エバの散弾について

目次

はじめに

1. 経緯の説明とお詫び

2. 楽曲を制作するに至った動機

3. 楽曲の今後について

4. 事件を語るうえで必要な前提の共有
 A. 宗教問題による私怨型の事件
 B. 社会的孤立による劇場型の事件
 C. 言論空間および民主主義への暴力
 D. 政治的思想の対立による攻撃
 事件の再定義

5. 歴史的経緯と重要な人物
・文鮮明の青年時代
・岸信介が政界に入るまで
・笹川良一の派手好き
・西川勝と笹川良一
・安倍晋三の幼少期

6. 反共の防波堤

7. 山上徹也と安倍晋三

8. 立場や論点について

9. 復讐のあと

余録
・三・一独立運動
・もうひとりの祖父、安倍寛
・サイビ宗教のこれから
・靖国神社
・親と子

参考文献

おわりに

 

はじめに

 こんにちは。音楽活動をしております yanagamiyuki(やなが みゆき)と申します。この度は、私が2025年8月28日に、自身のYouTubeチャンネルにて公開いたしました「エバの散弾」という楽曲、及び、2022年7月8日に発生しました「安倍晋三銃撃事件」これらについて、私に幾つかの説明責任がありますため、お話しします。

 私は、音楽という分野によってのみ、ある程度の発信力を有している身でありますため、政治や宗教、歴史に関しまして、過剰な煽動は避けなければならない。そういった立場にあると考えております。そのため、一部、断定的な表現を避けてお話しするところがありますことを、ご容赦ください。


1. 経緯の説明とお詫び

 まずはじめに経緯についてお話しします。私が制作し、私が公開いたしました「エバの散弾」という楽曲は、その動画中で、「安倍晋三銃撃事件」の実行犯である 山上徹也(やまがみ てつや)が取り押さえられる直前の様子を表示させておりました。

 公開当初より皆様からは、厳しい批判や多くの疑念・疑問・ご意見をいただき、私自身も問題点を改めて認識しましたため、その責任として皆様に二つ約束をいたしました。

 一つは「本事件についての私の立場を明確にして文章にまとめる」というもので、もう一つは「本楽曲が社会にとって悪影響であると判断した際には謝罪をし本楽曲の公開を取り下げる」というものでした。

 しかし今日に至るまで、私はそれらについて一切の状況報告を行わず、皆様には長きにわたり不信感を抱かせてしまったことを、心よりお詫び申し上げます。


2. 楽曲を制作するに至った動機

 なぜ私が、このような楽曲を制作し、公開するに至ったかということについて、お話しします。

 最大の要因としましては、制作当時の私が「価値判断」と「事実判断」という二つの思考を区別する能力を持ち合わせておらず、また、独自の倫理規範を採用し、内面化していた人間であったことにあります。

「私はいつも他人の生涯に感情移入をしすぎである」ということです。

 いただいた批判の中には、私が「自分の生い立ちと山上の生い立ちを重ねて語っているテロ崇拝者である」というものがありました。これは私の表現力不足であり、ある程度、ひとの心を揺さぶれてしまう「音楽」という表現方法を用いて活動している以上、重く受け止めるべき言葉であると感じております。

 本楽曲の制作時におきまして、当時の私が注目していた人物は、安倍晋三、文鮮明(ぶん せんめい)、そして山上徹也の三名です。安倍晋三が、母方の祖父である 岸信介(きし のぶすけ)を生涯に渡って慕っていたこと、文鮮明が、かつて大叔父にあたるプロテスタント牧師を敬愛していたこと、そして山上徹也が母親に愛憎ともみられる思いを綴っていたこと、そういった他人の初志を、私の「価値判断」のみによって取り扱い、自己表現の場に引用したことは、深く反省しなければならないと考えております。

 私の動機を整理しますと、「誰もがかつては愛するものがあり、それらが人生を決定し、悲しみを生む」という、いわゆる決定論的なやりきれなさや、「私自身もまた彼らと同じ運命にある」という、境界の無さ・脚色された共感などが思い当たります。

 「芸術の領域で取り扱うことが許される対象の一線を踏み越えたのかもしれない」というのが、現在の私にできる本楽曲への冷静な評価です。また、「本楽曲が社会にとって悪影響であるか」と「本楽曲を存続させる意義」につきましては、現時点ではどちらも「未知数である」とします。


3. 楽曲の今後について

 本記事の公開に伴い、私のYouTubeチャンネルにて公開しておりました動画「エバの散弾」を削除いたしました。私が、本楽曲や本事件に対し理解を深めたこと、そして「本楽曲の動画につけていただいている現時点での価値」と「本楽曲の動画が今後も内包し続ける未知数のリスク」を比較した際、私自身が動画の削除は妥当であると判断したためです。

 本楽曲へ寄せていただいたポジティブな意見としまして「音楽的・芸術的に価値がある」また「議論の場として機能している」等の言葉をいただきましたが、前者につきましては「音源のみを事件の映像を用いない形でリリース」することによってその価値を継続し、後者につきましては「本記事がその公共性や機能を引き継ぐ」ものとして、今後はご理解のうえ、お汲み取りいただければ幸いです。


4. 事件を語るうえで必要な前提の共有

 それでは、「安倍晋三銃撃事件」についてお話しします。まず本事件についてお話しするにあたって、事前に共有しなければならないことがあります。それは「本事件をどのような性質を帯びた事件であるとするか」という定義づけと、採用した前提の開示です。立場を整理することは、議論が平行線にならないためにも、また感情的な言い合いにならないためにも、非常に重要であると私は考えます。

 「事件の性質」とは、その多くが「山上の動機」と言い換えることもできますが、厳密にはより複合的なものとして取り扱う必要がでてきますため、まずは一般的に語られている前提を、定義ABCDと四つに分けてみていきます。

「安倍晋三銃撃事件」とは、どのような性質を帯びた事件であるか

 A. 宗教問題による私怨型の事件
 B. 社会的孤立による劇場型の事件
 C. 言論空間および民主主義への暴力
 D. 政治的思想の対立による攻撃


A. 宗教問題による私怨型の事件

 まず、定義Aの「宗教問題による私怨型の事件」についてお話しします。こちらは、本事件が内包する性質として、広く一般的に周知されている認識です。「統一教会に恨みを抱いていた山上は、安倍と教団に関わりがあると知り、犯行に及んだ」として、公的機関による報道がされてきました。今回、私が採用する前提も概ねこの認識に沿うものですが、話を進めるにあたって、いくつか注意するべき点があります。

・安倍と統一教会にはどの程度の関わりがあったのか
・統一教会とはどれほど反社会的な団体であったのか
・安倍や自民党とは悪なのか
・山上の政治的思想は安倍と対立していたのか
・山上の犯行は衝動的なものであったか

 自民党と統一教会の関わりを語るには、まず岸信介の代まで遡り、戦後東アジアにおける反共・勝共の歴史について整理する必要があります。統一教会の反社会性を語るには、数多くのフロント企業や派生団体の活動について、詳しく精査しなければなりません。

 また、安倍や自民党を批判するのであれば、安倍晋三の政治家としての実績や功罪について議論する必要があり、政教問題においては「支持母体を持たない政党が現実に存在し得るのか」という点について、触れる必要があります。

 そして、山上が安倍をどのように評価していたのか、また、いつ頃から標的として認識していたのかについては、山上本人のものとみられる数多くのツイートや、残された手紙から推察するしかありません。

 silent hill 333@333_hill の投稿より引用(原文ママ)

 統一教会のおぞましさに比べれば多少の政治的逸脱など可愛いものだ。安倍政権に言いたい事もあろうが、統一教会と同視するのはさすがに非礼である。
 2019/10/14 0:55


B. 社会的孤立による劇場型の事件

 定義Bの「社会的孤立による劇場型の事件」には、無差別殺人や、いわゆる「無敵の人」、愉快犯、若しくは個人の異常性による犯罪などが該当します。手製銃による公共の場での銃撃という衝撃的なイメージから、本事件もまた、こうした切り口で他の凶悪犯罪と比較されることがあります。

 しかし、銃器の個人開発には長期にわたる研究や試作、生活を圧迫するほどの材料費の工面などが必要になるため、承認目的や自暴自棄による動機のみで、これらの過程を継続するのは容易ではありません。つまり、本事件を単純な衝動的犯罪として扱うには、限界があります。

 一方で、山上が映画『ジョーカー』に強い共感を示していたことや、ミソジニー的・インセル的傾向をうかがわせる価値観、さらに「次の世代のため」であるとして、利他主義ともいえる明確な「目的意識」を持っていた点にも注目しますと、社会的孤立や自己破滅性という要素においては、「無敵の人」ともいえる側面はあったのではないかと、私は考えます。


C. 言論空間および民主主義への暴力

 次に定義Cの「言論空間および民主主義への暴力」という見方ですが、こちらは言論の自由や戦後維持されてきた社会秩序が暴力によって脅かされたことに注目しています。

 戦後の日本において元首相の暗殺が達成されたケースは本事件が初めてであり、山上の動機を問わず、標的が政治的影響力を持つ人物であったという点においては、本事件はテロに近い、もしくはテロであるとされる事件として、ひとつの前例ができたといえます。

 一般的に「テロ」とは、政治的主張の発信、恐怖による心理的威圧、世論への影響などの「目的意識」を含みます。山上の犯行には政治的なメッセージが薄く、一方で、統一教会の社会的周知という明確な「目的意識」があるため、これを「テロ」とするかどうかは意見が割れるところであると思います。

 また、現代日本における民主主義の完成度に強い不信感がある立場からは、山上の動機はそもそも議論の対象にならず「まずはよくやった」という評価になります。

 つまり、それまでの民主主義や政治制度をどう捉えているかによっても、本事件への評価は対立します。


D. 政治的思想の対立による攻撃

 最後に、定義Dの「政治的思想の対立による反対勢力への攻撃」という見方ですが、こちらは、前提そのものが公的機関による報道とは異なる主張となってきます。今回、私はこれらの前提を採用することはできませんでしたが、インターネット上においてある程度の人気を集めている考え方であるため、ご紹介いたします。

・屋上に真犯人のスナイパーがいた
・山上は雇われていただけであった
・山上は操られていた
・山上は右翼を装った左翼であった
・警察や国家が暗殺の協力をしていた

 歴史や報道の内容そのものを疑うという考え方は、それが衝撃的なトピックであるほど説得力を増すものだと思います。私が信じている歴史も、メディアの報道も、全てが嘘であったとしたら、私にはその真実を確かめる術はありません。自らの意思で何かを信じ、何かを選び取っている以上、私と彼らに大きな違いはないのかもしれません。


事件の再定義

 これまでの前提を整理し、Dを除いた定義ABCを順に拾って、本事件を再定義しますと、

 安倍晋三銃撃事件とは「戦後日本政治が抱えてきた宗教・政治・社会構造上の問題を背景として発生した私怨に基づく計画的犯行および、統一教会への報復と社会的周知を目的とした特定の政治思想に基づかない合理的・手段的な殺人および、社会的な孤立が招いた自力救済および、その帰結として民主主義やその後の政治に深刻な影響を与えた事件」である。

 というふうになるでしょうか。本事件をこれよりも多角的に見ている方や、その領域をこれよりも小さく定義すべきであると考える方もいらっしゃると思います。私の定義づけ・前提になりますため、まずは、本事件を読み解く際の材料として、ご活用いただけましたら幸いです。


5. 歴史的経緯と重要な人物

 本事件を読み解くにあたって、戦後日本の歴史を避けて通ることはできません。特に歴史的な文脈において、私が注目すべきであると判断した人物は、以下のとおりです。

・文鮮明(ぶん せんめい)
・岸信介(きし のぶすけ)
・笹川良一(ささかわ りょういち)
・西川勝(にしかわ まさる)
・安倍晋三(あべ しんぞう)

 本項では、以上の五名を「歴史的経緯における重要な人物」として取り扱いますが、これは本事件における責任の所在を問うものではありません。殺人において、法律上その責任は山上にあり、歴史的経緯の累積や結果においては、その責任を個人のみに帰属・集中させることはできないためです。

 また、「いつ語られるか」ということも重要であり、本事件が歴史上の出来事として後に語られるとき、山上個人の責任も、長い歳月をかけて歴史の責任へと置き換わっていくものだと、私は考えます。

 彼らがどのような人物であったかを知ることは、旧・統一教会が、日本へ浸透するまでの大きな流れを掴むうえで重要になるため、その生い立ちや性格に注目しながら、順番にみていきたいと思います。


文鮮明の青年時代

 日本統治下にあった1920年の朝鮮に、文龍明(ぶん りゅうめい / ムン・ヨンミョン)は、八人兄妹の次男として生まれます。文は兄の影響でキリスト教を学び、大叔父にあたる文潤國(ムン・ユングク)牧師を師としました。文潤國牧師は、「三・一独立運動」における指導者のひとりであり、抗日運動(こうにちうんどう)を指揮した罪で懲役を科されます。服役中もその財産を朝鮮独立運動のために送るなど、持てるものを全て差し出し、祖国のため、民族独立のために闘うという姿をみせており、これが後に文の強い愛国心の基礎となります。

 「苦しんでいる人類のゆえに、神様はあまりにも悲しんでおられます。地上での天の御旨(みむね)に対する特別な使命を果たしなさい」

 文は16歳のある朝、イエス・キリストとの霊的な邂逅があり、このように告げられたとしています。

 その後、文は日本へと渡り、電気工学を学ぶ傍ら、留学生らを集めて抗日運動に傾倒していきました。また、私娼街へと通っていたことも自ら語られており、それらが女性たちの解放を志す原体験になったとしています。

 「文先生(私)にとって日本国は一番目の怨讐(えんしゅう)の国だった」

 「自分の国を愛していない人は、世界を愛することはできない。それ(決心)は、知らなかったからそうだったのであって、先生(私)が(自分の国を愛さなければ世界を愛せないことを)知った以上は(日本は)怨讐の国ではない」

 学生時代の若き日を回想し、文は心境の変化をこのように語っています。かつて怨讐に囚われていたというその背景から語られる言葉には、後に戦後の自虐史観を内面化させられた信者にとって、胸を打つものがあったのかもしれません。

 文は後に、文鮮明(ぶん せんめい / ムン・ソンミョン)と名乗るようになります。旧・統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の創立者です。


岸信介が政界に入るまで

 1917年、第一次世界大戦のさなか、岸信介(きし のぶすけ)は東京帝国大学法学部(現・東京大学)へ入学します。

 当時の東京帝大では、吉野作造(民本主義)と上杉慎吉(国粋主義)が、思想的に対立していましたが、岸は上杉の門下へ入ります。ただし、後年に岸は、「豪快で親分肌な人柄に惹かれた」と語っており、政治的思想においては北一輝(社会主義)や大川周明(あらゆる宗教を学んだ思想家、後にアジア主義)らに影響を受けたとしています。

 大学卒業後は上杉から学問の道を勧められますが、岸は周囲の反対を押し切って、農商務省へと進みます。その目的は国内の産業に力を入れること、つまり「軍国体制の強化」であり、岸はこのとき、「日本がアメリカと戦争することは国力や商工業の観点からみて不可能である」と考えていました。

 1936年、岸は満洲へ渡り、関東軍参謀長・板垣征四郎に対し、着任早々こう言い放っています。

 「私は日本を食い詰めて満州に来たわけではない。産業経済については任せてもらいたい。もし関東軍の言いなりになれというなら、自分ではなく誰か代わりの者をよこしてもいい」

 当時の満洲は、日本の官僚、軍人、実業家、思想家たちが入り乱れており、岸は、板垣征四郎や東條英機といった軍人とは適度な距離を保ちながら、満洲の開発に取り組みました。

 翌年には日中戦争(抗日戦争)が勃発し、当初は満洲の開発が主であった岸の仕事も、次第に軍備の補充へと対応を迫られることになります。対米戦争に積極的でなかった岸は、この時も「総力戦を行うには日本の工業力が足りない」という認識を持ち続けていました。

 この頃から、官僚的な計算高さと胆力をみせていた岸ですが、一方で、目的のためなら手段を選ばない冷徹さもありました。

 「政治資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が起こったときは、その濾過機が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから関わり合いにならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が不十分だからです」

 満洲や中国大陸における阿片取引に、岸が関与していたことは長く指摘されていますが、決定的資料は少なく、現在でも評価は分かれています。少なくとも、当時の満洲開発そのものが、軍・財界・諜報・闇資金を含む巨大な灰色地帯であったことは確かであるといえます。

 岸は満洲で積んだ経験と人脈を持ち帰り、第二次世界大戦中は、東條内閣の「商工大臣」を務めました。終戦後、戦争犯罪人「A級戦犯容疑者」として東條らとともに逮捕され、巣鴨プリズンへ収監されます。

 起訴されるときを待つ日々で、岸は死を覚悟したといいます。そのような中、前代未聞の出頭がありました。


笹川良一の派手好き

 1945年、笹川良一(ささかわ りょういち)は、巣鴨プリズンへ自ら入獄するため、自前のパレードで出頭しました。もとよりマークされていた笹川は、連合国軍を挑発する演説を繰り返し行い、収監されることとなります。その目的は、獄中にいた岸信介や児玉誉士夫といった東條内閣の閣僚たちとの接触、東條英機の懐柔、そしてエリートたちとの人脈作りにあったといい、後に笹川は、巣鴨プリズン時代を「人生最高の大学」であったと『巣鴨日記』に記しています。

 約3年間の収容生活を経て、東條ら7名の絞首刑が執行され、その翌日には岸・笹川・児玉ら19名が釈放されました。

 「右翼のドン」ともいわれた笹川は、ムッソリーニ率いるファシスト党を敬愛しており、自ら総裁を務めた「国粋大衆党」では、私兵たちに黒一色の制服を着せ、また自身も袴姿でムッソリーニとの会見に臨むなど、メディアを意識した演出に、こだわりがあったことがうかがえます。

 公営ギャンブル(ボートレース)の元締めであり、あらゆる財団・慈善事業のボスであり、テレビで見かける一日一善の人、お茶の間でヤクザと教わる悪い人、そのような生涯がビジネスとパフォーマンスであった笹川には、とある入れ込んだ宣教師がいました。


西川勝と笹川良一

 1954年、「世界基督教統一神霊協会」が韓国で設立されます。文鮮明は、当時信者であった 崔奉春 / 崔翔翊(チェ・ボンジュン)に、日本で宣教活動を行うよう命じました。

 崔は貨物船による密入国を試み、対馬を経て日本へ渡ります。しかし入国管理法違反で逮捕され、広島吉浦刑務所へ送られました。その後、過労や栄養不足によって肺炎を患い、療養所へ移されたのちに脱走。この頃から「西川勝」を名乗るようになります。

 西川は、かつて日本の神学校へ通っていた縁を頼りに職を得ますが、密入国者であることから周囲に迷惑をかけられないとして、職を転々としていきます。西川には宗教家としての素質があり、その性格が周囲の人々を惹きつけました。

 1958年、笹川の率いる「国粋大衆党」の党員が、徳島で布教活動を行っていた統一教会信者婦人の懸命な姿に感銘を受け、笹川に紹介したい人がいると伝えました。

 このときの婦人を介して、笹川と西川は出会うことになります。笹川は、西川の所作に感動したといい、それから西川の密入国のことは「大目にみるように」と警察へ根回しするようになったといいます。

 「じゃあ一回、お前の教会に行ってやる」

 1959年、西川は笹川の後押しを受け、「世界基督教統一神霊協会日本協会」を設立します。しかし西川は後年、このことについて「日本に対して申し訳ないことをした」と語っています。

 「おれは西川は好きだけど、文は嫌いだね」
 「笹川先生、それだけは言わないでください」

 笹川は当時の日本統一教会幹部にそう言い、困らせていたといいます。笹川を動かしたのは統一教会の教義ではなく、西川という人間でした。


安倍晋三の幼少期

 1954年、安倍晋三は、父・安倍晋太郎と、母・岸洋子の次男として生まれます。

 晋三が2歳の頃、父の晋太郎は外務大臣秘書官となり、母とともに家を空けることが増えていきました。母方の祖父である岸信介は、南平台の自宅隣に屋敷を借り、娘夫婦に与えます。晋三は幼い頃から岸のもとへ頻繁に連れて行かれ、可愛がられていました。

 当時は、後に弟となる信夫が生まれるまで、晋三を岸家の養子に迎える案もあったとされます。

 「アンポハンターイ」と、晋三は兄・寛信と屋敷を駆けまわり、岸に鬼ごっこや馬乗り遊びをしてもらっていたと、洋子によって語られています。

 両親の不在が続くなかで、晋三にとって岸信介は、政治家である前に、遊んでもらった祖父として強く印象に残っていきました。岸自身もまた、孫たちを自宅へ呼び、一緒に過ごす時間を楽しみにしていたといいます。

 1959年には弟の信夫が誕生します。岸家では「安倍家の三男を岸家に迎える」という約束があったため、信夫は後に岸信夫として育てられることになりました。

 安倍晋三は後年、次のように振り返っています。

 「弟の信夫が生まれるまでは、私が岸家の養子になる予定で、祖父(岸信介)が舐めるように可愛がってくれたのを覚えているね。ただ、私が五歳の時に、まだ幼い信夫が養子に出されることを知ると、子供ながらに寂しくて反発したものだよ。一方で嫉妬の感情も芽生えてきて、信夫には、悪戯でよくプロレス技をかけたな」

 兄の寛信が跡取りとして期待され、岸家には弟の信夫が迎えられていきます。そうした中で晋三は、「アンポハンタイ」という屋敷の外の声が、敬愛する祖父へ向けられた非難の言葉であったことを理解するようになっていきました。


6. 反共の防波堤

 非常に駆け足になりましたが、それぞれの性格的傾向や意思決定の動機が、ある程度みえてきたと思います。

・かつて強い反日感情を抱いていた文鮮明。
・清濁を併せ呑む政治家、岸信介。
・義理人情の商売人であった笹川良一。
・宗教家として後に文と対立する西川勝。
・そして岸を慕った安倍晋三。

 これらを踏まえることで、なぜ本来相容れないはずの勢力が結びついたのか。なぜ内部対立が生まれたのか。なぜ政治家が宗教勢力を利用し、また利用されたのか。そうした、政治的イデオロギーだけでは説明しきれない利害関係がみえてきます。

 そしてこれは、単なる個人同士の私情ではありません。その背景には、終戦間際より既に始まっていた「逆コース」と呼ばれる、GHQおよびアメリカ主導の冷戦戦略がありました。

 岸の釈放理由には諸説ありますが、この出来事の本質は、「日本を反共産主義の防波堤とすること」に向けて、岸が協力的な人間になり得るかをアメリカにみられたという点にあります。

 戦後日本の民主化と軍国主義の解体が進められる一方で、東アジアでは共産主義の封じ込めが急がれていましたが、そうした冷戦構造の中で、「反共」は戦後日本が西側陣営の一員として生き残るための道でもありました。

 統一教会は、その反共ネットワークの中で日本の保守層へ接近し、岸信介ら保守政治家との関係を深めていったのです。

 

7. 山上徹也と安倍晋三

 1964年、岸は、かつて安倍家に与えていた南平台の屋敷を手放しました。同年、日本では「世界基督教統一神霊協会日本協会(旧・統一教会)」が宗教法人として認証され、これ以降、屋敷はその本部として使用されるようになります。

 

 silent hill 333@333_hill の投稿より引用(原文ママ)

 安保闘争、後の大学紛争、今では考えられないような事を当時は右も左もやっていた。その中で右に利用価値があるというだけで岸が招き入れたのが統一教会。岸を信奉し新冷戦の枠組みを作った(言い過ぎか)安倍が無法のDNAを受け継いでいても驚きは し な い。
2021/2/28/ 20:59

 

 冷戦を利用してのし上がったのが統一教会なのを考えれば、新冷戦を演出し虚構の経済を東京五輪で飾ろうとした安倍は未だに大会を開いては虚構の勝利を宣言する統一教会を彷彿とさせる。
2021/2/28 21:25

 

 山上の歴史的認識にはある程度の冷静さがあり、安倍への評価には揺らぎが見られるものの、批判意識は一貫して、統一教会へと向かっていることがうかがえます。

 2012年9月3日、文鮮明が他界し、妻の韓鶴子(ハン・ハクチャ)が新たな再臨のメシアであるとして、統一教会の総裁に就任しました。

 2019年10月5日、山上は鶴子の来日公演に併せて名古屋を訪れ、映画『ジョーカー』を鑑賞しています。10月6日、教団の大会を襲撃する目的で、山上は手製の火炎瓶を持って会場に赴きますが、四万人規模の信者と厳重な警備を前に、計画を断念します。

 山上のものとみられるツイッターアカウント「silent hill 333@333_hill」が開設されたのは、この出来事から7日後の、2019年10月13日でした。

 

 silent hill 333@333_hill の投稿より引用(原文ママ)

 オレがに憎むのは統一教会だけだ。結果として安倍政権に何があってもオレの知った事ではない。
 2019/10/14 2:35

 

 2021年9月12日、安倍は旧・統一教会の友好団体である「天宙平和連合」のイベントに、ビデオメッセージを寄せました。元NHK記者である岩田明子氏の著書によると、安倍は、交流関係の深さに応じて「会場に駆けつける場合」と「ビデオメッセージで済ます場合」を使い分けており、安倍が旧・統一教会に、ある種の距離感を滲ませていたのではないかとみています。

 このビデオメッセージが山上の犯行を「決心させた」とされる報道や見方も多くありますが、鶴子襲撃の断念時から、既に安倍への言及が多くされていたことにも注目する必要があります。また、ビデオメッセージがあった9月12日以降に確認できる安倍への言及は、以下の二件です。

 

 silent hill 333@333_hill の投稿より引用(原文ママ)

 世間を支配するのが虚の中で、安倍政権の虚実から実だけを取ったらこうなったのだろう。人間なんてこんなものだと最近ヒシヒシと感じる。世界を支配するのはデタラメ、表層しか見ない無関心とそれに基づいた感情、最後まで生き残るのは搾取上手と恥知らず。
2021/12/8 22:25

 菅前首相についてのニュース記事に関するツイート

 

 下らないねえ。安倍の味方する気もないが、ウクライナ侵攻までロシアはレッドラインを超えてない。現在ですら完全に超えているとは言い切れない。当のウクライナですら開戦数日前まで「侵攻はない」と言っていた戦争の数年前に行った友好的外交の責任を取れと。安倍憎しの最初にありきが見え見えの愚論

2022/3/23 20:30

 安倍を強く批判する弁護士に対するツイート

 

 山上の中で、安倍に対する「感情的な変化」と、「政治的スタンスの維持」の両者がうかがえますが、この翌月には自作の銃が完成し、さらにその翌月には、欠勤が増えつつあった派遣会社の仕事を退職します。

 犯行の直前、山上がジャーナリスト・米本和弘(よねもと かずひろ)氏に宛てた手紙があるため、その一部を引用します。

 

 私と統一教会の因縁は約30年前に遡ります。母の入信から億を超える金銭の浪費、家庭崩壊、破産…この経過と共に私の10代は過ぎ去りました。その間の経験は私の一生を歪ませ続けたと言って過言ではありません。

 苦々しくは思っていましたが、安倍は本来の敵ではないのです。あくまでも現実世界で最も影響力のある統一教会シンパの一人に過ぎません。

 文一族を皆殺しにしたくとも、私にはそれが不可能な事は分かっています。分裂には一挙に叩くのが難しいという側面もあるのです。

 安倍の死がもたらす政治的意味、結果、最早それを考える余裕は私にはありません。

 

8. 立場や論点について

 ここまで「事件の定義」と「歴史的経緯」についてお話ししてきましたが、本事件を最終的に評価するにあたっては、なお「統一教会そのものの精査」「安倍政権への批評」「山上の功罪についての議論」といった論点が残されています。

 しかし、これらはいずれも極めて広範かつ慎重な検討を要求されている問題であり、私の限られた知識と視点の中で、それらを十分に扱い切ることができませんでした。

 そのため、お約束していました「自身の立場を明確にする」ということにつきましては、まず、本事件を「政治的・歴史的背景をもつ、法律・宗教・経済の仕組みに課題を提示した、極めて異例な事件」であると位置づけたうえで、「立場の表明にはまず論点が必要である」として、今回は結論付けたいと思います。

 立場とは、単一のものではなく、論点の数だけ成立し得るものだからです。そして本事件には、複数の論点があるため、今回は私が定めた論点「復讐という行為やその生き方」について、その立場をお話しします。

 

9. 復讐のあと

 私の実体験としてお伝えできることに「復讐は、いずれ手放さなければならない」というものがあります。それが、社会的に正しいからというような理由ではありません。自分自身の生涯が、幸福から遠ざかり続けるためです。

 もうひとつ、私がお伝えできることがあります。それは「生涯をかけて復讐すべきものが定まってしまっている状態がある」ということです。それ自体が、あらゆる意思決定の動機や燃料として機能してしまうため、それらは次第に習慣化し、ひとりの力では降りることができなくなります。

 これは転じて、許せないものや憎いもの、それらに対する執念や異常性をほんの少し、社会的な行動へと向けることができれば、その復讐心をライフワークに転用できるかもしれない。という話でもあります。悪趣味で繋がる悪友でもいいのです。社会的な意義など要りません。ただ、それが友人や知人を作り、社会的な孤立を避けるきっかけになるだけで、自分が、友人が、正気で過ごせる日を一日増やすことができるようになるかもしれません。かつて、呪わずにはいられなかったものとは、何より興味関心を向け続けられる、憎たらしい一番の得意分野にもなり得ると、私は思います。

 

 

余録

 今回は、登場人物の都合上、歴史観が大きく右に偏っています。満洲で何が行われていたのか、太平洋戦争とは何だったのか、文鮮明は教義にどんな嘘を混ぜていたのか、韓国でキリスト教が多いのは何故か、この辺りなんかもやっていくと、かなり面白いのですが、主題から大きく逸れてしまうのと、面白いでは済まないものがあるため、今回は割愛させていただきました。

 

 ここからは余禄になりますが、私の心に引っかかっているものがあるため、最後に紹介してから、今回は終わりにしたいと思います。

 

三・一独立運動

 1919年、京城府(現・ソウル特別市)では 「三・一独立運動」という出来事がありました。第一次世界大戦後、戦後処理の中には民族自決というものがあり、これを受けて、世界では植民地からの解放を目指した運動が各地で起こっていました。

 日本統治時代(日帝強占期)の朝鮮も例外ではなく、当時の大日本帝国による統治に対して市民の不満が高まっていたことから、京城の市民を中心に大規模な抗日運動が起こり、それらに対して日本軍による激しい弾圧が行われました。

 その結果、被害の規模は死者が7,509名、負傷者が1万5,849名ともいわれています。

 当時の朝鮮においてキリスト教は抗日運動に欠かせない存在でした。中でもメソジストの教えには、規則正しい生活の実践や信仰心の強さをグループで報告し合うといったものがあり、これは組織的な活動と相性がよかったといわれています。

 キリスト教・天道教・仏教それぞれの各宗派から選ばれた指導者たちによって独立宣言書が作成され、そこには李昇薰(イ・スンフン)や、多くのメソジスト牧師の名がありました。独立を訴えた太極旗(テグッキ)や愛国歌、キリスト教徒たちによって作られた讃美歌が “デモ” という概念を押し広め、三月から四月にかけて朝鮮各地で抗日運動が続きます。これらの一連の運動を、「三・一独立運動」といいます。

 

 この翌年、文鮮明が生まれました。

 ここで登場する李昇薰と、先の文潤國(ムン・ユングク)牧師によって「五山学校」が建てられます。五山学校は教育方針として、民族主義・抗日運動・朝鮮独立など掲げており、後に文は、この場所へ通うことになります。

 しかし、文鮮明が、かつての恩師から受け継いだ教えを捻じ曲げ、悪用し、祖国からも、祖国のキリスト教からも忌み嫌われるようになっていくことが、彼が、西川を日本へ送った動機へと繋がってきます。彼の本質とは、ナショナリズムにはなく、キリスト教にもなく、反日さえも怪しく、あるひとつのことによって、狂っている人物のように、私にはみえます。それはまたこんど。

 

もうひとりの祖父、安倍寛

 安倍晋三には、あまり語られていない父方の祖父に、安倍寛(あべ かん)がいます。寛は、東條英機らの軍閥主義を批判し、岸の「カネは濾過して使え」という考え方とは、反対の信念を持つ人物でした。そんな清廉な政治家であった父について、安倍晋太郎はこのように語っています。

 「俺のオヤジは、非推薦で当選した後、中央(大政翼賛会)から当時としては大金の3000円の電報為替が送られてきた。カネは全くなく、選挙をするのも大変なことだったが、オヤジは『非推薦なのに祝いはもらえん。返してこい』と受け取らなかった」

 晋太郎は、かつて名古屋の航空隊小隊長だったことがあります。太平洋戦争末期は父に別れを告げ、出撃を待つ特攻隊員でした。終戦を迎え生還した晋太郎でしたが、22歳のときに敬愛する父を亡くし、母とは幼いころに離別していたため、家族の団らんを知らないまま育ったといいます。晋太郎は、政治家の子として、元特攻隊員として、戦争や裏金を好まなかった父・寛の信条を受け継ぎますが、晋三への父親としての接し方には最後まで悩み、岸を慕う晋三に、その哲学を伝えることには苦労したのかもしれません。

 

サイビ宗教のこれから

 韓国において、かつて文が悪用した教義やレトリックは、今もなお、JMS(基督教福音宣教会)などをはじめとするサイビ宗教によって模倣され続けているといいます。

 「母はいない。文総裁の妻の位置もありません。自分勝手だ。自分勝手!」

 晩年、衰弱した文は一万人の信者を集めた講演で、妻であり現総裁の韓鶴子(ハン・ハクチャ)についてこのように語ったといいます。妻や息子らによる後継者争いの中、再臨のメシアは、その生涯をどのように振り返ったのでしょうか。

 

靖国神社

 「本日、靖国神社を参拝し、今月16日に内閣総理大臣を退任したことをご英霊にご報告いたしました」

 2020年9月19日、安倍晋三元総理は任期を終え靖国神社を参拝しました。参拝の自由について、かつては強気な姿勢をみせていた安倍でしたが、総理在任中の七年間は参拝を控えていたといいます。押すことばかりで、引くことを知らないと酷評されることもあった安倍ですが、どちらの顔を立てるのも上手かったという岸信介の “両岸” を継承しつつあってのことだったのかもしれません。そして2021年の8月15日、終戦記念日に安倍晋三が岸信介のもとを訪ねたのは、それが最後となりました。

 

 

親と子

 

 

 映画『ジョーカー』アーサーの台詞より引用

 困らせる気はない(中略)僕が欲しいのは温もりとハグだよ

 

 

 

 silent hill 333@333_hill の投稿より引用(原文ママ)

 ガキの頃に母親の手料理よりカップラーメンが食いたくて(子供ってジャンクフード好きじゃない?)根負けした母親が出してくれたカップラーメン旨い旨いって食ってたらそれまで見た事ないくらいの勢いで母親にブチギレられた事があったっけ。

2020/8/6 22:02

 

 

 

参考文献

山上徹也と日本の「失われた30年」 / 五野井 郁夫, 池田 香代子
満州と岸信介 巨魁を生んだ幻の帝国 / 太田 尚樹
安倍晋三 沈黙の仮面 その血脈と生い立ちの秘密 / 野上忠興
安倍晋三実録 / 岩田明子
検証・統一協会=家庭連合 / 山口広


おわりに

 創作においても、日常生活においても、僕が日頃からやっていることの出発点は、共感や想像ばかりであったと思います。もう少し強い言葉でいえば「憑依」ということになるのですが、これはつまり、その人が体験してきたものによって培われた性格や意思決定に対して、もう降りられないんだよね、僕もだし。としてしまう、いわゆる運命論のようなところがありました。今回、厳しく怒られてみて、これまでやったこともない論理的な思考の組み立て、歴史の検証、合理的な判断のようなものをやってみたのですが、これがどういうわけか、これまた余計に運命論だとか決定論ともいわれそうな仕上がりになってしまったように思います。ひとつ見えてきたことは、運命を変えるチャンスというものが、他人の生涯においてはたくさん散らばっているのがよく見えること。自分のは、なかなか見えません。近代史とは凄惨で、繋がりすぎていて、それでいて、ふむふむと面白がるにはまだ、あまりにも最近の出来事に思えてしまう。どうにかならなかったのかと、考えてしまいます。それに比べて、定義やら前提やら、討論の準備というやつは、まるで感情など要らないと言われているみたいで、これはこれで気が楽なんだな、と思いました。この半年間、知恵を貸してくれた友人知人のみんな、待っていてくれたみなさま、ここまでお付き合いいただいたみなさまに、心から感謝します。正直、まだまだ書き切れなかったという気持ちが拭えません。事件が終わる日は来ないでしょう。安心できる社会は目指すべきでしょう。この世界はいつからずっとこんな感じなんでしょう。助け合って、踏みとどまっていきましょう。