日本の「自衛隊という軍事組織」を「国家の暴力装置」といって,この「事実のなにが悪いのか」という話題(その2)
1 冒頭・断わり
「本記述(その2)」は(その1)の続編である。できればこの「1」のほうからさきに読んでもらえると好都合である。
付記)冒頭にかかがた人物画像は,元民主党で官房長官を務めた仙谷由人(1946-2018年)。
2「政治権力は暴力装置を伴う」『朝日新聞』2010年11月22日朝刊「声」欄に聞く議論
1) 仙谷由人官房長官の発言
2010年11月22日の『朝日新聞』朝刊「声」欄に表題のような投書が採用されていた。後藤貞郎(無職,64歳〔当時〕)という男性が,11月18日の参院参院予算委員会で,仙谷由人官房長官が自衛隊を「暴力装置」と表現した点がマスコミでとりあげられ一騒ぎされた出来事を,つぎのように批評していた。
私は民主党支持者でも自民党支持者でもなく,仙谷由人官房長官に利害関係もないが,仙谷氏の「暴力装置」』発言はまったく問題がなく,騒ぐほうがどうかしていると考える。大学の一般教養を学んだ者なら,政治権力が暴力装置を伴うものであることは政治学のイロハとしてしっているはずだからである。誤った仙谷氏は謝罪を撤回したほうがよい。
後藤はこのあと「政治権力」の字義を『広辞苑』から引いて,こう説明している。--「政治権力」とは「社会集団内で,その意思決定への服従を強制することができる,排他的な正統性を認められた権力」を意味する。それは「ふつう,政治的権威,暴力装置,決定と伝達の機関をもつ」と。
そして,その「もっとも組織化されたものは政治的権力である」「政権」である。つまり,この定義に示されているように「政治権力の要素」として「暴力装置」が伴うことは当然であって,政治的立場の左右にはなにも関係しない,といっているのである。
警官が警棒や拳銃を,自衛隊が武器を装備していることは暴力装置であることを示している。それに批判的で暴力装置をもつことじたいに反対する立場の者もいるだろうが,「暴力装置ではない」という主張は,まったく理解できない。
本ブログの筆者も当然,この後藤貞郎の意見に基本的に賛成する。「本稿(1)」ですでにその説明は,『広辞苑』からの引用だとして説明されていたが,その原典がマックス・ヴェーバー『職業としての政治』である点は,用意に分かる。というか,あまりにも有名な定義としての「政治権力=暴力装置」という核心の内容であった。
仙谷由人官房長官は当時,自衛隊という本物に違いない軍隊を「卵の中心に黄身がある」というぐあいに「自衛隊も暴力装置である」といっただけのことである。仙谷のこの発言は,いまでは官房長官になった人物であるせいか,過去に記録してきた「つぎのごとき〈彼の経歴〉」に奇妙(異様)に引きつけられ〈批判〉されていた。
a) 「学生時代」--徳島県立城南高等学校卒業後,1964年東京大学文Ⅰに合格。東大時代は,全共闘の新左翼系学生極左運動家として活動したといわれる。東大安田講堂の攻防では講堂のなかには入らず,救援対策や弁当の差入などをおこない,学生活動家仲間からは仙谷は「弁当運び」と呼ばれていた。5年次に在学中の1968年,司法試験に合格,中退して司法研修所に入所した。
b)「弁護士時代」--司法修習23期(同期に漆原良夫)を経て弁護士登録し,1971年から弁護士活動を開始した。弁護士時代は労組事件や日本教職員組合関連の案件をあつかい,麹町中学校内申書事件の弁護人も務めている。また,所属していた弁護士事務所の部下に福島瑞穂らがいる。
c)「政界入り」--1990年2月18日の第39回衆議院議員総選挙に,日本社会党公認で旧徳島県全県区から立候補し当選した。現在,民主党政権の官房長官である。
2) 軍隊組織は暴力装置を核心にした国家政治のために不可欠の物理的勢力である
「つつがなき命はきのふ共伸社 あすは露木の友となる身ぞ mukofungoj ĉiuloke」という表題をかかげたあるツイッターは,今回,世の中を賑わす事件になった「仙谷由人官房長官」の発言をめぐって,こう指摘していた。
「自衛隊は暴力装置」 仙谷発言を失言としてわきたつアホは,軍隊にゃ文民統制もいらないっていってるようなもの。暴力装置だからこそコントロールが必要とするのが「まともな」軍事論。
注記)同上,http://mukofungoj.sanpal.co.jp/status/2199/
本ブログの筆者はこの短い文章のなかに「軍隊というものの本質」にかかわる的確な言及があるとみる。そうである,仙谷由人官房長官は《失言》などしておらず,軍隊組織の本質的な核体部分を率直に口に出していっただけなのである。
当時の,仙谷由人官房長官が「今回騒がれた出来事:発言」と,前掲の『彼の経歴』とのあいだに直接・間接の関係が「あるとか・ないとか」という関心とは,まったく別にして考えねばならなかったのが,まさしく「軍隊組織は暴力装置」と発言した中身の問題であった。この発言には,初めからなにも間違いはなく,特別おかしいと批判すべき〈表現〉でもなかった。
カール・クラウゼヴィッツ(Carl Phillip Gottlieb von Clausewitz,1780-1831年)は,戦争の問題に関してこういっていた。
戦争における暴力の相互作用が,政治的・経済的・社会的・地理的など諸要因によって抑制されうるのは,戦争が政治に対して従属的な性質を有するからであると。つまり,クラウゼヴィッツは「政治があらゆる戦争の形態を規定する」点を定式化し,「戦争が他の手段を以ってする政治の延長」と述べたのである。
すなわち,政治というものに関しては常時,「戦争行為」という事態,「暴力装置」という物理力が使用される事態が想定されていることを,われわれは一時とも忘れてはならない。
日本国は憲法第9条の規定をもって「戦力を放棄」したとされるが,後述するように実質では「相当の武力」を保有している。国家においては「暴力装置としての軍隊」が存在していなければ,この「国家を〈自衛する〉こと」は不可能である。日本国の軍隊を自衛隊と称するゆえんでもある。
3) 池田信夫の主張
本日のこのブログを書くためにインターネット上を探っていると,池田信夫の発言したある批評がとりあげられ,しかもだいぶ批判を受け,叩かれていた。〔実質だいぶ以前の話題となるが〕ともかく,この池田の意見を紹介しておく。
★ 自衛隊は「暴力装置」である ★
仙谷官房長官の「自衛隊は暴力装置」という国会での発言が問題になって撤回したようだが,撤回する必要はない。自衛隊はれっきとした軍隊であり,軍隊とは暴力装置に他ならない。これに抗議している自民党は,自衛隊を災害救助隊だとでも思っているのか。
マックス・ウェーバーは,主権国家を「合法的な暴力の独占」と定義した。レーニンは,国家を物理的な暴力(Gewalt)と心理的な権威(Macht)によって成り立つブルジョア階級の統治機構と考え,そのコアにあるのが軍事力だと考えた。この規定が正しかったことは,彼の革命が成功したことによって確かめられた。その後のロシアが悲惨な運命をたどったのも,レーニンの掌握した暴力装置が絶対的な力をもったからだ。
仙谷氏の「暴力装置」ということばは,このレーニンの影響が残っているものと思われるが,これはきわめて正統的な軍隊(したがって自衛隊)の定義である。菅首相も謝罪したようだが,彼は軍の最高指揮官であり,その命令で何万人も殺害できるのだ。これぐらいのリアルな認識をもってもらわないと困る。「自衛隊」などという婉曲語で,その本質をごまかすことはできない。
日本人は戦後60年以上も戦争を体験しないという幸運に恵まれ,国家の根底にある暴力の恐ろしさを忘れているのではないか。憲法には「文民」ということばはあるが「武官」はない。「平和憲法」の建て前によって,武官をいかに統制するかという重大な問題が欠落しているのだ。これを機会に,暴力装置としての自衛隊などをどう統制するのか,あらためて考えたほうがいい。
注記)『池田信夫 blog part2』2010年11月19日 00:08,http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51501855.html この引用は中略部分もあるが,その箇所は断わっていない。
4) マックス・ウェーバー『社会学の基礎概念』(1921-1922年)
池田信夫の論評は,前項2 の 1) に紹介した後藤貞郎の投書と基本的になにもかわらない。池田はそれをくわしく説明したのである。
マックス・ウェーバー『社会学の基礎概念』(原著1921-1922,阿閉吉男・内藤莞爾訳,角川書店。なおこちらではウェーバーの表記)から,今回における仙谷発言に関連する箇所を引用してみたい。
「今日では,『正当な』暴力行使は,国家的秩序がそれを是認しまたは規定する」「かぎりでのみ,やっと存在するに過ぎない」。「国家的暴力支配のこの独占的性格は,その合理的な『公共施設』の性格および継続的な『経営』の性格がそうであると同様に,その現代状態の本質的な標識である」(同書,88頁)。
池田信夫がさきに指摘したように,「レーニンの掌握した暴力装置が絶対的な力をもった」ために失敗した「ソ連邦の教訓」をよく踏まえたうえで,さらに以下のヴェーバーからの引用を聞いておく必要がある。なお,レーニンの帝国主義観については,のちに関説する。
「政治団体にとって」「暴力行使は唯一の行政手段でもなければ,正常な行政手段でもない」。「しかし彼らの用いる威嚇や,時としては,暴力の使用は,たしかに彼らの特有の手段であって,他の手段が役に立たない時には,つねに最後の手段(ultimate ratio)である」。
「政治団体だけが暴力行使を正当な手段としてこれまで用いかつ現に用いているのではなく」,「政治団体を特徴づけるものは(少なくともまた)『諸秩序』を保証するために暴力行使がおこなわれるという事情のほかに,政治団体はその行政幹部およびその諸秩序が一地域を支配することを要求しかつこのことを暴力的に保証するという標徴である」(同書,86頁)。
つまり,国家が「暴力装置としての軍事力,そして警察力」を保有するのは,外部からの侵略を防御するためだけでなく,国内での支配・統治を維持・安定していくうえでも不可欠の条件だからである。
またいえば,ときには当該政権が必要に応じてその暴力を行使するのは,国家防衛という目的のみならず,国内治安に関する政治諸目的のためでもある。
これらの現実は,この地球上においては現在もなお,もっぱら「軍事力」を基盤に政権が成立し,国家運営がおこなわれている軍事政権の国々が数多くあることから,より明快に理解できるはずである。
また,大国であればあるほど,より強大な軍事力の整備・保有が国家安全保証にとって不可欠の「政治手段的な軍事目標」とされ,具体的に追求されている。たとえばアメリカやロシア,中国などの軍備の実態をみてみればよいのである。
ソ連邦が以前,社会主義国家体制であることを止めた直後からしばらくは軍事的体制が弛緩してしまい,一時期のロシアがあたかも崩壊していくような様子を呈したことは,まだわれわれの記憶に残っている出来事であった。
3 日本の防衛費という名の軍事費
1) 日本の軍事費
日本の軍事費(防衛関係費)比率は,国内総生産〔GNP〕に対して1%程度とされてきた。これは,1976〔昭和51〕年に閣議決定された基本方針であり,いわゆる〈専守防衛〉という観点を配慮していた。1982年になるとこの1%を超える予算編成がなされていた。しかし,この比率はその後に低下しており,2003年の日本の軍事予算比率は0.96%であった。2004年度の防衛予算4兆8,764億円(一般会計予算の 5.94%)は,2010年度の防衛予算総額においては4兆7903億円( 5.18%)へと若干減少している。
日本のGNPにおける軍事費の割合は,世界的のなかでは低い水準に抑制されてきており,先進国中で最低の比率である。もっとも,予算規模金額そのものを為替で換算すると,アメリカの約5,200億ドル,中国の約1,200億ドル,ロシアの約550億ドル,フランス約450億ドルに次いで,世界第5位である。ただしその内訳では,人件費が大部分を占め,装備・施設の維持管理費がくわわる。
補記1)しかし,その後において日本の軍事費は,対米服属国家体制の本分を発揮しだしており,GDP比1%はすでに過去の比率になっている。
より苦しくなるばかりであった
補記2) つぎの,やはり『nippon.com』の記事を全文紹介しておきたい。ただし,この記事は2026年2月28日にトランプが始めたイラン戦争の悪影響は,まだ予想すらしない時期での中身であった。
◆ 実質賃金:4年連続マイナス,賃上げの実感消える ◆
=『nippon.com』2026年2月10日,
https://www.nippon.com/ja/japan-data/h02698/ =
せっかく賃金が上昇しても,物価高には追いつかない状態が昨〔2025〕年まで4年間も続き,庶民の生活は厳しい。衆院選でも争点になった物価高対策は奏功するのか。
▼-1 今年はプラス転化か
厚生労働省の毎月勤労統計によると,物価上昇率を加味した実質賃金は2025年,前年比1.3%のマイナスだった。現金給与総額は35万5919円と同2.3%増加したものの,消費者物価は同3.7%上昇し,給与の増加分は帳消しとなった。この年は,各月とも実質賃金が前年同月比で減少しており,一度もプラス圏に浮上することはなかった。
2022年のウクライナ侵攻に伴うロシアへの経済制裁などを背景に,資源価格が高騰。この影響で日本は物価高に見舞われ,同年から年率3%台のインフレが続いている。一方,これに対応して賃金も上昇しはじめているが,物価上昇率には及ばない状態が4年間続いている。
いったん枠外に出し引用
だいぶ負の影響が出そうである
ニッセイ基礎研究所の斎藤太郎・経済部長は,「2022,23年ごろは輸入物価が上昇する輸入インフレだったが,24,25年は賃金や物流,コメなどさまざまなコストが上がっており,裾野の広いインフレに陥っている」と分析する。
もっとも今年の実質賃金について,斎藤氏は「5年ぶりにプラス圏に転じる可能性がある」とみている。電気・ガス料金の値下げやガソリン暫定税率の廃止で,物価上昇率は2%前後の見通し。
一方,連合は今年の春闘で「3%(定期昇給除く)」の賃上げをめざしており,労組をもたない企業を含めても賃金上昇率は2%台を確保するとみこまれるという。
リスクは円安による物価上昇だ。高市早苗首相は〔2026年2月〕8日の総選挙での大勝を受けて,あらためて「責任ある積極財政」を推しすすめる考えを示した。しかし,市場には財政悪化への懸念があり,円安圧力がかかった状態が続く。
▼-3 G7諸国の実質賃金推移
日本の実質賃金低迷は国際的にも顕著である。主要7カ国(G7)のなかで,日本はイタリアと並び1990年以降,ほぼ横ばい。米国は90年当時に比べて 1.5倍と,大きな格差が生じている。
〔ここで本文の〔3 日本の防衛費という名の軍事費〕 に戻る ↓ 〕
2) 軍備にはお金がかかる
しかし,各国の物価水準の違いを考慮に入れた「購買力平価」で換算した日本の「軍事支出」は,中国の12分の1,ロシアの3分の1規模となる。さらに,自衛隊の規模は両国軍の「6~8分の1規模である」ゆえ,独力での国防は困難である。日米安保条約に大きく依存する日本〔自国〕の国防の姿が理解できる。
以上の「軍事費」に関する説明は,国家権力がその主権を発揮・維持・防御したりするとき,それもとくに最終的な立場ないしは究極的な局面に至って使用に供する「暴力装置」,すなわち「軍備」の「調達・維持」に関するものである。もう一度断わっておくが,この暴力装置は,国外から他国〔敵国〕が侵略するさいだけでなく,国内治安用として緊急時には自国民に対しても使用される。
また日本の防衛問題は憲法第9条との関係があり,専守防衛を基本戦略とする国家体制にあったが,安倍晋三の第2次政権中の2015年度に成立し,志向させた米日安全保障関連法によって,その軍事路線は実質変更されたも同然になった。このあたりの事情経過については『しんぶん赤旗』のつぎの記事が要領よく報じていた。
【解 説】 安保3文書(安全保障関連3文書)とは,岸田文雄政権時,2022年12月に閣議決定された日本の防衛・外交政策の最上位方針である。「国家安全保障戦略(NSS)」「国家防衛戦略」「防衛力整備計画」の総称で,反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有や,2027年度に防衛費をGDP比2%へ増額することが明記され,戦後の安保政策の大きな転換点となった。
そのなかで肝心な点は,こういうふうに表現できた。日本が「米国製兵器」をアメリカ政府のいいなりの価格で--アメリカ軍需産業会社から直接調達するのではなく--買わされるため非常な高い水準になるそれら兵器を,つまりは「押し売り」されている。
いってみれば,「アメリカ政府」は日本政府に対して,まるで「ぼったくり・バー」同然の要領で,日本に対してベラボウに高い価格を突きつけており,まさに悪徳の「死の商人」に勝るとも劣らぬ商法でもって兵器を売りつけては,高市早苗風にいえば,U. S. A. 側なりに大いに「ほくほく」している。
4 素人談義の感情ばかりが先行する「論」
1) 素人談義:その1
前段にに紹介した池田信夫の見解に対して,ブログ『マッシーパパの遠吠え』が,つぎのように反駁して〔噛みついて〕いた。
自衛隊や海上保安庁はけっして,「暴力装置」ではない。ましてや日本のばあい,専守防衛だから,彼らは,むしろ,仮想敵国の暴力から「国を守るため」,命を賭して日夜,頑張っているのである。
それを「暴力装置である」とぬけぬけいうような輩は,「ナイフ」をみてただちに「凶器」という類,日本の国を守るアメリカの抑止力としての「核」でさえ反対をする自虐史観の連中となんら変わらないのである。
ともあれ,アルファーブロガーだか経済学者か知らないが,こんなばかげたデマゴギーを蒔くのはやめてもらいたいが,幸いなことに,圧倒的多数の人が,「暴力装置」発言に嫌悪感を示している。
これは,専守防衛のための自衛隊だから「暴力装置ではない」軍隊だという〈思考不足の決めつけ〉である。しかし,この解釈は日米軍事同盟関係の枠内での話だとしても,見当違いどころか,まったくの無知にもとづく〈暴論〉である。
いうなれば,この発言は,ある意味での支離滅裂である。日本の専守防衛的な軍事体制が,20世紀の末葉のころからは完全に変質しだしており,とくにイラク戦争勃発以後は,アメリカの世界軍事戦略のなかに組みこまれた「日本の自衛隊」になっている。
そうした歴史的な事情変化などとも無縁に,しかも「日本の国を守るアメリカの抑止力」という文句も出しながらも,仙谷由人官房長官の「『暴力装置』発言に」対して「圧倒的多数の人が,嫌悪感を示している」のは「幸いなこと」であるという,まことにオメデタク,奇想天外なご意見・・・。
これでは,軍事関係の専門的知識の有無が問われる以前の,あまりにも能天気な,感情に先走った短見である。いわば,一知半解の段階にも到達していない,あるいは生半可というわけにもいかない,きわめて幼稚な「日本の自衛隊」〔=軍隊〕論〔観〕である。
2) 素人談義:その2
1) でのような「軍事関係の基本知識を完全に欠いた」,それも日米安保条約下の「日本の軍隊」の性格,つまりアメリカ軍との共同作戦がなければ独自には戦争のできない自衛隊の特性,いいかえれば米軍の属国的軍隊でもある〈自衛隊の本質〉もしらずに,さらにつぎのような妄論を展示する〈ブログ〉もある。
☆ 仙石官房長官の「暴力装置」発言について ☆
= ブログ『カクレ理系のやぶにらみ』2010年11月21日 14:51,
http://tamm.exblog.jp/15490066 =☆
仙石長官の失敗は,唐突に「暴力装置」という耳慣れない政治学用語を用い,しかも自衛隊という個別の組織に結びつけたことです。普通の神経の持ち主であれば,政府高官として自国の軍隊のことを暴力組織と呼ぶということはありえません。そんなことをすれば,兵士たちの反感を買うことになるからです。
こういう発言が起こるというのは,たぶん世界中で日本だけであろうと思います。その理由は,敗戦後65年間この国の防衛をどうするかという議論がまともに行われたことがないというというところに由来します。その根本となるところの議論がない以上,自衛隊に関する議論は何をやってもうわべだけのものに終わってしまいます。
今回の官房長官の発言は,その不用意さを自民党に突かれ,新聞の紙面を賑わすことになったわけですが,どうやら官房長官による失言ということで議論が停滞し,そこからさきへは進まない気配が濃厚となってきました。
日本の防衛について国民のあいだで合意を形成するせっかくの機会なのに,惜しいことをしたと思います。昨年からの普天間基地の移設問題といい,この間の中国漁船の衝突事件といい,考えなおす材料は揃っていると思うのですが・・・
この批評は,いいところ〔防衛の議論の必要性〕を突いてはいるものの,暴力装置ということばを「耳慣れない政治学用語」だといったり,これを「自衛隊という個別の組織に結びつけたこと」がまずかったと指摘したりしたうえで,「自国の軍隊」=「暴力組織」といった点が「間違えていたか」のように非難している。
ここまでの記述を読んだ人であれば,これほどトンチンカンで,まさしくやぶにらみであるがゆえの歪んでしまった「日本の自衛隊」理解である点は,即座に理解してくれるはずである。「普通の神経の持ち主であれば,政府高官として自国の軍隊のことを暴力組織と呼ぶ」ことを “間違っている” といいたかったらしい。だが,この種の素人論議こそが,まさしく大衆愚による典型的な勘違いを犯した代表例である。「無知」が介在すると,なにでも発言できるという蛮勇の事例であった。
「『暴力装置』という耳慣れない政治学用語」を「唐突に」聞かされたとかいったり,「軍隊」「を暴力組織と呼ぶ」のは「兵士たちの反感を買う」とかひどく心配したりするけれども,軍隊はそもそも〈暴力的な破壊力〉を実際に発揮しなければ,戦闘行為=戦争のための作戦は実行しえない,そういう「暴力装置」なのである。
戦車が街の道路を走るだけで破壊行為になること〔舗装道路を加速度的に壊してしまう〕をしるべきである。この戦車が1発の砲弾を市街に向けて発射すれば,都会の住宅が瞬時にどのくらいひどく破壊されるか想像だけでもしてみるべきである。陸軍の歩兵が白兵戦になったら,敵国の兵隊を射殺したり刺殺したり,あるいはときには素手で絞め殺したりしなければならない。軍隊が戦う現場においてはそのように,あらゆる種類の「暴力装置」が実働状態になる。
補記)2022年2月24日に「プーチンのロシア」が始めたウクライナ侵略戦争の様子は,ユーチューブサイト動画を介して,それこそ現場臨場感あふれる光景として豊富に,われわれに視聴させてくれている。
昔であれば戦場に出された兵士でなければ実際には体験できない戦闘行為が,自宅のパソコン画面で観ることができる。
SNS的な現実相としてのそれが,兵士が装着しているボティー・カメラのレンズを通して,第3者のわれわれが視聴できている。だからこれは,もともと〈ただごとではないはずの戦地・戦場の戦闘行為〉が,当事者ではない部外者の誰であっても,自宅で手に取るように観ることができる。
〔記事本文に戻る→〕 ところで,暴力組織というと「暴力団」をただちに連想させるような用語であるために,そのように反発する意見も提示されたのか。だが「暴力団」組織と「一国政府の暴力組織である軍隊」とは,実は紙一重の違いしかない。
一方は,国家の規定する合法性からは離れた地点で組織された社会病理的集団として排斥されるが,他方は,国家が支配・統治の必要から組織正統的に編制された物理的な暴力装置として認められる。
日本国にあっては以前であれば,それなりに勢力があった「広域暴力団」にかぎらず,その他の多種多様な暴力団組織も完全に消滅させえないで,存在させつづけていた。その関係でいっても,それらをとりしまり壊滅させるためには,「国家暴力装置」としての警察の整備・強化が必要とされている。
1960年代の半ばまででいえば,警察庁が「暴力団組織」に公然と「十手を預ける」ような共生関係が,全然なかったとはいえない「歴史の事実」が実在していた。それにしてもなぜ,いまもなお暴力団を本当に完全に撲滅できないのか。この疑問に答えられる当局の責任者は,いまも昔もどうもいない。
3)「暴力装置発言,前原氏が擁護」(11月20日)
『産経新聞』が2010年11月20日(土)7時57分に配信したニュースは,こう報道していた。
前原誠司外相は19日夜の会見で,仙谷由人官房長官が自衛隊を「暴力装置」と発言し,撤回したことについて「本音ではなく,ことばが誤って出たものだと認識している」と述べ,擁護した。
前原氏は,仙谷氏から直接説明を受けたことを明らかにし,「実力組織と言うところを,昔よく共産党系の本も読まれていたのか,『その中に暴力装置のようなことばがあった』と聞いた。それが間違って出てきたと思う」と述べた。
仙谷氏は,民主党内で前原グループ(凌雲会)に所属している。
なおこのリンクは現在削除
前原誠司が仙谷由人官房長官の「自衛隊は『暴力装置』といった発言」をかばい,それは「本音ではなく,ことばが誤って出たものだと認識」できるとか,「実力組織」のいい間違いであるとかいうふうに修正させようとしたことは,政治的な収拾策であるとすれば理解できなくもない。
しかし,実力組織である自衛隊は,当然「武力という暴力」の発動なしには,軍隊組織としての〈防衛=攻撃〉の機能を,本来の任務として発揮できない。いわく「共産党の本」とは,レーニンの『帝国主義』〔この本については,などを指しているものと思われる。
だがともかく,共産党の関係者や支持者でなければ「レーニンの本などを読んでいけない」ものではありえない。この種の話法はやや奇妙な含意に流れこむおそれがあるから,注意が必要であった。
こうなると,前原のごとき発言の意図は拡散するばかりであって,官房長官の仙谷由人を擁護する目的以外,いったいなにをいいたいのか不明瞭である。
4)「仙谷氏『暴力装置』発言,防衛相が遺憾の意」(2010年11月19日)
さらに『読売新聞』が〔2010年〕11月19日(金)16時49分に配信したニュースは,こう伝えている。
仙谷官房長官が自衛隊について「暴力装置でもある」と参院予算委員会で発言し,直後に撤回,謝罪したことに関連し,北沢防衛相は19日午前の閣議後の記者会見で,「まさに残念だという思いだ」と述べ,遺憾の意を表明した。
海江田経済財政相も同日の記者会見で,「いまの自衛隊が果たしている役割,自衛隊が一生懸命やっていることを考えれば,不適切な発言だ」と批判した。玄葉国家戦略相は,「いい間違いだ。官房長官は今後,そういう(暴力装置との)ことばは使わないと思う」と語った。
このリンクは現在削除。
日本の政権党の幹部たちは,平和憲法とされる「日本国憲法ボケ」にかかっている。海上自衛隊のイージス艦〔大型IT駆逐艦〕は,自衛艦とは称していても,日本国の軍隊が保有する「高い戦闘力を有する軍艦」:「暴力装置」の一種ではないのか?
また,航空自衛隊が配備するF-15Jなどの〈戦闘機〉約260機は「暴力装置」ではないのか? これらの軍艦や戦闘機などは有事のさい出動して敵と戦い,このときにこそ「暴力装置」である特徴を物理的に発揮する。そのためにこそ,日夜な訓練にも励んでいる。
軍艦や戦闘機などに乗りこんで操艦・操縦し,戦闘する自衛官たちが「人的に働くほかない暴力装置」になっていないと,どうしたらいえるのか? なにか工夫でもすると別様に説明ができるのか? 軍艦や戦闘機などは兵器であるから「暴力装置」であるし,これに乗りこんで戦闘行為にくわわる自衛隊員たちは,その「暴力装置」と一体化して,その機能を発揮させる戦闘員となる。
結局,「暴力装置」を「実力組織」といいなおし,ボカして表現したからといって,その本質的な性格・意味が塗りかえられるものではない。そもそも「国家の実力」の核心部分を,具体的に形成するのが軍隊組織である。これは「国家維持のための暴力装置」として必要不可欠なのであって,いうなれば,国家の基礎的な要件=合法的支配力を支えるために必須の〈物理的な基盤:暴力組織〉なのである。
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【「本稿(2)」】の続編(3)は以下である。


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