自分のいない実家でお袋と夕飯を食べている燐羽さんの話
novel/27947773
→このお話の続きを書きました。
ただ、書いてからしばらく経ったので作風ちょっと変わってるんですよねぇ……。
期待に答えていられなかったらすみません!
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仕事の合間に、母からLINEが届いていた。
『燐羽さんが来てるよ。夕飯、一緒に食べていくって』
スタンプが一つ、にこにこ顔のクマ。
俺はスマホの画面を見たまま、しばらく動けなかった。
「……どういうことですか」
独り言が漏れる。
デスクの向かいにいた後輩が「何かありましたか」と顔を上げたので、「何でもないです」と返して、燐羽さんに電話をかけた。
三コール。
「……何?」
繋がった声は静かで、まったく悪びれていない。
「何、じゃないんですけど。母から連絡が来まして。俺の実家に今いるって、本当ですか……?」
「……お母様と、前から約束していたのよ。あなたには関係ないじゃない」
「関係ないって……俺の実家ですよっ!?」
「あなたは今東京でしょう。何が問題なの?」
返す言葉が出てこなかった。
「……エアコンのリモコンはどこ」
「え?」
「あなたの部屋の、エアコンのリモコン。探したけど見当たらないのよ……」
「……勉強机の、右の引き出しの中です」
「そうなのね。ありがとう」
そこで電話が切れた。
それから一時間後、メッセージが届く。
『この本棚、趣味が悪いわね』
写真が一枚、子供の頃に集めていた背表紙が日焼けした文庫本の列だった。
『どうせ、読んでないのに背伸びして買ったやつでしょ。栞が最初の方のページにしか挟まっていないもの』
「……そんなの、見なくていいですから」
返信したが、既読がついたまま返事は来なかった。
俺はしばらくスマホを眺めて、それから仕事に戻ろうとして、戻れないでいる。
気がつくと定時より少し早く席を立っていて、気がつくと改札を抜けていて、気がつくと夕焼け色の車窓を眺めながら新幹線の自由席に座っていた。
急いで行く必要は、別にない。
そう思いながら、足は最初からそこに向かっていた。
◇
東京に帰ってから、三週間が経った。
その間、別に何もなかった。
レッスンがあって、仕事があって、プロデューサーと打ち合わせがあって、コンビニで適当に夕飯を買って帰る、いつも通りの日々がただ続いていた。
いつも通りのはずなのに、コンビニの弁当が妙に味気なくて、何を食べても同じ感じがして、でもそれはきっと疲れているせいだと思う。
別に他の理由はない。
「燐羽さん、今日のスケジュール確認いいですか」
「……ええ」
プロデューサーがタブレットを持って近づいてきて、隣に立って画面を見せてくる。
いつも通りの距離、いつも通りの声、いつも通りの話し方で午後の取材と夕方のラジオの話をしていて、私は「分かったわ」と答えながら、なんとなく窓の外を見た。
東京の空は白っぽくて、ぼんやりしていた。
「あと、母から伝言があって」
「……は?」
「燐羽さんに渡すものがあるって。煮物を冷凍したから送るとか言ってたんですけど、住所を教えてもらえますか?って」
……なんなのよ。
「……いらないって言っておいてちょうだい」
「そうですか。じゃあそう伝えますね」
プロデューサーが踵を返してデスクに戻っていく背中を見ながら、私はなんとなく、少しだけ、惜しいような気がした。
別に、煮物が食べたいわけじゃない。
そういうことじゃなくて、でも「そういうことじゃない」の先が上手く言葉にならなくて、結局何も言わないまま視線を手元の資料に落とした。
◇
その夜、帰り道にスマホを開いたら、気がついたら見知らぬ町の天気予報を調べていた。
あの町の。
最低気温が八度で、晴れ。
……何やってるのかしら、私。
閉じようとして、でもなぜか閉じる気になれなくて、しばらくそのまま画面を見ていた。
八度なら縁側はかなり冷える。
あの薄い座布団じゃ、長く座ってたら腰に来るわね。
べつにもうあの縁側には関係ないんだけど、でも座布団が薄いのは事実だし、次に誰かが座る時のことを考えたら、ちゃんとしたものに替えておいた方がいいんじゃないかしら。
……誰かって、誰よ。
私はアプリを閉じた。
◇
さらに数日が経って、レッスン終わりにシャワーを浴びていたら、特に理由もなくあの台所の匂いを思い出した。
出汁の匂いと、木の古い匂いと、石鹸の匂いが混ざったやつ。
温度を上げても消えなくて、しばらくぼーっとシャワーを浴びながら、私は何をやっているんだろうと思った。
別に何もやっていないんだけど、でも何かをやっている気がして、その何かが何なのかを考え始めたところでシャンプーが目に入って、それどころじゃなくなった。
◇
さらに一週間後、移動の車の中で、気がついたらお母様との連絡履歴を開いていた。
最後のメッセージが「またいつでも来てね!」で止まっていて、そこから先は何もない。
親指が画面の上でしばらく止まっていた。
……来てもいいとは言われてる。
でも本当に来るのはおかしいわ。
おかしいに決まってる。
ただ縁側の座布団が薄かったのが気になっているだけで、それを届けに行くのはアイドルの仕事でもなんでもないし、むしろ余計なお世話で、なのに指が動いて文章を打ち始めていて、気がついたら送信していた。
『先日はお世話になりました。一つ気になっていたのですが、縁側の座布団が少し薄くなっていた気がして。もしよろしければ新しいものをお持ちしてもよろしいですか』
……座布団。
座布団を理由にしたわ、私。
五分後に返信が来た。
『うれしい! ぜひ来て! 息子には内緒でサプライズしましょう』
……サプライズ。
これは、私の計画通りよ。
何も間違ってなんていないわ。
◇
勉強机の引き出しを開けると、リモコンはちゃんとあった。
言われた通りの場所に、言われた通りのものが入っていて、それがなんとなく可笑しくて、可笑しいのにどういうわけか胸のあたりが少し変な感じになった。
何かが温かくなるような、少し息が詰まるような、上手く説明できない感じ。
考えたくないので、エアコンをつけて部屋の真ん中に立った。
六畳で、薄いカーテンで、日焼けした本棚で、天井の隅に剥がし忘れたシールの跡がある。
……剥がしなさいよ、こんなもの。
何年放置してるのよ。
本棚に近づいて、背表紙を一冊ずつ眺めた。
冒険小説、SF、背伸びしたミステリー、どれも栞が序盤のページで止まっていて、一冊も読み切っていないのが丸分かりで、写真に撮って送ったら「見なくていいですから」と返ってきた。
分かってる、見なくていいのは分かってるけど、でも手が止まらないから仕方ないじゃない……。
本棚の端に、小さなトロフィーが立っていた。
「走り高跳び 三位」と刻まれた、くすんだ金色のもので、三位なのにわざわざ棚の端に飾ってあるのが、もう、なんか、すごく、あなたらしかった。
思わず手に取ってしまって、でも持っていてもしょうがないので慌てて戻す。
「燐羽さん、お茶が入りましたよ」
廊下からお母様の声がして、私はようやく部屋を出た。
◇
台所のテーブルでお茶を受け取ると、お母様が向かいに座った。
「あの子の部屋、変わってないでしょう。片付けなさいって言っても全然聞かなくって……」
「……ふふ、そうですね」
「トロフィー、見た?三位のやつ」
「……見ました」
「あの子、悔しくて三日くらい引きずってたのよ。でもなぜか捨てないのよね、まったく意地っ張りだから」
お母様がそう言いながら立ち上がって、棚の引き出しをごそごそ漁り始めたので、私は何が出てくるのか少し身構えた。
「これ見てちょうだい」
差し出されたのは一枚の写真で、小学生くらいの男の子がランドセルを背負ったまま玄関先で泣いていた。
……え、かわいいじゃない。
「テストで百点取れなくて帰ってきた日。玄関入った瞬間に泣き出して」
「……ふふ」
笑ってしまった、思わず。
「でしょう。お母さんもおかしくて笑ったら余計泣き出して、大変だったんだから」
想像できる、すごく。
「……他にも、あったりしますか」
……あ、言ってしまった。
「あるある」とお母様がまた引き出しを漁り始めて、私は「べ、別に、担当プロデューサーのことを把握しておくのはアイドルとして当然のことで」とか心の中で言い訳を組み立てながら、気がついたら前のめりになっていた。
◇
親御さんが寝静まった後、気がついたら縁側に出ていた。
新しい座布団は、ちゃんと縁側に置いてある。
それだけが今日来た理由で、用は済んでいるのに、外に出てしまった。
空気が冷たくて、虫が鳴いていて、東京の夜と重さが違う。
そう黄昏ていると、縁側の板が軋んだ。
振り返ると、廊下に人影があった。
「……燐羽さん?まだ起きてたんですか」
あなたの声だった。
「……来たの」
「ええ、来ましたよ」
当たり前みたいに言って、隣に腰を下ろした。
近い。
……近いじゃない。
なんで躊躇なく隣に座るのよ、もう少し間を空けるとかあるでしょう、どきどきしてるのは私だけじゃないの、と思ったけど言わなかった。
……言えるわけがない。
「座布団、替えてくれたんですね」
「……縁側のが薄かったから。それだけよ」
「助かります。前のやつ、結構ケツが痛くて」
「……言いなさいよ、そういうことは」
変な間があった。
「なんで来たんですか」
「座布団を届けに来たのよ。さっき言ったでしょう」
「それはそうなんですけど」
「なによ?」
「……いや、別に」
あなたが空を見上げた。
「母さん、喜んでましたよ。燐羽さんが来るって分かってから、ずっとそわそわしてて。燐羽さんが来ると楽しいって、よく言ってるので。また来てください、母が多分また呼ぶと思いますし」
……なんなの、それ。
「また来てください」って、お母様が呼ぶから、って。
そういう言い方をするのよ、あなたは。
お母様が、って。
あなたは呼ばないの?と聞こうとして、でもそれを聞いたら何かが終わる気がして、黙る。
多分あなたはそういう意味で言っていないし、本当にただお母様が喜ぶからという理由だけで言っていて、そのくせこんなに近くに座っていて、全然気づいていなくて、それが一番どうしようもない。
「……考えておくわ」
それだけ言って、前を向いた。
虫が鳴いていた。
庭の古い木が風に揺れていて、あなたの肩が視界の端にあって、近くて、本当に近くて、でも何も言えないまま夜が続いた。
◇
翌朝、まだ暗いうちに目が覚めて、布団の中でしばらくぼんやりしてから起き上がった。
台所に下りるとお母様がもう起きていて、並んでご飯の支度をする。
お味噌汁の出汁を取りながら、お母様が言った。
「息子をよろしくね」
前の帰省の時にも同じ言葉を言われて、あの時も今も、うまい返し方が出てこない。
「……精一杯、やります」
それだけ言ったら、お母様は何も言わずに少しだけ笑った。
なんなのよ、本当に。
この家の人は、みんなして、私の返す言葉を全部先に取っていく。
朝ごはんができる頃には外が明るくなっていて、あなたが起きてくる前にテーブルに書き置きを残して出た。
『エアコンのリモコン、引き出しに戻しておいたわ。本棚は、趣味が悪いまま』
玄関を出ると朝の空気が冷たくて、きれいだった。
駅に向かいながらスマホを取り出して、送るべきかどうか少し考えて、でも送らないのも負けた気がして癪で、送信ボタンを押す。
『縁側の座布団、お母様に確認しておいてちょうだい。正しい場所に戻してあるか、一応』
送信した瞬間、着信が鳴った。
「……なんなのよ」
『なんで帰ったんですか』
「朝早かったからよ」
『起きたらいなかったので、びっくりしたんですけど』
少しだけ息が詰まった。
『次は、ちゃんと言ってから帰ってください』
……なによ、それ。
そんな言い方、ずるいでしょう。
空が、すっかり白くなっていた。
前回違ってもりんちゃんの人間みが出てきてて良いですね。りんちゃんも悩みをもった女の子って雰囲気が出ていて良きです