司会/今日は、江戸風俗研究家、杉浦日向子さんに、『江戸の粋 京の雅』というテーマでお話いただきます。
(拍手)
杉浦/えー、なんだか最近「江戸ブーム」ということなんですけれども、なんでしょうね、なぜか「江戸ブーム」になると、なる時というのは、不景気なんだそうなんです。ですから、えー、我々のようなものが表に出てくるのは、あまり良くないのかもしれないと思ってます。裏でコソコソと、こう研究していれば良いもんだっていうふうに。「貧乏神みたいだね」って仲間で言い合っております。えー、確かに貧乏神に近い、仲が良い業種かもしれません。と言いますのは、江戸時代というのは日本全体が貧しかった時代なんです。隣があんまりうらやましくない。みんなが大体そろって貧乏だった。中には豪商と呼ばれるようなお金持ちがポツリポツリとはいますけれども、大体平均して、今から見れば大変貧しくて、のんびりした時代であったようです。
えー、そうですね、今あの、大河ドラマの『8代将軍 吉宗』が非常に高視聴率だそうで、大変な、番組の上でも名君であったようです。8代吉宗が登場しているのは、えー、島原の乱から100年を経たあとなんです。つまり、今戦後50年ですが、その倍の期間平和が続いているというすごい時代なんです。で、吉宗という人は大変、江戸にとって重要なキーパーソンでして、吉宗以前と吉宗以降と、江戸の文化というものが全く変わってくるんです。で、吉宗以前というのはまだまだ武家社会でありまして、かなり硬い気風が残っておりました。で、吉宗以降になりますと、今度文化のイニシアチブを町人のほうが握るようになってきまして、町衆の文化が生まれてくるようになるんです。で、吉宗がこう、境目になっているんです。
で、吉宗は、有名なところでは、大岡越前守と一緒に享保の改革というものをやってます。この改革というのは、世の中が良くなることのようなイメージがありますが、実は改革とは名ばかりで、えー、幕府の延命策であったわけなんですね。それだけ100年経って、幕府が弱体化していたということを露呈しているわけなんです。えー、なぜ弱体化してしまったかと言いますと、えー、100年間戦乱がないということは、獲得する領地がないんです。えー、領地を獲得する機会がないということなんです。で、どうしたかと言いますと、初期の、3代家光のあたりまでは、獲得する領地がないなら、他の大名から取り上げようというので、諸藩のお取り潰しを盛んにやってます。どういうふうにしたかと言いますと、えー密偵を、隠密を放つんですね。で、何か不届きがないか、内政が乱れていないか。あるいは藩主がこう、病状が思わしくないんではないか、えー、濫行してるんではないか。それからあとは、えー、子、嫡子がないとき、跡取りがないうちにお殿様が亡くなったら、一番潰しやすいんです。で、なかなか嫡子ができないように工作をしたり、そういういろんなスパイの話もあったようです。忍者や何かが暗躍したのかもしれません。で、家光のころまではそうやっていたんですが、もう潰す藩がなくなってしまったんです。もう、みんな用心するようになりますから。えー、隠密が来ても、逆に返り討ちにしてしまったりして。えー、なかなか手強くなってきて、それ以上の幕府の領地を増やすことはできなくなりました。えー、そこでだんだん、やはり幕府の財政が苦しくなってきて、享保の改革というカンフル剤を打つことになるわけなんです。
えー、このころには、町人の力がどんどん高くなっています。上がっています。なぜかといいますと、100年間の平和ということは、年々余剰米があるということなんです。戦乱という大消費がないわけですから、ちょっとずつ蔵にお米が余ってくる。つまり、最初江戸幕府がはじまってから50年間くらいは、家康が言ったように、あのー、もう、えー「生かさぬよう殺さぬよう」という過酷な年貢の取立てをしていたんですが、それはほんの、最初の50年間ぐらいで、そのあとは恒常的に余るようになってきます。で、お米と言いますのは、みなさんご存知のように、当時、あの、お金と一緒でした。貨幣価値があったわけなんです。で、お米が余っているということはイコール、経済が活性化するということなんです。で、経済が活性化する、庶民の貯蓄がちょっとずつ増えてくるというと、購買欲が増えてくる。えー、あがってくる。つまり、あれが欲しい、これが欲しいと思うようになってきて、ますますそれが経済を活性化するわけなんですね。で、このように経済力を持った町人は今度、ゆとり、この余力でもって、文化というものを生むようになってくるんです。それまでは為政者側、つまり上流階級のものを真似っ子しているだけの文化だったのが、自分たちの持てる財産と、えー、暇ですね、余暇でもって、文化というものを作ってくるようになるわけなんです。えー、文化の主権が移動してくるというのが、えー、享保の改革のあたりなんです。で、このように文化の主権さえも庶民の手に渡ってしまうと、名実ともに、武士というものは存在感が希薄になってくるんです。100年間も戦がないのに、戦闘要員であるところの武士という階級はどうして必要なんだろうか。えー、みんながそういう矛盾に気がつきはじめた時に、改革をおこなっております。
えー、このあと2回改革がありまして、264年間の江戸時代で、3回大きな改革がありました。最初に今の享保、それから2番目に寛政の改革。それは、松平定信という老中が行なったものですが、11代家斉将軍のときに行われました。その時にまた、てこ入れなんですね。で、最後のてこ入れ、これが天保の改革です。水野忠邦というお殿様、老中が断行しました。これは遠山の金さんと手を携えてやったわけなんですけれども、遠山の金さん、時代劇では有名なんですね。あの、遠山桜、最後の、ラストの前の6分前ぐらいですか。バーッと出す、お白洲で。あれは見事で、見ていてスカッとするんですが、実際彼は「彫物禁止令」を出してるんです。この天保の改革のときに、「彫物なんていうものは風紀を乱す良からぬものであるから、一切まかりならぬ」というふうに禁じております。えー、かなりお堅い奉行だったようで、下情に通じている、こう、人情のわかる、柔らかいお奉行というイメージで時代劇は作られておりますけれども、風俗取締に厳しくて、えー、庶民が喜ぶものはみんな抑えつけている人なんです。たとえば、ちょっとエッチな本とか、あるいは歌舞音曲。あるいは派手な衣装ですね、流行り物。そういうものを禁じまして、ずいぶん細かいことまでしたようです。で、おかずは3品までにしなさいとか、そういう事細かに規制したのが金さんだったんですね。えー、彼は実際あの、若いときに、やっぱり、無頼のやからに交じりまして、彫物はしてあったそうです、確かに。で、ただ、金さんが若いころの彫物というのは、技術がさほど発達しておりませんで、あの遠山桜のような美しい色、そして図柄というのはできなかったんだそうで、あの、筋彫りという墨一色のものだったんだそうです。で、モノもあの、腕にこのくらい、二の腕にこのくらいで、遊女の生首が文をくわえている、結び文をくわえている図柄だったんだそうです。そういうものは彫っていたんだそうですが、それを大変恥じまして、真夏の暑い盛りでも、こう下に長袖の下着を着けまして、決して人に見せることはなかったんだそうです。だいぶ時代劇は嘘ばかりですね。あの、大岡越前守にしましても、「大岡裁き」というのはほとんどないんです、実際は。あれは、中国の教訓話がベースになっているものもありますし、他の後世の名奉行が裁いたお裁きも多かったようです。
大岡裁きも嘘ですし、吉宗の一番時代考証が違うところは、実は骨格なんですね。あのー、まあ役者さんには申し訳ないんですけれども、あの、えー、顔面の骨格では、えー、将軍以上のものはできないんです。というか、大名以上の骨格ではないんです。えー、かなり上流階級の武士になりますと、上のほうでだけ婚姻が結ばれますので、なかなか庶民に似たお顔立ちにならないんだそうです。で、西田さんのお顔立ちというのは、まるっきり庶民の典型でして、(笑)、あの決して二本差しをするような階級の方ではないんです。ああいうふうに、顎がこう、かなり平たくて張っていて、えー、お口がきりっと大きくて、あの、前から見ると面積があるんですが、横を向くとさほどでもないという(笑)。えー、そういう形が庶民の顔面なんですが、殿様ですと、前見るとこういうふうに、うりざね顔で長いんですが、横を向くと結構奥行きがあるんだそうです。欧米人に近いような頭蓋骨だったんでしょうね。で、吉宗の実際の肖像画も残っておりますけれども、かなり面長で耳が大きくて、6尺豊かの、あの、偉丈夫と言いますか、えー、かなり大男だったそうです。
で、改革の主な、やることと言いますと、庶民の衣食住への干渉、つまり引き締めで、贅沢はいかんというのが根幹にあるわけです。で、風俗の取締りを細かくします。乱れた風俗はいけない。もっと背筋をピシっと伸ばしなさい。それから、物価の引き下げを一生懸命するんです。物価の引き下げと利率の引き下げ。なぜ物価を引き下げるのかと言いますと、武士のお給料は、関が原のときに、先祖がんな働きをしたかということで、決まっているんです。で、それ以上なかなか昇給のチャンスがないもんですから、物価が上がるわ、給料は据え置きだわ、どんどん貧乏になる階級だということで、物価を下げれば少し生活が豊かになる。そのかわり、お米の値段を、えー、米市場に介入しまして、高値安定にもっていくわけなんです。彼らはお給料をお米で支給されてますから、お米が高値安定になれば、ぐっと楽なんです。つまり、自分たちの都合のいいことしか、やっていないわけなんですね。それから、主に一番大きく動いたのが検地です。えー、田畑の面積をきっちり測量しなおしまして、申告漏れがないかどうか、つまり脱税調査を津々浦々行うわけなんです。しみったれですね。そういうものが、実際の改革だったわけなんですね。
その最初の改革が享保の改革なんですが、んー、特徴、一番の特徴は、庶民の自治への参加を促したということなんです。つまり、財政がひっぱくしているので、あまり幕府のお金を使わずに安定した世の中にしたい。ということは、えー、町衆からお金を出させて、自分たちのことは自分たちでしなさい。ガイドラインはお上が引きますけれども、それにならって、あとは自分たちでやんなさいということなんです。一番有名なのが町火消ですね。あのー、各町内に町内消防団を結成させて、それまでは上火消と言いまして、各大名や旗本が結成していた消防隊が、えー、町の火事を消して回っていたんですが、それでは間に合わない。またその費用もバカにならないということで、自分たちで消しなさいということなんです。それから、自身番と木戸番です。今の交番の前身にあたりますが、それまでは辻番と言いまして、各大名あるいは旗本の、この、敷地内の大通りに面した側に設けた交番のようなものだったんですけれども、それからは各町内で、えー、番をしなさい。交番、あの、町の治安をちゃんとしなさいということで、彼らが夜警、夜回りをしたり、火の用心を打って出かけたりして、治安を守るようになってます。
それから、町の整備なんですね。あのー、たとえば道がでこぼこになっていたら平らに直しておく。あるいは、ドブさらいをして、水路をきれいに保っておく。えー、そういった町の整備全体も、町衆の手に任されてしまったんです。で、あともう1つは、あのー、橋までかけた人もだいぶいたようです。裕福な町人が「ここに橋があったほうが便利だな」ということで、自分のお金、私費でもって橋をかけてます。この橋の場合ですと大抵、「長兵衛橋」とか「源左衛門橋」とか、人の名前がつくことになっております。で、橋までかけてしまう。なんでも自分たちでやってしまう。結果、彼らは「お上なんかたいしたことがない」というふうなことを気がついてしまうわけなんです。これがまあ、諸刃の刃で武士の威信を失墜させたことにもなるんです。まあ、いいこともあれば、武士にとっては痛し痒しという面もあったんでしょう。このあとぐらいから、「二本差しが怖くて蒲焼が食えるか」という江戸っ子の短歌が生まれてます。気の利いたウナギなら5、6本は指してらあ、ということなんです(笑)。で、あと良い点、武士にとって良い点、これは下級士族にとって良い点だったんですが、吉宗は実力主義を採用したんです。つまり、家柄が低くとも、どんどん上の役に取り立てたんです。実力本位で、世襲制を崩したんです。で、かなり下の、下級士族のやる気が違ってきたようです。でも裏っ返せば、それだけ幕閣に人材が不足していたということなんです。ろくでもない閣僚しかいなかったんでしょう。で、この実力主義が生んだもうひとつの弊害は、武士のサラリーマン化ということなんです。会社組織のようになってしまって、頑張ってとにかく出世して、あのー、いい給料をもらおうという、そういうサラリーマン化してくるのが、吉宗以降なんです。で、この吉宗以降に、町衆の文化をいうのが、本当に花開いてくるわけなんです。
その前に元禄時代という、町衆の黄金期があるではないかとお思いの方もいらっしゃるかもしれませんけども、元禄はまだ布石に過ぎないんですね。えー、元禄の町衆の文化、町人文化と言いますのは、やはり、富ある者は栄える。富ある者は栄える。えー、西鶴の『日本永代蔵』のように、えーその、出世を促すような、出世すればいいことがあるよ、というような思想で、これは、多分に、武士的な思考方法なんです。と言いますのも西鶴自身、元浪人でして、武士、二本差しをしたことがあるんです。近松も元浪人だったんだそうです。で、このような元禄文化を創った2大巨匠が元浪人という武士の人ですから、価値観ももちろん、そういう武士のものであったんでしょう。で、享保以降は本当の町人の思想であり文化というものがやっと生まれた、本当の本格的な町衆の文化なんです。えー、享保以降の元禄と違う点は、元禄は「富ある者は栄える」だったのが、享保では「町に住むものは栄える」。こういう考え方なんです。つまり、富の多少にかかわらず、町に住む者はみな栄える。幸せに浴する権利があるんだ、という平等思想。それが町衆の本当の意味での思想なんですね。で、この吉宗以降の町衆の文化について、これからお話します。
享保以降、なぜ享保以降かと言いますと、それまでは上方にしか文化がないと言っても過言ではない状態で、東の者、特に江戸の人たちは、上方のものであれば、すべてありがたがったんです。上方ブランド。つまり、下り物はみんな良い。下り物を欲しがっていた。で、江戸の人たちは、京都や大阪の町衆の暮らしぶり、旦那衆の暮らしぶりを、そうですね、ちょうどあのー、戦後の日本で、アメリカのホームドラマが放映されていたときに、「あんな暮らしがしたいな。庭付き一戸建てで、大きな犬を飼って、えー、フライドチキンを食べて、ハンバーガーをかじりながら、テレビをソファーで見たい」と思ったように、上方の旦那衆のような暮らしがしたいという、恋焦がれた文化が上方のものだったんです。で、真似っ子ばっかりしていて、コピーばっかりしていたのが、その元禄期。で、享保になって初めて、東が西に拮抗しはじめる、し得るような、えー、状態になってきた。まだまだ劣ってますけれども、ちょっと兆しが見えてきたのが享保のころだったんです。なぜ享保になって江戸の文化がやっと芽ばえてきたかと言いますと、これもやっぱり上方の恩恵なんです。と言いますのは、江戸の経済を支えている大店(おおだな)。大商店、大企業ですね。あれはほとんど上方に本社があって、江戸支店という形で出店しているんです。で、神田、日本橋といった、大江戸のメインストリートに、かなり大きな間口の大店を構えている。それらの商店はすべて、上方に本社がある江戸支店なんです。江戸の人たちにとっては外資系企業なわけなんですが、彼らが江戸の経済をがっちり握っていて、動かしていたんです。ところが江戸の、あのー、お役人というのも、なかなか知能犯といいますか頭を使いまして、江戸で稼いだお金は江戸でしか使えないような税をかけるんです。つまり、上方の本社に持ち帰れないようにする。持ち帰るときには半減してしまうぞという脅かしをかけるわけなんです。ということで、半分になってしまうんだったら江戸で使ったほうがいいやということになって、江戸の経済は、江戸っ子は働きもしないのに、大変活気を帯びてくることになるんです。
で、余ったその経済力は、江戸の文化を育成するためのメセナとして活用されることになるわけなんです。ここで、江戸においての、上方によるメセナの誕生を見るわけなんです。このメセナの誕生によって江戸文化が誕生することになるわけなんです。まずあの、江戸相撲、江戸歌舞伎、江戸戯作(けさく)。戯作というのは、庶民が読んで楽しむ面白おかしい本なんですが、娯楽本です。それから、俳句に対しての江戸川柳。これも面白おかしい句ですね。和歌に対する狂歌。狂う歌と書きますけれども、それも和歌を茶化したものが多かったようです。それから、大きいのが江戸錦絵。浮世絵と言いますけれど、正式な名称は江戸錦絵。つまり江戸の特産品なんです。江戸の名産品ということで、江戸に来た人たちはお土産に、大体9割以上、江戸錦絵を手にすると言って、言われたほど、えー、大変売れたものだったそうです。まあ、何枚買ってもかさ張りませんし、重くないということで、お土産にはちょうど良かったんだと思います。えー、それから、江戸浄瑠璃というのも初めてこの後に出ております。なんでも、平賀源内が発案したと言いますが、それまでは上方の言葉で語られていた浄瑠璃を、江戸弁でもって語ったというものなんですね。
それから、江戸料理というものが誕生しました。それまで、お料理と言えば京懐石に決まってるんです。京料理に決まっていて、人をおもてなしするときには京都の料理以外はもてなしに値しないというふうに言われていたのが、こう、江戸料理という分野を作ったわけです。あまり聞きなれないジャンルかもしれませんけれども、いわゆる、あのー、外連味(けれんみ)なんですね。京都の王道を行くような正統派の料理に対抗しまして、外連味でもって、例えば初物ばっかりを出す。あるいは、この季節にありえないものを出す。ということで、例えば貝割れ大根を火鉢のそういう温室でもって育てて、貝割れ大根の出そうもないときに出すという贅沢をしたわけなんです。あとは、ビックリさせたいというだけのアイディア料理が多かったです。あのー、逆転卵というのがあります。これはゆで卵、ただのゆで卵なんですが、皮をむくと、黄身が外側になっていて、中が白身になっているんだそうです。えー、どうやって作るのかはわからないんですけれども、100個に1個は成功するというぐらい、なかなか成功しなかったそうで、その卵が1個1両なんていう値段で取引されていたぐらいです。1両を今の貨幣価値でいくらにするかは、なかなか論議の分かれるところですが、大体ひと月1両で、家族4人が暮らせる額ですから、相当の額だと思います。そんなものを、ただ味は普通のゆで卵に払っていたという江戸の馬鹿らしさがちょっと窺えて、泰平の世の中だな、平和だなあという感じがしないでもないです。で、江戸の中期になってやっと江戸が、坂東の片田舎だったのが、なんとなく都市らしく、町らしくなってくるわけなんですね。
とはいえ、江戸はずーっと400年間、京都へのコンプレックスで突っ走ってきたようで、京都とみれば何でも対抗意識丸出しで、もう大人気ないぐらい、えー、京都とは違うものにしたいという意気込みで、それぞれの江戸文化を育んできたようです。東北は仲間なんです。というのは、江戸は東北の玄関口だという意識がありまして、東北の後ろ盾があるから上方に対抗できるんだという、そういうような意識で。あのー、ライバル意識なんですけれども、上方、当時の上方では全然江戸のことをものとも思っていなかったようです。それだけプライドががっちりとあったんでしょう。えー、江戸オリジナルブランドというのが生まれることになるんですけれども、オリジナルと言いましても、ほとんどがやはり、上方のアレンジなんです。元々江戸にしかないものというのは、ほとんどなかったようです。これは、江戸育ちと言いますか、東京生まれ東京育ちの私には、ちょっと悔しい思いのすることですが、えー、やむを得ないことですね。新興都市の悪あがきをいろいろしたんですけれども、なかなかあの、千年の王城の地には、与することができなかったようです。えー、ベースは京都と大阪という上に、あぐらをかいて、太平楽なあぐらをかいてるのが、江戸文化の正直なところです。
で、どういうふうに対抗したかと言いますと、まず反則技ギリギリです。えー、京都の伝統、積み重なっている伝統に対抗しまして、じゃあ差っ引いていこう。引き算の文化なんですね。で、京都の例えば舞妓さん。大変着飾って、髪もきれいに結い上げて、京友禅をまとって、西陣の帯を締めて、満艦飾(まんかんしょく)、満艦飾の素晴らしい芸術だと思います。それに対抗したのは辰巳芸者だったんです。江戸から辰巳の方向にあるというので辰巳。深川の、えー深川にいた芸者さんのことなんですが、彼らは、彼らって、彼女らはですね、ほとんどお化粧しない、スッピンで洗い髪を結い上げた、水髪(みずがみ)と言いました、油もほとんど使わない水髪を結い上げて、黒い江戸褄(えどづま)という、裾にちょこちょことしか模様の入っていない江戸褄を着て、そして、頭にあんまり指物(さしもの)をしないで、えー、すっきりとした粋というものを売りにしておりました。舞妓さんと対照的だったと思います。お滑らかしに十二単の京文化があれば、洗い髪に浴衣だけの江戸文化があるという。とことん逆を逆をという、虚を衝くような戦法に出ています。
ただそれは、発想の転換ということで、えー、強がりといえば強がりでしかないんです。あの、有り体に言えば、貧しいということを身軽でスマートだというふうに置き換え、すりかえたのが、江戸っ子の知恵というか、えー、技なんですよね。これは代表的な「宵越しの銭は持たねえ」という啖呵(たんか)に表れるわけなんです。「宵越しの銭は持たねえ」そう言えば気風が良いように聞こえますけれども、実は本音は違うんです。宵越しの銭なら持たずとも良いけれども、宵越しの金(かね)なら持ちてえ。「金なら持ちてえ」が江戸っ子の本音なんです。というのは、金と銭は、全然ものが違うんです。銭は、銭形平次の親分がピュッピュッと投げるくらいの、つまり小銭ですね。10円20円の単位のものなんです。金は、金銀の小判です。つまり数万円の単位のものなんです。全然ものが違う。で、数万円単位なら明日まで持っていたいけれども、数十円数百円なら使っちめえ、ってそれだけの啖呵なんです。たいして偉そうなものではないです。つっぱりの文化と言いますか、意気地(いきじ)、イキジですね。開き直りがその江戸の特色だと思います。
意気地から生まれた一番大きなものが、「粋(いき)」です。「スイ」と書きますが、江戸では同じ字を「イキ」というふうに読みます。九鬼(くき)周造先生という立派な先生が『「いき」の構造』という難解な本をお書きになってらっしゃいますけど、その中で、粋をこういうふうに読み解いていらっしゃいます。3つの要素が粋を作るというんです。で、1つは意気地。さっきの意地ですね。これは、どんな意気地かと言いますと、「利害を問わず、顧みず、体を張る」。つまり、負けるとわかっても喧嘩をする、それが意気地です。2番目、諦観。諦める観ですね、諦観。諦めが良い、あっさりしている、こだわりがない。まあ、ふっきれているということもあると思います。諦観。それから最後に、媚態(びたい)。あの、媚(こび)を売るの媚(び)、ビですね。に、状態の態。媚態。今の私たちにとれば、媚態と言うとこう、ヘラヘラへつらうような媚というほうが近いような感じがしますが、このところで言っている媚態というのは、一番近いのは「婀娜(あだ)」です。えー、あだっぽいねえという、あのアダです。で、また、仇(かたき)という字のアダ。不倶戴天の敵、かたきのアダも意味が同じです。つまり、えー、その女性にはまってしまうと、男性が身を滅ぼすかもしれない。毒に近いような色気がある、そういうのものをアダと言います。えー、男性が翻弄されるような状態ですね。で、この3つが、意気地、諦観、媚態が粋だって言うんです。
で、この粋を今度逆に「スイ」というふうに読み変えると、全く逆になってしまうんです。同じ漢字なんですが。上方の美意識です。最初の意気地、これは上方では、負けとわかっている喧嘩はしない。君子危うきに近寄らずという、そういう教訓的な、合理的な、まあ頭の良い解釈になっています。それから次の諦観、諦め。に対して、上方商人の粘り強さは、投げたらあかん。諦めてはいけない、そういう価値観でいます。で、最後の、アダ。男が翻弄されるんではなくて、上方では、えー、女を泣かしたいって言うんだそうです。逆なんですね。で、このように「イキ」と「スイ」とでは読み方によって、全然指すものが違っていたようです。イキとスイ。上方と江戸ということで、とても分解しやすい、解剖しやすい言葉なので、もうちょっと解剖してみます。
まず、イキと読みます、イキ。「イキが良いね」。あの、活魚のイキ。これにも通じるわけなんです。えー、イキ。つまり活きの良さ、素材そのまんま。えー、江戸前の握りずしが、まさにその代表選手ですね。あの、生の魚そのまんまを、の活きの良さを食するということなんです。で、こちらをスイと読みますと、スイ。「酸いも甘いも噛み分けて」のスイなんです。酸っぱい、酸味の酸です。これはピンとくると思いますけれども、スイ、つまり押寿司なんです。熟成された押寿司。熟成によって出る酸味なんですか、江戸のはただ飯に酢を混ぜて、酢飯を作ってるだけなんですね。ところが上方の酢というのは、熟成期間を置いて積み重ねているということなんです。イキとスイ、どう違うか。つまり江戸はキャラクター勝負。個性が売りなんです。その握られてそのまま食いつく。勢い、個性、スピード感。まあ、人で言うと、えー、花川戸の助六のような、ああいう元気が売り、そして個性が売り、スピード感が売りというものです。逆に、スイのほうの押寿司は、教養、習い事、地位、財産、いろんなものを積み重ねて、そういったものをしてきた旦那衆しかできない遊びが、スイの遊び。ところが江戸では、ポッと出のあんちゃんでも、元気が良ければ花魁(おいらん)と良い仲になれた。でも、上方の島原では、旦那衆にならないとなかなか入れないという、かなり格の差を感じます。
それから、もう1つのイキとスイの文字の差なんですが、イキ、それは息。吸ったり吐いたりする息。吸ったり吐いたりって言いましたが、息は実は吐くもんなんです。吐く。吸ってるのは空気で、吐いてはじめて息になる。吐いたときが息。つまり、吐く文化が江戸の文化なんです。吐くとお腹がへっこみますね、まあ腹式呼吸の場合ですが。おなかがへっこむ、腹がへっこむ文化が、腹ペコの文化がって言うんでしょうか、腹がへっこむ文化が江戸の文化。何を意味するのかって言いますと、放蕩する、放蕩息子。あるいは、消費する、いろいろ散財する。つまり、放蕩と消費が快感。そういうことを感じるのが江戸の文化。逆に、スイは、やっぱり吸い込むのスイなんです。吸う。腹が膨れる文化なんだそうです。吸い込むとお腹がふくれます。これは、獲得したり、あるいは増殖、増やしたりすることに快感を覚える文化なんだそうです。かなり東西で価値観が違うというのが、スイ、イキ、このたった一言で、あのー、わかりやすく、えー、見えてくるかと思います。えー、スイとイキでこのくらい違う。これも最近気がついたことなんですけれども。で、やっと京都に足を踏み入れさせていただきますが、どうしても緊張します。ほんとに、あの、おっちょこちょいな東京人なので。さらっと、イメージと言いますか、あ、江戸から見てこういう感じなのかという感じを掴んでいただければ幸いです。
京都は大阪の上を行ってます。うわてです。大阪の熟成をさらに長期発酵させた、滋味を深めた、あの馴寿司に近い感じがします。あるいは、いったん鮮魚をカチカチにこう干してしまって、それをまた手間隙かけて戻すような棒だらのような複雑怪奇な食文化にも、京都の文化を感じます。えー、スイよりも上なのが、やはり「雅」なんです。雅。雅は、いいねえ、雅やかで。何かこう上々たる、うっとりとするような響きなんですが、なかなか手ごわいんです。雅。牙がありますね、字に(笑)。牙をちゃんと持った文化なんです。そのところがすごいなあ、えー、徒や疎かにわかった気にはなれないというふうに思います。で、3都を比較しながら、イメージを、ふくらませてください。えー、京都、大阪、江戸です。で、まず京の雅、江戸はイキというふうにもう出てますからいいですが、大阪は「才覚」。井原西鶴の西鶴ではなくて。才能の才に覚えるという字ですね、カク。才覚なんだそうです。つまり、京の雅、大阪の才覚、江戸の粋。これが3都のキーワードなんだそうです。
で、京の雅とはなんぞや。えー、これは、相当高度なテクニックということに集約されるんだそうです。京都のテクニックは江戸の当時、まあ江戸以前からなんでしょうが、日本一という定評がありました。京都の職人技はもう右に出るものはない。いまだにそれは受け継がれているようで、京都は、精密機器やいろんな先進技術の会社を興したかたが非常に多いですね。で、京のテクニック、これは意外な一面、私にとっては意外な一面でしたが、江戸に帰ってみても、やはりそういった評価があったようです。で、そういう先進の技術によって支えられている町なんですが、同時に伝統文化もきっちりと守り伝えている。両方ありなんて、ずるいですね、良いとこばっかりで。あの、伝統もあり、先進もあり。で、先進を受け入れる素地がちゃんとあるという革新も、全然京都がいつもトップですね、革新の地であるという。しなやかな町ですね。そのしなやかさ、それからその先取の気風。それが雅を生むもと、原動力になっていると思います。
そして大阪の才覚。これは、合理性に富んだ頭脳です。あの、合理主義。で、コストパフォーマンスを重んじるわけです。質実です。質と実がある。つまり、大阪では、高くて旨いのは当たり前。安くて旨くなくては、お店やさんが繁盛しない、食べ物やさんが繁盛しないと言われてますが、質実。まあ、始末ということも言いますが、そういうのを重んじているのが大阪の才覚のもとだと思います。質実、だけど剛健じゃないんですね。質実柔軟。それが、大阪の才覚かと思います。
最後に、江戸の粋(いき)。粋と言いますが、やはり、再三繰り返しているように、意気地、つっぱりなんです。持たない強み。無手勝流と言うんでしょうか。もともと何も無いところに忽然とできた都、町、都市ですから、えー、八方破れ的なところが、もちろんあります。何でもありというところですね。で、一番、江戸の粋で私が好きなのは、楽天思考ということなんです。暗く考えない、何でもいいほうに考える。その代表例が、「火事と喧嘩は江戸の華」。ああいう、両方忌まわしいものですね。江戸では、そういう火事と喧嘩は、華やかで、活気があっていいやな。っていう喜び勇んで参加したり、あるいは、はやし立てたりするんですが、京都では、火の用心は「おやすみやす」と同じような町衆の心で、必要最低限心得てなくてはならないマナー。火を出してはいけない、というのに、江戸では火事を喜ぶふしがあったという、目茶目茶な町です。目茶目茶な割に、案外と保守的なんです。これは今の東京でもそうなんです。なぜ保守的かというと、江戸も東京も田舎もんの集まりなんです。あの、私の江戸っ子である、江戸っ子自体も、田舎もんなんです、結局。つまり、大きな田舎ではあるけれども、町衆と言うにはあまりにもバラバラすぎますね。その田舎者のところが、その、江戸の保守につながっているんだと思います。京都の柔軟性というのは、やはり、町衆のプライド、誇りというのがきっちり一人ひとりにあるから生まれるものなんだろうなと思います。
京都、大阪、江戸。この3つをもう1つ、えー、それを知るためのキーワードがあります。とても簡単です。京都から5、大阪が3、江戸が1。5、3、1と覚えてください。京都は、「京の五色(ごしき)」。五色(ごしょく)と書きます。つまり京の五色、黒、白、黄、赤、緑。この京の五色というふうに言われます。この五色を、イコール錦というふうに読み変えてもいいんだそうです。たくさんの色を使いながら破綻をきたさないのは、磨かれたテクニックがあればこそなんです。錦を自在にくれるのは、京都人のテクニックでなくてはいけなかったということなんです。
で、次の大阪は、「大阪の三彩」といいます。唐三彩(とうさんさい)の三彩です。3つの彩りと書きます。唐三彩。これはやはり大阪の才覚を象徴するようなものです。最小にして最大の効果を生む色数なんですね。代表的なのが、黒、緑、茶色の、歌舞伎の定式幕(じょうしきまく)です。あんなに重厚で、しかも洗練されて洒脱(しゃだつ)な、いい組み合わせはないと思います。あの、見事な合理性だと思います。
で、最後の「江戸の一色(ひといろ)」。一色と言います。ひと色は、一色(いっしょく)なら、無地一色なら何でもいいかというと、違いまして、「江戸の黒」なんです、実は。黒。つまりこれも、いわゆる反則技ですね。5や3に対抗するのに、7を持ってくる自信は到底ないんです。ということで、1で勝負をする。黒で勝負する。でも黒は、江戸人にとっては、この黒…、今私も黒を着てきました(笑)。黒に見えるけれども、見た目には黒に見えるだろうが、実はこの黒の中には、京の錦と大阪の三彩みんな塗りこめてあるんだよという。本当に意地っ張りなんですね。黒に見えるだろうが、重ねていった究極のものが、このこういう色になっちゃったんだよ、というような強がりでもって黒を着続けたようです。「通人(つうじん)の黒尽くし」と言いまして、吉原などに通うような遊客は、全部上から下まで黒で、ぞろっと揃えたそうです。ただ、素材を変えるんですね。羽織を縮緬(ちりめん)にして、着物を羽二重にして、下着を紬にするとか。そのように素材を変えるけれども全部黒なんです。その、江戸の黒というものが、唯一対抗できると江戸の人たちが判断した、強い色だったようです。
この、5、3、1というのは、全て、衣食住全てに通用するんです。これ、面白いですよ。たとえば、衣(い)でいってみましょう。ころも、い。京の五色。たくさんの色。もちろん京友禅の五色、そして西陣帯の五色、錦、あります。で、自在なデザインがあります。それから複雑な表現が可能です。で、こう、高度なテクニックでもって、かなり細かい綴れ織(つづれおり)も、京都ならでは、実現しています。で、これらが京都の五色。あの、衣の文化の、すごく深く、間口の広く、また奥行きの深いところを見せています。 で、大阪の三彩。これは三色でもって、大変都会的でもって、洗練された華やかさをかもし出している衣装となってます。で、江戸は、やはり黒づくめで。男も女も右も左も黒で、没個性のように見えるんですが、決め色というもので遊ぶんです。例えば、袖口にちょろっと紫を出す、真っ赤にする。朱色にする。そういう決め色。面積が小さい決め色でもって遊ぶわけなんです。あとは、小物に凝るしかないんですね。根付を、面白いのをぶらさげる。あるいはタバコ入れ。紙入れ。そういう小物を、真っ黒けだとかなり引き立つわけなんですね。で、そういう小物のギャラリーという感じで、黒を着続けたようです。まあ、そのぐらいしか主張するスペースがないわけですから。
次に食。食べるほうです。食。やはり五色といえば、京会席でしょう。色とりどりで洗練された盛付け、そして味わい。すべて、五色、錦にふさわしいかと思います。でも大阪については私あまり詳しくないんですけれども、どうしてもきつねうどんが浮かんでしまうんですが(笑)…、大きなお揚げの黄色、麺の白、それから青菜がちょっと乗っていたりしますよね。あとは、お好み焼きやたこ焼きのソースの茶色、青海苔の緑、紅しょうがの赤。ちゃんと3つ取り入れられているような気がします。江戸の黒は、盛蕎麦しかありません。蕎麦です。ツユは真っ黒、麺はグレー。ひたすら無彩色。何も、何の景物もない、愛想も何もないというものですね。江戸の蕎麦は、江戸の食文化を象徴する最も代表格なんですけれども、みなさんとイメージが違うのは、蕎麦は閑中食なんです。つまり、忙中食と閑中食。忙しいさなかに食べる食べ物。あるいは、暇だから食べようねという食べ物でわけると、うどんは、「忙しいからうどんで済まそう」。ところが蕎麦は、暇だから蕎麦屋へ行こうということになるんです。戦後だいぶ食料がなくなって、蕎麦が代用食になってしまってから変ってきてしまった。東京の蕎麦屋も変りましたけれども、もっとずっと前は、蕎麦は閑中食で、おやつ代わりに食べていた。嗜好品。コーヒーやタバコと近いかもしれません。一休みしたいときに蕎麦屋にふらっと入るということで、時分時(じぶんどき)、食事時に蕎麦屋に入るものではないというふうな考え方だったようです。2時とか4時とかの、小っ腹のすいたときに、ちょこっと入って、一杯やりながら蕎麦がゆだってくるのを待っている。そこで、お酒のことを、「蕎麦前」という言い方をするんです。「うどん前」というのは聞いたことないんですが、蕎麦前といえばお酒、というふうに決まっておりました。というわけで、今でも、江戸前といわれる老舗では、良いお酒が置いてあります。そんなのをチビチビやりながら、蕎麦をたぐるわけなんですね。で、だいたい、私も蕎麦大好きなんですけれども、江戸前のせいろ、もりは、70グラムから110グラム、茹で上がって。そのぐらいの量なんだそうです。イメージがわかないかもしれませんが、信州蕎麦は一人前400グラムなんだそうです。相当違うと思います。4,5枚食べないと、信州蕎麦の一枚分にならない。江戸前のせいろでも、600円、700円しますから、それを5、6枚だと、相当値段高いですね。怒って帰るかたもいらっしゃるそうですけれども。蕎麦で腹いっぱいにするほど野暮なことはないというふうに考えていたようで、うちの亡きじじいちゃん、おじいちゃんも、そのことを言っておりました。まあ、蕎麦の話長くなってしまいましたが、当時、江戸に120万人の人が住んでいたんですが、そのときに、江戸市内に登録されてるお蕎麦屋さんだけでも、4000店近くあったんだそうです。登録されてないのは、あの夜鳴蕎麦。こう、担いで屋台で売る蕎麦屋さんは、全く登録されていませんから、もっとその数倍あったんだと思います。今、人口1200万人の東京で、たった5000店なんだそうです、蕎麦屋さんが。いかに江戸時代、蕎麦屋さんというものが親しまれていたというのが、この数字からでもわかるかと思います。で、食。えー、蕎麦で長くなりました。
次、衣、食、住ですね。住。はい。住まい。これも5,3,1が生きてきます。全部5,3,1が生きるのが面白いですね。これは、家として認められる間数(まかず)、部屋数ですね。京都は5部屋欲しいんだそうです。贅沢ですね。だいたい、仏間、居間、主人の部屋、台所、納戸、最低これは必要だろう、というふうに京都の町衆は考えたんだそうです。で、大阪は3部屋。これは、仏間、居間、台所。まあ、居間でみんな寝起きしたり食べたりしたんでしょう。仏間、居間、台所。共通しているのは、仏間と台所のない家は家ではないという考え方です。そこで、次が想像がつくと思うんですが、江戸。ワンルームなんです。貧しいですね。世界中の都市で、こんなに貧しい住環境、劣悪な住環境に甘んじた都市民はないんじゃないかと思います。1軒3坪です、江戸の裏長屋。想像つきますか。京都の納戸だって、3坪じゃきかないと思います。えー、3坪。4畳半ひと間。収納無し、押入れ無し、土間が少々。台所もありません。かまどはオプションで、自分で買ってきて設置すればいいんですけれども、元々長屋に入ってきたときには何もないんです。土間が細長いのちょろっとあって、4畳半ひと間。収納無し。もちろん、他になんにもない。そこに、例えば柳行李を置いて、たたんだ布団を置けば、有効スペースは2畳ぐらいにしかならないわけなんです。親子3人川の字なんて悠長なこと言ってられませんので、子供は寝るときには、必ず真ん中に置くのは、子供が土間に転がり落ちないため、予防策なんです。それでもやんちゃな子供は、親のおなかを乗り越えて、転がってっちゃうんで、江戸の長屋では親子が寝るときに、子供と帯と帯をしっかりと結び合ったという、なにか情けない状態なんですが、本当だったんだそうです。
5、3、1という、この3大都市でこんなに差があるんですね。で、あと、仏間がないというのは何かというと、御位牌を持っている人が少ないんです。江戸では、お墓を持っている庶民が非常に少なくて、稀で、長屋で、もし亡くなった場合は、大家さんのお寺さんに埋葬してもらうんです。無縁仏(むえんぶつ)になってしまいます。お墓がないということは、仏間も要らないということなんです。で、台所がないということは何かといいますと、江戸中の町という町に屋台があふれていたんです。つまり彼らは、2食あるいは3食を屋台で済ませていた。3食屋台食い。まさに、家に住むんではなくて町に住んでいるというイメージが江戸の長屋なんです。あれは、家と考えてはいけないのかもしれません。ベッドルームですね。昼は町の中ほっつきあるいていて、湯屋、銭湯の2階でごろごろしたり、床屋さんの土間でだべったり、神社の境内でくつろいだり、あるいは、そうですね、どこかしら、お寺さんの本堂で読書をしたり、全部、家の機能は外に、外の公共スペースに求めていたようです。ですから、帰ってきて寝るだけの空間。ベッドルームというふうに考えれば、3畳でも、まあ許せるかなという感じがします。まあ、彼らが200年間文句ひとつ言わずに裏長屋に住んでいたというのは、やはり、町が自分たちの住処(すみか)なんだという割り切りがあったからなんだと思います。えー、墓を持っている人が少ない、なんて、はかないという…儚い江戸文化ですね(笑)。家財もほとんどなかったんだそうです。あのー、その3坪の長屋というのは、12軒でだいたい1単位。1つの、ワンブロックになっておりましたが、12軒寄り集まって全部家財道具を出して、1軒分の家財道具になる。だいたいそんな勘定なんだそうです。「七輪?あ、七輪は3軒先だよ。お漬物は隣に漬かってるよ。」そんなような感じで、借り合いっこして、融通し合って、1軒分の機能をみたしていたようなんです。みんながみんな、全部、生活に必要なものを手にしていなくてはいけないという形ではなかったようです。まあ都会暮らし、新しい都会暮らしの誕生が長屋だったんでしょう。
で、家財道具といいますと、風呂敷包み1つ。つまり、「火事だー」というときに、首っ玉に結んで駆け出せる程度が丁度いいというふうに考えていたようです。かなりシンプルな、これ以上シンプルになりようのない生活です。面白い話が、時代劇ではあまり出てきませんけど、面白い話がありまして、やはり彼らの持っているものの中で、衣類、着物というものが一番高価なものです。当時もちろん、手織りで、手で仕立てて、全部手作業ですから、高価なものです。手ぬぐい1本でも、今思うよりずっと高価です。そこで、長屋に帰ってくると、ポーン、玄関で丸裸になってしまうんです。なるべくそじないようにということで、長屋では「かかあも亭主も素っ裸でおまんま食べている」というのが本当の姿なんです。テレビでやったら面白いでしょうが、放映できないかもしれませんね(笑)。で、そのぐらいシンプルだという、いいエピソードかと思います。
えー、火事は多発していたようです。200年間の間に、100件以上の大火がありました。大火といいますと、4,50軒も焼ければ充分大火のようなんですが、江戸で言うところの大火、そういうふうに記録に残るほどの大火といいますと、5、600軒、町が2、3丸焼けになってしまうぐらいのものを、大火と呼んだんだそうです。2,3年に一度は大火に遭うということは何を意味するかというと、一生のうちに5度も10度も焼け出されるわけなんです。火事慣れしてきてしまうわけなんですね。ジャンジャンジャンと半鐘が鳴っても、いきなり逃げ出したりしなかったそうです。ゆっくりお茶でも飲んで、隣まで燃え出したら、しょんべんして逃げよう、ってその程度のものだったそうなんです。のんきですね。のんきだったもう1つの訳は、彼らは職人衆がほとんどで、火事があれば、手間仕事が増えるんです。焼け太り、焼け誇り(やけぼこり)、なんて言いまして、ちょっと還元していたふしがあります。それから、ほとんどの人たちが借家住まい。家は借りるもんだというふうに思っておりましたから、焼けたら、家は大家が建てるもんだ、その程度の認識しかありません。で、雨漏りがしてきたり、戸の建てつけが悪くなってきたりすると、「ぼちぼち焼けねえかなあ」なんていう不遜なことを言っていたようです。もう敵わないですね。まあ職人衆の町ということが、火事を、江戸の活気に結びつけるような発想方法になったんでしょう。
えっと、まあ、江戸前という言葉について、おさらいしておきます。これもちろん江戸後期にできた言葉です。江戸前の握り寿司が一番、みなさんが親しんでいる江戸前かもしれませんが、江戸湾、江戸港(みなと)で採れたての材料を使った握り寿司という意味も4割がた合ってます。残りの6割は、男前とか、腕前とかの「前」なんですね。つまり、「江戸スタイル」という意味なんです、正確には。それまでの、上方の押寿司や馴寿司に対抗して、新しく江戸スタイルで作ったお寿司が握りですよ、という意味です。他に江戸前がつく言葉に、江戸前の蕎麦。これは、信州蕎麦に対抗してのことでしょう。それから、江戸前の蒲焼。それから、江戸前の天ぷら。蕎麦と寿司は先ほど申し上げましたので、蒲焼と天ぷらについて、軽くお話します。蒲焼は、ガマの穂のガマって書きます。ガマ焼と書いてカバ焼と読むんですけれども、元は、そのまんま、ガマヤキというふうに呼んでいた、発音していたようです。つまり、昔は、うなぎを筒切りにして、串に刺して、囲炉裏端で炙って、粗塩をふって、横ぐわえにして食べたんだそうです。あまりおいしそうじゃないですね。あの、立て場茶屋や、あるいは、駅。つまり荷駄(にだ)ですね。馬に荷をつけて運んでいくような駅などで。今で言う、インターでしょうか。ああいう所で商われていたスタミナ商品だったようです。トラックの運転手さんのような立場にある人ですね。運送している人ですから。で、彼らがスタミナを欲するときに、あれをこう横ぐわえにして精力をつける。というものだったんだそうです。ところが、江戸湾に、江戸港(みなと)に、大変良いうなぎがたくさん取れたので、というのは、生活排水が全部流れこんでおりますから。当時の生活排水は、野菜くずとか、お米のとぎ汁や、わりと栄養豊富なものしか排水にならなかったので、うなぎが肥えたんでしょう。このうなぎを使って何かおいしいものができないか、ということで、えー、これは大阪の知恵なんです。大阪に、付け焼きという焼き方があるんだそうで、魚の切り身に串を数本打って、タレをつけながら焼いていく。あの付け焼きの技法を、うなぎに取り入れたらどうだろう。そこで、開いて、串を打って、タレをつけながら焼いたところ、非常においしかったという。そこで大ヒットになるわけなんですが、当時は、ガマ焼が並行してありましたから、そちらは「いかだ焼」というふうに呼んでいたんです。ところが、いかだ焼があんまりおいしいので、ガマ焼のほうが廃れてなくなってしまい、混同されて呼ばれるようになって、今では「蒲焼」という一名称になってしまったそうです。これも、上方の知恵なんですね。
天ぷらも、もともとは上方の知恵でして、大阪や京都のほうに、魚の付け揚げというものが、たいへん屋台で、はやっていたんだそうです。お祭りの屋台では必ずといっていいほど、はやったんだそうで、えー、魚の付け揚げ。魚のすり身につなぎを入れて、成形して、揚げたもの。まあ、今で言いますと、薩摩揚げに近いんでしょうか。これを魚の付け揚げと言うんですが、江戸っ子気が短いですから、すり身にしたり、つなぎを入れたり、成形したり、という、めんどくさい…、まあ、ぶきっちょだったのかもしれませんが。だから、そのまんまの下味を付けた切り身に衣を付けて揚げちゃえばいいんじゃないか。手っ取り早いことを考えたのが、江戸前の天ぷらなんだそうです。天ぷらも蒲焼も、お寿司も蕎麦も、みんな、あの、屋台から始まってます。今では高級な和食になっておりますけれども、当時は、立ち食いの、非常に野卑なもので、高貴な人は、なかなか召し上がるようなものではなかったんだそうです。えー、お座敷天ぷらなんていうのは、昔からあったような気がしますが、実は、大正期にはじめてできたんだそうで、かなり新しいものですね。時代劇で、お座敷天ぷらやっていたら、嘘だ、と指をさしましょう。あ、それから、握り寿司もずいぶん新しいんです。文化文政ですから。遠山の金さんは食べられましたが、水戸黄門や大岡越前は食べられませんので、ドラマで出てきたら、嘘だ、と思いましょう(笑)。お蕎麦は結構です。黄門様も食べられます。唯一食べられる江戸前はお蕎麦ぐらいもんでしょうか。蒲焼も、まあ、お寿司ほど下ってはいませんが、大岡越前はやはり食べられません。遠山の金さんと鬼平ぐらいですかね、食べられるのは。そのあたりなんですが、でもドラマにはポイポイ出てくるような気がします。
最後に、お寿司、もう1個だけ思い出しましたんで。寿司という字、寿(ことぶき)に司(つかさ)と書く寿司は、当て字です。ずっと後の当て字です。で、大阪や京都の押寿司、馴寿司の場合ですと、魚偏に、作るという字の人偏を取った側。それを当てます。魚偏に、作るという字の右側ですね。で、あれでスシと読ませます。江戸前の握りの場合、その字を使ってはいけません。江戸前の場合は、魚偏に旨いという字を書きます。片仮名のヒに、ひ、にちです。日曜日のニチ。片仮名のヒの下に、日曜日のニチを書いた、旨いという字を当てます。つまり、まんまの魚が旨いんだという、何の技巧もこらしてませんよ、という字になっているわけなんです。で、対する上方のほうは、魚を、よりおいしく作ってますよ、という“作る”というものを当てているわけなんです。江戸前の握りずしで、こちらの、“作る”のほうの鮓(すし)を当てていたら、やはり間違いですし、上方の押寿司で、江戸の魚偏に旨いを使うと、やはり間違いということになります。なかなか今では、混同されてしまって、あのー、どうでもよくなっているようなんですけど、江戸の頃はちゃんと書き分けていたようです。なんか本当に役に立たないんですけれども…。江戸の話は役に立たないことが多いんです。まあ、言い訳になりますけれども、あのー、役に立たないからこそ、260年間、GNPの伸び率がほとんどないという、本当に安定した平和な時代であったようです。役に立つことばっかりしていたら、もう200年ぐらい前に開国していたんじゃないかと思います。
(拍手)
(59:54)
2011年09月08日
この記事へのコメント
コメントを書く