顔が歪むほど殴られた…40代女性が抱え続ける「母のコントロールの悪夢」の告白
母の呪縛1 前編
若林 奈緒音
「私、ようやく口に出せるようになったんです」
涙をこらえながら、自身が受けてきた過去を語ったのは若林奈緒音(わかばやし・なおと・仮名)さん。現在40代の女性だ。30代での結婚ののち、「自分は自分でいいんだ」と初めて思うことができたのだという。
すらっとして笑顔の似合う、朗らかな若林さんは、一見幼少期からつらい体験を抱えていたとは見えない。しかし実は若林さんが抱えていたのは、幼少期からずっと続いていた、母親からコントロールされ暴力も受けてきた記憶だった。
「幼少期は、私が悪いんだと思っていました。でも結婚をしたときに、ああ、自分はコントロールされていたんだとわかった。今では母も苦しかったことも理解もできるのですが、そのつらさをすべて長女の私がぶつけられていたんです」
最近病院に行った結果、幼少期からの暴力で顔の骨が数ヵ所歪んでしまっていることもわかった。近日中に手術をすると決断し、同時に、辛い思い出と向き合い、それを文章として形に残すことを決意した。それは母親を糾弾するためではない。暴力をする側も、問題を抱えている。ただ、こういうことも現実としてありうるとわかってほしい、そして同じような苦しい思いをする人がなくなるようにみなで考えたい。その思いだ。だからこそ、若林さんは事実を仮名で書いていくことを決意した。これはひとりの女性の実体験である。
「女の子はこうしなきゃいけない」
母によるコントロールの始まりは、私が生まれた時から始まっていたと思う。というのも、物心ついた時から、「自分で決める」ということをさせてもらえたことが一度もないからだ。
兄弟姉妹が多い父方の内孫で最初の女の子だった私は、小さい頃から何かと、「女の子はこうしなきゃならない。こうでないといけない」と言われてきた。スカートを履き、男性を立て、お手伝いをする。まさにステレオタイプな「女の子」を求められてきた。同時に、母がやりたくてもできなかったことをさせられる。それを叶えるのが娘の責任や役割のようだった。年子の妹とは色違いや同じ服を着せられたし、見るテレビや漫画も決まっていた。
ご飯を食べる量なども決められていた。記憶があるときからずっと、残したり、好き嫌いをしようものなら、作った人に感謝しなさいと口や頬を叩かれたり、無理やり口に入れられた。叩かれて口の中が切れると、さらに食べにくくなったが、食べ終わるまで正座を崩すことは許されない。当然自分の使った食器は自分で洗う。幼稚園くらいだろうか、物心ついた時からそれは当たり前のことで、「女の子は家事ができないとダメ」と、だんだんとやらなければならないことが増えていった。
小学生になっても、友達と遊ぶよりお手伝いを優先させなければいけなくて、帰りが遅くなって、言われた家事ができていなかった場合は、めちゃくちゃに殴られた。ビール瓶や物差し、竹刀など物で殴られたり、つねられたりたばこの火を押し付けられることもあった。それでも怒りがおさまらないと、顔も見たくないと季節問わず外に放り出された。私にとって最も嫌だったのは、髪の毛を掴んで浴槽の水の中に顔をつけられることだった。だからだろうか、未だに泳げないし、水に顔をつけるのが怖い。
小学2年のときに「母の夢」を託される
「コントロール」で最も激しい記憶は、小学校2年生の時に地区のバレーボールクラブに入れられたことだ。母の小さい頃の夢がバレーボール選手で、ママさんバレーに参加するほどバレーボールが好きだった。しかし、母はバレーボール中にアキレス腱を切り入院し、プレーができなくなった。そこで、幼稚園生の頃から同級生の中で頭一つ抜けて背が高かった私に、自分の代わりにプレーさせようと思ったようだ。
それまでは、礼儀作法のためにと、兄と共に剣道をさせられていた。私はバレエやピアノを習いたいと言ったが、「習い事なんて必要ない」とさせてもらえなかった。それなのになぜかバレーボールクラブに入れられた。思い切ってピアノを習いたいとお願いしてみたが、バレーボールでで突き指したり、指が太くなったりもするので無駄だと言われ、させてもらえなかった。
私が住んでいた地区のチームは人数もぎりぎりで、強いチームではなかった。途中から妹も入った。地区のチームなので母親たちが交代で監督やコーチを担っていた。母がコーチだった時もあった。人数が揃ってくると、私は運動神経の良さと言うよりも、背が高く有利に動けたため、上手な選手と認識されるようになった。地区のチームはみんなが真剣に取り組んでいるわけではなく、楽しくワイワイしている子が多い。最初から誰も勝てるとは期待していないチームでだったけれど、少しずつ勝てるようになってきたため、小学校5年生くらいになると、他校からも来るジュニアチームにアタッカーとして入れさせられた。
止めに入ってくれた知人に母が言った言葉
この頃が何よりも苦痛だった。母は、本当に私が将来バレーボール選手になれるかも知れないと錯覚したのか、自らコーチを買って出た。小学校の地区大会でアタックが決まらなかったり、サーブミスをしようものならコートの外から怒鳴られたり、罵声を浴びせかけられた。コートチェンジになると、人目も憚らず駆け寄ってきて、頬を平手打ちされたり、頭を叩かれた。
母はプロではないが、真剣にバレーボールを続けてきた本格派である。その母が手加減なく、アタックのように振り切って私を殴る。今のように「体罰や虐待」と認識されて助けてもらえることもなかった。鬼の形相の母に殴られているのを見た同級生やチームメイトの中には、びっくりする子もいれば、笑ったり、母の真似をしたり、ひそひそ言う子もいた。母にみんなの前で叩かれることがいじめやイジリの原因になることを言ったことがあったが、「いじめられる方が悪い。いじめられる側にも原因がある」と言われた。
当時のバレーボール経験者ならわかると思うが、ミスをすると、自分自身で自分の利き手側の太ももの外側をパチンと叩いて、己に喝を入れたり、鼓舞する習慣があった。母は、私の頬にも太ももにも、真っ赤に手形が残るように叩いた。そして、自分が下手でできないのだから、自分で叩きなさいと言った。手加減して叩こうものなら倍にして叩かれるので、試合中、自分で自分を叩き、母の顔をちらっと見て機嫌を伺いながらプレーを続けた。試合に勝とうが負けようが、毎回太ももは手形が残るくらい赤くなり、青い斑点のようなあざが決まって数日残った。それが多いほど、母に、ミスして申し訳ありません、反省していますと示すことになった。
試合に負ければ、すぐに駆け寄ってきて「ちょっと来なさい」と髪の毛を掴んで、引きずるように校舎や体育館の陰に連れて行かれた。「なぜ言った通りにできない?」「あの場面で……」と執拗に責め立てられ、下を向いていると、「人の話を聞く時は、目を見て聞きなさい」と、前髪を掴んで顔をあげさせられるやいなや頬を叩かれた。その顔や目つきが気に入らないとさらに叩かれた。試合に負けて悔しいという思いより、恥ずかしくて、情けない気持ちで辛かった。母は私を叩きながら、「叩いているお母さんの方が痛い」と何度も言った。
一度だけ、母が姉のように慕っていた近所の幼馴染のお母さんが止めに入ってくれたことがある。「もうやめておき」といって、母に後ろから抱きつくようにして母の動きを封じようとしてくれたのだ。
しかし、母はこの一言で終えた。
「うちのしつけです」
そして私に「よそはよそ、うちはうちだから」と言って聞かせた。
私は絶望した。そして中学への進路を考えるにあたり、母の態度はさらにエスカレートしていったのだ。
◇中学時代の悲しい思い出については、後編「骨折した足にテーピングして…娘をバレーボール選手にしたかった母「驚愕の行動」」で詳しくお伝えする。
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