ディズニーズ・アメリカとは何だったのか
ディズニーランドといえば、アメリカ・カリフォルニア州のアナハイムにオリジナルのパークがあり、フロリダ州にはウォルト・ディズニー・ワールドがあり、日本・パリ・香港・上海にそれぞれパークがありますが(リゾートも加えると、ハワイのアウラニもありますが)、以前、アメリカにおいてはバージニア州ヘイマーケットにも新たにパークを建設する計画がありました。それが「ディズニーズ・アメリカ」(Disney's America)です。これはアメリカの歴史をモチーフにしたテーマパーク構想であり、当時ディズニー社のトップを務めていたマイケル・アイズナーの自伝『ディズニー・ドリームの発想』より、ディズニーズ・アメリカにまつわる経緯を引用します。
ディズニー社に入って十年のあいだに手がけた企画の中で、わたしの情熱をもっとも熱くかき立てたのは――そしてもっとも激しい抵抗に遭ったのは――ディズニーズ・アメリカだ。アメリカの歴史をモチーフにしたテーマパークの建設は、ディズニー社が創立以来、子どもと教育に重点を置いてきたことを思えば、ごく自然な流れと言えるだろう。実現すれば、会社の利益と社会の利益が完璧に一致する。このアイディアの種が蒔かれたのは、1991年の夏だった。わたしたちは、準備段階でコストの増大に泣いたユーロ・ディズニーの体験から、もっと規模の小さいテーマパークを建設する方法を考えはじめた。当時のテーマパーク部門担当責任者、リチャード・ヌニスはフランクとわたしに、ヴァージニア州東部にある、植民地時代の生活様式をそのまま復活させた街、コロニアル・ウィリアムズバーグをぜひ訪れてみるようにとすすめた。ヌニスはそこなら、関連したテーマをもったパークの建設が可能ではないかと思っていた。
(中略)
ウィリアムスバーグへもぜひ行ってみたいと思ったが、企業戦略部門が厳しく調査した結果、年間数百万人の入場者があってはじめて経営が成り立つディズニーのテーマパークにふさわしくない場所であることがわかった。
(中略)
1992年の秋、ピーター・ラメルのチームが用地を探しているあいだに、わたしたちはこのテーマパークのデザインを担当するチームを、イマジニアリング部門に作った。責任者には、ディズニーMGMスタジオのときにも同じ任になったボブ・ヴァイスを起用した。
(中略)
1993年春、ラメルのチームが理想的と思える場所を見つけた。ヴァージニア州ヘイマーケットの郊外で、ワシントンDCの都心部とは三十キロほどしか離れていない。
バージニア州は、イギリスが築いた植民地(ジェームズタウン)に始まり、アメリカ建国の歴史においても非常に重要な役割を果たした州です。ディズニーズ・アメリカの建設にあたっては懸念もあり、場所がアメリカ郊外の田園風景が広がる土地であり、地元住民からパーク建設が歓迎されるかどうかという点がありました。バージニア州知事のようにディズニーの進出を歓迎する動きもありましたが、一方でまさにこの懸念が具体化し、ディズニーは障壁に苦戦することとなります。
だが、実際に進めてみると、重要なことをふたつ、過小評価していたことがわかった。ひとつめの失敗は、地域の人々がどれほど深く、自分たちの住む環境をそのままにしておきたいと思っているか、気づかなかったことだ。
(中略)
わたしたちが見過ごしていたもうひとつの問題は、建設予定地から約八キロ離れたマナッサスという町に、南北戦争の戦場跡があったことだ。五年前、ある不動産開発会社が戦場跡の近くにショッピングセンターを建設する計画発表して大論争を巻き起こしたことは、わたしたちも知っていた。(中略)結局、反対派が圧倒的勝利をおさめ、ショッピングセンター建設計画は流れてしまった。
それまでは秘密裏にプロジェクトを進めていましたが、ついに1993年11月、ディズニー社がヘイマーケットにてディズニーズ・アメリカの計画を公式に発表し、その場には記者や政治家、地元住民など150人以上が集まりました。公式発表の場ではイマジニアリング部門責任者のボブ・ヴァイスがディズニーズ・アメリカの完成予想図と縮尺模型を使いながら、パークのテーマランドのイメージを説明しました。ご本人であるボブ・ヴァイス氏(訳の違いでボブ・ウェイスとされることも有)の自伝『Dream Chasing』によると、検討されていたテーマランドやエリアは次の通りです(注:マイケル・アイズナーの自伝では区画の数は7つという記述がありますが、『Dream Chainsg』の記述では9とされおり、後者が正しいのではと推察します)。
CROSSROADS USA 1800 - 1850
ディズニーズ・アメリカにおいてハブとなる場所、ディズニーランドにおいてはいわゆるメインストリートUSAの位置づけ
PRESIDENT'S SQUARE 1750 - 1800
アメリカ合衆国の建国と独立戦争関連のエリア。WDWのホール・オブ・ザ・プレジデンツのディズニーズ・アメリカへの移設も検討
NATIVE AMERICA 1600 - 1810
ヨーロッパによる植民地化以前より、アメリカ大陸で生活していたネイティブ・アメリカンをテーマにしたエリア
CIVIL WAR FORT 1850 - 1870
南北戦争をテーマにしたエリア
WE THE PEOPLE 1870 - 1930
エリス島の移民局に類似した建物を建設。アメリカ合衆国の移民の歴史を扱ったエリア
ENTERPRISE 1870 - 1930
アメリカの産業革命を後押しした工場街をテーマにしたエリア
VICTORY FIELD 1930 - 1945
ライト兄弟の飛行機の発明など、技術が軍事力の進歩に貢献してきた。飛行機、落下傘による降下など、アメリカ軍、関連する技術・機械等を扱ったエリア
STATE FAIR 1930 - 1945
State Fair(移動式遊園地を含む各地で開催されるお祭り)を扱ったエリア
FAMILRY FARM 1930 -1945
古き良きアメリカの農園の暮らしを扱ったエリア
アメリカの歴史を語ろうとすると、独立戦争、南北戦争、第一次・第二次世界大戦など戦争の歴史は避けては通れないため、現在の感覚からするとかなり議論を呼ぶであろうテーマという感があります。また、アメリカの歴史を説明する中でネイティブアメリカンや奴隷制度の扱いなど、センシティブなテーマに踏み込まざるを得ないことは想像に難くありません。実際、ボブ・ヴァイス氏が公式発表の場において、誤解を招きうる説明をしてしまい、同氏の自著では自らの発言を悔やまれる趣旨の記述もあります。
I said this would not be a superficial representation of history. I echoed the discussion about Disney's ability to create emotional yet uplifting presentations of difficult parts of history, such as wars and mistreatments of people.
I gave examples, including one that would set the stage for many controversies to come. "We want you to feel history, to experience it, to feel the exhilaration that an enslaved person might have felt, when escaping to freedom through the Underground Railroad."
(中略)
By the time the newspaper came out the following morning, it was clear that project was off to a very controversial start, and there would be a very rough ahead. The objections came down to three major themes: preservation of nearby battlefield, preservation of the general gateway to the pristine agrarian land of Virginia, and related issues including traffic, increased business and tourists. And finally, content: the general reaction to the creative presentation was that Disney had no credibility to take on the important and serious topic of American history. My quote was quickly summarized as "Disney says they want to make you feel like a slave." I had done my best to represent the thinking behind the project, the strong feelings of my leader. But I had learned a hard lesson that context is everything, that no media outlet is obligated to get what you said right, or clear, and that a simplified quote is what people would remember, especially if it was repeated again and again.
※以下当方にて翻訳
私は、これは歴史の表面的な表現ではないと説明しました。私は、戦争や人々を虐げることといった歴史の難しい部分を、感情的でありながらも高揚感を与える形で表現する力をディズニーが有しているとも説明しました。私は例を挙げましたが、その中には、その後多くの論争の火種となるものもありました。「私たちは、皆さんに歴史を感じて体験していただきたいのです。奴隷にされた人が『地下鉄道』によって自由へと逃れるときに感じたであろう高揚感を感じてもらいたいのです」
(中略)
翌朝の新聞が発行される頃には、このプロジェクトが非常に物議を醸すスタートを切ったことが明らかとなり、前途は非常に険しいものになるだろうと思われました。反対意見は主に3つのテーマに集約されました。近くの戦場跡の保護、バージニア州の手つかずの農地一帯の保護、そして交通量、ビジネスや観光客の増加といった関連する問題です。そして最後に、そもそもとして、ディズニーにはアメリカ史という重要かつ深刻なテーマに取り組むだけの信頼性がないという反応でした。私の発言はすぐに「ディズニーは人々を奴隷のように感じさせたいと言っている」と要約されてしまいました。私はプロジェクトの背景にある考え方やリーダーの強い思いを伝えようと努力したつもりでした。しかし、そのときの文脈がすべてであり、どのメディアも私たちの発言を正確に、あるいは明確に伝える義務はなく、特に何度も繰り返される場合は、簡潔にまとめられた発言こそが人々の記憶に残るのだということを、私は痛烈に学びました。
その後、マイケル・アイズナー、ボブ・ヴァイスたちの努力にもかかわらず、ディズニーズ・アメリカは熾烈な反対運動に遭います。バージニアの穏やかな土地・兵士たちが戦った古戦場跡を保護しようという運動だけでなく、ディズニーがアメリカの歴史を取り扱うことのそもそもの是非について、歴史学者も巻き込んだ論争が生じました。そして最終的にはマイケル・アイズナーの決断のもと、ディズニーは1994年9月にバージニアからの撤退、ディズニーズ・アメリカから手を引くことを決めました。アイズナーの自伝によると、決断に至った理由はいくつかありますが、ディズニーズ・アメリカ反対派の抗議運動・訴訟に対抗するための弁護士やロビイストの費用が長期化により嵩んできたこと、ユーロ・ディズニーの状況も鑑みてチケット代を設定するとディズニーズ・アメリカでは収益が想定ほどには見込めないこと(現地の気候に応じた冬の休業期間の影響も有)等がありました。そのほか、フランク・ウェルズの死、アイズナー自身の健康問題(心臓のバイパス手術)、(ディズニー社の幹部である)ジェフリー・カッツェンバーグとの確執等の諸々の事情もあったようです。金銭的にも心理的にもこれ以上会社を傷つけるのはフェアではない、と考えての判断でした。
マイケル・アイズナー自身も回顧しているように、そもそも「ディズニーズ・アメリカ」という呼称も良くなかったかもしれません。"Diseny's America"、つまり「ディズニーのアメリカ」ということで、あたかもアメリカの歴史はディズニーのものだといっているような響きがありました。アメリカの歴史をディズニー的に解釈して、それをディズニーバージョンのものとして再現するのではないかと誤解される余地がありました。


日本だと全国で誘致合戦になりそうだけど、アメリカ国内で苦戦するのはなかなか意外ですね。
コメントありがとうございます。 日本でいうと、京都あたりに日本の歴史をモチーフにディズニー化したパークを作るイメージかもしれません。一定数は反対される方はいらっしゃりそうです(笑) アメリカ国内においては、ちょうどウォルトが亡くなる前後くらいの時期に、パークではないものの、ディズ…