「痴漢冤罪事件」についてのノート
「痴漢冤罪事件」について
牧野雅子氏は名著『痴漢とはなにか 被害と冤罪をめぐる社会学』で、「痴漢冤罪事件」について以下のような、非常に重要な指摘をしている。
「『犯罪白書 平成一八年版』によれば、二〇〇五年の電車内等での痴漢示談金名目の詐欺事件//は、一五一二件あったという。その被害額も高額で、新聞では九〇〇万円を騙し取られたケースも報道されている。被害者の多くは女性で、高齢者に多く、加害者のほとんどは男性である。いわゆるオレオレ詐欺(恐喝)のことである。」(『痴漢とはなにか――被害と冤罪をめぐる社会学』牧野雅子、エトセトラブックス、2019年、172-3)
「オレオレ詐欺のうち、示談金詐欺の典型的なものは、警察官や弁護士を騙った電話があり、息子や夫が電車の中で痴漢をしたので示談金が必要だと告げられ、後に本人になりすました者が泣きじゃくりながら金の振り込みを要求するというものである」(173)
「痴漢でっち上げ詐欺と聞いて、女性による男性の被害を思い描く男性誌には、息子や夫の痴漢事件をでっちあげて女性から高額な金を振り込ませる男性たちという現実は描かれない。」(174)
牧野氏が指摘する通り、「女性による男性の被害を思い描く」テンプレートがある。これは残念ながら、過去の「男性誌」だけのものではない。今でも一つ覚えのように繰り返されるテンプレートだからである。しかし、この種のテンプレートが繰り返されるとき、実際の件数が示されることはない。そして、痴漢冤罪詐欺の加害者には男性が多く、被害者には女性が多いという事実は認識されていない。まともな人間ならば、それを知ればこのようなテンプレートの不適切さが分かるからである。
「痴漢冤罪事件」と呼ばれる事件、より正確には痴漢示談金詐欺事件は、累計ではかなりの数が認知されている。牧野氏が明確に指摘しているように、痴漢示談金名目の詐欺の大多数は、「女性が男性を騙す痴漢冤罪事件」ではない。
この記事の趣旨は、牧野氏が指摘している事柄に尽きているが、関連する数値についての追加情報を提供することで、それを補強することが目的である。
なお、以下はすべてウェブ上で入手可能な資料(主に『犯罪白書』)から関連する数字を抜粋しただけであり、それを整理するのに難しい考察や知識は不要である。
ではあらためて、「痴漢示談金詐欺」とは本当のところどういう事件か。その加害者の大多数は誰であり、被害者の大多数とは誰か。
■ 公共交通機関での痴漢示談金詐欺
牧野氏が指摘する通り、公共交通機関での痴漢示談金詐欺の主要構成要素となる犯罪とは、「オレオレ詐欺」である。
「痴漢示談金詐欺が多い」というフレーズだけを聞くと、特に男性は(既存の言説のテンプレートと日本特有の「被害の文化」があるので)「女が男を騙している」と思う人は多い。事実、この種の話を私は定期的に聞く(学者も含む)。そして最近、まったく別の場所で複数回、この種のフレーズに触れたことがこの記事を書いた一つの動機である。
さて、痴漢示談金詐欺事件は、05年からの累計で、2,495件認知されている。その件数が非常に多かったのは、牧野氏も引用する通り2005年である。
「平成18年版 犯罪白書」(2006年)「第1編 第1章 第2節 4」では、2005年の「オレオレ詐欺・恐喝は,公共交通機関での痴漢示談金名目が1,512件と最も多」かったと指摘されている。この数値は認知件数であり、検挙件数ではない。なお、05年のオレオレ詐欺恐喝の検挙人員は、325人である。(同上、1-1-2-4表より)
痴漢示談金詐欺(認知件数)は2005年をピークとして、その後、特に2007年からは急激に減っている。2006年は、680件であり、その後の数は以下である(「特殊詐欺の認知・検挙状況等について(令和5年1月~12月)」)。
2007年が93件、2008年が41件、2009年が5件、2010年が2件、以下、年を省略して経年で、4件、5件、37件、16件、9件、11件、1件、15件、13件と続き、2020年は6件、21年も6件となっている。06年から07年にかけて急激な減少傾向にあり、その後は一桁から10数件で推移している。振り込め詐欺防止キャンペーンが展開され、また07年には関連の映画が放映されたため、その影響もあるかもしれない。ただ、2022年は2013年に並ぶ39件が認知されている。
2005年~22年までを合計すると、2,495件が認知されている。
なお、痴漢示談金とは別の、「わいせつ行為示談金詐欺」は以下である。2005年は643件、2006年は317件、2007年は374件、2008年は104件、2009年は5件である。09年以降は「その他」に分類されており、詳細はない。
2022年に39件認知されており、05年からの集計では約2500件も認知されている「痴漢示談金詐欺」とは、牧野氏の指摘通り「オレオレ詐欺」である。つまりこれらは、「冤罪の男性が直接、女性に示談金を騙し取られる詐欺」ではない。
そして、この痴漢示談金オレオレ詐欺の加害者の大多数は男であり、被害者の大多数は女性である。
■ 加害者の性別
「オレオレ詐欺」とは、名称が示すように、息子や警察などを装った男性が、電話等で金を要求する詐欺であり、「特殊詐欺」の約半数を占める。
「特殊詐欺」とは、「被害者に電話をかけるなどして対面することなく信頼させ、指定した預貯金口座への振込みその他の方法により、不特定多数の者から現金等をだまし取る犯罪の総称」である(「令和5年版 犯罪白書」17)。
例えば、「令和6年上半期における特殊詐欺の状況について」では、欺罔者は、息子が4割、孫が1割、警察官を騙るものが2割程度とされている(6頁)。孫や警察官は「女性」でもありうるのではないかと思う人もいるかもしれない。しかし以下で見るように、加害者は男性が大多数である。
加害者の性別比率について、オレオレ詐欺だけの統計はないので、詐欺全般での検挙人員での男女比を見てみよう。
2005年の詐欺犯罪の検挙人員に占める女性の比率は、16.5%である。つまり84.5%が男性である(「平成18年版 犯罪白書」1-1-1-6表)。人数は、詐欺の検挙者のうち女性が1925人 男性が9723人である。
オレオレ詐欺の加害者もおおむね同じだとすれば、325人の加害者も、大多数が男性だという予測は容易である。むしろ、オレオレ詐欺、特に痴漢示談金詐欺の場合、加害者の男性比率がより高いと考えられる。
例えば、「被害者」を装った女性が電話で「加害者」の家族(老親)に示談金を要求する、という詐欺はほとんどないだろう。詐欺として効率が悪いからである。被害者は示談の直接の相手なので、親は金額も含めて直接交渉の余地があるし、そうしようとするだろうからである。他方、「弁護士」や「警察」を名乗る者からの電話の場合、示談金額や支払期限に交渉の余地はないという前提が設定できる。もちろん、警察を名乗る詐欺師が女性である場合もあり得るが、事実として少ないだろう(もちろん私は効率のよい詐欺を推奨しているわけではない)。
より最近の数字では、2023年は、特殊詐欺の検挙件数は7,212件、検挙人員は2,455人であり、「オレオレ詐欺」の検挙件数は2,126件、検挙人員は973人となっている(前掲「特殊詐欺の認知・検挙状況等について(令和5年1月~12月)」)。
23年の「オレオレ詐欺」自体の加害者の性別統計はないが、22年の詐欺全体の検挙人数を見ると、検挙人数全体では10,507人であり、女性が2,108人、20.1%である(前掲「令和5年版 犯罪白書」6)。つまり、同じく加害者の8割が男性である。検挙件数は6,640件であり、うち1,771件が「オレオレ詐欺」である。
また、特殊詐欺の検挙人員の性別割合について、2024年上半期に限定した分析だが、「男女別では、男が約9割を占めて」いると記されている。(前掲「令和6年上半期における特殊詐欺の状況について」27)
この「9割」という数字は「特殊詐欺」全体であり、「オレオレ詐欺」ではない。また「痴漢示談金詐欺」は「オレオレ詐欺」のごく一部ではある。ただし、特殊詐欺の約半数は「オレオレ詐欺」なので、ほぼ同じ比率であることは容易に予測できるだろう。(2020年では、特殊詐欺の認知件数、13,550件中、オレオレ詐欺は6,407件)
■ 被害者の性別
では、被害者の大多数は誰か。これも牧野氏が的確に指摘する通り、「女性が男性から痴漢詐欺で金を騙し取る」という典型的なテンプレートに反して、痴漢示談金詐欺の被害者の大多数は、女性である。
2023年(令和5年)の場合、「オレオレ詐欺」の被害者の性別は、男性が21.1%、女性が78.9%である(前掲「特殊詐欺の認知・検挙状況等について(令和5年1月~12月)」)。他の年度も確認すれば分かるが、被害者の7~8割が女性であり、概ね60代以上である。
■ まとめ
・「痴漢冤罪事件」とされるものの大多数は「オレオレ詐欺」である。
・05年からの累計で、認知件数は2,495件である。
・2022年は痴漢示談金名目の詐欺は、39件が認知されている。
・その加害者の大多数が「男性」であると推測できる。
・被害者の大多数は「女性」である。
もし、「被害者を装う女性が冤罪の男性から金を騙し取る」というフレームで語りたいとすれば、05年からの累計認知件数、約2,500件の「痴漢示談金オレオレ詐欺」のうちで、またはそれとは別に、「被害者を装う女性が冤罪の男性から金を騙し取る」という事件が何件あるのかについて、正確な数字を提示する義務がある。もし仮に、(考えにくいことだが)そうした「詐欺」が認知件数としてこの約20年で累計で500件(年平均で約25件)あったとする。そして、オレオレ詐欺2500件の加害者の9割が男性だとするとその数は2250件である。仮に、上記のフレームの「詐欺」が累計で500件あったとして、痴漢示談金目的のオレオレ詐欺の加害者の1割を女性としてこれを加算しても750件となり、全体の25%である。
正確な数字を提示せずに、女性の被害の訴えを疑う根拠にしかならない「事件」を強調することは、沈黙化の機能しかない。
そして現によく知られている通り、痴漢被害には大きな暗数がある。
「性暴力事件は、警察に届けられていない被害件数(暗数)が多いと言われる。痴漢防止に係る研究会(警察庁)が二〇一〇年に実施したインターネット調査によると、大都市圏に居住し通勤・通学に電車を利用する女性で過去一年以内に痴漢被害に遭った人の八九・一%が、警察に通報・相談していないと答えている。一九九五年に大阪府警鉄道警察隊が実施した調査では、痴漢被害に遭って警察に被害届が出されたのは一%程度だったという」(牧野雅子『痴漢とはなにか』19)
「痴漢でっち上げ詐欺がある」などと、実際の件数と加害者/被害者の性別比率等の情報を提示することなく、つまり適当に述べること自体が、被害者にさらなる沈黙を強いる機能しかもたない。「女性が虚偽の訴えにより無実の男性を騙す」という現実に即していないテンプレートを強化するからである。
もう一点付記しておくと、これも縷々指摘されてきた事柄だが、仮に痴漢をしていないのに実際に女性に訴えられた男性がいるとしても、文字通りの「詐欺」でない場合、加害者は別に存在しているということである。つまりこの場合、被害の訴えそのものは虚偽でも詐欺でもない。こうしたケースがどれくらいの件数あるのかは分からないが、皆無ではないだろう。しかし、この種のケースは当然ながら「痴漢冤罪詐欺」にカウントされないし、すべきではない。
痴漢示談金詐欺とは、もっぱら男が女性を騙す詐欺である。これを無視して、痴漢被害の訴えを疑い、被害者非難を容易にするような「事例」を、数値的な裏付けなく強調する者には能動的な無知、つまり痴漢被害そのものを疑う、または少なくとも軽視する態度が帰される。以上のような情報は、「痴漢冤罪詐欺」が本当に気になるならば、少し調べれば誰でもわかる事柄だからである。
「女性による男性の被害を思い描く」テンプレートは、その種の詐欺が事実として過半数を占めるなどでもない限り、痴漢被害を訴え難くする効果しかもたない点で、痴漢加害への間接的な加担であると言えるだろう。