[Previous page] [Next page]

http://tsigeto.info/covid19/book/ch02.html
田中重人 (東北大学) 2026-05-20 20:53

実録「日本モデル」: コロナ対策の虚像

第2章 科学の境界


[全章PDF] [図表 (PDF)] [文献]

テクノクラシー vs. 常識

本稿では、2020年前半の日本のコロナ対策を振り返って検証をおこなう。日本のコロナ対策については、それに関わった専門家たちが「正史」ともいえる言説群をすでに創り上げているのだが、それらの一部を検証していくことになる。

コロナ対策に見られるような、政府官僚が専門家を利用して政策を作る現象は、「テクノクラシー」(technocracy) と呼ばれる政治制度の一部である。このことばは元来は「技術による支配」を意味するが、今日では、広く専門的知識の保有者に権力をあたえる社会的な仕組みを指す [植田剛史 433]。

テクノクラシーは民主制と対立する。それは、複雑化するとともに合理性を追求する現代社会では、避けることができない。経済学者の森嶋通夫は、およそ35年前に、この問題について論じている。

もともと議会政治は、君主が直接、政府官僚を率いて統治していた弊害を是正するために、政治に素人の庶民が "庶民院" を組織して、そこでの決定事項を政府に実施させるという形で始まった。こういう動きの背後には、専門的知識よりも常識の方が健全であるという確信ないし哲学がある。〔……〕これは常識が専門的知識より優位に立つことを認める制度であり、常識を尊重するイギリスでこそ議会制度は発達したのである。

ところが政党の中央本部が、エコノメトリクスその他の高度な専門家を必要とし、彼らが将来政治家として枢要の地位を占めるようになると、常識は政界の片隅に追いやられ、専門的知識が常識を制圧するようになる。私はこのような流れ、すなわち社会の全面的官僚制化、専門家化は、将来多かれ少なかれ必然であると認める。そしてそういう流れに抵抗するには、常識をどう強化すべきかを、真剣に検討する必要があると思う。

——森嶋通夫 (1991)『政治家の条件』岩波書店 [220: 166-167]

ここで森嶋が心配しているのは、エコノメトリクス (計量経済学) による政策分析を担当していた専門家が後に政治家になっていくという流れである。そのような政治家が主流になっていくなら、議会政治が経済学の考えかたに乗っ取られてしまう。それでは常識から遊離した政府官僚が統治するのと変わらないではないか、というわけだ。

対抗策として森嶋が打ち出すのは、「政治家の生涯教育機構」である。これはもちろん、もともと経済学を専門として活動してきたのではない政治家向けの生涯教育ということであろう。

社会科学は日進月歩で進んでおり、最近では、ほとんどの経済政策はエコノメトリクスを使って立案されている。それ故、官庁でのエコノメトリクスの知識は日進月歩である。それに対抗できるためには、政党内部でもエコノメトリックな政策分析ができねばならない。〔……〕

だから政治家は勉強した人でなければならず、生涯勉強しなければならない。生涯教育を最も必要とするのは、主婦や定年退職した老人ではなく、政治家自身である。〔……〕

〔……〕

〔……〕こういう政治家用の教育は、〔……〕幅広くなければならない。しかも彼らは自分の主張を論理的に正当化できねばならない。その上、政治に必要な知識的土台はますます高くなっていくから、新知識を取り入れて自分の主張を固めるよう常に勉強し続けねばならない。

これは大変難しいことである。

——森嶋通夫 (1991)『政治家の条件』岩波書店 [220: 183-184]

森嶋の主張は、いわゆる「欠如モデル」をベースとした提言だと考えることができよう。「欠如モデル」とは、科学や技術に関する公的コミュニケーションにみられる齟齬を説明するための考えかたのひとつで、専門的な事柄を理解したり判断したりするための知識や能力が非専門家には欠けているという想定を基礎とする [藤垣裕子 43: 110]。計量経済学の最先端のモデルやそれを支える経済学理論、パラメタを推定するための統計的方法、実際にモデルを動かすためのコンピュータの操作といったことに関する知識は、非専門家の政治家にはふつう欠如している——それゆえそうした知識と能力を生涯教育によって補わなければならない——ということだ。こうした専門的な知識を理解し、実際に使える技術を習得しておくことは、確かに大切である。経済学に限らず、さまざまな学問分野に関して、たとえば大学や大学院で教育を受けてこうした専門知識・技術を習得した人が社会のあちこちに配置されていけば、「常識」を強化する助けになるだろう。

これに対して、本稿がこれから向き合う課題は、森嶋が心配していたような事柄とはかなりちがう。専門的知識・技術の進歩に追いつくための知識的土台を築くという高いレベルの課題ではなく、もっと低いレベルで土台が浸食されているのではないかという疑念が、本稿の執筆動機であった。具体例を出すのがわかりやすいと思うので、まずそちらを見てみよう。


『文藝春秋』2020年9月号の尾身茂執筆記事

2020年7月22日、コロナ「第2波」が拡大するなかで、日本政府は観光産業振興策「Go To トラベルキャンペーン」(1) を開始した。一定の範囲の旅行商品の代金を割引するほか、各地域で買い物ができる共通クーポンを発行するなどして、旅行・観光・宿泊などの需要を喚起しようというものである。感染拡大のなかで人の移動・接触を増加させることをねらったこの政策は、強い批判を受けていた [広野 70: 100-104]。

そんななか、8月7日発売の『文藝春秋』9月号に、「尾身茂」の名義による記事が掲載された(2)。2月に発足した専門家会議の副座長であり、7月以降は分科会の会長をつとめていた人物である。ここでは、この記事のつぎの部分に注目したい。

この半年あまりの間で明らかになった疫学情報によれば、新型コロナの伝播が起きるのは、夜の街やライブハウス、小劇場など、基本的には密集、密接、密閉の「三密」プラス「大声」の状況下に集中しています。

これに対して、新幹線や飛行機の中で感染したという例は、今のところ一件も報告がありません。つまり、旅行先で「三密+大声」の場に足を運ばない限り、旅行そのものが感染を広げることはないと私たちは考えています。

——尾身茂 (2020)「緊急事態「再宣言」はありうる」『文藝春秋』98(9) [279: 121]

Go To トラベル開始の意思決定においては、移動手段となる交通機関で感染しうるかどうかが重要な要素であった。当時内閣官房長官であった菅義偉は、後に首相になり、このキャンペーンについて「政府の分科会の専門委員の先生方から話を伺い、移動では感染はしない、そういう中で取り組んできました」(衆議院予算委員会 2020年11月25日 [130: 12]) と国会で答弁している。尾身の『文藝春秋』記事は、このことに関する「分科会の専門委員の先生方」側の認識がどのようなものだったかを示している。

飛行機乗客の大規模感染事例 (2020年3月23日)

実際には、飛行機の乗客間の大規模な感染が3月23日の神戸−那覇便で生じていたことが、それ以前に報じられていた。

この事例について、飛行機での感染の可能性に触れた報告は、岡山県によるもの (4月1日) [275] が最初であった。この報告は、そのまま厚生労働省に上がっている [167]。

また4月1日から9日の間に、『読売新聞』京都版、『毎日新聞』岡山版、および『山陽新聞』『沖縄タイムス』『琉球新報』が、関連する記事を掲載している。『読売新聞』『毎日新聞』『山陽新聞』記事からは、この飛行機に乗っていた1名の感染者 (那覇市在住) がいたこと (3月26日に感染確認) [462] [320] [207]、ほかに岡山県在住の2名の感染者があり、彼らが岡山に戻ったあとにその家族 (岡山県在住) も感染していたこと [420] がわかる。『沖縄タイムス』『琉球新報』記事は、沖縄県庁に新規採用された新入職員が、この岡山在住の感染者のひとりが沖縄にいる間に接触したあと発病しており、その後の4月1日に県庁の辞令交付式に出ていたこと [276]、この職員からさらに別の職員等への感染が疑われていたこと [309] を報じている。続報はなく、これ以上くわしい情報は報道からは不明であるが、飛行機乗客間での感染が複数あり、そこから岡山県および沖縄県内で感染が広がったと推測される状況だということはわかっていた。

6月には、アメリカ合衆国疾病予防管理センター (CDC) の雑誌Emerging Infectious Diseasesサイトで公開された、日本のデータをあつかった論文 [Furuseほか 50] が、3月22日から28日の週に5名以上規模の「クラスター」が飛行機で生じていたことを報告している。これがおそらく、上記3月23日の事例とおなじものだろう。この論文でも詳細はよくわからないのだが、機内でウイルスの曝露を受けたとみられる感染者が5名以上いたことはわかる (この論文における「クラスター」定義がそうなっているので)。なおこの論文の著者には、専門家会議の押谷仁と鈴木基が入っている (尾身の名前はない)。

不明な点は多いものの、飛行機での感染があったこと自体は、管轄の自治体から厚生労働省に報告されており、それは新聞記事や学術論文でもわかる状態にあった。尾身の「飛行機の中で感染したという例は、今のところ一件も報告がありません」は、事実に反する主張である。

事例の詳細

この飛行機「クラスター」事例は長らく詳細が伏せられていた。断片的な情報はあるものの、全体像はよくわかっていなかったのである。『文藝春秋』の尾身執筆記事も、そのような状況下で発表されたものだった。

くわしい状況がわかるようになったのは、後のことである。発生から7か月が過ぎた10月23日になってようやく、那覇市保健所職員等による報告 [豊川ほか 427] が国立感染症研究所の『病原微生物検出情報月報』に掲載された(3)。翌月には、この報告を受けて関連する自治体発表情報を再検討した個人ブログ記事がある [94] [95]。さらに1年近く経った2021年9月には、専門誌Influenza and Other Respiratory Virusesに論文が出ている [Toyokawaほか 428]。

感染源と思われるのは、機内後部左側座席 (通路側) にいた乗客で、搭乗中に激しい咳をしていたと書いてあるのだが、この人が最初 (3月26日) に感染確認されている。その後、この症例をインデックス・ケースとして、保健所が積極的疫学調査を始める。当初は当該座席の前、前の前、左、左の左、右、右の右の合計6席の乗客だけを「濃厚接触者」として積極的疫学調査の対象としたが、対象外だった乗客の感染が他県で確認され、彼らの行動歴について照会があったことなどで徐々に範囲を拡大し、最終的にすべての乗客を対象とした [427]。とはいっても、インデックス・ケース以外の乗客141人のうち、調査に応じたのは82人であり、59人は調査できていない [428: 65]。乗員6人のうち、客室乗務員4人は調査対象になっているが、操縦士2人は対象でない [428: 64]。

インデックス・ケース以外に、14人の感染者を4月6日までに確認できた。検体はゲノム解析されており、その結果は、これらの14人は最初に発見したインデックス・ケースから感染したという推測と矛盾しない [427] という。ただし、これらの感染者中には、同居する家族が2組あり、家族間で感染が広がった可能性も指摘されている [428: 66]。

さらに、当該フライト1か月後の4月23日から26日にかけて、追加の調査がおこなわれた。 4月最初には調査できなかった乗客59人のうち、45人からも回答を得ている(4)。そのなかから、当時 (3月23日から4月6日まで) 何らかの症状があった者を6人発見した [428: 66]。

結果として、インデックス・ケース1人、そこから感染した可能性の高い感染者14人 (PCR検査で感染を確認) のほか、症状はあったが検査を受けなかったので感染が確定できない8人(5) を発見している。なお、「経過不明」が19人(6)、「PCR検査陰性」は1人である (図表2.1)。

この事例では、保健所による積極的疫学調査の実態が具体的にわかる。それは、飛行機乗客の調査という特殊な性質によるところが大きい。乗客全員の連絡先を航空会社から得ているため、インデックス・ケースとの位置関係が座席表から特定でき、「濃厚接触者」の認定もそれを基準におこなわれている。さらに、当初調査できなかった人についても、事後的な追加調査によって情報がわかる。

重要性

この感染事例は、日本のコロナ対策の実情を把握する上で重要な情報をいろいろふくんでいる。

第1に、これは旅行によってウイルスが伝播し、旅行先でさらに感染が広がったという実例である。専門家は「旅行そのものが感染を広げることはないと私たちは考えています」などというのだけれど、その反証となる報告は、すでに4月上旬には上がっていたわけである。

第2に、保健所がおこなっていた調査の性能の低さがよくわかる事例である。これはさらにふたつの側面にわけられる。

性能が低い最大の理由は、ごく狭い範囲に絞りこんだ「濃厚接触者」しか調査対象にしないことだ。当該事例でも、保健所がインデックス・ケースの周囲に最初に設定した「濃厚接触者」の範囲は、ごく狭いもの(7) であった。最終的には全乗客を対象とした調査で14人の感染者を発見しているのだが、そのような拡張がなされたのは、範囲外の感染者がたまたま見つかるという偶然が連続して起きたからである [427]。これらの偶然がなければ、狭い「濃厚接触者」の範囲の乗客だけ調査をおこない、数人の感染者を見つけて終わっていたはずだった。岡山県と沖縄県での感染連鎖を生み出した感染者は、その数人の中にはふくまれていない。

また、調査への協力率が低い。当初の調査に協力した乗客は58% (142人中の83人) しかいないので、4割は捕捉できていない。この4割のなかにも感染者がいた可能性は高い。実際に、事後の追加調査では、何らかの症状が当時あったが当初調査では診断を受けなかった、という人が複数見つかっている(8)。だがこれらの人々の行動は追跡されないから、そこから感染が広がっていたとしても、もはやわからないのである。

第3に、大規模感染はいわゆる「3密」でしか発生しないという3月以降に日本政府が繰り返してきた主張 (6章参照) にとって、都合の悪い事例である。「3密」は「3つの密」(みっつのみつ) の略称であり、「密閉」(換気が悪い)、「密集」(手の届く距離に多くの人がいる)、「密接」(近距離での会話や発声がある)、という3条件が同時に重なった場を指す、というのが当初の定義であった(9)。飛行機は外気をとりこむ換気装置を備えており、当該機でもその機能がはたらいていた [428: 64] ということだから、「密閉」に該当しないのではないか(10)。また、当該事例での感染者は、インデックス・ケースから2席以上離れていた場合がほとんどであり、「密集」や「密接」が問題になる状況でもない。インデックス・ケースがマスクなしで激しい咳をしていたとか、乗客が指定された席に座っていたとは限らないとか、機内以外に待合室などで接触したかもしれないとかの留意すべき条件 (これらは豊川ほか [427] が指摘している) はいろいろあるが、すくなくとも、3密でない状況でのウイルスの伝播であった可能性は、専門家がきちんと追究すべきことであろう。

以上3点に鑑みると、日本のコロナ第1波の感染状況とその対策について検討する場合、当該事例は、当然分析対象とすべき重要なものだったはずだ。ところが、尾身 [279: 121] の言を信じるなら、専門家たちが使っていた「この半年あまりの間で明らかになった疫学情報」(これが何であるかは不明であるが) のなかに、この事例は入っていなかったようである。しかもその文脈で「飛行機の中で感染したという例は、今のところ一件も報告がありません」という発言が出てくるのだから、単に飛行機で大規模感染が起きたという情報が入っていなかったというだけの話ではなく、「飛行機」という単語 (あるいはそれをふくむ報告) がすべて消えていたのだろう。それはデータの改ざんではないのか? 彼らは、そのようなデータの問題に気づかなかったのだろうか?

コロナ感染状況に関するデータは、専門家が集めていたわけではない。法律に基づいたサーベイランスによって行政機関が集めた情報などが、なんらかのかたちで整理されて専門家の手元にやってくる。自分で計画を立てて自分で実験を進めるような研究とは異なり、情報収集過程を専門家は管理できないのだ。このような状況では、情報を批判的に検討する姿勢がないと、専門家の認識はデータ作成者によって簡単に操作されてしまう [田中重人 414]。


低レベルの争い

とはいえ、これは文献をきちんとチェックしていれば起きない類の誤りである。 6月にはこの「クラスター」のことを書いた論文 [Furuseほか 50] がすでに出ていたからだ。専門家たちが使う「疫学情報」が改ざんされていたとしても、そのことに気づくチャンスはあったわけである。当時、この論文は、日本のデータを分析した数少ない論文のひとつであったから、日本の感染状況について論じるには (その内容に同意するにせよしないにせよ) 必読のものだった。その内容を、日本政府の感染症対策に関する助言をおこなう専門家が把握していなかったとすれば、そのこと自体がまず問題である。何らかの事情で未読であったり内容を失念していたのだとしても、「飛行機の中で感染したという例は、今のところ一件も報告がありません」という強い主張を書こうとするのであれば、本当にそう書いてしまって大丈夫かどうか、新聞記事データベースなどで確認(11) するものだろう。だが現実には、そのような確認を経たなら直ちに明らかになるような誤りをふくむ文章が、一般向け雑誌に分科会会長「尾身茂」の名前で出てしまっているわけである。

本稿では、このような問題を「低レベル」の問題と呼ぶ。これにはふたつの側面がある。ひとつは、一般的・抽象的な事柄ではなく、個別的・具体的な事柄をあつかうこと。もうひとつは、専門的な知識にあまり依存しないことである。

尾身発言の真偽については、発言以前の期間における報道、自治体発表、学術論文などを検索して飛行機での感染の報告を見つければ、それで結論が出る。飛行機の中で感染するリスクはどの程度かというような一般的な問題ではなく、飛行機の中での感染例報告があるかないかという個別具体的な問題なので、調べなければならない範囲が狭い。

そして、この問題に答えるのに、専門的な知識はあまり必要ない。もちろん専門分野 (医学・疫学など) の知識は、あるに越したことはない。とはいっても、論文に書いてあることが理解できる程度の知識があるなら、それで大方は大丈夫である。それよりは、必要な情報をどうやって探すかという一般的な能力と、長時間を費やして徹底的に検索し、見つけた文献を隅々まで読み込む執念のほうが重要だったりする。

このような、専門的な教育・訓練なしでも身に付くような——そしてすべての市民が身に付けておくことが望ましい——一般的な知識や能力や態度は、「教養」「リベラル・アーツ」(liberal arts) などの名称で呼ばれてきたものである [斎藤兆史 316] [藤垣裕子 45]。テクノクラシーと対峙するにあたっては、高度の専門知識・技術を使いこなせるかが勝負所となるような高レベルの争い以外に、一般的な能力を地道に使って、データや論理の誤りを具体例に即してひたすら検証していくような低レベルの争いもまた必要なのだ。そして、そのような争いに参加しうる非専門家は、社会のあちこちに点在している。大勢の市民がいれば、そのなかにはいろんな経歴の人がいるのだから、問題となる分野にくわしかったり、興味を持っていたりする人がいるはずである。そうした人々が情報を集めて批判をおこない、政治に反映させる仕組みが確立すれば、政府や専門家が変なことをしないよう監視することができる。


制度としての科学

科学とは何か

政府が専門家の助言を求めるのは、意思決定にあたって科学的知見を必要とするからである。そのために招聘された専門家は、当然、科学に裏打ちされた意見を述べるはずだと期待されている。にもかかわらず、科学に基づいているという触れ込みで専門家が伝える内容がおかしいのはどうしてなのか。そもそも知識の正しさと科学はどういう関係にあるのか。——こうした問いに答えるには、「科学」(science) とは何であるか、どういう性質を持っているのか、といった点を把握しないといけない。

「科学」は人間の社会的活動の一種である。国語辞典には、「一定の対象を独自の目的・方法で体系的に研究する学問」[新明解国語辞典 第8版 446: 248]、「一定の方法のもとに、対象を組織的・系統的に研究し、実験し、調査する学問」[三省堂国語辞典 第8版 115: 243] などの語義があがっている。一定の方法によって体系的に研究することが、重要な条件となっている。

この定義は確かに「科学」の重要な側面をとらえている。だがこれだけでは、実際的には困る場面が出てくる。ある人が、科学に基づく——つまり一定の方法で体系的におこなった——研究成果だとして持論を展開したとき、それを聞いている側は、それが本当に科学といえるものなのか、それとも口から出まかせなのか判別しようがない。研究の実際の過程に立ち入って捜査するような権限を、私たちは通常持っていないからだ。結果として、科学と詐欺は区別できないことになる。

幸いなことに、近代化とともに「科学の制度化」が進み、「職業的な科学研究が継続的に営まれるシステムの構築」[吉岡斉 472: 778] がおこなわれてきた。今日の私たちが認識している (そして、特に公共的な場面において、そこから生まれる知識に期待している) のは、こうした意味での、制度としての「科学」である。この制度は、職業的な研究によって真理を明らかにするという目的を達成するために、経済、政治、宗教等と区別された独自性と自律性を持つ [有本章 10: 154]。

科学の中核

制度としての科学を特徴づけるわかりやすい目印として、データの捏造・改ざんを禁止する規範がある。日本では、文部科学省が2014年に「研究活動における不正行為への対応等に関するガイドライン」を定めている。このガイドラインは、「データや調査結果等の捏造、改ざん及び盗用」[216: 10] を「特定不正行為」(12) と呼び、その告発・調査・認定・公表・措置などに関する厳しい規定を置く。ただし、この規定は科学者がおこなうデータ捏造・改ざんおよび盗用のすべてに適用されるわけではなく、それが「投稿論文など発表された研究成果の中に示された」[216: 10] 場合に限られる。そして「研究成果の発表とは、研究活動によって得られた成果を、客観的で検証可能なデータ・資料を提示しつつ、科学コミュニティに向かって公開し、その内容について吟味・批判を受けること」[216: 4] と定義されている。

前述のFuruseほか [50] の論文を見てみよう。この論文は、アメリカ合衆国の政府機関であるCDCの発行する雑誌Emerging Infectious Diseasesに掲載されたものである。まず2020年6月10日に同誌のウエブサイトにおいて先行公開され、その後同年9月刊行の同誌26巻9号に正式掲載された。医学文献データベース PubMed にも収録されており(13)、「科学コミュニティに向かって公開」された文章と考えていいだろう。論文中では、対象とするデータの範囲 (2020年1月15日から4月4日までに日本で報告されたコロナ症例) および「クラスター」(cluster) の定義 (共通のイベントまたは場所での曝露が報告されている5人以上の症例で、家庭内感染以外のもの) が明示される。このように定義されたクラスターをさまざまに分類したグラフを掲載することによって「客観的で検証可能なデータ・資料を提示」し、「その内容について吟味・批判を受けること」が可能になっている。

このような論文が公開されたときに、定義に当てはまるはずの「クラスター」事例がデータから削除されているようなことがもしあれば、それはデータ改ざんではないかという嫌疑が発生することになる。大学や研究機関は、この種の嫌疑についての告発を受け付けて調査をおこない、データ改ざんなどの「特定不正行為」にあたるかを判断する仕組みを持っている。「特定不正行為」があったと判明した場合には、当該論文の撤回のみならず、改ざん等を行った当該科学者に対する処分 (たとえば懲戒免職) が下されることが多い(14)。処分を受けても研究をつづけられないわけではないが、科学者としての職業キャリアにおいて大きな不利益を被ることは確実である。

現代の科学者は、こうした不正認定の仕組みを熟知している。というのも、研究機関や学会等の団体がその構成員 (学生をふくむ) にそういう事柄を教え込んでいる(15) からである。だから科学者は、「科学コミュニティに向かって公開」するための文章を書く際には、万が一にも不正行為の疑いを招かないように、細心の注意を払う。厳罰をもって不正を抑止する制度が機能していればこそ、私たちは、学術論文を読む際に、著者は自説に都合よくデータを改変して恣意的な結果を導いているのではないか、といった疑いをとりあえずは持たずに読み進めることができる。科学の信頼性はこのようにして確保されているのだ。

科学の外側

上記のように、データの捏造や改ざんが特定不正行為であるというためには、つぎの3つの条件が必要である。

最初のふたつの条件のどちらかが欠けていれば、データをどう操作しても特定不正行為ではない。

いちばんわかりやすいのは、非公開で研究成果を伝達する場合である。たとえば、科学者が政府などの依頼を受けて研究をおこない、その結果を依頼主に報告した場合、それが非公開でおこなわれるなら、他の科学者が読むことはないので、「科学コミュニティに向かって公開」していないのは明らかである。あるいは、大臣などに文書を示しながら口頭でも説明をおこなった場合で、文書は公開されたが口頭での説明内容 (録音や書き起こしなど) は非公開、というようなこともありうる。いずれにしても、公開されない内容は、データを恣意的に改変した結果に基づくものであっても、特定不正行為にはあたらないことになる。

公開の内容であっても、「客観的で検証可能なデータ・資料を提示」するものでなければ、やはり特定不正行為にはあたらない。専門誌に載った学術論文でも、そういうことはよくある。論文である以上は、すくなくとも本題部分では客観的で検証可能なデータ・資料を提示して論証しているはずであるが、本題から外れる部分にデータ・資料の裏付けのない意見が書いてある例は存外多い。たとえばFuruseほか [50] には、データの提示なく、近距離での激しい呼吸がクラスターと関連していると述べる部分がある。これは根拠なく持論を述べているだけであり、「客観的で検証可能なデータ・資料を提示」してはいない。こういう場合、この主張がデータを恣意的に操作した結果に基づいていたとしても、データそのものの提示がない以上、この部分に関しては、特定不正行為にあたるおそれはないのである。

科学者が報道機関からインタビューを受ける場合や、何かの事件に関してコメントを寄せる場合、「検証可能なデータ・資料を提示」することなく意見を述べることがほとんどだ。そういうものも、やはり科学の外側にあるものというべきである。尾身茂の『文藝春秋』記事も、根拠となるデータに関して「この半年あまりの間で明らかになった疫学情報によれば」[279: 121] としか書いておらず、これでは検証不能である。だから、その「疫学情報」が政府に都合よく操作されていたとしても、文部科学省のガイドライン [216] がいうところの「改ざん」にはならない。

科学の周辺

では、『文藝春秋』誌の記事に、「客観的で検証可能」といえるほどくわしいデータ・資料が載っていたらどうだろうか? 掲載先が○〇大学の広報誌だったり、××学会のウエブサイトだったりしたら? ——これは何を「科学コミュニティに向かって」公開したものとみなすかの問題である。判断はわかれるところであろう(16)

この問題に対する最も保守的な基準は、専門誌に査読を受けて掲載される原著論文 (original paper) だけが保護対象だと考えるものである。そもそも研究不正を禁止する必要がどうしてあるかといえば、それが「研究者集団による研究の質的管理に対する違反」[藤垣裕子 44: 11] だからだ。科学コミュニティが真理を追究する機能を守るために研究の質を管理するのだから、真理追究に関係しない内容は放っておいても (科学にとっては) 実害はないわけである。多くの分野では、専門誌に掲載される論文によって流通する知識がその分野での真理追究機能の中心を占める状態が確立している。そうすると、専門誌において新規な成果を発表する論文——原著論文——さえ守っていれば大丈夫、という感覚がその分野内で共有されていることがある。そうした場合には、査読制専門誌の原著論文以外で公開される研究成果は問題視しない科学者が大勢を占める可能性がある。

もう一方の極には、どのようなかたちであろうと公開された以上は科学コミュニティにおいて参照される可能性があるのだから、公開情報は何でも対象だという立場がありうる。この立場からすれば、一般向けの雑誌や書物、新聞やテレビ、ウエブサイトやSNSでの発言に至るまで、公開された資料やデータはすべて特定不正行為を構成しうるのだということになる。

実際のところ、個々の科学者は、この両極の間に幅広いグレーゾーンを設定して、どれくらいコストをかけて資料とデータをチェックすべきかを、状況に応じて決めるだろう。専門誌に論文を投稿するのと、SNSに分析結果を投稿するのが同列であるわけがない。多くの科学者は、前者においては注意深くデータと論理をチェックするであろうが、後者においてはそこまでは注意深くない。科学制度によって得られる品質保証は、有るか無いかの二者択一なのではなく、その程度の高いものから低いものまで、さまざまなレベルのものにわかれているととらえておくのが現実的である。


科学コミュニケーション

政府に雇われた専門家の活動は、その大部分が制度としての科学の外側に位置する。彼らは政府に対して助言を提供しているのであり、科学コミュニティに向かって研究成果を公開しているという意識はおそらくない。そうした助言について、科学という制度による品質管理がじゅうぶん効果を発揮するとは期待できない。

もっとも、科学外の活動であっても、科学者に期待される役割というものがある。科学者としての主張に説得力を持たせるには、科学としての装いが必要がある。そのために、主張を裏付ける「科学的」論拠をどこかから持ってくることになる。

まず期待されるのは、科学が創り出した知識を引っ張り出してきて、科学の外の世界に紹介することだ。この種の活動を、本稿では「科学コミュニケーション」(17) と呼ぶ。

科学の不確実性

科学コミュニケーションにおいては、素人に向けて、ある分野の科学研究から得られた知識を紹介する。そのための知識はどこから来るのだろうか?

専門の科学者なら当然正しい知識を持っているはずだから、単にそれを披露してもらえばいいだけだ。そう素朴に考える人は多いだろう。定番の教科書を読めばいいのではないかと思う人も多いかもしれない。通説が確立してから長い時間が経過してほぼ異論がないような内容——たとえば統計学の基礎理論——を学びたいという目的なら、たぶんそれで大丈夫である。そのような知識に関しては、科学者の間で見解がほぼ一致しており、教科書の記述もほぼ一定しているだろうから、よほどダメな人/教科書をつかまない限りは、通説通りの内容が手に入るだろう。不安であれば、複数の情報源で記述が一致していることを確認すればよい。

しかしごく最近発見されたばかりの新興感染症について的確な対策をとるための知識となれば、そうはいかない。コロナの場合、中国の一部で広がっていることが確認されたのが2019年末のことであった。2020年前半では、この新しい感染症はどのように伝播するのか、感染力はどれくらいか、どんな症状がでるのか、致死率はいくらか、有効な治療法はあるのか、等に関して世界中の科学者がデータを集め始めた段階である。最先端の研究がどうなっているかの全体像を把握することはむずかしい状態だった。コロナ関連項目を盛り込んだ教科書をこの段階で無理矢理作ったとしても、それは執筆時点までに発表されていた根拠薄弱な説を紹介したものにしかならない。その教科書が出版されたころには、すでにその説は後続の研究によって否定されている可能性が高い。データ捏造や改ざんといった不正がなく、科学者が真摯に真理を追究していたとしても、そこで得られた成果はそれほど確実性の高いものにはならないのである。

この問題は新興感染症に限ったことではない。新興感染症ほど極端でなくとも、医学的な知識の利用においては常に相当の不確実性を覚悟しなければならない。これは医療関係者の共通の認識であろう。それには、医学/医療の持つ特色が関係している。まず、生物をあつかう実験や観察は安定性が低く、物理学や化学のような頑健な研究結果が得にくい。また、医療の対象となる患者は十人十色だから、患者によって参照すべき研究がちがう。そして、新薬や新治療法、新しい検査機器などがどんどん投入される分野であるため、それらの新規技術の効果を見極めるのが大変である。このように不安定で多様で変化が激しい分野において、的確な意思決定のための信頼できる知識を得ることは、専門家といえども容易でない。

ところが一方で、医学/医療においては、専門的な知識を専門外の人々に伝えて納得してもらうことの必要性が高い。薬を飲ませたり身体を切ったりする侵襲的な医療行為は、患者の意思に反しておこなうことができない [手嶋豊 418: 45, 249]。また、結果に対して刑事的・民事的責任を問われたときに、正当性を立証できる根拠が必要である。こうした事情から、不確実な医学的知識に基づいて、専門家だけではなく素人をも説得できる根拠を用意しなければならなくなる。

エビデンス・ベースドの思想

これらの問題に対する現実的な対策として1990年代に提唱され、医療の世界で普及してきたのがEBM (evidence based medicine) である。 EBMとは「個々の患者の医療判断の決定に,最新で最善の根拠を良心的かつ明確に,思慮深く利用する」[Sackett ほか 310: 2] 方法論をいう。

外部の臨床的根拠は,従来認められていた診断検査や治療を無効にし,さらに強力かつ正確,有効,安全な新しいものに置き換える。

優れた医師は,個人の臨床的専門技能と最善の利用可能な外部根拠をともに利用する。どちらか単独では不十分である。〔……〕最新で最善の根拠なしには,臨床行為は急速に時代遅れになり,患者に有害となる危険性がある。

——Sackett ほか (1997=1999)『根拠に基づく医療』[310: 2]

EBMにおける「最新で最善の根拠」は、医学文献のかたちで発表された研究成果を主な源泉とする。医師は、意思決定すべき事柄について問いを立て [310: 22-30]、それに沿って何らかのエビデンス供給源 (evidence resource) によって研究成果を検索する [310: 45-76]。そうして問いに関連する研究成果を集め、それらの妥当性と重要性を批判的に吟味 [310: 80-149] した上で、患者に適用できるか [310: 158-181] を考える。もちろんこういう手続きをとったからといって、不確実性がなくなるわけではない。しかし、不確実ななかでも最新で最善の根拠を得るための手段を尽くしたのだということではある。非専門家にとっても、それがその時点で望みうる最善の方法であったということであれば、納得せざるを得ないであろう。

これを可能にしたのが20世紀後半の情報技術の発展である [310: iv]。論文が電子化され、標準的なデータベースで検索可能になり、最新の研究成果をふくめた系統的レビュー等の信頼性の高い2次的文献の整備が進んだ。多忙な医師が実際にEBMを採用するには、このように有用な研究成果を迅速に探すための電子的エビデンス供給源を確立することが必須であった。

EBMは医療上の意思決定に特化した方法論であるが、その基本的な発想は、健全な科学コミュニケーションの方法論——特に意思決定に特化したそれ——に重なるものといえよう。科学は日々新しい知識を生み出し、それを記述した文献を蓄積していく。今日の環境では、それらはデータベースに登録される。何かの意思決定をしなければならない場合は、まず問いを立て、問いに関する文献を適切なデータベースで検索し、見つけた文献を批判的に吟味して、それらを総合していくのである。

こうした手続きを踏むことで、「エビデンス・ベースド」な科学コミュニケーションを成立させることができる。このスタイルのコミュニケーションにおいては、主張すべきことについて根拠となる文献が必ず参照される。受け手はそれをたどって、文献の記述内容を確かめ、その妥当性と信頼性を自ら判断することができる。

日本のコロナ対策と科学コミュニケーション

エビデンス・ベースドのコロナ対策をとるなら、まずは意思決定に際して必要となる問いを整理し、世界中で日夜量産されるコロナ関連論文を網羅的に収集し、批判的に吟味し、最新で最善の根拠をまとめたレポートを作成する研究者チームをつくらなければならなかった。しかし日本政府はそのような方針を採らなかった。

政府に雇われた専門家たちも同様であった。専門家会議は、2月24日から5月29日までの間に「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針の具体化に向けた見解」[365]、「新型コロナウイルス感染症対策の見解」[367] [369]、「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」[372] [373] [374] [375] [376] [377] [380] といった文書をあわせて10回出したが、そのうち4月までに出た6本では、文献参照がまったくない。

文献を参照しないのみならず、そもそも根拠を示して読者を説得しなければならないという意識が乏しかったようである。たとえば2020年3月2日「見解」にはつぎの一文があるのだが、根拠が何も示されていない。

これまでに国内で感染が確認された方のうち重症・軽症に関わらず約80%の方は、他の人に感染させていません。

——専門家会議 (2020-03-02)「見解」[367]

感染が確認された人は入院することになる。病院は患者からの2次感染が起きないよう厳重な感染対策を施すから、それ以降他の人に感染させる確率は低い。これは、「中途打ち切り」[Giesecke 52: 90] と呼ばれる問題の一種である。「約80%の方は、他の人に感染させていません」とは、この中途打ち切りの効果を考慮した推計なのかそうでないのか。それによって、評価はまったく変わってくる。しかしこの文書には、そうしたことを判断できる材料がない。

この「約80%」という数値に該当しそうなデータが、厚生労働省ウエブサイト上の「新型コロナウイルスに関するQ&A」[156] に載っている。このページに2月29日に追加された問12「集団感染を防ぐためにはどうすればよいでしょうか?」に、「一人の感染者が生み出した2次感染者数 (2月26日時点の国内発生110例の分析結果)」というグラフが載っている (図表2.2)。「約80%」がこれを根拠とするものなら、中途打ち切り効果を考慮しない数値であることは見当がつく。しかし専門家会議3月2日の「見解」[367] にはそう書いていないので、確証できないわけである。

さらに、このQ&Aのものと同様のグラフ (細部はちがう) をふくむ論文 [Nishiuraほか 263] が、3月3日に公開されている(18)。この論文が載った medRxiv は医学系論文の投稿前原稿を公開するプレプリント・サーバであるから、ここに載せた論文は「科学コミュニティに向かって」公開したものと考えておかしくない(19)。 1行余分に使ってこの論文 [263] の書誌情報を示しさえすれば、いちおうは科学内部で創られ、品質保証されている知識を参照しているという科学コミュニケーションの体裁を整えることができる。しかし実際には、このあとも、専門家会議はこの論文を参照することなく、「約80%の方は、他の人に感染させていません」という無根拠な文言を3月9日「見解」[369: 2] に載せている。

一見科学的な知識に基づいて専門家組織が意見を述べているように見えるが、知識の出所は明らかでなく、検証のしようもない。これはエビデンスがどうこういう以前の話であり、そもそも政府とその専門家たちはまともな科学コミュニケーションを展開してこなかったということを示す。


独自研究と科学外情報源

一般に、政府に対して科学的助言をおこなう専門家がとるべき行動は、つぎのようなものであろう。

前者がすなわち、通常のエビデンス・ベースドの科学コミュニケーションである。これだけで済むなら、それが望ましい。実際問題としてはそれでは時間的に間に合わないことが多々あるが、その場合でも、後者のように自分たちで発表した論文を参照するかたちにできるなら、いちおう科学コミュニケーションといえる範囲におさまっていると評価できる。

問題は、後者も間に合わない場合である。論文を書く余裕さえない状況では、まだどこにも発表していない内容をもとに議論する必要に迫られる。これは制度としての科学の外側で創られた知識による行動であり、本稿でいう意味の科学コミュニケーションには入らない。

こうしたものを、本稿では「独自研究」(original research) と呼ぶ。これはオンラインのフリー百科事典である『ウィキペディア』の用語(20) であり、「信頼できる媒体において未だ発表されたことがないもの」[Wikipedia 442] を指す。何を「信頼できる媒体」とするかについて確立した基準があるわけではないが、『ウィキペディア』日本語版はつぎの方針を示している。

一般的に、最も信頼できる資料は、査読制度のある定期刊行物、大学の出版部によって出版されている書籍や学術誌、主流の新聞、著名な出版社によって出版されている雑誌や学術誌です。常識的な判断として、事実の確認、法的問題の確認、文章の推敲などに多くの人が関わっていればいるほど、公表された内容は信頼できます。自己出版されたものは、紙媒体であれオンラインのものであれ、一般的には信頼できるとはみなされません。

——「独自研究は載せない」 ウィキペディア日本語版 [442]

「信頼できる媒体」に科学外のものもふくむ点は、ちょっと注意が要る。そうしたところ (たとえば新聞) に載ったものは「独自研究」とはいえないことになるが、しかし科学コミュニケーションでもない。これらは「科学外情報源」とでも呼んだほうがよいかもしれない (ただし、日本の第1波におけるコロナ対策では、そのような事例はあまりない)。

独自研究も科学外情報源も、科学の品質管理に服していない。そのため、データの捏造や改ざんがおこなわれている危険性は、通常の学術論文よりも高い。また、未だ公開の場での批判をくぐっていない独自研究は、とんでもない間違いをふくんでいる可能性も高い。このような場合、科学コミュニケーションよりも格段に強い猜疑と批判精神をもって向かう必要がある。科学が品質管理をしてくれないなら、科学の外側に、品質管理の仕組みを作り上げなければならないのだ。


日本のコロナ対策における独自研究とその問題

日本のコロナ対策は、そのほとんどが独自研究に依拠していた(21)。その中心となっていたのが、クラスター対策班である。ほかにも、厚生労働省には各地の自治体からの報告が集まるし、内閣官房なども独自にデータ収集や集計をおこなっていた。

専門家会議が提言などをおこなう際には、こうした組織による研究成果が参照されることになる。正式の会議に出す資料については、官僚によるチェックが事前に入ったという [齋藤智也 315: 61]。しかし、専門家会議メンバーは、正式の会議以外に非公式の勉強会をしばしば開いており、そこでさまざまなデータを見て議論を戦わせていたようである [アジア・パシフィック・イニシアティブ 21: 115] [河合 112] [牧原+坂上 203: 53]。そのような勉強会がなくとも、専門家会議はクラスター対策班とメンバーが重なっていたし、人脈を通じて資料を入手する機会もあっただろう [手塚 419: 75]。

そうした独自研究の成果や、それに基づく意見のなかには、本稿でいうところの低レベルの問題がいろいろあった。そうした問題は、つぎの3種類に大別できる。

第1に、事実認識が間違っている、というタイプの問題がある。上でみた、飛行機での感染例はないという誤った認識に基づいて観光振興政策の当否が論じられていたような事例が該当する。本稿でこれからあつかっていく例としては、日本の保健所は複数の感染者の共通の感染源をさかのぼり調査によって探索すること (いわゆる「クラスター対策」) に力を入れていた、という主張 [専門家会議 380] がある。すくなくとも2020年3月末までに実際に見つかっていた感染者のデータからはそんなことはいえないのだが、これは5章で論じることにしよう。

第2のタイプは、多義的なキーワードを使って勘違いを誘発する手法である。たとえば「クラスター対策」ということばは、専門家会議の主張 [380] では、複数の感染者の共通の感染源 (誰から/どこで感染したか) を中心に探索する作業を指す。一方で、保健所の積極的疫学調査の手順を示すマニュアル [国立感染症研究所 139]では、「クラスター対策」は感染者の接触・行動歴を追って感染ネットワークを特定していく作業全体を指しており、その対象は感染源だけではなく、その人が誰にうつしたか (2次感染) をふくむ。そして実際のところ、保健所が力を入れて探索していたのは2次感染のほうであり、感染源ではなかった (5章参照)。後者の意味で「保健所はクラスター対策に力を入れていた」というのは誤りではないのだが、それを「保健所は感染源の探索に力を入れていた」という意味にとってしまうと誤りである。

この「クラスター対策」問題は、日本政府と専門家が「クラスター」(cluster) ということばを多義的に使っていたところから派生している。その語源をさらに探ると、疫学用語に近い (しかしかなり内容のちがう)「クラスター」と、ネットワーク科学用語としての「クラスター」と、日本の専門家が独自定義した「クラスター」の3種の語義が入り混じった複雑な状態になっている (4章)。そのために一見わけがわからないのだが、いったん切り分けて整理してみれば、その内実は、多義語をそれと悟られないよう混在させて読み手の錯誤を誘う古典的な詭弁(22) にほかならない。

第3のタイプは、何をどう計算したのかわからない (したがって再現性のない) 数値である。たとえば前述の図表2.2は2020年2月29日に厚生労働省のウエブサイトに載ったものだが、データはどこからどのような手続きで得たのか(23)、分析の対象とした110件の感染者のデータをどう選択したのか(24)、2次感染者の数をどう数えたのか(25)、といった情報がほとんど不明である。 3月中旬に大阪府・兵庫県に対して専門家が示したとされる感染者数の将来予測 [大阪府 292] も、当時の感染者数の何らかの推定値を初期値として、そこに何らかの数学的モデルを適用して予測を導いたもののはずだが、初期値の推定方法も予測のためのモデルも示されていない(26) ので、何をやっているのかわからない [田中重人 412]。こうした基本的な事柄が隠されている非科学的な数値について、算出手続きを信頼することはできない。政府や自治体がそれを真剣に受け取って政策的議論の土台にしてしまったこと自体が、奇妙な話である(27)

本稿では、これらのうち第1と第2のタイプの問題を中心にあつかう。第3のタイプはあまり出てこない。というのは、計算方法がわからないから再現性がないと指摘するのは簡単なのだが、では本当はどうやって計算したのかを突き止めようとすると、必要となる知識の専門性が途端に上がって高レベルの問題になってしまう(28) からだ。これに対して、第1、第2のタイプに関しては、関連する資料を丹念に読み込んでいけば、関連する問題についてだいたい見当がつくので、専門的な知識はとりたてて必要としないことが多い。そもそもどんな資料を読むにも、あつかわれている事柄の具体的な事実関係を確定するとか、ことばの定義を突き合わせて概念を正確に理解するとかいう基礎的な作業がまず必要になる。これらの作業を地道にやっていくことが、第1と第2のタイプの問題を解決する王道なのである。コロナ第1波に関する資料についてこの第1と第2のタイプの問題を検討していくだけで、相当の量になってしまう。そして、次章以降でみるとおり、「日本モデル」の重大な問題点の多くは、そのような文章読解と概念理解の問題に帰着する。第3のタイプの問題が重要でないというわけではないのだが、そのような事情で、本稿の視界にはあまり入ってこない。

こういう低レベルの問題群がなぜこれまで突っ込まれないまま見逃されてきたのか、訝しむ向きもあるかもしれない。原因のひとつは、「専門家は科学的知見に基づき、政策を提言」[77] するものだという根強い思い込みがあるためだろう。もちろん専門家は科学的助言のための役割を託されているのだから、科学的知見に基づいて助言をおこなうことが期待される。だが、彼らが本当にその期待通りに行動しているかどうかは、別の話のはずである。期待と現実を混同して、専門家の言うことは科学的知見に基づいているはずだという錯誤(29) に陥ってしまう、という問題が、ひとつにはある。

しかし、変な説明が流布しているのに誰も文句を言わないので既成事実化してしまうというのは、科学的助言以外の事柄でも起きるので、実は珍しいことではない。ほかの資料と突き合わせないと説明が変だということ自体が見えてこないから、そうした資料にアクセスできる立場の人がかなりの労力をかけて検証作業をしないといけない。政府や企業の不祥事に際して特設されて真相究明の役割を担う、いわゆる「第三者委員会」などは本来そうした作業を受け持つはずで、そのための権限をあたえられているのだが、実際には当事者からの聞き取りやそこで用意された資料をそのまま追認する機関になっていることがよくある [八田進二 62]。

コロナの場合、政府内に事後的に設けられた有識者会議が報告書 [341] を出したが、コロナ対応でつくられた多くの文書の記述について逐一裏をとるようなことはしていない。民間団体が検証を目指した「民間臨時調査会」の報告書 [21] も、専門家会議が根も葉もない作り話を広めていたのではないかといった疑いを持つことなく、文書や聞き取りに基づいて「検証」を進めている。政府や企業の不祥事のたびに見慣れた光景が再演されただけ、という側面は確かにある。

しかし一方で、コロナ対策に関しては、特別な権限を持たない素人でも、頑張れば相当のことを調べられる。 1章で述べたように、誰でもアクセス可能な記録がさまざまな人や組織によって残されているからである。時間と労力さえかければ、そうした記録を突き合わせてコロナ対策のどこがおかしかったかを指摘することができる。前述のような低レベルの争いであれば、専門的な知識もあまり必要としない。 3章以降では、第1波前半 (2月後半から4月初頭) に喧伝された「日本モデル」に関して、専門家会議の言説を中心に検討していくことにしよう。


  1. ^ 「Go To」キャンぺーンは、「トラベル」(観光)、「イート」(飲食店)、「イベント」(文化・芸術・スポーツ)、「商店街」の4分野からなる産業振興策である [21: 287]。計画の発端は、コロナ第1波の流行が本格化する前の3月上旬までさかのぼるとされる [竹中治堅 408: 156-158]。
  2. ^ この雑誌刊行とおなじ8月7日にオンラインの『文藝春秋 電子版』に尾身茂のインタビュー記事 [280] が載っているが、そこには「聞き手・広野真嗣」の表示がある。冊子版の『文藝春秋』9月号記事 [279] には広野の名前はなく、著者「尾身茂」が単独で書いた内容を収録した体裁になっている (途中に2か所、聞き手あるいは第三者が書いた態の解説が挿入されているが、これらの解説部分の書き手が誰であるかの表示はない)。これらふたつの記事の内容の差はほとんどない。また、同日に文藝春秋のウエブサイト『文春オンライン』が「広野真嗣」の著者名で掲載した記事 [69] は、尾身の発言を引用しつつ著者 (広野) が解説を加える形式になっている。
  3. ^ このように長期間にわたって情報が伏せられていたことの弊害は大きい。たとえばトラベルジャーナリストの橋賀秀紀は飛行機内での感染リスクを論じた7月16日のネット記事で「3月23日に神戸発那覇行きの機内で2人への感染が濃厚な事例があった」[58] と書いており、おそらく4月当時の報道のどれかを参照したのだろうが、同時に「これまでのところ国内ではクラスターが発生していない」とも書いてしまっている。これは誤った情報であるが、当該クラスターのことが広く報じられていなかった以上は、このような誤情報が拡散することは避けられない。当該クラスターに言及する報道が出てくるのは、11月以降のことである [毎日新聞 417] [朝日新聞 266]。
  4. ^ 当初調査 (感染拡大防止に直結する) よりも1か月後の追加調査 (感染拡大防止に直接には結びつかない) のほうが回答率が高かったという結果は、非常に興味深い。後者のほうが学術的色彩が濃く、「濃厚接触者」として行動制限を受けるおそれもないので、協力しやすかったのかもしれない。もっとも、追加調査の時期 (4月下旬) は全国的に緊急事態宣言下にあり、対象者の生活状況が大きく変わっていたことなども影響した可能性がある。
  5. ^ おそらく、4月下旬の追加調査時に判明した6人のほか、4月初めの調査で有症状だったが検査を受けなかった者が2人。
  6. ^ おそらく、調査にまったく協力しなかった14人と、初めの調査時には無症状であったがそのあと連絡がとれなくなった5人。
  7. ^ 通路をへだてた右隣のさらに隣の席は対象になるのに、それよりずっと距離の近い、すぐ左前の席 (幸い空席だったようであるが) は対象外という、何の合理性があるのかわからない範囲設定である。国立感染症研究所が作成していた積極的疫学調査の標準的マニュアルが定める「濃厚接触者」の範囲がそもそも狭い (5章参照) のだが、この事例はそれでは説明のつかない問題をふくんでいるように見える。
  8. ^ 感染を確認できなかった有症者は8人いる。Toyokawaほか [428] は、これらの有症者もコロナに感染していた可能性が高いとする。インデックス・ケースをふくめて感染が確認できた者が15人なので、人数の比はおよそ1:2である。
  9. ^ 「三密」「三つの密」とも書く (6章参照)。このことばの定義は4月7日に変更され、3条件そのものあるいはそれらがひとつでも存在している場を指して「3密」とする新たな定義が創られた。尾身の記事 [279] は8月に出たものだから、変更後の定義が使われていると考えるのが自然ではある。だが、実際にはそのように解釈すると不都合がある。詳細は7章参照。
  10. ^ 「密閉」でなくなるためにどの程度の換気が必要かについて、はっきりした基準はない。6章参照。
  11. ^ 1章で説明したように、新聞等の記事は、日本政府が集めていたコロナ関係データの源泉のひとつであった [小坂健 288]。つまり、政府や専門家が分析していたデータよりも、新聞報道のほうが「上流」に位置している。このような場合に「上流」にさかのぼって裏をとることは、調べものの定石である。
  12. ^ しばしば、「捏造」(fabrication)、「改ざん」(falsification)、「盗用」(plagiarism) の頭文字をとって「FFP」と呼ばれる [日本学術振興会 249: 46]。それぞれ日本語で発音した時の最初の音をとって、「ネカト」と呼ぶ流儀もある[白楽ロックビル 54]。文部科学省ガイドライン [216: 10] は、「捏造」を「存在しないデータ、研究成果等を作成すること」、「改ざん」を「研究資料・機器・過程を変更する操作を行い、データ、研究によって得られた結果等を真正でないものに加工すること」、「盗用」を「他の研究者のアイディア、分析・解析方法、データ、研究成果、論文又は用語を当該研究者の了解又は適切な表示なく流用すること」と定義している。これらは、故意におこなった場合だけでなく、「研究者としてわきまえるべき基本的な注意義務を著しく怠ったことによる」場合にも「特定不正行為」となる [216: 10]。本稿ではあつかわないが、特定不正行為を認定するために故意を立証する必要はない、というのは科学の不正禁止規範の厳しさを理解する上で重要な点である。
  13. ^ https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/32521222/
  14. ^ 処分を受けた研究者が処分の不当性を訴えて裁判に持ち込んだ場合は、通常の法に基づく争いになる。このため、科学の世界の規範がそのまま通るわけではない [羽田+立岩 61: 156]。
  15. ^ 研究機関や学会などの組織は、それぞれ独立した規定を持つ。だから、厳密にいえば、研究不正のあつかいに関するルールは組織ごとにちがうわけであり、何を不正とみなすかの境界線の引きかたにもバリエーションがありうる。とはいえ、国内の機関の作る規定で政府の決めたガイドラインよりも広い範囲を「不正」と決めることは実質的にむずかしい [羽田貴史 60: 16]。また、多様な研究分野を横断的にふくむ大学で統一ルールを作る場合には、全分野共通で合意が成立する「不正」の定義としてFFP (文部科学省ガイドラインでいう「特定不正行為」) に収斂する傾向がある [60: 34]。国際的には、FFPを超えた、より広い範囲の研究不正を問題にする方向に進みつつある [60: 4-14]。
  16. ^ 文部科学省のガイドラインに関する解説 [217] は、「研究成果の発表」にあたる例として、「投稿論文の他、ディスカッションペーパーや学会等においてデータや資料を提示して行う口頭発表」「インターネット上でのディスカッション」を挙げている。
  17. ^ 「科学コミュニケーション」(science communication) は「科学」と「コミュニケーション」というありふれた単語を組み合わせたことばであり、厳密な定義なく使われている。広義には、科学に関しておこなわれるコミュニケーション全般を指すこともあり、この場合にはたとえば学校でのキャリア教育の一環で科学者の平均的な生涯収入について調べる、といったものもふくみうる。本稿では、「科学が創り出した知識を科学の外の世界に紹介する」という狭い意味に限定して使う。
  18. ^ このプレプリントのデータ記述には、いろいろ疑問がある [田中 412] [濱岡 55]。なお、4月16日にアップロードされた改訂版 [264] ではデータの説明が大きく変わっており、分析結果として本文で言及される数値も微妙にちがう。
  19. ^ 前述のように、専門誌に査読を受けて掲載される原著論文だけが重要だと考える科学者からは、異論が出るかもしれない。コロナ関連で量産されたプレプリント研究成果をめぐる問題については、須藤+桑原 [400] や小泉周 [128] など参照。
  20. ^ 過去の『ウィキペディア日本語版』では、original research を「独自の調査」[吉沢英明 473: 51] と訳していた時代がある。
  21. ^ 本稿で取り上げる以外の独自研究事例は、尾身 [281: 394-406] など参照。
  22. ^ 多義語を駆使する論法は、官僚が多用してきた [永井+上西 226: 68-69] ものである。政府の主張をあつかう際の必須チェック事項といえる。
  23. ^ 各地の保健所が集めていた情報は中央政府ではほとんど利用不可だったといわれる [河合 112: 63-64] [小坂+瀬名 289]。初期には各保健所に直接連絡して個別事例に関する情報を得ていたという証言 [古瀬 49: 147-148] もあるが、それで積極的疫学調査の調査票情報がまるごと手に入ったとも考えにくい。感染者がいた場所の換気状況などは調査票にも記載していない [網野 8: 61] であろうに、どうやって調べたのだろうか? 仮にその情報があったとして、換気状況が異なる複数の場所に出入りしていた感染者はどう分類したのだろうか?
  24. ^ 2020年2月26日までの感染者国内事例数は171 [厚生労働省 155] である (横浜港に接岸していたクルーズ船と、武漢からの政府チャーター機をのぞく)。
  25. ^ 図表2.2で「スポーツジムの事例」とある2次感染者数9人の棒は、愛知県名古屋市のスポーツジムの事例 (5章参照) と思われるが、この事例では、スポーツジムでの感染を起こしたと推定される人物はスポーツジム以外でも感染を起こしていた [東海テレビ 421] と報じられている。これは2次感染者9人のなかに入っているのだろうか? 入っているとしたら、「スポーツジムの事例」というラベルを付けるのはおかしくないだろうか?
  26. ^ この文書 [292] は「大阪府・兵庫県内外の不要不急の往来の自粛」を提案していた。この文言について多義的な解釈が可能である点 [金井 103: 172] に鑑みれば、第2タイプの問題を併せ持つ文書でもある。
  27. ^ 米村慈人は、日本のコロナ対策においては、「本来専門家がおこなうべき基礎データの提示が尽くされず」「政策判断としての種々の対策の根拠も十分に明らかにされない状況」[468: 266] があり、「専門家会議やクラスター対策班が何を調べ、何を根拠に具体的な感染症対策の提言をしているかが、全く見えなくなっていた」[225: 17] という。
  28. ^ たとえば、専門家会議「状況分析と提言」に記載された「実効再生産数」 [牧野淳一郎 204] や、緊急事態宣言発出にあたって検討された「接触8割削減」の根拠となるデータ [岩本康志 89] などの事例を参照。
  29. ^ このような錯誤は、科学コミュニケーションにおいても生じうる。しかし、エビデンス・ベースドの方法論が採用されているなら、根拠となった文献をたどって検証することができるので、本稿のように独自研究に対峙する場合とは実質的にやることがちがってくる。8章での議論も参照。

全体目次

前章 | 次章

TANAKA Sigeto


History of this page:


Generated 2026-05-20 20:53 +0900 with Plain2.

Copyright (c) 2026 TANAKA Sigeto