LINE公式アカウント
前回【第1部】の記事👇
……【第1部】は、「台本」という設計図の読み解き方や、アプローチについてでしたね。
そして今回の【第2部】では。
シェイクスピア台本に隠された秘密、そして「近現代の演劇スタイル」という大きなスケールの視点を通して、台本読解における自由な俳優のあり方についてお話ししてみようと思います。
それでは、いってみましょう〜!!
脚本術の天才シェイクスピア
シェイクスピアの戯曲では、なぜか文章の「途中」で改行されているセリフが出てきたりします。
これ、疑問に思ったことはありませんか?
たとえば、『夏の夜の夢』。
ここにも、そんな「途中改行」のセリフがたくさん出てくるんですが。
でも一方で、普通に連続して書かれたセリフも存在します。
この違い、一体なんなのでしょう……??
実は、その文体の違い。
貴族と庶民(平民)で異なっているんです。
貴族グループの会話は、まるで詩のように文章の途中で改行しているのに対し、庶民グループは改行なしの文章で書かれています。
文体が違うことによって、その役の身分が分かったりするという、シェイクスピア台本での台本上のお約束があったそうなんですね。
それでは実際に、『夏の夜の夢』のセリフを見てみましょう。
(※以下、白水社・小田島雄志訳を参照)
スマホの表示だと、ちょっとわかりづらいかもしれませんが(汗)
本で読むと、はっきりと文体が違うのが分かります。
……それにしても。
なぜ、キャラクターによって台本に書かれたセリフの「文体」を変える必要があったのでしょう??
その理由とは。
当時、「紙」がまだ高価だったからだとか。
今でこそ、台本の全ページを製本した完成品を、俳優全員に配布することができますが。
当時は紙が高価だったため、各俳優が「自分の出演シーン」の台本しかもらえなかったのだそう。
でも、台本を配られた俳優は、自分の出番のページしか持っていないため、そのままでは自分が何の役かも分からない。
そこでシェイクスピアは、役柄によって文体を変え。
台本を受け取った俳優は、「あ、今回は貴族の役なんだな」「私は今回は庶民だ」というように、分かるようにしたそうです。
▲こちらは、1616年に作成されたシェイクスピアの遺言書。
彼の自筆の戯曲原稿などはひとつも残されておらず、契約書や遺言書に残された署名(サイン)が6つ現存するのみなのだとか ……。
そんな中で、面白いのは『ハムレット』。
主人公ハムレットのセリフには、「改行あり」と「改行なし」の2つのパターンが存在します。
……同じハムレットのセリフでも、2つのパターンが混在しています。
デンマーク王子であるハムレットのセリフは、立場上、本来は「改行あり」になるはずです。
しかし。
彼は、父を殺した国王に復讐するため、精神錯乱状態を偽装します。
この「偽装」部分が、「改行なし」として書かれています。
そして。
狂気の状態を演じている中、周りに誰もいなくなって独白を語り出す時になると、本来(正常)の王子に戻る。
③の有名なセリフは、その独白部分にあたるので、狂気ハムレットの中にあっても正常な「改行あり=王子ハムレット」のセリフになっているんですね。
これ以外にも、シェイクスピアの台本では。
キャラクターの息遣いが文章のテンポ・リズムの違いとして表現されており、それによって役の心理状態を推し量ることができるなど、俳優が演技をするために必要な情報を台本に巧みに埋め込んでいます。
▲「別人説」というミステリーも囁かれる、ウィリアム・シェイクスピア。
僕は舞台で、まさにその「シェイクスピアのゴーストライター」の役を演じたことがあります。
ぜひ「シェイクスピア別人説」で調べてみてください。面白いですよ!!
「議論の演劇」の時代へ
こうやって、シェイクスピアの台本に埋め込まれた「記号」について書いてみると、「台本読解には、やっぱり特定の答えがあるんじゃないか?」と思われるかもしれませんが……。
ここから時代が進み。
19世紀末〜20世紀初頭、つまりスタニスラフスキー登場の頃以降からは「議論の演劇」という時代に入っていきます。
それまでの「プロット(筋書き)中心」や「情緒的なメロドラマ」の演劇から脱却し。
セリフそのものを「アクション(議論・葛藤の場)」として機能させる、より論理的・対話的な演劇の時代が到来するのです。
このきっかけとなった作品の一つが、1879にノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセンが書いた戯曲『人形の家』。
あるいは、『マイ・フェア・レディ』の元ネタとなった『ピグマリオン』や『武器と人』を書いたジョージ・バーナード・ショー。
これらの作家たちや作品群が、「家庭内の隠された問題を、公の場に引きずり出した」ことが、演劇の時代の大きな転換点となったのです。
こうした「議論の演劇」では。
筋書きの展開よりも、「何を議論したか」が重要となります。
登場人物たちが異なる視点から社会や倫理的問題を議論し、観客に自ら結論を出すことを求める形式です。
この「議論中心」の演劇形態は、現代の「関係性の演劇」や、90年代の社会的な議論を巻き起こす演劇などにも引き継がれています。
たとえば、現代の作品に、
・ハッピーエンドだかなんだか分からないようなラスト
・答えを明示しないラスト
・観客に考えさせるようなラスト
といったような終わり方が多いのも、やはり「議論の演劇」の時代であるためだと考えられます。
したがって。
そうした作品群に「たった一つの答え」「作家の答え」というものを導入しようとするのは、非常にナンセンスなことなのではないでしょうか。
「たった一つの正解」がないから、人々は議論をすることができるのです。
第2部・まとめ
……いかがでしたか?
作家がその設計図に込めた意図は、とても大切です。
そこを作り手がまったく理解できていないのなら、確かに、それは完全な「別モノ」の作品になってしまうかもしれません。
ですが、それを理解した上で、やはり大切なのは「自由」な読解力、発想力、想像力だと思います。
俳優は、自分なりに解釈を膨らませて、演技として提案する。
リハーサルでは、演出家と俳優同士が、互いをきちんとリスペクトし合いながら。
その自由な解釈を巡って、互いに「議論」をする。
それが本当の「創作活動」だと思います。
【第1部】の記事は、こちら👇
LINE公式アカウント
▼演技講座を配信中【演技向上チャンネル】
▼人気ミュージカル作品を徹底解説【ミュージカル探偵社】