山崎弁栄上人の思い出 (光明会) | 瑞霊に倣いて

山崎弁栄上人の思い出 (光明会)

テーマ:信仰、御神業

弁栄上人の肖像写真

 “その後お上人がいたるところで、私らでもって考えて本当に不思議な、本当にめずらしいことをなさるということを、度々なさる。我々法律をやった者は、原因即結果ということはよく研究しておりますが、仏教の方では、原因、縁、果とこうなるわけですな。縁ということを非常によくお説き下さって、話しが非常によくわかるような気がしてずっとお供をしておった。

 お上人様は、米粒に「南無阿弥陀仏」とお名号をお書きになる。小さな米粒に六字のお名号を立派にお書きになる。細字を書く筆をもっておられるのじゃないですよ、お上人は。皆さんのお宅へ行って、そこにある筆でお書きになるわけです。中だけ五・六本残して。ほかの毛はハネて、それで「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」これくらいの速さで一つでき上るわけです。それを拡大鏡で見ますと、幽玄に書けておるわけですね。どうも我々としては不思議だから「これは一体どうしたらかけるのですか」と申し上げたら、

「仏教には華厳経というお経があるのだ。これは、本当に眼に見えないようなものにでも、大三千世界があるという事実が説いてある。これが完全に自分のものになればそれができるのだ。あんた、この八畳の部屋で、ここへ『南無阿弥陀仏』を書けといったら完全に書けるでしょう。それと一緒です。といって米粒が大きくなるのじゃなく、小さくなるのじゃなく」

とこういうようなお話をなさった。それも現実に示される。華厳経を自分のものにしてしまったらそうなるのかなという感じがした。

 ある時、仮に、「一つお上人様、ご染筆を願います」といわれて筆がそこらにないと、指でお書きにもなれば、大きな字をお書きのときは、新聞紙をぎゅっとしぼって幽玄にお書きになる。私も沢山もっておりますが、いつでもお目にかけます。ある時は、一枚の紙に両方に筆をお持ちになって違うお経をお書きになる。また、色紙を二枚置いておいて同時に別々の歌をお書きになる。

 そういう不思議なことを、度々示していただく。これはどうしてできるのか、やはり華厳経を自分のものにしなければいけないと思い、それで華厳経をお寺へ行ってひもといてみましたが、なかなか私らにはわかりません。

 お上人様は

「いやいや、それを百ぺん読んだら必ずわかりますよ」

「ぼくらは、それよりも法律の本を読まなければ試験に通らないものですから、そんなヒマはありません」といって、やはりお供をしてついて歩いた。”

 

 “そして一通りお供をして帰りまして、その時もエライ不思議なことをなさるお坊さんだと、お供をして歩いているうちに始終考えて歩いておったのですが、今度また信州へ帰りまして、上諏訪という町の正願寺というお寺へお供をしてきました。そのとき正願寺の和尚で宮沢説元という和尚さんが、「お上人様、今日は私のお寺で子供会を開きたい。結縁をする為にお上人様の名入りの米粒お名号を書いていただけませんか」「よろしゅうございます」といってお引き受けになった。そしてその時にお上人様が「何人ほど見えますか」とおっしゃったときに、「六百位の予定であります」といったら、「あっ、そうですか」とおっしゃっておられた。そして座敷に通りましてちゃんと用意してあった米粒、丁度どんぶりに一杯ありました。その前に布巾をしいて、その時にちゃんと用意をした小さな紙に、お名号と印刷したものが置いてあった。お上人様がいよいよ筆をとってお書きになる。その時はどうしたものか細字用の筆が買ってあった。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とやりなさる。この指とこの指(親指と薬指)に、ここ(手の平)をおいてはさまれる。そして「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」といってぷいっとはねられる。そうすると前の布巾の上に落ちるわけです。それを私と、後に判事になった高橋と、説忍といった小僧さん(上諏訪小学校の五年でした)の三人は、拾って包むほうに追われてしまう。お書きになるほうが早いのです。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」といってはできるのです。そうかといって念仏だけを申してやっておられるかというとそうじゃない。我々は愚問を発して「お上人様、無ということはどんなことをいうのですか」と尋ねると、「は、無ですか」とこう言われた。

「柴さん、こういう古歌があるのですよ。

としごとに咲くや吉野の桜花 木をわりてみよ花のありかを

 この庭先に大きな桜の木がある。あの桜の木を見てどこに花が咲くのがあるのかといっても、ちょっと見当たりますまい。しかし春になれば花が咲く。そういう無でなければいけないのですよ」

 その時はまだわかりませんから「そうですか」「仏教ではそれを真空というんだ」とこういうような説明をし、いろんな話をしながら「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」といってお書きになる。しばらくお書きになって、ぬかを手から払われている時は、筆を置かれたものですから、私が「もういいんですか」と申し上げたら、「ええ、六百あると思います」とこう仰るんです。それで三人が勘定をしましたら、きちっと六百ある。多くも少なくもない。高橋が疑い深くもう一ぺんひっくり返したわけですね。そしてまた三人が勘定をしますと、きちっと六百ある。その時に初めて、これは常人ではない。と初めて私は頭が下がったのです。

 それまで、約一年ついておったが、駄々っ子がおじいさんに無理ばっかりいっておった状態におりまして、それからは非常にお上人様を尊敬し、また仰ることは一々心にとめて聞くというような状態であった。

 そんなことがあり、それからお人が見えると「あなたお幾つですか」、「幾つ幾つ」、「それなら午とか丑」とかいって、「それなら虚空蔵さんが守り本尊ですから」といって虚空蔵さんの絵を書いてあげなさる。茨木へ行くと立派な仏像が書いてある。お人が来ると「お幾つだ」そうすると「あなたは観音様が守り本尊だから」といって早速書いてあげなさる。それを皆もらってお守りさんにしておった。”

 

 “あるとき大正九年の九月の始めころでした。信州に岡谷という町がありました。これは製糸の盛んな所であります。そこの片倉なごんどという工場主で「やまに」という工場で、女工が二百人ばかり寄るから、そこへ行ってお上人様らにお話をしてくれと招待をお受けなさって、私ら二人はお供をして行きました。その時、お上人様が「柴さん、今日はどんぶりを借りてそこへ墨をたっぷり入れておいてください」それから高橋には「古新聞を持ってきて、それを止められるだけのピンを用意しておきなさい」と言われた。

 いつもお上人様は講義などでは、一般の人に対しては玉子の例をよくおとりになるわけです。その時もあのニワトリと玉子のお話です。要するに、

「玉子が無精卵でない以上は一定の温度と時間をかけたら、必ずヒヨコになるのだ。我々は仏の子だから、必ず如来様のお導きによって仏になれる。しかしそれが必ずなれるのだといって放っておいたら、それは必ず腐ってしまって駄目なのだ」。

 こういうお話をしょっちゅうなさった。また卵の例かといって我々はお話を聞かないでそこらをぶらぶら遊び歩いておったら、和尚が「書生さん、お上人様が呼んでいますよ」ということで帰ったら、お上人様が「高橋さん、黒板に新聞を止めてください」、私には「柴さん、さっきのどんぶりの墨を持ってきてください」と仰った。

 お上人様は筆のいらないお方です。何でもそこにあったものでお書きになる。筆のことを考えなかった。そしたらといって両手の指八本に墨をつけて同時にお書きになった。

 いろはにほへとちりぬるを……と八通りお書きになる。我々はこうやって(両手の拇だけ折って八本の指で)手をかしたら、指で八通り等しい字を書けますね。ところが指を一本一本独立的に動かして、そして一ぺんに八種の書体で「いろは」を書いて示された。そのとき我々はびっくりして、びっくりしたというより面白半分で、二百人の女工と一緒に手をたたいて非常に喜んだものです。その時にお上人様いわく、

「あなた方は何でも如来様にお任せしてそして仕事をしなさい。太いところや細いところのある不合格品はできない。みんな合格の優秀な糸がとれるんですよ。こういうおじいさんのように全部を如来様にお任せをすればこういうことができるのです。これは私が如来様にさせていただいているんだ」

と説明をなさった。「ほう」と思って我々は不思議に思った。そして私はその新聞に書かれたのをもらって持って歩いておった。そしていつかそれを紙か何かに書きかえてもらおうと思っておりましたが、大正九年の十二月にお亡くなりになったものですから、そのまま大正十二年の震災まで持っておったのですが、屋根がぬけて雨がだだ漏りになって、そんなのが皆ぼろぼろになってしまった。それも沢山の人に見てもらっておいた。そういうふうに、われらがいう不思議なことをなさった。”

 

 “そうしますと、弁栄上人はよくお米粒にお名号をお書きになられたが、そのお名号の米粒を、お腹の大きくなった妊婦が口からいただくと、口から入って喉に入り胃に入るでしょう。しかし、それを産気づいて出てくる赤ちゃんが、百人のうち六十四人までが必ず右が左の手に握って出てくる。こういう事実がある。これはちょっと説明がつきませんよ。口からのんで胃に入っている米粒が子宮の中におる胎児が握って出るのです。こういうのは信州から越後へんにたくさん、今でも自分が握って出てきたお名号をお守りさんにしている人がいます。これなんかは岡先生から聞いたら、自然の法則を破って出てきたところの事実なのですね。これなどをやっぱり奇跡というんですね。それから今言ったようなことを考えますと、先にも申しました六百粒のいろんな米粒にお書きになる、ということは心理学でいうと超能力者です。

 弁栄上人は、いつも

「こういうことは私がするんじゃなく、弘法大師さまも日蓮上人もいろんなことをなさった。そういうふうに人を導く者は、こういうことをさしていただかないと導けないときがあるから、さしていただけるんだ。皆さんも一生懸命にお念仏してお育てを受けたら、必ずできますよ」

と、仰られました。すると私は「お上人様、お念仏を申すといってもどうも我々は気が進みません」と申しますとお、お上人様は

「ちょうど生まれたての赤ちゃんが、ほぎゃーほぎゃーと泣くと、お母さんがお腹が減ったんじゃないかと乳房をくわえさせてくれる。また泣いていると、これはおしめがぬれているんじゃないかと替えてくれるときもあるし。そのごとく阿弥陀さんにおすがりして泣いておれば、必ずお乳をいただいてそしてお育てを受けて一人前になれるんだ」。

 こういう例を始終とってお教え下さいました。

 そういうふうにしてずっと丸一年半ついておったのですが、高橋もよく知っていたことですが、お上人様について歩いておった間に雨にあったことがないのです。傘がいらないのです。あとから考えてみれば、雨もあれば風もあったのです。ところが六ヵ月ぐらいまでずっとスケジュールがきまっておって、いつ何日はどこそこへ行く、いつ何時から何時まではどこでお話をなさる、それで行きますけれども一ぺんも傘はいらない、ということは、その時間お上人様がその場所へ着くまでは、ちょうど小降りになり、雨が晴れて傘がいらないで着く。そしてまたそれを済ませて汽車に乗る時分は雨が降る、というふうな調子でほとんど傘がいらなかった。高橋とよく話をしていたのですが、「聖人に雨なし」という事実だなと言ってよく考えた。

 それからお上人様は、さっき言ったように筆でなく指でお書きになる、こよりでお書きになる、新聞紙でお書きになる。これは私たくさん持っております。いつでもお目にかけますが、そういったものに、「柴さん、これは簡単にできますな」「我々はどうも真似ができませんが」と申し上げると、「よく世の中に弘法は筆を選ばずと申しますな」とこう言われる。なるほどそうだなと思って、そのときはお供をして歩いておった。こういった不思議な御人であった。釈尊のお説きになっておられる五つの眼、肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼その五眼を全部まどかに開かれたら何でもできるらしいのですね。そういう修行は一生懸命お念仏をしておすがりして、お育てを受けたならば、五つの眼を開かしていただける、ということも我々はよく現実に示されてわかった。それからいま杉田上人がお話なさったように、弁栄上人のお書き遺し下さった『無辺光』というご本の中に大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智と説いてありますが、この四智をまどかに自分のものにすれば何でもできるということを、私が一年半ほどお供をして歩いております間に、我々のようなものにはそういう不思議な種々なことをさっとお示しになって、そして我々を導いて下さった。今から考えると実に卑近な例で、本当に目をふさいで阿弥陀さんがあるとかないとかいって、恥ずかしいことだったと今わかりました。その人その人によってお導き下さったのであります。ありがたいと今なお思っております。まだまだこういった話をさせていただくとつきませんが、一応この程度で、やめさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。”(柴武三先生『弁栄聖者随行談』より)

 

(石田義信「私が出会った光明主義の人々」)

米粒に書かれた「南無阿弥陀仏」の名号

*「南無阿弥陀仏」の名号だけでなく「般若心経」が書かれた米粒もあり、その一つは皇室にも献上されています。

 

弁栄上人が米粒に書いた般若心経

 

(「真・善・生活の賢者 山崎弁栄とその影響者達」(光明会)より)

 

*光明会(光明修養会)とは、浄土宗の聖僧・山崎弁栄上人(1859~1920)が提唱した「如来光明主義」を信奉する僧侶と信者からなる信仰団体です。全国各地で念仏会や勉強会を開催し、世界的な数学者の岡潔先生や跡見学園女学校の創立者であった跡見花蹊先生も光明会で修行されています。私は昔、光明会の講師でもあった浄土宗僧侶のところにお話を聞きに行ったことがありますが、そのレベルの高さに感動したことがあります。

 

*この5月23日(土)、24日(日)に京都の浄土宗本山知恩院月光殿で、「第50回 法のつどい」が開催されます。ネットでの参加を申し込むことも可能で、24日に行われる回向は亡くなられた方々だけでなく現存者も対象となっています。

第50回 法のつどい 案内

 

 “京都の荒木つね先生が戒浄上人に、

「亡くなった人に回向すれば、きっと届きますので御座いましょうか」

とお質ねされますと、

上人「はい、それはきっと届きます。しかし回向によってその回向を受けた人が成仏出来るのでは御座いません。フト、お話でも聞いてみようかなという心が起こり、そして信仰に入りお念仏するようになるという風になります訳で御座います。若しその人が生まれ変わっていましても、その人がその回向の功徳を受ける訳で御座います。また、一番生きている人に回向致しますのが宜しゅう御座いますね。身の近い方が一心にお念仏するのが一番宜しゅう御座います。

 

 “「ある近親のことを思って色々と心をくだいておりますが、なかなかその心が通じません。どのようにしたら宜しゅうございましょうか。」との質問に対して戒浄上人は、

「こんなに心をくだいておるのに、未だ自分の心が通じないのか。」というように、相手に自分が心をくだいておることを明らさまに示して、自分の心を相手の心に押しつけることが多うございますな。こんな時には相手の人に知られないように、生きておるその人に回向致します。相手に自分が心をくだいておることを知られないようにして、色々と心をくばる。このようにするのが宜しいようであります。

 

(「笹本戒浄上人全集3 無我と輪廻と回向」(光明会本部聖堂)より)

 

*念仏はただ多くの回数を称えればよいわけではなく、「『如来様をお慕い申す』という事が最も大切であって、またそうすることが仏道成就の一番の早道」なのだそうです。

 

 

・大本と知恩院

 

  “窪田 法然が京都で居をかまえた場所は、八坂神社の北側の、今の知恩院ですね。

 知恩院の前にある瓜生石は、素戔嗚尊が最初に地球に降りてこられた場所だといわれ、そこに本坊をもたせてもらった由緒もある。

 そして昭和五年の岡崎で開かれた宗教博覧会ではね、東西両本願寺などは大本の参加に反対したのに、知恩院は大本を押したのですね。あの展覧会から大本は宗教団体として認められていく。

 そこで聖師さまは、「大本信者は知恩院に足を向けて寝てはいかん」とおっしゃっていたというね。”

 

(「神の国」№161 『ますます浮上してくるスサノオの世界』より)

 

 

・皇円阿闍梨

 

  “その昔洛外比叡山において皇円阿闍梨と法然上人とが問答した結果、皇円阿闍梨はみろく出現の聖代に遇わんものと思ったが、人身にては長命がむずかしいからと言って、遠州桜ヶ池に身を投じて蛇身と変じ、その時期を待ったという伝説が残っている。その阿闍梨はすでに今日大本に出現している。お筆先にもしめしてある通りである。(昭和七年七月)”

 

(加藤明子編「出口王仁三郎玉言集 玉鏡」より)

 

 

・「大本と知恩院両教の提携 法然上人劇化を機に」

 (「万朝報」昭和六年七月二十一日所載記事、『更生日記』 七の巻)

 

 “大本教と浄土宗本山知恩院とは、昨春の宗教博覧会でやゝ提携の機運を醸したが、今回浄土宗宣伝のため京都祖山の教務所庶務部寺西聴学師作「法然上人」を劇化し、二十四日から三日間京都南座で上演し、続いて全国巡演に上がることになっているが、寺西師はこの程亀岡に出口王仁三郎氏を訪れ、両教は愈々完全に提携することになった。而して出口氏並びに親交のある頭山満、内田良平の三氏から同演劇部に幟を寄贈することになり、大本教後援の意義を明らかにするため寺西師監督の下に十八、九の両日亀岡町亀岡座で試演することゝなり、同時に同教内に法然上人の遺什を陳列し、教縁を永遠に結定する事になった。”

 

(「出口王仁三郎 歴史に隠された躍動の更生時代」みいづ舎より)

 

*当時の知恩院は弁栄上人に指導を受けられた方々が何人も役職についておられたそうなので、霊的なレベルも相当高かったようです。そして、弁栄上人ご自身も、明治25年に開教した皇道大本のことを意識しておられたのではないかと思われます。

 

・山崎弁栄上人の言葉

 

「東京にきて見れば旧仏教の連中、空祖当時の叡山の僧党のそれと同じく、わが国民の心霊上のことには毫も介する所なく、ただ己が野心をたくましうして、己が肉あるの外なんの考えもなく、言語道断のふるまいにて候。天はわが国民の腐敗を救わんがために、新しく芽を出す兆候は見ゆれども、そわ神道がわにて候。」(明治45年)

 

(田中木叉「日本の光(弁栄上人伝)」光明修養会刊より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人気ブログランキング
人気ブログランキング