええと……オーガニックのものを少し……」
そんな他愛もない会話に、私は「女性としての日常」を少しずつ学んでいく。
無事に初日の勤務を終えたが、本当の試練はこれからだった。
案内されたのは、園のすぐ裏手にある女子寮。
「ここがあなたの部屋。隣は私の部屋だから、何かあったら呼んでね」
にこやかに笑う同僚の先生。
壁一枚隔てた向こう側に、同世代の女性たちが暮らしている。
共同の洗面所、浴室、そして何より、リラックスした状態での交流。
(絶対に、絶対にバレるわけにはいかない……)
私は部屋の鍵を締めると、大きく深呼吸をした。
鏡の中の亜里沙は、少し不安げな表情で私を見返している。
けれど、その瞳には確かに「夢を叶えた」という光が宿っていた。
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「かんぱーい!」
女子寮の共有リビングに、缶ビールのプルタブを開ける小気味よい音と、賑やかな笑い声が響く。
私の就職を祝うための、寮生総出の歓迎会だ。
「さあさあ、亜里沙先生! 飲んで飲んで。これ、アルコール度数低いから大丈夫よ」
「あ、ありがとうございます……! いただきます」
私は、慣れない手つきで缶を傾ける。
本当はビールの一気飲みなんて造作もないことだが、今の私は「少しお酒に弱い、新人の水木亜里沙」だ。
グラスを持つ指先、膝を閉じた座り方、一口飲んだ後の「ぷはぁ」を我慢する仕草。
全神経を「女性」であることに集中させる。
「亜里沙ちゃんって、本当に肌が綺麗……ねえ、触ってもいい?」
「えっ、あ、あの、くすぐったがりなので!」
隣に座る先輩保育士、佐藤先生の顔が近い。
……危ない。女性同士の距離感は、思っていたよりもずっと密接だ。
宴もたけなわ、空き缶の山が築かれ始めた頃。部屋の空気が一変した。
「んふふ、亜里沙ちゃーん……」
声の主は、普段は一番冷静で頼れる主任の田中先生だった。
眼鏡を外し、トロンとした目でこちらを凝視している。
「あ、田中先生、かなり酔ってらっしゃいますね。お水持ってきます!」
「逃げちゃダメよ、亜里沙ちゃん。田中先生、酔うと『可愛いもの』に目がなくなっちゃうんだから」
他の先生たちがクスクスと笑う。
嫌な予感が背筋を走る。
田中先生が、這うような動きで私にじりじりと詰め寄ってきた。
「新人の……可愛い……ありさ……ちゃん……」
「ひゃいっ! な、なんですか先生、顔が、顔が近いですっ!」
背中が壁に当たる。逃げ場がない。
田中先生の手が、私の頬を優しく包み込んだ。女性の、柔らかくて熱い手のひら。
「食べちゃいたい……くらい……可愛い……」
「ちょ、待っ、先生! 深呼吸しましょう! 落ち着いて——」
奪われた唇
抵抗も虚しく、視界が田中先生の顔でいっぱいになった。
次の瞬間、柔らかい、弾力のある感触が私の唇を塞いだ。
「んんっ!?」
頭の中が真っ白になる。
保育士としての理性が「これは酔っ払いの介抱だ」と叫ぶ一方で、元・男としての本能が「女性にキスされている」という事実にパニックを起こす。
チュッ、と湿った音が静かなリビングに響く。
田中先生の吐息からは、甘いカクテルの匂いがした。
「ぷはっ……。ふふ、ごちそうさま……。亜里沙ちゃん、桃の味がする……」
満足げに私の肩に頭を預け、そのままスースーと寝息を立て始める田中先生。
周りの先生たちは「あーあ、またやった」「亜里沙先生、災難だったわね!」と笑い転げている。
「………………」
私は指先で、自分の唇に触れた。
心臓が、今までにない速さで警鐘を鳴らしている。これが女子寮の洗礼か。それとも、私が「水木亜里沙」として生きていくための通過儀礼なのか。
「びっくり、しました……」
顔に上った熱は、お酒のせいだけではない。
バレないように、そしてこの「ドキドキ」を悟られないように、私は深く、深く、下を向いて熱い吐息を吐き出した。
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「あ、田中先生……寝ちゃった。」
肩に預けられた重みと、唇に残る柔らかな感触に呆然としていると、向かい側に座っていた先輩の佐藤先生が、ニヤニヤしながらジョッキを片手に身を乗り出してきた。
「災難だったわね、亜里沙ちゃん。でも田中先生に気に入られるなんて、幸先いいじゃない。で、そんな可愛い亜里沙ちゃんを放っておかない『彼氏さん』とか、いないの?」
心臓が跳ね上がる。女子会の定番、そして最大の難所。
ここで「いません」と即答するのも不自然だし、かといって具体的な嘘をつけばボロが出る。
「えっ、あ、あの……! 彼氏、ですか?」
私はわざと頬に手を当て、少し困ったように視線を泳がせた。
酒のせいか、それとも今のキスのせいか、顔が熱いのは好都合だ。
「実は、今はいないんです。前の職場がすごく忙しくて、すれ違いになっちゃって。だから、心機一転ここで頑張ろうって決めてきたんです」
「えー、もったいない! どんなタイプが好きなの? 結構ガツガツいっちゃう派?」
別の先生も身を乗り出してくる。逃げ場がない。私は「水木亜里沙」として、かつての自分(男としての自分)を客観的に思い浮かべながら、慎重に言葉を選んだ。
「うーん……そうですね。あんまりグイグイ来られるよりは、一緒にいて落ち着く人がいいかなって。……あ、でも! 仕事に一生懸命で、ちょっと不器用なところがある人とか、応援したくなっちゃいます」
「あはは、母性本能くすぐられるタイプね! わかるわー。保育士やってると、つい世話焼きたくなっちゃうもんね」
ふう、と心の中で胸を撫で下ろす。共感を得ることで、追求の矛先を逸らす作戦だ。
「逆に、佐藤先生たちはどうなんですか? やっぱり出会いって、園の外の方が多いんですか?」
「それがねー、聞いてよ亜里沙ちゃん! 先週の合コンがもう最悪で……」
質問を質問で返す。これぞ女子会の鉄則。
話題が先輩たちの愚痴へとスライドしていくのを見届けながら、私は手元の烏龍茶を一口飲んだ。
(……危なかった。でも、こうやって『女の子』として馴染んでいくしかないんだ。)
足元で寝息を立てる田中先生と、盛り上がる先輩たちの声を BGM に、私は「バレてはいけない」という緊張感を、お酒の席の賑やかさの中にそっと隠した。
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「さあ、飲み直しは……お風呂でしましょうか!」
地獄の宣告だった。
先ほどまで私の肩で寝息を立てていたはずの田中先生が、まるで憑き物が落ちたような(あるいは、さらに質の悪い何かが憑いたような)爛漫な笑顔で立ち上がったのだ。
「あ、あの! 田中先生、私は……その、シャワー室が別にあるって聞いたので、今日はそこでサッと済ませようかなって!」
必死の抵抗だった。
喉の奥まで出かかった「自分は男だ」という叫びを、亜里沙としてのソプラノボイスで必死に押し殺す。
しかし、酔っ払いの腕力と結束力は、私の想定を遥かに超えていた。
「何言ってるのよ、亜里沙ちゃん。裸の付き合いこそ、保育士のチームワークの基本よ?」
「そうそう、新人の歓迎風呂はうちの伝統なんだから!」
佐藤先生たちに両脇を固められ、まるで連行される囚人のように大浴場へと運ばれていく。
脱衣所に足を踏み入れた瞬間、湿り気を帯びた熱気と、石鹸の甘い香りが鼻をついた。
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震える手で、エプロンを脱ぎ、ブラウスのボタンに手をかける。
カプセルの効果で、私の体は完璧に女性のそれへと作り変えられている。
鏡に映る鎖骨のラインも、柔らかな肩の曲線も、紛れもなく「水木亜里沙」のものだ。
だが、精神までがその変化に追いついているわけではない。
「あら、亜里沙ちゃん……可愛い下着ね。」
背後から覗き込んできた佐藤先生が、感心したように声を上げた。
選んだのは、目立ちすぎず、かつ「女の子らしさ」を忘れない淡いラベンダー色のレース。男性としての知識を総動員して、一番「不自然じゃない」ものを選んだつもりだった。
「あ、ありがとうございます……。ええと、これは……」
「どこのブランド? 結構いいやつでしょう。レースの細工が細かいわね」
矢継ぎ早に飛んでくる質問に、冷や汗が止まらない。
ブランド名なんて、適当にネットで調べた有名どころを挙げるしかない。
「ワ、ワコール……とか、だったと思います……」
「ふーん、やっぱり。こだわりがあるのね」
下着を脱ぎ捨て、タオル一枚で体を隠そうとしたその時、田中先生が私の体格をじろじろと、品定めするように眺め回した。
「あら。あんた、意外と着痩せするタイプなのね。服を着てるともっと細いかと思ったけど、しっかりしてるところはしてるじゃない」
その視線が、私の胸元に突き刺さる。男性だった頃の面影など微塵もない、膨らみ始めた柔らかな曲線。
それを「しっかりしている」と評されたことに、羞恥心と恐怖が混ざり合い、頭がどうにかなりそうだった。
「失礼します……!」
私は逃げるように洗い場へ向かおうとした。
だが、背後から忍び寄った影を避けることはできなかった。
「ふふふ……ちょっと、減るもんじゃないし、確かめさせてちょうだい?」
「えっ、ちょっと、先生——!?」
逃げる間もなかった。
田中先生が後ろからガバッと私を抱きしめるように腕を回し、その手のひらが、タオル越しに私の胸を容赦なく捉えた。
「ん……っ!?!?」
声にならない悲鳴が漏れる。
ぐにり、と指先が沈み込む感触。
女性の、それでいて力強い指の動きが、私の一番敏感な部分を蹂躙していく。
「やだ、柔らかーい! 亜里沙ちゃん、これ反則よ。こんなにマシュマロみたいだなんて……」
「ひゃ、や、やめてくださいっ! 田中先生っ、くすぐったいです……!」
必死に体を捩るが、後ろから密着する田中先生の体温が、私の背中にダイレクトに伝わってくる。彼女の豊かな胸の感触が、私の背中に押し付けられる。
「あはは! 亜里沙ちゃん、顔真っ赤! 可愛いー!」
周りの先生たちの笑い声が、湯気の中に溶けていく。
私の心臓は、もう限界だった。
これが「女子の日常」なのか、それとも私を試しているのか。
揉まれるたびに、自分の体の中にある「女」の部分が、熱を帯びて目覚めていくような錯覚に陥る。
バレてはいけない。
同時に、この抗いようのない「快感」にも似たパニックに、飲み込まれてはいけない——。
「先生……もう、本当に、お風呂入りましょう……!」
私は必死の思いで田中先生の手を振りほどき、湯気が立ち込める大浴場へと、転がるように飛び込んだ。
背後で響く「あー、逃げた!」という楽しげな声が、私の耳を熱く焦がし続けていた。
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ピピピ、と控えめなアラームの音が、女子寮の清潔な部屋に響く。
重い瞼を持ち上げると、視界に入ってきたのは、かつての自分の部屋とは違う、淡いベージュのカーテンと、微かに漂う柔軟剤の香りだった。
「そっか。今日から、本当に始まるんだ」
体を起こすと、胸元に重みを感じる。
昨夜、田中先生に揉まれた感触がまだ残っているような気がして、思わず顔が熱くなった。
私はクローゼットから、昨日の夜に準備しておいた下着のセットを取り出した。
「やっぱり……これ、はくんだよな」
手に持ったのは、黒のシンプルなコットンショーツ。
レースがふんだんにあしらわれたものとは違い、機能性を重視したものだ。
けれど、その面積の小ささと、紛れもない「女性用」であるという事実に、手に取るたびに指先が微かに震える。
慣れない手つきでショーツに足を通し、腰まで引き上げる。
肌に密着する柔らかな感触に、自分が「水木亜里沙」であることを再確認させられる。
次に、シンプルなブラジャーを手に取る。
ホックを後ろで留める動作は、まだぎこちない。
何度も空振りを繰り返し、ようやくパチンと留まった時には、少し息が切れていた。
鏡を見ると、そこにはしなやかな曲線を描く自分の体が映っている。
「……よし。着替えなきゃ」
感傷に浸る時間はなかった。
下階からは他の先生たちの慌ただしい生活音が聞こえ始めている。
下は動きやすいベージュのチノパン。上は白のポロシャツ。男性保育士を目指していた頃と選ぶ服の種類は変わらないはずなのに、鏡に映るシルエットは驚くほど華奢で、柔らかい。
洗面台に向かい、薄く化粧を施す。
ファンデーションで肌を整え、リップクリームを引く。それだけの工程なのに、みるみるうちに「女性保育士・水木亜里沙」が完成していく。
最後に、鏡に向かって口角を上げた。
「おはようございます。水木です。よし、不自然じゃない」
声のトーンを整え、自分に言い聞かせる。
仕上げに、昨日子供たちに好評だった、動物のワッペンがついた水色のチェックのエプロンを頭から被る。
背中の紐をキュッと結ぶと、不思議と背筋が伸びた。
「よし、行こう」
ドアを開ければ、そこは戦場であり、私の夢の舞台だ。
バレてはいけない。けれど、誰よりも頼れる先生になりたい。
水木亜里沙としての二日目が、今、始まった。
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園庭には、春の柔らかな日差しが降り注いでいた。
「ありさ先生ー! こっち来て!」
元気な声を上げたのは、年少クラスの元気印、そうた君だ。
私は砂場の縁に腰を下ろし、彼が作った「特製ケーキ」の完成を待つ。
屈み込む姿勢になると、チノパンが太ももに密着し、慣れないコットンのショーツの感触が意識に昇る。
「はい、そうた君。これ、何ケーキかな?」
「えーっとね、いちごと……チョコレート!」
そう言って私の隣に潜り込んできた彼の手が、不意に私の腰から下へと伸びた。
「っ!?」
柔らかな子供の手が、私のお尻の曲線に沿うようにして、むにゅりと撫で上げた。
男性だった頃なら「こらこら」で済んだはずの接触。
だが、今の私は骨格から肉付きまで完全に「女性」だ。ショーツ越しに伝わるダイレクトな感触に、背筋を電流が駆け抜ける。
「あ、あの、そうた君? そこは……」
「ありさ先生、ここ、やわらかーい!」
無邪気な言葉と共に、今度は小さな掌が、私の背中を駆け上がって脇から胸元へと滑り込んできた。
昨夜、田中先生に揉まれたばかりの、まだ熱を持ったような柔らかな膨らみ。
そこを小さな指先が、グイッと掴むように圧迫する。
「っ、ひゃああああんっ!?」
自分でも驚くほど高い、裏返ったような「可愛い悲鳴」が、静かな園庭に響き渡った。
「…………えっ?」
そうた君が目を丸くして固まる。
近くで遊んでいた他の子供たちや、ベテランの先生方の視線が一斉にこちらに集まった。
(や、やばい……今の声、完全に女の子だった……!)
顔が火が出るほど熱くなる。心臓がバクバクと暴れ、エプロンの下で胸が大きく上下する。
「あらあら、亜里沙先生。そうた君に弱点でも突かれちゃった?」
遠くから見ていた先輩保育士が、クスクスと笑いながら声をかけてくる。
私は必死に、乱れた息を整えながら、引きつった笑顔を作った。
「あ、あはは……すみません、ちょっと、くすぐったくて……!」
そう言いながら、私はさりげなくそうた君の手を優しく制し、自分の胸元を隠すようにエプロンをギュッと握りしめる。
「そうた君、先生びっくりしちゃった。でも、タッチは優しく、ね?」
優しく諭しながらも、内面ではパニックの連続だった。
子供の無邪気な好奇心。それがこれほどまでに、今の私の「女としての防衛本能」を揺さぶるとは思わなかった。
(落ち着け、私。私は保育士だ。……でも、今の声……誰にも変に思われなかったよね……?)
私は潤んだ瞳を瞬かせ、乱れた髪を耳にかけながら、必死に「いつもの水木亜里沙」を演じ直そうと、深く、深く呼吸を繰り返した。
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夕暮れ時の保育園は、独特の切なさと慌ただしさが入り混じっている。
「ありさ先生、さようなら!」
「うん、また明日ね。気をつけて帰るんだよ」
一人、また一人と保護者に引き取られていく子供たちを見送っていると、園の入り口に一人の男性が立った。
仕立てのいいスーツを着崩し、どこか疲れと緊張を滲ませた、整った顔立ちの男性。
その瞬間、彼の隣にいた年少のゆなちゃんが、私のエプロンをぎゅっと掴んで叫んだ。
「あ! ママ! ママが迎えに来てくれた!」
「えっ……!?」
私は硬直した。
ゆなちゃんは私の腰にしがみつき、満面の笑みで私を見上げている。
男性——ゆなちゃんのパパは、私を見た瞬間、まるで雷に打たれたかのように目を見開き、絶句していた。
その瞳には驚きと、それ以上に深い、言葉にならない動揺が揺らめいている。
「あ、あの、ゆなちゃん? 先生はありさ先生だよ?」
「ママ! ママだもん!」
気まずい沈黙を破ったのは、隣にいたベテランの佐藤先生だった。
「あら、ゆなちゃん、ありさ先生が大好きなのね。お父様、お疲れ様です」
パパは我に返ったように何度も頭を下げ、逃げるようにゆなちゃんを連れて帰っていった。
去り際、彼はもう一度だけ、縋るような視線を私に投げかけた。
その視線の熱さに、私は思わず目を逸らしてしまった。
子供たちが帰り静まり返った職員室で、佐藤先生がぽつりと零した。
「驚いたでしょう、亜里沙先生。……ゆなちゃんのお母さんね、去年の冬に事故で亡くなられたの。それからずっと、お父様一人で育てていらして」
「死別……だったんですか」
「ええ。お母様、写真で見せてもらったことがあるんだけど、今の亜里沙先生に……驚くほど雰囲気が似ていらしたのよ。髪の感じとか、笑った時の目の形とか」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
私が園長から渡されたカプセルで手に入れたこの容姿が、誰かにとっての「かけがえのない欠落」を埋める形をしていたなんて。
翌日の夕方。
またお迎えの時間がやってきた。
昨日のパパが、少し早めの時間に現れた。
ゆなちゃんを他の先生に預け、彼は真っ直ぐに私の元へ歩み寄ってきた。
「水木先生。昨日はいきなり、すみませんでした」
「いえ、そんな。ゆなちゃん、きっと寂しかったんだと思います」
「……実は、」
彼はネクタイを少し緩め、意を決したように私を真っ直ぐに見つめた。
「昨日、娘があんなふうに笑ったのを、妻が亡くなってから初めて見ました。もし、もし差し支えなければ、今度の土曜日、少しだけお時間をいただけないでしょうか。ゆなも一緒に、三人で食事でも」
「えっ……!?」
頭が真っ白になった。
私は「水木亜里沙」という仮面を被った、元・男性だ。
けれど今、目の前にいる男性の瞳にあるのは、下心などではなく、崩れかけた家庭を必死に繋ぎ止めようとする切実な祈りのようなものだった。
「デート、という形になってしまうかもしれませんが。どうしても、あなたともっとお話ししてみたいんです」
夕闇が迫る園庭で、私は自分の指先が微かに震えているのに気づいた。
断らなければならない。正体を隠している以上、深入りは危険だ。
けれど、鏡の中の「亜里沙」が、彼とゆなちゃんを助けてあげてと囁いているような気がした。
「わかり、ました。ゆなちゃんが喜んでくれるなら……」
答えてしまった。
自分でも驚くほど、しっとりと落ち着いた女性の声で。
バレてはいけない。
けれど、この嘘が誰かを救うのだとしたら。
私は「水木亜里沙」として、さらなる深い秘密の渦中へと足を踏み出そうとしていた。
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「園長先生、少しお時間よろしいでしょうか……」
放課後の静かな園長室。
私は意を決して、昨日の出来事を打ち明けた。ゆなちゃんのパパから誘われたこと、そして彼女が私を「ママ」と呼んだこと。
園長は眼鏡の奥の目を細め、ゆっくりと頷いた。
「そう。あのご家族には、心の支えが必要なのかもしれませんね。亜里沙先生、あなたが『女性として』あの子に寄り添うことが、一つの救いになるのなら……私は止めませんよ。ただし、あくまで私生活の範囲で、節度を持ってね」
「ありがとうございます」
背中を押されたような、余計に逃げ場がなくなったような複雑な気持ちで園長室を後にした。廊下で鉢合わせたのは、昨夜の「キス魔」こと主任の田中先生だった。
「あら、亜里沙ちゃん。難しい顔してどうしたの?」
「あ、田中先生……実は、保護者の方からお誘いを受けてしまって……」
事情を話すと、田中先生は「えええっ!」と声を上げ、私の肩をガシッと掴んだ。
「ちょっと! それって実質デートじゃない! ゆなちゃんのパパ、かなりのイケメンだし、独身だし……亜里沙ちゃん、これは大チャンスよ!」
「チャンスって、そんな……私はただ、ゆなちゃんが心配で……」
「いいのよ、理屈は! 恋はいつだって突然なんだから。全力で応援するわ!」
嵐のような主任の激励に圧倒されながら、自室に戻ってふと我に返った。
……待てよ。
私はクローゼットを勢いよく開けた。
そこにあるのは、予備のポロシャツ、チノパン、地味なカットソー、そして数枚の仕事用エプロン。
「着ていく服が、ない。」
今の私は「水木亜里沙」だ。男性だった頃の服は当然着られないし、そもそも一着も持ってきていない。
かといって、今持っている服はどれも「保育士・水木亜里沙」の戦闘服ばかり。
パパとゆなちゃんと、三人で食事。
場所は? 雰囲気は? 相手は私のことを亡き奥様に重ねている。
そんな場所へ、毛玉のついたポロシャツで行けるはずがない。
「どうしよう……女の子の『お出かけ服』なんて、選んだこともないのに……!」
鏡に映る私は、困り果てた顔をしていた。
明日は非番。
私は「初めてのショッピング」に出かけなければならない。バレないように、それでいて「ゆなちゃんのママ」に失礼のない、完璧な女性の装いを探しに。
私はスマホを取り出し、震える指で「20代後半 女性 デート服 清楚」と検索窓に打ち込んだ。
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その夜、女子寮の廊下を歩く私の背中に、いつもとは違う「熱」を感じた。
すれ違う先生たちが、みんな含み笑いを浮かべたり、親指を立ててウィンクを送ってきたりするのだ。
「亜里沙先生、聞いたわよ! あのイケメンパパとデートなんですって?」
「やるわねぇ、新人さん。応援してるからね!」
(な、なんで知ってるの!?)
犯人は一人しかいない。
先ほど相談したばかりの、あの「キス魔」こと田中主任だ。
彼女の口の軽さは、アルコールが入っていなくても特級品だったらしい。
私は顔から火が出るような思いで、逃げるように共同浴場へと向かった。
脱衣所で鉢合わせたのは、案の定、上機嫌で鼻歌を歌いながらバスタオルを巻いている田中先生だった。
「あ! 噂の主役、お出ましね!」
「主任……! なんでみんなに言っちゃったんですか!」
「いいじゃない、おめでたいことなんだから。さあ、そんなことよりお風呂よ。今日はゆっくり作戦会議しましょう?」
断る間もなく、私は再び湯気の中に引きずり込まれた。
広い浴槽に肩まで浸かり、ゆらゆらと揺れるお湯を見つめながら、私は消え入りそうな声で本音を漏らした。
「実は、困ってるんです。デートに行くような服、一着も持ってなくて。それに、引っ越してきたばかりでお金も……」
それは、元男性としての切実な叫びでもあった。
女性の服がこれほどまでに高く、そして「TPO」という名の複雑なルールに支配されているなんて、この体になるまで知りもしなかったのだ。
すると、隣で豪快にお湯を跳ね上げていた佐藤先生が身を乗り出した。
「なーんだ、そんなこと! 亜里沙ちゃん、私たちを誰だと思ってるの? 私たちは『チーム・ひまわり保育園』よ!」
「そうよ! 亜里沙ちゃんの初デートを、あんな地味なポロシャツで行かせるわけにいかないわ!」
田中先生が、バシャリと私に追い打ちのお湯をかけた。
「決まりね。上がったら全員集合! 『水木亜里沙・シンデレラ大改造計画』の始まりよ!」
風呂上がり。
私の狭い自室は、あっという間に「即席のセレクトショップ」と化した。
寮に住む先生たちが、それぞれ自慢の勝負服を抱えて集まってきたのだ。
ベッドの上には、色とりどりのワンピース、ブラウス、フレアスカートが山のように積まれている。
「これ、去年のデートで一度しか着てないんだけど、亜里沙ちゃんなら絶対似合うわ!」
「こっちのレースのブラウスの方が、ゆなちゃんのママの雰囲気に近いんじゃない?」
「あ、あの、皆さん……そんなにたくさん……」
「いいから、片っ端から着てみて! はい、次はこれ!」
私は、まるで着せ替え人形のように、次から次へと服を着替えさせられた。
背中のファスナーを上げてもらい、リボンを結んでもらい、アクセサリーをあてがわれる。
「……わあ。」
鏡の中に立っていたのは、いつもの「エプロン姿の先生」ではなかった。
淡いパステルカラーのワンピースを纏い、華奢な首筋にパールを揺らした、守ってあげたくなるような「可憐な一人の女性」。
「完璧……。これならパパさんも、ゆなちゃんも、イチコロね。」
田中先生が満足げに頷く。周りの先生たちも、「可愛い!」「別人みたい!」とはしゃいでいる。
「……ありがとうございます。私、頑張ります」
私は、借り物の柔らかなスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
皆の温かな(そして少しお節介な)善意が、嘘をついている自分の胸をチクリと刺す。
けれど、この鏡の中の笑顔だけは、偽りたくないと思った。
バレてはいけない。
けれど、この夜の賑やかさと、皆が選んでくれたこの服の温かさだけは、本当の「水木亜里沙」として、心に刻んでおこうと決めた。
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ファッションショーは大盛況のうちに幕を閉じ、ベッドの上には先輩たちが「これ着ていきなさい!」と置いていった勝負服の数々が並んでいる。
けれど、どうしても自分の手で揃えなければならないものがあった。
「ストッキングとか」
いくら仲が良くても、直接肌に触れる消耗品まで借りるわけにはいかない。
私は翌日の非番、慣れないパンプスを鳴らして、久しぶりに都心の街並みへと繰り出した。
新宿の駅を出ると、眩いばかりの春の陽光と、ビル群のガラスに反射する光が目に飛び込んでくる。
行き交う人々は皆お洒落で、洗練されている。
ポロシャツとチノパンの「保育士・水木亜里沙」ではなく、今日は借り物の控えめなブラウスにフレアスカート。
風が吹くたびに裾がふわりと揺れ、足首にまとわりつく感覚が、自分が今「女性の群れ」の一員であることを強く意識させる。
百貨店のストッキング売り場へ向かうだけでも、一苦労だった。
デニール? ヘム? ゾッキ?
パッケージに並ぶ呪文のような単語に頭を抱えながら、なんとか「肌馴染みの良いベージュ」を数点手に取る。
(よし。これで最低限の準備はできた。あとは帰るだけ……)
そう思ってエスカレーターを下りようとした、その時だった。
視界の端に、淡いピンクとゴールドを基調とした、宝石箱のような一角が映り込んだ。
そこは、高級ランジェリーショップだった。
繊細なリバーレース、優雅なシルクの光沢。トルソーが纏っているのは、昨夜田中先生に「可愛い下着ね」と弄られたものよりも、ずっと大人びていて、それでいて官能的な美しさを湛えたセットアップだ。
私は、吸い寄せられるようにその店の前で足を止めた。
(入るべきか、入らざるべきか……)
頭の中の「元・男」が警鐘を鳴らす。
「おい、お前みたいな奴がこんな聖域に踏み込んでいいのか?」
「店員さんにサイズを聞かれたらどうする? フィッティングルームに案内されたら?」
けれど、今の私——「水木亜里沙」としての本能が、静かに囁き返す。
「パパさんとのデート。もし……万が一、何かあったら?」
「見えないところまで完璧でいてこそ、自信が持てるんじゃないの?」
ショーケース越しに見える、深いネイビーのレース。
それは、ゆなちゃんのママが着ていたかもしれないような、上品で落ち着いたデザインだった。
私は、握りしめた買い物袋の取っ手をぎゅっと指に食い込ませた。
自動ドアの向こう側からは、高価な香水の香りが漂ってくる。
(私、今……すごく変な顔してないかな。大丈夫、私は女の子。買い物に来た、普通の女の子なんだから……)
一歩、踏み出そうとしては躊躇い、ショーウィンドウの反射で自分の姿を確認する。
都会の雑踏の中、私はその華やかな店の前で、自分の中の「境界線」を越えるべきかどうか、激しく葛藤し続けていた。
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ランジェリーショップの入り口で、私はかつて経験したことのない種類の「敵地潜入」にも似た緊張感に支配されていた。
(いや、いらない。そもそもデートと言っても、ゆなちゃんのパパと何か深い関係になるつもりなんてさらさらないし、誘われても絶対に断る。断るんだから、勝負下着なんて無用の長物じゃないか)
理性という名の「元・男」が必死にブレーキを踏む。しかし、そのすぐ隣で「水木亜里沙」としての防衛本能が警鐘を鳴らすのだ。
(でも……もし、何かの拍子で——例えば服を汚して着替えることになったり、不意のハプニングで下着のラインが透けて見えたりした時、ボロボロの綿ショーツだったら? 亡き奥様の面影を追っている彼に、そんなズボラな姿を見せて幻滅されたら、ゆなちゃんの夢まで壊してしまうかもしれない)
「それは、避けなきゃ」
気づけば私は、香水の残り香が漂う柔らかな照明の店内へと足を踏み入れていた。
ふと、妙な思考が頭をよぎる。
(私、男としての「童貞卒業」より先に、女としての「処女卒業」を意識してるのか? なんだこの逆転現象は……)
そんな混乱を振り切るように、私は並べられたレースの山を凝視した。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
隙のない美しさを持った店員さんが歩み寄ってくる。
彼女の視線は、私の体型を瞬時にスキャンするかのように鋭く、それでいて慈愛に満ちていた。
「あ、ええと……その、今度、大切な……お出かけがあって。でも、何を選んだらいいか分からなくて」
「大切なお出かけ、ですね。素敵です」
店員さんは、棚から一点のセットアップを抜き出した。それは、桜の花びらを水に浮かべたような、淡く、それでいて品のあるシャイニーピンクのランジェリーだった。
「お客様の柔らかな肌の色には、このピンクがとてもよく映えますよ。派手すぎず、でも内側から幸福感が滲み出るようなお色です。ぜひ、あちらでご試着してみませんか?」
「し、試着っ!? 下着を、ですか!?」
思わず声を裏返してしまった。服の上からあてるだけだと思っていた私にとって、それは文字通りの「聖域への立ち入り」を意味していた。
「あの、お恥ずかしい話なんですけど……」
私は赤面し、指先をモジモジとさせながら、消え入りそうな声で打ち明けた。
「私、こういう本格的なお店で買うのが初めてで。……その、正しい試着の仕方も、よく分かってなくて」
店員さんは、少しも馬鹿にするような素振りを見せず、優しく微笑んだ。
「まあ、そうだったんですね。大丈夫ですよ、一からお教えしますから。まずはフィッティングルームへどうぞ」
案内された個室は、全面鏡張りの贅沢な空間だった。店員さんは、手際よくブラジャーをハンガーにかけながら説明を始める。
「まず、上半身裸になっていただいて、ストラップを肩にかけたら、少し前かがみになってください。そう、お辞儀をするように。そこから脇の方にあるお肉を、中心にぐーっと集めてくるんです。」
「脇から……集める……?」
「そうです。逃げてしまっているお肉をカップに収めてあげるだけで、シルエットが見違えるんですよ。最後に背中のホックを留めてから、鏡を見て形を整えます。やってみましょうか?」
私は店員さんが一度外へ出たのを確認し、震える手でブラウスを脱いだ。
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鏡の中には、ポロシャツの下に隠されていた、昨夜よりも心なしか主張を強めている自分の胸がある。
教えられた通り、少し前かがみになり、脇から柔らかい肉を中央へと寄せてみる。
(っ、なんだこれ。全然違う)
安物のブラでは味わえなかった、吸い付くようなフィット感。
そして、ピンクのレースが肌に重なった瞬間、鏡の中の自分が、自分でも驚くほど「守ってあげたい女性」に変貌していた。
「いかがですか? お手伝いしましょうか?」
カーテン越しに聞こえる店員さんの声に、私は慌てて返事をした。
「だ、大丈夫です!……今、整えました……!」
私は、自分の胸元に咲いたピンクの花びらを見つめながら、熱い吐息を吐き出した。
バレてはいけない。
けれど、この繊細なレースに守られているという感覚が、明日、パパさんとゆなちゃんの前に立つ私に、ささやかな勇気を与えてくれるような気がした。
「……これ、ください」
私は、自分の中の「初めて」を一つずつ塗り替えていく感覚を噛み締めながら、決意を込めてそう呟いた。
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「ただいま戻りまし——」
寮の玄関を開けた瞬間、私の言葉は凍りついた。
そこには、エプロンを脱ぎ捨ててリラックスモード(という名の獲物を待つ獣モード)に入った、佐藤先生と田中主任、そして非番だった数名の先生たちが、食堂のテーブルを囲んで待ち構えていたのだ。
「おかえり、亜里沙ちゃん! 遅かったじゃない?」
「あら、その紙袋……百貨店の? しかも、そこって!」
田中主任の目が獲物を見つけた鷹のように鋭く光る。私は無意識に、ピンクのロゴが入ったランジェリーショップの袋を背中に隠した。
「あ、いや、これはその……ちょっとした、自分へのご褒美というか……」
「見せてごらんなさいな! どんな『戦闘服』を仕入れてきたのか、お姉様たちがチェックしてあげるわ!」
「ひゃあ! やめてくださいっ!」
逃げようとしたが、多勢に無勢。私はあっという間に食堂の椅子に座らされ、テーブルの上には、先ほど清水の舞台から飛び降りる覚悟で購入したばかりの、あの淡いピンクのセットが広げられた。
「あら。あらあらあら!」
佐藤先生が、繊細なレースを指先でつまみ上げる。
「亜里沙ちゃん、やるじゃない。このピンク、あなたの肌色にピッタリよ。しかもこれ、パットの入り方が絶妙で、寄せて上げる効果が凄いのよね」
「ちょっと、見せて! ……本当だ、これならパパさんもイチコロね。ねえ、フィッティングはどうだったの? ちゃんと脇からお肉寄せてきた?」
田中主任が、私の脇腹を「ここよ、ここ!」と言わんばかりに指先でツンツンと突いてくる。
「もう……! やめてください、主任! これ、もうセクハラですよっ!」
私は顔を真っ赤にして、精一杯の抗議の声を上げた。
女性同士なら当たり前のコミュニケーションなのかもしれないが、元・男の私にとって、自分の下着を囲んであーだこーだと品定めされるのは、拷問以外の何物でもない。
「あら、減るもんじゃなし。私たちは亜里沙ちゃんが心配なのよ?」
「そうそう。あ、そうだ! ちゃんとストッキングも買った? デニールは? 伝線した時の予備は持った?」
次から次へと飛んでくる質問の嵐。
私は、自分のプライバシーが粉々に粉砕されていくのを感じながら、ぐったりとテーブルに突っ伏した。
「買いました。予備も、ちゃんと……」
「よし! じゃあ次は、明日のメイクの予行演習ね! 誰か、私のコテ持ってきて!」
「えっ、今から!? もう夜ですよ!?」
「デートは準備が9割なのよ、亜里沙ちゃん!」
結局、その夜の「報告会」は深夜まで続き、私は何回も髪を巻き直され、チークの濃さを議論され、すっかり魂が抜けた状態で自室に転がり込んだ。
鏡の中の私は、先輩たちの手によって、自分でも見たことがないほど「完璧な女の子」に仕上がっていた。
(明日、本当に大丈夫かな。)
枕元に置かれたピンクの包みを見つめながら、私は高鳴る鼓動を抑えるように、深く、深く布団に潜り込んだ。
バレてはいけない。
けれど、この寮の騒がしさが、今は少しだけ、私の震える背中を支えてくれているような気がした。
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「亜里沙ちゃん、起きて! 時間よ!」
朝の静寂を切り裂くようなノックの音で、私の「決戦の土曜日」は幕を開けた。
時計を見ると、まだお迎えまでには十分すぎるほど時間がある。
けれど、女子寮の朝に「余裕」という言葉は存在しないらしい。
私はふらつく足取りで共同のシャワー室へと向かった。
温かいお湯を浴びながら、指先で自分の体を洗う。昨夜、店員さんに教わった通り、脇から胸にかけてのラインを丁寧にマッサージするように。
鏡に映る濡れた肌、しなやかな指先。これこそが「水木亜里沙」の武器なのだと、自分に言い聞かせる。
「ふう……よし。」
バスタオルを巻き、火照った体で自室に戻ると、そこにはすでに「美の軍団」が待機していた。
「さあ、主役のお出ましね! 亜里沙ちゃんはそこに座って!」
田中主任がコテをコンセントに差し込み、佐藤先生がプロ仕様のメイクボックスを広げている。
もはや私のプライバシーも拒否権も、どこかのゴミ箱に捨てられた後のようだった。
「あの、自分でも少しは練習したんですけど……」
「ダメダメ! 今日は『ゆなちゃんのママ』に似せつつ、亜里沙ちゃんの若々しさを引き出す『ハイブリッド・メイク』にするんだから。ほら、目を閉じて!」
佐藤先生の指先が、私の瞼に触れる。
冷たいブラシが肌を撫で、まつ毛の一本一本を丁寧に持ち上げていく。
「ねえ、亜里沙ちゃん。あなた、本当に肌のキメが細かいわね。毛穴がどこにもないじゃない」
「えっ、あ、ええと……洗顔は、しっかりしてるので……」
至近距離で同僚の女性に見つめられる緊張感。バレてはいけないという恐怖と、綺麗に塗り替えられていく自分への好奇心が混ざり合う。
「はい、次はチークね。笑って!」
「こう、ですか?」
「そうそう、可愛い! 仕上げにこのグロスを……はい、完成!」
「……これが、私?」
鏡を覗き込んだ私は、思わず息を呑んだ。
そこには、昨日の自分よりもずっと華やかで、それでいて清楚なオーラを纏った「完成された女性」がいた。
まつ毛は長く上向きにカールし、瞳には潤んだような輝きがある。
唇は、あのピンクのランジェリーを連想させるような、淡く艶やかな桃色に彩られていた。
「どう? 完璧でしょ」
田中主任が、満足げに私の肩を叩いた。
「これならパパさんも、ゆなちゃんも、一瞬であなたに恋に落ちちゃうわよ」
「ありがとうございます。皆さん、本当に……」
私は、借りたワンピースに袖を通し、最後に自分で購入したあのピンクのセットを、そっと内側に忍ばせた。
肌に触れるレースの感触が、「頑張れ」と背中を押してくれているような気がした。
「いってきます。」
「いってらっしゃい! 報告、楽しみにしてるからね!」
寮生たちの熱烈な見送りを受けながら、私は春の風の中へと踏み出した。
水木亜里沙としての、本当の挑戦が今、始まる。
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寮の玄関を出た瞬間、春の陽光が眩しくて、私は思わず手で日差しを遮った。
背後からは、窓から顔を出しているであろう先輩たちの視線を感じる。
「ふう、落ち着け、私」
パパさんは「寮まで迎えに行く」と言ってくれたけれど、それは丁寧にお断りした。
もしあんな黒塗りの車が寮の前に停まろうものなら、田中主任たちが野次馬になって窓に鈴なりになるのは目に見えている。
そうなれば、デートどころか公開処刑だ。
私は少し早歩きで、指定された近くの公園へと向かった。
一歩踏み出すごとに、慣れないパンプスのヒールがカツカツとアスファルトを叩く。
借り物のワンピースの裾が膝に触れ、そのさらに下、今朝苦労して着替えたピンクのレースが、肌に密着して「ここにいるよ」と主張してくる。
(バレないように……。今日は「水木亜里沙」として、ゆなちゃんのママの面影を壊さないように……)
公園の入り口に差しかかった時、遠目にも目立つ存在感のある車が停まっているのが見えた。
艶やかに磨き上げられた、漆黒のランドクルーザー。
泥臭さとは無縁の、都会的で威圧感すら漂うその四輪駆動車は、どこかパパさんの「男としての責任感」を体現しているようにも見えた。
車に近づくと、運転席のドアが開き、パパさんが降りてきた。
今日の彼はスーツではなく、上質なネイビーのニットにグレーのスラックスという、リラックスした装いだった。
「水木先生……!」
私を見た瞬間、彼は再び息を呑み、動きを止めた。
驚き、戸惑い、そして……一瞬だけ混じった、愛おしむような切ない眼差し。
「すみません、あまりに綺麗だったので。……その、よくお似合いです」
「あ、ありがとうございます。ちょっと、気合を入れすぎちゃったかもしれません」
私は顔を赤らめ、恥ずかしさを隠すように、後部座席の窓をコンコンと叩いた。
そこには、チャイルドシートに座って身を乗り出しているゆなちゃんの姿があった。
「あー! ありさママだ! ママ、可愛いー!」
「ゆなちゃん、おはよう。今日は楽しみだね」
私は「ママ」という呼び声にドギマギしながらも、精一杯の笑顔で応えた。
「さあ、乗りましょうか。あ、少し高いので気をつけてください」
パパさんが助手席のドアを開け、私のエスコートをしてくれる。
ランクルの高い車体に乗り込むのは、女性の体では案外難しい。私はスカートの裾を気にしながら、パパさんが差し出してくれた手をそっと握った。
(熱い……)
大きな、節くれだった男性の手。
その感触に、自分の中に残る「元・男」の意識が激しく揺さぶられる。
同時に、内側から溢れ出す「守られている」という心地よさに、戸惑いを隠せなかった。
「よいしょ……っ」
シートに深く腰を下ろすと、車内には微かに高級なレザーの匂いと、ゆなちゃんが持っているお菓子の甘い香りが漂っていた。
「……それじゃあ、出発しますね」
重厚なエンジン音が響き、ランクルがゆっくりと滑り出した。
寮の窓から覗いているであろう先輩たちの視線を振り切り、私たちは「三人」の特別な時間へと漕ぎ出した。
車窓から流れる景色を見つめながら、私は密かに、ブラウスの下で脈打つ自分の鼓動を感じていた。
バレてはいけない。けれど、この高い視点から見る世界は、今までのどの景色よりも、新しくて、危うい輝きを放っていた。
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「あはは、すみません……」
パパさんがハンドルを握りながら、少し申し訳なさそうに苦笑いした。
「自分からお誘いしておいて情けないんですが、昨日も帰宅してからずっと仕事に追われてしまって。結局、行き先も決められないまま当日になってしまいました。……水木先生、どこか行きたい場所はありますか? どこでも、先生の行きたいところで構いません」
「いえ、そんな! お忙しいのは分かっていますから。私は、ゆなちゃんが喜ぶ場所ならどこでもいいですよ」
私が後ろを振り向くと、ゆなちゃんはチャイルドシートで身を乗り出し、目を輝かせながら叫んだ。
「ゆなね、動物園か水族館がいい! お魚さん、キラキラしてるの見たーい!」
「水族館……いいですね。今日は日差しも強いですし、涼しい館内ならゆなちゃんも疲れなくて済むかもしれません」
「決まりだね。じゃあ、一番近い水族館に向かおうか」
パパさんがウィンカーを出し、車は都会の喧騒を抜けて湾岸エリアへと進んでいく。
重厚なランクルの車内は、ゆなちゃんの期待に満ちた熱気でいっぱいだった。
しばらく走っていると、パパさんがふとバックミラー越しにゆなちゃんを見つめ、諭すような、けれど少し寂しげなトーンで口を開いた。
「ゆな。何度も言っているけど、ありさ先生は『ママ』じゃないんだよ。保育園の、ありさ先生だよ」
その言葉に、ゆなちゃんはぷくっと頬を膨らませて抗議した。
「ママはママだもん! 今日のありさママは、本当のママと一緒に見えるもん! お洋服もキラキラしてて、お顔も一緒だもん!」
「ゆな……」
「パパだって、そうでしょう? ママだと思って見てるでしょう?」
ゆなちゃんの無邪気で鋭い問いかけが、狭い車内に響いた。
助手席で前を向いたまま、私は心臓が止まるかと思った。パパさんのハンドルを握る指先が、一瞬だけピクリと動いたのを、私は見逃さなかった。
「パパも、そうでしょう?」
もう一度繰り返されたその言葉に、パパさんはすぐには答えなかった。
ただ、フロントガラス越しに流れる景色を、どこか遠くを見るような目で見つめている。
「そうだね。……否定できないな」
絞り出すような、掠れた声。
「水木先生、困らせてしまって、すみません。でも、今日あなたがこうして隣に座ってくれていることが、僕たちにとってどれだけ救いになっているか……」
私は何も言えず、膝の上でバッグの取っ手をぎゅっと握りしめた。
ブラウスの下、今朝あんなに時間をかけて身に纏ったピンクのレースが、汗ばんだ肌にぴたりと張り付いているのを感じる。
亡き妻の影を私に重ねるパパさんと、純粋に「ママ」を求めているゆなちゃん。
そして、その期待を一身に背負いながら、「元・男」であるという最大の嘘を抱えている私。
「私で良ければ、今日は精一杯、ゆなちゃんの『ママ』の代わりを務めさせていただきますね」
私は震える声を押し殺し、努めて明るく、優しい「ありさ先生」の声で微笑んだ。
水族館の青い光の下で、この危うい幸せが壊れてしまわないようにと、密かに祈りながら。
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水族館の入り口をくぐると、そこには都会の喧騒を忘れさせる静謐な青の世界が広がっていました。
頭上の巨大なアーチ状の水槽を色とりどりの魚たちが群れをなして泳ぎ、揺らめく水面の反射が、私たちの足元をゆらゆらと照らし出します。
「わあぁ! キラキラしてる!」
ゆなちゃんが歓喜の声を上げて駆け出そうとするのを、パパさんが優しく制しました。
「ゆな、迷子になっちゃうよ。ほら、手をつなごう」
ゆなちゃんは「はーい!」と元気よく返事をすると、私の右手を小さな、温かい掌でぎゅっと握りしめました。
そして、もう片方の手でパパさんの大きな手を掴みます。
「ゆなね、こうやって歩きたかったの! ゆな、ありさママ、パパの順番だよ!」
「えっ……!?」
私は思わず息を呑みました。ゆなちゃんを真ん中に挟むのではなく、私が真ん中に立ち、右手にゆなちゃん、左手にパパさんという並び。
それは、物理的にも精神的にも、私が「家族の核」として二人に挟まれることを意味していました。
パパさんは少し照れたように、けれどどこか決意を秘めたような顔で、私の左手へと手を伸ばしました。
「いいでしょうか。ゆなが、どうしてもこうしたいみたいで」
「あ、はい……もちろんです」
差し出された無骨な掌が、私の指先を包み込みます。
その瞬間、私の全身に火花が散るような衝撃が走りました。
男性だった頃、誰かと手をつなぐことはあっても、これほどまでに「包み込まれる」感覚を味わったことはありません。
パパさんの手は節くれだっていて、仕事の厳しさを物語るように固く、けれど驚くほど熱い。その熱が、私の繊細な指先から腕へ、そしてブラウスの下で高鳴る胸へと伝わってきます。
「あっちに大きなカメさんがいるよ! 行こう!」
ゆなちゃんに引かれるまま、私たちは巨大水槽の前へと進みます。
パパさんは周囲のカップルや家族連れにぶつからないよう、さりげなく私の肩を庇うようにして歩いてくれました。その所作はあまりにスマートで、手慣れた大人の男性のエスコートそのものでした。
(やっぱり、パパさんは慣れてるんだ。素敵な奥様と、こうやって何度も歩いてきたんだろうな)
そう思うと、胸の奥が少しだけチクリと疼きました。
元・男としての嫉妬なのか、それとも一人の女性としての羨望なのか、自分でも判別がつきません。
けれど、繋いだままの手から伝わってくる微かな「違和感」に、私は気づきました。
パパさんの掌が、わずかに汗ばんでいる。そして、私を導くその指先が、ほんの少しだけ震えているのです。
「パパさん?」
私がそっと顔を覗き込むと、彼はハッとしたように正面を見据えました。
耳の付け根が、うっすらと赤くなっているのが分かります。
「すみません。自分でも驚くほど緊張していて。女性とこうして外を歩くのが、本当に久しぶりなもので。スマートにできなくて、格好悪いですね」
その正直な告白に、私の緊張がふっと解けました。
完璧なエスコートだと思っていた彼の仕草は、実は私と同じように、必死で「水木亜里沙」という女性に向き合おうとする努力の結晶だったのです。
「いいえ。私も、心臓が口から出そうなくらい緊張してますから。お揃いですね」
私が少しだけ力を込めて手を握り返すと、パパさんは驚いたように目を見開き、それから今までで一番優しい、柔らかな微笑みを浮かべました。
そんな大人の複雑な感情など露知らず、ゆなちゃんはただ純粋に、目の前の魔法のような光景に夢中でした。
「見て見て! あの赤いお魚、ドレス着てるみたい! ママみたいに可愛いね!」
「本当だね、ゆなちゃん。ひらひらしてて綺麗……」
水槽の青い光が、ゆなちゃんの瞳の中でキラキラと反射しています。
その無垢な笑顔を見ていると、自分が抱えている「正体」という名の嘘が、一瞬だけ消えてなくなったような気がしました。
右手に子供の未来、左手に大人の情熱。
二つの体温に挟まれながら、私は水族館の深い青へと沈んでいきました。
バレてはいけない。この幸せは、借り物の姿がもたらした危うい幻想に過ぎない。
けれど、今この瞬間の、パパさんの手の熱さとゆなちゃんの笑い声だけは、偽りのない真実として私の肌に刻まれていくのでした。
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水族館の最上階、潮の香りが微かに混じる屋外のショースタジアム。
巨大なプールの水面が午後の陽光を反射して、ダイヤモンドのように眩しく輝いている。
イルカたちの軽快な鳴き声が響き、開演を待つ観客のざわめきが心地よいBGMとなっていた。
「あっちの一番前に行こう! イルカさん、お水かけてくれるかな!」
ゆなちゃんに手を引かれ、私たちは観客席の中段へと腰を下ろした。
左側にはパパさん。
右側にはゆなちゃん。
その繋いだ手の温もりを離したくなくて、私は自分でも驚くほど、この「疑似家族」の時間に深く浸かっていた。
だが、幸せな予感に満ちたその静寂は、不意に背後から響いた明るい声によって打ち砕かれる。
「信二さん? やっぱりそうだ!見知ったランクルのナンバーが見えたから、もしかしてと思ったの!」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
振り返ると、そこにはトレンドのシアーシャツを羽織った、モデルのように洗練された若い女性が立っていた。
彼女の瞳は驚きに輝き、親密な者だけが持つ、遠慮のない笑顔をパパさんに向けている。
「聖奈さん! どうしてここに?」
パパさんの声が、微かに上擦った。
それを見た瞬間、私の胸の奥が冷たい氷を飲み込んだように凍りついた。
「どうしてって、友達と遊びに来てたの。最近全然連絡くれないから、もう忘れられちゃったかと思ったよ」
彼女はそう言いながら、ごく自然にパパさんの隣へと歩み寄り、その距離は私と彼の距離よりもずっと近いものだった。
仲睦まじい雰囲気。隠しきれない親愛。
私の脳裏には、瞬時に最悪のシナリオが渦巻く。
(彼女? それとも、亡き奥様の後の……新しい恋人?)
一歩、体が勝手に後ろへ引いてしまう。
借り物の清楚なワンピース。
先輩たちに施してもらった魔法のメイク。
自分でも驚くほど馴染んだ「水木亜里沙」という皮肉な仮面。
それらすべてが、彼女の持つ「本物の女性」としての輝きの前では、滑稽な張りぼてのように思えた。
「あ……ごめんなさい。お邪魔だったかな」
聖奈と呼ばれた彼女が、ようやく私の存在に気づいた。
その視線は鋭く、それでいて品定めするように私の全身をなぞる。
私は逃げ出したかった。
この場にふさわしくない偽物だと指差される前に、黒のランクルから、青い水族館から、すべてから消え去りたかった。
「あ、あの、私は……」
声を震わせる私を救った(あるいは、さらなる混乱へといざなった)のは、私の右手を握っていたゆなちゃんの無邪気な一言だった。
「あ! 聖奈おばちゃん!お魚さん見に来たの?」
「おばちゃんは酷いなー、ゆなちゃん! 『聖奈お姉さん』でしょ?」
彼女はゆなちゃんの頭を優しく撫で、それから再びパパさんと私を交互に見つめた。
パパさんは気まずそうに、けれど丁寧に私を指し示した。
「水木先生。こちらは聖奈さん。亡くなった妻の、一番下の妹さんです。聖奈、こちらはゆなの担任をしてくれている、水木亜里沙先生だ」
「妹……さん?」
私は、喉元までせり上がっていた絶望を、必死で飲み下した。
妻の妹。
つまり、亡き奥様の面影を最も色濃く受け継いでいる存在。
彼女の瞳が、私を見つめる色が少しだけ変わった。
「初めまして、水木先生。信二さんから聞いてました。ゆなが、驚くほど懐いている先生がいるって」
聖奈さんの言葉は穏やかだったが、その瞳の奥には、亡き姉の席を狙う不審者を警戒するような、鋭い光が宿っているように見えた。
対するパパさんの横顔には、義妹に対する気安さと、私を「先生」として紹介したことへの、どこか言い訳がましい緊張感が漂っている。
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イルカショーの開始を告げるファンファーレが鳴り響く。
水面が爆発したように揺れ、イルカたちが空高く舞い上がった。
観客席から上がる歓声の中で、私は、自分の左手にかかっていたパパさんの手の感触が、いつの間にか消えていることに気づいた。
「ありさママ、イルカさんだよ! 見て見て!」
ゆなちゃんの呼ぶ「ママ」という言葉が、聖奈さんの前では、鋭い刃物のように私の良心を切り刻む。
私は、聖奈さんとパパさんの間に流れる、部外者が入り込めない「共有された過去」の重みを肌で感じていた。
バレてはいけない。
正体も、そして……自分がいつの間にか、この場所に「居場所」を求めてしまっていたという、愚かな本心も。
青空の下、水しぶきがキラキラと舞う中で、私の恋心と恐怖は、イルカの跳躍よりも激しく揺れ動いていた。
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イルカショーの喧騒が終わり、観客席から人々が動き出す。
大きな歓声と水しぶきの興奮が冷めやらぬ中、ゆなちゃんが私の手をぎゅっと握りしめた。
「ありさママ、トイレ……」
「あ、そうだね。行こうか」
私はパパさんに目配せをして、ゆなちゃんを連れて女子トイレへと向かった。パパさんの視線が背中に刺さるのを感じて、少しだけ心臓が早鐘を打つ。
タイル張りの清潔なトイレ内。ゆなちゃんを個室に入れ、私は手洗い場の鏡の前で立ち止まった。
鏡に映る自分を見る。完璧に施されたメイク、借り物の可憐なワンピース。
けれど、その内側にある「嘘」が、今の私をひどく不安定にさせていた。
その時、自動ドアが開く音がして、一人の女性が入ってきた。
……聖奈さんだ。
心臓が跳ね上がる。
私は反射的に視線を落とし、不自然なほど丁寧に手を洗い始めた。
彼女は私の隣の鏡に立ち、迷いのない手つきでリップを直している。沈黙が重い。
「……あの、水木先生」
不意に声をかけられ、肩がびくりと震えた。私は顔を上げられず、洗面台の蛇口を見つめたまま「はい……」と消え入りそうな声で答えた。
「正直に言うとね、最初に先生を見たときは、いろんな感情があったんです」
聖奈さんの声は、先ほどまでの明るいトーンとは違い、しっとりと落ち着いていた。
「姉に似ている。ただそれだけで、信二さんもゆなも、目を逸らしているだけなんじゃないかって。正直、少しだけ身構えていました」
私は指先をぎゅっと握りしめた。
否定できない。
この姿はカプセルが作り出した「偽物」の形なのだから。
「でも、ゆなの笑顔を見ていたら、なんだか安心しちゃって」
え、と私が顔を上げると、鏡越しに聖奈さんと目が合った。
彼女の瞳には、先ほどの鋭い警戒心ではなく、温かな慈しみが宿っていた。
「あの子、あんな笑顔、本当に久しぶりなんです。姉が亡くなってからずっと、どこか無理をして笑っているような気がして。……それに、義理の兄のあんなに柔らかい表情も、久しぶりに見ました」
「パパさんの、表情……?」
「ええ。きっと、先生の存在が、あの二人にとっての止まっていた時間を動かしてくれたんだと思う」
聖奈さんはポーチを閉じると、私の方へ一歩歩み寄り、真っ直ぐに私の目を見つめた。
「水木先生。私からもお願いします。これからも、ゆなと……あの家族をよろしくお願いしますね」
「……っ」
喉の奥が熱くなった。
私は「男」として、この仕事を求めていた。
けれど今、私は一人の「女性」として、血の繋がった家族からその居場所を認められ、託されたのだ。
罪悪感と、それ以上に深い喜びが胸の中で渦を巻く。
バレてはいけない。
けれど、この信頼を裏切りたくない。
「はい。精一杯、努めさせていただきます」
ようやく絞り出した声に、聖奈さんは満足そうに微笑んだ。
「ありさママ、お待たせー!」
元気な声と共に、ゆなちゃんが個室から飛び出してきた。
彼女はそこにいる聖奈さんに気づくと、満開の花のような笑顔で手を振った。
「あ、聖奈おばちゃん! バイバイ!」
「コラ、お姉さんでしょ? ……バイバイ、ゆなちゃん。またね」
聖奈さんは私に軽く会釈をして、颯爽とトイレを出て行った。
残された私は、ゆなちゃんの小さくて温かい手を握り返し、鏡の中の「水木亜里沙」をもう一度強く見つめた。
「ありさママ、お腹すいた! パパのところに行こう!」
「うん、そうだね。行こう」
私は、自分の内側にあるピンクのレースの感触を、お守りのように感じながら、光の溢れる外へと一歩を踏み出した。
この嘘がいつか終わるとしても、今日この瞬間に誓った思いだけは、真実だと信じて。
d892ee64 No.3279
水族館に併設されたオーシャンビューのレストラン。
大きな窓の向こうには青い海が広がり、テーブルには柔らかな午後の光が差し込んでいました。
「ゆな、オムライスにする! ケチャップでハート描いてあるやつ!」
ゆなちゃんはメニューを指差して元気いっぱいです。
一方、私は先ほどの聖奈さんとの会話や、パパさんと繋いだ手の熱さがまだ残っていて、胸がいっぱいで食欲がほとんどありませんでした。
「私は……この彩り野菜のジェノベーゼにします」
せめて喉を通りやすそうなパスタを選び、メニューを閉じました。
パパさんはというと、眉間に少し皺を寄せて、真剣な表情で食品サンプルやメニューを見比べています。
「うーん、パスタも美味そうだが、このデミグラスハンバーグも捨てがたいな。いや、でもこっちの和風パスタも」
仕事の時とは違う、少し子供っぽさも混じった悩み方に、私は思わず口元が緩みました。
「パパさん、もしよかったら、半分ずつしませんか?」
「えっ?」
パパさんが驚いたように顔を上げました。
「あ、すみません。私もちょっと、どれも美味しそうで迷っちゃって。パスタを二種類頼んで、シェアしませんか? その、もし嫌じゃなければなんですけど……」
自分でも驚くほど自然に、女性らしい提案が口から出ました。
本当は緊張で食べられないだけなのですが、こう言えばパパさんの悩みも解決するし、不自然じゃない。
パパさんは一瞬、面食らったような顔をしましたが、すぐにパッと表情を明るくしました。
「いいんですか? 実は僕も、それが一番嬉しいと思っていたところです。じゃあ、僕は渡り蟹のトマトクリームパスタにします。水木先生のジェノベーゼと、半分こですね」
「はい、そうしましょう」
運ばれてきた二皿のパスタ。私たちは自然な動作で、小皿に取り分け合いました。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。……あ、こっちも美味しそうですね」
一つのものを分け合う。
それは「他人」という境界線が、少しだけ曖昧になる瞬間でした。
パパさんが取り分けてくれたパスタを口に運ぶと、トマトの甘みと一緒に、なんだか胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じます。
「おいしい」
「本当ですね。先生とシェアすると、一人で食べるよりずっと美味しく感じます」
パパさんが照れくさそうに笑い、フォークを動かします。
向かい側では、ゆなちゃんが口の周りにケチャップをつけながら、幸せそうにオムライスを頬張っていました。
「ママとパパ、なかよしだね!」
ゆなちゃんが無邪気に笑い、私たちは同時に顔を見合わせて、それから慌ててパスタを口に運びました。
ブラウスの下で、ピンクのレースがドキドキと波打つ鼓動を刻んでいます。
バレてはいけない。
でも、分け合ったパスタの味も、この穏やかな空気も、全部本物であってほしいと……そんなわがままな願いが、私の中に芽生え始めていました。
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レストランを出て駐車場へ向かう道すがら、潮風が少しだけ強くなっていた。
借り物のフレアスカートがふわりと舞い上がり、私は慌てて裾を押さえる。
隣を歩くパパさんは、そんな私の足元を気遣うように、歩幅を合わせてゆっくりと歩いてくれた。
巨大な黒のランクルに乗り込むと、水族館の喧騒が嘘のような静寂が訪れる。
重厚なドアが閉まる音は、外界を遮断する合図のようだった。
「ふふ、ゆなちゃん……。」
バックミラー越しに後部座席を見ると、ゆなちゃんは今日買ったばかりの小さなアザラシのぬいぐるみを抱きしめたまま、カクンカクンと首を揺らしていた。
やがて、規則正しい寝息が聞こえ始める。
「今日は、本当にはしゃいでいましたからね。先生、本当にありがとうございました」
パパさんがエンジンをかけ、車が静かに滑り出した。
車内に流れるのは、ゆなちゃんの穏やかな寝息と、低く響くタイヤの走行音だけ。さっきまでの「ママ」としての緊張感が、少しずつ解けていくのを感じる。
「いえ……私も、あんなに近くでイルカを見られて、すごく楽しかったです。……パパさんも、少しはお休みになれましたか?」
「ええ。仕事のことを一瞬でも忘れられたのは、何ヶ月ぶりでしょうか。……水木先生とこうして話していると、なんだか不思議ですね。初めてお会いした気がしないというか、ずっと前からこうして一緒にいたような、穏やかな気持ちになれるんです」
パパさんの穏やかな横顔に、私は胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚を覚えた。
「それは、きっとゆなちゃんのママが、素敵な方だったからですよ。聖奈さんも仰っていました。私、少し雰囲気が似ているって」
「聖奈が……。そうですね、確かに面影はあります。でも、今日一日一緒に過ごして気づいたんです。あなたは、誰の代わりでもない。水木先生という、一人の、とても優しくて懸命な女性なんだって」
信号待ちで止まった車中、パパさんがふと私の方を向いた。
その視線は、亡き妻の幻を追っているものではなく、今、目の前にいる「水木亜里沙」を真っ直ぐに捉えていた。
「あ、あの、私……そんなに立派な人間じゃなくて。実は、自分でも気づかないうちに、皆さんに嘘をついているような、そんな後ろめたさを感じることもあるんです」
それは、喉元まで出かかった真実の、精一杯の断片だった。
パパさんは少し意外そうに目を見開いたが、すぐに優しく目を細めた。
「完璧な人間なんていませんよ。僕だって、父親として、男として、情けないことばかりです。でも、先生が今日、僕たちのために注いでくれた時間は、間違いなく本物です。それだけで十分なんですよ」
パパさんの声は、ランクルのエンジン音よりもずっと深く、私の心の奥底まで響いた。
ブラウスの下、今朝あんなに迷って選んだピンクのレースが、パパさんの言葉に反応するように、私の胸元で熱を持っている。
(この人は、今の私を、水木亜里沙として見てくれている)
バレてはいけない。この姿は魔法のカプセルが作り出した偽りだ。
けれど、この車の中に流れる、ゆなちゃんの寝息と、パパさんの優しい言葉と、私たちが共有しているこの穏やかな空気だけは。
「ありがとうございます、パパさん。そう言っていただけると、少し救われる気がします」
私は、窓の外を流れる東京の街並みを見つめながら、こっそりと自分の手のひらを握りしめた。
そこにはまだ、水族館で繋いだ彼の掌の熱が、確かな記憶として残っていた。
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夕暮れに染まり始めた街を、漆黒のランクルが静かに進んでいきます。
車内には穏やかな幸福感と、終わりが近づく時間の切なさが満ちていました。
「水木先生、今日は本当に……何とお礼を言えばいいか。何か、僕にできる御礼をさせてください」
パパさんがハンドルを握ったまま、真剣な面持ちで切り出しました。
私は慌てて首を振ります。
「いいえ、そんな! 私の方こそ、ゆなちゃんやパパさんと過ごせて、本当に楽しかったですから。……この楽しい時間そのものが、何よりの御礼です。だから、お気遣いなく」
それは嘘偽りのない、今の私の本音でした。
けれどパパさんは、「そうですか……」と少しだけ寂しそうに微笑むと、ふと思い出したようにウィンカーを出しました。
「少しだけ、寄ってもいいですか?」
車が停まったのは、住宅街の角にある、こぢんまりとした、けれどセンスの良さを感じさせるケーキ屋さんの前でした。
「少し待っていてください。すぐ戻りますから」
パパさんはそう言い残すと、軽やかな足取りで店の中へ消えていきました。
残された車内。
後部座席では、ゆなちゃんがアザラシのぬいぐるみを抱いたまま、「すー……すー……」と幸せそうな寝息を立てています。
ダッシュボードに置かれた彼の私物、車内に漂う微かなコロンの香り。
私は自分の胸元に手を当てました。ブラウスの下、朝から私を支えてくれていたピンクのレースが、肌の熱を帯びてしっとりと馴染んでいます。
(私、本当に女の子として、今日一日を終えようとしてるんだな)
そんな感傷に浸っていると、10分ほどして、パパが白い大きな紙袋を抱えて戻ってきました。
「お待たせしました。これ、受け取ってください」
助手席に差し出された袋からは、バターとバニラの甘くて香ばしい匂いがふわりと漂ってきます。
「これ、妻が大好きだったお店の焼き菓子なんです。……もしよかったら、寮の先生方と一緒に食べてください。皆さんで、僕たちのわがままを支えてくださったんでしょう?」
「……っ」
パパさんの細やかな気遣いに、胸の奥が熱くなりました。
亡き奥様が好きだった味を、今の私と、私を支える仲間たちに。
そこには、過去を大切にしながら前を向こうとする、彼の誠実さが詰まっていました。
「ありがとうございます。みんな、きっと大喜びします。大切にいただきますね」
車はやがて、朝待ち合わせたあの公園へと辿り着きました。
朝の緊張が嘘のように、今は公園の木々が長く伸びた影を落としています。
「着きましたね」
パパがエンジンを切ると、車内は深い静寂に包まれました。
後部座席のゆなちゃんは、まだ夢の中。
「ゆな……まだ起きそうにないですね。今日は本当に頑張って歩いていましたから」
パパさんが愛おしそうに娘を見つめる横顔を見て、私は「この時間が、ずっと続けばいいのに」と、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、正体を忘れて願ってしまいました。
バレてはいけない。
けれど、この甘い焼き菓子の香りと、パパさんの優しい眼差し、そして心地よい疲労感だけは、明日からの私を支える本当の記憶になる。
「それじゃあ、ここで。本当に、ありがとうございました」
私は、膝の上で焼き菓子の袋をぎゅっと抱きしめ、名残惜しさを押し殺して、助手席のドアノブに手をかけました。
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ドアを開けようとした私の手が、その一言でぴたりと止まった。
「水木先生」
パパさんの声は、これまでになく低く、そして切実な響きを帯びていた。
私がゆっくりと振り返ると、彼はハンドルの上に置いた手を無意識に握り締め、真っ直ぐに私を見つめていた。
夕暮れの淡い残光が車内に差し込み、彼の瞳を琥珀色に染め上げている。
「今日一日、身勝手な願いに付き合わせてしまったことは分かっています。先生の優しさに甘えて、ゆなだけでなく、僕自身も救われてしまいました」
彼は一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。
「また、こうして誘ってもいいですか? もちろん、ゆなが先生に会いたいと言っているから、というだけではありません。僕が……僕個人が、あなたとまた、今日のような時間を過ごしたいんです」
その言葉は、もはや「保護者」から「担任」へ向けたものではなかった。
一人の男性が、一人の女性へと差し出した、真っ直ぐな、そして不器用な情愛の形。
私の心臓が、耳元でうるさいほどに脈打ち始める。ブラウスの下、朝から私を包み込み、守り、そして「女」であることを意識させ続けてきたピンクのレースが、パパさんの告白に応えるように熱く肌に張り付いた。
(ダメだよ、私。本当の正体を隠したまま、この人の心にこれ以上踏み込んじゃ)
理性が必死に警鐘を鳴らす。
私は「水木亜里沙」という器を借りているだけの存在だ。
いつかはこの魔法が解け、真実を明かさなければならない日が来るかもしれない。その時、彼を、そしてゆなちゃんを、今以上の絶望に突き落とすことにならないか。
けれど、鏡の中の自分、寮の仲間たちが魔法をかけてくれた今の自分、そして何より、今日一日を「一人の女性」としてパパさんの隣で過ごした私の心が、理性の声をかき消した。
「……はい」
自分でも驚くほど、しっとりと、そして柔らかな声が唇から零れ落ちた。
「私でよろしければ……喜んで。また、誘ってください」
その瞬間、パパさんの顔に、今日一番の、少年のような晴れやかな笑顔が浮かんだ。
「よかった。ありがとうございます、亜里沙さん」
「先生」ではなく、初めて名前で呼ばれた。
その響きが甘い痺れとなって全身を駆け巡る。私は頬が赤くなるのを隠すように、焼き菓子の袋を胸に抱きしめ、助手席のドアを開けた。
「おやすみなさい。ゆなちゃんにも、よろしくお伝えください」
「ええ。おやすみなさい。……また、すぐに」
車を降り、ランクルがゆっくりと走り去るのを見送る。
そのテールランプが夜の闇に消えても、私の左手にはまだ、彼と繋いでいた手の熱が消えずに残っていた。
私は、自分の指先にそっと触れた。
バレてはいけない。けれど、この嘘の先に、もし本当に「女としての幸せ」が待っているのだとしたら。
夜風に揺れるワンピースの裾を押さえながら、私は弾むような足取りで、皆が待つ女子寮への道を歩き出した。
胸の中には、甘い焼き菓子の香りと、予期せぬ未来へのときめきが、ピンクのレースを押し上げるほどに満ち溢れていた。
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寮の玄関へ続くアプローチを歩きながら、私はまだ夢見心地だった。
胸に抱いた焼き菓子の袋は、パパさんの優しさの重みでじんわりと温かい。
夜風に吹かれながら、今日という一日を反芻し、彼から「名前」を呼ばれた瞬間の熱を思い出しては、一人で頬を緩めていた。
「ただいま……」
そっと重い玄関の扉を開けた、その瞬間。
「「「おかえりなさーい!!!」」」
静寂を切り裂くような大合唱に、心臓が飛び出しそうになった。
そこには、示し合わせたかのようにパジャマやルームウェア姿の同僚たちが、仁王立ちで、あるいはニヤニヤと壁に寄りかかって待ち構えていた。
その数、寮に住む全職員。まさに「待ち伏せ」という言葉が相応しい光景だった。
「ひゃっ!? び、びっくりした……皆さん、どうしたんですか、こんな時間に」
「どうしたんですか、じゃないわよ! さあ、ブツを回収!」
「わ、美味しそうな香り! これ、例のパパさんからのお土産ね?」
私の返事も待たず、田中主任と佐藤先生が手際よく私の手から焼き菓子の袋を没収した。
そのまま私は、半ば引きずられるようにして寮の共有ホールへと連行された。
ホールの中央、普段は子供たちの成長記録などをチェックするための大きな円卓に座らされる。
しかし、そこにあったのは園の書類ではなく、一台のタブレット端末と、お土産の焼き菓子が並べられた皿だった。
「さあ、亜里沙ちゃん。まずは総評から聞かせてもらおうかしら」
田中主任が、探偵のような鋭い目つきで私を見下ろす。
「総評って……あの、すごく楽しくて、ゆなちゃんも喜んでくれて、それで……」
「ダメよ、そんな主観的な感想じゃ! 私たちが知りたいのは『事実』なの。たとえば……この、水族館の入り口での手繋ぎの密着度とかね!」
「えっ、なんでそれを……」
私が凍りついた瞬間、佐藤先生がニヤリと笑ってタブレットの画面を私の方へ向けた。
そこには、目を疑うような光景が映し出されていた。
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「えっ!? これ、今日の私……!?」
画面に映っていたのは、水族館の青い光の中で、パパさんとゆなちゃんと三人で手を繋いで歩く私の背中だった。それだけではない。
「半分こ」してパスタをシェアしているレストランでの不意打ちの笑顔。
イルカショーの最中、パパさんと見つめ合っているような角度のアップ。
極めつけは、帰り際のランクルの中で、私が頬を赤らめて彼を見つめている、車外からの望遠ショット。
「な、なんですかこれ! 誰が撮ったんですか!?」
「私たちよ。『ひまわり探偵団』結成よ!」
田中主任が、誇らしげに胸を張った。
聞けば、私が寮を出た瞬間から、非番だった先生たちが交代で尾行していたというのだ。
ある者はカップルを装い、ある者はサングラスにマスクで一般客に紛れ、さらには高性能のズームレンズを装備したカメラまで持ち出していたらしい。
「私たち、リアルタイムでグループチャットに写真流して、寮に残った組と一緒に一喜一憂してたんだから!」
「レストランでパスタシェアした時は、食堂で拍手が起きたのよ?」
「あの聖奈さんが出てきた時は、全員で『誰よあの女!』ってスマホに向かって叫んじゃったわ」
「ストーカー、じゃないですか。これ、立派な犯罪ですよっ!」
私が顔を真っ赤にして抗議すると、先生たちは「愛のムチよ、愛の!」と笑い飛ばした。
「でもさ、亜里沙ちゃん。あんた、いい顔してたわよ」
佐藤先生が、焼き菓子のクッキーを頬張りながら、少しだけ真面目な声を出した。
「最初こそぎこちなかったけど、後半なんて完全に『恋してる女の子』の顔。私たちが選んだ服も、メイクも、あんなに綺麗に使いこなしてくれるなんて……正直、ちょっと感動しちゃった」
「でも、撮られてたなんて全然気づかなくて……」
「そりゃそうよ。パパさんに夢中だったものね。それに、あのピンクの下着……やっぱり効果あったんじゃない? 背筋が伸びてたわよ、あなた」
「ひゃああ! 下着のことまで言わないでください!」
私はたまらず顔を両手で覆った。
皆の温かい(そして過剰すぎるほどお節介な)応援。盗撮されていたことへの怒りよりも、この「水木亜里沙」という一人の女性を、全力でプロデュースしてくれた彼女たちの優しさが、少しだけこそばゆかった。
「あ、そういえば亜里沙ちゃん。パパさんの最後のあの一言、なんて言われたの?」
田中主任が、身を乗り出して聞いてきた。流石に車内の音声までは拾えなかったらしい。
「また、誘ってもいいですか、って」
私が蚊の鳴くような声で答えると、ホール内は今日一番の絶叫と歓喜の渦に包まれた。
「やったぁぁぁ! 次回作決定!」
「次は遊園地? それとも夜景?」
深夜まで続く、終わりのない反省会。
私は、皆が笑いながら食べる焼き菓子の甘い香りに包まれながら、自分の内側にある「本当の正体」を、今は少しだけ心の奥深くに隠しておこうと思った。
バレてはいけない。
けれど、この賑やかで温かい「女の子たちの秘密」の中にいられることが、今の私にとっては、カプセルの魔法よりもずっと、現実の幸せのように感じられていた。
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深夜の寮、騒がしい反省会がようやくお開きになった。
皆がそれぞれの部屋へ引き上げ、私は重い足取りで共同浴場へと向かった。
身体を包むワンピースは借り物だけれど、あのピンクのレースの下着だけは自分のもの。それを脱ぐのが惜しいような、不思議な高揚感と気恥ずかしさが入り混じっていた。
湯気で曇った浴場には、先に入っていた田中主任が、大きな湯船にゆったりと浸かっていた。
「あら、主役のお帰り。結局、お持ち帰りも、持ち帰られもせずに戻ってきたのね」
田中主任が湯船の縁に顎を乗せ、いたずらっぽく私を見つめる。私はバスタオルを巻き、そっと湯船の端に腰を下ろした。
「持ち帰る、なんてそんな。あくまでゆなちゃんとパパさんと、お食事をしただけですよ」
私の言葉に、彼女は「ふふん」と鼻を鳴らした。
「本当は期待してたんでしょ? あの雰囲気で、あのイケメンパパ。今日は抱かれるつもりだったのに、残念ね。せっかく完璧な下着で勝負に出たっていうのに」
彼女の直球すぎる指摘に、顔が熱くなる。
確かに、彼と視線が絡み合った瞬間、あるいは車内で名前を呼ばれた瞬間……心のどこかで、もしもこのまま彼と二人きりになったら、どうなるんだろうという淡い想像がよぎらなかったと言えば嘘になる。
「そんなこと! まだ、そんな関係じゃありません」
「まあ、焦ることはないわ。でもね、亜里沙ちゃん。あなたの身体、今日一日で随分と『その気』になってるみたいじゃない?」
主任は湯船の中でスルスルと私に近づき、私の太ももを指先でなぞった。
彼女の指先が触れるたび、ゾクゾクと電流が走る。
元が男性だった私にとって、この「女性としての肉体の敏感さ」は、未だに慣れない恐怖であり、同時に抗いがたい快感でもあった。
「そんなこと、ないです」
「強がっちゃって。正直に言いなさいよ。彼と過ごして、身体が火照って、自分でも持て余してるんでしょう?」
彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべ、少し声を潜めて耳元で囁いた。
「もし、体が求めているなら、私の『グッズ』でも貸そうか?」
「えっ……!?」
私は素っ頓狂な声を上げてしまった。
貸そうか? って……そういうものを?
「あら、そんな驚かなくても。女子寮なんてみんな持ってるわよ。亜里沙ちゃん、初めてでしょう? 女としての欲求の処理の仕方。自分で自分を愛してあげるの、悪いことじゃないわよ。それとも、やっぱりパパさんの手じゃないと満足できない?」
田中主任は私の反応を面白がるように、妖艶な瞳で見つめている。
「キスマークの魔女」の異名は伊達ではない。彼女の言葉は、私の心の奥の「元・男」としての戸惑いと、「女」としての昂ぶりを見事に抉り出してくる。
「お断りします! そういうのは、ちゃんと……その、自分で!」
私は真っ赤になって逃げるように湯船から立ち上がった。
しかし、シャワーを浴びながら、ふと思う。
もし本当に、今日彼と過ごした熱が、この身体の中に澱のように溜まって、どうしても消えない夜が来たら……。
私は鏡の中の自分の身体を見た。
あんなに夢中になって選んだピンクのレース。それを脱ぎ捨て、明日の朝にはまた「先生」という仮面を被る。
「私、どうなっちゃうんだろう」
吐息と共に湯気が消えていく中、パパさんの温かい手の感触が、再び蘇ってくるような気がした。
本当の私を知らないまま、彼が私を求めてくれる日が来るのか。それとも、この嘘のまま終わるのか。
不安と期待が、ピンク色の熱となって、今夜も私の身体を支配しようとしていた。
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静まり返った自室のドアを閉め、私は鍵をかけた。
共同浴場で田中主任に突きつけられた言葉――「体が求めているなら」という、あまりにも生々しい問いかけ――が、耳の奥でまだ熱を帯びて反響している。
部屋の明かりを落とし、ベッドに倒れ込む。
天井を見つめながら、私は抗えない力で、さっきのデートの記憶を脳内で反芻し始めた。
公園のベンチで、あるいはランクルの助手席で、彼が私を見つめていたあの眼差し。
もし、あの時、彼が私を……「水木亜里沙」を抱きしめたら。
その妄想が頭をよぎった瞬間、心臓が「キュンッ」と締め付けられるように跳ねた。
ただの胸の高鳴りではない。
もっと深く、もっと本能的な波が、背骨を伝って全身を駆け巡る。
かつて男だった私には、かつては想像もつかなかった感覚だ。
(……抱かれたい。彼に、触れられたい)
そう思った瞬間、お腹の下あたり——密かに脈打つ、繊細な熱源——が、じわりと温度を上げていくのを感じた。
まるで、今日のデートで彼の体温を肌に直接刻み込まれたかのように、私の身体が彼を記憶し、もっと深い繋がりを求めて疼いている。
(あぁ、駄目だ。なんて……なんて私は、卑猥なことを考えているの)
両手で自分の頬を覆う。
指先から伝わる顔の熱さは、お風呂上がりのせいだけではない。
「元・男」である私が、今の「女」としての身体で、一人の男性を、これほどまでに切実に求めている。
その事実に気づくたび、罪悪感と、それ以上に抗いがたい陶酔感が心の中でせめぎ合う。
恥ずかしさと高揚感で胸がいっぱいになり、私はベッドから起き上がった。
この熱を鎮めなければ。
落ち着かなければ。
私はクローゼットから、今日のために用意していた新しいパジャマを取り出した。
淡いパステルブルーの、柔らかいコットンのセットアップ。
鏡の前で着替えを済ませると、生地の優しい肌触りが、火照った肌をそっと包み込んでくれる。鏡に映る私は、レースの華やかさを脱ぎ捨て、どこか少女のような無防備さを纏っていた。
「……可愛いパジャマ、ですね」
鏡の中の自分に向かって、小さく呟いてみる。
誰に見せるわけでもない、自分だけの秘密の格好。
でも、パパさんが見たら、どんな顔をするだろう。そんな「もしも」を考えてしまう自分に、またしてもお腹の奥が熱くなる。
私は窓辺に立ち、夜の街を見下ろした。
あちら側のどこかで、彼も、そしてゆなちゃんも眠りについているはずだ。
私は深く息を吐き、静かに目を閉じる。
今夜は、彼に抱かれる夢が見られるかもしれない。
この身体が知ってしまった、抗いがたい熱の正体を確かめるために。
私はベッドに戻り、ブルーのパジャマの襟元をぎゅっと引き寄せて、冷たいシーツの上で丸くなった。
心臓の鼓動はまだ速い。
でも、それはもう恐怖ではない。
「水木亜里沙」として、もっと深く彼に触れたいと願う、隠しきれない本音だった。
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暗闇に包まれた部屋。
シーツの下で、私は自分でも驚くほど指先が震えているのを感じていた。
ブルーのパジャマのボタンを、一つ、また一つと外していく。
わずかに冷えた夜気が肌に触れ、それだけで身体がびくりと震えた。
(これは、私の身体なんだ。私が、愛してあげなきゃいけない身体)
田中主任に言われた言葉が、呪文のように頭をよぎる。
私は覚悟を決めるように、自分の手に意識を集中させた。
細く、しなやかな指先が、ゆっくりと膨らみ始めた胸に触れる。
「っ……」
指先が柔らかな肉に沈み込み、そこから熱が波紋のように全身へ広がっていく。
最初は恐る恐る、まるで壊れ物を扱うように。
けれど、自分の内側から湧き上がる衝動に抗えず、少しずつ、力が入っていく。
指が吸い付くようにめり込み、掌でその重みを確かめるように優しく揉み解す。
男だった頃の記憶にはない、圧倒的な柔らかさ。
そして、触れられている場所から脳へと直接響く、痺れるような感覚。
(あ、あぁ……。パパさんの手も、こんなに熱いのかな……)
「あっ……んっ……」
自分の口から漏れたのは、聞いたこともないような高く、甘いかわいい喘ぎ声だった。
その声に自分自身が一番驚き、慌てて枕に顔を押し付ける。けれど、一度解き放たれた感覚は、もう止めることができなかった。
(もっと……もっと、強く……)
指先が熱を帯びていく。
シーツの下で丸まり、自分の身体を抱きしめるようにして、私は「水木亜里沙」という一人の女に、深く、深く溺れていった。
窓の外では、静かに夜が更けていく。
バレてはいけない。
この恥ずかしくて、けれどたまらなく愛おしい自分だけの秘密は、ブルーのパジャマの中に閉じ込めたまま、私は夢の中で、再びあの人の大きな手を探し始めていた。
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布団の中で、シーツが擦れる音さえも鼓膜にうるさく響くほど、私の感覚は研ぎ澄まされていた。
ゆっくりと、けれど確実な律動で胸を愛撫し続けるたび、甘い痺れは指先から腕を伝い、背徳的な熱となって下腹部へと流れ落ちていく。へその下あたりが、ずっしりと重く、焦がれるような熱を帯びていた。
そこは、言葉を持たないもう一つの口が「もっと触れて」と切実に訴えかけているような、そんな感覚。
かつてそこにあったはずの「象徴」は、今や遠い前世の記憶のように霞んでいる。
代わりに鎮座しているのは、ただひたすらに受動的で、それでいて底なしの快楽を予感させる、柔らかな窪み。
(……おかしい。あんなに、あんなに怖かったはずなのに)
自分の中に「あれ」がないこと。
その空虚さが、今は不思議なほどに心地よい。アソコがないことへの違和感は完全に消え去り、むしろ、この形こそが今の私にとっての真実なのだと、細胞の一つ一つが納得してしまっていた。
その確信を深めるように、パジャマ越しに擦れていた乳房の先にある小さな突起が、いつの間にか自己主張するようにツンと硬くなっているのがわかる。
指先がそこをかすめるたび、脳髄を直接かき回されるような鋭い刺激が走り、腰が不自然に跳ねた。
「ふぁ……っ、はぁ、んんっ……」
指先がさらに深く、ブルーのパジャマの隙間から下へと滑り込む。
自分の肌に触れているはずなのに、頭の中ではそれがパパさんの、あの無骨で熱い大きな手であるかのような錯覚に陥る。
もし、あの水族館の暗がりで、彼の手がここへ伸びていたら。もし、帰りの車の中で、彼が強引に私を求めていたら。
妄想の毒が、私の理性をじわじわと侵食していく。
私は細い指をめり込ませ、自分の中の「女」を抉り出すように、夢中で熱を追い求めた。
この壊れそうなほど甘い自慰の果てに、私が誰を想い、どんな姿に成り果てているのか。
夜の静寂の中で、私の吐息だけが、熱を持ったまま闇へと溶けていった。
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布団の海に深く沈み込みながら、私の指先は、自分でも制御できない意思を持っているかのように、さらなる熱源へと吸い寄せられていった。
お腹の下を這う細い指先が、下着の柔らかな布地を滑り落ち、その奥にある湿り気を帯びた茂みへと辿り着く。
かつては異物でしかなかったその場所が、今は私の身体の中で最も雄弁に快楽を欲していた。
指先がその中心、熱の核であるクリを優しく撫で上げた。
「っ……!!」
一瞬、思考が真っ白に弾けた。
たった一度、指先が触れただけ。
それだけで身体がビクビクと大きな痙攣を起こし、つま先までがピンと跳ね上がる。
自分でも驚くほどの過敏さに、背筋に稲妻が走るような感覚。
(あぁ、すごい。ここを、ここを触るだけで、こんなに)
指先を動かすたびに、甘美な痺れが波紋のように広がり、身体全体が心地よい重だるさに溶かされていく。触っているだけで、心も体も快感に染まり、自分が誰であったかさえも忘れてしまいそうになる。
私は荒い息を吐きながら、迷い、躊躇い、そして抗えない渇望の果てに、ゆっくりと人差し指をその奥へと滑り込ませた。
「はぁ……っ、ぁ、んんんっ……!」
内側の熱い粘膜が、侵入してきた指を吸い付くように締め付ける。
かつては「挿れる側」だった私が、今は「受け入れる側」として、自分の指の感触に悶えている。その圧倒的な逆転劇に、脳が痺れる。
「あ……っ、ぁっ、パパ、さ……ん……」
枕に顔を埋めたまま、制御不能になったかわいい喘ぎ声が何度も溢れ出す。
指が中を探るたび、お腹の底がキュンと震え、溢れ出した蜜が指をさらに滑らかに導いていく。
このブルーのパジャマの下で、清楚な「ありさ先生」が、自分自身の指で、パパさんの面影を追いながらこれほどまでに乱れているなんて。
夜の静寂は、私の甘い悲鳴を優しく飲み込み、私は自分自身の熱の中に、深く、深く沈み込んでいった。
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指は本能に突き動かされるように、私自身も知らなかった「秘密の場所」を正確に抉り出していく。
「あ……っ、そこ……っ」
ある一点を掠めた瞬間、脳を直接指先で弾かれたような鋭い快感が走り、腰が勝手に跳ね上がった。
いつの間にか、指はそこばかりを執拗に、そして深く刺激していた。
中をかき回されるたびに、お腹の底がキュンとせり上がり、内側から熱い何かが溢れ出して止まらない。
意識はもう朦朧としていて、目の裏には水族館の青い光と、パパさんのあの熱い手の感触が交互にフラッシュバックする。
(だめ、声が出ちゃう……!)
静まり返った寮の部屋に、自分のあられもない声が響くのが怖くて、私は手のひらをぎゅっと口に当てた。それでも、指の間から「んぅっ……! ふぁ……っ」という、こらえきれないほどかわいい喘ぎ声が漏れ出してしまう。
この溢れ出した熱を抑え込むことができない。
私はもどかしさに耐えきれず、ブルーのパジャマのズボンとショーツを一緒に掴むと、一気に足元まで脱ぎ捨てた。
空気にさらされた下半身が、羞恥心と期待で震える。
遮るものがなくなったことで、指はさらに深く、激しく、私の核へと食い込んでいく。
指先が内側の柔らかな壁を擦り上げるたびに、火花が散るような快感が全身を貫き、視界が白く染まっていく。
(パパさん、パパさん……っ!)
心の中で、もう届くはずのない彼の名前を叫びながら、私は自分でも引くほどに濡れそぼった指で、終わりなき快楽の深淵へと真っ逆さまに落ちていった。