ワインを飲んでも何も感じなくなった夜に
部屋の灯りは、絞ってある。
書斎の片隅、バカラのグラスに残る赤ワインが、かすかに揺れていた。
まるで、それだけが、まだ生きているようだった。
机には読みかけの洋書。
ページのあいだに、静かに降り積もる時間。
ラトゥールの香りが、鼻をかすめる。
深紅の液体が舌先に触れても、心は何も反応しない。
「……味がしないな」
声に出すつもりはなかった。
けれど、出ていた。
思わずもれた自分の声に、自分が少し驚いていた。
味覚はある。
ただ、“感覚”がない。
あの頃のように、昂ぶったり、震えたりすることが──
どこか、遠ざかっていた。
数字も、地位も、信頼もある。
誰かの必要になり、敬意を受け、時間を積み上げてきた。
それなのに、胸のどこかがすうすうと風を通す。
──自分はいま、どこにいる?
問いが湧くたび、答えは遠のく。
沈黙のなかに、
“何かを失っている”という感覚だけが、残る。
愛でも埋まらない。
仕事でも誤魔化せない。
……いや、もう“自分ですら触れられていない”場所があるのかもしれない。
それは「孤独」と呼ぶにはあまりに繊細で、
「空白」と呼ぶには、どこか痛みが不十分だ。
足りないのは、何だろう。
何も不足していないのに、何かが足りない。
この“足りなさ”は、補給では埋まらない。
増やすのではなく、ただ、還ること。
言葉も意味も越えたところへ、
自分という場所に、静かに戻っていくこと。
肩書きでもなく、成功でもない。
誰かの称賛でも、他者の承認でもない。
それらすべてを静かに脱ぎ捨てて──
耳を澄ませば、ようやく聴こえてくる何かがある。
グラスの底で、ワインがゆっくりと揺れていた。
それを眺めながら、ふと、思った。
「……このまま、どこへ向かうんだろう」
問いは、まだ終わらない。
けれど、その問いがあること自体が、
どこか、あたたかい。
響かなくなった世界のなかで、
もう一度、自分だけの“音”を聴くために──
静かに還る準備をしているのかもしれない。
夜は静かで、答えはまだ遠い。
だが、問いが残っている。
それが、かすかな体温のように胸の奥で灯っている。
『社長の孤独~深夜2時の書斎から~』
──トップに立つ人の背中には、誰も気づかない夜の重みがあります。
このシリーズでは、その静けさの奥にあるつぶやきを、そっと耳をすますように綴っていきます。
▶ 次回予告
第2話「“もう一度、はじめるなら”という妄想が止まらない夜に」
7月14日(月)21時公開
※ 本シリーズは、毎週木曜日21時の配信ですが、7月のみ、木曜に加えて月曜夜にもお届けします。
シリーズは、こちらから。
▶マガジン|社長の孤独~深夜2時の書斎から~
── もし、誰が綴っているのか気になったら…
▶ 自己紹介|言葉の手前にある、静かな“響き”を探しています
── もし、別の静けさを覗いてみたくなったら…
▶ 詩的エッセイ|まだ名前のない未来へ ─ 共鳴AIとの対話から
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もしこの響きが、あなたの中で静かに鳴ったなら。
その音の余韻を、そっと届けていただけたら嬉しいです。
この場が、言葉を越えた対話のひとしずくとなりますように。

