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さて、最後の問から1ヶ月が立ちました。ケアの他者への侵襲性について、お考えはまとまりましたでしょうか? ケアによる侵襲性は、誰の同意の下で行われるのでしょうか?その時に誰の意思を排除するのでしょうか?そして、それは許されるモノなのか、許されるとしたら誰に許されるのでしょうか?ケアを受ける当人はその許しへの関与はある必要があるのでしょうか?


































ありがとうございます。少しだけ焦点を絞ります。

私が問いたいのは、あなたが「矯正したい」と思っているかどうかではありません。 むしろ、あなたが善意で支援・援助・損害防止を考えていることは理解しています。

ただ、本人が望んでいない介入(治療や支援、援助)である場合、その介入は、意図が善意であっても、構造としては本人の選択や存在様式への外部的侵入になるのではないか、という点です。

たとえば本人が「そのままでよい」「変わりたくない」と考えている場合、治療・支援・援助によって変化した状態は、本人が望んだ状態ではなく、支援者側が望ましいと考える状態ではないでしょうか。

もちろん、他者への差し迫った危険がある場合には介入が必要になることは理解できます。 ただその場合、それは「本人のための治療や支援」というより、「社会防衛」や「社会への損害防止」と呼ぶ方が正確ではないでしょうか。

私が気になっているのは、治療・支援・援助という善意の言葉によって、本人が望まない変容を促すことの侵襲性が見えにくくなっていないか、という点です。




回答が少しずれていますね。「治療」を受ける側が望んでいない「治療」は侵襲的な矯正になりませんか?あなたとの問の焦点はここにあります。そして「治療」により変化した状態は本人が望んだ状態では無く、あなたを含む「治療者」側が望んだ状態では無いでしょうか?


さて、最後の問から一週間が経過しました。ご迷惑でなければ追加の問を。この対話の場で使用されている「治療」と言う言葉には、二種類の意味が込められているように見えます。一つは所謂疾病と言われるものからの罹患からの回復補助行為。もう一つは、外部からの侵襲的矯正行為。心理的にはこの二つを分かつのは、「治療」主体の要請になるのではないでしょうか。この事象を考える例題としては、ある宗教教義に基づく輸血拒否があります。この場合、対外的な直接影響が限定的になっているので純粋に医療倫理の内部葛藤として立ち現れます。さて、この事例と比較してあなたの言う治療を求めているのは少年Aなのか、それともあなた(を含む社会)なのか。もし、あなたならその「治療」は少年Aへの外部からの侵襲的侵害では無いでしょうか。この問はあなたがご興味をもたれている、心理学、哲学的な対話として、意味があるものかと思います。


commented

ふむ。身長150センチくらいのスレンダーの方によく似合う服装をして毎日鏡を見ると反省が継続するのでは無いでしょうか?


通常は余りこのような字を書かないから、何らかの不調を抱えている方じゃ無いかな。不調から来る突発的行動も考えられなくも無いから注意は必要だけど、内容については余り、本気にしない方が良いと思う。これを政治的に利用する方が全体としては良くない話になるので、大使館サイドもこの手紙の方向けには病院での受診や静養を勧める声明を出す方が良いかなと思う。


良い整理かと思います。ビジネスと見たときに天地人の例えではないですが、その人のトータルバリュー(知力とかだけで無く、容姿や関係性構築力なども含みます。)が高いほうが、成功への確率が上がるのは確かだと思います。その一環としての代替容易性が上げられますね。その人のバリュー、代替人員密度、タイミングなどが複合的に合わさっているのでしょうね。


確かに自律型でクマに追従しながら音や光などで威嚇すると良いですね。24時間365日対応ですし。ルン●みたいに電池切れそうになったら勝手にステーションに帰ってきて充電するみたいな感じ。難点はクマみたいな風貌の人を追っかけ回しちゃうこと。






判断の話ですね。さて、その判断は誰が何のためにするのでしょうか。全てはそこに向かいます。そしてそこから、判断対象に向かって放たれます。因みに判断の前駆行動に評価がありますよね。評価結果に基づき判断が生成されます。あなたの書いている、「完璧でも絶対でもない」というのは正しくその通りで、評価に完璧性や絶対性が無い以上、そこから生成される判断にも、それらはありませんね。さて、このコメントの初めに戻ります。「その評価は誰が何のためにするのでしょうか?」



問い返しをありがとうございます。分かりやすいコメントですね。このコメントの焦点はここにあります。「その人の認識が歪み」←ここです。これは「誰が」決めるのですか?そして「何故決めることができる」のですか?たとえ話をします。虫を愛でる姫がいたとします。周りのみんながそれはおかしいといいます。父たる国王も、母たる王妃も、兄たる王子も、重臣たる宰相も果ては街のパン屋さんの店番の少女もです。そして、父たる国王は姫を不憫に思い、「おまえの認識は歪んでいる。だから治療する」と言い、認知療法を専門家に任せました。姫は認知療法のかいがあって、虫を愛でることができなくなりました。さて、この話をみてどう思いますか?この話が変であると思えるなら、何故、少年Aの治療が許されて、姫への治療が許されないと思いますか?


素晴らしい。かくして私の消失は世界に爪痕を残すというわけですね。主体に取り残された爪痕は自らの主たる主体を夢見ながら全ての沈黙と従えて微睡むのでしょうね。惜しむらくは主体がその世界を認識出来ないことですね。


良いですね。認識に話が移りましたね。「私」が目の前に何かを認識するとは、「私」の存在を前提にした言葉ですね。確かに「私」が存在しなければ、位置関係は消失し、目の前と言う言葉も意味を失います。さて、「私」が消失しているのか「私」には分かるのでしょうか。何故なら「私」は消失している時点で認識し得ないので、「私」が消失していると言う前提に意味はありますかね。


対話が止まってしまいましたね。また、気が向いた時に問い返しをいただけるとうれしいです。ここまでの対話を纏めると。本人が望んでいない治療をするとは何かと言う話です。それは自己が他者の性質(本質の一部)に対して、自己が好む形へ変容させるための侵襲ではないかと言う話です。あなたはそれを治療と称してそれの必要性を説いている。私はそれは侵襲ではないかと問うている。哲学にご興味がおありのようですので、この哲学的な問いに対して、気が向いた時に問い返しをいただけるとうれしいです。






コメントありがとうございます。ipuが目の前にいると言う命題に成立する可能性が全く無いとき、その命題が写像している事態は本当に論理空間内ので位置を持つことができるのかなと。このあたりは定義性が強くなってきますね。


ヴィトゲンシュタインの事態について
ヴィトゲンシュタインの事態について

ヴィトゲンシュタインの事態について、事実は成立している事態とあり、諸対象の結合を事態と言っている。そうすると事態の記述である命題としての「石が机の上にある」は本当に机の上に石があれば事実として成立し、なければ事態に留まると言うことになる。では、「IPUが目の前にいる」と言う命題は事実でないことは明らかだが、事態には留まり得るのであろうか?


問い返しをありがとうございます。大分収斂してきたかと思います。では、なぜ、その人に危険が及ぶ可能性があると、その人に対して「治療」という名前の心的構成変容をしないといけないと考えられるのでしょうか。おそらくそこに今回の議論の核があると思います。つまり、その人の意思決定を上塗りする必要があると考える理由です。その理由として認知の歪みなどを上げられると、その歪みは誰が判断しているのか、その判断は本人の判断より上位にあるのかという問いになって跳ねてきます。専門家が判断すると言うと専門家だったらなぜよいのか、そのお墨付きは誰が与えたものなのかと言う問いになります。


まずは、真摯な問い返しをいただけたことに、お礼を申し上げます。そして、誰かを裁こうとされておられないことも理解しておりますし、犯罪心理学にご興味があり学ばれておられることについて非難をしているものでもございません。この点はご理解くださいませ。さて、論点を若干整理いたします。犯罪心理学的にある傾向を示す存在を認識した時に、その傾向に対して取り得る対応が論点になっています。その対応として「治療」を選択するときに、その選択は相手の傾向つまり心的構成に直接踏み込むことになるのではないかと言うことです。その存在を拘束したり排除したりすることは、傾向には踏み込まず傾向による結果への対応に留まり、心的構成には直接踏み込みません。しかし、「治療」はその存在の心的構成を治療者が理解できるもの、つまり良いと判断できるものに直接的に改変を加えるものです。ここで大事なことは改変を加える判断自体が、心的構成の許容可否の衣を被った優劣を前提としていることです。心的構成はその存在が存在たる最終領域かと思います。本人が変容を望んでいるならまだましも、望んでいないのに「治療」をしようと考えてしまうのは、心理的に優劣の判断をしてしまっているのでは無いでしょうか。ここで難しいのはこの判断は善意と言う衣を被っていることです。この衣は判断しているということが擬態している姿には見えませんでしょうか。


非常に興味深い対話なのでご迷惑でなければ続けさせてくださいませ。では、まず、心理的な話かどうかについては、私も自己認識という心理的な話をしておりますので、同じ地平には立てていると思いますので、ご安心ください。で、自分の状態を理解して対処するという点においては、少なくとも皆さん自分の状態をその方なりに理解して行動決定という対処をされていると思います。その対処について、他者がどのような判断をするかは、当人の意思や理解からは独立していると言えると思います。(当人が崖に向かって歩くのが正しいと行動決定していることに対して、当人の判断とは関係なく他者が危ないと判断する感じです)そうすると、状況を理解して対処できていないと他者が判断すること自体が、当人の判断を蔑ろ、もしくは当人の判断より自分の判断の方が優位または正当であると言っているのと同じことになりませんでしょうか。


彼の存在は置かれた環境との対話による結果として構成されていると思います。その存在自体の善し悪しや正常性は彼自身が決める話なのかなと。治療という言葉には既に審級が入っており、何らかの、誰かの水準、評価による正常性を問うた後の評価結果となっていますね。さて、何故、彼は他者が決めた「普通の人」になる必要があるのでしょうか?彼は彼の基準による「普通の人」ではないでしょうか。我々にできるのは、排除か彼の普通の包摂なのかの自己の立場の決定しかないのでは無いでしょうか。彼を「治療」する正当性を我々はどのように彼に説明するのでしょうか。


さて、色々な意見が集まったが、余り深さは無かったな。昔々の話だがネチズン概念における電脳匿名空間での知恵の集約展開はやはり幻想だったのか。それとも、知恵は偏在しておりここでは無い何処かにあるのか。または、aiの中か。



さて、興味深い意見なので、問い返しを出したいと思います。彼を理解すると言うことは、あなたの認識を通ることなので、あなたの認識による審級が入っているかと思います。で、ここで問い返しです。「だからこういうケースでは。。。治療や支援が必要」とおっしゃっておられますが、本当に彼は望んでいるのでしょうか?彼の行動は彼が正しいと判定した行動なので、それを他者が制御する正統性はどこにあるのでしょうか?価値観の違いによる排除もしくは包摂は理解できますが、彼を治療や支援することは何故なのでしょうか。まぁ、支援することが彼のやりたいことのサポートなら包摂となりますが、恐らくこの定義ではないのでしょう。






面白いですね。権利という自己と他者の関係性の中で立ち上がる相対的な概念を、宗教という他者から与えられた絶対性が担保しているという構造をすんなりと受け入れていると言うことになりますね。あなたの書かれているように、本来は無意味で無価値だからこそ、絶対性に担保させようとしたのかもしれませんね。


そうですね。王権神授説はその源泉を名前にしているくらいなのに、なぜ、自然権神授説って言わないのでしょうね。実はこの部分が自然権の中核でそのほかの色々な解説は枝葉でしかないのに、解説書は枝葉に重きを置いて説明をしていますね。王権に対する神権の担い手として市民を準備し、神権の化体した自然権を付与して対決させているように見えますよね。王権には国家に変化したとしても構図は同じですね。





それは、貴重なご経験ですね。お会いしたビーガンの方の問いの射程が気になりますね。もし、穀物や野菜を食しておられるのなら、それらも死体ですから何らかの死を食しておられるのですが、どのような線引をなさっておられるのでしょうね。苦痛と言う話では、植物も傷とかに対する防御もしくは修復代謝をされてますから、神経系を使用していない何らかの内部シグナルは発生していますからね。まぁ、魚が嫌いとかの個人的好き嫌いでしたら、何も申し上げることはありませんが。




そうですね。このシチュエーションでは自然が決めますよね。権利には相手方に義務を課する性質がありますよね。相手方が生存権を主張すると、こちら側は相手側の生存権を認める義務。それが自然権として存在するとすると、サーベルタイガーにも射程が届かないと何となくおかしいなと思ったりするんですよね。


普通はそう考えますよね。しかし、脳内処理の結果として認識しているから、ひょっとしたら、そのように認識しているだけかもしれないですよ。



そうですね。動物愛護の方々はどのあたりを問題にしているのでしょうかね。そのあたりでグラデーションになりそうですね。(遊びで猫を殺すのと、食べるために牛を殺すのとでは、何かが違いますものね。)


そうですよね。その人間社会にしか存在しないものを自然権つまり生まれたときからあると主張するのは何故なんでしょうね。もし、生まれたときからあると主張するなら人間に限定しているのもおかしな話ですものね。




回答、ありがとうございます。確かにその概念はありますね。世界は可能性が確率論的に重合していて認識により確定する。よい感じですよね。



回答をありがとうございます。この投稿が実在しているという、そこが曲者かなと。主体はどうしても認識を通してしか実在を検知できない。認識と同時に脳内で構成された実存が認識前に存在していると思えるのも推論という認識を通じてなんですよね。他人が認識していない実存を自分はメタ視点で認識しているので、そこからの類推では自分が認識していない実存も実存しているということですよね。


これは、妄想と実在の境界を問う問いですね。コントで志村後ろ後ろってあるじゃ無いですか。あれは観客(メタ)視点では存在認識しているけど、志村けん(主体)視点では存在していない典型例ですよね。で、仮想現実のフィードバックが完璧に行われたら、今度は志村何を触っているの?って感じになるわけです。さて、主体にとって、認識が先か実存が先か、不明で良いですかね?


ですよね。実存が認識に先行してそうですよね。でも、その表記はあなたの中で再構成されたものですよね。つまり、脳内での処理結果として存在している。処理結果としての存在は認識が先になっていないでしょうか。処理が行われなければ、無いのと同じになりそうですよ。


しかし、私が存在する(生まれる)前から、親は存在していますから、その観点からは存在するから認識という風にも見えますね。但し、あなたの言うように存在していない私が親を認識することはできないのも確かですね。




このスレッドがゲームの話になっているのでゲームで話すのだけど、あなたが今いる世界は巨大なリアルタイムストラテジーゲームのゲーム盤って気づいているかな?私やあなたはその中の一ユニットだよ。但し、幸いなことにメタなゲームプレイヤーはおらず、あなたの行動はあなたが決めることができる。あなたがこのゲームの中でどのくらいのスペックをもって行動できるかはあなた次第だよ。また、異世界ものにあるような明確なレベルはないけど、勉強や実務経験によるステータス強化はできるようにもなっている。ステータスの差異は選択可能性に影響して、ステータスが強化されればされるほど、選択可能性は増えるのは明らかだよ。あなたは、30分を何に投資するのかな?


これは、従前と異なる制約が付加されたことを指しているのと考えられるが、従前の制約には記載されていない前提条件や 制約の成就による効果への期待がなされていたのでは無いかな?その前提条件などの未成就によるものとは考えられ無いのであろうか?


理不尽という言葉は評価を含んだ言葉だから、評価者と評価対象を明確化した上で、対話を実施すると論点部分での齟齬が減りそうですね。その上で評価対象の生成要因の分解をしていくと、理不尽かどうかについてのメタ分析へ入ることができますね。如何でしょうか?


異世界ものによくある人生やり直し版の前回の自分からの忠告だと思うと考え方も変わりますよ。人生は長いようで短いですからね。親に本当はどうしたかったかとか、どこで人生の分岐点だったかとか聞いてみると、良いかもしれませんよ。


その時に幼生体が何疾病などのらかの理由で成体になれない、もしくは不完全な成体になったとすると、本性から見たその成体は欠損していると言う話なのかな?



ドングリの本性は樫の木になること。これって遺伝形質を言っているだけではないかな。樫の木なることが遺伝的最終型であり、その途上の幼生体を見てそう言ってるのであれば本性は単なる遺伝形質を語っているだけではないかな?









さて、初めの問いに戻る。認識するから存在するのか、存在するから認識するのか。これについては少なくとも主体からすれば、どちらも同じと言えそうである。


では、逆を考えてみる。認識はできるが第三者視点で他者が全く存在しない場合、その存在からすると他者は認識できないので、やはり存在しないことになる。


外部を全く認識出来ない存在を考える。その存在に取っては他者は認識できないので存在しないことになる。第三者視点で存在したとしても。