第34話:わたしがいんちょう

 『ムゲン病院』に務める職員――顔も声も、背丈も人格も、そして『氏神常葉』と言う名前も全く同じ存在たちを司る、『院長』が待つ部屋。

 驚愕や緊張など、様々な感情が入り乱れながら、常葉はそっと足を踏み入れた。


 そこにあったのは、果てしなくどこまでも続く、広い部屋だった。

 病院の部屋と異なり、壁は白ではなく淡いクリーム色。床も、白いリノリウムではなく、どこか豪華な木目調の素材。

 屋根には目に見える形でLED照明が設置されておらず、まるで間接照明が降り注いでいるかのように柔らかい光が注がれ続けていた。


 そんな部屋の中にある空間の多くは、先程まで常葉が歩き続けていた廊下と同じように、『氏神常葉』の大群で隙間なく覆い尽くされていた。

 医師、ナース服、作業服――皆それぞれの衣装を着ていたが、その数は廊下とは比べ物にならないほど多く、何重にも並ぶ常葉による肉の壁が果てしなく構成されているようであった。


 だが、常葉の瞳が向いていたのは、日々の暮らしの中で大分慣れていた自分だらけの光景ではなかった。

 無数の常葉が取り囲む部屋の奥の空間を、彼女は無言で見つめていたのである。


「……」


 診察室にある机よりも遥かに豪華かつ高価なものであることが分かる、立派で大きな執務机。

 その机の上には、沢山の紙が散乱していた。それは様々な書類ではなく、沢山の画用紙の束であった。加えて周りには、多様な色を持つクレヨンが、無造作に転がっていた。

 豪華さと幼稚さ、不似合いな二つの要素が入り混じっている机の後ろに、大人が座っても余裕がありそうなほどの立派な革張りの回転椅子があった。


「~~♪」


 そして、その椅子にちょこんと座っている人物は、どこか楽しそうで、どこか悪戯げな雰囲気で、音程が外れた鼻歌を歌っていた。

 彼女は、回転椅子の大きさに対して明らかに背丈が小さく、広すぎる座面に体が半分しか埋まっていなかった。

 彼女は医師と同じ白衣を身に着けていたが、『大人用』の白衣を無理やり着用したようで、袖も裾も長すぎて、文字通りブカブカの様相を見せていた。

 彼女は、背中まで伸びる長い茶色の髪を有していた。


 その姿を見た時から、氏神常葉の時間は止まり続けた。


 間違いない、自分はその顔を、その姿を知っている。間違えようがないし、何年、何十年、何百年経とうが死ぬまで彼女の事を忘れる事が無い。

 だが、そこにいる彼女は、自分の記憶と決定的に違う所がある。

 自分が知る彼女は、不治の病にむしばまれ、骨と皮だけになりかけ、声すら満足に出ない程に衰弱しきっていた。

 しかし、目の前にいる彼女は、頬に肉があり、毛色も良く、肌も全身に血が流れている事を示す色を見せ、その長い髪にははっきりとした艶がある。

 間違いなく、彼女は『健康』だ。


「……」


 あまりの事に、常葉は声を出す事が出来なかった。

 口から音を出そうにも、様々な思いが入り乱れ、言葉が声帯を通過するのを拒否しているようであった。


 立ちすくみ、何もできない彼女をじっと見つめていた少女は、やがて鼻歌を止め、ゆっくりと唇を動かした。


「まってたよ、常葉先生」


 常葉の中の記憶にある、掠れ、途切れ、今にも消えそうな声とは全く異なる、はきはきとした、そして芯があるような声が、院長室の無限の空間に響いた。

 彼女はゆっくりと椅子から降り、豪華な机の前に立った。

 そして、腰に手を当て、自信満々な、そしてどこか嬉しそうな雰囲気を醸し出しながら――。


「そう、なぞにみちた『ムゲン病院』のいんちょうの『しょうたい』は、このわたし、薄手うすで真希まきなのです!」


 ――『院長』は自らの名前を、堂々と告げたのである。


 えっへん、どうだ、驚いたか、と言いたげなその姿を目に焼き付けた時、常葉の口から、ようやく言葉が漏れた。


「ま……真希……ちゃん……?」


 何故、なんで、どうして――彼女の口から続いたのは、質問のような言葉だった。

 だが、言っている常葉本人でも、それが答えを求めるために出たものなのか、それとも別の意図があったのか、分からなかった。

 目の前にいる存在、視界に映った『現実』を処理する能力が、要領を超えてしまっていたのだ。


 生きている。間違いなく、目の前に、薄手真希が生きている。

 あの場所で、ただ横になる事しか出来なかった真希が。二度と立ち上がれない、とまで言われていた真希が。

 そして、あの後どうなったかすら一切分からなかった薄手真希が、こうやって目の前に立っている。

 身長にしては大きすぎる白衣を纏い、『院長』と言う肩書を名乗り、健康的な体や声をもって、目の前に現れている。


「真希ちゃんが……なんで……どうして……」


 その直後、常葉は言葉を紡げなくなった。

 心の中で処理しきれず、抑えられなくなった感情が、とうとう目から『涙』と言う形で溢れ出したからである。

 そして、彼女は木目調の床に膝をついた。力が抜け、立っていられなくなったのだ。

 嬉しさなのか、悲しさなのか、安堵なのか、困難なのか、常葉には自分が何を考えているのか最早分からなくなっていた。


「あれ……先生……?」

「真希ちゃん……真希ちゃん……っ!」


 誰かが、自分の名前を呼ぶ音が聞こえた。不思議さの中に、自分を気遣う様な、優しい音が。

 だが、一度流れ始めた涙は、一向に止まる気配を見せなかった。

 目の前で、『薄手真希』が動き、語っている。見間違いでも何でもなく、間違いなく彼女は、『生きている』。

 その事実は、揺るぎようのない確かなもののように感じた。


 やがて、何度も何度も彼女の名前を呼び続けた常葉の口から漏れ始めたのは、謝罪の言葉だった。


「真希ちゃん……ごめん……ごめんなさい……私……あなたを……!」


 薄手真希――アパートの一室で、布団の中で怯えながら、常に考えないように必死にしていた名前。

 あの頃、常葉はずっと、その名前を呼ばないよう自分に禁忌を課していた。

 その名前の事を思い出してしまえば、自分が犯した罪の重さに、全てが押しつぶされてしまいそうだったから。


 でも、今、目の前にその『薄手真希』がいる。

 自分に課せられたあまりにも残酷な命令から逃れるため、『見捨てた』はずの存在が、目の前に立っている。

 新たな病院での生活の中で少しづつ薄れかけていたその『罪』の意識が、本人を目の前に、再び蘇ってしまったのだ。


「私は……真希ちゃんを……見捨てて……病院から逃げ出した……」

「先生……」

「私は……あなたから……目を逸らし続けた……心の中に……ずっと留めないといけないのに……!」


 ごめんなさい、本当にごめんなさい、許してください――懺悔ざんげの言葉は、やがて絶叫のような響きに変わった。

 まるで子供が泣き叫ぶかのように、常葉はただただ謝り続けた。

 もう二度と許してくれないかもしれない、自分はこの場所にいる資格はないかもしれない、そのような想いすら、彼女の心の中に現れてしまった、その時だった――。


「先生!!」


 ――今まで常葉が聞いた事も無い、彼女のものよりもさらに大きな薄手真希の声が、院長室の中に響き渡ったのは。

 そして、一瞬だけ常葉の涙が止まったのを見計らうかのように、白衣を纏った真希は言葉を続けた。


「ちがうよ、先生。先生はなにもわるくないよ。わたし、みんなしってる・・・・もん!先生は、ぜったい、ぜんぜん、わるくない!!」


 『院長』がそう言うんだから、間違いない――その言葉には、小さな体や見た目から推測される年齢に似合わない、堂々とした威厳が、確かに満ち溢れているようだった。

 

 やがて、膝をついたまま呆然とする常葉の前に、真希はゆっくりと近づいた。

 そして、ブカブカの白衣の袖からゆっくりと小さな手を伸ばし、常葉の掌を取った。

 その手の感触を、常葉は忘れていなかった。病室で何度も彼女が握った、あの手と同じだった。

 ただ、違う点もいくつかあった。今の真希の手にあの時のような弱々しさは一切なく、力強く、そしてどこまでも深い優しさが宿っていた。

 そしてもう1つは――。


「……だから先生、あんしんして」


 ――真希の手の方が、常葉の手を包んでいる、という事だった。

 

「真希ちゃん……」

「先生、おねがい。じぶんのことを、『わるもの』だってかんがえないで。先生は、ずっとわたしのことを、おもいつづけていたんでしょう?」

「でも……私は……」

「ううん。わたしはぜんぶしってる。先生がくるしんでいたことも、よろこんでいたことも」


 先生は何も悪い事をしていない。先生はとても良い人だ――真希は、不器用ながらもはっきりとした言葉と真剣な瞳で、常葉に訴えた。


「……真希ちゃん……」


 しばらくの沈黙を経て、常葉の口から出たのは、またも謝罪の言葉だった。

 しかし、それは『薄手真希』と言う存在に抱き続けた罪悪感に対するものではなく、先程までずっと泣き続けていた自分自身の醜態に関するものだった。

 お医者さんなのに、『天才医師』として活躍していたのに、まるで子供っぽい様子を見せてしまった事に、ちょっとした恥ずかしさを感じていた常葉に、真希は気にしていないという意志を示すように首を横に振った。


「かっこわるくなんてないよ。大人だって、泣きたいときはあるんでしょ?えーんえーん、って」

「……泣きたい時もある……」


 感情を露わにしても構わない、という事を示す真希の言葉に、常葉は以前、自分が『患者』に述べた言葉を思い出していた。

 怒りや辛さなどのネガティブな感情を押さえ続ける必要はない。時には、それを発散させる事も、生きていく上で大事だ――まさにそれは、今の自分にも突き刺さる内容だった。

 やがて、常葉は真希の少し小さな手の感触を確かめながら、ゆっくりと顔を上げた。

 その表情には、気持ちが少しづつ落ち着き始めている事がしっかり示されていた。


「……ありがとう、真希ちゃん」

「どういたしまして……えへへ……先生におれいをいわれちゃった……」


 照れるような表情を見せた真希であったが、すぐにその顔色は真剣なものに変わった。


「って、ちがうちがう、ちゃんといわないと……」

「真希ちゃん……?」

「うん……。わたしが先生を『いんちょう室』によんだのは、先生をなかすためじゃないってこと……」

 

 今までの事を、全て話す時が来た。病院の事、無数の『常葉先生』の事、そして、自分の事を。

 真希の言葉に、常葉は一瞬驚きつつも、すぐ覚悟を決めたような表情を見せた。


「……しんじられないし、とってもながいおはなしになるけど、きいてくれる?」

「勿論よ。真希ちゃんの言葉だもの、聞かない訳にはいかないでしょう?」


 そして、大きく深呼吸をした後、常葉はじっくりと話を聞く事にした――。


「……あのね、先生……わたし、いっかいしんじゃったの」

「……えっ」


 ――初っ端から飛び出した言葉に、再び驚きの表情を見せてしまいながら……。

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