難解極まりないテーマに
◎前回の記事の反省
先ずこれから始めないといけない事を冒頭にお詫び致します。そして伝え切れていない点から先に記していくことにします。
浦嶋児は日下部首(クサカベオビト)の祖であるとされますが、その嶋児の出自は3通り考えられるとしました。
(1) 日子坐王(彦坐王)を祖とする
「新撰姓氏録」には日下部首が彦坐王を祖とするもの、同祖同族と想われる日下部宿祢が彦坐王を祖とするものが2箇所に記載される。また日下部氏の祖を日子坐王(彦坐王)とする伝承が各地にみられる。
(2) 宇治土公氏の裔とする
伊勢国の宇治土公氏(ウヂトコウヂ、ウヂノツチギミ)が、丹後国輿謝郡筒川(宇良神社の鎮座地)より移遷したものと考える。これは宇良神社(浦嶋神社)宮司の見解によるもの。
(3) 卜部氏の裔とする
「亀卜(きぼく)」を行う唯一の氏族「卜部氏」の裔とするもの。本拠地は壱岐で「月神」を信仰していた。宇良神社(浦嶋神社)は北辰信仰の影響が強く、月読神も祀っている。
「姓氏家系大辞典」(太田亮氏)の「磯部」の項に、元は磯部氏であったものが、和銅四年(711年)に「度会神主」姓を賜ったと記しました(続紀による)。また「志摩國舊地考」(井坂丹羽太郎、明治十六年)には、「磯部は度会神主家の支族なり」とあります。
何れも近代の書であり、あらゆる資料を元に推敲を重ねられたものですが、これ等に信頼を寄せてみることにしましょう。
それでは「度会氏」がかつて「磯部氏」(石部氏)と称していた時代のことを、もう少し詳しくみていくとします。
上記の登場三氏の簡単なプロフィール紹介の中で、「伊勢国造の裔である」と記しています。「伊勢国風土記」逸文には、「伊勢国は天御中主尊の十二世孫の天日別命が平定した所である」とあります。天日別命は伊勢国の初代国造。この後に神武東征に従軍したこと等が語られており、その時代の神であったことが窺えます。
一方で「先代旧事本紀」国造本紀には、「伊勢国造を天牟久怒命孫天日鷲命の後」とあります。太田亮氏は「姓氏家系大辞典」にて、天日別命と天日鷲命とは同神とみなし、神魂尊の裔であるとしています。度会氏系図等にも神魂尊の裔とあります。
遠祖を天御中主尊と神魂尊とするかの違いはあれど、天御中主尊はもちろんのこと神魂尊も架上の疑いもあるので、この際無視してよいことと考えます。太田亮氏の説を信じるなら「天日別命=天日鷲命」。
また太田亮氏は同書に於いて、「磯部氏」の項では「太古以来の大族で漁撈航海を職業とし、古代の技術者集団名をあらわす品部名より起こり、伊勢に最も多く、故に伊勢部とも呼ばれた」としています。
「伊勢国風土記」逸文には、天日別命が伊賀にいた伊勢津彦を平定したことにより「伊勢」と名付けられた等と記載されています。ところが「伊勢」は「磯」からの転訛、或いはその逆でなかろうかと思っています。
伊勢津彦がどういった神であるのかに就いては、諸説噴出しており、謎の神といったところ。同逸文には出雲建子や天櫛玉命の別名であるとしています。按ずるに逸文に於いては、「伊勢に居る神」(当時は伊賀国が伊勢国に含まれていたという前提にて)ということを以て「伊勢津彦」と記しているように思います。
垂仁天皇紀に伊勢神宮の成立譚に就いて、「倭姫命が天照大神の教えに従い、その祠を伊勢国に立て斎宮を興し、五十鈴の河上に建てて磯宮と呼んだ」とあります。「磯宮」とは「磯」(伊勢)の宮ということでしょう。
なお同逸文に於いては、神武東征に従軍した天日別命が元々どこに居たのかは記していません。太田亮氏が言うように漁撈航海を職業としていたのであれば、伊勢の海側に居たのかもしれませんし、瀬戸内で出会っているのかもしれません。記紀に登場しないこと、その後の伊勢での活躍を考えると伊勢の海側に居たのでしょうか。
安倍氏と阿閇氏はいずれも第8代孝元天皇皇子の大彦命を祖とする同族。一ノ宮は敢國神社(あへくにじんじゃ)。大彦命を主祭神とし阿閇氏が奉斎した社。
さらに天武・持統天皇が「壬申の乱」で進軍したルートも、伊賀を経由し北上したパターン。近江で決着しましたが美濃や尾張等の東国の支援を糧に、奇跡的な大勝利を収めました。天武・持統天皇が倭姫命の行程を踏襲した可能性も否めませんが…(あまりに似通るルートであるため)。文献等には見えないものの、この行程は後に「奇跡の神懸かりルート」とも呼ばれた?(あくまでも個人的妄想に過ぎません)
そしてそもそも「四道将軍」の派遣は、ヤマト王権が致命的に抱える大問題、「鉄」資源の確保という甚だ重要な任務をも負っていたと考えています。吉備然り丹後然り、伊賀も北陸も東海も。
くどいようですが繰り返しておきます。「伊賀国」は大和に近い貴重な「鉄」の供給産地であったことを忘れてはなりません。敢國神社は山頂に祀られていた製鉄の偉大なる守護神である、少彦名神と金山比咩神を大彦命が麓を降ろし祀ったことを起源とすると伝わる社。
◎「伊賀国」と「志摩国」の奇妙な関係
「伊賀国」と「志摩国」とが離れていることをも伝えておかねばなるまいと思い、上に地図を載せておきました。
「志摩国」は「御饌国(みけつくに)」として、豊富な海産物を都や伊勢神宮へと貢進・供進する国でありました。これは今も昔も変わらず、リアス式海岸による良好な漁場で、的矢牡蠣や伊勢海老、鮑に鯛に鱸(スズキ)に鰒(フグ)に…(空腹時に書くものではないな)。
国司は膳氏(カシワテウヂ、始め「膳臣」後に「高橋朝臣」へと改姓)が世襲しました。膳氏は大彦命の孫である磐鹿六雁(イハカムツカリ)を祖とする氏族。阿閇氏は同じく孫の屋主田心命を祖とする氏族です。つまり膳氏は阿閇氏と同族。
また膳氏の世襲が平安期に定着するまでは、敢磯部氏(アヘノイソベウヂ)という氏族も国司に任じられていました。敢磯部氏は氏族名から伊賀の阿閇氏(敢臣)の系列であったように思われます。或いは阿閇氏の部民だったのでしょうか。志摩国のみならず尾張以東の東海地方にも分布がみられます。
多くの古文献や研究書、古典系の辞書等、あらゆる書を漁る中でようやく見付け出したのが「日本古語大辞典」。なぜこんな身近な書に早くに向かおうとしなかったのか…。
「阿閇臣」の項に「支族には阿閇間人臣、敢磯部(又は石部)等がある」と記載。ちゃんと「阿閇臣の支族→敢磯部(石部)」とあるではないか。
これはまったくの独自の推論であり、邪推であるのかもしれませんが…「阿閇」「敢」の「アヘ」は「饗(あへ)」(「もてなし」や「ご馳走」の意)を元とするのではないかと思ったりもしています。
このようなことを述べているのを目にしたことはありませんが、案外に的を得ているのではないか、よくぞ気付いた…と悦に入っているのですが、日常より真摯に研鑽なされておられる学者様方、如何でしょうか。それともどなたかが既に唱えておられる?
余談はさておき…
以上を以て「伊賀国」と「志摩国」との繋がりが十分に把握できました。「伊賀国」と「志摩国」とは離れていますが、その間には伊勢国多気郡があり「宮川」が流れています。その河口に豊受大神宮が鎮座しています。阿閇氏・膳氏・敢磯部氏は内陸の伊賀より徐々に東へ、伊勢湾へと移っていったように思われます。
なお多気郡が分国されなかったのは皇大神宮別宮 瀧原宮が鎮座していたからでしょうか(平安初期までは多気郡に属していたと考えられる、━筑紫由真氏の説による━)。
◎大若子命の登場
次に磯部氏が注目を浴びるのは大若子命(オホワクゴノミコト)の時。天御中主尊十八世孫とされる。「倭姫命世記」「豊受大神宮禰宜補任次第」(「群書類聚」収集)や度会氏系図といった書に見え、記紀や「伊勢国風土記」逸文には見えない神名(「続日本後紀」には登場する)。事蹟は伝説としか言い得ないのですが…。
Wikiが各々の記載内容を要約しているので、引用しておきます。
* 「豊受大神宮禰宜補任次第」の記述
━━垂仁天皇の代の伊勢内宮鎮座の際、自らの領する櫛田川以東の伊勢国南部の地(竹田之国)を神宮に納め、その地の支配者として神国造となり、大神宮大神主を兼ねたという。また越国(現在の北陸地方)で反乱を起こした阿彦の征討に行くよう命を受け、その平定の報告をしたところ、朝廷から大幡主の名を与えられた━━「神国造(かみのくにのみやつこ)」とは、「伊勢神宮の鎮座にあたり、神に捧げる土地として寄進された神郡を治めた国造(地方官)。通常の行政的な国造とは異なり、神域の支配と祭祀の運営を担った」というもの。
また「神国造兼大神主(かみのくにのみやつこ かね おおかむぬし)」とは、伝承において伊勢神宮の創建期に任命されたとされる神職の称号。「大神主」とは伊勢神宮に於いて、禰宜の上位に位置し、神宮に仕える神職の頂点としてすべての神事を取りまとめた最高責任者。
つまり古代の伊勢地方を治めながら、伊勢神宮の祭祀を統括する最高神主の役職を兼ねていた」というもの。これは伊勢国の「祭」「政」すべてを一任されるという、絶大な権力を有することになったに他なりません。
ここでの要点は、大若子命が自身が治める土地を献上し(国譲り)、代わりに「神国造」兼「大神宮(伊勢神宮のこと)大神主」となったということ。
先に記している三氏族の紹介では、度会氏(磯部氏)が豊受大神宮の禰宜を、荒木田氏が皇大神宮の禰宜を世襲したとあったはず。それが度会氏(磯部氏)の大若子命が伊勢神宮の初代神主であるとは…
記紀に登場しないが他文献に登場するといった場合、伝承そのものに信憑性の無いこと、記すまでもない程度のこと、記すと都合が悪い場合…等々幾つか考えられます。この場合は記すまでもない程度のことと、記すと都合が悪い(良くはない程度か)場合とが合わさったものではないかと考えています。理由は後ほど。
* 「倭姫命世記」の記述
━━垂仁天皇十八年、倭姫命は「阿佐藤方片樋宮」に遷坐し四年間奉斎したが、この時、「阿佐加の嶺」に坐した荒ぶる神・伊波比戸は100人往く人のうち50人を取り殺し、40人往く人のうち20人を取り殺した。そのため倭姫命は、その神の事を奏上するために、大若子命を朝廷に派遣した━━
こちらは「豊受大神宮禰宜補任次第」に無い記述のみを掲載しています。「倭姫命世記」にも同様に「神国造兼大神主」となったとあります。
伊勢神宮の「神国造兼大神主」と言い、越国遠征の阿彦平定と言い、華々しい活躍が伝わっています。
越国には越後国魚沼郡の魚沼神社(記事未作成)や居多神社、佐渡大幡主神社…等々、伝承が多く残されており、これは史実とみなさねばならないでしょうか。
なお伊勢国造を実際に世襲したのは、大若子命の弟の乙若子命の裔。なぜ大若子命の裔が継がなかったのかは不明。子に恵まれなかったのか、どこかで早死にしたのか、様々に想像できますが、現状は資料が見当たらず不明。
簡単な系図を載せておくことにします。
神魂命
━櫛間乳魂命
━天曽己多智命
━天嗣桙命
━天鈴桙命
━天御雲命
━天牟良雲命
━天波与命
━天日別命
━彦国見賀岐建与束命
━彦多都久禰命
━彦楯津命
━彦久良為命
━(弟)乙若子命
(兄)大若子命
━(乙若子命より)━爾佐布命
━彦和志理命
━阿波良波命
━乙乃古命
従前よりずっと気になっているのは筑前国の櫛田神社(未参拝)の伝承。
博多どんたくで知られる旧県社ですが(本来は無関係)、それはさておき…。そちらは伊勢国多岐郡の櫛田神社(大若子命を祀る、記事未作成)から勧請されたという社。社伝では「大若子命が天照大神のお側を離れたくないから…」とあるのです。どうせ後世の附会であろうと切り棄ててしまうべきことなのかもしれませんが、私にはどうにも豊受大神と天照大神との関係が頭に散ら付いてしまうのです。
中臣香積連須気という人物は、「二所太神宮例文」などの書から河内国錦織郡の人らしいが、「中臣氏の差し金」と考えられるとしています。
即ち直前の皇極天皇四年(645年)六月十二日、中臣鎌子(後の鎌足)が中大兄皇子と謀って、蘇我入鹿を誅滅したという「乙巳の変」が起こりました(我々世代が「大化の改新」と教えられたもの)。十四日に譲位され即位した孝徳天皇はその日に中臣鎌子に「大織冠」を授け、内臣に任じています。
中臣氏はそれまで「神祇行政」を行ってきた氏族。ところが紀には「宰臣(まつりごとまへつきみ)の勢に拠りて、官司(つかさつかさ)の上に処り。故進め退け廃め置くこと計従い事立つ」とまで記されており、「人事行政」をも意のままに操られるようになったと。この派遣のとき以前は「神庤(かむだち)」は役所であって、祭祀に携わることはなかったのでないかとみています。
こうした事情から各地の神社に対する支配権を手中にいれようとしたことがわかるであろうとしています。そしてその一つとして行われたのが「伊勢の神庤(かむだち)の長の派遣」であったと。
これは先に記した大若子命が「神国造兼大神主」となり、伊勢国に於いての絶大な権力を有し、以降は弟の乙若子命の裔が代々世襲したということに対しての牽制であろうということかと。
田中卓氏も「伊勢神宮の創祠と発展」の中で、
「大化以来の功臣である藤原鎌足の一統である中臣氏が祭官の要職を占め、従って祭主も中臣氏に独占されるようになったのだろうとしています。によると、「天武天皇初年頃の度相郡(このような表記もある)にあっては、郡司の長官・次官、および内宮・外宮の禰宜職が、すべて度会氏の一族によって独占されていたことが知られる」とあります。もちろん国造も度会氏。まだこの時期にも度会氏の勢力はまったく衰えてはいなかったようです。
そして天武天皇の御代に遂に、内宮に荒木田神主を誕生させたのです。先に記したように荒木田氏は中臣氏と同族。これはもう露骨に度会氏の勢力の削ぎ落としに他なりません。
大来皇女の初代斎宮派遣や式年遷宮等々、後を継いだ持統天皇とともに、伊勢神宮の祭祀制度が次々と整備されていき、度会氏による奉斎から国家祭祀へと変わっていったのでした。
さてさて…