http://tsigeto.info/covid19/book/ch05.html
田中重人 (東北大学)
2026-05-20 20:53
専門家会議のいう「クラスター対策」とは、1か所で起きた大規模感染 (SSE) の探索に特化した積極的疫学調査のことである。具体的な方法としては、さかのぼり調査によって、複数の感染者に共通する感染源を特定する (3章参照)。日本の保健所はこの方法をとることで通常の前向き調査では発見できない大規模感染を発見しており、感染拡大防止に優れた効果を上げてきた、というのが専門家会議 [380] の主張であった。
だが、積極的疫学調査は保健所がおこなうものであり、専門家会議が担当していたわけではない。保健所を指揮するのは直接的には自治体であるが、その活動の法的根拠は地域保健法や感染症法などであり、厚生労働省が全体的な管理をおこなっている。実施に関する技術的事項は国立感染症研究所が統括しており、そのための指示を作成・配布していた。そして4章で見たように、積極的疫学調査の標準的なマニュアルとして国立感染症研究所が作成する「積極的疫学調査実施要領」では、「クラスター」の定義自体が専門家会議とはちがっており、大規模感染を特に重視しない姿勢であった。サーベイランス体制を実際に稼働させていた政府官僚組織は、専門家会議とおなじ用語を使いながら、ちがう解釈を採っていたことがわかる。そうすると、「クラスター対策」についても政府官僚は専門家会議とはちがう発想を持ち、ちがう「クラスター対策」を実行していた可能性がある。
専門家会議は自らの主張を裏付けるデータを示してこなかったので、さかのぼり調査で発見した感染事例がいくつあるかは不明であった。断片的なエピソードを取り上げた文献はあるものの、それらはごく少数の事例について述べるのみであり、また根拠が薄弱である。広野 [70: 49] は北海道北見市の展示会や大阪府大阪市のライブハウスでのクラスターを「後ろ向き調査」(「さかのぼり調査」と同義) で見つけたとするが、根拠は何も挙げていない。尾身 [281: 266] は後ろ向き調査が大阪や名古屋でクラスター対策として機能したとするが、どの事例を指しているかは定かでなく、また根拠も示していない。 Furuseほか [51] は、12人がパーティーで感染した事例1件だけを、後ろ向き調査 (backward contact tracing) で見つかったものとして紹介している。 Furuseほか [51] は、この事例以外に、最初に発見された感染者よりも発症日の早い感染者が後から発見された case-clusters(1) を11件挙げて後ろ向き調査の効力を示す例としているのだが、それらが実際に後ろ向き調査で見つかったとは書いていない。
本章前半では、専門家会議のいう「クラスター対策」に該当する方法で感染を発見した例が実際にどれくらいあったかを、データから検証する。具体的には、2020年3月末までに発見された「クラスター」を取り上げ、当時の資料から、感染が起きた場所等に保健所がどうやってたどり着いたかを推測する(2)。
そして本章後半では、積極的疫学調査に関する文書の記述から、政府が「クラスター対策」についてどのような認識を持ち、どのような指示を出していたかを検討する。そうした文書を検討しなければ、積極的疫学調査が実際にどのようにおこなわれていたかはわからない(3) のである。
まず、「クラスター対策」が実際おこなわれていたのかどうかを検証する。出発点となるのは、2020年4月2日に厚生労働省が発表した「全国クラスターマップ」3月31日版 (図表5.1) である。これは3月15日、17日の「全国クラスターマップ」(4章参照) の改訂版にあたるもので、3月17日版とおなじく、「同一の場において、5人以上の感染者の接触歴等が明らかになっていることを目安として」[166] 認定した「クラスター」を日本地図上に記載する。ここに載っている26個が、2020年3月末までに日本政府が把握していた「クラスター」だということになる。
この時期はまだ緊急事態宣言前であり、日々発見される感染者数もそれほど大量ではなかった。発見された感染者について、各自治体がその都度資料を発表していた。そうした資料や記者会見内容、独自の取材などに基づいて、個別の感染事例の詳細を新聞やテレビが報道していた。感染が起きた施設などが、自ら経過を説明した文書を公表した例もある。積極的疫学調査の結果などを利用した論文が、後に出ていることも多い。
それら資料をかき集めて、「全国クラスターマップ」に載っている事例について、つぎのような情報を特定する。
「全国クラスターマップ」(3月31日版) [166] 掲載の26件のクラスターについて、当時の報道などから同定作業をおこなった。これらのうち、つぎのふたつについては、同定が困難であった。
群馬県の医療機関で2件のクラスターが発生したことになっているが、該当する事例は1件しか見当たらない。これについては、群馬県域の地方紙である『上毛新聞』が、4月5日の記事で、群馬県内でのクラスターは1件しかなく、2件と書いたのは厚生労働省の間違いだとしている [96]。本稿でもこの見解を採用して、群馬県でのクラスターは1件だけだったと考えた。
東京都では、医療施設と飲食店で4件のクラスターがプロットされている。医療施設2件と飲食店1件はすぐに見つかったが、もう1件は該当する事例が見つからなかった。これについては、東京都中央区の病院での5人の感染者が4月1日までに報告されている [131] ので、これであろうと考えた。
結果として、以下の分析で対象とするクラスターは25件となる。
これら25件のクラスターについて、資料を探索して、必要な情報を集める。
特に重要なのは、大規模感染が起きた場所やイベントを発見するまでにおこなわれた積極的疫学調査の経緯である。これは2次感染を探す前向き調査だったのか、感染源を探すさかのぼり調査だったのかを分類するためだが、情報がじゅうぶん公開されていないことが多い。そこで、以下の方針で、分類を確定させていくことにした。
まず、その場所やイベントを見つけた探索の過程を、つぎの3種類にわける。
これらのうち、「発症後」の接触歴/行動歴調査は、前向き調査だったと考えてよい。しかし、ほかの2種類の場合は、前向き調査に分類すべきかさかのぼり調査に分類すべきかは、個々の事例をくわしく見て判断する必要がある。第1の理由は、コロナは発症前から感染力を持つため、積極的疫学調査においても、感染源ではなく2次感染を探すために (つまり前向き調査の一環として) 発症前の行動を追っていたケースがあることだ。実際、4月20日になって、発症2日前から「濃厚接触者」調査を始めるように「積極的疫学調査実施要領」が書き直されている [国立感染症研究所 139]。第2の理由は、クラスター発生場所に発症前にいた人と発症後にいた人の両方が見つかっていて、どちらの調査によってその場所を発見したかが不明の場合、当時の記録をくわしく見て推測をおこなう必要があるからである。そこで、「発症前」「混合」に当てはまる場合は、事例ごと検討を個別におこなう。
クラスターを発見すると感染拡大防止に寄与するというのは、そこで見つけた多数の感染者を隔離することで、感染が連鎖して広がっていくのを食い止められるからである。この効果がどれくらいあったかを把握するため、発見できた感染者をカウントする(4)。クラスターに結び付いて見つかった感染者数の全体を知りたいので、大規模感染が起きたその場での感染者だけでなく、そこからつながった2次感染、3次感染などもすべて数える。ただし、別々のクラスターとして見つかったものが実はつながっていたことが後になってわかった例(5) はふくめない。あくまでも、当該クラスターに関連する調査で何人の感染者を見つけたかを知りたいのである。
この感染者数のカウントにあたっては、4月になってから見つかった感染者もふくめる。これは、3月31日までという期間を区切ってそれまでに見つかっていた感染者数を正確に知るのはむずかしい事例があるからだ。そのクラスターから広がった感染の連鎖が終息したと判断されたときにまとまった発表や報道があることが多いので、そうした情報を利用している。複数の情報源があって人数が食い違う場合には、多いほうの人数を採用した。
25のクラスターを同定して情報を収集した [Tanaka 415]。これらは、都道府県・市区町村をあらわす自治体コード (5桁) とクラスターの発見日付 (4桁) をつないだID(6) によって識別する。概要を図表5.2に示す。
これらのうちいくつかは、複数の場所での5人以上の感染をふくむ。たとえば27100-0302は大阪府の4つのライブハウスでの感染をふくんでいる。 21214-0326では、岐阜県の合唱団とスポーツジムでそれぞれ5人以上の感染が起きている。「全国クラスターマップ」[166] は、これらはひとまとまりの「クラスター」としている。本章のデータでも、これと同様のあつかいとした(7)。
全25件のうち15件は病院と福祉関連のクラスターであり、これらに連なる感染ネットワークの規模は合計614人である。これらのクラスターはすべて感染者の「発症後」の接触歴/行動歴から見つかっており (図表5.3(a))、前向き調査によるものと考えてよい。
病院/福祉関連以外のクラスターは、10件である。そのうち3件 (スポーツジム、ライブバー、卓球スクール) は「発症後」の接触歴/行動歴によって発見されており (図表5.3(a))、前向き調査で見つかったものとみなせる。のこるのは、「発症前」(図表5.3(b)) または「混合」(図表5.3(c)) の7件である。これらは、さかのぼり調査によって見つかったものである可能性がある。以下、それぞれ検討していくことにする。
まず、感染者の「発症前」行動歴の探索で見つかった4件のクラスターを見てみよう。
発症前と発症後の探索の「混合」である3件については、以下のとおりである。
以上の判断を経て、さかのぼり調査で発見されたといえるクラスターは、宮城県の飲食店 (04100-0331)、東京都の屋形船 (13100-0215)、岐阜県の合唱団・スポーツジム (21214-0326) の3件となる。これらのクラスターに関連する感染者数の合計は、77人である。のこる22件のうち、病院/福祉関連が上記のように15件を占めていて、関連する感染者は614人。それ以外のクラスターで、前向き調査で見つかったものが7件、関連する感染者は263人である。
3月31日 (正午) までに日本国内で発見された全感染者数(11) は、厚生労働省 [165] によれば1953人である。上記のクラスター関連の感染者数合計は954人なので、それ以外の感染者は999人ということになる(12)。ただし全感染者のうち15人は武漢から政府チャーター機で帰国、51人は空港検疫で発見したもので [165]、保健所の介在なしに検査を受けている [西嶋康浩 257] [田中一成 410]。これらを999人からのぞくと、933人となる。
3月15日 (正午) まで、2月29日 (正午) までに日本国内で発見された全感染者数は、それぞれ780人 [159] と230人 [157] である。 図表5.2を見ると、クラスターのうち、3月15日までに見つかっていたのは28214-0315までの14件 (計394人)、2月29日までに見つかっていたのは01208-0228までの4件 (計89人) である。そうすると、クラスター関連以外の感染者数はそれぞれ386人と141人になる。政府チャーター機帰国者と空港検疫で見つかった感染者をさらにのぞくと、それぞれ368人と126人である。また、クラスターのうち、病院/福祉関連がそれぞれ7件 (計171人) と1件 (11人)、病院/福祉以外で前向き調査で見つかったものがそれぞれ6件 (計198人) と2件 (計53人)、病院/福祉以外でさかのぼり調査で見つかったものが1件 (25人) である。
これらの情報に基づいて、各時点までの感染者数の内訳を示したのが図表5.4である。
図表5.4からわかるように、2020年3月31日までに日本で見つかったコロナ患者の約半分は、クラスターとの関連がない。医師の総合的判断 (3章参照) に基づく要請などで感染者が検査を受けて新たに見つかった場合、保健所ではその新規感染者をインデックス・ケースとした積極的疫学調査をおこなうことになる。その結果としてクラスターが見つかることは、実はあまり多くないのだ。 2次感染や感染源が全然見つからないこともあり、ごく小さい感染ネットワークだけ見つけてそれで終わることもある。小規模な感染を繰り返して長く延びた感染のネットワークが見つかった場合 (たとえば4章で取り上げた大分県の飲食店のようなケース) も、1か所で5人以上が接触していなければ「全国クラスターマップ」[166] には載らない。クラスターマップに載らないような小規模な感染 (の連鎖) が大部分を占めているということは、日本で1月から3月に見つかったコロナ患者の多くは、1か所で大勢が感染するSSEではないかたちで発見されていたということである。
つぎに多いのが、病院や福祉施設のクラスターである。それらに関連する感染者は、最初は少なかったが、次第に増加し、3月末までに見つかった全感染者の3割を占めるようになる。病院や福祉施設で大規模感染が発見される典型的な過程のひとつは、職員が発熱するなどして検査を受けて感染していたことがわかり、発症後に出勤していたために、勤務先が調査対象となるものである [朝日新聞 15] [つくば市 429] [つくば市 430]。病院の場合には、肺炎などの症状を起こした入院患者の検査によって感染が確認され、濃厚接触者にあたる同室の患者や医師・看護師などを検査してさらに感染者が見つかることも多い [毎日新聞 199] [三和護 214]。いずれの場合も、調査の過程は、発症後の接触者を調べることによって2次感染を探す、前向き調査の方法であったと考えることができる。「全国クラスターマップ」3月31日版記載の病院・福祉関連クラスター15件は、すべてそうした前向き調査で見つかったものであった。
これらをのぞいた10件のクラスターのうち、7件は前向き調査によって見つかっている。これらに連なる感染者の合計人数は263人で、全感染者の約1割にあたる。うち2件 (23100-0222, 26100-0329) は感染者の発症前日や前々日の行動歴から発見されているが、それらについては、コロナはまだ症状のない潜伏期間中から感染性を発揮することを勘案して2次感染者を探索した前向き調査であったと判断した。また、当該のイベントに発症3日以上前に参加していた感染者を先に見つけていた事例 (27100-0302) がある。だがこれも、当該イベントについて言及されるようになるのは、発症後にイベントに参加していた別の感染者を発見して以降のことなので、さかのぼり探索で感染源を見つけたわけではなく、前向き調査で2次感染を見つけたものとみなした。
なお前述のように、広野 [70: 49] は、北海道北見市の展示会と大阪府大阪市のライブハウスのクラスターを、さかのぼり調査で見つけたものとしている。しかし、公表資料の時系列 (01208-0228, 27100-0302)では、当該のイベント (展示会あるいはコンサート) が浮上したのは、発症後にイベントに参加していた感染者が見つかったあとのことである。尾身 [281: 266] が言及する大阪と名古屋についても、該当しそうな例は見当たらない。
結局、さかのぼり探索で発見したとみられるクラスターは3件 (13100-0215, 21214-0326, 04100-0331) しかない。そのうち13100-0215 (東京都の屋形船) は、Furuseほか [51] が触れたパーティーでの12人感染の事例に似ているが、細部が異なるので同定できない。これら3件に関連する感染者数は合計77人なので、全感染者数1953人中の1割にも満たない。
以上の知見から、日本の保健システムがコロナ第1波において流行を防ぐためになした貢献があったとするなら、それはまずもって小規模な感染を見つけてまわることだったといえる。一方では大規模な感染も発見してはいるのだが、それらの大部分は病院や福祉施設内部で感染が広がったものである。こうした施設では脆弱性が高い入院患者や入所者の間で感染が広まり、多数の死者を出すことも多いが、その反面、入院・入所している間は施設外に出ることがあまりない。このため、感染者数の巨大さの割には、外部に感染が連鎖していく可能性はさほど高くない(13)。専門家会議が感染拡大を引き起こす「クラスター」として警戒していたのは、このような病院や福祉施設内部での限定的な感染事例ではなく、健康で活動的な人たちが大量に感染し、その人たちが別の場所で感染を広げていくような事態 [367] だったはずである。だが、病院と福祉施設をのぞいてみると、「クラスター」に連なる感染者は、実際にはそれほど多くない。それよりも、「クラスター」関連でない感染者のほうがずっとシェアが大きい。
そして、専門家会議 [380] が想定していたような、独立に見つかった複数の感染例の発症前行動歴を保健所が照合して共通の感染源を推定する、という手続きで発見したクラスターはない。さかのぼり調査による発見だったといえるクラスターは3つあるのだが、それらのうちひとつ (東京の屋形船の事例) では、感染者がひとり見つかった段階(14) でさかのぼり調査を開始している。岐阜県のスポーツジムと合唱団のクラスター (21214-0326)では、最初に見つかった感染者の配偶者を濃厚接触者として調査した結果、夫婦の行動歴をセットで得ているので、独立の感染例から共通の感染源を発見したわけではない。宮城県の飲食店でのクラスター (04100-0331) の場合、最初に見つかった感染者の情報が公表されたのを見て、心当たりのある市民が帰国者・接触者相談センターに相談したことで場所の特定が進んだものであり、保健所が行動歴を照合して共通の場を発見したのではない。これら以外にさかのぼり調査でクラスターを見つけた事例はない。つまり、専門家会議が日本の「クラスター対策」の特徴として強調してきたとおりの手法で感染源を特定した例は、1件もなかったのである。
3章で説明したように、専門家会議が喧伝してきた「クラスター対策」とは、複数の感染者に共通する感染源を探すことにより、特定の場所やイベントでの大規模感染を特定する、というものである。これは結核などの感染源の探索のために発展してきた方法であり、日本の保健所では、そのために複数の感染者の行動歴を照合する仕組みが機能しているのだという。これが「クラスター対策」についての、いわば「公式」の説明である。
だが、ここまでデータをみてきたとおり、3月末までに発見されていたクラスターの探索過程には、この「公式」の説明は当てはまらない。全25クラスターのうち、さかのぼり調査によって捕捉した例は3つしかない。それらについても、別々に発見された感染者の行動歴を照合してさかのぼり調査でクラスターを発見する仕組みが機能していたとはいえない。
もっとも、話はここでは終わらない。「クラスター対策」ということばは、専門家会議によるのとは別の意味で、積極的疫学調査の現場で使われてきたからである。
1章で見たように、疾病のサーベイランス体制はコロナ以前から構築されてきたものである。各地の保健所が直接的な担当であるが、それを中央政府の厚生労働省が統括している。疑わしい症例を発見した時の検査等の基準や積極的疫学調査の手順などの専門的な事項については、国立感染症研究所が出す指示が標準となっている。
コロナの積極的疫学調査については、1月17日に国立感染症研究所が最初の標準的マニュアル「積極的疫学調査実施要領」[132] を作成した。このマニュアルは、専門家会議等が発足した2月以降も、引き続き国立感染症研究所が管理し、改訂をおこなっている。その2月27日改訂 [136] で、「クラスター」の定義などを盛り込んだ (4章)。
さらに、4月20日の改訂 [139] では、「新型コロナウイルス感染症におけるクラスター対策の概念」として、つぎのとおり「クラスター対策」の目的を述べている。
実際に各地で行われてきた新型コロナウイルス感染症に対するクラスター対策は、可能な範囲での感染源の推定 (さかのぼり調査)、及び感染者の濃厚接触者の把握と適切な管理 (行動制限) という古典的な接触者調査を中心としている。クラスターの発端が明確で、かつ濃厚接触者のリストアップが適切であれば、既に囲い込まれた範囲で次の感染が発生するため、それ以上のクラスターの連鎖には至らない。
——国立感染症研究所「積極的疫学調査実施要領」4月20日版 [139: 1]
4章で論じたように、積極的疫学調査における「クラスター」とは、感染ネットワークのことである。ある感染者が、病院で診察を受けるなどして、たまたま見つかったとしよう。保健所は、その人はどこで誰から感染したのか (感染源)、また感染したあとに誰にうつした可能性があるかを調査することによって、感染のネットワークすなわち「クラスター」を追う。その調査によって、うつした可能性のある人を「濃厚接触者」として全員リストアップできれば、それらの人の行動を制限して、さらに感染が広がることを防止できる。
この引用中、「クラスターの発端が明確で」とある部分は、意味がとりにくいかもしれない。これは、それぞれの地域の保健所が積極的疫学調査を担っていることとあわせて考えると、理解可能である。感染者が発見されて調査を進めていく場合、つながった感染者の最初 (=発端) に位置していたのは誰か、ということが問題になる。現在までにわかっている範囲での最初の感染者がとりあえずいるはずであるが、今後調査が進めば、その人に感染させた別の感染者が発見されるかもしれない。その場合、その新しく発見された感染者から枝分かれした別の系統の感染者集団が、見逃されたまま感染を広げている可能性がある。しかし、現在わかっている最初の感染者が別の地域で感染してからその地域に入ってきた場合、「別の系統」がその地域に入ってきていなければ、その地域の感染状況には影響しない。「発端が明確」とはおそらくそのような意味である。その場合、現在観察できている「発端」はその地域での本当の発端、すなわち primary case [Giesecke 52: 14] だったとみなしてよく、その地域にウイルスが侵入してきた最初のところをとらえていることになる。
このように、積極的疫学調査における「クラスター対策」は、その地域における発端からの感染のつながりをすべて抜かりなく同定することで、感染ネットワークの全体を洗い出して拡大を止める、という遠大な理想を掲げていた。この方向を目指しておこなわれる積極的疫学調査のことを「理想」のクラスター対策と呼ぶことにしよう。「理想」のクラスター対策は、「公式」のクラスター対策とは異なり、大規模な感染の調査を優先するわけではないし、小規模な感染は見逃していいとも考えない。そもそも、感染が大規模かどうかの区別を重視しないのである。
とはいえ、保健所は本当にすべての感染ネットワークを洗い出せていたわけではない。できていたなら、すぐに流行は終息したにちがいない。全感染者のすべての行動歴と接触者を調査するというのは保健所の調査能力をはるかに超えた話であり、実際の感染ネットワークの探索はもっと狭い範囲に限定されていた。実際に現場でおこなわれていたこのような調査のことを、「現実」のクラスター対策と呼ぼう。これは、つぎのふたつの原則でおこなわれていた。
「積極的疫学調査実施要領」は、1月17日 [132] に作成された後、1月28日 [134] と2月6日 [135] に改訂されている。これらのいずれのバージョンも、さかのぼり調査については「「患者 (確定例)」について、基本情報・臨床情報・推定感染源・接触者等必要な情報を収集する」としか書いていなかった。このため、感染者の過去の接触歴をたどっての感染源の推定をどうおこなうかは各保健所の判断次第であった。実際のところ、図表5.2からわかるように、「実施要領」が改訂される2月27日までに感染源の推定によって大規模感染を発見した例は1件しかない (一方で2次感染の探索によって発見した大規模感染は2件ある)。感染源の推定は感染者発見にあまり寄与していなかった可能性が高い。
その後、2月27日改訂で、「実施要領」につぎの2項目が追加される。
〇感染源推定については「患者 (確定例)」が複数発生している場合には、共通曝露源について探索を行い、感染のリスク因子を特定した上で、適切な感染拡大防止策 (共通曝露をうけたと推定される者への注意喚起を含む) を実施する。
○感染源推定については、患者クラスター (集団) の検出と対応という観点から、リンクが明らかでない感染者〔患者 (確定例) など〕の周辺にはクラスターがあり、特に地域で複数の感染例が見つかった場合に、共通曝露源を後ろ向きに徹底して探していく作業の重要性、必要性があらためて強調される。これらは地域の、ひいては日本全体の感染拡大の収束に直結している。
——国立感染症研究所「積極的疫学調査実施要領」2月27日版 [136: 3] 〔 〕は原文通り
感染源の推定に関して、「「患者 (確定例)」が複数発生している場合」に限定して、「共通曝露源について探索を行」う、という指示が入った。前述のように、東京の屋形船の事例 (2月15日発見) では患者をひとり見つけた段階でその曝露源を探索していたのだが、この2月27日改訂で、そうした探索方法をとりにくくなった可能性がある (事実、感染者ひとりからのさかのぼり調査で感染源を発見する例は、それ以降出ていない)。また、「複数の感染例が見つかった場合に、共通曝露源を後ろ向きに徹底して探していく」との記載はあるものの、それをどう実現するのかはよくわからない。共通曝露源を探すには、新しい感染例の行動歴の調査結果がわかるたびに既知の感染例の行動歴と照合し、共通の場所が出てこないか調べる仕組みが必要である [Nishimura 258]。本章でみてきたように、3月末までに判明した大規模感染発見事例においては、そのような行動歴照合システムが機能していたようにはみえない。
その上、そもそも感染源は積極的疫学調査の「対象」ではないという根本的な問題がある(15)。
●「患者 (確定例)」とは、「臨床的特徴等から新型コロナウイルス感染症が疑われ、かつ、検査により新型コロナウイルス感染症と診断された者」を指す。
〔……〕
●「濃厚接触者」とは、「患者(確定例)」が発病した日以降に接触した者のうち、次の範囲に該当する者である。
〔……〕
〇積極的疫学調査の対象となるのは、上に定義する「患者 (確定例)」および「濃厚接触者」である。
——国立感染症研究所「積極的疫学調査実施要領」2月27日版 [136: 1-2]
積極的疫学調査が対象とするのは、その出発点 (インデックス・ケース) となる「患者 (確定例)」と、その患者が発病した日以降の「濃厚接触者」だけである。さかのぼり調査で感染源を見つけるには潜伏期間以前の調査対象者の接触歴をたどって調査を進めていく必要があるが、「実施要領」はそのようなことは想定していない。患者から聞き取った情報で感染源と推定される人を見つけた場合でも、その人は調査対象にはならないし、検査をおこなって感染を確認する手続きもないのだ(16)。その先にさらにつながっている1世代前の感染源や、そこから枝分かれして延びていく後続世代の2次感染、3次感染等の連鎖についての調査も規定されていない。「実施要領」に依拠する限り、感染源は「推定」するのみであって「調査」の対象ではない。そこから感染者のつながりを追って感染の広がりを防ぐこともしない仕組みなのである。
さかのぼり調査の優先度は低かったと考えてよいであろう。保健所の調査の実際について報告した文献のなかでは、大阪市健康局健康推進部保健主幹の松本珠実 [208] が「感染経路を追跡調査することは、クラスターの早期発見につながり、感染拡大を防ぐために重要」と述べ、大阪市内で「24区の統括保健師を集め、クラスター対策の医師から、後ろ向き調査がいかに大事かを話してもらったり」したという試みを紹介しているが、具体例として挙げているのはライブハウスのクラスターであり、これは前述のように前向き調査で発見されている(17)。日本各地の保健所の活動をまとめた白井ほか [387: 297] は、「遡り調査」について「新型コロナウイルスの感染可能期間は発症前2日からという特徴を踏まえ」たものとしており、推定感染源に対して調査を進める方法とはとらえていなかったようである。その他の書籍 [328] [65] [106] [390: 184-238] [63] や雑誌記事 [97] [440] [435] [8] [312] での保健所の業務の説明には、さかのぼり調査による大規模感染の発見に力を入れていたという記述はない。
前向き調査はこれとは異なり、発病した場合に検査をおこなって感染を確認し、つぎの世代の調査に移るという手続きが明確に規定されている。これは、コロナについての積極的疫学調査の方法が最初に指定された1月17日の時点で、そうなっていた。
○事前に「濃厚接触者」に対し、最終曝露から14日間、健康状態に注意を払い、37.5℃以上の発熱、または急性呼吸器症状がでた場合、医療機関受診前に、保健所へ連絡するようにお願いする。
○「濃厚接触者」については、37.5℃以上の発熱、または急性呼吸器症状がでた場合、検査対象者として扱う。
——国立感染症研究所「積極的疫学調査実施要領」1月17日版 [132: 2]
濃厚接触者がきちんと協力してくれれば、症状が出た時点で検査をおこなうことができる。結果が陽性であればその濃厚接触者は「患者 (確定例)」となるので、さらにその濃厚接触者をリストアップして調査対象とする。このような再帰的手続きを繰り返して、新しい感染者が見つからなくなるまでつづけるわけだ。
問題は、何をもって「濃厚接触者」とみなすかの基準である。 1月17日「実施要領」では以下のようになっている。
●「濃厚接触者」とは、「患者 (確定例)」が発病した日以降に接触した者のうち、次の範囲に該当するものである。
i. 世帯内接触者:「患者 (確定例)」と同一住所に居住する者
ii. 医療関係者等:個人防護具を装着しなかった又は正しく着用しないなど、必要な感染予防策なしで、「患者 (確定例)」の診察、処置、搬送等に直接係わった医療関係者や搬送担当者
iii. 汚染物質の接触者:「患者 (確定例)」由来の体液、分泌物 (痰など (汗を除く)) などに、必要な感染予防策なしで接触した者
iv. その他:手で触れること又は対面で会話することが可能な距離 (目安として2メートル) で、必要な感染予防策なしで、「患者 (確定例)」と接触があった者等
——国立感染症研究所「積極的疫学調査実施要領」1月17日版 [132: 1]
まず「患者 (確定例)」が「発病した日以降に接触」していなければならないので、発病前日までの接触は該当しないことになる。前述のように、濃厚接触者の定義を発病前2日くらいまで拡大して適用していた例はないわけではないのだが、それは特定の自治体の自主的判断である [朝日新聞 325]。たいていの自治体は、標準的なマニュアルに準拠して、発病日以降の接触しか調査対象にしなかったと考えておいたほうがいい(18)。この状態は、4月20日に「実施要領」が改訂 [139: 2-3] されるまでつづく。
もうひとつの問題は、「iv. その他」の条件がきわめて厳しいことである。 2メートル以上離れていれば、あるいは感染予防策 (要するにマスク) さえあったなら、濃厚接触者にはあたらないことになる。 2章で紹介した飛行機の感染事例ではインデックス・ケースから2メートル以上離れた座席でマスクを着用していた人も感染していた [Toyokawaほか 428] ようだから、この基準では2次感染者を取り逃がしてしまうことは明らかである。この基準は、この後「実施要領」が改訂されるたびに微調整され、すこしずつ変わっていく。だが、基本的な発想——ある程度の距離があるかマスクを着用していれば濃厚接触者にはならない——はそのままであった [北海道文化放送 74] [東京新聞 87]。
もっとも、大規模感染が見つかった際には、この条件を無視して広範囲を調査することがある(19)。実際の事例としては、スポーツジム [NHK 236] やライブハウス [大阪府 290] において、接触時の様態を問わずに当該日時の施設利用者を対象とした調査をおこなっている。これは専門家会議の5月29日「状況分析・提言」が「その場にいた者についても積極的疫学調査を網羅的に実施する」[380: 37] と書いていたことに対応する。 2章で紹介した3月23日の飛行機での感染事例でも同様のことがおこなわれていた。押谷仁のいう「大きな感染源を見逃さない」[295: 8] 対策は、この方法を指していたと考えることができる。ただし、本章の分析結果によれば、こうして発見した感染者をふくめても、大規模感染に連なる感染者はたいして多くない (図表5.4)。
また、「濃厚接触者」の条件に該当する者を全員調べられるとは限らない。インデックス・ケースが死亡しているとか重体であるとか非協力的(20) だとかいった理由で、聞き取りがおこなえないこともある。人間の記憶はいい加減なので、過去のこまかい行動をすべて克明に覚えている人はあまりいない [はやし 63: 38]。匿名性の高い今日の都市生活では、行動の日時と場所がわかっても、そのとき接触したのがどこの誰かわからないことがよくある。そして、濃厚接触者がどこの誰かを特定して連絡がとれたとしても、その人が協力してくれるかは別の話だ [中里英介 234]。 2章で取り上げた飛行機での感染事例では、航空会社の協力で連絡先を入手できるという理想的な条件だったにもかかわらず、乗客の4割からは協力が得られていない [Toyokawaほか 428] のである。
感染者が見つかったときにその行動歴や接触者を調査する仕組みは、以前から結核や麻疹や新型インフルエンザに対して整備されてきたものであり、コロナではじめて登場したわけではない。コロナに対する調査のやりかたをそれ以前と比較すると、接触者分類についても接触時期範囲についても対象を狭く絞り込んでいる点に特色がある。
まず、調査対象を濃厚接触者のみに絞り込むのが異例である。結核 [安武繁 453: 129-130] や麻疹 [国立感染症研究所 133] や新型インフルエンザ [厚生労働省 145] の調査においては、感染した可能性の高さによって接触者を2段階ないし3段階に分類する。感染した可能性の高い接触者 (濃厚接触者) が優先的に調査対象になるが、状況によってはそれ以外の接触者も調査することになっている。これに対してコロナの「積極的疫学調査実施要領」では、接触者の段階的分類はなく、濃厚接触者以外は調査対象にならない。
また、コロナについての「積極的疫学調査実施要領」では、当初、発症日以降の接触者だけが調査対象であった。一方、麻疹や新型インフルエンザの積極的疫学調査においては、発症前日 (あるいは24時間前まで) の接触者を調査対象とする [133] [145]。この点でも、コロナの調査は範囲が狭い(21)。
ウイルスの性質がほとんどわかっていなかった1月中旬の時点で、なぜここまで狭い調査対象範囲設定を採用したのだろうか? 指摘される理由は、コロナの診断に必要となる検査の態勢が貧弱だったことである。コロナの診断方法は実質的にPCR検査以外になく、初期には実施できる機関は国立感染症研究所と地方衛生研究所に限られていた (3章参照)。これらの機関の検査能力は余裕に乏しく、感染者数が増加したときに検査のための資源が足りなくなることが危惧されていた [182] [63: 27]。麻疹 [133] や新型インフルエンザ [145] なら各医療機関で診断を受けた患者を積極的疫学調査の対象としていくので、そこが大きくちがう [齋藤 314: 68]。コロナの積極的疫学調査では、PCR検査の数を減らすため、感染している可能性の高い者を接触の時期と様態によって絞り込まざるを得なかったのだろう。
「公式」のクラスター対策は、特定の場所やイベントで起きた大規模な集団感染という「クラスター」定義 (4章) に対応している。専門家会議が「クラスター対策」を立案したときの理論的な標的はスーパースプレッダーだった (3章) のだが、それを直接探すのはむずかしいので、間接的な調査方法として集団感染を探そうとしたのだと考えることができる。行動歴の聞き取りでは、接触した相手 (たとえば食堂でたまたま相席になった人) がどこの誰だったかは特定できないことが多い。他方、場所と時 (どこの食堂で何日の何時ごろか) であれば聞き取りからわかる場合が多いので、人を探すよりも容易である。そこで、場所の記録を中心として探せばいいと判断したのだろう。スーパースプレッダーが1か所で大規模な感染を起こした場合 (SSE) は、このやりかたで発見できる可能性が高い。
これに対して、「理想」「現実」のクラスター対策は、感染ネットワークとしての「クラスター」定義に対応している。いずれも、各地域における感染ネットワークをたどって感染者を見つけることをその内容とする。実際の調査で生じる制約を度外視して理想的な調査を実施できれば、地域における感染ネットワークを完全に掌握できるというのが「理想」のクラスター対策である。一方で、現実的な制約を考慮して感染ネットワーク全体の追跡はあきらめ、前向き調査による濃厚接触者把握を中心として禁欲的な対象範囲にとどめたのが「現実」のクラスター対策といえる。
こう考えると、4章で論じた「クラスター」の多義性は、対コロナ戦略の目玉として新しく登場した「クラスター対策」をどう実装するかをめぐる争いを反映したものと見ることができる。 2月25日の「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」[対策本部 357] は、「クラスター (集団)」という表現を7回繰り返していながら、その定義を示さなかった。何を指して「クラスター」と呼ぶかを決めず、解釈の余地を残しておいたわけである。その前日に、感染のつながりを指して「クラスター」とする定義を、厚生労働省の官僚が示している [橋本 59] [産経ニュース 318]。一方の専門家会議は、スーパースプレッダーによる感染を「クラスター」と呼ぶようになっていく [尾身ほか 285: 42] [河合 112: 23]。これらふたつの考えかたの間での争いの結果、現実のサーベイランス体制で優勢になったのが前者、対外的な情報発信で優勢になったのが後者だった。
コロナのサーベイランスは、専門家会議などが設置されるずっと前の1月中旬にはじまったのであるが、これは対象をかなり絞り込んで捕捉する体制であった。 3章でみたように、コロナ患者に関する受動的サーベイランスは、当初きわめて抑制的であり、ごく限られた条件に当てはまる者でないと検査しない (だから感染者はほとんど見つからない) 状態であった。積極的サーベイランスはというと、発病日以降の濃厚接触者を前向きに探す調査を中心とするものであり、主として小規模な感染を中心に感染ネットワークを捕捉していた。濃厚接触者を絞り込む基準が厳しく、また発症日より前の接触は濃厚接触にカウントしない原則のため、感染の連鎖を見逃していたケースも多かっただろう。そして前述のとおり、発症日より前の接触にさかのぼって感染源を推定しても、それは調査対象にはならない(22)。その後サーベイランスの対象は次第に拡大されていくものの、流行が本格化する前に設定されたこの路線が、基本的にずっと継続していたといえる。
専門家会議がスーパースプレッダーを標的とした「クラスター対策」を言い始めた時点で、彼らの助言にしたがってさかのぼり調査を中心に大規模感染を探すよう態勢を組みなおすトップダウンの指令を政府があらためて下したなら、状況はまたちがっただろう。だが現実にはそのようなことは起こらず、それ以前からの態勢をそのまま継続してコロナ対策が遂行された。
平常時の仕組みに基づいて動き始めた体制が、その後のコロナ流行という危機的状況のなかでもルーティンとして作動しつづけたのだ。そうした現象については、政治学研究者のマルガリータ・エステベス・アベによる指摘がすでにある。
他の東アジア諸国と違い、SARS・MERSで苦汁をなめていない日本であるが、新型インフルエンザ等への対策として従来から、高齢者施設内に感染対策委員会を設置するなど、細やかなガイドラインとマニュアルの整備がなされ、改訂されてきた。そして、インフルエンザ流行時には感染予防として高齢者施設の面会制限などが以前から行われてきた。日本では施設の「ロックダウン」に関して入所者の家族らが慣れていたことも社会的には重要な点だ。
また、感染症対策がトップダウンというよりも厚労省・各自治体・施設内でルーティン化されていたので、政治の介入抜きでコロナ対策がほぼ自動的に作動した。
——Margarita Estévez-Abe (2020-07-16) ニューズウィーク日本版 [35: 3]
これは高齢者施設のコロナ対応についての指摘である(23) が、地域保健システムのサーベイランス体制においても同様のことが起きていたといえよう。 1章で整理したように、日本の保健システムは、まだ特別の法的対応がなされていなかった1月中に、コロナ対策の初動態勢を整えていた。感染症法に基づいて対策がとれるようになり、政府が対策本部等を設置し、専門家を招聘して助言組織を作るまでに、既存の仕組みでサーベイランス等の業務が動いていた。事前に確立していたこの調査方法をそのまま使い続けたというのが各地の保健所が実行した「現実」のクラスター対策であり、トップダウンで考案された「公式」のクラスター対策によってそれが上書きされることはなかった。
分岐点となったのは、国立感染症研究所による2月27日「積極的疫学調査実施要領」改訂 [136] である。前述したとおり、この改訂版は、感染源の推定について指示を追加している。そこで推定した感染源を調査対象として検査をおこなう規定も追加しておけば、さかのぼり調査で感染源を見つけるという専門家会議の構想通りのルーティンを組み込むことができたはずである。ところがこの改訂でも、積極的疫学調査の対象は、発病日以降の濃厚接触者以外には広がらなかった。感染源について「推定すれども調査せず」とでもいうべき方針(24) をとったということであり、さかのぼり調査を重視する専門家会議の構想を事実上否定するものであった。やがて国立感染症研究所はこの調査方法を「クラスター対策」と称するようになる [139]。
この行き違いが起きた経緯について考えるには、「クラスター対策」が政府内、特に厚生労働省内において当時どう受け止められていたかが重要である。 3月1日に厚生労働省が自治体あてに出した事務連絡 [182] を見てみよう。これは、各地域の流行状況の段階に応じて対策の移行を進めるため、「今後の状況の進展に応じて段階的に講じていくべき各対策」[182: 1] の詳細を示すものである。
この事務連絡では、「サーベイランス/感染拡大防止策」の「現行の取組」としてつぎの3点を示している。
○現行、感染症法第12条の規定に基づく医師の届出により、疑似症患者を把握。医師が診断上必要と認める場合にPCR検査を実施し、患者を把握している。
○患者が確認された場合には、感染症法第15条の規定に基づき、積極的疫学調査を実施し、濃厚接触者を把握。濃厚接触者に対しては、感染症法に基づく健康観察や外出自粛等により感染拡大防止を図っている。
○あわせて、北海道等については、積極的疫学調査によって患者クラスターを確認し、その患者クラスターが次の患者クラスターを生み出していくことを防止する感染拡大防止策を講じている。
——厚生労働省 (2020-03-01) 自治体宛事務連絡 [182: 2]
ここでは、サーベイランスと感染拡大防止のための3つの柱が整理されている。最初のふたつは全国でおこなっているものである。第1は1章で解説した受動的サーベイランスであり、コロナに感染した疑いのある患者について医師からの届け出を受け、検査によって感染を確認する。第2はそうして見つかった感染者をインデックス・ケースとして始める、前向きの積極的疫学調査である。これらに対して第3の「患者クラスターを確認し、その患者クラスターが次の患者クラスターを生み出していくことを防止する感染拡大防止策」は、北海道等の一部地域に限定されており、全国的なものではない。
「北海道等」がことさら言及されていることには、注釈が必要であろう。当時の北海道では、遠く離れた複数の地域で、それぞれ少数の感染者が散発的に見つかっていた。それらはたぶん互いにつながっており、北海道の相当部分を覆う大きな感染ネットワークが形成されているのだろう、という推測が有力だった(25)。だがそれらをつなぐ経路は見つからず、各地で数人規模の感染者のつながりが別々に観測されているとしかいえない状態であった [読売新聞 454]。
ある地域Xにウイルスが持ち込まれ、そこで感染が広がったとしよう。この時点で、Xには、互いにリンクあるいは経路でつながった感染者の「クラスター」(ネットワーク科学の意味での) ができている。ある人物Aがそこで感染し、そのあと地域Yに移動してそこで別の人物Bに感染させ、BからさらにY地域での感染が広がっていったとしよう。サーベイランスによって両地域での感染者が見つかり、かつX地域で感染したAとY地域で感染したBとの間にリンクがあることが発見できれば、XとYにまたがるクラスターであることが把握できる。しかしこのリンクが見つからなければ、XにおけるクラスターとYにおけるクラスターは別のものとしてしか把握できない。——当時の北海道で観測されていた感染状況についての有力な解釈 (上記) はそのようなものだった。
ネットワーク科学では、クラスター間をつなぐ位置にあるリンクのことを「架橋」(bridge) と呼ぶ。正確な表現をするなら、あるクラスターからリンクをひとつ削除することによってふたつのクラスターに分割できる場合、そのリンクが「架橋」である [22: 67]。上記の架空の2地域の感染事例の場合、AとBとの間のリンクが、X地域のクラスターとY地域のクラスターを結ぶ架橋となる。
北海道では、地域間でウイルスを運んだであろう感染者とその接触歴を探索して、当時観測できていたクラスターがどうつながっているかを推定する努力(26) がおこなわれていた。焦点となっていたのは架橋——あるいはそれと同等の性質を持つ少数のノードとリンク——であって、ハブ (=スーパースプレッダー) ではない。この両者は、見つけやすさがちがう。ハブは定義により多くのリンクを持ち、多くのノードに直接つながっている。それらのノードを偶然にでもひとつ見つけてリンクをたどることができれば、それでハブは見つかる。しかしリンクが少数しかなければ、そこに偶然たどり着ける確率はぐっと低くなる。
そして、北海道各地のクラスター間のつながりは、結局ほとんど見つけられなかった [河合 112: 52-53]。ということは、地域間を媒介した感染者は見つかっていないのであり、そこから未発見の感染ネットワークが広がっているおそれがある [広野 70: 56-57]。そこで北海道は調査によって感染を抑え込むことをあきらめ、学校の一斉休校や知事による「緊急事態」の宣言(27) などで道民の移動や接触の自粛を呼びかけて流行の終息を図る策に転換した [北海道 71: 6-9]。
以上を踏まえて厚生労働省3月1日事務連絡 [182] の説明に戻ると、サーベイランス/感染拡大防止策の3本柱には、専門家会議の主唱した「クラスター対策」(さかのぼり調査によるスーパースプレッダーの発見) が入っていないことがわかる。事務連絡のいう「患者クラスターが次の患者クラスターを生み出していくことを防止する」対策は、感染ネットワークの途中で見失った経路 (特に架橋) をあらためて捕捉してネットワークの全体像を把握する趣旨の調査なのであって、スーパースプレッダーを発見するものではない。ほかのふたつは、医師がコロナ疑い患者を届け出る受動的サーベイランスと、そうして見つかった感染者とその濃厚接触者を対象とする積極的疫学調査であり、いずれも1月から実施されていた通常のサーベイランス方法である。
「積極的疫学調査実施要領」2月27日改訂 [136] も、同様の認識に沿っておこなわれたのだと考えると理解しやすい。「実施要領」は、最初の版 [132] から濃厚接触者対象の前向き調査中心であり、濃厚接触者が発病したら必ず検査対象として感染確認することにしていたのだが、この改訂版もそれを踏襲している。一方で、スーパースプレッダーやそれによって引き起こされる大規模感染には、まったく触れていない。
他方では、この「実施要領」改訂版は、一見、専門家会議の意見を尊重して「クラスター対策」を採用したように見えなくもない [高+押谷 124: 2282]。そのひとつの要素は、感染源を推定するための指示をつけ加えたことである。しかし推定された感染源を調査対象とする指示はないので、それが感染源であったことは確定できないし、そこから広がった感染を追跡することもできない。もうひとつの要素は、文書のタイトルに「クラスター」の文言を加え、本文でも「潜在的な患者クラスター (集団)」の検出にリソースを割くことを求めるなど、「クラスター対策」に目配りした記述を追加したことである。しかし、そこで「クラスター」と言っているのは感染のネットワークという意味であり、専門家会議のいう「クラスター」(=スーパースプレッダー) とは関係がない。実際に調査の中心となるのは濃厚接触者の前向き調査を再帰的におこなっていく手法であるが、これを「クラスター対策」と呼ぶのは、リンクをたどって感染ネットワーク (=クラスター) を把握していく作業だからという理屈になっている (4章)。
政府の対策本部が3月25日に制定した「基本方針」は、「クラスター (集団) が次のクラスター (集団) を生み出すことを防止する」[357: 1] と謳っていた。厚生労働省も同日「クラスター対策班」を設置している [154]。国立感染症研究所は2月27日の「積極的疫学調査実施要領」改訂で、サブタイトルに「患者クラスター (集団) の迅速な検出の実施に関する追加」[136] という文字列を入れ、本文でも「クラスター」に言及した。これらの字面は、専門家会議の提唱した「クラスター対策」を日本政府が採用したかのような印象をあたえる。実際、そのように解釈している文献 [21: 118] [408: 88-91] [112: 43] は多い。だが、ここまで見てきたように、実際に稼働していたサーベイランス体制のなかでは「クラスター対策」は専門家会議の提唱したようには実装されておらず、いわば骨抜きになっていた。
こうなってしまった直接的な原因は、「クラスター対策」実施を指示するための公式の手段を専門家会議がとらなかったことであろう。専門家会議は、公開されている範囲では、積極的疫学調査を前向き調査中心の現行の方法からさかのぼり調査中心にあらためるように、という内容の提言を政府に向けて出していない。「クラスター対策」がどういうものであるかを説明した文章も、2月末の段階では存在しなかった。彼らが何を目指しているかを政府が知る機会は、非公開のコミュニケーションしかなかったわけである。
そもそも「クラスター対策」の構想は、専門家会議の外ではほとんど理解されていなかったかもしれない。河合香織は、専門家会議・クラスター対策班両方のメンバーであった鈴木基 (国立感染症研究所感染症疫学センター長) とクラスター対策班の立ち上げに関わった齋藤智也 (国立保健医療科学院健康危機管理研究部長) からの聞き取りなどをもとに、つぎのようにまとめている。
鈴木基は、「正直に言うと、最初は押谷先生が何を言っているかわからなかった」と話す。
〔……〕
〔……〕「押谷先生があれだけ言っているのだから正しいはずだ」と、押谷の言わんとすることを理解すべく他の研究者とも何度も討論したという。
齋藤は皆の理解の助けになるよう、押谷が提唱するクラスター対策をまとめた紙を配布した。班員すべてがクラスター対策について理解するのには、一カ月ほどの時間がかかったという。
——河合香織 (2021)『分水嶺』岩波書店 [112: 49] 〔原文の振り仮名を省略した〕
「クラスター対策」は提唱者 (押谷) の独自研究 (2章参照) に基づくものであって、論文などが出版されていたわけではない。周囲の人々に対しての口頭説明で伝わっていたようである。提唱者が築いた人脈のなかで口伝による理解が広まり始めた段階であったとすれば、そこから外れていた人にとって、クラスター対策が何であるかはよくわからないままだっただろう(28)。そういう外れた位置にいた「実施要領」作成担当者 (国立感染症研究所感染症疫学センター) が、自分なりに理解した「クラスター対策」を積極的疫学調査のなかに実装しようとしたのだとすれば、そこで食い違いが生まれたことは不思議ではない。 4章で取り上げたように、厚生労働省内では、2月下旬には「感染のつながり」を「クラスター」とする理解がなされていた [59] [318]。この理解に基づいて考えれば、感染のつながりを追跡する従来の積極的疫学調査の方法がそのまま「クラスター対策」となり、スーパースプレッダー云々と関係なくなるのは、当然の成り行きともいえる。
もし専門家会議のいう「クラスター対策」が正しく理解されていたとしても、反対に遭って実現できなかった可能性がある。上記の河合 [112: 49] の叙述では、「クラスター対策」が受容されたのは提唱者への個人的信頼に基づくものであり、内容の説得力によるものではなかったようだ。そうした個人的な信頼を持ち合わせない人は、科学的根拠のない不確かな仮説だと受け取っていたかもしれない。そう考えると、根拠のあやふやな新規仮説を導入することに反対し、これまでおこなってきたオーソドックスな調査方法をそのまま続けるべきだとする人たちがいておかしくない。
一方で、専門家会議の側にも誤解があった。本章でみてきたように、積極的疫学調査は、感染源を探すさかのぼり調査に力を入れていなかった。そのことは、国立感染症研究所が作成していた標準的マニュアルである「実施要領」の記述からも明白である。だが専門家会議メンバーは、この現実を無視した主張をしばしば展開している。
たとえば押谷は、2020年4月12日の日本内科学会のシンポジウムで、つぎのような認識を披露している。
日本では,クラスターは,クラスター対策が確立する以前から効率良く検出されていた.実際に,厚生労働省内にクラスター対策班が設置されたのが2020年2月25日であったが,それ以前に各地でクラスターは検出されていた.これは,全国の保健所において,丹念な感染源調査が行われていたことに起因すると考えられる.日本において,なぜこのような感染源調査が初期段階から丹念に行われていたのかについては,さらなる解析が必要であるが,日本では未だ結核患者が継続的に発生していること,結核では感染源調査が重要であることに起因している可能性がある.
——押谷仁 (2020)『日本内科学会雑誌』109(9) [296: 2016]
実際には、2月25日以前の積極的疫学調査で検出した3件の「クラスター」(図表5.2) のうち2件は、感染源を探すさかのぼり調査ではなく、2次感染を探す前向き調査による。これら3件に関連する感染者数は77人で、さかのぼり調査で見つけた「クラスター」に関連するのはそのうち25人 (図表5.2の13100-0215) だから、3分の1でしかない。その後3月末までに見つかった「クラスター」においても、さかのぼり調査による発見は少数で、感染者全数に占める割合も低い (図表5.4)。
「クラスター対策」が感染源の調査に注力することを要求するなら、積極的疫学調査の方針をその方向に転換すべく「実施要領」を書き換えねばならなかった。さかのぼり調査に検査資源を割り当ててその優先順位を上げることを明示するとともに、複数の症例の行動歴を照らし合わせて共通点を抽出するcross-referencingの仕組み [Nishimura 258] を整える具体的な指示を出すべきであった。ところがなぜか専門家会議メンバーの間では、感染源の調査がすでに丹念におこなわれているという誤解(29) が広まっていたため、現状をうっかり追認してしまったのではないか。
そして、専門家会議のほうでも、彼らのいう「クラスター対策」で流行を抑えられるとは最初から思っていなかった、ということもありうる。「クラスター対策」とは、日本は「ちゃんと戦略があって対応している」[363: 3] と世界に向けて発信するために専門家会議が創り出したフィクションだったのかもしれない (1章参照)。そうとすれば、保健所がフィクションを真に受けて前向き調査をおろそかにするのは困る。そこで、一般向けには大規模感染をさかのぼり調査で探す「クラスター対策」をやるのだと宣伝しておきながら、保健所などの担当者に向けては従来の前向き調査を続けることを認めたのだと考えることができる。
本章であつかった「クラスター対策」をめぐる混乱は、スーパースプレッダーによる「クラスター」と感染ネットワークとしての「クラスター」というふたつの語義の間で起きている。専門家会議が主張してきた「クラスター対策」は前者、厚生労働省指示下の保健システムが動かしてきた「クラスター対策」は後者の「クラスター」概念に依って成立したものである。そして後者は、当初からおこなってきた前向き調査を中心とするサーベイランス方式に「クラスター対策」という名称を被せたものに過ぎず、専門家会議の提唱した「クラスター対策」とは関係がなかった。
途中の経緯はともかくとして、結果的にこの行き違いが問題にならずに許容されてしまった理由は、両者がおなじ「クラスター対策」を名乗っていたため、傍目には区別がつきにくかったからであろう。実際、「公式」のクラスター対策を主唱してきた押谷も、保健所職員などを対象とした講演会では「実施要領」に沿った「クラスター」定義 [294: 20] の資料を用意し、大規模感染に限定せずに感染ネットワークのすべてを管理下に置くという「理想」のクラスター対策に沿った解説 [294: 28] をおこなっている。「クラスター (対策)」概念をめぐる二重構造を理解して、それを破綻させない振舞いを心がけていたように見受けられる。
感染ネットワークを指して「クラスター」とする定義は日本政府のコロナ対策において正統な位置を占めていたもの (4章) なのだから、「実施要領」が感染者のつながりを (前向きに) 追跡する作業を「クラスター対策」と呼ぶ [139] ようになっていったのは、政府文書としては別におかしくない。というよりも、政府文書に定義の出てこないスーパースプレッダーによる「クラスター」にこだわる専門家会議のほうが、政府内部では異端であっただろう。
厚生労働省官僚と専門家会議は、それぞれちがう概念の「クラスター」を認識し、ちがう内容の「クラスター対策」を追求していた。現実におこなわれた「クラスター対策」は、官僚たちが先んじて整備した積極的疫学調査の方法を継続したものであった。一方、専門家会議は独自の情報発信手段を手に入れ、メディアを制して彼らの考える「クラスター対策」を宣伝した。日本がさかのぼり調査で大規模感染を見つける「クラスター対策」に注力してきたというのは、事実に反する主張であると同時に、「クラスター」の多義性を利用した詭弁でもある。それは同床異夢の状態にあった彼らが共同で造り上げたものなのである。
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