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部活の引退を控え、なんとなく憂鬱だった時期に、後輩のハルトから犬のルートを一週間借りることになった。 実家で犬を飼うためのシミュレーション――それが建前だったけれど、本当は、いつもクラスの中心で眩しそうに笑っている、あの社交的で人気者な後輩と「接点を持ちたい」という下心が本心だった。
預かったルートは、驚くほど人懐っこかった。誰の腕の中でも嬉しそうに目を細め、俺の家族にも初日から尻尾を振って懐いた。
けれど、ルートを撫でながら、俺の頭の中はハルトのことでいっぱいだった。
(あいつはどんな気持ちでこの犬を他人に貸し出しているんだろう。寂しくないのかな)
ルートをハルトに返すために待ち合わせた放課後の河川敷。
ハルトは「先輩、ありがとうございました!」と、いつもの完璧な、非の打ち所がない笑顔で現れた。その笑顔を見た瞬間、心臓が跳ねた。
気がつけば、ルートのリードを握るハルトの手に、自分の手を重ねて告白していた。 断られるかもしれない。男同士だし、驚かれるかもしれない。
そんな俺の震えるような緊張をよそに、ハルトは一瞬だけ、本当に一瞬だけ不思議そうな目をしたあと、すぐにいつも通りの人当たりのいい笑顔に戻って言った。
『いいですよ。俺でよければ』
その時の俺は、夢が叶った嬉しさで、彼の返事があまりにも「軽すぎた」ことに気づいていなかった。
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付き合い始めてからのハルトは、文字通り「最高の恋人」だった。
学校帰りに寄ったマクドで俺が何気なく「これ美味そう」と言った限定メニューを、次のデートでスマートに予約してくれていたり、俺が髪を切れば誰よりも早く気づいて「先輩、めちゃくちゃ似合ってます」と褒めてくれた。
夕暮れの路地裏で初めて手を繋いだとき、ハルトの手は温かかった。俺が照れてそっぽを向くと、ハルトは楽しそうにケラケラと笑った。
周りの友人に「俺たち付き合ってるんだ」なんて言えない隠密の恋だったけれど、ハルトと過ごす時間は、これ以上ないほど甘くて充実しているように思えた。
――だけど、何かがおかしい。
その違和感は、付き合って1ヶ月が過ぎた頃から、無視できないほど大きな冷え込みとなって、俺の胸に居座り始めた。
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ハルトは、一度も俺に対して我が儘を言わなかった。
「どこに行きたい?」と聞けば、必ず俺の好みに完璧に合わせた場所を提案する。「何が食べたい?」と聞けば、俺の気分を100%察したような答えが返ってくる。 喧嘩どころか、意見が衝突することすら一度もない。
ある日、俺が急な部活の用事で、楽しみにしていたデートをドタキャンしてしまったことがあった。 俺は申し訳なくて、嫌われるかもしれないと必死に謝った。けれど、ハルトは怒るどころか、眉一つ動かさずに笑顔で言った。
『全然気にしないでください先輩。部活、頑張ってくださいね!』
(……なんで、そんなに平気なんだ?)
普通なら、少しは拗ねたり、寂しそうな顔をしたりするはずだ。なのにハルトの表情には、微量の「濁り」すら存在しなかった。
ハルトの目を見つめるたびに、ゾッとするような感覚に襲われるようになった。 彼の瞳は、俺を映しているようで、何も映していない。まるで精巧に作られたガラス玉のようだった。
ハルトが俺に向けている優しさや気配りは、俺という人間を愛しているからじゃない。「恋人という役割」を与えられたから、そのマニュアル通りに完璧な演技をこなしているだけなのだと、気づいてしまった。
(俺じゃなくて、他の誰かがその席に座っても、ハルトは同じように完璧な恋人を演じるのか……?)
そう考えると、ハルトに優しくされればされるほど、自分がどんどん透明になっていくような、惨めな恐怖に押し潰されそうになった。
俺は彼の特別なんかじゃなかった。
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冬の夕暮れ、冷たい風が吹き抜ける駅のホーム。
隣に立つハルトは、寒そうにマフラーに顔を埋めながらも、俺の体調を気遣う言葉をかけてくれる。
その優しさが、もう耐えられないほど痛かった。
「ハルト、お前さ……」
俺の絞り出すような声に、ハルトは小首を傾げて「なんですか?」と微笑む。
「お前と一緒にいると、自分がどんどん惨めになる。……もう無理だ、別れよう」
本当は、引き止めて欲しかった。「そんなことない、先輩じゃなきゃダメだ」って、泣き言でも怒りでもいいから、ハルトの本心が欲しかった。剥き出しの感情をぶつけて欲しかった。
けれど、ハルトの反応は、俺の最後の淡い期待を無残に打ち砕いた。
『……そっか。寂しい思いさせてごめんね。今までありがとう、楽しかったよ』
ハルトの顔に張り付いたのは、これ以上ないほど綺麗な、そして心底底冷えするような「完璧な引き際」の笑顔だった。
寂しさも、怒りも、傷ついた様子すら一切ない。まるで「お疲れ様でした」と、一つの仕事を終えたかのような、圧倒的な無関心。 電車がホームに滑り込んでくる轟音の中、ハルトはあっさりと俺の手を離し、一度も振り返ることなく車両に乗り込んでいった。
閉まるドアの向こう側で、ハルトの顔からすべての感情が消え失せ、完全な「空っぽ」になる瞬間を、俺は見てしまった。
ガタゴトと去っていく電車を見送りながら、俺は冷え切った両手で顔を覆い、駅のホームで立ち尽くした。 あいつは最初から、俺のことなんて1ミリも見ていなかった。