宮城喜久子氏の講演
過去の資料を読んでいると、記事として書き残しておきたいことがたくさん出てくる。この講演を聞いた生徒、このプログラムに参加した生徒は、どんなことを思って感想を書いたのだろうかと、思いを馳せながら読んでいる。
これは学校の教育としておかしいんじゃないかと思う部分が多々ある中で、私が個人的に本当に心をえぐられながら平和を考える内容もある。その代表となるのが、宮城喜久子氏の講演。
宮城喜久子氏は、元ひめゆり学徒隊に参加した方で、負傷兵の看護にあたった経験を持っている。その当時の壮絶な経験を、優しい言葉や生々しい表現を織り交ぜながら語り、悲惨な戦争体験を生徒に伝えつつ、政治的な思想や発言を極力避け、ありのままを伝えるだけで、生徒は戦争の悲惨さと平和のありがたさを考えざるを得ないという内容となっている。
宮城喜久子氏は2015年2月に逝去している。逝去を嘆き今後の平和教育を憂う言葉が、同志社国際の先生の言葉として文集に複数残っている通り、平和教育の語り部として代えの効かない存在だったことがうかがえる。
一度フラットな視点に立ち返って平和教育を考えるためにも、宮城氏の話の内容を簡単に紹介しておこうと思う。
宮城氏はひめゆり学徒隊に参加している。
13歳、沖縄県立第一高等女学校(ひめゆり学園)に入学。学校は国際通りの一角、安里にあった。入学してから16歳で戦場に行くまでの4年間、友達と何気ない日常を過ごす、普通の学生だった。アメリカの映画に感動し、英語が好きで一生懸命単語を勉強し、図書館で「風と共に去りぬ」を借りて読む。国際通りを友達とおしゃべりしながら通い、本屋やお菓子屋に寄り道する。クラブ活動もやっていた。首里城の守礼の門のそばで写真を撮ったり、鬼ごっこをしたり、昆虫採集をしたり、楽しい日々だったと語っている。
ひめゆり学徒隊への動員
16歳のある夜10時ごろ、突然先生たちから「すぐ準備して校庭に集まれ」と告げられる。歌を歌いながら南風原陸軍病院へ向かった。「皆、生きて帰るつもりでした」——ラジオや新聞で「神国日本は一度も戦争に負けたことがない」と教え込まれていたため、誰も死ぬとは思っていなかった。
病院では砲弾が24時間やまない中で看護活動にあたり、水汲み、飯揚げ、切断された手足の運搬など、壮絶な3ヶ月を過ごす。同学年の学友211名が10代のまま命を落とした。親友のやす子さん、みっちゃん(仲里光子さん)も戦場で亡くなった。1945年6月21日、彼女は米軍に収容される。
戦後と証言活動
あまりにも辛い体験から、終戦後30年以上にわたり、ひめゆりの塔にも行けず、慰霊祭にも参加できなかった。小学校教師として働きながら、生徒にもひめゆりの話を一切しなかった。「忘れようとしたことが、戦争の風化を招いた」——40年後に戦場跡を訪れ遺骨の山を目にして、深く反省したという。
59歳のとき、ようやく体験談を語り始める。
この講演を聞いた当時の学生も、自分と年が変わらない普通の高校生が、突然戦争に巻き込まれ、今までと全く違う悲惨な体験をすることになったことを、等身大の出来事として受け止めざるを得ず、生徒の感想にもその心の動きがよく書かれている。
私自身は、正直辛かった。宮城氏と知華がどうしても重なり合う。
戦争体験と比べてはいけないかもしれないし、たくさんの死を目の当たりにした宮城氏と、実際に命を失ってしまった知華と、その親の私とで立ち位置もそれぞれ違うとわかっていても、胸に釘を打ちつけられる思いだった。
13歳でひめゆり学園に入学して、英語が好きで、友達と笑って、くだらないことでおしゃべりして、何の疑いもなく幸せな毎日を送っていた。それが16歳で、突然終わる。
知華も12歳で同志社国際中学に入学して、普通に楽しい毎日を送って、それが17歳で突然終わってしまった。
私がnoteに「幸せな日々はずっと続くものと思っていました」と書いたとき、自分の言葉のつもりだった。それと全く同じ言葉を、宮城さんの講演記録の中で見つけてしまった。
2024年3月の沖縄研修旅行の冊子で、当時の戸田校長はこう書いている。
元ひめゆり学徒隊の先生は、「私たちの日常と同じように教室で授業を受け、夢を語っていた友達が、その未来を奪われていった様子を語られた。当たり前だと信じている日常が崩れ去る。それは今この社会でも簡単に起こりうるという警告が、彼女のメッセージだった。」
まさにそのことが今起きたじゃないかと。こんなことは簡単に起こってはいけないのに。戦時中でもないのに。
宮城氏は生徒に伝えた。当たり前の日常が、ある日突然終わることがある。それは今この社会でも起こりうると。学校はその言葉を教材にし、生徒に届けた。
では、その言葉を届けた学校自身は、その重みをどう受け止めていたのか。
宮城喜久子氏の語る命と平和学習の重み。
その言葉を借りながら生徒の命の管理を人任せにした学校の軽さ。
この対比はどうしても消化できない。
知華と重ね合わせて読んでしまう個人的な心情を抜きにしても、やはり戦争体験者の言葉の迫力と重みは凄まじいものがある。
金井創氏が開会礼拝を担当する以前は、金城重明氏が開会礼拝を行なっていた。この方の体験も筆舌に尽くしがたいものがある。宮城氏と比較すると政治批判が含まれることもあったが、両者の話は、ストレートに戦争なんてない方がいいということを伝える、何よりも強い教訓であり、ではどうするかを考えるための土台として大変意義のあるものだと感じた。
複数人の先生も文集に寄せているが、戦後80年以上が経ち、戦争体験者からの生の声を聞くのが難しくなった今、誰がどういう目的で平和を語り、教えていくのか。その移行はうまくいったのか、いっていないのか。
とりわけ教育現場においては、戦争体験者に代わり平和を語る者たちが、特定の政治活動や思想を一方的に語るものと密接に繋がっていないかを、今このタイミングで検証して欲しい。
平和を教えようとする立場にある組織から、「平和教育は問題がない。」「平和教育の歩みを止めてはならない。」という趣旨の声明が複数出ている。事故後間もない時期に、平和教育の実態を再検証もせずにそう言い切った根拠はなんなのか。示して欲しい。
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読み終えて放心してしまいました。お父上様が悲しみの中、ひめゆりの方の講演を読まれ、胸のえぐられるような思いをしつつも、大人の都合で突然謳歌すべき青春を絶たれたことに重ね合わせていることに、私たち大人が、ただのスローガンを次世代に教えるのではなく、真剣に平和を構築するための深い知恵…
全国各地に戦争の記憶が語り継がれているはずですので、広島・沖縄などに偏らずに、自分の住む地元・地域から丁寧に発掘して対話を育んでいくと、日本の全国各地から世界に多彩な多様な平和の輪が広がっていくのではないでしょうか。
更新ありがとうございます。 先日、件の抗議団体代表が、某新聞社主催の「語り部を拵える」勉強会にて発言した内容が漏れ聞こえ、物議を醸していました。 戦後80年余り、戦争経験者がどんどん鬼籍に入ってしまった昨今、過去に経験者が語った言葉をそのまま紡いで行く事が、残された我々が行える「語…
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