現時点の私のカント解釈
以下は純粋理性批判に対する一解釈の着想ではあるが、解釈としては非常に難点が多いため、半ばカントに仮託した私の思考として読んでいただきたい。
生はそれが世界のうちにあるものに属する限り、受動と能動の能力である。しかしそれは、一つの原子と一つの原子の衝突におけるような単純な状態の受け渡しではなく、ある種の変換である。この関数的な機構がそれを前提としつつも単なる物理法則そのものとは異なるものであるために、何か生命力といった概念を偽造せずとも生は生として固有の能力たりうる。能動は物理的行為に限るものではなく、単なる受容とみなされる過程のうちにもある種の能動性が潜んでおり、生の受容においてはそれは意味付与である。純粋な受容があるとすれば、それは世界の単なるカオスとしての受容であろう。赤という概念あるいは言葉はそれが他から区別される限り厳密な意味での個体性と反復可能性を備えており、それはグラデーションのうちにおいて赤とみなされうる一点とは異なり、したがってそれは世界のうちには、少なくともそれ自体としては無く、それゆえ意味付与の能力は生の能動的能力として悟性であり、直観の能力である感性に対立する。
受容性の能力は現れうることの根拠として、世界全体を受容しうるものである。世界の全ては直接的あるいは間接的に現れうるものであり、そうでないもの、すなわち現れうるものといかなる関係においても接点をなさないような系列は、その区別は受容性の能力によってなされるのだが、他の世界として考えることは可能であったとしても、我々の世界においては無に等しい。したがって、我々の外に広がる世界は全て一つの場における可能的な現れであり、そのことを根拠として常識的な意味での外的なものの現実的受容が成立するのであるが、前者の視点は超越論的観念論、後者の視点は経験論的実在論と呼ばれ、表裏一体をなす。
単なる認識においても能動性が働いていることが明らかになったとしても、それは認識がそれのみで完結することを意味するのではない。第二版序文において、幾何学における作図と、物理学における実験の例が挙げられる。ある中心から等距離にある点の集合として円が定義され、そこから円に関するすべての諸定理が産出されるとしても、それはこの定義のみが厳密な意味で自己展開するのではない。初期の幾何学者に対しては、円は実際に平面に描かれる必要があり、それに補助線を引くことで真理が産出された。現代の数学者にとっても、諸々の数学的対象が並列されるだけでは真理は得られず、一つの思考の場において実際に組み合わせられることが必要であろう。物理学の歴史における実験においても、科学者たちは単にものを受動的に眺め、そこに規則を見出そうとすることに終始することをやめ、彼らの仮説を、それが判定されるように人為的に諸条件を整えられた実験の場において実際に試した。要するに、我々の与える意味は、実際に世界という場のうちで与えてみる必要があり、それのみが真理を産出し、認識を拡張するのである。形而上学においても、同じことが言えるのだろうか。これがカントの問いである。
我々は判断によって意味を付与する。判断とは概念において包摂することであり、概念と概念の関係については問題は生じないが、現実に世界に現れる個体である対象を概念に包摂するとき、対象なるものの身分が問われる。動物という類とウマという種の関係以上に、ウマという種とこのウマという現実的個体との関係はより問題含みであり、両者が属する二つの次元が深刻な断絶を抱えることと同様である。そもそも対象とは自然と世界の中から浮かび上がってくるものなのだろうか。経験的意識のレベルでは、対象が先にあってそれが経験的意識を触発することで、それに属する諸性質等の多様なものが認識されると考えられるが、この対象とはどこから来たものであろうか。個体すなわち様々の知覚されるものを自らのうちに属させる空虚な基体は、全ての純粋に受動的な現われのどこを探しても見つからない。世界のうちに唯一絶対のキリトリ線があるわけでもない。超越論的観念論の立場からすれば、対象とは主観が能動的に、自らの能力を根拠として世界のカオス、多様なものの一部を取りまとめることによって、それが属するものとして仮定的に定立されるものである。
主に第二版演繹論に依拠し、この対象の成立の可能性を探っていこう。多様なものはそれが与えられる直観において、それ自体統一を持っていない。統一とは、ひとかたまりになることではなく、ある一つのものを焦点として統合されることであり、先ほどの例を用いると、赤いものは赤という他からはっきりと区別され一である概念のもと、一つに取りまとめられ、一方グラデーションの例は一つながりではあってもそのような統一は持っていない。この統一は悟性の能力である。ある多様な表象がある対象に属するものとして一つに取りまとめられるには、それぞれの表象に伴う我思考す、すなわち私の表象であるという側面において統一されねばならない(第17項)。この私が同一のものでなければ、つまり表象aが現れる私、表象bが現れる私……といった諸々の私が統合されていなければ、多様なものは分散したままであろう。しかしこの私は経験的な自我であり、それだけに認識の内容に有限性あるいは非必然性を抱えており、内観において直感されるその実質すなわちたまたま表象aが現れた私、たまたま表象bが現れた私……にはそれ自体としては必然的な統一は見いだせないだろう(第18項)。こうして問題は表象の側に送り返される。
すべての表象、すなわち経験的主観から見れば世界の与件の総体、超越論的主観から見れば可能な表象の総体は、それが実際に現実的に現れるかは度外視しても、それぞれ表象しうるものとして我思考すを可能的に伴う(第16項)。この可能的な表象とは、例えば私が正面から見ている建物のその時間における裏側からの景観に属す表象等も含まれるだろう。というのも、それらは現れることも可能だったからである。さらに、私が生まれる前の三十年前のある出来事の含む表象も、私は現実には経験できないが、条件さえ整えば私の主観性に現れることの可能であったものとして可能な表象に含まれるだろう。これらの全ての可能な表象が同一の資格において現れうるものであるためには、それらの各々が伴う可能的な我思考すの統一、すなわち、現実的な経験を成立以前に条件づける側における統覚、超越論的統覚が求められるだろう。ここで再び自己意識の実質の多様性の問題が生じるが、超越論的統覚に属する表象は偶然的に選ばれたものではなく、端的に全体であるため、この全体に規則を適用し、全体を秩序づけ統一された一つの世界を形成することで、それに対応する必然的な一つの統覚の統一を実現することが可能であろう。こうして超越論的主観性が純粋悟性の能力によって表象全体を規則に従って唯一可能な仕方で秩序づけることで、世界は諸対象とその関係の総体として可能的・形式的に組織され、その結果、世界の分節とそれらの関係に唯一必然的な解が可能的に形成される。
しかし、先ほど提起された問題を解決するには、経験的自我の統覚が可能にならなければならない。根源的統覚と経験的な自我における統覚は同一の形式、我思考すを持つが、前者が後者を可能にするとすれば、それはいかにしてであろうか。経験的自我の有限性は、おそらく外官が身体であることに由来するだろう。眼と眼が見るものとの関係はある対象とある対象の因果関係として超越論的自我によって構成されたものである。とすれば、何故超越論的自我はある身体に限定されるのか、それは私の身体が特権的な対象でない限り、一切無根拠である。この不条理を引き受けてまで証明されなかったこととはなんであったか、それは経験的自我における必然的、すなわち客観的に存在する対象による触発という事態の正当化である。対象による触発という事態を正当化することを断念した場合、与えられる多様なものは、無根拠となる。他方、与えられるものすなわち身体としての外官もまた、一つの対象としての身分を喪失し、あるもののあるものに対する影響としての受容は不可能となる。
ここでカントを離れ、我々は生について考察する。生を持つものとは身体であるが、身体は諸表象であれ原子であれ分割しうる。身体が一つの個体として客観的に存在しているとすれば、その一性を保証するのは(モナドのような形而上学的原理を採用しないとすれば)、受動と能動の一つのシステムとしての能力以外にないだろう。意味とは優れて個体的なものであり、意味付与を可能にするものはそのために有意義に組織化された身体を持つ。したがって我々は生を一つの統一された能力として理解できるが、これこそがまさに経験的自我であり、個体としての経験的自我は自らの存在の根拠を求めなければならず、同一の自我を保ちつつ超越論的自我へと超越することで自らを根拠づけるだろう。こうして経験的自我と超越論的自我の関係は超越によって結果が原因を産出する働きとして理解された。
生は、一つの実験として、世界に対して自らの存在を仮説として投企する。


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