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東京、大手町。
空を衝くガラス張りの摩天楼群の中に、その「会社」は居を構えている。
社名は『日本汎用サービス株式会社』。表向きは経営コンサルティングから物流、果ては高度なITソリューションまでを手掛ける、資本金100億円超の巨大ダミー企業である。
この会社は、かつて歴史の影で暗躍した異能の集団を、現代社会のシステムに組み込み、国が管理・運用するための「巨大な檻」でもあった。
社内には、決して交じり合わない三つの特務派閥が存在する。
【玖珂(くが)】
風魔、伊賀、甲賀など、散り散りになっていた忍の家系を国が強引に統合した実行部隊。
現代における諜報、暗殺、物理的な隠密作戦を担う。
【虚数工房(イマジナリー・ワークス)】
国家レベルのサイバー攻撃を退け、電子の海から情報を収穫するハッカー・電脳集団。
【遺物管理局(アーティファクト・ラボ)】
解析不能なオーパーツや超常遺物を現代技術と接合させ、実戦配備可能な装備へと変換する研究組織。
これら三派は、同じIDカードを首から下げ、同じ社食でカレーを食べ、同じエレベーターに乗り合わせる。
しかし、互いの業務には一切関与しないのが「サイレント・ルール」だ。たとえ隣の席の同僚が、指一本動かさずに他国の防衛網を壊滅させていようとも、関心を持ってはならない。
だが、国家規模の「案件」が発生した際、彼らは『日本汎用サービス』のプロジェクトチームとして、最高で最悪の連携を披露することになる。
そんな魔窟の最前線、役員フロアの秘書課に、二人の異分子がいた。
「……あ、すみません。またシュレッダー、ホチキスごと入れちゃいました」
如月 湊(きさらぎ みなと)は、申し訳なさそうに頭を掻いた。
整った顔立ちではあるが、どこか精彩に欠け、動作は緩慢。
重要な書類を紛失しかけたり、会議のセッティングを間違えたりと、秘書課では「顔以外に能のないお荷物」として通っている。
だが、その指先には、一秒で人の頚椎を断つためのタコが焼き付いている。
彼は統合された忍者組織『玖珂』に属する、特級のエージェントだった。
「湊。溜息をつく暇があったら、この月次報告書の誤植を直して。あなたのミスをリカバーする私の身にもなってちょうだい」
冷ややかな、しかし鈴を転がすような美声で叱責を飛ばすのは、湊の「指導係」であり、ツーマンセルの相棒――リムだ。
リムは、腰まで届く艶やかな黒髪と、オーダーメイドのスーツが悲鳴を上げるほどのダイナミックな肢体を持つ、完璧な美人秘書として社内に君臨している。その有能ぶりは役員たちからも絶大な信頼を得ているが、その正体は人間ではない。
数千年の時を生きる「長命種のスライム」。
その細胞は衣服から化粧、果ては香水の香りに至るまで、分子レベルで自己を組み替えることができる。
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昼休み。
二人は社内のラウンジで、一般社員の目を盗んで「密談」を交わしていた。
周囲から見れば、出来の悪い部下がお局の美人秘書に説教を食らっている構図だ。
「……なぁ、リム。さっきの説教、本気混じってなかったか?」
湊はサンドイッチを口に運びながら、小声で零した。
「当然でしょう。あなたの『擬態』は雑すぎるわ。無能を演じるにしても、組織のワークフローに支障をきたさない程度の無能であるべきよ」
リムは優雅にエスプレッソを啜る。
今日の彼女は、シャネルの新作ルージュで唇を彩り、足元は7センチのピンヒールで固めている。
「お前こそ、その服もメイクも自前(細胞)で再現できるだろ。なんでわざわざ、下着から何まで本物を着込んでるんだよ」
「それは、乙女の嗜み……と言いたいけれど、正確には『質感』の問題よ」
リムは不敵に微笑む。
「確かに私は、絹の感触も、口紅の油分も完璧に模倣できる。でもね、本物を身に纏い、自分の肌をそれに馴染ませる工程が、私の精神を『女性』という形に固定してくれるの。……まあ、中身は男だけどね?」
リムの性自認は男だが、現代においては女性の造形を好んで用いる。
理由は単純。「その方が社会的に警戒されず、かつ、美しいから」だ。
「次は深夜、遺物管理局からの依頼で『拾得物』の回収よ。湊、今度はホチキスじゃなくて、ターゲットの首を落としてちょうだい」
「わかってるよ。……お荷物(ぼく)の仕事じゃないけどな」
窓の外では、何も知らない一般社員たちが、平和な大手町の空の下を歩いている。
忍と異形。
現代の闇に溶け込んだ二人の「会社員」は、冷めたコーヒーを飲み干し、再び退屈な業務(カモフラージュ)へと戻っていった。
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表向きは「重要書類保管庫」とされているその区画は、分厚い鉛の防壁と最新の生体認証に守られた『玖珂』の兵装室である。
無機質なLED照明が照らす室内で、リムは悠然と自身の身体を解体し、再構築していた。
変容する肢体
「……よし。ベースはこれで行こうかしら」
リムの滑らかな肌が、まるで沸騰するように細かく波打つ。
秘書課での「有能なキャリアウーマン」の姿が崩れ、粘性を持った半透明の素材へと還っていく。そこから新たに立ち上がったのは、秘書課の時よりもさらに一段、暴力的なまでの華やかさを備えた「パーティー仕様の美女」だった。
肢体の曲線は、かつて一世を風靡した伝説的グラビアアイドルの黄金比をトレースしている。
そして顔立ちは、戦国時代に知り合った「絶世の姫」をベースに、現代の流行をブレンドした。
切れ長の瞳には知性と残虐性が同居し、すれ違う者すべてを硬直させるような、冷徹な美貌だ。
「……相変わらず、趣味が悪いな。派手すぎて目立つだろ」
傍らでボディガード風の服を身に着けていた湊が、呆れたように呟く。
「目立つのよ、湊。豪華客船のスイートに招かれる女が、地味でどうするの? 衆人環視の中こそ、忍びにとっては最大の死角よ」
リムの足元には、先ほどまで着ていた事務用のスーツ、パンプス、そしてストッキングが脱ぎ捨てられた抜け殻のように転がっている。
緊急時にはこれらを一瞬で溶かして体内に取り込むこともできるが、リムはそれを良しとしない。
「もったいないもの。これ、オーダーメイドなんだから」
全裸のまま、リムは壁一面のクローゼットを開いた。
そこには、今回の任務のために『極東汎用サービス』の経費で調達された高級衣類が並んでいる。
「これ、全部会社(国)に請求済みよね?」
「ああ。予備も含めてな。……『潜入後、再利用の可能性あり』って名目で通したらしいぞ」
「話が早くて助かるわ。仕事が終わったら、私のプライベート・コレクション行きね」
リムは鼻歌を歌いながら、絹のような手触りの下着を手に取った。
自分の肌を変化させて「下着の色」を作ることも可能だが、彼はそれを「無粋」だと切り捨てる。
指先で繊細なレースを確かめ、滑らかな太腿にガーターベルトを締め上げる。
その動作一つ一つが、擬態という技術を超えた、一種の儀式のようだった。
続いて身に纏ったのは、深いスリットの入った、夜の海のようなダークネイビーのカクテルドレス。背中が大きく開いたそのデザインは、リムの完璧な陶器肌を惜しげもなく晒している。
宝石箱から取り出したのは、遺物管理局(ラボ)が調整した特殊通信機能付きのイヤリングだ。
「ねえ、湊。後ろのジッパー、上げてくれる?」
湊は無言で歩み寄り、冷たい指先でドレスを引き上げた。
指先がリムの背中に触れる。
人間と変わらぬ体温と、それ以上に生命力を感じさせる弾力。
「……準備完了だ。ターゲットは、古代希少金属『ヒイロカネ』を不正に持ち出そうとしている武器商人。場所は豪華客船『レヴィアタン号』の最上階。いいな?」
「ええ。電脳集団(あいつら)が監視カメラをハックしている間に、私が喉元に食らいつく。あなたは外側の掃除をお願いね」
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「まだ時間が少しあるから……」
リムはそう呟くと、ドレッサーの前に腰を下ろした。
兵装室の片隅に設えられたそこには、任務用の特殊装備に混じって、場違いなほど洗練された化粧品が整然と並んでいる。
先ほどまでの「秘書のリム」が愛用していたのは、取引先への信頼を勝ち取るための、清潔感と上品さを両立させたハイブランドの限定品だった。
だが今、彼女が細い指先で手に取ったのは、それとはまた一線を画す、妖艶なまでの輝きを放つクリスタル容器の数々。
世界中のセレブリティが数ヶ月待ちで手に入れるような、市販品における最高峰のラインだ。
「随分と気合が入ってるな。それも経費か?」
湊の問いに、リムは鏡越しに細い眉を跳ね上げて見せた。
「失礼ね、これは自費で買ったやつ。お気に入りなのよ、ここぞという時しか使わないんだから」
パレットを開き、深いボルドーと、夜の星屑を溶かし込んだようなゴールドのアイシャドウを筆に乗せる。
リムの瞳の輪郭が、熟練の筆致によってさらに際立ち、見る者を吸い込むような魔性を帯びていく。
「経費で落ちるような『仕事用』の顔じゃ、レヴィアタン号のスイートに集まる強欲なハイエナたちは騙せても、魅了することはできないわ。女の武器っていうのはね、自分の魂(エゴ)を乗せて初めて、真の殺傷能力を持つのよ」
唇に、血の色に近いルージュを引く。
それは、彼女が「スライム」として本来持っている無機質な捕食者の本能を、現代の美意識でコーティングしたかのような、完成された「死の接吻」の準備だった。
仕上げに、耳の後ろと手首に香水を一吹きする。
立ち上るのは、甘く重厚なサンダルウッドと、どこか危険なジャスミンの香り。
化粧を終えたリムは、満足げに鏡の中の自分を一度だけ確認すると、くるりと椅子を回して湊に向き直った。
「なんなら、味見してみる?」
湿り気を帯びた瞳を細め、小悪魔的に首を傾げる。
その笑顔は、もし彼女の正体が数千年の時を喰らう異形だと知らなければ、どんな熟練の工作員であっても反射的に手を伸ばし、魂ごと差し出してしまうほどに完璧な「女」だった。
「遠慮しとく。毒か、溶かされるかの二択だろ」
湊が冷淡に言い放つと、リムは「つまらない男」と肩をすくめ、立ち上がった。
彼女は湊の前に歩み寄ると、無造作に彼の胸元へ手を伸ばす。
「ちょっと、鏡で確認したけれど……ボディガードがそんなだらしない格好でどうするの。そんな安い結び方ではダメ。私の格が下がるじゃない」
湊が適当に締めていたネクタイの結び目を解くと、リムは至近距離で手際よくそれを整え始めた。
リムの体から放たれる圧倒的な香水の香りと、ドレスの隙間から覗く白い肌の圧が湊を包む。だが、湊の視線はリムの喉元、その皮膚の下で微かに蠢く「本体」の波動を捉えていた。
「よし、これでマシになったわ。……行きましょうか、湊。今夜はカジノの女神が、私に微笑む予定なの」
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二人は漆黒のロールス・ロイスの後部座席で、膝の上に広げたタブレットの光を見つめていた。
「今日の配役を確認するわよ、湊。私は最近羽振りのいい日本のIT企業、その創業者の末娘。26歳の世間知らずな令嬢。あなたは、父親から付けられた無口なボディガード。……いい? 無能な秘書じゃなくて、有能な番犬を演じなさい。あ、でも私のわがままに振り回されるのはデフォルトよ」
「……わかってる。IDの書き換えは『虚数工房』が完了済みだ。入国管理局のデータベースまで弄ってあるから、まずバレない」
湊は淡々と答え、指先で画面をスワイプする。
横浜港に鎮座する『レヴィアタン号』。
その乗船ゲートを潜り、一歩足を踏み入れれば、そこは地上から切り離された治外法権の楽園だった。
シャンデリアの輝き、高級酒の香り、そして欲望を隠そうともしない富豪たちの熱気。
「うふふ、素晴らしいわね。見て」
リムは湊の腕を掴み、うっとりと周囲を見渡す。
その視線は、獲物を吟味する肉食獣のそれだ。
「いい体がいっぱい。あの子の胸、素晴らしい曲線だわ。あそこのモデル風の女性のお尻、私のコレクションにはまだない形ね。……ねえ湊、なんなら仕事が終わった後、この中の希望の女性の姿になって、あなたの夜の相手をしてあげてもいいわよ? あなたの体の『感度』、私、とっても興味があるの」
「……仕事に集中しろ、化け物」
湊が耳元で冷たく囁くと、リムは楽しげに喉を鳴らして笑った。
カジノフロアの中央、最高額のチップが飛び交うVIPエリア。
そこに、今回のターゲットである武器商人がいた。
恰幅のいい体にイタリア製のスーツを纏い、傍らにはモデルのような秘書を侍らせている。
リムがどう近づくか算段を立てようとした、その時だ。
「……お連れ様。失礼ですが、当主があなたをたいそうお気に召しまして」
ターゲットの秘書が、音もなく二人に近づいてきた。
リムの放つ「偽りのオーラ」が、本職の獲物たちを惹きつけたらしい。
「よろしければ、一局お付き合いいただけませんか?」
リムは完璧な令嬢の微笑みを浮かべた。
「あら、光栄だわ。退屈していたところなの」
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案内されたのは、フロアの喧騒から一段高い位置にある特等席。
ルールは一対一のポーカー。
ディーラーは、この場に漂う尋常ならざるプレッシャーに当てられ、指先を微かに震わせている。カードを配る音だけが、不自然なほど静かに響いた。
「さて、お嬢さん。何を賭けようか。金か、宝石か」
武器商人が、値踏みするような下卑た視線でリムの胸元を舐める。
「いいえ、そんなもの必要ないわ」
リムはルージュを引いた唇を艶やかに歪め、湊の腕を解いてテーブルに身を乗り出した。
「私が賭けるのは、私の今夜の予定。……私が負けたら、明日の朝まであなたの好きなようにしていいわよ」
商人の目がぎらりと光る。
「ほう、それは最高にそそる条件だ。では、俺は何を賭ければいい?」
「そうね……。私の様な女性に似合う、特別な貴金属がいいかしら。ただの金銀じゃなくて、もっとこう……歴史の闇に眠るような、熱を帯びた輝きを持つもの」
リムは暗に『ヒイロカネ』を提示した。
しかし、目の前の男はその真意に気づくほど聡明ではない。
彼はただ、目の前の「極上の女」を手に入れる興奮に支配されていた。
「がはは! 欲張りなお嬢さんだ。いいだろう、特別に用意してやる。キラキラ光る石もたっぷりつけてやろうか? 泣いて喜ぶような一品をな!」
嫌味な笑い声を上げる男。
その背後で、湊は無表情のまま周囲の護衛たちの配置を確認していた。
(馬鹿な男だ。リムがその気になれば、命ごと『消化』されることも知らないで)
「ディールしてちょうだい」
リムが囁く。
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ディーラーの指先は、極度の緊張と「仕込み」の重圧で強張っていた。
カードが配られる刹那、リムの視界にはその欺瞞が克明に映し出されている。
ディーラーが靴の仕掛けでカードを入れ替え、武器商人に有利な手札を送る「底抜き」の技術。
だが、そんな小細工はどうでもよかった。
武器商人の男は、リムが差し出したチップの山ではなく、彼女のドレスから溢れんばかりの豊かな胸元を、卑しい粘り気を帯びた視線で凝視している。
(……お気の毒に。あんたが見ているそれは、ただの細胞の塊。精巧に作られた偽物なのよ)
リムは心の中で嘲笑った。
その視線が自分に向けられている隙に、彼女はテーブルの下で、指先の皮膚を米粒ほどの極小サイズで切り離し、文字通り「這わせて」いた。
「さあ、お嬢さん。勝負だ」
男が自信満々にカードを叩きつける。
フルハウス。
ディーラーが用意した、この場における「絶対の勝者」の手だ。
「あら、強いわね。でも……」
リムは細い指で、伏せられていた自分のカードをゆっくりと、一枚ずつ開いていった。
10、J、Q、K……。
そして最後の一枚。漆黒の輝きを放つ、スペードのエース。
「ロイヤルストレートフラッシュ。私の勝ちね」
場が凍りついた。
しかし、その直後。隣に座っていた武器商人の秘書が、鋭い声を上げた。
「待て! そのカード……おかしいぞ!」
男が自分の手元にあるカードをひっくり返す。そこにもまた、同じスペードのエースが鎮座していた。
「スペードのエースが2枚……!? 貴様、イカサマをしたな!」
武器商人が椅子を蹴って立ち上がる。
周囲の護衛たちが一斉に懐に手を伸ばした。
だが、リムは悠然とグラスを傾け、冷ややかな視線を男に投げ返した。
「……それはそっちのセリフでしょう? あなたが飼っているそのディーラー、袖の中にあと三枚は『当たり』を隠しているわよ」
リムが指を弾くと、ディーラーの袖口が物理的に弾け飛び、隠し持っていた予備のカードがバラバラとテーブルに散らばった。
それは湊の指からコインが放たれた結果だった。
「なっ……!」
「イカサマ師にイカサマで返されて、文句を言うなんて無粋だわ。約束通り、その『貴金属』を頂戴かしら」
一触即発の空気。
湊が音もなく重心を落とし、いつでも男たちの頸動脈を掻き切れる体勢に入った、その時――。
『動くな! 海上保安庁および国際警察だ! 全員、手を挙げろ!』
突如としてカジノフロアの重厚な扉が爆破され、閃光弾(スタングレネード)の白い光が視界を塗りつぶした。
天井からはラペリングで武装した特殊部隊が次々と降下してくる。
「……は?」
湊が思わず、素の声を漏らした。
「聞いてないぞ。警察の介入なんて……『虚数工房』は何をやってるんだ」
「あちゃあ……。予定外ね」
リムは混乱の極致にあるフロアで、一人だけ優雅に髪を整え直した。
「ねえ湊、これどうする? 正面から逃げるのは、私の『令嬢』のキャラクターに合わないんだけど」
阿鼻叫喚の渦中、ターゲットの武器商人は警察の出現に狼狽し、隠し持っていた『ヒイロカネ』のケースを抱えて逃走を図ろうとしている。
国の「檻」に飼われた二人のエージェントにとって、これは最悪のイレギュラーだった。
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「いくら偽名でもその名前を出すな。作戦のノイズになる」
湊はインカム越しに低く、刺すような声で制した。
視線は常に、混乱の極致にあるカジノフロアの動線を走査している。
「あら、つれないわね。せっかく私の『色仕掛け』で、あんなにブタさん(武器商人)をその気にさせてあげたのに。今頃彼は、私の今夜の予定どころか、自分の心臓がどこにあるかも忘れてるはずよ」
リムは冗談を言う余裕すら見せながら、爆風で揺れるシャンデリアの下を、まるでダンスでも踊るかのような足取りで移動する。
その時、二人のインカムに『虚数工房』のオペレーターから、焦燥の混じった通信が割り込んだ。
『……すまない。こっちのミスだ。国際警察の介入タイミングを読み違えた。すぐに照明を落として証拠を消去する。5秒後に、30秒間だ。その隙に対応してくれ』
「了解」と湊が短く応じる。
それに対し、リムは優雅に指先を唇に当てた。
「ちょっと待って。このドレス、とっても気に入っちゃったの。せっかくパパ(予算)から買ってもらったんだもの、無傷で持ち帰りたいわ。煙幕も、煤も、もちろん返り血も厳禁。汚したら承知しないわよ?」
一瞬の沈黙。
その後、インカムからは形ばかりの謝辞が聞こえたが、すぐにボソリと吐き捨てるような呟きが漏れた。
『……何を言っているんだ、このバケぎつねが』
「聞こえてるわよ、工房の引きこもり君」
リムが不敵に微笑むのと同時に、カウントがゼロになった。
『カッ』という電子音と共に、世界から光が剥ぎ取られた。
暗視スコープの準備すら間に合っていない警察官たちは、突然の漆黒に文字通り「盲目」となった。
だが、湊にとってはこれこそが日常であり、唯一安らげる「ホーム」だ。
忍びの網膜は、微かな赤外線すら捉え、闇の中に浮かび上がる標的の輪郭を鮮明に描き出す。
「なら、俺がやる。……リム、お前は遊んでろ」
湊は駆け出した。
音は一切、しない。
逃走を図る武器商人の背後、数メートル。湊は懐から、先ほどテーブルで掠め取った「カジノのコイン」を一弾きした。
指先から放たれた金色の円盤は、闇を切り裂く弾丸と化す。
カツン――。
絶妙な角度で男の膝裏を打ち抜いた。
「ぐわっ!?」
バランスを崩した男の側頭部へ、湊はさらに二枚目のコインを滑らせる。
それは打撃ではなく、視界の死角から「足がをもつれる」ように仕向ける誘導だ。
男は自重に抗えず、大理石の階段の角に、自ら吸い込まれるように頭を叩きつけた。
ゴシャッ、という鈍い音。
「……転倒による事故死。状況終了だ」
湊は血の一滴すら浴びることなく、男の腕から『ヒイロカネ』が収められたアタッシュケースを鮮やかに回収した。
周囲の警官たちは、数メートル先で何が起きたかさえ気づいていない。
一方、その「30秒」を、リムは全く別の用途に使っていた。
「ええ、いいわ。その鎖骨のライン、最高に現代的。……あ、そっちのあなた、広背筋の付き方が実に活動的で美しいわね」
彼女は暗闇を滑るように移動し、混乱して立ち尽くす「目をつけていた女性三人」の背後に音もなく現れた。
指先が彼女たちのうなじや肩に、羽根のように触れる。
その瞬間、リムの細胞は毛穴を通じて対象のDNA、骨格、筋密度のデータを一瞬でスキャンし、自身のライブラリへと同期していく。
「はい、保存完了。これでまた、私のクローゼットが豊かになるわ」
非常用電源が起動し、カジノに薄暗い赤色灯が灯り始めた。
「行くぞ」
湊の声が背後で響く。
彼はすでにアタッシュケースを小脇に抱え、脱出ルートの非常口に手をかけていた。
「ええ、帰りましょうか。明日の朝、シュレッダーにホチキスを突っ込む仕事が待っているんですもの」
リムは乱れたドレスの裾を一度だけ整えると、重機動部隊がなだれ込んでくる正面突破口を尻目に、闇の向こうへと消えていった。
大手町の摩天楼へ、戦果という名のお土産を携えて。
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「まあ、でも。あの電脳モグラたちも、少しは人の心があるみたいよ。あるいは、私に本気でサーバー室を物理破壊されるのを恐れたか」
リムは不機嫌そうに鼻を鳴らしながらも、デスクの引き出しの奥から、仰々しいベルベット張りの小さな黒い箱を取り出した。
一方で、湊の手元に置かれたのは、素っ気ないA4サイズの茶封筒だ。
社内便のスタンプが無造作に押されているが、その重みは紙束のものとは思えないほどに鋭利な予感を孕んでいた。
「……本当のお礼は、こっちってわけか」
湊が封筒を破ると、中から現れたのは「遺物管理局(ラボ)」への優先発注書だった。
そこには、虚数工房が裏で手を回し、昨夜回収された『ヒイロカネ』の一部を「端材の再活用」として強引に予算計上させた旨が、極秘事項として記されている。
「ヒイロカネを表面処理したクナイ、二挺分の製作依頼書……。霊的現象、および高密度エーテル障壁に対する対抗手段か。これで、実体のない『異形』相手に、ただのナイフで立ち向かわなくて済む」
湊の目が、一瞬だけ鋭い「玖珂」の工作員のそれに戻った。
ヒイロカネは、ただ硬いだけの金属ではない。
それは歴史の特異点でしか精錬できない、霊的な伝導率を極限まで高めた超常物質だ。
本来なら一国の宝物庫に眠るべきそれを、暗殺者の道具として鋳造し直す。
まさに『日本汎用サービス』という組織の歪なまでの特権の象徴だった。
「あら、あなたのは殺風景な凶器だけど、私のはもっと……芸術的よ」
リムが黒い箱の蓋を押し上げると、そこには宝石のように整列したアンプルと、美しい乳白色のクリーム容器が収められていた。
ロゴマークは、世界中のセレブリティがその名を聞くだけで跪く、超高級コスメメーカーのもの。
だが、パッケージの隅には「NOT FOR SALE」と「Prototype」の文字が刻まれている。
「これ、まだ発売前どころか、成分の最終調整中の試作品じゃないか。どうやって手に入れたんだ。まさか、また誰かの首を……」
「失礼ね。そんな野蛮なことしないわよ。これは『虚数工房』の新入社員が、入社テストの一環でやったんですって。メーカーの最高機密サーバーにハックして、試作品の送付先リストをこの会社の偽装住所に書き換えたのよ。一週間も前から準備していたなんて、あのモグラたちもなかなか粋なことをするじゃない?」
リムは、細い指先でクリームをほんの少し掬い取ると、自らの手の甲に馴染ませた。
一瞬、彼女の肌が淡い光を放ち、分子レベルで再構築される微かな音が湊の耳に届く。
「……ナノ化された超常遺物由来の活性成分ね。スライムとしての私の細胞維持を、驚異的な速度で補助してくれる。昨夜の激務で少しだけ『疲れ』が出ていたけれど、これで明日も完璧な秘書でいられるわ」
リムは満足げに瞳を細め、鏡の中の自分に陶酔するように微笑んだ。
戦国から続く殺しの技法を研ぎ澄ます男と、数千年の寿命を美に変換し続ける異形。
「さて、湊。贈り物の中身を確認したら、さっさとそのクナイの発注書を遺物管理局に届けてきなさい。ついでに、私のこのアンプルを解析して、もっと効率的に吸収できる補助装置(デバイス)を特注できないか聞いてきてくれる?」
「……俺は君の使い走りじゃないんだが」
湊は深い溜息をつき、重い腰を上げた。
外の廊下では、今日も何も知らない営業部員たちが、ノルマや接待の愚痴をこぼしながら歩いている。
そのすぐ隣を、死を研磨したクナイの発注書を懐に入れた青年が、気怠げな足取りで通り過ぎていった。
「あ、湊。カレー10杯分、一枚くらい私に寄越しなさいよね。福神漬け、好きなのよ」
「……きつねうどん10杯、完食してから言えよ」
大手町の摩天楼は、今日も静かに、そして狂ったように動き続けている。
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大手町の摩天楼に差し込む午後の陽光は、ブラインド越しに等間隔の縞模様を床に描いている。
秘書課の空気は、今日も適度な緊張感と、高級なアロマの香りに満ちていた。
「あ、あの! リムさん、このスケジュールの確認をお願いします!」
声を弾ませて駆け寄ってきたのは、中途採用から半年、研修の一環で今日一日だけ秘書課に配属された上瀬(かみせ)だ。
彼は、絵に描いたような「善良で無害な若手社員」だった。
虚数工房の事前調査によれば、スパイである可能性は1%以下。
つまり、ただの「一般人」だ。
「ええ、見せてちょうだい。……あら、完璧じゃない。上瀬君、あなた筋がいいわね」
リムは、デスクに身を乗り出すようにして資料を覗き込む。
人智を超えた美貌と、抗いがたい芳香。
上瀬の顔が、目に見えて赤く染まっていく。
「い、いえ! リムさんが丁寧に教えてくださるおかげで……っ」
「ふふ、可愛いこと。ねえ、上瀬君。仕事が終わったら、少し『特別な業務報告』、聞かせてくれないかしら?」
リムの細い指先が、上瀬のネクタイの結び目に触れるか触れないかの距離で止まる。
彼女にとって、これは単なる「味見」だ。
反応を楽しみ、脈動を観察し、もし万が一、その心の奥底に「毒」が潜んでいれば、そのまま苗床にする。
つまり、スパイだったら情報を引き出せるだけ引き出して、籠絡した後にダブルスパイとしてリリースをする。
そうでなければ、ただの極上の暇つぶしだ。
「あー、リムさん。部長が呼んでますよ。あと、上瀬君。その書類、僕が代わりにシュレッダーにかけておくから、君はあっちの郵便物の仕分けを手伝って」
絶妙なタイミングで、気の抜けた声が割って入った。
如月湊が、死んだ魚のような目で二人の間に割り込み、上瀬から書類をひったくる。
「えっ、あ、如月さん。ありがとうございます!」
「湊。あなた、野暮だわ。今、いいところだったのに」
リムが氷のような視線を向けるが、湊はどこ吹く風でシュレッダーを回し始めた。
もちろん、今度はホチキスを外して。
「お局様のセクハラで新人が辞めたら、また僕の仕事が増えるんだ。勘弁してくれよ」
昼時。
「ということで、上瀬。今日は僕が奢るよ。社食のカレーだけどな」
「いいんですか!? 如月さん、ありがとうございます!」
湊は、リムの「毒牙」から保護するように上瀬を連れ出し、社食のテーブルについた。
目の前には、虚数工房から「口止め料」としてせしめた無料クーポンを使った、大盛りのカレーが二皿。
「いやぁ、如月さん。リムさんって、本当にお綺麗ですよね。なんだか、見てるだけで頭がぼーっとしちゃって……」
「……ああ、だろうな。あれは『そういう設定』だから。あまり深入りしない方がいい。命がいくつあっても足りないぞ」
湊は淡々とカレーを口に運ぶ。
上瀬は「冗談ですよ、もう!」と笑っているが、湊の目は笑っていない。
「一般社員」として平和にカレーを頬張る上瀬の横顔を見ながら、湊は自分たちの境界線を再確認する。
午後、上瀬は「秘書課の皆さんは本当に優しくて、勉強になります!」と爽やかな笑顔を残し、定時と共に退勤していった。
「……行ったわね。いい『毒抜き』になったわ」
リムは窓の外、駅へと向かう群衆の中に消えていく上瀬の後ろ姿を、捕食者の目で追っていた。
「ああ。おかげで僕のクーポンが一枚消えたけどな」
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「……行ったわね。いい『毒抜き』になったわ」
リムは窓の外、駅へと向かって歩く上瀬の背中を見つめ、艶やかに唇を吊り上げた。
「ああ。おかげで僕のクーポンが一枚消えたけどな」
「安いものじゃない。あのまま私が彼を『食べて』しまったら、明日から補充の求人を出さなきゃいけなくなるところだったもの」
リムは事務用のスマホをデスクに置くと、引き出しから私用の、それも追跡不能な「サブのサブ」の端末を手に取った。
画面には、すでに虚数工房(モグラたち)から送られてきた上瀬のプライベート・ログが流れている。
「趣味、ティーカフェ巡り。好きなタイプは『守ってあげたくなるような、清楚な年下の女子大生』……ふふ、テンプレート通りの凡庸さね。でも、だからこそ素材の味が活きるというものよ」
リムは優雅に立ち上がり、湊に背を向けた。
「あとはよろしく、湊。明日の月次報告書、誤字があったら承知しないわよ」
「おい、また押し付けるのかよ……」
湊の溜息を背中で聞きながら、リムは軽やかな足取りで社を後にした。
駅の多目的トイレ。
個室に入ったリムの肉体が、音もなく「溶解」を始める。
オーダーメイドのスーツが、ストッキングが、その下のガーターベルトさえもが粘液状の細胞に呑み込まれ、別の形へと再定義されていく。
数分後、個室から出てきたのは、どこにでもいるような、しかし目を引かずにはいられないほど愛らしい、春の日差しのような少女だった。
緩く巻かれた栗色の髪に、清潔感のある白いブラウスとチェックのスカート。
そして、薄手のカーディガン。
手に持っているのは、上瀬が最近SNSで「気になっている」と呟いていた、絶版の古い恋愛小説だ。
「さあ、始めましょうか」
リムは彼が行きつけのティーカフェへと先回りした。
上瀬がお気に入りの、窓際の隅にある二人掛けの席。リムは迷わずそこに座り、彼が最も好む銘柄の紅茶を注文すると、開いた小説に視線を落とした。
数十分後。
カウベルの音が響き、期待に胸を膨らませた様子の上瀬が店に入ってきた。
お気に入りの席に先客がいるのを見て、彼は一瞬残念そうに眉を下げたが、そこに座る「少女」の横顔を見た瞬間、雷に打たれたように硬直した。
完璧に計算されたシチュエーション。
完璧に作り込まれた「理想のヒロイン」。
リムは小説から視線を上げ、わざとらしく驚いたように目を瞬かせた。
「あ……すみません。ここ、空けておいた方が良かったですか?」
上瀬は赤面し、あわあわと手を振る。
「い、いえ! そんな! あの、もしよろしければ……相席、いいでしょうか?」
「ふふ、どうぞ。私も、一人だと少し寂しいなと思っていたところなんです」
リムは花が綻ぶような微笑みを向けた。
目の前の「獲物」が、自分の仕掛けた蜘蛛の糸に絡め取られ、心拍数を跳ね上げさせていくのが手に取るようにわかる。
秘書課での「有能な上司」の顔は微塵もない。
数千年の時を生きる異形は、純朴な青年が運んでくる「恋心」という名の極上のデザートを味見するために、ゆっくりと毒の混じった言葉を紡ぎ始めた。
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「ふふ、そんなに緊張なさらないで。このダージリン、セカンドフラッシュかしら? 芳醇で、少しだけマスカットのような香りがしますね。私、このお店の淹れ方が一番好きなんです」
リム――今は「柏木リノ」と名乗る可憐な女子大生は、陶器のような白い指でカップを傾けた。上瀬は、彼女の口から零れる言葉が、自分の脳内にある「理想のティータイム」の台詞をそのままなぞっていることに、運命的な陶酔すら感じ始めていた。
「そ、そうなんです! ここの紅茶は温度管理が完璧で……あの、その本も。もしかして、志賀野先生の『玻璃の境界』ですか?」
「ええ。祖父の古い書庫で見つけて以来、ずっと大切に読んでいるんです。今どきの物語にはない、少しだけ毒のある純愛が素敵で……」
データ通り。
虚数工房が上瀬の閲覧履歴や非公開のSNSアカウントから抽出した「理想の女性像」は、控えめで清楚、かつ少しだけ影のある文学少女。
だが、その深層心理の奥底には、自分をリードしてくれる「ギャップのある肉食性」への飢えも隠されている。
(……やれやれ。今どきの若者は注文が多くて面倒ね。清楚系でありながら、寝室では豹変してほしいなんて)
リムは心の中で毒づきながらも、リノとしての微笑みを崩さない。
二杯目の紅茶を飲み干した頃、上瀬の顔は上気し、瞳には濁った熱が灯っていた。
「……あの。リノさん。もし、この後……まだお時間があるなら」
「え……?」
「もっと、ゆっくり二人でお話ししたくて。静かな場所に、行きませんか?」
上瀬は意を決して、彼にとっては一生に一度の勝負であろう誘い文句を口にした。
リムは一瞬だけ、まつ毛を伏せて戸惑う仕草を見せ、それから小さく頷いた。
「……はい。私も、あなたともっと一緒にいたいです」
数十分後。
円山町の路地裏。
けばけばしいネオンが、夜を待つ街の湿った空気を照らし出していた。
上瀬にエスコートされ、ラブホテルのエントランスへと歩を進めるリノは、彼の腕をぎゅっと掴み、子鹿のように小さく震えて見せた。
「……っ、本当にいいんですか? 私なんかと、こんな場所に……」
「大丈夫だよ、リノさん。君を大切にするから」
上瀬がその肩を抱き寄せようとした、その時だった。
ホテルの入り口脇にある、薄暗い自動販売機の影から、一人の男がフラフラと現れた。
くたびれたスーツ。
死んだ魚のような目。
手にはコンビニのビニール袋がぶら下がっており、中には安売りのカップ酒とスナック菓子が入っているのが見える。
如月湊だった。
「……ん?」
湊は、ホテルの前で熱烈な「恋」を演じている男女に目を留めた。
否、その横に立つ、守ってあげたくなるような美少女――柏木リノの正体に、一瞬で気づいた。
「柏木リノ」の眉間が、わずかに、しかし致命的に歪む。
上瀬は自分の世界に没入しすぎていて、職場の「冴えない先輩」がすぐ横を通り過ぎたことにさえ気づいていない。
湊は額に手を当て、深い溜息をついた。
(……あいつ、本当に味見する気か。悪趣味にもほどがあるだろ)
リムは上瀬の胸に顔を埋めながら、横目で見苦しい「同僚」を射抜くような視線で睨みつけた。
湊はそれを受け流し、首を横に振りながら「南無三」とだけ呟いて、念仏を唱えるように手を合わせる。
これから行われるのは「愛の営み」ではない。捕食者が獲物の精神を骨までしゃぶり尽くす「解体作業」だ。
自動ドアが開き、上瀬に促されてリノがホテルの奥へと消えていく。
そのドアが完全に閉まる直前。
女子大生の姿をしたリムは、背後の湊に向けて、声を出さずに唇だけを動かした。
『報・告・書・は・終・わ・っ・た・の?』
無言の圧力を残し、異形の少女は悦楽の檻へと消えていった。
夜風に吹かれながら、湊は手にしたビニール袋を握りしめる。
「……終わるわけないだろ。」
大手町の暗殺者は、明日提出する予定の「真っ白な報告書」を思い浮かべ、呪いのような独り言を吐きながら、都会の闇へと溶けていった。
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「……リノさん、ごめんね。安い部屋しか空いてなくて」
「ううん、いいの。二人きりになれるなら、どこだって……」
上瀬の卑屈な謝罪を、リノになりきってリムは極上の「純真な微笑み」で受け流した。
安っぽい芳香剤と、使い古された煙草の匂いが染み付いた狭い一室。
だが、上瀬にとってはここが世界の中心であるかのように、その瞳は熱く濁っている。
「あの……先に、シャワー浴びてきてもいいかなぁ?」
上瀬の耳元で、リノ(リム)が甘えた声を出す。
「え、ええ! もちろん。僕、ここで待ってるから!」
バスルームに入り、鍵をかける。
鏡に映る「柏木リノ」の姿を、リムは無機質な目で見つめた。
シャワーの音を出しながら、リムは自身の肉体を細部まで「再編」し始める。
虚数工房が弾き出したデータ、そして数千年の経験からくる「男が抗えない黄金比」への微調整。
(……もう少し、視覚的な『暴力』が必要ね)
鎖骨のラインをより浮き立たせ、胸の膨らみをわずかに上向きに、ボリュームを一段階上げる。
反対に、腰のくびれは限界まで絞り込み、お尻は小ぶりながらも、指を弾き返すような弾力を持たせる。
「理想」を詰め込んだ、究極の肉体美。
「お待たせ。上瀬君も、浴びてきたら?」
バスローブをゆるく羽織り、湿った髪をかき上げながら戻ると、上瀬は鼻血を出すのではないかという勢いで脱衣所へ転がり込んでいった。
シャワーの音が再び響き始めると、リムの瞳から「リノ」の色彩が消えた。
素早く、しかし音もなく上瀬のバッグを確認する。……漁った形跡はなし。
次に、彼のスマホを手に取った。パスコードは彼の誕生日の逆回し――虚数工房からの情報通りだ。
メール、通話履歴、SNSのDM。
一通り目を通したが、他組織との接触の形跡は皆無。彼は本当に、ただの「運が良いだけの一般社員」だった。
(……さて、検索履歴は?)
そこには、彼の秘められた欲望が赤裸々に並んでいた。
『ナース 痴女』
『コスプレ サービス ホテル』
『年下 誘惑 ギャップ』
「……ふふ、分かりやすいこと。清楚な女子大生に、これを求めているわけね」
リムはベッドの脇にある注文用のタブレットを手に取ると、迷わずレンタルコスチュームのページを開いた。
数分後。
シャワーを浴び終え、期待と緊張で心臓を爆音で鳴らしながら部屋に戻ってきた上瀬を待っていたのは、清楚な「リノ」ではなかった。
部屋の照明は落とされ、枕元のスタンドだけが怪しく光っている。
そこには、純白のナース服を身に纏い、透けるような白いストッキングに包まれた長い脚を組んだ、妖艶な「女」が座っていた。
「上瀬君、遅かったじゃない。……問診のお時間よ?」
上瀬は、その圧倒的な「ギャップ」に思考が完全に停止した。
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「あ、あ……リノ、さん……?」
立ち尽くす上瀬の視線は、ナース服のタイトな裾から伸びる、白ストッキングに包まれた肉感的な太腿に釘付けになっていた。
清楚な女子大生という「表層」を突き破って現れた、あまりにも露骨な性的記号の奔流。リムは唇の端を微かに上げると、組んでいた脚をゆっくりと解き、ベッドの端に腰掛けたまま彼を手招きした。
「そんなに遠くにいては、診察ができないわ。もっと近くに来て……上瀬君」
その声は、カフェで聞いた鈴を転がすようなソプラノではない。
低く、粘り気を帯びた、鼓膜を直接愛撫するような響き。
上瀬は磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、ふらふらと彼女の膝の間へと歩み寄った。
リムは彼の首に細い腕を絡めると、まずは挨拶代わりに、羽毛が触れるような軽いキスを唇に落とした。
上瀬が驚きに目を見開いた瞬間、リムの瞳が妖しく細まる。
二度目の接触は、もはや躊躇を許さない強引なものだった。
熱を帯びた舌が上瀬の唇を割り、侵入する。
長い経験が導き出す、唾液の分泌量まで計算し尽くされた完璧な攪拌。
上瀬の脳内を、真っ白なノイズが埋め尽くしていく。
「ん……っ」
リムは喉の奥で艶やかな声を漏らしながら、絡め合う舌の動きをさらに深めていく。
同時に、彼女は上瀬の震える右手を取り、自身の胸元へと導いた。
ナース服の薄い生地越しに、先ほど「調整」を終えたばかりの、限界まで張り詰めた弾力が彼の手の平を押し返す。
「ここ……ドクドクしてるの、わかる? あなたのせいで、私の鼓膜が破けそうなくらい」
嘘だ。
リムの心臓は、必要がなければ動くことさえない。だが、彼女はその瞬間のために、分子レベルで調整した「偽りの鼓動」を爆音で脈打たせ、上瀬の指先に伝えさせた。
催促するように、彼の大きな手を自分の胸に押し当てる。清楚なリノが、ベッドの上でだけ見せる肉食の貌。
そのあまりのギャップに、上瀬の理性の防波堤は音を立てて崩壊した。
「リノさん……好きだ、もう、我慢できない……!」
「いいわよ、もっと壊して。あなたの『毒』が、私の中に全部溶け出すまで……」
リムは上瀬を押し倒すようにしてベッドに沈め、深いキスの合間に、勝利を確信した魔女の笑みを浮かべた。
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「あ……っ、リノ、さん……!」
上瀬の喉から、ひきつけを起こしたような掠れた声が漏れる。
リムは彼の反応を冷徹に、しかし表面上は情熱的に観察しながら、ナース服のポケットから取り出した潤滑ゼリーを指先に馴染ませた。
「ふふ、そんなに震えて。まだ本格的な『処置』も始めていないのに」
リムは上瀬の熱く昂ぶった肉体に、その細い指を這わせた。
最初は、壊れ物に触れるような慈しみの手つき。
両手で優しく包み込み、指先でその形状を確かめるように、ゆっくりと、しかし確実に神経を逆撫でしていく。
「気持ちいい……? ここ、すごく熱くなってるわよ」
リムの囁きと共に、愛撫の速度が一段階上がる。
規則正しく、かつ容赦のない上下の運動。リムの手のひらは、もはや人間の皮膚の質感を超え、獲物を決して逃がさない吸盤のように上瀬の感覚を吸い上げていく。
次第にリムの片手は、その根元へと滑り落ちた。
指先で、重く充血した袋を優しく、時には爪を立てるようにして撫で回す。
執拗な二重の刺激。上瀬の脳は完全に処理能力を超え、快楽の濁流に呑み込まれた。
「あ、ああっ、もう、リノさん、僕……っ!」
「いいわよ、全部出して。私の中に、あなたの『証』を刻み込んで……」
リムが最後の一押しとして、指の圧力を極限まで高めた瞬間。
上瀬の身体は弓なりに弾け、安ホテルの天井を見つめたまま、文字通り魂のすべてを吐き出した。
純白のナース服に、彼の情熱の残滓が飛び散る。
リムはそれさえも「栄養」であるかのように、慈愛に満ちた(しかし瞳の奥は冷え切った)微笑みで見つめていた。
「よくできました。……でも、まだ一回目よ? 私、欲張りなんだから」
耳元で、絶望的に甘い死神の囁き。
一度目の絶頂で放心する上瀬の胸元に、リムは再び吸い付いた。
虚数工房のデータによれば、この男の限界値は今夜あと三回。
夜はまだ、始まったばかりだった。
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「あら、こんなに溢れさせて……もったいないわね」
リムは、ナース服に飛び散った白濁した滴を、細い指先で丁寧に掬い取った。
そのまま、上瀬の熱に浮かされた視線の先で、ゆっくりと、官能的に自らの舌へと運ぶ。
「……うん。甘いわ、上瀬君。あなたの純真さが、そのまま溶け出したような味がする」
放心状態で呼吸を荒らげる上瀬の耳元で、リムはクスクスと喉を鳴らした。
だが、休息は一秒たりとも与えない。
リムはそのまま、まだ微かに震えている上瀬の熱源へと顔を近づけた。
「次は、もっと深いところまで教えてあげる……」
リムの熱い吐息が、一度目の絶頂を終えて小さくなりかけた「彼」に吹きかけられる。
次の瞬間、温かく湿った感触が上瀬の全てを包み込んだ。
「ひ、あ、っ……! リノ、さん、まだ、そこは……っ!」
「ん……ふふ、まだ一回終わったばかりでしょ? すぐに元気になるんだから、素直ね」
リムは口内に含んだまま、舌の裏側で執拗に刺激を繰り返す。
異形の制御技術によって、口の中の温度や湿度は、男が最も「壊れる」最適な数値に固定されていた。
上瀬の身体が再び跳ね、小さくなっていたものが、リムの口腔を押し広げるようにして、瞬く間に凶暴な硬さを取り戻していく。
「あ、あ、ダメだ、もうすぐ、また、きちゃう……っ!」
「……ダメ。勝手に行っちゃ、お仕置きよ?」
いきそうになった瞬間、リムは吸い付いていた唇をパッと離し、冷たい指先でその先端を強引に抑え込んだ。
絶頂の直前で梯子を外された上瀬は、空気を求める魚のように口をパクパクさせ、もどかしさに悶える。
「あ……リノさん、お願い……続けて、ください……!」
「いいえ、まだ。あなたの『我慢』を、もっと私に頂戴な」
リムは上瀬の潤んだ瞳を覗き込み、わざとらしく小悪魔な微笑みを浮かべる。
そして、再び舌先で数回、焦らすように先端を突いては離し、突いては離しを繰り返した。
「ほら、また大きくなったわ。……行きたい? ねぇ、本当は行きたいんでしょ?」
「行きたい、です、リノさん、もう、限界……っ!」
「じゃあ、もう少しだけ、お・預・け」
リムは再び口に含み、上瀬が極限まで達しようと腰を浮かせた瞬間に、またしても離れる。
その「寸止め」という名の拷問に近い愛撫を、リムは何度も、何度も繰り返した。
上瀬の意識はもはや混濁し、快楽の波に弄ばれるだけの、思考を持たないただの肉塊へと成り下がっていく。
「ふふ、いい顔……。あなたの頭の中、今、私のことしかないわよね?」
リムは、もはや涙目になって懇願する上瀬の耳を甘噛みしながら、最後の一口のために深く、深く喉の奥へと誘った。
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「ん、んんっ……!」
喉を鳴らし、リムは上瀬の二度目の解放を、その熱量ごとすべて受け止めた。
一回目よりもさらに激しく、粘り気を帯びた奔流が彼女の口腔を叩く。
リムはそれを一滴も零さず、艶やかな喉の動きと共に「コクリ」と音を立てて飲み干した。
「ふふ……すごいわ、上瀬君。さっきよりも、ずっと濃い……。あなたの命、私の中に全部入っちゃったわね」
唇の端を指でなぞり、糸を引く白濁を舐めとる。その仕草に、上瀬の理性の糸は完全に断ち切られた。
だが、異形の診察は終わらない。
リムはベッドの上に這い上がると、ナース服のタイトな裾を思い切りたくし上げた。
「次は、あなたの番よ。しっかり私を『治療』して頂戴?」
上瀬の顔の上に跨るようにして、リムは腰を下ろした。
白のストッキング。
その付け根、ノーパンで穿きこなされたナイロンの薄膜越しに、リムが「調整」して生やした黒い陰毛が、淫らに透けて見えている。
清楚なナース服と、その下の剥き出しの野性。その暴力的な視覚刺激に、上瀬の鼻腔はリムの雌の香りに支配された。
「ほら……ここよ。もっと、舌を使って……っ」
リムは強制的に、自身の熱源を上瀬の唇に押し当てた。
ストッキング越しに伝わる、異形の局部が発する超常的な熱。
上瀬は半狂乱になりながら、むせ返るような香りに顔を埋め、必死に舌を動かし始めた。
「あ、んっ……! はぁ、あ、そこ……上手、よ……っ」
リムは上瀬の頭を両手で押さえつけ、彼を窒息させるかのように腰を振る。
普段のリムからは想像もつかない、可憐で、それでいて壊れそうなほど高い喘ぎ声。
「リノ」としての可愛い声で、絶頂を間近にした少女のように声を張り上げる。
「あ、ああっ! ダメ、それ……っ、いっちゃう、リノ、いっちゃうから……っ!!」
実際には指一本動かさずに快楽を遮断することもできるが、リムは完璧に「感じている女」を演じきった。
上瀬の顔の上で激しく身悶えし、汗ばんだ太腿で彼の頭を締め上げる。
上瀬は、自分へのご褒美のように与えられた「少女の絶頂」という幻想に、脳の報酬系を限界まで焼き切られ、三度目の昂ぶりを抑えきれなくなっていた。
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「……あ、んっ! はぁ、ねぇ、もう我慢できないんでしょ?」
リムは上瀬の顔から腰を浮かせると、両手で自らの純白のストッキングの股間部分に指をかけた。
「……っ、あ」
上瀬が息を呑む。薄いナイロンが、異形の筋力によって「ピリッ」と無残に引き裂かれた。
破れた隙間から、湿り気を帯びた熱源が露わになる。
リムはそのまま、上瀬の熱くそそり立った先端を、自身の秘部でゆっくりと、しかし確実に押し潰すようにして迎え入れた。
「んんっ……! はぁ、入ったわ……っ。上瀬君の、熱いの、全部……」
リムは上瀬の胸に手をつき、ゆっくりと腰を上下させ始める。
先ほどまでの顔面騎乗よりもさらにダイレクトな肉の結合。
リムの口からは、普段の秘書としての冷静さを欠片も感じさせない、甘く可憐な「リノ」の喘ぎ声が零れ続ける。
「あ、んっ……! すごい、締め付けられる……っ! リノさん、最高だ……っ!」
「ふふ、上手……っ。もっと、もっと激しくして……壊れちゃうくらいに……っ!」
上瀬も本能に突き動かされ、リムの腰を掴んで突き上げを開始した。
安ホテルのベッドが激しく軋む。
リムは彼の首にしがみつき、耳元で「大好きよ、上瀬君」と呪文のように囁きながら、腰の動きを加速させた。
「あ、あああ……っ! いく、もう、いっちゃう……っ!!」
「いいわよ、中に出して! 私の奥まで、あなたの熱いのを……注いで……っ!!」
リムは上瀬の背中に爪を立て、絶頂の演技を極限まで高めた。
上瀬の身体が大きく反り返り、今夜三度目、そして最大級の衝撃がリムの体内――正確には彼女の細胞が作り出した「擬似的な子宮」の中へと叩き込まれた。
「あ、はぁ……あ……っ」
上瀬はそのまま力尽き、リムの豊かな胸元に顔を埋めて動かなくなった。
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「あ、あは……っ、上瀬君? 終わっちゃったの?」
リムは、ぐったりと自分の胸に顔を埋めたまま、ピクリとも動かなくなった上瀬の耳元で、さらに追い打ちをかけるような甘い吐息を吹きかけた。
三度の絶頂。
常人であれば完全に「枯渇」し、意識を失っていてもおかしくない。
だが、リムの体内――異形の細胞が作り出した迷宮は、いまだに彼を解放してはいなかった。
「……っ、リノ、さん……もう、本当に……無理、だ……」
掠れた、消え入りそうな声。
上瀬の視界は白く染まり、四肢は自分の意思では指一本動かせないほどに脱力している。
しかし、リムは彼の限界など、最初から計算に入れていない。
「いいえ、まだよ。あなたの身体、こんなに正直に私を求めているじゃない……」
リムは、上瀬がもはや突き上げる気力すら失ったその「根源」を、自身の筋肉を分子レベルで脈動させ、内側から執拗に絞り上げた。
強制的な再起動。
上瀬の身体が、ビクンと電気を流されたように跳ねる。
「ひ……っ、あああ……っ!? な、んで……また……っ!」
「ふふ、私の『治療』はまだ終わってないもの」
リムは再び、今度は自らの主導で腰を振り始めた。
四回目。
もはや上瀬に動く力はない。
彼はただ、仰向けに横たわったまま、上に跨る「柏木リノ」という怪物的な美少女の、激しい上下動に身を任せるしかなかった。
「あ、んっ……! はぁ、すごい……上瀬君の、まだこんなに出てくるのね……っ」
リムは上瀬の両手をベッドに押し付け、指を絡めながら、自らの意思で快楽の深淵へと彼を引きずり落とす。
可愛い喘ぎ声は、次第に「リノ」の殻を突き破り、リム本来の、人を食らう異形としての艶めかしさを帯び始めていた。
「あ、あああ……っ! いっちゃう、また、きちゃう……っ!!」
「いいわよ、枯れるまで私に出して。あなたの全部を、私が飲み干してあげる……っ!!」
ガクガクと震え、白目を剥きかける上瀬。
その四度目の、そして生命の危機を感じさせるほどの激しい痙攣と共に、今夜最後の奔流がリムの最奥へと注ぎ込まれた。
「あ……っ、はぁ……んんっ……」
リムは満足げに、力尽きた上瀬の胸元に崩れ落ちた。
彼の心音は、壊れた時計のように不規則に、しかし激しく打っている。
(……限界値を超えた四回目。これで、彼の精神の最深部に、私の刻印が完全に刻まれたわ)
リムは闇の中で、蛇のように冷たく、それでいて美しい微笑みを浮かべた。
明日、この青年は「柏木リノ」を想うだけで、脳から過剰なドーパミンが分泌される歩く廃人と化すだろう。
それは、いかなるハッキングよりも確実な、人間というデバイスへの「バックドア」の設置だった。
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翌朝、日本汎用サービス株式会社。
出勤時間の大手町駅は、戦場のような喧騒に包まれていた。
「……はぁ、……リノ、さん……」
上瀬は、本来の所属部署である営業三課のデスクで、力なくキーボードを叩いていた。いや、指が触れているだけで、入力されているのは支離滅裂な文字列ばかりだ。
顔色は土を捏ねたように青白く、時折思い出したように喉が「ひっ」と鳴る。
周囲の同僚たちは「昨日の秘書課研修、相当しごかれたんだな……」と憐れみの視線を送っていたが、真相は正反対だ。
彼は、人生の全貯金を一夜で使い果たしたギャンブラーのような、空っぽの法悦の中にいた。
一方、役員フロアの秘書課。
リムは、シャネルの新作ルージュを完璧に引き直し、背筋を伸ばしてコーヒーを淹れていた。
「……あいつ、営業三課で抜け殻になってるぞ。課長が『病院行け』って言ってた」
湊が、死んだ魚のような目でシュレッダーのゴミをまとめながら呟いた。
「あら、そう? 昨夜の『問診』が少し効きすぎたかしらね。でも、これで彼はもう、余計な毒に当てられることはないわ。私の香りを思い出すだけで、この会社に尽くしたくなるはずよ」
リムは涼しい顔で、端末に虚数工房宛ての極秘ステータスを打ち込んだ。
【対象:上瀬】
判定:白(スパイの可能性 0%)
処置:精神的バックドア設置完了。今後、他組織の接触があった際は即時検知可能。
「……完璧な報告ね。さて、湊。あなたの方の報告書はどうなったの?」
リムが優雅に振り返り、湊の机を指差した。
そこには、昨夜から一文字も進んでいない、真っ白な月次報告書のテンプレートが虚しく表示されている。
湊は、こめかみを指で押さえ、深い、深い溜息を吐いた。
「……悪い。昨夜、ホテルの前で『南無三』って拝んでから、自分のアイデンティティを見失ったんだ。これから書くよ」
「あと1時間よ。間に合わなかったら、遺物管理局(ラボ)のクナイの発注、私が差し止めるから」
リムの冷酷な宣告が響く。
大手町の摩天楼は、今日も残酷なまでに「日常」を刻んでいく。
暗殺者の指先が、人を殺めるためではなく、始末書に近い報告書を埋めるために、必死にキーボードを叩き始めた。
a6081f17 No.2909
無機質なオフィスを離れれば、リムの「食卓」は無限に広がっている。
今日の彼女が選んだメインディッシュは、夕暮れ時の駅前、放課後の解放感に浮き足立つ「女子高生」という名の瑞々しい果実だった。
ターゲットは、公立高校に通う三人グループの一人、少し引っ込み思案で「マスコット的存在」の少女・真希だ。
カラオケボックスの薄暗い廊下、真希が一人でトイレに立った瞬間、死神は音もなく背後に忍び寄った。
「あら、ごめんなさいね。少しだけ、お席を借りるわ」
数分後。
トイレの清掃用具入れの奥には、深い眠りに落ちた真希が丁寧に「保管」されていた。
そして鏡の前には、真希と寸分違わぬ姿をしたリムが立っている。
(……さて、仕上げね)
リムの肉体が内側から脈動し、衣服までもが再構成されていく。
安物のブラウス、シワの寄ったチェックスカート、そして女子高生の定番である黒のニーハイソックス。
だが、見えない部分こそがリムの拘りだ。
(この子は、自分でも気づかない変身願望があるのね……。清楚な制服の下に、背伸びしたピンクのサテンの下着。ふふ、ギャップが可愛らしいわ)
肌に触れるサテンの滑らかな質感、安っぽい柔軟剤とヘアトリートメントの甘い香り。
毛穴の一つ、髪の毛一本に至るまで「真希」を完璧に模倣し、リムはカラオケの個室へと戻った。
室内には、いつの間にか他校の男子三人が合流していた。
その中の一人、真面目そうな少年・健太が、リム(真希)の帰還にパッと表情を明るくする。
「真希、遅かったじゃん。……大丈夫? 顔赤いけど」
(……あら、この子が『彼氏』君ね。事前情報がないのはスリルがあっていいわ)
「ううん、ちょっと暑かっただけ。……ねえ、健太君。一緒にドリンクバーに行かない?」
「えっ、あ、うん。いいけど」
仲間たちの冷やかしを背に、二人は騒がしい個室を抜け出し、人気のないドリンクバーのコーナーへ向かった。
(身体の反応を見れば『正解』はわかるわ)
リムはメロンソーダを注ぐ健太の袖を、おずおずと、しかし確実に彼を逃がさない強さで引いた。
「健太君……。さっき、みんなの前で歌うの、すごく緊張しちゃって」
「あ、ああ、そうだったんだ。でも、上手だったよ?」
「……ご褒美、ほしいな」
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薄暗い影。
真希(リム)は背伸びをして、健太の唇に柔らかく触れた。
初々しい、羽毛のようなキス。
だが、それだけで、少年の理性を一瞬で焼き切るには十分だった。
「真希……っ」
たまらずハグをしてくる健太。
真希(リム)はその胸に顔を埋め、彼の心臓が、まるでドラムの連打のように跳ねるのを感じていた。
(ふふ、純情ね。でも、ハグだけじゃ満足できないんでしょ?)
リムは健太の胸板の厚み、その体温を楽しみながら、あえて彼を煽るように身体を密着させた。
制服の生地越しに、リムが調整した「少女(真希)の瑞々しい弾力」が彼に押し付けられる。
健太の呼吸が荒くなるのを、リムは見逃さなかった。
彼女は健太の大きな手を取り、ゆっくりと自分のチェックスカートの中へと導いた。
「っ!? 真希、ここ、お店だよ……っ」
(口ではそう言っても、指先はこんなに震えて、私の『中』を探りたがってるじゃない)
スカートの中、ピンクのサテンの生地が健太の指先に触れる。
滑らかな感触と、その下に隠された柔らかな肉感。
「いいの……。健太君に、もっと私を知ってほしいから」
さらに、リムは古典的だが最強のカードを切った。
もう片方の健太の手を、自分の左胸の上へと持っていく。
「ねえ……触って。私、こんなにドキドキしてるんだよ?」
(もちろん、これも偽物の鼓動だけどね。でも、今のあなたにはこれが世界のすべてに見えるはずよ)
健太の指先が、制服のボタン越しに膨らみの頂点を捉える。
彼はもはや、目の前の少女が自分の知っている「内気な真希」ではないことなど、微塵も疑っていなかった。
ただ、溢れ出す多幸感と支配欲に、その魂を溶かされていくだけだ。
その時だった。
「キャアアアアーーー!!!」
廊下の突き当たり、女子トイレから鋭い悲鳴が響き渡った。
どうやら、不運な誰かが用具入れの扉を開けてしまったらしい。
(あら、タイムアップね。少し早すぎるけれど、デザートは十分楽しめたわ)
「あ、誰か叫んでる! 見てくるね!」
混乱する健太を置き去りにし、リムは少女の足取りで鮮やかに人混みへと紛れ込んだ。
背後で「真希! 真希!?」と呼ぶ健太の声が聞こえる。
数分後、駅の雑踏に現れたのは、真希でもリノでもない、どこにでもいる平凡なOLの姿をしたリムだった。
彼女は口元をハンカチで拭い、満足げに夜の空を見上げた。
(さて、明日の出勤に備えて、今度こそ報告書の下書きでも考えましょうか。……湊が泣きつく前にね)
異形の捕食者は、今夜の獲物の甘い動悸を胸の内にしまい込み、冷徹な日常へと戻っていった。
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「遺物管理局(ラボ)」あがる地下。
そこに鎮座する偏屈な老技官は、湊が差し出したヒイロカネの再鋳造依頼書を老眼鏡越しに睨みつけ、唾を飛ばしながら言い放った。
「馬鹿者が。ヒイロカネはな、鋼のように叩けば形を成すような安い代物じゃない。これは『意思を食う金属』だ。お前の神経系、筋肉の収縮速度、果ては殺意の指向性まで完璧に同期させねば、振るった瞬間に腕が壊れるぞ。調整には一ヶ月、いや二ヶ月は見ておけ。それまでは竹光でも振っていろ」
結局、湊が自身のバイタルデータと戦闘ログを全て「抽出」し、調整用の生体サンプルとして数時間拘束された末、ようやく解放されたのは時計の針が深夜2時を回った頃だった。
地下から這い出し、誰もいないオフィスを抜けて、夜風の冷たい大手町の通りへ出る。
「一ヶ月か。その間に死んだら、あの爺さんの枕元に立ってやる。あと、絶対あれ機関伸ばしたのは、その期間にヒイロカネで遊びたいだけだろ!!」
湊は重い足取りで、駅へと続く地下通路を歩いていた。
人通りの絶えた駅前広場。
街灯の死角で、それは起きていた。
「おい、姉ちゃん。いいじゃねえか、ちょっと付き合えよ」
「やめてください! 離して……!」
安っぽいテンプレートのようなやり取り。
三人の柄の悪い男たちが、一人の女性を囲んでいる。
女性は膝丈のタイトスカートに、薄手のトレンチコートを羽織った、いかにも「一流企業の秘書」然とした美女だった。
湊は一目で、それが「舞台(セット)」であることを看破する。
男たちの足の運び、声の張り方、そして何より女性が「助けを求めるタイミング」が完璧すぎた。
(……見え透いてる。おそらく、俺が会社を出るのをずっと張っていたんだろうな。暇でいいなぁ)
湊の表向きの顔は、日本汎用サービス秘書課の「顔だけがいい、お荷物社員」。
重要機密に触れやすく、かつ口が軽そうで、脅しも誘惑も効きそうな絶好のターゲットだ。
彼女たちは、湊を篭絡し、会社の内情――あるいは重役たちのスキャンダル――を引き出すための「餌」として送り込まれた工作員に違いない。
湊は深いため息を飲み込み、そのまま関わらないように足早に通り過ぎようとした。
しかし、敵の脚本はそれを許さない。
「あ……そこの方! お願いです、助けてください!」
女性がこちらに駆け寄り、湊の腕に縋り付いた。
男たちがわざとらしく顔を見合わせる。
「ちっ、人が来ちまったか。おい、野郎。今日はこれぐらいにしておいてやるよ。ずらかろうぜ!」
男たちは捨て台詞を残し、闇の中へと消えていった。
あまりにも鮮やかな退散。もはや拍手を送りたくなるほどの様式美だ。
「あ、ありがとうございます。本当に、どうしたらいいか分からなくて……」
女性が震える体で、湊に密着してくる。
その瞬間、湊の鼻腔を、強烈な、しかし完璧に計算された「女の匂い」が突いた。
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湊の脳裏に、今朝のリムの言葉が蘇る。
『本物を身に纏い、自分の肌をそれに馴染ませる工程が、私の精神を女性という形に固定してくれるの』
目の前の女性から漂うのは、石鹸の清潔感と、微かな体温の混じった、本物以上に「本物の女」を感じさせる甘い芳香。
だが、湊には分かった。
毎日、数千年も生きた「本物の異形(偽物)」と隣り合わせで仕事をしている湊の感覚は、常人のそれを遥かに逸脱している。
(……この匂い、香水じゃない。内分泌系を薬物か何かで調整して、毛穴から直接出させているな。それに、この腕の筋肉の付き方……。わざと柔らかく見せているが、芯にあるのは強靭な人工筋肉だ)
さらに言えば、この女、あるいは「元・男」だ。
急所を意識した肉体の押し付け方、視線の誘導。
女性としての立ち振る舞いが、あまりにも「男が理想とする女性像」をなぞりすぎている。おそらく高度な肉体改造を施された、ハニートラップ専門の工作員。
(めんどくさいな。このまま無視して帰ってもいいが……)
もし、この件を放置して明日以降に表面化すれば――例えば、会社に怪文書が届いたり、自分に弱みを握られたりすれば――あの「お局様」が黙っていないだろう。
『あら、特級エージェントの湊様が、たかが肉体改造されただけの偽女に鼻の下を伸ばして、情報を漏らしかけたんですって? 笑わせてくれるわね。一週間、私の靴の裏でも舐めて反省しなさいな』
リムの冷笑的な声が、幻聴となって耳に響く。
あの一週間続くであろう嫌味と、それ以上の「物理的なお仕置き」を想像するだけで、寝不足の頭がさらに痛んだ。
「……大丈夫ですよ。怖かったですね」
湊は、リムにいつも見せているような気怠げな表情を消し、秘書課の「お荷物な如月くん」としての、少し情けなくて甘い微笑みを顔に貼り付けた。
「せっかく助けていただいたのに、このままお別れするのは心苦しくて。……もしよろしければ、あそこにある深夜営業のカフェで、お礼をさせていただけませんか?」
「……いいですよ。ちょうど、喉が渇いていたところだ」
湊は女性の腰をエスコートするように手を添え、その指先で密かに、彼女の服の裏側に仕込まれた発信機の位置を確認した。
深夜のビジネス街、ネオンの消えた一角に、そのカフェはひっそりと灯りを灯していた。
「さて。どんな毒を盛ってくれるのか、楽しみだ」
心の中でそう毒づきながら、湊は「獲物」のふりをして、偽りの女神と共に自動扉を潜った。
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店内は深夜ということもあり、先客はまばらだった。
間接照明が落とされたボックス席に腰を下ろすと、女性は慣れた手つきでメニューを流し見し、すぐにカクテルを注文した。
「私はアイ。よろしくね」
彼女はそう言って、とろけるような微笑みを湊に向けた。
その名前は、あまりに記号的だった。
偽名であることは明白だ。
アイという名前の工作員は、この業界のデータベースにも数多く存在する。
あるいは、彼女たちが「使い捨てのパーツ」として管理されている何よりの証左だろう。
会話の内容は、まるでマニュアルの抜粋だった。
「如月さんって、優しそうな目をしてるわね」
「そんなことないですよ。ただの平社員です」
「そんなの嘘。あなた、もっと偉い人でしょう?」
男の自尊心をくすぐる、あまりに古典的なフック。
キャバクラの新人でももう少しマシなトークをするだろうというレベルの、ハリボテの賞賛が続く。
湊はそれを聞き流しながら、彼女の瞬きの回数、椅子の座り方、そしてテーブルの下で組まれた足の筋肉の緊張度を観察していた。
「あ、これ、おすすめよ」
運ばれてきたグラスに、彼女が自然な仕草で自分のグラスを合わせる。
氷が触れ合う、心地よい音。
彼女が注文したカクテルは、どこにでもある甘口のミモザだ。
だが、その香りの奥底に、化学的に精製された媚薬――合成ホルモンをベースにした神経毒が混入されているのを、湊の鼻腔は一瞬で捉えた。
かつて『玖珂』の修行時代、毒皿を舐めさせられ、解毒剤なしでその毒性を特定せよと命じられたあの日々が役に立つ。
湊は平然とした顔でグラスを煽った。
喉を通る液体には、かすかな苦味と、脳を直接麻痺させるような人工的な刺激がある。
だが、それだけだ。血流に乗った毒素は、彼の内臓で分解され、あるいは「玖珂」の工作員特有の身体能力によって、汗となって体外へと追い出される準備を始めていた。
「……ん、ちょっと、ふわふわするな」
湊はあえて、わざとらしく視点を泳がせた。
グラスを持った指先を震わせ、上目遣いにアイを見る。
「お酒、回るの早いな……。なんだか、アイさんの顔が、すごく綺麗に見えてきた」
「あら、可愛いところがあるのね」
アイの瞳に、獲物を捕らえた捕食者の色宿る。
彼女にとって、この反応は計算通りだったのだろう。
薬物の効き目は即効性だ。
このまま彼を連れ出し、ホテルのベッドに沈めれば、携帯端末のパスコードから社内の機密情報まで、全てを引き出せる。
「ねえ、如月さん」
アイは湊の手を取り、彼女自身の柔らかな胸元へと導いた。
「ここだと落ち着かないわ。すぐ近くに、私の知っている静かな場所があるんです。そこで少し、落ち着くまで休みましょう?」
「静かな、場所……?」
湊は舌足らずな口調で問い返し、少し呆けたような表情で彼女を見つめた。
その眼差しには、理性など一片も残っていないかのように装った、徹底的な「愚者」の演技が宿っている。
「うん。行こう、アイさん。……君と、もっと二人きりで話したい」
「ええ、いいわよ。……すぐそこだから」
彼女は満足げに微笑むと、湊の肩を抱えて立ち上がった。
店を出ると、冷えた大手町の夜気が頬を叩く。
湊はふらつく足取りで、彼女に体重を預けた。
(ああ、本当にめんどくさい)
心の中では、すでにこの女の頸椎を何度折り、その背後にいるであろう「処理班」をどうやって殲滅するかというシミュレーションが完了していた。
だが、まずは「獲物」のふりだ。
湊はわざと大きくよろめき、アイに甘えるようにその身を預けた。
夜の帳が下りた路地裏、ネオンサインの明滅が、彼らの影を長く、歪に引き延ばしている。
「あっちのホテル、いいな。アイさんと二人なら、何をされてもいいや」
湊がわざとらしく漏らした言葉に、アイは勝利を確信したような薄い笑みを浮かべた。
その先には、どんな罠が待ち構えているのだろうか。
湊は、明日提出する予定の報告書のことを思い出し、この偽りの誘惑に身を任せながら、静かに殺意を研ぎ澄ませていた。