弁護団ご挨拶

このページでは、弁護団からのメッセージを掲載しています。現在掲載されていない弁護士からのメッセージも、順次、公開する予定です。

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弁護団長新垣 勉

沖縄弁護士会所属

第一次爆音訴訟を受任したとき、私はまだバリバリの55歳。早いもので20年の月日が流れた。弁護団は現在総勢31名、若手・中堅・熟年で構成される”充実した誇れる弁護団”となった。私は通称「ベン」と呼ばれる弁護団長。ゴルフが好きで酒が飲めない楽天家。
この裁判には明確な目的がある。それは「静かな日々を取り戻す」こと。そのために深刻な爆音・基地被害を明らかにし、裁判官の心を揺り動かそうと全力を挙げている。基地被害を根絶すためには「世論を動かし、政治を動かすことが不可欠」だという壮大な視点に立ち、「大衆的裁判闘争」を闘ってきている。それがこの普天間爆音訴訟弁護団。そのために、私たち弁護団は一人ひとりの創意ある意見・個性を尊重しながら真剣な議論を積み重ねている。「勝つまで諦めない」という信念の下で、一人ひとりの原告の悩み・苦悩を共有しながら前進をしたい。そんな弁護団。遠慮なく、ご意見をお寄せ頂きたい。

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弁護団加藤 裕

沖縄弁護士会所属

僕が初めて沖縄に来たのが1990年2月。司法試験に合格して司法修習生になる直前に、第1次嘉手納基地爆音訴訟弁護団の弁護士から、原告の陳述書作成を手伝わないか、と誘われたのでした。ドキドキしながら生まれて初めて飛行機に乗って沖縄に向かい、北谷で原告の聞き取りをしたけれど、陳述書の書き方など知らなかったのでまったく役に立ちませんでした。沖縄そばを食べて、「そばじゃないじゃん!」と仰天し、那覇軍港から嘉手納基地に至る58号線沿いがほぼ基地の連続であることに驚愕した旅でした。
この旅がきっかけで、米軍基地の被害をなくしたい、平和な沖縄をつくりたい、という思いで、沖縄で弁護士としての一歩を踏み出して30年目。普天間基地がなくなる日をめざし、がんばります。

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弁護団赤嶺 朝子

沖縄弁護士会所属

私は那覇で生まれ育ちました。那覇といっても自衛隊基地の離発着の爆音がうるさく、同じ市内でも爆音がない地域から遊びに来た友人らはとても驚いていました。1978生まれですが、幼いころ、米軍が訓練のため徒歩で市街地を集団で移動し、祖母の畑を踏み荒らして行きました。あっという間のできごとに衝撃を受け、その光景を今でも覚えています。
県外の大学に通っていたころ、沖国大にヘリが落ちました。地元2紙は大きく取り上げていましたが、全国紙では写真すら掲載されませんでした。他方、その後、確か1週間も経過してなかったと思いますが、本土のビーチに民間のヘリが不時着した際には写真が掲載されていました。その扱いの差に言葉を失いました。 米軍基地問題に取り組みたいと思い、弁護士になり、普天間爆音訴訟にも取り組んでいます。よろしくお願い致します。

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弁護団安里 学

沖縄弁護士会所属

原告のみなさま。初めまして。弁護士の安里学と申します。
那覇市の出身です。東京・宮崎県で働いた後、沖縄に帰ってきて今回の第3次訴訟から参加させていただくことになりました。那覇の事務所で、新型コロナ対策のため窓をあけて打ち合わせをしていると、頻繁にオスプレイなど米軍機の騒音で邪魔をされます。しかも大事な話しにさしかかったタイミングで邪魔され、お客さんと一緒に苦笑い…。そういった場面も少なくありません。普天間のみなさまが生活の中でずっと曝されている「爆音」被害は、みなさまの睡眠や健康などに被害を及ぼすもっとずっと酷いものです。このような「爆音」の中での生活を、政府がこのまま放置することは間違っています。
皆さまの「静かな日常生活」を取り戻すために、ともに頑張りましょう。

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弁護団伊志嶺 公一

沖縄弁護士会所属

弁護士の伊志嶺公一と申します。私は、浦添市の出身で、普天間飛行場の離発着機が通過する地域で育ちました。私の幼少期は、離発着機が飛び交う空で、既に静かな空ではありませんでした。感じていたことは理不尽さでした。ですので、弁護士となりこの訴訟に関わることになったことは何かしらの運命を感じています。東京にて勉学に没頭しているころ、沖縄国際大学でへりが落ち、それをニュースで知りました。体の底から湧き上がる怒りに体中が震えたのを覚えています。あのときの怒りは、いまの訴訟活動の力となっています。
理不尽なものに、理不尽なことに、目を背けたらそれは認めたことと同じです。軍用機が飛ばない空、本来の静かな沖縄の空を「取り戻す」ために、共にがんばりましょう。

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弁護団上原 智子

沖縄弁護士会所属

1975年生まれです。出身は那覇と公言していますが、成人までに那覇にいたのは、小学校と中学校の約9年間です。小学校入学の約3ヶ月前までは、父の仕事の都合で大阪府堺市に暮らしました。レンゲ畑、日の丸(!)保育園の楽しい日々、電車に乗ってデパートに出かけたこと…。古き良き思い出がたくさんあります。
しかし那覇に来てからは、ばりばり大阪人だった私はカルチャーショックにぶち当たりました。大阪弁を笑われて新しい友だちになじめず、中身汁もムーチーも受け付けず、しばらく学校に行くのが苦痛でした。
1991年、高校進学を機に親元を離れ、岡山県の自然豊かな(虫の多い)町で寮生活を経験しました。那覇の公立中学校は生徒が幅を効かしており、不毛な気の遣い方を強いられましたが、進学校をうたう私立高校には勤勉で大人しい生徒が集まり、授業のクオリティも相対的に高く、私は満足しました。ただ、沖縄が「ちゅらさん」ブームで一躍注目される前の時代で、「沖縄は電気が通っているの?」「みんな英語しゃべれるってホント?」など笑い飛ばせない疑問をぶつける友人がいたりして、沖縄に対する差別を初めて感じました。また、超保守的な高校で、体育は柔道必修、運動会では軍隊式の行進、式典では君が代を高らかに歌うのが当たり前の環境でしたが、沖縄戦を体験した大好きな祖父母のいる沖縄社会とはあまりに違ったありように、疑問を多く感じました。受験勉強の合間に近代日本の純文学作品に親しむなど、多感な高校生だったと思います。
社会の矛盾を感じつつ東大経済学部に進学しましたが、進路に窮して弁護士を目指しました。2005年、弁護士登録と同時に沖縄合同法律事務所に入所し、第1次普天間爆音弁護団にも途中加入しました。第3次普天間爆音訴訟では、沖縄戦から続く負の遺産を問うべく、気持ちを新たに頑張って行きたいです。どうぞ宜しくお願い致します。

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弁護団小口 幸人

沖縄弁護士会所属

原告の皆さま、こんにちは。
弁護士の小口幸人(おぐちゆきひと)と申します。
これまで、沖縄のほか、東京や岩手で弁護士活動を行い、東日本大震災による被災者や原発事故避難者の支援に励んできました。その間も、弁護士になる直前1年間に過ごした沖縄の抱える基地問題に思いを馳せ、今までの経験を生かし「国策で不利益を被る人たちを救済したい」と弁護団に参加しました。
「当たり前の安全な生活」を取り戻し、残すべく、皆さまの多くの声を聞かせて下さい。

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弁護団翁長 勇人

沖縄弁護士会所属

弁護士の翁長勇人(おなが ゆうと)と申します。1993年生まれで那覇の出身になります。自然豊かな沖縄の地に生まれたにもかかわらず、小・中学生時代はゲーム三昧の日々を過ごしていました。高校時代は弓道部に所属し、部活と趣味の海外ドラマ鑑賞ばかりの学生生活を送りました。
高校卒業後は沖縄国際大学に入学しました。大学の隣には普天間基地があり、多くの学生が行き交うキャンパスにはヘリの騒音が響き渡っていました。航空機の騒音を日常のものとして受け入れざるを得ない現状、大学にヘリが墜落しても警察の立ち入りが米軍によって規制されるという異常な状態に気づかされ、沖縄の抱える基地問題に関心を持たざるを得ませんでした。
弁護士登録1年目の新人弁護士に出来ることは限られているとは思うのですが、静かで安全な沖縄の空を取り戻したいという思いを胸に全力で取り組んでいきたいと思います。

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弁護団金髙 望

沖縄弁護士会所属

弁護団の金髙望(かねたか のぞみ)です。1975年東京生まれで、2002年から1年間、弁護士になる前の司法修習を那覇で過ごしました。2003年に東京で弁護士登録をしましたが、縁あって始まったばかりの第1次普天間爆音訴訟弁護団に参加し、それが大きな契機となって2004年に沖縄へ移住、以来、那覇で仕事をしています。普天間爆音訴訟のほか、嘉手納、辺野古、高江などの基地訴訟に取り組んできました。
第1次訴訟の頃から、低周波音被害を担当してきました。第1次訴訟高裁判決は低周波音被害を正面から認めましたが、第2次訴訟では大きく後退してしまいました。第3次訴訟では改めて裁判所に低周波音被害を理解させるべく、主張・立証に努めます。
オスプレイ配備後、那覇付近も明らかに騒音が増えました。あの独特の重低音はすぐに分かります。原告の皆さんと一緒に、平穏な生活を取り戻すべく、全力を尽くします。

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弁護団神谷 誠人

沖縄弁護士会所属

弁護士の神谷誠人です。1961年、滋賀県彦根市で生まれ、生後まもなく、父親の仕事の関係で東京に転居し、橫田基地のある多摩地域で育ちました。大学から関西に移住し、2021年末まで大阪で弁護士をしていましたが、2022年1月、ご縁があって、弁護士法人響・那覇オフィスに在籍することとなり、北谷町で生活しています。
沖縄との関わりは、1987年11月、司法修習生時代、故佐井孝和弁護士に沖縄に連れてきてもらい、嘉手納基地の米軍機爆音を体験したことに始まります。そして、1988年4月弁護士登録以降、嘉手納基地爆音差止訴訟弁護団の一員として参加させてもらっています。当初、「こんなひどい爆音は、差止めが認められて当然」と考えていましたが、ここ沖縄では、人として当然の生活も許されず、いつのまにか嘉手納弁護団活動35年目を迎えました。そして、昨年、沖縄移住を機に、普天間爆音訴訟弁護団にも参加させていただくことになりました。
朝の出勤時は、嘉手納基地からの爆音と日米の国歌に送り出され、帰宅後は、普天間基地に戻るオスプレイの轟音に迎えられる毎日です。未だ戦時下のような沖縄の現実の中に身を置き、加害者「ヤマトンチュ」としての申し訳ない気持ちと、爆音被害者としてのワジワジ感を日々更新しています。

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弁護団亀川 偉作

沖縄弁護士会所属

弁護士の亀川偉作です。日々、弁護士業務をこなす中で、より社会的に意義のある仕事にかかわりたいと考え、この弁護団に参加させていただきました。とはいってもまだまだ未熟者で、日々の業務に追われるばかりで、弁護団活動に余り参加できておらず、こんな私でいいのだろうかと弱気になることもあります。第三次訴訟では、「強く、雄々しくあれ。うろたえてはならない。おののいてはならない。」という言葉をモットーに、自分を奮い立たせ、爆音被害を少しでもなくすために力を尽くしたいと思います。

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弁護団川津 知大

沖縄弁護士会所属

皆様、初めまして。弁護士の川津知大(カワヅチヒロ)と申します。
私は福岡県福岡市出身で、琉球大学に進学して卒業後は大阪でサラリーマンをした後、九州大学法科大学院に進学し司法試験合格後、大学時代に過ごした沖縄が好きで、2014年に戻ってきました。
沖縄は、人が暖かくて、自然も豊かでとても過ごしやすいところだと思います。
他方で、沖縄の広範囲を米軍基地が占めており、私は浦添に住んでいますが、普天間飛行場を行き来する飛行機やオスプレイ等のものすごい騒音を感じますし、住宅街真上を昼夜関係なく飛んでいく状況が日常にあり、本当に危ないなと感じることもよくあります。
沖縄をもっと住みよい地にするために、一緒に戦っていきましょう。

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弁護団喜多 自然

沖縄弁護士会所属

弁護団の喜多です。東京で生まれ、東京で育ちました。縁あって沖縄に来たその年、沖縄国際大学にヘリコプターが墜落しました。当時は比較的その近くに住んでいましたので、立ち上る煙を目の当たりにして、米軍基地により日常生活が脅かされる沖縄の現実に衝撃を受けたことをよく覚えています。
普天間爆音訴訟には、第1次訴訟の控訴審から参加しています。普天間基地の周りで暮らす住民の方一人一人にそれぞれの生活や人生があり、静かな環境で、平穏な毎日を送りたいというのは当たり前の願いだと思っています。
皆が安心して暮らせる日常を取り戻すべく、尽力するつもりですので、よろしくお願いいたします。

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弁護団齋藤 祐介

沖縄弁護士会所属

弁護士の齋藤祐介です。埼玉県で育った後、2007年に弁護士になって沖縄に移住しました。2007年~2019年末まで沖縄市のコザ法律事務所で勤務していましたが、2020年1月から独立し、うるま市江洲でえす法律事務所を設立しました。私が弁護士になって初めて普天間爆音訴訟の代理人になった際は、ちょうど第一次訴訟の控訴審が始まったところで、伊波宜野湾市長(当時)の尋問が行われたころでした。私は原告の方と打ち合わせを重ねて尋問を行い、裁判官を嘉数に連れて行き、航空機騒音を聞かせた覚えがあります。その後、オスプレイが配備されたり、墜落事故が頻発したり等、被害状況が深刻になっています。第三次訴訟は皆様と一緒に勝訴判決を勝ち取るべく、どうぞよろしくお願い致します。

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弁護団篠原 俊一

大阪弁護士会所属

大阪弁護士会所属の篠原俊一(しのはらとしかず)と申します。 今から20数年前、沖縄県収用委員会公開審理で反戦地主の代理人として、伊江島を担当して以来、大阪から沖縄に通っています。この20数年の間に、安里屋ユンタ、二見情話などの唄三線を覚えたり、伊江島マラソン、伊平屋ムーンライトマラソン、那覇マラソンに参加したりして沖縄を楽しんできました。オリオンビールはもちろんのこと、古酒(特に松藤が好きです)、とろっとろのおでんテビチも私を魅了してやみません。 近い将来、爆音、国家権力、米軍基地から自由になった沖縄で沖縄の文化を思う存分楽しみたい。そのために微力ながら沖縄に通い続ける所存です。よろしくお願い致します。

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弁護団島袋 元

沖縄弁護士会所属

はじめまして。弁護士の島袋元と申します。
沖縄市上地(コザのあたり)の出身です。
私の実家はアパートの2階にあるのですが、子どものころ家のベランダから空を見上げると、手が届くような近い距離を、米軍機がすごい音を立てて飛んでいくのをよく目にしました。進学をきっかけに県外に出て初めて、私が育った環境が普通ではないことに気づきました。
基地の周りに住んでいると慣れっこになってしまいますが、米軍機の騒音で楽しい会話がしらけたり、楽しみにしていたドラマのシーンを台無しにされたりするのは当たり前のことではありません。基地に対してわじわじしている!という方は、是非私たちと一緒にがんばりましょう。

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弁護団城間 博

沖縄弁護士会所属

はじめまして。弁護士の城間と申します。 小学校までうるま市(旧具志川市)に住んでいて、嘉手納基地の飛行機の爆音がひどかったという記憶があります。
それもあって、弁護士になったら基地関係の裁判にも取り組みたいと思っていたところ、縁ありまして、普天間爆音訴訟に第二次訴訟から参加することになりました。
弁護士は、試験に合格した後、1年間研修を受けます。私を担当してくれたのは熊本の板井(旧姓 具志堅)先生でした。板井先生は、国を相手にたたかうときは被害を語らないと負けるとよくお話されていました。普天間爆音訴訟では、陳述書と本人尋問が被害を語る部分に当たります。私たちもお手伝いしますので、一緒に頑張りましょう。

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弁護団末松 実紗

沖縄弁護士会所属

弁護士の末松実紗と申します。2年間岐阜で仕事をした後、2011年に縁あって沖縄に移住し、弁護団に加えていただきました。沖縄に住んで初めて、空を日常的に戦闘機が横切る光景を目の当たりにし(それまでの私の人生では空を飛んでいたのは民間航空機と鳥くらいでした)、衝撃を受けました。その影響か、しばらくの間、戦争の夢をよく見たりしました。
沖縄市知花の事務所は、嘉手納基地のコンター内ですが、本当に爆音がうるさいです。爆音が続くと、イライラが生じ、一時期流行った「うっせぇわ!」の歌がつい口をついて出たりします。あの歌の普天間爆音バージョンを作ったら、世の中にこの爆音被害のやるせなさをうまく訴えることができるかも?などと密かに思ったりしています。
沖縄に住む一人として、皆が静かな環境で安心して過ごせるようになることを願ってやみません。裁判など、しっかりとがんばっていきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。

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弁護団高木 吉朗

沖縄弁護士会所属

弁護士の高木吉朗と申します。広島県出身です。
1969年、沖縄の本土復帰が決まった年に生まれ、子どものころに「沖縄海洋博」という言葉を聞いた記憶はかすかにありますが、いとこが沖縄の人と結婚して「銘苅さん」になった以外は特に沖縄との縁もないまま少年期を過ごしました。少年時代の私は、沖縄といえば「ゴジラ対メカゴジラ」に出てくるキングシーサーくらいしか思いつかない特撮大好き少年でした。
1998年に大阪で弁護士登録をし、2000年から第2次嘉手納基地爆音差止訴訟の弁護団に参加することになり、初めて沖縄の歴史や基地問題について本腰を入れて勉強するようになりましたが、それまで知らなかった幾多の事実とその重さに、目がくらむ思いがしたものです。その後、2002年に最初の普天間基地爆音差止訴訟が提起されると聞き、弁護団長の新垣勉先生に頼み込んで弁護団に入れてもらい、島田団長をはじめ訴訟団の皆様との縁もできました。
こうして嘉手納と普天間、2つの爆音訴訟に参加することになり、また2014年には沖縄に移住して新垣勉先生のおられるコザ法律事務所に在籍し、日常的に発生する基地問題に取り組むとともに、地位協定の研究などを続けてきましたが、基地問題は根が深く、根本解決にはほど遠い状態が続いています。爆音訴訟も、「第三者行為論」と呼ばれる司法の高い壁は今も立ちはだかっています。それどころか、PFOS・PFOA流出の問題や新型コロナウィルスの基地からの染み出し感染など、新たな基地問題も続発しています。
このような状況を少しでも改善したい、そして爆音訴訟は今度こそ差止を引き寄せる判決を勝ち取る――この強い気持ちをもって、新たな訴訟にも取り組んでいきます。

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弁護団高塚 千恵子

沖縄弁護士会所属

弁護士の高塚千恵子と申します。出身は石川県で石川県立小松高校卒業後、沖縄県の琉球大学へ進学し、以後はずっと沖縄に住み続けています。沖縄に来てかれこれ20年以上となります。うちなーんちゅと結婚し、目に入れても痛くない愛娘が1人います。
沖縄に来て、約10年は琉球大学の近く宜野湾市に住み、その後は那覇市に住んでいます。普天間爆音訴訟には第2次訴訟提訴後からの参加です。住んでいる那覇市でも、夜間にはオスプレイの飛行音がきこえ不快を感じますが、中部に行った時にきく爆音は、やはり凄まじい轟音です。第3次訴訟でも、裁判所が普天間の爆音被害と真摯に向き合うよう、裁判所に深刻な被害状況を伝えるべく尽力いたします。

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弁護団中禮 啓文

東京弁護士会所属

はじめまして。弁護士の中禮啓文(ちゅうれいひろふみ)と申します。
私はこれまで沖縄には旅行でしか行ったことなく、時折ニュースなどで基地問題の話を見聞きするくらいでした。しかし、弁護士になり最初に入所した事務所の代表からの誘いで第2次訴訟の途中から弁護団に参加する機会を与えて頂きました。
それまではぼんやりとしか知らなかった基地問題でしたが、現地進行協議の際に、小学校のすぐ近くに基地があり、そこを米軍機が飛び交い、夜遅くても関係なく飛行機が飛び回り、爆音をまき散らす、その光景を目の当たりに衝撃を受けました。
弁護団ではメールなどで日夜活発な議論が繰り広げられ、会議などでは私のような若手でも意見が言いやすいアットホームな雰囲気で、理不尽な現状を変えるために国と闘うことの意味や大変さ、大事さを学ばせてもらい、諸先輩方の背中を見てとても勇気をもらいました。
私的なこともあり、第3次訴訟には積極的に参加は出来ていませんが、微力でも皆さまの闘いに貢献できるよう頑張ります。

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弁護団仲西 孝浩

沖縄弁護士会所属

弁護士の仲西孝浩と申します。
沖縄で生まれ育ち、高校卒業後、大学から東京へ出て、弁護士として勤めていましたが、27歳の時に長女が生まれたのを機に、沖縄に戻ってきて独立しました。
普天間基地爆音訴訟は、2002年から始まり、20年経ちました。当たり前ですが、爆音自体は、復帰前からずっと続いています。
私は前回の第二次から参加しましたが、そこからでも10年経っています。
この10年間で、私はひげを生やしはじめ、体重が10kg増えて、痛風になり、子どもがさらに2人生まれました。
10年、20年、原告の皆さんにも、いいことも悪いことも色々とあったと思いますが、爆音はその間もずっと止まることはなく、子どもの誕生日や卒業式といった嬉しい出来事に水を差し、墜落の恐怖を与え、家族の会話を邪魔し、仕事終わりの休息を妨げ、健康を害して、当たり前にある日常を日々毀損し続けてきたと思います。
第三次では、裁判官に、一人一人の原告の日常生活や、その積み重ねの人生そのものの被害をわかってもらい、行政訴訟を含めて、今度こそ差止を実現できるよう、一緒に闘っていきますので、よろしくお願いします。

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弁護団中村 照美

沖縄弁護士会所属

生まれは満州。敗戦時七才で一年間難民暮らしのあと引揚げ船で長崎に辿り着きました。
高校までは長崎で、大学時代と司法試験浪人中は東京。弁護士になって福岡、長崎、そして沖縄へ。
沖縄へ移り住んだわけの第一は、スキューバーダイビングの資格をとったことでした。第二は、息子のそばで暮らしたいことです。
二〇年前沖縄へ移住した時期、普天間爆音訴訟の弁護団組織づくりがはじまっていました。弁護団は若手で結成するというのが、当時は若かった新垣勉先生の意向でした。
私は当時六三才。規格外れです。
福岡、長崎で、カネミ油症食品公害、長崎じん肺、原爆症認定裁判など集団訴訟に参加し、被害者と弁護団が一体となって闘う、何ものにも変え難い魅力は捨てられません。
そこで私が考えた理屈は「沖縄では新人弁護士だから、弁護団に入れてほしい!」
島田原告団長の「闘わない民は滅びる」の心意気を忘れないで、これからも訴訟団弁護士の一員として行動します。よろしくお願いします。

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弁護団西川 研一

第二東京弁護士会所属

2007年に弁護士登録をして間もなくのころから、県外弁護団の一員として参加させていただいています。現在は東京の弁護士会に所属していますが、弁護団参加当時は愛知県の弁護士会に所属していました。ちなみに出身は京都で、大石内蔵助が討ち入り前に潜んでいた山科というところです。
なぜ、自分は県外にありながらこの訴訟に参加させていただいているのか。それは、司法修習生の時に青年法律家協会の仲間たちと訪れた沖縄ツアーでの体験があります。そのツアーは、いまもお世話になっている弁護団の松崎暁史弁護士や現地ガイドの方々と一緒に、南部戦跡、普天間や嘉手納の米軍基地をめぐり、さらには辺野古の平島にも連れて行ってもらいました。そこで強く感じたことは、こんなことが許され続けてはならないということでした。想像を絶する沖縄戦が行われた地であるにもかかわらず、米軍基地が主要部に居座り、市民はその隣接した場所で爆音をはじめとする基地被害に苦しめられながら生活をする。このような理不尽なことをなくすために、微力ではあったとしても自分も弁護士として何らかの形で関わりたいと思ったことが一番のきっかけです。その後、入所した法律事務所の所長である籠橋隆明弁護士が頼み込んでくれて、弁護団に参加することを許していただきました。
県外在住ということもあり、働きは不充分ではありますが、東京へのアプローチなど、逆に県外だからこそ役立てることなどで貢献していければと考えています。
なお、2022年1月に、適任者としてこれ以上ない神谷誠人弁護士を所長として、念願の弁護士法人・響 那覇オフィスを開設することができました。当法人一丸となって、爆音訴訟をはじめ、沖縄の米軍基地問題に取り組んでいきたいと思います。
静かな日々を取り返すため、共にがんばりましょう!

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弁護団西村 尚志

福岡県弁護士会所属

父が炭坑労働者だった関係で、筑豊で生まれ育ちました西村と申します。
1997年沖縄をはじめて訪問した際、那覇空港を離陸した飛行機がしばらく低空飛行を続けるのは、沖縄の海がきれいだから機長がサービスしてくれているのだと、真下に広がる海を眺めながら本気でそう思いました。これが、米軍機との調整のためだと知ったのは、数年後に普天間爆音訴訟に加えていただき、裁判所に提出する飛行差止の準備書面を作成していた時ですから、今考えると、のんきなものだと思います。
島田善次元原告団団長は、法廷でサ条約と安保条約を締結した1952年4月28日は、沖縄にとっては「屈辱の日」だと意見陳述をされました。この言葉はあまりに重く、のんきな私でさえ「弁護士のお前は、その思いを受け止める熱いハートを鍛えよ。」と叱咤激励された気持ちになったことを思い出します。
最近は、沖縄に行けていませんが、遅まきながらねじを巻かねばと思っています。
どうぞよろしくお願い致します。

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弁護団林 千賀子

大阪弁護士会所属

京都府で生まれ育ち、東京、小樽・札幌で暮らしたのち沖縄に転居し、10年以上暮らしました。今は大阪の事務所に勤務しています。
来沖してすぐに、普天間飛行場爆音差止損害賠償請求訴訟弁護団に参加させてもらいました(第2次訴訟の途中からになります。)。第3次訴訟には、提訴前の準備段階から関わることが出来て多くのことを経験し、勉強と励みになっています。一番は、アンケート陳述書作成に際して原告さんたちとお話をしたことでした。一人一人の原告さんの、爆音をはじめとする普天間飛行場から生じる被害、そしてそれに対する怒り、口惜しさ、悲しさといった思いは本当にそれぞれです。提訴の受付の際に何人もの原告さんと、一緒に各々のアンケート陳述書を見ながら、色々なお話をお伺いする度に、この訴訟の意義を強く感じ、弁護団員としてやる気を頂きました。
基地の騒音被害をなくし、静かな日々、静かな空を取り戻せるよう、弁護団一丸となって頑張ります!よろしくお願いいたします。

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弁護団日高 洋一郎

沖縄弁護士会所属

弁護士の日高洋一郎と申します。高校卒業まで沖縄で過ごし、大学で東京に出て、26歳の時に弁護士として沖縄に戻ってきました。2022年1月で41歳になります。時が経つのはあっという間ですね。29歳のときに、依頼者から、「先生はお年は30代ですか?」と聞かれ、「いえ、違います。」と言ったら、「えっ。40代には見えないですね。」と褒められ、何とも言えない不思議な感情になったのが、つい昨日のことのようです。
先日、2020年に博報堂生活総合研究所が行った調査で、世の中的には43歳から「おじさん」と評価されるという結果が示されたことを知りました。私は世間的にはまだ「おじさん」ではないのだ、と確信を得たものの、常時持ち歩いている5種類の飲み薬が、確実に「おじさん」への道を歩んでいることを意識させてくれます。
ちなみに、上記の調査では、「おじさん」の7つの特徴として、許さない、闘わない、燃えない、連(つる)まない、直さない、人情派、庶民派、が挙げられていました。私は、違法な爆音を許さず、国と闘い、この活動に闘志を燃やし、皆さんと連帯し、誤った現状を直し、人情を大切にする、庶民派おじさんを目指します。
不束者ですが、よろしくお願いいたします。

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弁護団白 充

沖縄弁護士会所属

福井県出身で、沖縄に来て10年が経ちました。3歳と0歳の娘がいます。
数ヶ月前、那覇でも夜遅くオスプレイが飛んでいました。鳴り響く重低音に、長女が「怖い」とつぶやきました。
私たち夫婦は、怖がる娘を安心させるため、咄嗟に「怖くないよ」となだめました。が、直後に夫婦で顔を見合わせました。
「本当に怖くないのか? 本当に“怖くない”で良いのか?」
どちらも県外から来た我々夫婦は、“沖縄の空が異様であること”を分かっていたはずでした。2人で、「自分達の子どもが、沖縄の空が“普通“と思わないように、どうすれば良いか」という話もしていました。
しかし、いざ子どもがオスプレイの音に怖がったとき、咄嗟に「怖くないよ」となだめた自分自身の行動から、問題の根深さを突きつけられた気がしました。
翌日、私たちは娘に「昨日の夜の音は怖かったね。あんな音、もう聞きたくないね」と語りかけました。
この訴訟は、社会を変えるための訴訟、異常な社会を正常なものに変える訴訟だと思います。しかし同時に、私にとっては、私自身がこの異常に飼い慣らされないための訴訟でもあります。
この訴訟を通じて、私たちの正常を蝕む異常な日常に、そして、これを日常として受け入れてしまいそうな自分自身に、抗い続けていきたいと思います。
よろしくお願いいたします。

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弁護団松本 啓太

沖縄弁護士会所属

弁護士の松本啓太と申します。1980年に千葉で生まれ千葉で育ちました。
2009年に弁護士として沖縄に移住しましたが、それまでは綺麗な海と沖縄料理と泡盛を楽しんで帰るという観光旅行でしか沖縄に来たことがなく、旅行中に爆音に気がつくこともありませんでした。
第2次普天間爆音訴訟と第3次嘉手納爆音訴訟弁護団に参加して原告の方々の話を聞き、また、実際に爆音を聞くことで本当に深刻な問題なのだと実感しました。第2次訴訟では、裁判官に現場を見てもらう手続の中で普天間第二小学校や緑ヶ丘保育園の担当をして沖縄の未来を担う子ども達の育つ環境に衝撃を受けました。
豊かな自然があり花粉症に苦しめられることもない沖縄は過ごしやすい所ですが、近年は那覇でも米軍機の騒音が聞こえることが増えました。
基地があるために静かで平穏な生活を送ることができない原告の皆様の思いを国・裁判所に伝え、静かなで平和な沖縄を実現できるよう頑張ります。

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弁護団山城 圭

沖縄弁護士会所属

弁護士の山城圭と申します。沖縄県出身で、父方は読谷、母方は那覇です。
1977年生まれで、私の子供時代は週刊少年ジャンプが600万部以上発行された黄金期でした。ジョジョ、スラムダンク、聖闘士聖矢、ドラゴンボール、キン肉マン、男塾、銀牙、こち亀、北斗の拳などを手が真っ黒になるまで繰り返し熟読して育ちました(今でも私の知識の7割程度はジャンプ由来ではないかと思います。)。激甘の祖父がいたため、コロコロとボンボンも両方買ってもらっており、思えば私自身もあの頃が黄金期でした。
また、ゲームもたしなみ、ファミコン、スーファミ、メガドライブ、PS1~5、DS、Switchなど、大よそのハードは押さえてきました。ドラクエⅢをクリアした際の感動は今でも忘れられず、あのような感動を味わってほしいと、自分の子供達にもどんどんゲームをするよう推奨しています。子供の母親は大変苦々しく思っているようです。
大学は本土に行き、雪景色や紅葉など四季に溢れた日本情緒を堪能しました。
卒業後は沖縄に戻り4年間、司法試験の受験生活を送りました。六法全書をジャンプぐらい読み込んでおけば、あるいは自宅にPSが無ければ、もう少し早く合格できたのではないかと思います。
平成18年に弁護士登録をした際は、自分が普天間・嘉手納・高江・辺野古に関わるとは想像しておりませんでした。沖縄の歴史問題、基地問題など様々な不条理・不平等を知るにつれ、その解決が沖縄の未来に必須であると確信するようになりました。
爆音問題はもちろん、沖縄の様々な基地被害を無くし、新しい沖縄の黄金期を作るべく邁進いたします。皆様どうぞよろしくお願いいたします。

弁護団所属弁護士の写真

弁護団我妻 潤

沖縄弁護士会所属

弁護士の我妻潤(わがつまじゅん)と申します。
東京都の出身です。大学生のころ、沖縄に遊びに来て、嘉手納に住む友人宅にはじめて行きました。
リビングのテレビの音量が外まで聞こえるくらい大きいことにびっくりし、音量設定をみてみると「50」となっていました。友人家族は「こうしないと聞こえないから」とあっけらかんとしていたことに衝撃を受けていると、その音量の上をゆく戦闘機の轟音が響き渡りました。
基地騒音の中での生活が、異常な環境であることを体感したのと同時に、そこで住む多くの人にとっては意識しないほど日常になっているということを知った瞬間でもありました。
基地騒音のない日常を取り戻せるよう、ともに声をあげていきましょう!