第五節 五百年、斯くも近く

 それは、いまからざっと五百年ほどは遡ろうか。

 永禄六年(一五六三年)。この頃の三河は、松平家康(のちの徳川家康)と一向宗(浄土真宗)との間で激しい対立があった。

 いわゆる、三河一向一揆である。

 昨日の身内を今日の敵とする奇妙なこの戦は、各地で局地的な戦闘が散発した。

 けれども実際にはさほど憎しみが連鎖するような激戦にはならなかったようである。

 じっさい、ことが収まれば身内である。それに、よくも悪くも三河者は身内に甘く、なあなあで済ませてしまう気質があるのだ。

 だからこそ、松平家康も、自体を丸く収められた――そういう側面があったのではないだろうか。


 このとき、半兵衛はまだ苗字もなにもない、ただの半兵衛だった。

「桑守四軒坂通りの乱暴者、半兵衛」縮めて「桑守の乱暴半兵衛」、悪く言うと「糞馬鹿」とか身も蓋もないあだ名を付けられていた。

 とにかく煙たがられ、嫌われていたのである。

 というのも、己はいくら馬鹿にされても「黙れゴラ」で言い返す程度だが、身内を馬鹿にされると、烈火の如く怒る。

 自分から殴ることはない。それはいいが、一発殴られると、一発で済ませばいいのに、舐められまいとして二、三と増える。


 ある初夏のこと。ちょうど、家康が、松平元康から松平家康に改名なされた頃である。

 半兵衛は「山行ってくる」といって、さっさと家を出ていった。遊ぶわけではない。飯の調達だ。

 家には両親と、兄が一人、弟が一人に妹が二人いる。小さな畑を耕しても、満足に、飯なんか食えない。


「くそっ、俺は、身内が舐められんようにしとるだけだ」

 鼻息荒く、ずかずかと獣山ししやまを登る。

 ここには鳥獣が多い。猪がいる。山鳥がいる。狼もいる。運が悪いと、熊と出くわす。


「偉そうなこたァ、喧嘩に勝ってから言いやがれや」

 唾と一緒に吐き捨てる。

 そして、それに応じるかのごとく。


「よお糞馬鹿」

 行く手を遮るように、大柄な、二つ年上の正吉という青年が出てくる。

 ツレに、二人。子分筋だろうか。なんとなく、ましらを連想させる似たような顔の男だ。兄弟だろう。


「なんじゃこら。どけ」

「どかんわ。おまん、あんまし調子こいとると、山に埋めるぞ、おら」

 ぐいと肩を回す正吉。

 半兵衛は、自分からは喧嘩をしたくなかった。そうすると、仕返しの大義名分を相手に与えてしまうからだ。

 仕返しの対象が自分ならまだいい。だが、弟や妹にその鉾が向けられるのは、我慢がならない。


「だでなんだん。おまんが、俺を殺すだ? ボケこら、もういっぺん言えや」

「ほォか、言ったる。おまんの妹は、馬面の、醜女だら。弟は、ウスノロの、ボケだわ」


 ぶちり、と頭の糸がぶちぎれた。

 半兵衛は風もかくやと言わんばかりの勢いで、正吉に肩から体当りする。

「げえっ!」

 正吉は唾を吐いて、目をむき、そのままもんどり打って転がりまわる。

 半兵衛は馬乗りになると、正吉の顔面に何遍も拳をぶち込む。

「もういっぺん言ってみやがれ! おら! なんか言わんかぼけ! 半殺しにしやあ、なんか言うか、ゴラァ!」


 が、正吉も弱い男ではない。

 すかさず半兵衛の喉に手を添えると、ぐいと顎を押さえて、拳の間合いから逃れる。


「やいてめえら、見てねえで、加勢せやァ!」

 猿兄弟へ檄を飛ばす正吉。

 半兵衛が、獣のように唸り上げ、正吉の脇腹を右の拳でぶっ叩いた。

「一対一で、殴り合う、度胸もねえくせして、なにほざいてやがらァ!」

「ざけんなや、糞馬鹿が、てめえの天下は、終わりじゃ!」


 今度は正吉が上になる。

 半兵衛の顔に、拳が二回三回叩き込まれた。

 視界に火花が散る。口の中に、錆びた鉄のような味が広がる。

 だが、頭は妙に冴えていた。


(拳を上げた瞬間に、脇を狙う)

 思ったとおりにする。正吉が右拳を上げた瞬間に、相手の脇腹に左手を添える。そしてそのまま半兵衛の上方へと、相手の体を放るように力を流した。

 拘束が緩む。

 半兵衛は相手の腹に己の足を滑り込ませると、勢いよく、跳ね上げた。

 偶然にも、柔術の巴投げに近い技が炸裂した。


 正吉が転がって、げほげほと咳き込む。

「くそが」

「おまんの子分、こねえぞ。逃げたんじゃねえだか」

「あっ、逃げやがんな馬鹿!」

「人望ねえやつだのんおまん。ほいで、やるだか、やらんだか」


 正吉は、鼻血やらを拭って、舌を打った。

「勝負は、お預けじゃ。くそ痛え」

「お互いじゃ、ボコボコ殴りやがって!」

「うるせえゴラ!」


 苦いものを絞り出すように正吉は鼻からベッ、と血を吹き捨てると、去っていった。

「いってえ……」


 半兵衛は、乱暴者の負け知らず。

 だが――痛みはある。


 よろよろと近くの泉に向かう。

 水面には、腫れた顔をした自分がいる。

 粗暴、乱暴と言われる所以の、強面だ。

 父に似たのだ。母に似ていれば、きっと、弟や妹のごとく美男だったろう。


(男に美貌なんかいらん。俺は、これでいいんじゃ)

 泉の水で顔を存分に洗い、洗いながらそれを飲んだ。

 近くできのみを拾う。そして、できれば、うさぎやらうずらやらを取る。

 仏様は肉を食うなというが、そんなんでは、飢えて死ぬ。

(極楽浄土なんぞ、知るものか。こっちは、今日のことで困っとるだわ)


 そんな半兵衛を、木陰から、一匹の狐がじっと見ていた。


   ✧


 現在――。


 きつね色の髪の女性が目を覚ましたのは、九月の三日であった。

 葉蔵がいつも通り仕事を終えて風呂から出ると、魂消たまげた様子の祖父が、「天女じゃ」と震えていた。

「何言っとる?」

 葉蔵はこのとき上裸で下はジャージ。日に焼けたたくましい体から湯気がのぼっている。

 見れば左の脇腹には、妙な痣ができていた。

 関ヶ原の夢を見て以来ちょっとずつ、じわじわできたものである。まるで鉄砲傷のようである。焦げ茶と紫の中間のような色をした、のような痣であった。


「あっ」

「あっ」


 葉蔵と、その女性の声が重なる。

 女は、まるで姫のようであった。着ているものは、家にあったお古の着流しである。

 だが、馬子にも衣装の逆というか……女神に粗服というのも失礼な物言いだが。とにかく、上品な女性が着れば、そこらの着流しが上等な衣類に思える。


「くわもり、さま?」

「ああ。ああ、うん。うちは、桑守だ。桑守半兵衛葉蔵の、その十八代目葉蔵が俺だよ」

 こう名乗るのは、思えば、初めてかもしれない。そして、そのように名乗る必要があったかどうかは定かではない。けれど、そう求められている気がした。


「くわもり――桑守半兵衛、葉蔵様」

「あんたは……あんたが、橘禰きつね姫?」なぜその名前が出てきたのだろうか。

 幾日か前に見た――怨霊が発したあの名前を、なぜ彼女に当てはめたのか。

「はい。狐の姫――獣ノ杜ししのもり総代、獣杜ししもり橘禰きつねといいます」

 いうが早いか、獣杜ししもり橘禰きつねなる女性はゆるく腰を下ろし、そのまま三指を突いて頭を下げる。

「お、おいよしてくれ、なにしとる!」

「桑守様、お助けください。賊に、狙われているのです」


 隣ではいつのまにか気を取り直した祖父が腕を組み、祖母を見ていた。

「事情があるのはわかるが」

 祖父は、いつになく厳しい口調である。

 よもや追い出しはすまい――。葉蔵は警戒した。

 己もそうだが、桑守家は、典型的な三河者。おそろしく排他的で、鎖国的である。

 だが、紡いだ言葉は違っていた。

「まずは、飯をくいん。腹減っとるら? 寝起きでも、重湯か、粥くらいなら食えるら」


 橘禰きつねはありがたそうに手を合わせた。

「かたじけのうございます」

 葉蔵は、どういうことなのか非常に気になる。


 先祖が戦国時代の武士――最後は、馬廻の一人だったことは確かである。

 百姓上がりがそこまで出世したのだ。とんでもないことだろう。

 けれど。なぜその先祖・半兵衛は、怨霊の鬼武者と戦っていたのか? この姫があのときの「橘禰きつね」なら、ゆうに、五百歳近いことになろう。


 ――まさか、妖怪変化がこの世界にいるっていうのか?


 葉蔵は、そのようなことを考えた。

 視線に気づいた橘禰きつねが葉蔵を見た。少し明るい茶色の目が、にこやかに細められる。

「め、飯。ばあちゃん、大盛りね」

「おまん、さてはその子に惚れたら」祖母がとんでもないことを言った。

「んなことねえよ別にっ。腹、減ったんだ。そう、腹が」

 自分でも何を繰り返しているんだと呆れた。


 そして、女に惚れた男の馬鹿さ加減を、我がことながら、心底あきれた。

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