孫弟子・曾孫弟子の話(全文無料)
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2026年5月、柳家蝠よし、三遊亭遊子改メ三遊亭圓左、桂鷹治改メ桂平治、春風亭昇羊、三遊亭遊かり、瀧川鯉白の6名が2027年春に真打に昇進することが発表された。
これだけならば別段かわりのない真打発表であるが、この真打披露はあわよくば落語史を変えそうなすさまじい記録を前にしている。
そのキーマンとなるのが三遊亭遊かりである。
三遊亭遊かりは三遊亭遊雀の弟子であり、三遊亭遊三一門の女流落語家として活躍している。以降は一応さん付けで呼ぶことにしよう。
なお、遊雀さんは元々柳家権太楼門下の落語家であったが、今は三遊亭小遊三門下として活躍している。
三遊亭遊かりさんは遊雀さんが小遊三門下へ移籍した後に入った弟子である。別段ここで遊雀さんの移籍事情など触れるわけでもなし、事情を知っているわけでもないのでここでは割愛する。
遊かりさんにとっての大師匠は三遊亭小遊三さん、大大師匠は遊三さんにあたる。四世代揃って生き残っている師弟はそうあるものではない。今東京方で四世代残っている一門は遊三一門しかいない点を見てもその貴重性が伺える。
その上、曾孫弟子の一人が真打になるという。弟子、孫弟子、曾孫弟子の真打昇進をもし目撃できた場合、遊三さんは落語史上類を見ない記録を打ち立てることとなる。
早くから弟子を取ったこと、小遊三さんも早くに出世したこと――と要因は色々あるが、それでもこれだけのめぐりあわせを持てる人はそうあるものではない。
前座修業4、5年で独立し、一本立ちした後は弟子を持つことを許されるようになる上方落語とは違い(その年季の短さもまた上方落語の魅力だろうが)、東京落語は年季が長い事で知られる。上方落語では曾孫弟子、玄孫弟子を見ることもあるがこれは年季の短さに起因するところが大きい。
一方、東京では弟子が取れる身分となる真打になるまで十五年――それこそ弟子一人育て切る前に亡くなった芸人も少なくない。
「弟子一人でも持って真打にさせられれば相当なもの。孫弟子ができれば大したもの。その孫弟子が真打に昇進するのはめったにない事」とまことしやかに語られている。
孫弟子の誕生まで見かけたとしても真打昇進まで付き添える師匠はそうあるものではない。高齢化社会といえども孫弟子の真打昇進を見られるかどうかは一種の大きな壁になっているようである。
その中で曾孫弟子の昇進である。遊三さんにはぜひともその時まで元気でいてほしいもの、口上に並んで「世界初でございまして」と自慢してほしいものである。
とまあ、御託を並べたがこのニュースを見てふと思ったのが「孫弟子、曾孫弟子というが、実際孫弟子の真打昇進を見ることができたのはどれくらいいるのだろうか」ということである。
昔は落語界全体がルーズであり、「師匠と喧嘩して別の門下に移籍する」「協会にいられなくなったので真打でありながら他の門下へ移籍する」ということが普通に行われていた。
それこそ五代目古今亭志ん生をはじめ、林家彦六や五代目古今亭今輔などは何回も移籍をくりかえし、「どれが一体本当の師匠なのか」というような状態になっている。
それこそ今のような協会制度が確立される前の落語界は「自分の知らぬところで元弟子が出世して弟子を持っている」などというようなことも珍しくなかったという。
こうした実例を上げれば明治の三遊亭圓朝や談州楼燕枝なども当てはまるのだが、今回は今の落語界のルールや真打基準を作ることに奔走した人々――主に戦後活躍した落語家たちの何人が孫弟子、曾孫弟子を見ることができたかを考えてみることにしよう。
ここでは「孫弟子を持つことができたか」「孫弟子の真打昇進を見届けられたか」「曾孫弟子を持つことができたか」という三項目で紹介していくことにする。
ちなみに現役で曾孫弟子がいるのは三遊亭遊三さんだけ(すなわち、孫弟子も当然いる)。
2026年現在、現役の落語家で(老齢で高座に出ないのもいるが)孫弟子がいるのは――
入船亭扇辰(扇辰→扇橋→扇えん)
桂幸丸(幸丸→夏丸→あま夏)
五街道雲助(雲助→白酒→白酒一門、雲助→馬石→わたし)
古今亭寿輔(寿輔→今輔→今いち)
三遊亭歌司(歌司→司→歌坊)
三遊亭圓橘(圓橘→萬橘→萬丸)
三遊亭圓遊(圓遊→笑遊→小とり・花金)
三遊亭好楽(好楽→兼好→兼好一門、好楽→好太郎→らっ好)
三遊亭小遊三(小遊三→遊雀→遊かり、小遊三→遊之介→遊七)
春風亭一朝(一朝→一之輔→一之輔一門、一朝→一蔵→一呂久)
笑福亭鶴光(鶴光→羽光→羽太郎)
瀧川鯉昇(鯉昇→鯉朝→蛙朝)
立川志らく(志らく→こしら→かしめ、志ら乃→のの一)
林家木久扇(木久扇→彦いち→やま彦・きよ彦)
柳家花緑(花緑→緑也→小すも)
柳家小満ん(小満ん→さん生→わさび)
柳家さん喬(さん喬→左龍→小太郎)
柳亭市馬(市馬→小燕枝→すわ郎)
柳亭燕路(燕路→こみち→ちょいと)
柳亭楽輔(楽輔→小痴楽→いっち)
鈴々舎馬風(馬風→小さん→平和、馬風→小せん→あお馬・わか馬)
まだ前座もいるため、「破門のため、孫弟子の関係が崩れる」という人もゼロではないが、真打を出している小満ん一門、真打目前にもなっている今輔、圓橘、好楽、小遊三の一門は安泰だろう。
また見落としている人もいるかもしれない。ご指摘あれば何卒。
何はともあれ、まずは明治落語界の生き残り、五代目柳亭左楽を先に紹介することにしよう。
五代目柳亭左楽
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(◯)
曾孫弟子の獲得(◯)
明治末から戦後にかけて落語界きっての政治家として知られた五代目柳亭左楽。早くから弟子を持った一人であるが(一番弟子は一九〇八年にやってきた桃月亭雛太郎という)、時代が時代だけに師弟事情は結構複雑である。
柳亭左楽は震災以前の一大勢力であった睦会の会長だった関係もあり、多くの弟子を抱えた。ただしその多くは移籍弟子や真打株をすでに持っている人が多かったという。
八代目桂文楽、八代目三笑亭可楽などは左楽門弟と言ってもいいだろうが、結構転々としてきているために「本当の左楽門弟か」と言われると判断に困るところではある。
文楽や可楽を門弟として含めるとなると、左楽存命時に間に合った孫弟子は、桂右女助(三升家小勝)、月の家圓鏡(七代目圓蔵)、柳家小さん、三笑亭笑三、三笑亭夢楽。
そして、柳家小さんは早くから弟子を取ったため、柳家小せん、柳家さん助、立川談志、五代目柳家つばめの四人は曾孫弟子になることができた。
協会が別のため、小さん門弟はそんなに深いつながりはなかったらしいが、それでも左楽の葬儀には駆り出されて一門扱いで棺を担ぐなどというようなことはあったらしい。
今日の師弟関係から見れば預かり弟子ばかりの一門であることに驚かされるが、預かりでもなんでもれっきとした人々を育て、四世代見ることができた人は左楽が最初ではなかったか。
さて、これ以降は「五十音順」で紹介していく。香盤順ではないのでご了承ください。なお、名人であっても弟子を持たなかった人や孫弟子の獲得には間に合わなかった人は皆外してある。こちらもご了承。
また、今現役で活躍していてそろそろ曾孫弟子を持ちそうな人もチラホラいるが(例・三遊亭好楽)、現役はいつ変動するかわからないので今のところは軽い紹介でとどめておく。
桂小文治
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(◯)
曾孫弟子の獲得(◯)
今の芸協における一大派閥は小文治派閥である。小文治はとにかく弟子が多く、今輔、圓馬、圓遊、枝太郎、伸治、小金治、小南と一門はすさまじい。この人々たちが今も面々と続いている。協会の半数以上の源流は小文治に繋がっているといってもいい。
ただし、小文治という人は預かり弟子がほとんどであったため、今日の師弟関係を想像するとちょっと変なカタチになったりする。
ちなみに直弟子のみで換算をすると真打になれたのは桂伸治だけ。伸治だけで換算すると孫弟子もいない計算になる。小文治一門の異色さがうかがえる。
小文治における初孫弟子は、古今亭今輔の所に入った桂米丸と鶯春亭梅橋だろう。
小文治はこの二人の弟子をいたく気に入り(インテリで率先力になるという算段もあったらしい)、梅橋は5年半、米丸に至っては4年で真打にさせている。米丸は特に気に入られ、「今児、お前さんはわしの前名・桂米丸を継いでよろし」と前名を禅譲するほどの厚遇ぶりであった。
こんな短期間で孫弟子の真打昇進を推したのは三遊亭圓朝(と孫弟子の立花家橘之助)と小文治くらいではないだろうか。
梅橋・米丸の大抜擢後も孫弟子は増え続けた。これまで弟子を持っていなかった圓馬、圓遊、枝太郎なども弟子を抱えるようになったのが大きい。
今輔の下には米丸、梅橋、圓右、右女助、歌丸、金三。圓馬の下には小圓馬、橘ノ圓、遊三、圓太、圓輔、若馬。圓遊の下には玉遊、小圓遊、都家歌六、遊朝、若圓遊。枝太郎の下には圓枝、枝助、文生などがついた。
さらに桂小南も桂文朝、桂南八などを抱えている。
亡くなった際の孫弟子の数は「米丸、圓右、右女助、金三、小圓馬、橘ノ圓、遊三、圓太、圓輔、若馬、小圓遊、歌六、遊朝、若圓遊、圓枝、枝助、文生、文朝、南八」。これだけ並ぶのは五代目柳家小さんくらいなものだろう。
後年、小文治の直弟子がいなくなった後は小文治の孫弟子たちが大師匠の身の回りの世話をしていたという。
その中でも特にハマったのが枝太郎門下の文生さんで、死ぬ直前まで付き人のように、孫のように溺愛されたという。文生さん曰く、「大師匠が亡くなったら守り本尊を失くしたのも同然で、随分と先輩後輩からいじめられたり冷たくされた」というほどなのだから、相当可愛がられたのだろう。
そのため、孫弟子の真打昇進にもたびたび携わっている。その結果昇進に間に合ったのが「三遊亭圓右、三遊亭小圓馬、三遊亭右女助、三遊亭遊三、柳家金三」。
今輔門下の末っ子弟子であった柳家金三の昇進披露中に体調不良を訴え、そのまま急逝した。最後まで一門の未来を案じていたのだからすごい。
なお、小文治は曾孫弟子にも間に合っている。
小文治にとって最初の曾孫弟子は桂米丸の弟子となった桂歌丸だろう。ただし、この曾孫弟子は事情あって孫弟子から曾孫弟子になった――という移籍組なのでちょっと特殊である。
一から入門してきた曾孫弟子の場合は、三遊亭小圓馬の弟子だった三遊亭とん馬だろう。1964年に入門し、初の曾孫弟子となった。残念なことにこのとん馬は廃業してしまっている。
最後まで現役を通した人に限定すれば先日亡くなった三遊亭栄馬も曾孫弟子に該当する。小文治が亡くなる半年前の1967年3月に弟子入りしてきたのが栄馬である。いずれにせよ曾孫弟子まで間に合ったのは事実。
八代目桂文楽
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(◯)
曾孫弟子の獲得(◯)
黒門町の異名で知られる桂文楽も早くから弟子を持った一人だが、五代目柳家小さんを弟子に含めるかどうかで孫弟子・曾孫弟子の数が変わってくる。
ここでは五代目柳家小さんを門弟扱いするが、小さん本人の立ち位置はなかなか複雑である。
一方、桂文楽は「自らの手元で育てた弟子から孫弟子、曾孫弟子が生まれた」ということができた一人である。小さんを門弟に含めなくとも孫弟子や曾孫弟子にあうことができた。
小さん門下を含める場合、文楽の初孫弟子は柳家小さん門下の柳家小せんである。1949年に入門。
小さんを含めない場合は、1950年に圓鏡門下に移籍してきた林家三平であるが、これも預かりなのでちょっと分別が困るところ。正式な直系孫弟子は1952年入門の八代目圓蔵というところか。
さらに生え抜きの弟子の三升家小勝が勝弥、勝二、勝丸と弟子を抱えたため、直系孫弟子はすさまじい数で増えていった。
小さん、圓蔵、小勝の三本柱に若者が集うことにより、文楽一門の影響力は年々増す形となった。その上、孫弟子の三平、小せん、談志、つばめ、圓鏡などが次々と真打に昇進していった。文楽生前に間に合った孫弟子の真打昇進は次の通りである(香盤順、小さん門下も含む)。
林家三平、小せん、さん助、立川談志、つばめ、圓鏡、小三治、扇橋、燕路
皮肉な話であるが、文楽一門において出世が早かったのは文楽の直弟子よりも孫弟子だった――という。
これは色々と考える話になるが、文楽の直弟子であった小益、文平や小勝の弟子である勝弥、勝二などは文楽亡き後に真打に昇進している。
文楽に戦後入門した直弟子は誰一人とて真打になっていないのだから、これはこれで皮肉な話ではないか(無論、小満んやさん枝のように数年で死なれたという、年季的に文楽の生前に真打になれなかった事例もあるが)。
桂文楽における最初の曾孫弟子は柳亭風枝か今の月の家圓鏡ということになる。小さんを弟子に含めた場合は柳亭風枝、含めなければ当代の月の家圓鏡。
風枝は五代目つばめの弟子である(ただし元は三遊亭百生門下)。百生に死なれたため、つばめの弟子となり、文楽にとって初の孫弟子となったわけ。
小さんを一門として含めない場合は八代目橘家圓蔵の一番弟子、月の家圓鏡(杵助)が初の曾孫弟子となる。自分の直系弟子から曾孫が生まれたことを文楽はどう感じたことだろうか。
桂米丸
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(◯)
曾孫弟子の獲得(◯)
先年99歳という落語史上最高齢を記録して亡くなった桂米丸は入門4年で真打、30代で若手幹部入りを果たすなど、落語界のエリートとして鳴らした。
古今亭今輔から帝王学をうけ、40代にして落語芸術協会会長に就任。以来、20年近くにわたって芸協の厳しい時期を乗り切り、今の芸協にまで育て上げた功績がある。
米丸の一番弟子は桂歌丸である。一度今輔門下を飛び出した弟弟子を預かった形であるが、歌丸は米丸を師匠と任じ、今輔亡き後の師弟大喜利では師匠サイドに米丸、弟子サイドに歌丸が出ることも珍しくなかった。
米丸における初孫弟子は桂歌春であろう。ただしこちらも預かり弟子というちょっと特異な立場である。歌春は最初の師匠であった桂枝太郎に死なれ、歌丸に預けられた。
米丸は53歳にして孫弟子を持つ身となった。これだけ早く持った人も珍しい。
預かりや移籍などない直系の孫弟子をあげるならば歌丸の二番弟子・桂歌助が最初だろう。1985年入門。還暦の歳に1から育てる孫弟子が入ってきた。
さらに、1987年には桂米助の下にでっどぼうる(今は一門を離れて一玄亭米多朗)が入門。
歌丸も着実に弟子を取るようになり、桂歌若、桂歌蔵と増えた。
1990年代に入り、米丸も70歳の坂を越えるようになると弟子を取らなくなり、歌丸を筆頭に自身の門下生に回すことが多くなった。
現・桂枝太郎さんなどは「米丸師匠の落語に憧れて米丸師匠へ入門を直訴しに行ったら、米丸は話を受け入れつつも『僕はもう年だからそれまで生きているかわからない。しっかり仕込んでくれる弟子の歌丸さんを紹介しよう』といわれて歌丸門下に回された」とインタビューで語っておられた。
結果として「弟子になりたい」とやってきた枝太郎少年の真打昇進まで見届けてしまったのだから天命とはわからないものである。
さらに80すぎになっても桂幸丸のところに桂夏丸、桂翔丸、桂竹丸のところに竹千代、笹丸。90すぎになって竹紋が入るなど、老いてもなお孫弟子は増え続けた。
99歳という長寿を得たこともあり、歌丸と米助門下の孫弟子の真打昇進は全て見届けたほか、80近くになって入ってきた夏丸、翔丸の真打昇進まで見ている。
結果として見届けた孫弟子の真打昇進は――
「歌春、歌助、歌若、歌蔵、米多朗、夏丸、翔丸」
生前10人の孫弟子がいたが、その内の7人も見られたのだから相当なものである。
そして、米丸は早くから曾孫弟子を得た――が、結果として今も残る曾孫弟子は一人だけである。
1997年、孫弟子・桂歌春の所に桂うららという若者が入り、米丸は彦六、小さんに続く曾孫弟子持ちとなった。
うららは二つ目に昇進し、前途を期待されたが2006年に落語家を廃業。曾孫弟子がいなくなってしまった。
その後、10年以上空白期間があったが、2021年になってやっと桂歌助の下に桂れん児(今の歌近)が誕生。96歳にして再び曾孫弟子持ちとなった。
いずれにせよ、99歳の長寿を保ち、孫弟子の大半の真打披露を見たという人もそういるまい。
金原亭伯楽
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(◯)
曾孫弟子の獲得(✕)
金原亭伯楽は金原亭馬生亡きあと、師匠を失った弟弟子を皆引き取って育て上げた金原亭の保護者的存在であった。
馬生物故当時、二つ目であった馬治(現・馬生)、駒平(世之介)、前座の駒七(生駒)、小駒(初音家左橋)を預かり、真打になるまで育て上げた。世之介、生駒、左橋からすれば馬生と過ごした時間よりも世話になった時間が長く、世之介さんは伯楽物故の際、「師匠伯楽」と記していた。
後に彼らが真打になって弟子が取れるようになるとすさまじい数の孫弟子を抱えるようになった。
馬治は十一代目馬生を継いだ後に弟子を取るようになり、2000年には初孫弟子・馬治が誕生。その後、小馬生、三木助、馬好、小駒、馬太郎、馬吉と続く。
世之介と左橋も弟子を取り、世之介門下には駒平(前には杏寿とかもいたが)。左橋にはぎん志がいる。
87歳という長命を保ったこともあり、馬治、小馬生、三木助、ぎん志、馬好と孫弟子の真打昇進に間に合った。
直弟子の馬遊、龍馬には弟子がいない。龍馬さんはそろそろ弟子を取りそうな感じではある。
五代目古今亭今輔
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(◯)
曾孫弟子の獲得(✕)
新作派の巨匠として、落語芸術協会会長として今もその名を轟かせる古今亭今輔は落語界きっての不思議な師弟関係を持つ人である。
今輔当人が「何度も師匠を持っては捨て、最終的に桂小文治の弟子になった」という経緯を持っているが、彼の門人たちも負けず劣らずである。
今輔が弟子を持ち始めたのが戦後直後のことである。横浜からやってきた今児こと桂米丸、古今亭志ん生門下であった古今亭志ん治こと鶯春亭梅橋を弟子に取ったのが初である。
志ん治は二つ目昇進とともに移籍だった関係もあってか師弟でありながらそんなに昵懇な関係ではなかったというが(性格的にも合わなかったという)、専門学校を出ながらも落語家を志願してきた米丸には多大な期待を寄せ、前座なしの二つ目待遇で扱ったのは有名な話である。
そのおかげで米丸はわずか四年で真打昇進という落語史上類を見ない記録を達成(これは大師匠の桂小文治の力添えも大きかったというが)。今輔は名師匠として知られるようになった。
その後も次々と弟子を取り、圓右、右女助、金三、歌丸と優秀な人材を輩出している。自分の門下から協会の会長を何人も出した人は柳家小さんと今輔くらいなものだろう。
また、今輔という人は「自分の下が合わなければ移籍を許す」という寛容な心を持った人でも知られ、今輔の門を叩きながらも合わなかったので移籍した人は結構いる。
三笑亭夢楽、三遊亭玉遊、ちょっと事情は違うが桂歌丸などはその最たる例だろう。
夢楽は正岡容の斡旋で今輔の弟子になったが「自分は新作よりも古典がやりたいから」と今輔に願い出た。
その時に「古典をそんなにやりたきゃあたしが教えますよ」という今輔に「いやあ師匠のネタはセコだから」といってあきれさせたという話が残る。下手な師匠ならそれだけで破門対象であろう。
今輔は夢楽の願いを聞き入れ、「古典で弟子がそんなにいないのは可楽さんのところだろう」と可楽の所に連れて行った。そのおかげで今輔に変に気を使う必要もなくなり、古典派として華々しく売り出したのだから成功人事といえるだろう。
三遊亭玉遊も似たような理由で移籍した一人である。やんちゃ小僧で知られた玉遊を落語家にすべく、母と共に今輔のところにやってきた玉遊。母親が「やんちゃなのでこの子をしつけて下さい」というと今輔は呆れて「冗談じゃない、あたしは少年院ではありませんよ」とぼやいたのは有名である。
玉遊も当初は新作をやっていたが「古典をやりたい」と願い出たため、三遊亭圓遊の下に移籍させた。その後しばらくの間は優秀な若手として売り出したが、余りにも博奕好きで自堕落な性格のため、結局は廃業してしまった。
最後の歌丸は「直弟子が孫弟子に転じる」というすごく珍しい例を飾った人である。長らく今輔に仕えていた歌丸(古今亭今児)であったが、ちょっとした短慮から落語界を飛び出し、破門同然の扱いを受けていた。
ただし、今輔は「ここで絶縁すると今児が可哀想だから」と見て見ぬふりをしていた。
最終的に橘ノ圓の斡旋で今輔と歌丸は和解したものの、今輔は協会内での歌丸の立ち位置を考え、「今輔門下で復帰すると色々と問題が出る。米丸さんの預かり弟子という形で戻りなさい」という条件で復帰を許した。
そうしたこともあり、歌丸は「桂米坊」と屋号を変え、今輔の孫弟子という形で再スタートを切った。
その後の歌丸は今輔・米丸両人によく仕え、『笑点』を筆頭に多くの番組で活躍。1968年に真打昇進となった。
いささか不思議な形であるものの、今輔は孫弟子の真打披露を見届けることができた。
ただし、歌丸は真打になったものの「幹部以外弟子を取ってはいけない」という規則から歌丸は弟子を持つことができず、結果として曾孫弟子の顔をみることができなかった。
ただし、生前「結果的に曾孫弟子になった若手」の顔は見ている。それが桂枝太郎門下にいた桂歌春である。
元々は叔父・甥弟子の関係であったが、途中で師匠に死なれたため(1978年)、歌丸の門下に入った。これに歌春は「今輔を知りながら今輔の死後に事実上の曾孫弟子となる」というちょっと異色な関係を築くこととなった。
戦前、若手として面識を得ていた甥弟子がまさか自身の没後に曾孫弟子になってくれるとは今輔も予想だにしなかったのではなかろうか。それを考えると今輔という人は異色づくめの弟子関係である。
一方、今輔は弟子全員の真打昇進を見届けることはできたほか、孫弟子には恵まれた。
米丸門下には桂歌丸を筆頭に米助、京丸、麦丸、幸丸、高丸(後に高丸は漫才師となる)。圓右門下の古今亭寿輔、小圓右、右紋と直弟子の数に比較すると相当な数である。
弟子を多く育てなくとも優秀な弟子が出てくれて、彼らがいっぱい育ててくれれば子孫筋は良く栄える――そんな考えを見事に体現化した師匠といえるだろう。
古今亭圓菊
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(✕)
曾孫弟子の獲得(✕)
馬生・志ん朝亡きあと、古今亭の総帥となった古今亭圓菊は古今亭随一の弟子持ちとして知られた。
弟子の数は12人と古今亭では一番の弟子持ちである。しかも相当なスパルタ指導をしながらもこれだけの数が残ったのだから、教え方が上手かったのか、弟子たちのガッツがすごかったのか。
一方、圓菊の弟子たちはあまり弟子を取りたがる節がなく、圓菊に生前間にあった弟子は古今亭駒子ただ一人である。
2004年に前座となった駒子は圓菊の晩年の活躍をみることができた。そして、駒子は圓菊生前に二つ目になった唯一の弟子である。
結局、駒子の真打昇進の晴れ姿を見ることなく圓菊は2012年に亡くなった。
その後、圓菊の弟子たちはますます頭角を現すようになり、若手と思われていた人々も幹部になって弟子を取るようになった。それでも決して多い印象はない。
古今亭菊太楼門下の菊正、古今亭菊之丞門下の雛菊が目下圓菊一門の修業を満了し、二つ目として活動しているのにとどまっている。
前座や見習いが入った話は聞くがなかなか長続きはしないようである。
菊正、雛菊の若手二人がよき大看板となって立派に圓菊一門を率いてくれることを願う。
五代目古今亭志ん生
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(◯)
曾孫弟子の獲得(✕)
昭和の大名人として数えられる古今亭志ん生も落語協会の一大派閥を築いた功労者であるが、文楽に比べると孫弟子は多くなく、曾孫弟子にも間に合わなかった。
今でこそ星の数ほど古今亭の一門がいるが、生前は意外に集まり切らなかった印象さえある。
志ん生にとっての初孫弟子は先日亡くなった馬生の一番弟子の金原亭伯楽(桂太)である。
1961年入門なので、志ん生が70歳の時の弟子である。意外に遅い。
その後、1960年代半ばから後半にかけて馬生一門と馬の助一門に弟子がドッと増えたため、一気に孫弟子の数が増えた。
1962年には鈴の家馬勇、1963年に馬の助にも弟子ができて金原亭馬好、1965年に今のむかし家今松と二代目金原亭馬の助、1967年に金原亭駒三、1968年に五街道雲助、1969年に今の金原亭馬生――とほとんどは馬生と馬の助の弟子である。
また、志ん生自身結構気まぐれで弟子を取ることもあったため、弟子なのか孫弟子なのかはっきりとしないような若手も結構いた。
その最たる例が古今亭志ん五と古今亭志ん橋だろう。
志ん五も志ん橋も元々は志ん生目当てで弟子入りに出かけたが、「自分はもう年寄だから、若いもんは若いもんと仲良くやりな」と古今亭志ん朝に預けられた――が、当の志ん朝は多忙で面倒見切れないので、結果として志ん生が面倒を見るなどというよくわからない事態も発生している。如何にも志ん生である。
一方、志ん朝がある程度歳をとって正式に弟子を取れるようになると、志ん五、志ん橋に加えて、八朝、志ん輔というかわいい孫弟子もできている。
なお、晩年の志ん生は志ん駒、志ん五の末っ子弟子たちの他に、志ん橋と馬生一門の前座が面倒を見ていたという。
五街道雲助などは馬生一門でありながら、馬生の言いつけで毎日志ん生の家で雑用していたという逸話が残る。
志ん生に間に合った最後の孫弟子は古今亭菊龍ではないか。菊龍さんは志ん生が亡くなる年の3月に入門している。あったかどうかまではハッキリしないが、志ん生が生きている中で入門が許されたのは事実である。
一方、志ん生自体、弟子を取るのが結構老齢だったこともあり、孫弟子の出世や曾孫弟子には恵まれなかった。孫弟子の真打昇進はただ一人。金原亭伯楽だけ。
伯楽は1973年9月に真打昇進披露を行っている。
この時、志ん生はすでに老衰し、高座はおろか外にも出られるような状態ではなかったものの、一応「桂太が真打になる」という通達や挨拶は受けていたはずである。「昇進を認知していたであろう」ということを踏まえて、孫弟子の昇進は丸にしておいた。
奇しくも志ん生は伯楽の披露目中の9月21日にひっそりと息を引き取っている。
こればかりは志ん生の売出しの遅さが起因しているのかもしれない。
しかし、志ん生亡き後に一層勢力が拡大するのが志ん生のすごさであり、馬の助、馬生と優秀な弟子が夭折してもなお一門の結束は乱れることなく、古今亭・金原亭は今に至る。
志ん生亡き後、特に頭角を現したのが古今亭圓菊である。志ん生存命時は「おぶい真打」などと馬鹿にされていた圓菊であるが、志ん生亡き後はメキメキと頭角を現し、12人の弟子を輩出している。
これには冥土の志ん生もびっくりしたのではないだろうか。
「新しくやってきた圓菊はあたしの弟子なんですが、あいつはあたしが死んだ後に孫弟子が11人もこさえまして、しかも孫たちは今もシャバで相応にやっているんですなあ」などと冥土の客を相手に笑いを誘っているかもしれない。
古今亭志ん朝
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(✕)
曾孫弟子の獲得(✕)
戦後の落語界の大スターであった古今亭志ん朝は63歳で夭折したこともあり、志半ばであった感じが強い。
ただし、30代で既に弟子を抱えていた関係もあり、50代で既に真打の弟子が預かりを含めて8人もいる(志ん五、志ん橋、八朝、志ん輔、才賀、志ん上、右朝、志ん馬)という状態であった。
その上、かつての弟弟子である古今亭志ん駒も内輪として入っていたため、大所帯となっていた。
初孫弟子となったのが、1994年に古今亭志ん橋門下に入ってきた古今亭きょう助。今の古今亭志ん丸である。志ん丸は真打になった孫弟子の中で唯一志ん朝生前に二つ目昇進を遂げた人である。
その後、1999年春に古今亭志ん好と桂やまとがほぼ同期で入門。志ん朝は3人の孫弟子持ちとなった。
もし、父・志ん生ほどの寿命を得ていたならば、志ん朝も70代で孫弟子の真打昇進をみることができただろうが、63で世を去ってしまった。
八代目三笑亭可楽
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(✕)
曾孫弟子の獲得(✕)
いぶし銀の芸風で知られた三笑亭可楽は意外にも弟子に恵まれ、孫弟子にギリギリ間に合っている。
生前の可楽は笑三、夢楽、今の可楽(可勇)、可栄治、茶楽の5人を抱えていたが、真打になれたのは笑三と夢楽だけ。後は夢楽預かりとなった(可栄治は廃業した)。
一方、夢楽は入門9年で真打となり、若手幹部として遇されたため、早くに弟子を持つことができた。
夢楽にとって一番弟子のように扱われたのが、初代三笑亭夢丸である。夢丸は1964年3月、高校卒業後すぐに夢楽の門下に入った。
この時、可楽は既に病中にあったがまだ何とか生きていた。ギリギリではあったが間に合っているはずである。
二代目三遊亭円歌
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(✕)
曾孫弟子の獲得(✕)
新作と古典の両刃遣いで知られた二代目三遊亭円歌は一時期弟子を5人ほど抱えていたが、その大半は廃業。まともに残ったのは三代目三遊亭圓歌と末弟子の四代目三遊亭歌笑のみであった。
もし、戦後直後に大ブレイクをした三遊亭歌笑が生きていればまた別者だっただろうが、歌笑は事故で二代目より早く亡くなった。
歌笑亡き後、師匠の寵愛を受けたのが歌奴(三代目圓歌)である。そんな期待に応えるように歌奴はメキメキと頭角を現し、一時は林家三平と並ぶ大スターとなった。
1958年に真打昇進した際、歌奴を慕う若者は既に多く存在し、1959年春に三遊亭どん栗という若手を取った。夭折した三代目三遊亭歌奴である。
このどん栗が円歌にとって初めての孫弟子だった模様か。
その後、1964年4月に歌二(歌司)が入ってくるが、その年の夏に円歌は急逝する。
三代目三遊亭圓歌
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(◯)
曾孫弟子の獲得(✕)
新作落語の大スターとして、落語協会会長として戦後落語界を支えた三代目三遊亭圓歌は、三遊亭きっての弟子持ちとして知られた。
弟子の数は13人。色物として活動した直弟子を含めると15人(立花家橘之助、三遊亭歌夫)と大所帯。さらに内輪弟子までいる。
弟子を取ったのは早く、27歳の時であった(1931年生まれとするならば)。こんなに早く弟子を取ったのは柳家花緑や春風亭小朝くらいなものだろう。
一番弟子はどん栗――とは先記の通り。その後、歌司、小歌……と増えていく。
一方、圓歌一門はスパルタな一門としても知られ、孫弟子をとっても長く続かない――というようなこともあったらしい。現に圓歌の弟子は確認できるだけでも20数名いるが、なんとか真打にこぎつけたのはこれだけ――と考えると結構厳しい。
圓歌にとって初孫弟子では三遊亭歌司の弟子、三遊亭司が最初ではなかったか。司は元々四代目三木助の弟子であったが、諸事情あって一度廃業(このあたりは司さん本人のインタビューなどに詳しい)。
その後、司はブラブラしていたが、三木助の葬儀へ赴いたのを機に、三木助の母・小林仲子のすすめで落語家に復帰し、三遊亭歌司の弟子となった。
2004年に三遊亭歌武蔵の下に志う歌が入門。2番目の孫弟子となった。
2000年代に入ると、女流落語第一号・三遊亭歌る多の弟子になる女流が増えた。2005年に弁財亭和泉、2006年に三遊亭律歌が入門している。
さらに、2009年に三遊亭歌之介の弟子にございます(今は師弟関係を解消して吉原馬雀)、2010年に三遊亭伊織、2013年に三遊亭歌奈女と三遊亭歌実と孫弟子は増える。
ただし、孫弟子の真打披露を見届けられたのは2015年に真打昇進した三遊亭司のみであった。
それから2年後の2017年に圓歌は天寿を全うした。
六代目三遊亭圓生
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(✕)※場合によっては◯
曾孫弟子の獲得(✕)
戦後落語の名人としてうたわれ、また現在の圓楽一門会を作る原因となった三遊亭圓生は厳格な師弟関係を保持する人として知られた。
気に入った弟子に対してはとにかく贔屓にするが、少しでも気に入らないと徹底的な冷遇を取るという厳しい人柄は今も賛否がある。
新作を得意とした川柳川柳、自分の嫌なところが似てしまう三遊亭好生などは弟子でありながら邪険に扱われ、これ見よがしに真打昇進を遅らされ、スピーチなどでもそれとなく嫌味を言うような態度に、門外からも批判的な声があったという。
現に圓生から溺愛された圓丈でさえも「圓生には幻滅した」「円満な小さん師匠のようにいかねば圓生が脱退しても失敗するなど目に見えてもわかる」と言わしめるほどだったので、本当に師弟関係には問題が多い人だったといえよう。芸と人柄は一致しない例というべきか。
それはさておき、圓生の弟子たちは結構売れたものが多いので(中には圓生が気に入らない売れ方もあったが)、弟子たちは早くに真打となり、弟子を抱えた。
圓生における孫弟子第一号は五代目円楽のところにやってきた三遊亭鳳楽(楽松)だろう。
鳳楽さん自身、高座やインタビューでしょっちゅう話していたが「初孫ということで私生活では溺愛された。師匠・圓楽の意向で大師匠の付き人となり、公私ともに仕えた。稽古は厳しかったが可愛がられた」云々。
続いてやってきたのが圓楽の二番弟子となった三遊亭甘楽という弟子である。ただし、甘楽は入門後まもなく「楽松も二つ目になり、圓生師匠に仕える若手がいないから」という理由で圓生・圓楽の肝いりで圓生門下へ移籍している。
その後、孫弟子は楽松一人が続いた。これは圓生自らが「前座を入れるな、入門者は全員断れ」という方針を立てていたこともあり、若手をほとんど門前払いにしていたことが大きい。流石に圓生が職権乱用して勝手に入れるわけにもいかなかったようである。
その中で、1970年に楽太郎こと六代目円楽が入門。さらに1973年には三遊亭小圓朝に死なれた朝治が圓楽の門下へ移籍して「三遊亭友楽」と改名。圓生の孫弟子となった。
さらに圓窓も弟子を取るようになり、1977年に窓一(圓王)、1978年には吉窓(窓次)が入った。
1978年に圓楽の下に三遊亭賀楽太(楽之介)が入門。
この年、圓生は落語協会への不満を理由に一門を全員引き連れて脱退。前座になっていた窓一、窓次、賀楽太なども巻き込まれた。
脱退した圓生は既に15年選手になろうとしていた楽松に対し「圓生認定の真打第一号になりなさい」と太鼓判を押し、1979年に真打が内定。9月に昇進披露を行う算段をつけていた。
圓生は楽松の昇進披露を楽しみに活動を続けていたが、9月3日に急逝し、本来出るはずであった昇進パーティーも昇進披露も全部潰れてしまったという。
「昇進直前に大師匠に死なれた」楽松には同情が集まり、披露目には圓生の一件で反目した落語協会関係者や席亭たちも駆けつけたという。
圓生没後、孫弟子たちは二分され、圓楽一門は残留して独立一派を立ち上げ、圓窓の弟子たちは落語協会へ帰参した。同じ大師匠を持ちながら、今なお断絶が続いているのはいささか悲しい話である。
三遊亭圓丈
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(✕)
曾孫弟子の獲得(✕)
実験落語で一世を風靡した落語会の風雲児・三遊亭圓丈は弟子育成にも熱心で個性的な弟子を8人ほど(はら生含めれば9人)育てている。
弟子は多いが弟子たちは孫弟子をなかなか取らなかった。圓丈自身が70代になっても弟子を取り続けるガッツがあったのもあるのだろう。
三遊亭圓丈にとっての初孫弟子は三遊亭白鳥門下の三遊亭青森のようである。2014年入門、2015年に前座となった。
圓丈はこの孫弟子が可愛かったと見えて初稽古は大師匠自ら乗り出し、三遊亭の前座噺『八九升』を懇切丁寧に仕込んだという。
その後、三遊亭ぐんまと三遊亭ごはんつぶがほぼ同時期に入り、孫弟子は3人に増えた。
この3人も皆圓丈と同じように古典をやるかたわらで、落語の限界や表現を求めた新しい実験落語に勤しんでいる。心強い限りである。
70過ぎてもエネルギッシュな圓丈であったがコロナ禍以降は老衰し、全弟子の真打昇進を見届けぬまま亡くなったのは残念であった。
なお、先日二つ目になった三遊亭東村山は見習い時代に圓丈に死なれている。圓丈不在の中で修業を開始したポスト圓丈世代と言えようか。
三遊亭圓窓
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(✕)
曾孫弟子の獲得(✕)
圓生も認めた真打として活躍した圓窓は早くから弟子を抱えた。
今や古老になりつつある三遊亭圓王は圓窓の一番弟子的存在であった。圓窓が37歳の時にはもう師匠の身分であった。
その後、落語協会分裂騒動などに伴い、一時期圓生門下に移されたりしたが復帰。ただし、二つ目時代に師弟で相談の末に圓王は三遊亭圓彌門下に移籍している。一応円満の移籍だったと聞く。
圓窓門下を離れたことのない弟子では三遊亭吉窓が筆頭弟子として扱われる。
2016年頃、三遊亭小吉という青年が吉窓の弟子として入り(本来は圓窓門下に入りたかったらしいが)、初孫弟子となったことがあったが小吉はすぐにやめてしまった。
それに伴い、三遊亭萬窓の弟子であった三遊亭萬都が孫弟子の筆頭となった。その後、三遊亭二之吉も入り孫弟子は2人となった。
ただ、圓窓は孫弟子の顔こそ見たものの、彼らが二つ目になる前に急逝してしまった。歳の上とはいえ二つ目昇進を見届けてほしかった無念さはある。
五代目三遊亭圓楽
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(◯)
曾孫弟子の獲得(✕)
圓楽は笑点を始めとするタレントとしての人気に加えて、圓楽一門の総帥としての覚悟や立場から弟子育成に力を注ぎ続け、30名近い真打を輩出している。
今なお圓楽一門会が一派として独立し、相当の人員を維持できているのはひとえに圓楽が弟子を育てまくったことが大きい。
圓楽の初孫弟子は、三遊亭好楽門下の三遊亭好太郎だろう。1985年冬の入門。53歳で大師匠となった。
なお、好楽は彦六門下の真打からの移籍で圓楽の直弟子とはいいがたい――という批判が出そうだが、その場合は好太郎の2か月後に弟子入りした三遊亭鳳楽門下の楽松が初の直系孫弟子となる。
なお、廃業者を含めていいとするならば、1983年頃に日大をやめて楽太郎の門を叩いた石田章洋が初の孫弟子になろうか。その後に間もなく入ってきたのが三遊亭楽大――今の伊集院光サンである。
その後はしばらく前座が入ってはやめるような時代が続いたが、1990年代に今の圓楽一門の中堅として活躍する面々が続々と入門した。
1992年秋に楽松と好太郎が真打に昇進。その後も小圓朝、楽生、楽京、兼好、鳳志の昇進まで続いた。
圓楽自体、早くから弟子や孫弟子を持つことに反対しなかったというが、曾孫弟子の誕生を見る前に旅立ってしまった。
ただ、今も自身が育てた圓楽一門が残って堅実な成長を続けていることを喜んでいるのではないだろうか。
三代目三遊亭金馬
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(✕)
曾孫弟子の獲得(✕)
やかんの先生の異名で一世を風靡した三遊亭金馬は落語界随一の育成家として知られた。その育成のうまさは桂文楽にして「加藤さん(本名)は本当に弟子を育てるのが上手い」と舌をまかせるほどであった。
金馬は早くからレコードとラジオで売り出したこともあり、30代にして三遊亭圓洲(後の三遊亭銀馬)という弟子を抱えていた。
1934年に東宝名人会専属になった後は、落語協会・芸術協会両方から事実上の絶縁をつきつけられたが(後に絶縁は解かれる)、その中でも弟子を育て続けた。
金馬の育成はとにかく口うるさく、稽古をつけず、そうかと思えば「お前稽古に行っているか」と弟子にたずねて抜き打ちテストをする、その中でも平然と酷評する。「まずいね、まずいね」と嫌味を言いながらも小遣いやアドバイスを与えて弟子に「どういう芸人になればいいか」というのをそれとなく教えるスタイルであった。
そのため、三遊亭歌笑が新作をやろうと、三遊亭小金馬がタレントになろうと、山遊亭金太郎が上方落語をやろうとうるさい事は言わなかった。「まず売れろ、自分の芸を生かせ」ということを体現化していたというべきか。
そんな金馬であるが、孫弟子の存在はいささか特異なものであった。
1952年夏、自身の弟子であった(ただし桂小文治に身柄を預けていた)山遊亭金太郎が「近所の子供が落語をやりたいというので……」と相談を持ち掛けた。その少年は後の桂文朝である。
金太郎は当時二つ目のため、弟子を取れる身分ではない。しかし、文朝は金太郎を慕っていた。結局、表向きは金馬の弟子分ということで落語界に入れさせ、「タア坊」という名前で高座にあげた。
文朝さんからしてみればちょっと厳しい習い事程度だったようで、金馬・金太郎にあれこれ言われながらも、結構楽しく高座に出ていたという。
1958年に金太郎が桂小南を襲名して真打となり、芸協の幹部となると金馬は「晴れておまえの弟子だ」とあれこれと骨折りをして文朝を芸協に入れるように尽力をした。
そのため、文朝さんは芸協加入時には二つ目としてカウントされ、前座修業なしで(ただし東宝名人会で前座流行っている)、芸協に入ることができた。
残念なことに金馬は弟子の華々しい活躍を見る前に亡くなってしまったために桂文朝が唯一の孫弟子となった。
もう数年生きていれば小金馬の所に勝馬(先年物故した小金馬)、桂小南の所に南八が入り、一門は賑やかになったものを。
四代目三遊亭金馬
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(◯)
曾孫弟子の獲得(✕)
『お笑い三人組』の金馬として、晩年は落語界の最古参として知られた四代目金馬も弟子育成に熱心であった。
金馬も早くに売り出したこともあり、39歳で初弟子を持った。一番弟子は先年亡くなった小金馬である。
初孫弟子は、1998年に小金馬の下に入った三遊亭金朝であろう。金朝は堅実な活動を続け、2013年に真打昇進。金馬は孫弟子の昇進を見届けることができた。
2002年には、息子の三遊亭金時に三遊亭金翔という若者が入った。なかなか才能ある若手であったが、2010年に諸般の理由で自ら自主廃業を願い出て、落語家を辞めている。この時、金時は「辞めない方がいい」と回ったというのだから珍しい話ではないか。
2003年、金時に二人目の弟子ができた。今の三遊亭ときんである。こちらも14年間修業を貫徹し、2017年に真打昇進。金馬はこちらの昇進も見届けることができた。
曾孫弟子こそ恵まれなかったものの、弟子全員を真打にし、曾孫弟子も真打になる様子を見届け、自身が名乗り続けていた金馬も息子の金時に譲って、自らは金翁の名前で楽隠居――と、見事な終活を決めて、92歳の天寿を全うした。
晩節を穢す人も少なくない中で、これだけ弟子や一門にうまく禅譲できた人は珍しい。
六代目春風亭柳橋
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(◯)
曾孫弟子の獲得(✕)※条件をつければ◯ともいえる
「六代目」「会長」の異名で知られ、今の芸協を作り上げた六代目春風亭柳橋であるが、柳橋もまた「直弟子より預かり弟子が多い」という人であり、一門系図は案外ゴチャゴチャしている。
柳橋の筆頭弟子であり、一番の売れっ子となったのは三代目桂三木助である。戦前は「春風亭小柳枝」を名乗っており、柳橋も小柳枝獲得のために奔走するなど期待の弟子として知られていた。
しかし、戦後になって柳橋と三木助の関係は悪化。師弟でありながら別々の道を歩むようになる。
三木助は1951年に桂三多吉こと都家歌六を弟子にしたのを機に、多くの若者を弟子に取り立てるようになった。
柳橋からしてみれば待望の孫弟子であるわけだが、柳橋と三木助がギクシャクしているだけに「大師匠!孫弟子!」みたいな和気あいあいとした感じはなかったという。
後に三木助が芸協を飛び出した際には三木助門下の若手たちに「芸協に残留するか。三木助に同行するか」と選ばせ、残留を決意した桂木久助(七代目柳橋)、木多吉(栄橋)は直弟子として迎え入れている。
木久助などは柳橋門下へ移籍した後のほうが可愛がられ、柳橋の前名である「春風亭柏枝」を許されるようになったというのだから面白い話ではある。
戦後、柳橋の直弟子になり、まともに育ったのは春風亭柳昇と八代目春風亭小柳枝くらいしかいないのではないだろうか。
他にも女流落語の笑橋や少年落語の橋造、橋之助、三橋などいることにはいたが、皆途中でやめてしまっている(橋之助は急死してしまった)。
それ以外にも七代目春風亭小柳枝がいて、彼の下には三木助門下から移籍した小柳太(今の華柳)がいたが、三木助も小柳枝も早く死んだため、結局その身元は柳橋が引き受けるカタチとなった。
それ以外の弟子は皆預かり弟子である。春風亭柳好も柳亭芝楽も名前の並びは立派だがみんな別のところから来ている。
その上、春風亭柳橋は1960年代の落語家入門者急増に際して「弟子を取れるのは幹部以上、それ以下は取ってはいけない」と会の規則に加えてしまったため、せっかく若手真打が売り出してもその下に弟子がつけないという状態を作り出してしまった。
かつては相当の弟子を抱えながらも三木助に去られ、弟子たちにも先立たれたこともあり、孫弟子・曾孫弟子の活躍を見ることはほとんどなかった。もし三木助との仲が良好であったならばもっと孫弟子の数をみることができたのではなかったか。
80歳の長寿を保った割には、間に合うことができた孫弟子の真打昇進はただ一人。九代目春風亭小柳枝だけである。
しかも、亡くなる1年前の昇進であった。
この頃すでに柳橋は老衰のなかにあり、孫弟子の晴れ姿を応援することができなかったという。
なお、生前柳橋と面識のあった芸協内での孫弟子は昔昔亭桃太郎、春風亭はち好、春風亭柏葉、春風亭木久枝、瀧川鯉昇……とこちらも少ない。しかも柏葉と木久枝は廃業している。
ただし、決別した桂三木助門下の、そのまた元弟子という特殊な条件をつけるならば「系譜的には曾孫弟子」はいる。
その対象者は入船亭扇遊と入船亭扇海である。
春風亭柳橋→桂三木助→入船亭扇橋→入船亭扇橋・扇海
というわけである。ただし、柳橋と三木助はほぼ絶縁状態のうえに扇橋は前座時代に三木助と死に別れて小さん一門から出直しているので、協会も違ければ接点も薄い。何とも不思議な関係である。
三木助を含めれば孫弟子・曾孫弟子の数は爆発的に増えるが、三木助と決別したために何とも判別しがたい中にある。何とも評価を下し難い。
七代目橘家圓蔵
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(◯)
曾孫弟子の獲得(◯)
三平・圓鏡の師匠としても知られる七代目橘家圓蔵。個人的にはこの人のことを気に入っている。
「七代目正蔵にいじめられた報復に三平を前座に降格させた」「協会を裏切って何食わぬ顔で戻ってきた」「圓蔵の名を穢した」と某評論家が好き勝手書いていたが、三平の移籍は協会の総意であるし、協会分裂騒動に関しては談志家元などの方がよほど姑息な態度をとっている――とまあ、愚痴はそこまでにして、圓蔵一門のことである。
圓蔵は弟子に好かれた不思議な人であり、三平や圓鏡などからも「師匠、師匠」と愛された。
圓蔵が控えている高座で平然と圓鏡が「あたしが落語下手だといわれるのは師匠選びを間違えたせいで」と言い放ち、それを受けて圓蔵が「ああも馬鹿がひどいと一生治らない。あれは水に入れると増える。バカメだ」といって応酬するなど、結構ノリのいい師弟関係であったという。
三平と圓鏡が抜擢で真打になった関係もあり、早くから孫弟子の顔を見ることができた。
1958年には三平の下に一番弟子のこん平が入門。さっそく大師匠となっている。
一方、三平や圓鏡が多忙すぎることもあり、彼らの下に来る若手を代理で引き受けていたこともあったという。
その一例が橘家竹蔵であろう。竹蔵は圓鏡への弟子入りを考えたが、圓鏡の多忙と若年を理由に圓蔵門下に回されたという。
1966年に圓鏡の下に杵助(今の圓鏡)が入門。二大弟子がそれぞれ師匠となり、圓蔵は大師匠として君臨することとなった。
1971年に八代目桂文楽が亡くなると八代目門下の二つ目を預かり、師匠分として彼らの真打昇進を見届けている。
後年、三平門下に10人以上の弟子が集い、孫弟子は増え続けた。さらに圓鏡の下に半蔵、富蔵という門下も増え、抱えた孫弟子はなんと15人近く。
大名人でも大所帯の弟子持ちでもないのに、これだけ孫弟子を抱えた人はそうあるまい。
孫弟子の真打昇進は1972年の林家こん平だけである。しかし、このこん平は孫弟子の中でも相当な売れっ子だったことが幸いした。
1979年にはこん平の下に、曾孫弟子の林家うん平が入門。亡くなる1年前に曾孫弟子の顔まで見ている。何気に師匠・八代目桂文楽と同じ立場に立っているのがすごい。
八代目橘家圓蔵
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(◯)
曾孫弟子の獲得(✕)
八代目圓蔵は早くから弟子を抱えたとは七代目圓蔵の項で記した通り。
ただ、八代目自身が晩年弟子を取らなかったことや師匠の七代目没後の弟弟子育成なども相まって孫弟子は多くない。
初孫弟子は1991年に入ってきた橘家圓十郎が最初だろう。圓十郎の師匠は橘家竹蔵。竹蔵は七代目亡き後に八代目の弟子になったが、元々八代目の弟子になりたがっていただけに本家帰りをしたというべきか。
圓十郎は2005年に真打昇進。ここに孫弟子の昇進も見届けている。
圓十郎の入門以降、10数年の間、圓蔵一門に新人はなかったが、2001年に一番弟子の圓鏡にかがみ――今の月の家小圓鏡が入門。最晩年のかわいい孫弟子となった。
2015年に、「2016年春、小圓鏡真打昇進内定」が決まったが、惜しいかな圓蔵は2015年10月に死去。孫弟子の2人目の昇進披露を見届けることができなかった。
立川談志
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(✕)
曾孫弟子の獲得(✕)
落語界の風雲児として、立川流家元として知られた立川談志は30名近い弟子を抱え、今では70名近い「立川」が存在する。
立川流は厳しい師弟関係や昇進制度を設けた一方で、談志や談志一門のカリスマ性に心酔して飛び込んだものも多い。
初の孫弟子となったのは立川志らく門下の立川こしらだろう。1996年の入門。談志家元は60歳の節目に大師匠となった。
その後、立川志の輔門下に晴の輔、志らくの下に志らら、志ら乃。快楽亭ブラック門下に快楽亭ブラ房(今の立川吉幸)が生まれた。
以降、志の輔一門、志らく一門を中心に弟子が急増し、70代になる頃には二桁の孫弟子を抱える身の上となっていた。
ただし、立川流は他の協会以上に弟子の人事が激しいのでいったい何人いたのか判然としない。
なお、談志がまだ元気だったころは孫弟子の二つ目昇進リサイタルに参加して選評をしたりしていたこともある。初の二つ目昇進者となった志ららを筆頭に、こしら、志ら乃、立川晴の輔などは家元の審査を経たはずである。
孫弟子たちのうち、こしらと志ら乃は2011年11月にリサイタルに合格、真打昇進内定となった――が、この頃、談志家元は癌悪化による昏睡状態にあり、「孫弟子の真打昇進を見られたか」といわれると困る。内定直後、談志はひっそり息を引き取り、荼毘された。
談志亡き後も立川流は栄え続け、今では曾孫弟子もいる。談志はどんな思いで今の立川流の隆盛を見ていることだろうか。
初代林家三平
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(✕)
曾孫弟子の獲得(✕)
昭和の爆笑王の異名で知られる林家三平だが、当人は54歳で死んでいるため、活動期間は決して長い方ではなかった。あの人気と知名度と比較して芸歴は40年もなかった――その短さがうかがえる。
ただし、人気者で多くの弟子を持ったこと、早くから弟子を抱えたこともあり、孫弟子を見ることができた。
林家三平の弟子は11人(廃業したばん平を含めると12人)。色物を含めると20人近くなる。
ただし、三平存命時に真打昇進できたのは一番弟子の林家こん平、師匠・六代目小勝に死なれて移籍した三升家勝二だけである。勝二は移籍後2年目で真打に昇進したため、生え抜きの弟子とはいいがたい存在ではある。
一方、こん平も二つ目時代から早くに人気を獲得したこともあり、1972年の真打昇進後にはメキメキと頭角を現し、1979年には林家うん平を弟子に取っている。
このうん平が三平にとって最初の孫弟子であり、唯一出会えた孫弟子であった。
三平亡き後、二つ目・前座だった弟子たちはこぞってこん平門下に移籍した。
三平一門は師匠を失くして大打撃であったが、こん平のよき指導もあり、そのほとんどが真打に昇進した。
今では長男の林家こぶ平こと九代目林家正蔵のところに弟子が8人、しん平のところにも1人、今は協会を離れているがらぶ平の所にも2人おり、自分の弟子よりも多い状態になっている。さらに次男も三平を継いで、今では2人の弟子持ち。
冥土で三平は「あたしの弟子たちはずいぶん賑やかな次第で……兄貴は正蔵、弟は二代目の三平を継ぎまして……ああ、ちゃんと襲名しましたよ。それでシャバでは孫弟子だけで10数人いるんですヨォ、みんなお身体大事にして下さい、どーもすみません」などと喜んでいるかもしれない。
林家彦六
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(◯)
曾孫弟子の獲得(◯)
稲荷町の師匠として知られる林家彦六も大所帯で知られた。短気で「バカヤロォォォォ」と叱りながらも人情味があり、弟子育成の名人でもあった。
癖の強い師匠に癖の強い弟子たち、その師弟関係のドタバタは今なお語り草となっている。
彦六が弟子を抱えたのは七代目橘家圓太郎が最初だという。1930年代初頭から橘ノ百圓の身を預かっていたが、1935年に圓が急死したのを機に正式な門弟として迎え入れ、育て上げた。40代で既に弟子を持っていたというのだから早い。
さらに戦後間もなく初代神田山陽の息子の蝶花楼花蝶を弟子にしたり――と戦後から安定した師匠ぶりを見せていた。ただし、花蝶は長く続かず、後に歌舞伎鳴物師となったと聞く。
その中で初めての直弟子は1950年にやってきた春風亭柳朝だろう。柳朝は一度師匠をしくじって門下を飛び出しているため、「一番弟子であるが真打昇進は二番目」という不思議な状態になっている。
1951年には、七代目正蔵に死に別れた林家正蝶が入門。柳朝も同年詫びを入れて復帰してきたため、彦六一門は賑やかになり始めた。
その後は文蔵、正楽と弟子が順調に増えたほか、他の師匠に死に別れた栄枝、木久蔵、林蔵などを引き取っている。
生前、彦六の門弟の一人が「うちの師匠の弟子の半分は移籍組、そう考えると師匠は大変な死神」と洒落を言って彦六に怒られたとか何とかいう伝説があるが、彦六一門も結構預かり弟子が多い。
一方、預かり弟子とぎくしゃくする師弟が多い中で、彦六は広い心と厳しさで真打まで導いたというのだからすごい。
彦六にとって初の孫弟子は紙切りに転身した二代目林家正楽の下に出入りするようになった三代目正楽のようである。1967年入門というから結構早い。
ただし、三代目は長らく通いの弟子であり、高座にもほとんど出ないで紙切りの技芸向上に力を注いでいたため、彦六がどれだけ三代目正楽を認知していたのかハッキリしない。
噺家としての初孫弟子は、1968年に春風亭柳朝の弟子になった春風亭一朝である。
一朝は元々彦六の弟子になりたかったらしいが、彦六が「老齢だし、今はあとむと九蔵がいて面倒見切れない」という理由で柳朝を斡旋。柳朝がこれを承諾したため、晴れて孫弟子第一号となった。
彦六にとっての孫弟子は主に柳朝門下の人々である。柳朝門下の若手は一朝からいなせ家半七まで全員面識を得ていたという。
彦六のすごい所は80近くなっても弟子を取り続けた点だろう。末っ子の林家正雀を取った際には78歳だったというのだから、凄まじい。これだけの老齢で弟子を取った人は春風亭柳昇、三遊亭遊三くらいしか思い浮かばない。
なお、林家一門随一の売れっ子であった林家木久蔵にも林家電蔵、林家雷蔵といった弟子が何人か入ったものの、長続きはせず、木久蔵の一番弟子はきく姫ということとなっている。
そんな彦六であったが、柳朝の二番弟子・春風亭小朝が凄まじい人気を獲得し、入門後わずか10年で真打昇進を認められたこともあり、「孫弟子の真打昇進」という事例をみることができた。
彦六は当時90近い老齢であったが、カクシャクと口上に列席し、孫弟子の晴れの門出を喜んだという。
その小朝は1982年1月に「あさり」という弟子を取った。今の八代目橘家圓太郎である。
当時、彦六は既に老衰で入院をしていたが、最初で最後の曾孫弟子の対面ができたという。これもまた長寿の徳というべきか。
なお、「林家正蔵は一代限り」を誓っていた彦六であったが、彼の培った林家は木久蔵や正雀を通して今も枝葉を広げ続けている。
海老名流林家とは別に林家がいるのは彦六の人徳といえるだろう。
五代目柳家小さん
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(◯)
曾孫弟子の獲得(◯)
戦後、落語家を一番育てた人は誰か――といわれると五代目柳家小さんがまず筆頭に来ることだろう。直弟子だけで20数名。預かりを含めれば40人近くなる。
協会会長を4人輩出し(馬風、小三治、市馬、さん喬)、人間国宝と文化功労者をそれぞれ出している――これだけ勢力があるのは往年の三遊亭圓朝並みといってもいい。
弟子たちも早くから売り出して弟子を持ったこともあり、落語史上類を見ないほど弟子、孫弟子の誕生を見届けた人でもある。90近い天寿を得たのもあるのだろう。
何せ息子を一人前にして真打にし、孫まで一から育てて真打にしたような傑物である。この逸話だけでも並大抵の人物ではない。
さて、小さんにとっての初の孫弟子は後に直参となる柳亭風枝が最初だったようである。
文楽の所でも少し記したが、風枝は1963年に三遊亭百生の弟子になったが1年で師匠に死なれ、五代目柳家つばめの弟子になった。時に1964年――小さんは49歳で孫弟子持ちとなった。相当早い。
ただし、つばめが夭折したこともあり、風枝は後に直弟子となる。「元孫弟子の直弟子」という不思議な関係をもつこととなった。
小さん門下へ移籍しなかった「完全な孫弟子」の場合は立川談十郎こと土橋亭里う馬になろう。1967年に談志へ入門。正式な孫弟子となった。
なお、里う馬の前に柳家さん八がいたものの、さん八は談志をしくじったこともあり、事実上の破門となっている。ただし、談志が「もし続けたいなら小さん師匠のところに行け」と許してくれたことにより、さん八もまた「元孫弟子の直弟子」となっている。
その後、小せんのところにせん八が入り、談志のところにも左談次、馬桜、ブラック……と1960年代で既に5、6人近い孫弟子がいた。
1970年代に入るとその数は年々増加することとなり、談志の下には談四楼、寿楽、ぜん馬、龍志、談之助。つばめの下に権太楼、清磨。小三治の下に〆治、喜多八。扇橋の下に扇遊と扇海。小満んの下にさん生――と増え続けた。
なお、つばめ門弟たちは後に直弟子となったが、そんなことが気にならないくらいに増え続けている。
孫弟子の真打昇進は1981年の土橋亭里う馬が最初であった。当時66歳。この若さで孫弟子が一人前となっている。
その後は雪だるま式で増えることとなり、1982年には左談次、馬桜、ぜん馬とせん八(と権太楼も孫弟子と見なすならば権太楼も)が第二号孫弟子真打。
その後、落語協会真打昇進試験をめぐって立川談志一門と絶縁するなど、孫弟子を抱えながらも絶縁状態――と紆余曲折はあったが、談志一門去ってもなお孫弟子は増え続けた。
そして、談志一門もまた小さんと関係が切れた後も性力を拡大し続けた。志の輔、志らく、談春、談慶などはそのいい例だろう。
その後、小さんが没するまで真打昇進を見届けることができた孫弟子以下の係累をみてみよう。昇進順である(立川流は除く)。
入船亭扇遊、柳家〆治、入船亭扇海、柳家喜多八、入船亭扇蔵、柳家はん治、柳家さん生、全亭武生、柳家福治、柳亭燕路、橘家圓太郎、入船亭扇好、柳家小きん、柳家喬太郎、柳家禽太夫、入船亭扇治、柳家三太楼、柳家一琴、入船亭扇辰、鈴々舎鈴之助
協会内だけで20人の孫弟子真打である。子々孫々という例えがしっくりくる。
そして、孫弟子たちが弟子を取れるようになると当然生まれるのが曾孫弟子である。
協会内での初曾孫弟子は鈴々舎馬桜の弟子の五代目柳家小せんではなかったか。1997年春の入門である。今は馬風門下に移籍したため、孫弟子扱いであるが入った当時は曾孫弟子であった。
移籍なしの直系曾孫弟子では、入船亭扇遊の一番弟子の現・扇蔵が最初である。1999年の入門である。
立川流を含めると、1996年に立川志らくの門下に入った立川こしらが初の曾孫弟子となる(孫弟子・志らくと志の輔の弟子)。
なお、小さんの生前に間に合った立川流関係者には、志ららと晴の輔、吉幸(今は芸協にいるが)、左平次、こしら、志ら乃、志ゑん、わんだ、志の八――この辺りだろう。
この系統を見ていると、小さんのすさまじさを改めて実感するのである。落語協会内の小さん閥の強さはこの人材にかかっているのだと強く実感する次第である。
十代目柳家小三治
孫弟子の獲得(◯)
孫弟子の真打昇進(◯)
曾孫弟子の獲得(✕)
小さんに続く江戸落語人間国宝に認定された柳家小三治は非常に厳しい師匠として知られたが、その一方で9人の直弟子を育て、預かりの末っ子・柳家小八を含めて弟子全員を真打にしている。
小三治一門全体が落語界でも厳しいという評判があり、小三治が最晩年まで活躍していたこともあり意外に孫弟子は少ない。
小三治全盛期に入った孫弟子は2003年春に、柳家喜多八の下に入った柳家ろべえ(小八)と、ほぼ同時期に柳亭燕路の下に入った女流落語家・柳亭こみちだけである。
なお、小八は後に小三治門下に参じているため、最初から最後まで孫弟子なのはこみちさんだけである。
なお、こみちさんの話では「当初、師匠の燕路は『女に落語はできない』と猛反対であったが、しつこく弟子入りを願い出た末に燕路は困りかねて小三治師匠に相談へ行った。小三治は『女に落語ができないというのはそうだが、いきなり芽を摘むのも酷ではないか』と燕路にアドバイスし、燕路は女弟子を取る決心をつけた」という。
小三治はこみちを厳しく指導しながらも、時々女性として悩むこみちに厳しくもそっと前途を照らすなど、こみちのよき大師匠として君臨した。
一方の喜多八と小八は変わり者の師弟で「俺以外のところならいくらでも紹介する」「師匠のところがいいです」「俺以外のところなら……」という師匠も弟子も粘り合ったという伝説が残る。結局喜多八が根負けして小八を弟子にした。
長らく小八・こみちの二人孫弟子状態であったが、2011年に柳家はん治の下に小はん、2015年には弟弟子の小はだができている。
2017年3月、小八が真打に昇進。この時、喜多八は既に没しており、小八は孫弟子から直弟子になっていた。
そして同年9月にはこみちも真打昇進。孫弟子の真打昇進を見届けた。
残る小はん、小はだの成長を楽しみにしていたようであるが、2021年惜しまれつつ世を去った。
なお、亡くなる直前に柳家小八の下に柳家しろ八という見習いが入った(この頃の入門者は前座待機が多かった)。もし、喜多八が存命であったら小三治は亡くなる直前に曾孫弟子を抱える形となったわけである。
運命は数奇といえようか。
以上、大まかなところをいくつか。なんだかんだで原稿用紙60、70枚くらいの大ボリュームになってしまった。解せぬ。
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