母はなぜ私を殴り続けたのか―40代女性が考える「高校に行かず嫁に出た母の孤独」
母の呪縛2 前編
若林 奈緒音
幼少期から受けてきた母の暴力により、顔の骨が数ヵ所歪んでしまっていることもわかったというのが40代の若林奈緒音(わかばやし・なおと/仮名)さん。彼女の手にはよくみるとケロイドの跡が残り、痛々しいなにかを物語っている。
ずっと「私が悪いんだ」と思いながら生きてきた奈緒音さんは、30代でした結婚で初めて自己肯定感のようなものを抱けた。そして自分が受けてきた暴力に対して、口を開くことができるようになったのだという。
「自分が体験したことが少しでも加害してしまうだれかや、同じようにされている誰かの力になるのなら」ーーと仮名で語り始めた虐待の実態。1回目は、バレーボール選手にさせたい母親の異常なまでのコントロールと暴力について綴っていただいた。
その2回目は、奈緒音さんが母から聞かされ続けてきたという母の苦労と、父方の祖母と母の関係に巻き込まれた悲しい思い出についてお伝えする。
#1-1 顔が歪むほど殴られた…40代女性が抱え続ける「母のコントロールの悪夢」の告白
#1-2 骨折した足にテーピングして…娘をバレーボール選手にしたかった母「驚愕の行動」
中学生のころに母を亡くした母
私は物心ついたときから、母から繰り返し自分の苦労話を聞かされて育った。
母は、中学生の時に母親を病気で亡くした。家には昔ながらの堅物の父と、幼い弟妹。4人の姉たちはすでに嫁いでいたため、家族の中心となり、家事やお世話などを一手に引き受けた。自分もまだまだ子供で遊びたい盛りでもあったであろう。今なら、完全なヤングケアラー。
母は責任感が強く、完璧主義なところがあった。昔の家なので、『女とはこうでいなきゃいけない、こうしなくちゃいけない』が頭に刷り込まれていた。幼く、自身も母親に甘えたい年頃だったはずの当時、母はオリンピックや漫画の影響でバレーボール選手になるのが夢だったが、選択肢を与えられることなく、ただ諦め、我慢して父や弟妹の世話をする道しかなかった。
高校進学も諦めざるを得なかった。友人たちと遊んだり、寄り道をして買い食いしたり、同級生の男の子と初デートする。そんな、多くの年頃の子が当たり前にする楽しみとはかけ離れ、青春時代と呼ばれる時に近所の繊維工場で働きながら家の家事を一手に引き受けていた。
祖父同士が知り合いだったと言うことで、20歳になる頃、父とお見合いし結婚することになる。上の4人の姉たちもお見合いで嫁いでいた。母にとっては、誰かを好きになって恋愛し、デートして関係を育む経験をすることもなく、親が決めた、1~2度しか会っていない男性と家族を築くことになった。当時はそういう結婚もまだ多かったのだろうが、恋愛結婚も増えてきた時代のことだ。
結婚の日取りも決まり、田舎の家なので、来たる日に娘を送り出すため、家の屋根を祖父自ら直していた。人一倍苦労を掛けた娘に対して、せめて恥じない家から送り出すことが、父としてできる最後のことだった。
父の事故死、見知らぬ地での結婚生活
その修理中、祖父は屋根から落ちて亡くなった。
父方の祖母や兄弟たちは、不吉な結婚だと感じ、この結婚は取り止めようと言った。母の姉たちは、そんなことを言わず予定通り妹をもらってくださいと懇願したと言う。父方では祖父だけが、予定通りしようとかばってくれた。一家の主がすると言えば従う時代と家系であったため、そのまま式は予定通り行われた。
幼いころから、母は何度となくこの話をし、そのたびに泣いていた。何度も見せられた結婚式の写真の母は、自分の母ながら、本当に美しかった。こんなに美しい女性なら当時でもモテたと思うし、恋愛も楽しめただろう。若くて一番いい時期に、おしゃれややりたいこともたくさんあっただろうと感じた。同時に母からは、結婚するまでは家から出さない。婚前交渉はあり得ない。恋愛結婚できる世の中になったことがどれだけ幸せで、お見合いを強いない母の考えが、どれだけ有り難いことなのかを、何度も説かれた。聞かされるたびに、恋愛も結婚もするなと言われているようなプレッシャーでもあった。
母は結婚したのち、父の仕事の都合で田舎から離れた見知らぬ土地で暮らし始めた。新婚生活を楽しむ間もなくすぐに兄ができ、1年あけて私と妹が続けて年子で生まれた。普通の家庭であれば、結婚して順調に子宝に恵まれることは何より幸せな事。初孫の誕生を喜び、親が駆けつけ、手を貸しながら世話をし、母になること、親になることを教わるのだろう。しかし母には、頼れる家族も、親しい友人もいなかった。
完全なるワンオペで愛情のかけ方がずれていく
当時の父は若くて体力もあった。給料も良いと言う理由から、長距離トラックの運転手をしていた。父も、実家の中では我慢が多かったと聞いた。7人兄弟の次男で真ん中。親に期待されるのは、跡取りの長男だけの時代。欲しいものは、自分でバイトして買うのが当り前。だから一家の大黒柱である自分は、家族を路頭に迷わせない、金で苦労はかけない、家族を守る。口下手で不器用、男は真面目に仕事さえしていれば良いという考えだった。朝早くから夜遅くまで。遠い場所であれば2、3日帰って来ないこともあった。遠出の時は、高速のインターチェンジでしか買えないお菓子を、決まってお土産に買って帰ってきてくれた。
しかしそれは、まだ20代前半の母が、いきなり一人で幼い3人の子育てをすることを意味した。今なら、育児ノイローゼとかワンオペという言葉があり、周囲に、助けを求めることができたかもしれない。けれど当時は、子育てが大変なのは当然。みんな辛い思いしながらやっている。弱音を吐かず母親が頑張るものだった。男は外で働き、女は家を守ると言う、姑にあたる祖母のプレッシャーもあったと思う。
こうして母は一人孤独に子育てをしていく中で、少しずつ間違った愛情の掛け方にむかっていくのだった。
◇後編「10歳の私が「祖母の標的」だった母をかばったら…止まらぬ母の暴力」では、溺愛する兄と病弱の妹と異なり、まったく可愛がられなかったことや、まだ幼い時の私が祖母から母をかばった時の悪夢について詳しくお届けする。
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