「夢や目標を持てば幸せになれるのか?」【後編】——叶えた後に、何が残るのか|「夢も目標もいらない。本当の力の取り戻し方」シリーズ第2回
夢が叶った後、どうなるんだろう。
「夢を持とう」「目標を達成すれば幸せになれる」という言葉は溢れている。だけど「叶えたあと」の話は、ほとんど出てこない。
なぜだろう。
前編では「今を生きる」と「目標を持つ」という、現代で同時に語られる2つの言葉が矛盾していることを書いた。「後先(あとさき)」という言葉の逆転、和時計の構造、物理学者ロヴェッリの「時間は存在しない」という主張。最後に「人生から目標や夢という明治以降の『輸入品』を一度取り払ってみたとしたら、何が見えてくるか」という問いを立ててみた。
今回はその問いの続きだ。夢や目標を「叶えたとき」に何が起きるのかを見ながら、そもそも「夢」とはどこから来た言葉なのかを掘り下げていく。
まずひとつ、問いかけてみたい。
大きな目標を達成した直後に、ぽっかりとした空虚感に襲われた経験はないだろうか。欲しいものを手に入れた途端、もう次のものが気になり始めた経験は。
2024年、俳優の真田広之がアメリカのテレビドラマ「SHOGUN 将軍」でエミー賞を受賞した。その受賞後、こんな言葉が世界中に広まった。真田広之の言葉として拡散したが、本人の発言として確認できる一次資料はない。ただ、その中身はこうだ。
「家にプールが欲しいと願う人もいるけれど、実際にプールがある人はほとんど使わない。大切な人を失ってその存在が恋しいと思う人がいる一方で、その人がそばにいることを当たり前と思い、不平を漏らす人もいる。車を持たない人が車を夢見る一方で、車を持つ人はより良いものを追い求める」
誰の言葉かわからないのに、なぜこれほど世界中に広まったのか。それはこの言葉が、多くの人が薄々感じていた何かを言語化していたからではないだろうか。
叶えても、次を求める。手に入れても、今度は別のものが恋しくなる。
これは欲が深いからでも、意志が弱いからでもないかもしれない。夢の中身の問題ではなく、夢の「起点」の問題かもしれない。
「こうなれば幸せなはずだ」という夢がある。あの人みたいになりたい、あのライフスタイルを手に入れたい、あの肩書きがあれば認められる。
この種の夢の起点は、常に「外側」にある。他者の成功、メディアが作る理想像、社会が「良い」と定義した状態だ。外側に起点がある夢を叶えたとき、充実感は持続しない可能性がある。なぜなら、その夢はそもそも「自分が本当に欲しいもの」ではなかったかもしれないからだ。
これを仮に「不幸になる夢」と呼んでみたい。
では、叶えた後も充実が続く夢はあるのか。
真田広之本人はインタビューでこう言っている。「何がゴールというよりも、続けていって力尽きたところがゴールみたいな感じです」。
「叶えた」という感覚ではなく、「やり続けている」という感覚だ。
充実は達成の瞬間ではなく、やり続けているプロセスの中にある。
そして、彼はこうも言っている。「誤解された日本を描く時代を自分の世代で終わらせたい」——これは外部の目標ではなく、今、目の前にある問題への応答として動いていた言葉だ。起点が「今の自分の内側」にある。
これを「本物の夢」と呼んでみる。
今が充実している人は、夢を探さない。腹が減っていない人が食べ物を渇望しないように、今が満ちている人は「今ではない何か」を必死に探さない。夢を必死に探しているとき、それは今に何かが欠けているサインかもしれない。
「夢」という言葉の正体
ここで少し、言葉そのものを掘り下げてみたい。
日本語の「夢」はもともと「寝目(いめ)」という言葉だった。「寝(い)=睡眠」と「目(め)=見えるもの」の合成語で、奈良時代には「いめ」と発音し、平安時代に「ゆめ」へと転じた。「はかなさ」の比喩として使われるようになったのが平安以降。
「将来の希望」という意味で使われ始めたのは近代になってからで、前編で書いた通り明治以降の「輸入品」だ。
その輸入元である英語のdreamの語源を辿ると、さらに面白いことがわかる。
古英語のdrēamは「睡眠中の夢」ではなかった。「喜び」「音楽」「宴の場の騒ぎ」——今この瞬間の喜びや音楽、つまり「現在の感覚」を指す言葉だったのだ。それが13世紀、ヴァイキングのイングランド侵攻によって北欧語が流入し、北欧語のdraumr(睡眠中に見る幻)の意味が上書きされた。征服によって言葉の意味が塗り替えられた。「喜び・音楽」という元の意味は14世紀までに完全に消え、「将来の理想・希望」という意味が加わったのはさらに後のことだ。
さらに遡れば、dreamのゲルマン祖語の語根には「欺き・幻・亡霊」という意味があったとされている。サンスクリット語のdruh-(傷つける・欺く)、古ペルシャ語のdrauga(嘘・欺き)と同根だ。
dreamという言葉は、本来「今ここにある喜び」を意味していた。それが征服と時代の変化の中で「まだ来ていない未来の幻」へと変質した。そしてその語根には最初から「欺き」が潜んでいた。叶えても充実が続かない夢の構造と、この語源は無縁ではないかもしれない。
ここで、もうひとつの話を挟みたい。
オートマタという、人間や動物の動きを模した自動機械を刺す言葉がある。時計仕掛けや水力で動き、まるで生きているかのように振る舞う。中世から近代にかけてのヨーロッパで盛んに作られ、「人間を機械で再現できるか」という問いの象徴として語られてきた。
その中に、こんな伝説がある。13世紀の神学者アルベルトゥス・マグヌスが30年かけて金属製の人型機械——オートマタ——を作り上げたという。この機械はあらゆる質問に答え、絶え間なくしゃべり続けた。弟子のトマス・アクィナスはそのおしゃべりに嫌気がさし、ハンマーで打ち壊した——という話だ。
これは作り話だ。アルベルトゥスが亡くなってから200年後に誰かが作った伝説で、本人の著作には一切出てこない。ではなぜ作られたのか。アルベルトゥスの著作量と博識さが膨大すぎて、当時の人々には「一人の人間にできるはずがない、何か外の力を借りているに違いない」と思われたからだ。
この話を踏まえて現代を見てみると、奇妙な逆転が起きている。かつては「偉人の凄さ」を説明するためにオートマタが持ち出された。今は「偉人の凄さ」をテレビの伝記番組、成功者の自己啓発書、SNSで流れ続ける「こうすれば凄くなれる」という言説として、絶え間なく供給され続けている。
——これらは現代版のオートマタかもしれない。
トマス・アクィナスはそのおしゃべりを壊した。壊した後に何をしたか。自分で考え、自分で書いた。「神学大全」という西洋思想史上最大級の著作を、自分の力で作り上げた。この話の詳細は改めて別の回で書くが、「外から答えを供給され続けること」と「本物の夢」の問いは、おそらく無関係ではない。
「夢を持て」はいつ生まれたのか
近代以前、「個人の夢」という概念は存在しなかった。
江戸時代の農民に「あなたの夢は何ですか」と聞いても、概念そのものがない。これは夢がなくて不幸だった、ということではない。
江戸の農村には、祭りがあった。神社があった。現在、日本には約8万社の神社がある。コンビニの総数(約5万7000店)より多い。その多くは江戸時代以前から地域共同体の中心として機能し、祭礼・氏子制度という形で維持されてきた。農村の年中行事は、田植え・収穫・正月・盆など季節と生業に密接に結びついていた記録が各地に残っている。
「農村は貧困と労働だけだった」という描かれ方は、ドラマや歴史叙述に多い。だがその語り方は、明治以降の「農民は苦しかった、だから近代化が必要だった」という文脈で強調された側面がある。苦しさも事実の一部だ。しかし祭りと神社が維持され続けてきた事実は、内面の充実がゼロではなかったことを示唆している。夢がなくても、不幸ではなかった可能性がある。
では江戸以前の人々は、夢の代わりに何を持っていたのか。武士には「道」があり「志」があった。これは「達成するもの」ではなく「あり続けるもの」だった。庶民には「家業を守る」「家を継ぐ」という生き方の軸があった。「個人が未来の目標に向かって走る」という発想そのものがなかった。
英語圏でも同様だ。現代英語には「夢(dream)」とは別に「志(aspiration)」という言葉が存在する。aspirationは富や名声の獲得ではなく、精神的成長や社会貢献のニュアンスを持つ。dreamとaspirationは明確に別物として使い分けられている。
「個人」という概念自体が近代の発明だ。産業革命・資本主義の拡大とともに、人間は共同体の一員としてではなく、個人として労働し、消費し、競争する存在として再定義された。テレビや教育が「すごい人たちがいる」という刷り込みを繰り返した。その文脈の中で「個人の夢を持つことが当たり前」という空気が作られていった。
夢を持つことが「当たり前」になったのはいつか。少なくとも、人類の歴史全体から見れば、ごく最近のことだ。
ここで、2つの夢の違いを整理しておきたい。
矛盾の答え
前編の冒頭で投げた問いに戻ろう。「夢を持とう」と「今を生きると幸せ」は、矛盾しているのか。
矛盾ではなく、順序の問題だったかもしれない。
「不幸になる夢」——外から与えられた像に向かって、今の自分を否定しながら走ること——は、今を犠牲にして未来を目指す構造だ。だから「今を生きる」と矛盾する。
しかし「本物の夢」は、今の自分の中にあるものが自然に先へと向かっていく。真田広之が「やり続けた」のは、今の自分の中にあるものへの応答だった。今が充実していれば、その充実が未来へと続いていく。「今を生きろ」は「夢を持つな」ではなく、「本物の夢は今の中にある」という話だったのかもしれない。
だから。
夢がない自分を責める必要はなかった。
ただ、今の自分に何があるかを問おうとするとき、邪魔をするものがある。「どうせ見つけても大したものじゃない」という感覚だ。その感覚がどこから来たのか。それは夢や目標の問題ではなく、記憶の問題だ。その話は第3回で見ていく。
次回・第2回は「なぜ怒りは悪者にされたのか」。封じられた力の正体を見る。
2026年5月15日
シリーズ第3弾予告 2026年5月から金曜日20時 順次公開予定
「夢も目標もいらない。本当の力の取り戻し方」公開予定タイトルとマガジン収録済みタイトル
①夢と目標を持つと本当に幸せになれるのか?(前後編)済み
②怒りはなぜ悪者にされたのか(前後編)以降予定
③ポジティブ思考より強力なライフハック!(前後編)
④書きたくなかったことを書く。私の考えるメソッドとは?(前後編)
⑤シリーズ3総集編
シリーズ第2弾
「信じすぎている常識−疑えないものを疑ってみる」シリーズのマガジン
①ポジティブ思考は本当に役に立つのか?(前後編)
②日本人は本当に農耕民族か?(前後編)
③仲間がいないと生きられないのか?(前後編)
④科学を疑ってはいけないのか?(前後編)
⑤シリーズ第2弾最終回〜何かが、ずっとしんどい-原因は、疑えなかった場所にあった
シリーズ第1弾
「個人化の罠」シリーズのマガジン
①感謝すると良いことがあるは本当か?(前後編)
②働いても豊かになれない構造がある(前後編)
③家族の個人化の罠 毒親はなぜ生まれたか(前後編)
④お金と金融の真実 お金で承認を買う時代(前後編)
⑤総集編「なぜ私たちは『自分が悪い』と思い込むのか」感謝・仕事・家族・お金——4つの罠が繋がる時【完全分析2万文字】
シリーズ番外編
「裏音声」と「気が向いて書いた投稿集」のマガジン



コメント