《昭和36年、16歳で渡辺プロダクションと契約し、「歌の勉強をしてきなさい」と「ジャズ喫茶」に送り出された田辺さん。待ち受けていたのはちょっと不思議な世界だった》
前回お話ししましたが、僕がステージで初めて歌ったのはジャズ喫茶「新宿ACB(アシベ)」です。このお店はお客さんの熱気がすごかった。
また構造がちょっと変わっているジャズ喫茶もあって、客席が1階と2階に分かれていて、その間をステージがエレベーターのように上下に動いていくんですよ、シューッと。そのステージで僕が歌って、バックバンドの「ブルー・コメッツ」が演奏するわけです。
当時は昼夜の8回の出演でした。ほかのバンドも演奏するので、お店はおのおののバンドの「追っかけ」のお客さんたちで熱気がすごい。もう一日中、ワーッ、ワーッと。それで夜も更け、最終ステージに近づいてくるとお客さんたちもだいぶ出来上がっておられて…。
今でも覚えているのですが、歌いながらステージが2階にせりあがっていったとき、疲れ果ててヘロヘロだった女の子たちがスカート姿で足を広げて座っていた。歌いながら、その姿を目の前にするわけです。目のやり場に困りました。まだ少年でしたから。
《当時の「ジャズ喫茶」には個性があった》
場所柄というのもあるのでしょうか。同じジャズ喫茶なのですが、銀座の「美松」ではお客さんたちの熱気は新宿ACBより控えめで、歌と演奏を楽しんでいただいている雰囲気でした。年齢層も新宿ACBより高かった。美松はフロアがものすごく広かったんですよ。そこに銀座のお客さんという感じの方々が集まっていました。
一番ガラが悪かったのが池袋の「ドラム」です。ここはもうすごいところでした。新宿ACBもそうでしたけど、お客さんたちの熱気が半端でない。で、あまりにも生意気なお客さんをお店のボーイさんが楽屋に引っ張り込んで黙らせたり、飲み物を運ぶ銀のお盆で頭をひっぱたいたりしている。それがもう、日常茶飯事なんです。
ドラムのお客さんたちが激しかったので、ブルー・コメッツのリーダーだった鹿内孝さんはよくお客さんと喧嘩(けんか)するんですよ。ステージから「てめぇ、この野郎っ!!」って。それもしょっちゅうなんです。前回も話しましたが、鹿内さんは厳しい方でしたから。
《楽屋でも》
演奏の合間の休憩時間でもいろんなことがありました。ある日、出演者の誰かが、当時は「ブルーフィルム」といわれていた、いかがわしい映像をもってきた。それで楽屋で上映会が始まるわけです。まだ16歳だったのであまりにも刺激的で、下半身が硬くなっちゃって…。夢中で見ていたら、「ヤッチン(田辺さん)、出番だよ」って。これには焦りました。お客さんたちの前で変な姿はみせられませんから。出番待ちのピアノの陰で、深呼吸を繰り返して落ち着かせました。
ジャズ喫茶はほかにも「銀座ACB」や「テネシー」(銀座)などがあったのですが、出演しないお店もあるんです。それはプロダクションが個々のジャズ喫茶と提携しているからです。渡辺プロは新宿ACBと美松、ドラムなどでしたが、銀座ACBは東洋企画と。だから系統によって全然出ないお店もありました。(聞き手 大野正利)