皇后 雅子について語る -9-
水俣病患者公式確認から70年という節目の年
小和田雅子が皇室に入ることはないと考えていた理由は様々ある。
本人の資質の問題。お妃候補とされていた小和田雅子以外の女性は皆さん淑やかで、育ちの良さを感じさせる応対であったのに対し、小和田雅子は「気に入らない」という感情を全身で露わにし
「私には関係ありません!!」
声を荒げ顔を怒りで歪め記者を威嚇する姿は「碌でもない人」という印象を、とても多くの人々に植え付けた。こんな人、浩宮さまもお断りだろうと感じる人もいたようだ。無論、私もその内のひとりだ。
本人はマスコミに悪態をついてばかりだったのだがその裏で、実力行使に訴える父親や小和田雅子入内に積極的だった高円宮殿下の協力を得て、東宮御所で逢瀬を重ねていた。表向きには毛嫌いしている男の元へ実はいそいそと通っていたわけだ、小和田雅子は。皇太子妃になるために。
水俣病の発生とその原因・その後の経緯
「小和田雅子が皇太子妃になることはない」
この理解、実は当時の宮内庁も共有していた。こちらは「人柄に難があるから」という理由ではなく、小和田雅子が日本の四大公害のうち最も甚大とされる被害を出したチッソ株式会社で、社長を務めた江頭豊氏の孫であるからというものであった。
結婚から32年ほども経ってしまい、この事実を知らない人は存外に多い。実際、宮内庁職員は立太子したばかりの皇太子殿下に
「皇后になる女性に、赴けない土地があってはなりません」
と進言している。皇太子殿下はその申し出を了承したといわれている。
水俣病については広く知られていると思うが、その成り立ちを簡単に記しておく。
発生は1952年頃。水俣湾周辺で猫が大量死するのと同時に、特異性が極めて高い神経疾患で死亡する住民が出るようになる。
1956年5月1日、チッソ株式会社の附属病院院長が奇異な疾患で死亡した患者がいると保健所に通告。水俣病患者が公式に確認される。
1959年、水俣病発症原因は有機水銀であると発表される。
チッソ株式会社は1951年にアセトアルデヒドの生産方法を変更しており、これが水俣病発生を引き起こしたと判明する。
本来なら健康体で誕生したであろう新生児が「特異な神経障害」を生まれ持って発症する、昨日まで健康体であった人が「特異な神経障害」で倒れ寝たきりになる、或いは死亡するなどの被害が多数みられるようになる。
以降、チッソ株式会社や熊本県、水俣市、国を相手に、患者らは謝罪と救済を求めるが遅々として進まず。紆余曲折を経て1997年に福島譲二熊本県知事(当時)が「水俣湾安全宣言」を行う。
2009年には超党派の議員連が結成される。
2026年5月1日、水俣病患者公式確認から70年を迎える。水俣市で記念式典が挙行され、石原宏高環境大臣らが出席。患者・被害者団体と対談するが、救済・解決にはまだまだ時間がかかるとみられる。
江頭豊氏は水俣病から逃げなかった人格者?
江頭氏がチッソ株式会社の社長を務めたのは1964年から1971年。勤務していた日本興業銀行から経営が傾いていたチッソ株式会社を立て直すため出向。専務に就任したのが1962年。会長職を退いたのが1973年。その後は相談役に就任している。チッソ株式会社で陣頭指揮を執った7年を含め、在籍期間は優に10年を超える。
水俣病が発症したであろう1952年頃、江頭氏はチッソ株式会社に関わっていない。寧ろそれらの事情が重なり、経営を立て直すため銀行から差し向けられた救世主であり、裏を返せば被害者でもある。小和田雅子を熱心に擁護する人々は異口同音にそう語る。
「ふざけるな!」
そう言いたい。断っておくが私は熊本県に所縁はない。水俣病患者と関りはないし、被害者団体らから直接話を聞いたこともない。史実としてチッソ株式会社と水俣病を知っている、程度の人間だ。
だからこそ、なのかも知れない。フラットに昭和時代、江頭豊氏の株式総会での演説をテレビで視聴し
「なんて恐ろしいおじいさんなんだ」
と、誇張でなく震えた。患者の苦しみを言葉を絞り出しながら語る、母親とみられる女性。江頭氏の不遜な態度に憤りを隠せない男性ら。彼らに対し江頭氏は怒鳴った。
「死んだ魚を食った方が悪い!」
「庶民が何を言うか!!」
あまりの暴言に怒りを露わにし、絶叫する家族たち。冷たく見下ろすだけの江頭社長。背筋が凍るようなあの映像は、各メディアが保管しているはずだ。患者や被害者団体も所有しているだろう。しかし公に公開されることはきっとない。何故なら小和田雅子は多くの人々の懸念を薙ぎ払い踏みつけ、皇太子妃になってしまったからだ。
結婚後 当然水俣へ行くと思われていた
国民を唖然とさせたお妃内定報道から5カ月後、小和田雅子は実家から皇居へ出発した。当日は生憎の空模様、結婚の儀の最中も雨は降り続け、この結婚の不穏さをお天道様が醸し出した。
結婚直後、真っ先に水俣へ向かうと思っていた。患者らに頭を垂れ祖父の蛮行を心から謝罪し、皇太子妃となったことに赦しを請うであろうと。
しかし結婚から1カ月経っても2カ月経ってもその様子は見られない。そのうち「風邪を引いた」「微熱がある」など、学校をさぼりたい小学生のような言い訳を羅列し、小和田雅子は公務を欠席するようになる。地方行啓にこの当時は同行していたが、そこに「熊本県」の地名は見られなかった。
「一体どうなっているのか?水俣へはいつ行かれるのか?」
国民の声にならない声は、小和田雅子が考えるよりよほど広範囲に、深く浸透している。その回答と言えるかも知れない報道がいつのものであったか、はっきり思い出せない。しかし内容を忘れることはきっとない。
その気もないのにお妃候補と騒がれただでさえ迷惑しているところに、昔のことを掘り起こされ困惑する小和田雅子は同僚に
「おじいちゃまが悪く言われるの」
と愚痴をこぼしたのだそうだ。
何たる出来事であろうか。呆れると同時に江頭豊氏の血が確かに流れている女性だと実感せざるを得なかった。苦しむ家族らを眼前にして暴言を吐き散らした最高責任者である男性の孫。その程度の発言なら当たり前のようにできるだろう。
江頭氏が社長を務めていたのは1964年から1971年。退任から1973年まで同社会長を務め、以降は相談役に就任しているがこれは退任時期が判明していない。生涯相談役を務めたという人もいる。
小和田雅子の誕生は1963年。江頭氏の社会的影響力はかなりあり、その恩恵に小和田雅子も授かったはずだ。水俣病は小和田雅子にとり決して他人事ではない。生まれについて批判する人はいなくとも、成長後の対応について疑問を抱く人は多数いる。水俣病患者を向こうに回して小和田雅子は、被害者仕草をしてみせたわけだ。不信感を抱かない国民がいるだろうか。
発生原因を承知しながら有機水銀排出を止めなかった江頭氏
白木博次教授(東京大学)が水俣病の原因はメチル水銀であるとの研究結果を論文発表したのが1964年。チッソ㈱がアセトアルデヒドの製造を停止したのが1968年。つまり江頭氏は自身が社長を務める会社が水俣病の原因企業で、今現在も水俣湾に水銀を垂れ流しているという事実を認識しながら製造を止めなかったのだ。「雇われ社長だったのだからそんな権限はない」などと言うてくれるな。「銀行から差し向けられた社長」がどれほどの強権を振るえるか、社会を経験しているなら知らぬことはあるまい。江頭氏は世の倣い通り利益追求に照準を絞り、製造指示を出していた。日本政府の力添えがあったチッソ㈱の社長だった御仁だ。怖いものなどなかっただろう。
社長退任から6ヶ月して五井事件が起きる。水俣病患者・その家族・支援者・取材を続けた記者ら20人が抗議活動中、チッソ㈱は社員200人に命じ彼らに活動を中止させるための実力行使に出た。凄絶な暴力を受け被害者らは大怪我を負う。同行していた写真家ユージン・スミスは暴行を受ける間にもシャッターを切り続けていた。
「4人の男が私の手足を取って、ひっくり返った椅子の足の上を引きずり、別の6人の手に渡し、今度は私の頭は外のコンクリートにたたきつけられた。ガラガラ蛇の尾を持ってたたきつけ殺すやり方だ。そしてゲートの外へ放り出された。目がくらみ、私はふらふらしながら起きあがった。殺してやりたいほどの怒りに震えながら。・・・ガラガラと閉まるゲートの向こうに暴徒は腕組みをして立ち、笑っていた」
暴行後激しい後遺症に悩まされたスミス氏は後年、このように証言している。暴行により失明した彼はこの事件の6年後、落命している。小和田雅子、15歳の頃のことだ。
2026年5月1日
熊本県水俣市で「水俣病犠牲者慰霊式」が挙行された。同日、小和田雅子は夫と娘を引き連れ御料牧場へ小旅行と洒落込んだ。
1週間ほどバカンスを楽しむと報じられた。馬鹿馬鹿しい。年中休暇だらけではないか。休みだらけの毎日のどこに癒しを求めるというのだ。遊びたいなら働け!務めることで得られる達成感を未だ知らない小和田雅子に、こんなことを言っても伝わりはしないのだろうが。
成長など望むべくもない女性であることは重々理解しているとはいえ、今回の「同日行動」には唖然とさせられた。「おじいちゃまが悪く言われる」と嘆いてみせた精神性はいまだ健在で、天皇陛下はそれに引きずり込まれてしまったのだ。
「今日という日にわざわざ出発する必要はない。明日でよい」
この一言が口に出せない陛下は毎回、小和田雅子の指示通りシャツやネクタイを着けているが、いつから陛下は小和田雅子の愛玩動物に成り下がったのか。愛情があるなら窘めるはずだ。陛下はこの33年、小和田雅子に服従し続けた。そのお姿からは、ご自身の判断が誤りであったと認めたくないという頑なさしか感じられない。それ故に、道化と成り果てた今のお姿を正確に捉えることが困難なのであろう。自業自得とはいえ哀れなものである。
マスコミやネットの書き込みに従事するアルバイトの手により、世論を誘導することに成功したように勘違いした小和田雅子だが、1週間後帰京の路で見たものは「奉迎者3名」という現実だったそうだ。思わず笑ってしまった。金を出さなければ、創価学会による動員が掛けられなければ、令和の天皇ご一家の「人気」などその程度のものなのだ。その3人も熱心なファンというよりは「折角だから」と立ち寄っただけではないか。私も通りがかれるのなら寄り道したであろう。
「位だけは高い、実のない人生を歩んだ腑抜けを見てみたい。そんな人物は童話でしか知らない」
という、邪な気持ちでだ。
因果は巡る。小和田雅子は栄耀栄華を生きたようだが人生の終盤に差し掛かり、その勢いに陰りが見えてきた。人間いつまでも若くはない。気力体力は年齢と共に失われていくものだ。小和田恒氏は92歳になる今も実権を握り、日夜活動しているようだが、それは「娘婿が天皇である」という事実によるもの。彼の実力ではない。陛下に何事かが起きたとき、小和田氏への影響は避けようがなく、またそれは恐らく、後継者と見做される雅子の妹の配偶者も避けられはしまい。だからこそ秋篠宮家への攻撃が苛烈さを増しているのだと思う。
しかし「人事を尽くして天命を待つ」という諺がある。江頭豊氏の悪行は曾孫にその影響が出たようだ。子供に罪はないと考えるから詳細は書かないが、彼女は彼女で大変な道を歩めと命ぜられている。本人にその自覚があるようには見えないが今も昔も決して、幸せなお子様ではない。
小和田雅子が生きている間に彼女が行った悪行の全て、その業が本人に返ることを強く希求する。
「愛子さまが天皇になる夢を見た」
晩年、江頭豊氏は口にしたそうだ。彼が亡くなるとマスコミは、あたかも水俣病患者救済のため尽力したかのように報じた。しかし江頭豊氏が奈落へ突き落とされる少し前目にしたものは、秋篠宮家に男児ご誕生というまこと天晴なご慶事であった。


https://dmagazine.docomo.ne.jp/article/26e6939c26215ed2dd94f0094920916d7b4a23b8b0f2f791c1aa2d45260b5fcf/146abf423ba2288237ad6f838520b7a764bbb6e141d9f3ca085f2f7ab4ba8401/ 女性セブン2026年5月21日28日の合併号で、江頭豊を水俣病問題解決・患者救済に努力した誠実な人物のよ…