日の丸と白き虹:国旗損壊罪問題に寄せて
10年ぶりにnoteを書きます。思想史関係の研究を行っている一個人として、現在の国旗損壊罪問題について考えたことを記しておきます。倉卒に書き上げたものゆえ、乱筆はお赦しください。
結論から先に申せば、法律による禁止には反対という立場ですが、表現の自由のような大原則や日の丸が背負わされてきた文脈、あるいは運用をめぐる線引きの問題とは別の方向からアプローチしてみたいと思います。
経緯の確認
我国旗の中央に点ぜる赤き丸形は、最早帝国を封ぜし封蝋の如くに見ゆることなく、将来は事実上その本来の意匠たる、昇る朝日の尊き徽章となり、世界に於ける文明諸国の間に伍して前方に且つ上方に動かんとす。
今から150年と少し前の1871年、岩倉使節団の一員としてアメリカへ渡った伊藤博文は、サンフランシスコでの歓迎会において上記のいわゆる「日の丸演説」を行いました。幕末から使われはじめた日章旗(以下、日の丸)について、封筒に使う丸い蝋のように国を閉じ込めるものではなくなったとし、昇る朝日のように世界に輝く存在になれればという希望が語られています。
では、現在はどうでしょうか。GDPのランキングは最盛期より下がってもまだ世界4位、オリンピックなど実際に日の丸が掲げられる場面もあり、確かに「上方」の恵まれた位置を保っているとはいえます。
一方、ヘイトデモで日の丸が誇示されることもあるように、「帝国」以来の負の側面は決して否認できません。日の丸は、同胞ではないと見做した相手を締め出すための「封蝋」としても使われてしまうわけです。
2025年7月18日、「日本人ファースト」を掲げる参政党の神谷宗幣党首は参院選に向けた街頭演説で、同党の憲法草案に対し「あほうだ、ばかだ、チョンだとばかにされる」と述べてから、在日コリアン差別の文脈で用いられることのある「チョン」の部分をすぐに撤回しました。しかし、民族差別と結びついてきた「チョン」の語を、参政党批判のために投げかける人が実在したとは思えません。撤回するところも込みでマッチポンプな話です。
参政党街頭演説の一聴衆が、抗議のためにバツ印をつけた日の丸を振ったのは、投開票前日である翌19日のこと。参政党側は10月、こうした例に触れつつ、刑法へ「日本国章損壊罪」を盛り込むことを打ち出しました。同時期には従前から国旗損壊罪の制定を目指していた自民党総裁の高市早苗首相もその動きを強め、翌2026年の現状へつながっています。
参政党案の場合は「侮辱を加える目的」という文言があったのに対し、自民党案の場合は内心の意図や目的にかかわらず外面の場所や方法に基づいて処罰を加えることを検討しているといいます。
久米邦武と日の丸
国旗損壊罪の問題を考えてみようとした際、私にとって大きなヒントになったのが、研究対象の一人である久米邦武(くめくにたけ 1839~1931)の思考法でした。久米は、帝国大学教授を務めていた1891年に「神道は祭天の古俗」という論文を発表したことが問題視され、帝大を追われた筆禍事件で知られる人物です。
その思考法については次の項目で具体的に取り上げることにして、先に、久米自身が日の丸をどう捉えていたかを見ておきます。
久米は幕末の佐賀藩出身で、後年、在藩時代の主君であった鍋島直正の伝記を書きました。この伝記は直正個人の事績以外も含めた時代史を描くもので、幕府の海軍伝習について記した際に「日の丸を国旗を最初に掲げたる船」として昌平丸と鳳凰丸の名前を挙げています。これらは佐賀藩の船ではありません。
一方、それ以前の部分でも先に日の丸の話が出ています。大船建造の禁が幕府により解かれた1853年、長崎奉行の水野忠徳が直正と相談しながら船を建造したというくだりの後に、幕府による大船建造の解禁を「鎖国の桎梏を解くとゝもに、船艦の日の丸旗章を飄して海洋を濶歩する開国の新紀元をなすもの」と呼んでいます。この伝記は全体として明治近代と直正の功績を結びつけようとする傾向があるため、これもその一環でしょう。
久米による日の丸への言及は、伊藤と同様の希望に満ちたものです。1905年の『東京朝日新聞』では「万歳の祝声の起りについて」という投書を行い、1889年に「万歳」発声が帝国大学で行われたのは外山正一・重野安繹と自分が決めたものだ(ただし発音がマンザイからバンザイへ自然に変化した)と主張したことにも表れているように、久米は、国民が広く共有しうるシンボルや儀礼を好意的に捉えていたと思われます。
問題は、そのようなシンボルや儀礼へ好意的な久米であっても、それらへの態度を法律によって定めるべきだと考えていたわけではない、ということです。日の丸それ自体の是非については議論が行われていない時代なので、別の例から類推してみます。
法律と道徳の関係はどうあるべきか
例えば「神道は祭天の古俗」は、人々が天を祀る儀礼によって国民の結合が果たされていると述べるくだりが最初のほうにあり、そこでは「令せずして」儀礼が行われているとされ、天皇の地位すらもそうした国民の在り様を前提に論じられています。これは、同時期の井上哲次郎による『勅語衍義』が天皇からの「命令」を重視していたこととは対照的です。
そして、筆禍事件の後に言論を再開した久米は、道徳があくまでも人からの「請求」によらない「自主」的なものであるべきだと論じつづけます。
1895年の総合雑誌『太陽』創刊号に載った「学界の大革新」では、「道徳を法律にて保護し奨励すべきにあら」ず、というように法律の関係性を明言しました。
また、同じく『太陽』に寄せた「倫理の改良」では、『論語』に「忠君」の語がなく「忠」という態度は君主に限らない様々な相手への誠実さなのだと主張しつつ、「請求され」たり「徒に言舌上に忠を自表」するのではなく「自発」的なものでなければならないことを強調します。「嘘言の公然と行はるゝならば、社会は闇黒に成果」てしまうのです。
晩年に発表した「封建時代の家族制度」は、より具体的に現代にも通じる問題を取り上げています。久米は、社会の流動化によって従来のような「家族の保続に難くな」った当時、「法律で之を固め」ようとする人々が「家族制度といふ声に雷同」し、「礼の形式」によって家族を存続させようとしているものの、それは効果の薄い「偽善」であり「愚の至り」だ、と反対しています。
家族の扶助義務を憲法に書き込もうとする現在の動きをも想起させるようなくだりですね。
久米は、儀礼や道徳、あるいは家族のいずれについても、その価値を否定しているのではなく、肯定しています。しかしそのうえで、それらが他人からの「請求」、とりわけ「法律」という形式によって強制されてしまうことには批判の目を向けているわけです。
こうした考え方は、日の丸について考えるうえでも参考になると思います。日の丸を尊重する、あるいは毀損しないという状態が、自発的に目指されることと、刑罰によって保たれるのと、どちらがより望ましいでしょうか。日の丸は大事だ、という方にこそお考えいただきたい問題です。
まずはこうした観点から、法案の提出は適切ではないと考えます。道徳の問題を法律の枠に入れたときに何が起きうるかという懸念については、後半でもまた触れます。
白い虹の図案
SNS上において法案へ反対する意見のなかには、日の丸をモチーフにした風刺画像の作成が散見され、ナフサ問題と絡めて黒色にしたものなども見受けます。また、ここからの法案反対運動や自民党・参政党などに対する抗議行動のなかで、実際に日の丸やそれに似たものをあえて損壊・汚損する事例も増えていくのではないかと予想しています。
それらは表現の自由に属するとはいえ、実際問題としては、大衆感情においてスポーツイベントなどを介した日の丸への素朴な親しみが醸成されてきているであろうことも否めず、特に法規制を望んでいたとは限らない層まで無用に敵に回してしまう恐れがあります。また、法案推進者の側からすれば立法事実が増えたと歓迎されるかもしれません。
そのため、日の丸に手を出すのとは違う方法でも、法案などへの抗議の意志を示すシンボルのようなものを作れないか、と思い、下記のような図案を考えてみました。
これは、「白虹貫日」という故事成語を元に文様化してみたものです。「白虹貫日」は『戦国策』をはじめ漢籍に見える言葉で、太陽を君主、虹を武器の象徴と解釈し、臣下が反乱を起こして君主に危害を加える予兆だとされます。では陛下を弑したてまつる意の旗か! とか、文字どおり「反日」の旗か! という声が聴こえてきそうですが、そうではありませんのでもう少しお読みいただければ幸いです。ここでは、近代日本でこの故事成語が参照された際に持たされていた、より深い意味合いを念頭に置いています。
ご存知の方もいらっしゃるとおり、それは1918年の『大阪朝日新聞』に関する「白虹事件」です。米騒動が起こっていた当時、寺内正毅内閣への批判大会を紹介した記事中に「白虹日を貫けり」の文言があったために当該号が発売禁止となり、編集者や記事執筆者が処罰を受け、社長の村山龍平が「国賊」として灯篭に縛り付けられる襲撃を受け、発行禁止処分を受けない代わりに経営陣が交代して政府への謝罪文を発表するという経過をたどりました。近代日本ジャーナリズム史における大きな転換点だったと考えられています。
白虹事件に詳しい有山輝雄氏の『近代日本メディア史Ⅰ』が簡単に指摘するように、“もとよりこれは記事の修飾語であって、兵乱・革命を煽動するといった類の文章ではない”ものです。
以下、実際の記事がどのような流れで書かれていたか、概観してみましょう(『近代日本メディア史Ⅰ』以外の先行研究を調査する時間がなかったため、すでに同じ観点から詳解した例があるかもしれませんが、ご寛恕ください)。
白虹事件の文脈と現在性
当該記事は1918年8月26日の『大阪朝日新聞』夕刊2面、「寺内内閣の暴政を責め猛然として弾劾を決議した関西記者大会の痛切なる攻撃演説」です。米騒動で国民が苦しんでいることを受け、新聞社・通信社の集まりで内閣への弾劾が行われました。その後の食事会の様子を書いた文章に、次のくだりがあります。
食卓に就いた来会者の人々は肉の味酒の香に落ちつくことが出来なかつた、金甌無欠の誇りを持つた我大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判(さばき)の日に近づいてゐるのではなかろうか、『白虹(はくこう)日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆が黙々として肉又(フオーク)を動かしてゐる人々の頭に電(いなづま)のやうに閃く
印刷途中で不穏さに気づいた社員の指示で、「金甌」から「閃く」の部分までが削り取られたバージョンも刷られました。なお、一般に白虹事件は「はっこうじけん」と読まれることが多いですが、「はくこうじけん」と呼ぶのがよさそうですね。
この文章のうち、「恐ろしい最後の裁判の日」は大きめの文字で組まれています。昔の新聞記事では特に意味もない箇所が大文字になることもありましたが、この記事についてはどうやら重要な部分を強調しているようなので、記事全体で大文字になっているところを並べてみます。
「関西新聞社通信社八十六社百六十六人の人々」(大会の参加者)
「陛下軫念遽かに還幸し民の疾苦を問ひ」(決議文の一部)
「内閣の暴政を罵らざるはない舌端火を発する熱弁」(各社代表の演説)
「恐ろしい最後の裁判の日」
「陛下の万歳を三唱し」(社長による閉会)
この記事では「陛下」への言及が二回あり、その両方が大文字になっています。決議文は、内閣が失政をしているが大正天皇は国民の苦しみを心配しており「閣臣未だ罪を闕下に謝したる跡な」いのはいかがなものか、という文脈です。
そして問題の「白虹日を貫けり」は「不吉な兆」とされ、その後のデザートコースで再び「内閣弾劾の声」が挙がったことにより「会衆は悪夢からさめたやうになつた」と述べられています。
つまり、ここでの罪はあくまでも天皇ではなく内閣に見出されているわけです。「白虹日を貫けり」は、天皇への反逆をそそのかすためではなく、内閣による失政が天皇へ累を及ぼすことを懸念する表現として読むのが妥当でしょう。このように、天皇に危険が及ぶ可能性を挙げて政権を批判するロジックの文章というのは実際にありえるもので、例えば久米邦武が『太陽』で1897年に書いた「旧政情実論」や1898年の「国体論」はそれに当たります。
そうした含意が汲み取られず、あるいは意図的に無視されて、『大阪朝日新聞』は攻撃されたわけです。米騒動を顕在化させたのは同年のシベリア出兵であり、『大阪朝日新聞』は他紙と異なり出兵反対を唱えてたびたび発売禁止処分を受けていました。寺内首相はロシア革命を踏まえて危機感を抱くなかで、新聞に「国体」や「皇室」を毀損する議論があると述べていたので、実際に皇室を冒涜したかのように見える文言が出てきたことは政権にとって都合がよかったのでしょう。
それにしても、対外戦争との兼ね合いによる物資不足への人々の不満という点では現在にも通じるものがあります(この1918年8月からはスペイン風邪の流行も始まりました)。他方で、高市内閣への支持や報道の状況は大きく違いそうです。動画というメディアの活用が目下の話題ですが、高市首相は総務大臣を務めていた2016年に「停波」の答弁を行った人物でもありました。
白虹事件からは、国家と政府、内閣と天皇、国民や「日本」といった観念を曖昧に同一視せず、それぞれの差異にしっかりと目を向ける必要を教えられます。例えば内閣への批判は日本への攻撃ではありません。それを覆い隠すために、国体や日の丸の尊重がことさらに提起されてきたともいえるのではないでしょうか。
対立のエスカレーションを招かないために
国体論は往々にして、他人を攻撃するための便利な道具として用いられました。悪名高いジャーナリスト・野依秀市は、1928年に別件で東京と大阪の朝日新聞社を「国賊」と呼んだ際、かつての白虹事件の記事について「金甌無欠の我が国体にもひゞが入らう」と述べるものだったと書いています(『国賊東京及大阪朝日新聞膺懲論』)。元の文章にない「国体」を捏造しているわけですね。ちなみに、村山龍平は1930年には貴族院勅選議員になっています。村山を国賊呼ばわりした人々は何を思ったでしょうか。
国体論をメタ的に捉えた早い時期の文献が、久米による1898年の文章「国体論」でした。その後、「国体」の声は段階的に高まっていきます。例えば、1910年のいわゆる大逆事件、1910年代後半のロシアやドイツにおける革命、1925年の治安維持法制定、1935年の天皇機関説事件などが画期です。大逆事件の後には教科書記述をめぐる南北朝正閏問題も発生し、久米も論争に加わりました。
南北朝正閏問題に際し、久米は「大逆」について興味深い議論をしています。それは、「一時の流行語」としての正閏論への「雷同」が「刑罰」の混乱を招き、「迷へる衆生」における「大逆罪」をもたらす、というものです。1909年に警察による「断罪」の無理やりさを暗に批判した文章もあることからすれば、第二次桂太郎内閣による社会主義者弾圧が度を越したためにかえって大逆事件を招いた、と考えていたのだと推測できます。
その後に宗教学者の姉崎正治(私は学統としては姉崎の弟子筋です)と行った論争も踏まえると、久米は、行政・司法や教育の場で道徳と結びつけながら過度に敵味方を区分する思考法そのものが「大逆」「破壊」を誘発すると考えていたことが窺えます。道徳と権力(特に警察力)の現在的な結びつきを警戒するがために、正閏論という区分基準を否定したのです。
1910年の大逆事件はほとんどが冤罪で、主犯にしても実行までは至っていなかったのに対し、1923年には難波大助による虎ノ門事件という形で、実際に皇族が危険にさらされる例が出てきます。難波は、1910年の大逆事件について新聞記事を読んだり、1921年の社会主義大会に対する官憲の横暴を目にしており、虎ノ門事件の直前に起きていた甘粕事件や亀戸事件にも怒っていました。警察による弾圧が、それに抵抗する側をも過激化させた例といえます。
かつて幸徳秋水が天皇の下での社会主義を説いていたように、国体論と社会主義は全く相容れないわけではありません。日本共産党も治安維持法の制定前後で変化があります。警察力の行使や法整備のように、道徳が行政や法律の手で強制されるようになっていくことが、むしろ道徳をめぐる対立をエスカレーションさせるという逆説があるのではないでしょうか。
日の丸の問題に戻ると、SNSでは、国旗損壊罪が制定されたら国旗を損壊してみせる、という意見表明がしばしば見受けられます。これは主に表現の自由への関心からの問題提起だと思われますが、他の思想上でも、元々は国旗を損壊するような発想までは持っていなかったような人に、むしろ反感を植え付けてしまうような効果が法制化にはあるのではないかと懸念します。
今回の国旗損壊罪はあくまでも損壊や汚損に焦点があり、単に尊重しないということよりは、侮辱すること、尊重しない意志を明確に示すことへ刑罰を与えるものであるといえます。関係者は今のところ、尊重義務そのものを課すことはないとも述べています。しかし、かつて国旗国歌法の制定時に侮辱罪を設けることがないと答弁されたのが今はこうなっているわけで、道徳を法によって定めるという点において、国旗国歌法に比べてもその道を開きやすいものです。
日の丸の尊重をことさらに煽り立てることは、本当に日本のためになるのでしょうか。いたずらに対立を激化させ、他に山積する様々な課題から目をそらさせるものではないのでしょうか。「中庸の道を愛せよ破壊的ならざれ」という久米の言葉を、むしろ国旗損壊罪を提案する側に呈して、本稿の締めくくりとさせていただきます。
筆者による久米邦武関連論考
「久米邦武筆禍事件と「国家神道」再々考―帝国憲法制定直後における「宗廟」と「宗教」をめぐって―」(『史学雑誌』第133編第7号、2024年)→PDFあり
「久米邦武の国体論と南北朝正閏問題―共和演説事件から『かのやうに』まで― 」(『日本思想史学』第57号、2025年)
「祭天と祖先崇拝の相克―筆禍事件以降の久米邦武における神道観の変遷―」(『宗教研究』第99巻第3輯、2025年)→PDFあり
「封建の残夢―久米邦武の歴史家活動と佐賀藩意識―」(『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』第20号、2026年)


aiに普通の国はどうなのかを聞いてみました ●問い 他国における国旗損壊罪で、自国の国旗のみ損壊を許す国って有る? ●答え 結論から申し上げますと、結論は「いいえ、基本的にはその逆(自国を厳しく処罰し、他国は不問、あるいは両方処罰)が一般的で、他国のみ守って自国を許す国は、世界…
はじめまして。大変説得力のある「ヒノマル論」頷きながら拝読しました。法律で強制された愛国心は無意味であるばかりか、本来の愛国心の発露を妨げかねず有害だと私も考えています。