山下泰平の趣味の方法

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開戦してサッパリした人々

そこそこ有名な話なのだが、太平洋戦争が開戦して、サッパリとしたさわやかな気分になった人が多かった。

1937年からの日中戦争が長期化、1940年の大政翼賛会発足、物資統制の本格化や、新聞統合などなど、太平洋戦争開戦(1941年12月)前、日本の社会には重苦しい空気が蔓延していた。

日米交渉が続いていることは報道から分かっていたため、人々は「結局どうなるのか」「いつ対米英戦が起きるのか」という先行きの見えなさに苛立っていたのである。

もうひとつ、日中戦争は長期化で大義名分がぼやけていた。それに対して米英戦はABCD包囲網を打ち破れというように、目的が単純明快でわかりやすく爽快感があった。

徳川夢声は『無声戦争日記』のまえがきに、この時期の心中について書き残している。

まったく一日として神経の休まる日はないのであった。私たちは今の言葉でいう、ノイローゼになっていた。これ以上、こんな緊張の日々が続くのは堪えられない。そこへもって十二月八日の太平洋戦争だ。なにはともあれ、これでどっちかへ片づく。ヤレヤレという気もちであった。

そして開戦、サッパリした人が多くいた。

翼賛少年団の少年はラジオ体操をしている時に、開戦のニュースを聞き、「やったぞ! やった、とうとう戦争だ!」と絶叫しながら小躍りして家へ飛んで帰った。小学生らしい馬鹿さがあり好感度が高い。『8・15を読む・語る 日本はこれでいいのか市民連合 第三書館 昭和五七(一九八二)年

五所川原支局の新聞記者が、校長を取材するため訪ねると、いきなり「とうとうやった、さっぱど(さっぱりの方言)した」と言われた。記者が「何ですか?」と聞くと、「まだ知らないのか、日本軍は真珠湾を攻撃し、大戦果をあげた。いよいよ日米開戦だ。宣戦布告したのだ」と興奮している。『東奥日報と昭和時代 前期 東奥日報社 東奥日報社 昭和五四(一九七九)年

傷痍軍人療養所では、ニュースを聞いた患者が、「おいッ日米開戦だ!」と叫び、それを聞いたTは飛びつくやうに枕元のラジオにスイッチを入れた。「ああ、やったやった。とうとうやっちゃったなあ」と沼田なる男も思ったが、怪我で第一線に立てない不甲斐なさに泣いた……とあるが本音はどうかは謎である。案外怪我してて良かったと思っていたのではないか。『[麦の穂ずれ : 傷痍軍人随筆集 前本, 一男 日本文章社 昭和一八(一九四三)年 1943」(https://dl.ndl.go.jp/pid/1110054/1/110)』

会社で開戦を知った女子事務員は、胸の中では何かが凛々と鳴りひびいた。「眼の前が一時にすっと吹き晴れて、眼に沁みる寒ささえが、あの朝は爽やかに感じられた。」男たちは「皆にこにこして、やつたね、やりましたね、と云ひ合ひ、まるで今すぐ自分たちが出征でもするような勇み方で」同僚のYは「男の人たち、みんなうれしさうね」とささやいた。『新天地 23(1) 新天地社 新天地社 昭和一八(一九四三)年 1943

佐藤喜一郎は「長い間隠忍自重した国民が、最早これ以上の忍耐は屈辱と紙一重であることを悟り、政府の堪忍袋を二億個の眼で凝視してゐた時も時、遂に」開戦したので、「腫れひろがるしこりを外科手術によつて切開した爽やかな気分」になった。「人々は「それ来たッ」と、恰も待ちに待つた時機が到来したかの感を抱いたにちがひない。」としているが、この能天気さは冒頭で紹介した小学生に近い。『街の浮標 : 評論随筆集 佐藤, 喜一郎, 1901-1970 先生書店 昭和一八(一九四三)年 1943

ひとつ考慮に入れておいたほうが良いことがある。これらの気持が本音とは限らないという点だ。戦時中に書かれたものは、検閲や世間へのウケが考慮されているはずだ。例えばこれなんかは典型的なウケ狙いのプロパガンダで、完全にイカれた野郎だといえよう。

「勝つぞ!」

大和魂のたくましい気力が音を立てんばかり煮えたぎつた。

(中略)

開戦の報はただちにラジオによつて、全国の隅々にまで放送された。国民はみな床をけつてとびおきた。大人も子供もラジオの前にかけつけた。ラジオは繰返して叫んだ。

「帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋に於て米英軍と戦闘状態に入れり。」

幾度も繰返される。アナウンサーのこえも引きしまつた気持がびんびん感じられる。

「戦争だっ。」

「やったなっ。」

「勝つたぞ。負けてたまるかっ。」

全国民の心は熱火の玉となつて一度に燃えあがつた。

日米英大決戦物語 和田, 政雄 鶴書房 昭和一七(一九四二)年 1942

これに対して『新天地 23(1) 新天地社 新天地社 昭和一八(一九四三)年 1943』三宅豊子は「私の感動はまことに幼い単純なものではあつたが、私はその幼い単純な感動を粗末には思えない今の気持だった。そういふ単純な感動に素直に従ってゆける自分をこそ大切に思いたかった」と素朴に書いている。おそらくこの気持に嘘はないはずだ。この記事では、このようなどちらかといえば信頼できるだろうというものを選んで紹介している。

ちなみに戦後に書かれたものはというと「私は戦争が誤りだと思っていた」と言いたい人が増えるので、信用度は低い。特にある種の知識人の発言には疑わしいものが多い。村上兵衛の「昭和十六年十二月八日、その日……」にそのような人が何人か出てくる。ただしこれを読むためには登録が必要。

そんなわけで、今回紹介した気持が当時のものであると断言はできない。それでもサッパリしたさわやかな気分になった人は、多くいたのだろうという印象だ。