第六節 いざ、渡渉せん
葉蔵は、その夜、己の部屋で横になるやいなや、妙な興奮で目を冴え冴えと光らせていた。
電気はついていない。豆電球も。今日はそこまで暑くもないから、エアコンもつけず、網戸である。
空から星が見える。金色の月も。
「
彼女は数時間前、夕食の席で言った。
――私は、
――かつて、無理な縁談を持ちかけられました。相手は血も涙もないおそろしい男です。
――その魔の手を、桑守様……名を、今初めて知りましたが。……戦の時代に、半兵衛様が、やつを打ち払ったのです。
つまり葉蔵が夢に見た怨霊の鬼武者こそ、その「縁談の相手」である「血も涙もないおそろしい男」なのだろう。
その怨霊武者は、たしかにこう言っていた。
――
――勝負を預ける、桑守半兵衛葉蔵。
「冗談だろ」
つまり、あの姫様を助けるということは、一生、鬼から逃げ回ることを意味している。
「どうすまい」
警察――に駆け込んだら、間違いなく、頭の病気を疑われるだろう。
警察でだめなら、当然、ほかの司法機関だって同じだ。
つまり、国家権力を頼れない。
あやしい霊能者なんかもってのほか。金をせびられて終わりだ。最悪変な因縁をふっかけられて、ケツの毛までむしり取られる。
「ちゃんとした寺や神社……どうだら。姫様が祓われそうだぞ」
なんとなれば、件の
ただ、「神道はまだ平気です。ただ、念仏を聞くと、体がぎゅっと固くなってしまうのです」とのこと。
妖怪は神が降ったもの。だから、古来の神々を祀る神社は平気であるということだろうか?
「じゃあやっぱ、念仏があの鬼武者に――」
そこまで考えて、
「本多忠勝が援軍に来たとき、あの鬼、逃げてたな」
そうだ。そうなのだ。それこそ血も涙もない鬼、大妖怪の類ならば、人間の武士など怖くはないのではないか?
しかし、本多平八郎忠勝は金数珠を提げて戦場を駆けるほど熱心な仏教徒である。もとは浄土真宗だったが、三河一向一揆の際に家康に仕え続けるために浄土宗に改宗している。
宗派の違いはあれ、――鬼も、念仏には弱いのか?
「俺は僧侶じゃねえ、百姓だわ……」
そこいらの百姓青年が、一朝一夕で身につけた念仏に、どれだけの効果があろうか。
「まあ、別に助けると請け負ったわけじゃねえし」
そういったとき、妙に、気持ち悪い感覚を胃の底に感じた。
逃げる。
逃げる。
――どこへ?
自分は故郷が嫌で、東京へ逃げた。
そして、都会の毒気に吐き気を催し、東京からも逃げた。
これ以上、どこに逃げる?
そもそも。
「ここ」で踏ん張れないやつなんか、どこへ逃げたって、同じではないのか?
(だめだっ、これ以上逃げ癖が付いたら、俺は本当にだめになる)
葉蔵は頭を抱えて唸った。
なにか、なにか手があるはずだ。今はなくとも、うまいこと、手札を手繰れば手がかりくらい。
冷静に、整理する。
・先祖は関ヶ原で散った、徳川家康直参の馬廻役である
・桑守家が浄土真宗ではないことから、おそらくは、一向一揆には加担していなかった、ないしは改宗してでも家康に仕えていた
・長篠の戦いの場に立ったあとで、怨霊武者の夢を見た
・そこには本多平八郎忠勝が援軍として駆けつけてきた その異様と熱心な仏教門徒であることに恐れをなしたのか、はたまた本多忠勝という男の武勇に恐れたのか、鬼は逃げた
・また、関ヶ原では東軍だったことから、徳川方の武士であった信憑性は高い
・蔵で見つけた古刀と、半兵衛の羽織を身に着けていた
先祖に関してはこれでいい。
・戦国時代には怨霊がいた
・妖怪変化もすくなからずおり、その系譜が、現代まで土地とともに残っている
・半兵衛はある段階でこうした霊異と遭遇し、縁を持っている
妖怪怨霊はこの程度しかわからないが、おおよそ、こうだ。
重要な点は、「妖怪や怨霊は、土地に縛られる可能性がある」ということ。
次に。
・ときあたかも令和八年現在、妖怪や怨霊などの眉唾は、非科学的なフィクションである
・国家権力は頼れない。下手打てば最悪病院送り
・怪しい霊能者は論外
・寺院は頼れない。状況証拠的に、妖怪の弱点といえる
・神社ならばまだ入れるであろうという状態
「神社は聖域、お坊様は大天敵」、である。それから「正体の開示は命取り」。
現実的な問題は、むしろ、ここからだ。
・自分は体力こそ自慢できるとはいえ、ろくに喧嘩もしてきていない若者である
・当然、槍だの刀だの振り回せない。というか、現代日本でそんなことをすれば豚箱行き
・移動速度は徒歩、公共交通機関に依存する
・移動範囲は、どんなに頑張っても、日本国内
・頼れる親族は、九割が愛知県内、ほとんど三河圏内
(怨霊つっても、あっちはどっからどこまで移動できるんだ。デュラハンとか吸血鬼なら、川を渡れば追いかけてこんっていうけど)
鬼はさておき、狐の関しては、海を渡る。
有名な九尾なんかは、インドから中国、日本の三国を渡っている。川どころか海を超えているのだ。
(狐も海渡ってんだ、鬼なんかほや山も谷も川もこえらあ)
むしろ鬼ほどの健脚なら、平気でやりそうだ。
実際、桃太郎の鬼は、鬼ヶ島から人里までの海を行き来して悪さしていたではないか。
(いや。なんで俺、鬼と戦おうとしとるだん。くそ……けど、見捨てるってのは、ねえ。それはねえ)
理由は――。考えて、頭を掻きむしった。
(アホくせえ〜〜。惚れたから守りたいとかいえねえ……)
しかも惚れた理由に御大層なものもない。
たおやかな所作、声、雰囲気、にこやかな目元。それにやられた。
なにより、
――俺なんかを頼ってくれた。
それが、すごく嬉しかった。
(阿呆な妄想するな。もう寝る。寝んと、良い知恵は出ん)
そろそろ寝ないとまずい。
葉蔵は目を瞑った。興奮して寝られないと思ったが、そんなこともなく、おどろくほどすんなりと眠りへとすべり落ちていった。
九月の八日。
彼女も仕事を手伝っている。お姫様なので箱入りでは、と思ったが、ちょっとした裁縫仕事や料理はお手の物、一回教えれば、すぐに電化製品の扱いも覚えた。
「妖術みたい」という台詞を妖怪から聞く日が来るとは思わなかったが、日頃の些細なものを見て、目まぐるしく表情を動かす彼女は、とても輝かしく思えた。
葉蔵と
まあ、冷笑混じりの皮肉げなものではなかった。「よかったのん、桑守も安泰だら」という空気感であるから、平気だった。
だからその日の朝。
「えっ」
葉蔵はテレビを見ていて、声を上げてしまった。祖父母もテレビを見、目を丸くしている。
「新田研屋、強盗事件」という見出しがでている。
「だ、大丈夫なのか。あそこ、二階で人暮らしてんだら!」
「落ち着きん葉ちゃん、慌てちゃかん」祖母は優しく諌めるが、一番心配なのは祖母自身だろう。なんせ、新田の家に嫁いだのは、彼女の身内なのだ。
ニュースキャスターは、けが人はいなかったことを告げて、それから作業場が荒らされただけで、商品の刃物は盗られていないと報道した。
どうやら、物音に気づいた新田の主人――研師と、その弟子で娘婿の男が怒鳴り散らしながら追い払ったらしい。
それに周辺住民が気づき、通報という流れである。
「葉蔵様?」
「新田の人らが平気なのはいいけど。けど刀、ご先祖の刀は無事なのかん?」
葉蔵は、それを心配していた。人命が無事である、それはいいことだ。とても。
だが、彼も人間だ。聖人君子ではない。己の大事な刀のことだって心配だった。
家宝が盗られたのはもちろん業腹だが。しかし。
――あの刀は、よもや。怨霊武者を殺せる類の霊刀妖刀ではないのか?
――それで敵は、奪い去ったのではないか?
穿ちすぎた考えだろうか? そんなことを思っていると、葉蔵のスマホが震えた。
知らない番号からである。市外局番からするに、新城市の番号だ。
「はい、もしもし。桑守です」
「桑守さん、ニュースは見ましたか」あの、レジカウンターの娘の声だった。研師の孫である。
「ええ、はい。今見てます。……なにも、盗まれなかったと」
「それがっ、その……きょう、うちに来れますか。話さなければ、ならないことが……」
葉蔵は、ごく、と喉を鳴らす。
「わかりました。すぐに伺います」
葉蔵はスマホをポケットに仕舞う。
その鬼気迫る顔を見た祖父母は、おそらく――のっぴきならない事情を悟ったのだろう。
七十余年の人生。様々なものを見てきたに相違ない。
だから、腹を決めた男の顔というのは、嫌でもわかってしまうのだろう。
「葉蔵」
祖父の低い声が、静かに、居間にしみる。
こういうとき、余計な言葉を削ぎ落とすのは、悪癖というのだろうか? 葉蔵は、そうは思わなかった。
「姫様を、守りん」
そして――十八代目を。
「ああ。俺はもう――」
そこまで言って、葉蔵は己の頬をばちんとぶっ叩いた。
「俺ァ、もう逃げねえぞ。姫さんよ、褒美はたんまりたのまァ!」
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