最寄り駅は別路線の、けれど歩こうと思えば歩ける程度の距離。付かず離れずのその物理的な距離感は、当時の二人にとってのパーソナルスペースそのものだった。ノリトは、互いの生活圏に深く踏み込まない、この「清い交際」にどこか安堵していた。

 

ノリトのエスコートは相変わらず完璧だった。 落ち着いたトーンの会話に、知的なユーモアをひとさじ。季節の移ろいや微細な変化を捉えたウィットに富んだ冗談は、ハルカを何度も微笑ませた。ノリトは、ハルカの言葉の端々に滲む高い教養や、選び取られる言葉のセンスの良さに、かつてないほどの魅力を感じていた。

 

しかし、その微笑みは、あの日カフェでハルカが漏らした「……はぁ。」という、どこか狐につままれたような違和感をかき消すための、彼女なりの防衛反応に過ぎなかったのかもしれない。

 

 

「今度は、このお店に行ってみませんか?」

 

 

ハルカも彼女なりに歩み寄ろうと、次回会う提案を重ねるが、ノリトは歓喜と同時に、強い強迫観念に襲われた。

 

 

(これほど聡明で高貴な女性の隣に立つには、今の自分ではまだ足りない)

 

 

もっと深く広範な知識を持ち、より洗練された余裕をまとい、職場で将来を嘱望される「選ばれし男」でいなければならない。あの美術展で「トントン」と精算した時のように、自分を完璧な状態に保たなければ、ハルカという存在に相応しくない。ハルカを失う恐怖は、皮肉にも彼をさらに大きな「虚像」の中に閉じ込めていった。

 

しかし、その虚像の裏側には、離婚歴という傷跡が潜んでおり、ハルカはその傷跡に触れてよいものかと思案していた。 かつての妻・ミカは、繊細な感性を持つ芸術家肌の女性だったが、その瑞々しい感受性は、時に美しく、時に彼女自身の心を切り裂いた。

 

 

「オースティン・パワーズみたい!」

 

 

と、不器用で繊細な彼女が唯一大きな声を出して笑ったあの日、「母」という名のバグが大きくのしかかった。同時期に、職場のストレスから精神が蝕まれていく彼女は着実に崩壊の一途をたどっていった。ノリトは自分なりに、不器用なほど献身的にミカを支え続けた自負があったが、たった一度のバグ、

 

 

「仕事を辞めたらどうだい?」

 

 

という彼女のプライドを打ち砕く一言で傷つけてしまった苦い記憶があった。

「この過去は、ハルカを不安にさせるだけだ」 そう自分に言い聞かせ、話す機会を永遠に先送りし続けた。誠実であろうとした結果、ノリトは「隠し事をする」という最も不誠実な選択肢を、無自覚に選び取ってしまう。

 

そして、運命の歯車は最悪のタイミングで噛み合う。 ノリトがようやく重い口を開いた時、それは彼女にとって「信頼の証」ではなく、「不信の引き金」として響いた。

 

ノリトの中で「言い訳はしたくない」という誠実な信念が、皮肉にもミカを献身的に支えたエピソードを削ぎ落とし、断片化(フラグメンテーション)させてしまった。事実の断片だけを並べ、文脈というセクタを欠いた彼の説明は、ハルカ側で正しく再構成することができない。結果として、切り取り方によっては「無責任」とも捉えられかねない不透明なストーリーを、彼は自ら構築してしまったのだ。

 

まさに「誠実であろうとすること」が、相手への「無責任」へと反転した瞬間だった。

聡明で素直な彼女だからこそ、葛藤は深かった。 目の前にいる、誰よりも自分を大切にしてくれる(ように見える)この男を信じたい。けれど、その仮面の奥にある本当の顔が、自分の知っている彼とあまりに乖離していることに、彼女の知性は警鐘を鳴らし始めていた。

 

 

「あなたは、本当は誰なの?」

 

 

言葉にならないその問いが、静かに、けれど確実に二人の間に横たわり始めていた。

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