ニッポンの世界史 #51 「世界史のなかの日本文明」—90年代における反左派フォーマットの成立
◉要約
1999年の西尾幹二『国民の歴史』を、唐突な右傾化現象とみるのは正確ではない。1990年代、冷戦終結で「西側」「経済大国」という自己定義が崩れたとき、棚上げにされていた脱亜・脱欧の問いが一斉に噴き出した。岡田英弘・杉山正明のユーラシア史、川北稔のウォーラーステイン受容、梅棹・安田・川勝・上山春平の比較文明論、ハンチントン『文明の衝突』邦訳——複数の水脈が合流して「世界史のなかの日本文明」フォーマットが成立した。
2020年代まで生き続けるこの枠組みの成立過程を、伏線を回収しつつ整理する。
◉連載全体の目次はこちら
1990年代は、日本(文明)の歴史を世界史のなかに、ある種の視点に基づき位置付ける「世界史の中の日本文明」フォーマットが成立した時期である。
今回はいささか長くなるが、これまでの議論の伏線を回収しながら、2020年代にまで受け継がれるこのフォーマットの成立について整理していきたいと思う。
成立の背景として大きいのは、1990年頃を境に、日本をとりまくいくつかの分割線が同時に揺らいだことだ。
戦後の世界史は「西洋史/東洋史/日本史」の三分割のうち、はじめの2つ、西洋史と東洋史をつぎはぎする形で組み立てられてきた。日本の置きどころを探る試みはあったものの、あくまで世界史は日本の外部の諸文明を扱うものという暗黙の前提が残り続けた。
冷戦期はこれに「自由主義陣営/社会主義陣営」の二分割が重なっていたから、日本は「西側経済大国」「自由主義陣営の一員」として、国際秩序の上でも、意識の上でも、主体性を部分的に剥ぎ取られる格好となった。
だが、戦後日本は「西側」「経済大国」という与えられた位置に納まることで、明治以来の脱亜/興亜・脱欧/入欧の問いを棚上げにしてきたとも言えないだろうか。
だからこそ、1990年代にその構造が崩れたとき、棚上げにされていた問いが一挙に噴出することとなる。
「歴史の終わり」と「東アジアの奇跡」
はじまりは1989年、昭和と冷戦が偶然にも同時に幕を閉じた年である。
この年の論文でフランシス・フクヤマは「歴史の終わり」を宣言した(1992年書籍化、日本語訳1992年三笠書房)。
フクヤマの議論は、コジェーヴのヘーゲル解釈を下敷きにした哲学的・思弁的な性格のものであり、現実の政治過程をそのまま記述したものではない。だが、彼の議論はいっぱんに、自由民主主義と市場経済の普遍化として受け取られた。その文脈のなかで、日本は勝者たるアメリカ的世界のなかに溶け込んでいくのかという問いが頭をもたげることとなった。
同じ時期、世界銀行は1993年に報告書 The East Asian Miracle(邦訳『東アジアの奇跡——経済成長と政府の役割』東洋経済新報社、1994年)を公表し、日本・韓国・台湾・香港・シンガポール・タイ・マレーシア・インドネシアがひとまとまりの市場経済圏として有望視された。
もっとも、東アジアの経済的成功を文化的・制度的共通性から説明する議論(いわゆる儒教資本主義論)自体は、1980年代以来の蓄積をもつものであり、けっして90年代に新たに出てきた発想ではない。だが、折しも天安門事件(1989年)で一度凍りついた中国経済は、鄧小平の南巡講話(1992年)を経て改革開放路線に回帰し、東アジア地域全体が成長軌道に乗りつつある中、世界銀行報告書という形で国際的にオーソライズされたことにはそれなりのインパクトがあった。
日本もまた、「アジア」という総体に対する自らの位置を、あらためて問い直すことを迫られる。むろん戦後日本にも、福田ドクトリンや対中ODAにみられるような独自のアジア外交の蓄積はあった。だが、それらの「独自」性は、アメリカという大枠の存在を前提として初めて成り立つ「独自」性でもあった。冷戦が終われば、その意味合いは当然変わってくる。そうした認識の地殻変動を一挙にもたらす出来事が、1991年に起きていた。
湾岸戦争の衝撃と、歴史認識問題の加熱
連載の第1回でわたしは次のように述べた。
このように、国外での出来事や変動が、日本にとっての転換点、あるいは危機やリスクをはらむものとして感じられたとき、日本人は決まって「世界」とその成り立ち(=「世界」の成り立ち)について考えてきたといえるだろう。
明治維新、敗戦につづく大きな変動こそ、80〜90年代の社会主義圏の崩壊であり、90年代劈頭に勃発した湾岸戦争であった。
多国籍軍への支持を求められた日本は130億ドルの資金協力と停戦後の掃海艇派遣を行ったが、人的貢献の不足を国際社会から批判されたという事後的な総括が広まり、のちに「湾岸のトラウマ」と呼ばれるようになった。
冷戦後の国際秩序のなかで自国の役割をどう言語化するか、この問いは、「普通の国」論を掲げる保守側と、9条擁護の立場から海外派遣に抗した左派側との対立として現れ、論壇にも深い問題意識をのこした。
冷戦後の日本が向き合うことになったもう一つの問いは、植民地支配と戦時期の加害をめぐる歴史認識の問題だった。とりわけ従軍慰安婦問題は1990年代以降、日韓のあいだで繰り返し政治的争点となり、両国関係を規定する主題のひとつとなっていく。
1970年代まで「教養」「趣味」の一角をになっていた歴史が、1980年代以後、徐々に「政治」化の様相を呈するようになり、いよいよ全面的に「政治」化していく。それが1990年代だった。
冷戦期は国家対国家の戦略的同盟が記憶を凍結していた。日韓は反共同盟のもとで植民地支配責任を棚上げにし、米欧はホロコーストを冷戦下の限定的な枠組みでしか語らず、東欧はソ連の覇権下で独自の犠牲者の語りを封じられていた。
だが冷戦が終わり、この凍結は一斉に解けはじまる。
1990年代以降、世界各地で「自分たちこそ被害者だった」という記憶が国境を越えて噴出していく。歴史学者の林志弦が「犠牲者意識ナショナリズム」と呼んだ現象である(『犠牲者意識ナショナリズム——国境を超える「記憶」の戦争』東洋経済新報社、2022年)。
そしてなにより1990年代後半に向けて、戦後日本を支えてきた「経済大国」という自己像そのものが崩れていった。
1991年のバブル崩壊から始まった経済の停滞は、1995年に決定的な相貌を見せた。1月の阪神淡路大震災、3月の地下鉄サリン事件、4月の円高ピーク(1ドル79円台)、年末にかけての住専問題の顕在化。「戦後」が複数の意味で揺らいだ年だった。1997年にはアジア通貨危機を背景に山一證券・北海道拓殖銀行が相次いで経営破綻し、1998年には日本長期信用銀行・日本債券信用銀行も破綻に追い込まれる。おなじ1998年、年間自殺者数が初めて3万人を超え、以後14年連続で3万人台が続いた。
かくして「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の自負は、決定的に過去のものとなる。冷戦末期まで日本を支えてきた「経済大国としての自己定義」が、足元から崩れていったのである。
つまり1990年代、日本は自らのポジショニングをめぐる深刻なクライシスに直面していた。「西側」「自由主義陣営」「経済大国」という冷戦期の自己定義は、その前提となる二分割の世界が消えた瞬間に意味を失った。
フクヤマ的な一元化のなかでアメリカ的世界に溶け込むのか。東アジアの一員として再定位するのか。いや、歴史認識問題が政治化するなかで、和解のチャンスは後退する。だったら、独立した文明圏として立つのか。湾岸戦争の米国の行動は、近代ヨーロッパ文明、キリスト教文明の終焉に対する一種の保守反動とみるべきではないか(石原慎太郎・高坂正堯・江藤淳の鼎談。『文藝春秋』1991年3月号)。いや、そう言っても、米国に追随する体制は変わらない。日本は世界史のどこに立つのか。
1990年代に「世界史の中の日本文明」というフォーマットが浮上したのは、この深刻なアイデンティティ・クライシスからにほかならない。
国家の枠をこえる世界史
1990年代は、現実の国家が次々と崩壊するさまが目の当たりにされるなかで、国家そのものの虚構性をめぐる議論も広く支持を得るようになったディケイドでもあった。
ベネディクト・アンダーソン『創造の共同体』(原著1983年、訳書初版1987年)やホブズボウム/レンジャーら『創られた伝統』(原著1983年、訳書1992年)といった著作が次々と邦訳され、「国民」や「伝統」が近代の発明品にすぎないという視座は、特に人文系の研究者の共通認識となる。
既存の国家とは別の単位で世界を見渡すこと。情報化・国際化、そして国境を越える地域協力など、冷戦の二分法を超えた新しい時間が始まったという機運も、こうした動向を後押しした。
世界史像においても、国家という単位を積極的にのりこえようとする仕事が、1990年代前半に相次いで一般読者の手にとりやすい書籍に結実した。
岡田英弘(1931〜2017)や杉山正明(1952〜2019)は、モンゴル帝国・中央ユーラシア・遊牧世界を世界史の主軸に置いて、とらえなおそうとした。とくに杉山がとりくんだ原語史料をもとにモンゴル史をとらえなおす研究は、ソ連崩壊にともなう情報公開の副産物でもあった。
じつは、モンゴルを世界史の画期に位置づける視座そのものは、すでに上原専禄(1899〜1975)が1950年代の世界史教育論のなか試みていたことであった。1965〜66年の連続講演「モンゴル人の〈世界征服〉と13世紀ユーラフロアジアの世界」(東京・紀伊国屋ホール、3回連続)で、13世紀モンゴル帝国によるユーラシア統合を世界史像造形の起動軸として位置づけている。
連載第4回で紹介した宮崎市定(1901〜95)もまた、戦前の段階で東西交流の動態からアジア史を統一的に描き、世界史構成を書き換えようとした先駆者といえる。オリエント・インド・中国の三文化圏を、内陸の遊牧民と海域世界が結ぶ動きとして読み、近世への移行も西アジア→中国→インド→ヨーロッパという連動のなかで捉えた。
だがその後の "公式" 世界史は、けっきょく三大文化圏という事実上19世紀までをタテ割りに学習する構成にまとまり、タテ志向を強めていく。それはいうなれば、世界史は東洋史と西洋史のつぎはぎにすぎないという批判に対し文化圏学習というかたちで応答しているかのようにみえながら、実のところ東洋史(東アジア文化圏+イスラム文化圏+α)+西洋史(オリエント+古典古代+ヨーロッパ文化圏)という形を変えた「つぎはぎ」を温存しつづけたということでもあった。
これを痛烈に批判したのがのが岡田英弘だった。
『世界史の誕生—モンゴルの発展と伝統』(筑摩書房、1992年)の主張は明快である。日本の「世界史」が「東洋史」と「西洋史」を合体させた科目になっているのは、明治以来の三分割(国史・東洋史・西洋史)の後遺症にすぎない。「東洋史」は中国型の「天命」「正統」史観に基づく中国中心の歴史であり、「西洋史」はギリシア・ローマから始まり地中海文明・西ヨーロッパ文明を主軸とする歴史である。「いずれも、それぞれ独立に出来上がっている歴史であるので、なみたいていのことでは一緒にはならない」(p.10)。両者を表面的に統合した戦後の「世界史」は、根本的には「無理な注文」(p.10)であり、「世界史以前と変わりがない」(p.11)。
ではどうすればよいか。
鍵は、「単なる西洋史と東洋史の合体ではない、本当の意味での世界史の可能性をさぐるため、中央ユーラシア世界を中心とした世界史を叙述すること」(p.285)にある。
地中海文明と中国文明という二つの孤立した文明圏を、ユーラシア草原の遊牧民の活動が初めて結びつけた。13世紀のモンゴル帝国によるユーラシア統合こそが世界史の起点であるというのが、岡田の見立てだ(★1)。
世界史は、モンゴル帝国の歴史と、モンゴル帝国が、一方で起こった事件が、ただちに他方に影響を及ぼすような世界を創り出したのだから、どうしても一本の世界史として書かなければならない。
杉山正明は『モンゴル帝国の興亡』(講談社現代新書、1996年)、『遊牧民から見た世界史』(日本経済新聞社、1997年)などを通じて、杉山はユーラシア大陸を東西に貫く遊牧民のネットワークが近代以前の世界史を構造的に動かしていたことを論じた。中国王朝史・西洋史・イスラム史を別々に並べるのではなく、ユーラシア規模で動く遊牧民国家、とりわけモンゴル帝国を中軸に据えることで、ユーラシア史を統一的に読む枠組みをわかりやすく提示したのだ。
じつは国民作家・司馬遼太郎(1923〜1996)も、1980年代後半以後、自身の学究のルーツでもあるモンゴルに注目をあてていた。
『草原の記』(新潮社、1992年)、『街道をゆく』のモンゴル編、長篇『韃靼疾風録』(中央公論社、1987〜1988年)などを通じて、司馬はモンゴル・遊牧世界・ユーラシア草原を、近代国民国家の単位を超えた歴史的空間として描き続けたのである。
歴史学者の成田龍一は、司馬の歴史叙述の核心の一つに、近代国民国家以前の広域的な時空を想起させる視座があったと指摘している。「日本」「中国」「ロシア」という近代国家の単位の手前に、ユーラシアの遊牧民の世界を置くという構図である(成田龍一『戦後思想家としての司馬遼太郎』筑摩書房、2009年)(★2)。
こうした動向の背景には、冷戦崩壊と情報化の進展のなかで、国を超えたヨコのつながりへの関心が強まっていたことがある。
世界史教育そのものも、同時代の「ヨコのつながり」を重視する方向に組み替わっていく。1989年改訂の学習指導要領で「世界史A」(近現代中心、必修)と「世界史B」(通史、選択)の二科目体制が導入されていた。
だが、つづく1998年改訂では「諸地域世界の交流」「世界の一体化」が前面に出てくる。地域ごとの縦割り通史を並べる従来の構成から、地域間の交流・接触・連動を主題化する構成へと、世界史像の組み立て方が変わったのである。
とりわけ大航海時代以降の「世界の一体化」が世界史Bの大きな転回点として位置づけられ、教科書の章構成にも反映された。
世界の一体化の始期は、これまで19世紀とされていたが、ここではじめて大航海時代が画期とされることとなった。これは重大な変更と言える。
モンゴル帝国ではなく大航海時代が節目として選ばれることになったにせよ、ともかくこうしたヨコのつながりに注目する動きは "公式" の世界史カリキュラムをも動かしていくこととなったことが、1990年代のニッポンの世界史の一大変革であったことはまちがいない(この変化に際し、宮崎正勝の果たした役割についてはすでに述べた通りである)。
モノから世界史システムを読み解く—川北稔『砂糖の世界史』
ユーラシア横断の視座とは別の角度から、戦後世界史の三分割を組み替える仕事もあった。西洋経済史を専門とする川北稔(1940〜)の『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書、1996年)である。
すでにウォーラーステインの議論は1980年代には学界や論壇レベルでは受容されていたものの、まだ一般化はされていない。
ウォーラーステインの世界システム論自体は、1980年代にはすでに日本の学界・論壇で受容が進んでいた。川北は I・ウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』(岩波現代選書、1985年)の翻訳者として、また『近代世界システム』の主要な紹介者として、この受容を先導した一人である。 1980年代の段階では、ウォーラーステインは社会科学・歴史学の専門家のあいだで読まれる思想家だった。論壇でも世界システム論への言及は増えていったが、教科書や中高生レベルの一般読者にまで届いていたわけではない。
川北の『砂糖の世界史』は、この受容を一段下に降ろす仕事だった。
岩波ジュニア新書のロングセラーとなったこの本は、後の『コーヒーの世界史』『チョコレートの世界史』など類書の系譜を生み、「モノから世界史を見る」というジャンルを確立した(先行する角山栄『茶の世界史』(中公新書、1980年)は、文化としての茶が商品となり、やがてまた文化としての受容に回帰していく過程を展望する仕事で、世界システム論的な視座とは少し角度が違っていた。日本文化が世界商品になったうえでさらに文化的価値として返り咲いていくという見立ては、1980年代日本の経済的隆盛と「ソフトパワーとしての日本文化」への楽観的な空気のなかで受け入れられたものだったともいえよう。)。
川北は、『砂糖の世界史』が結実した経緯を訳書のあとがきで語っている。シドニー・ミンツ『甘さと権力——砂糖が語る近代史』(川北稔訳、平凡社、1988年)の翻訳に取り掛かったとき、川北は自分が長年書こうと思っていたテーマがミンツに先取りされていたことに気づいた。
誰しも一度くらいは経験があるだろうが、長い間自分自身が書きたいと思っていたのと同趣旨の本や論文に出会ったときの心境は複雑である。
川北のアプローチは、岡田・杉山のユーラシア史的視座とも、後述する西尾的「日本文明」論とも異なる。
世界を諸文明・諸地域の集まりとしてではなく、商品の流通と労働の搾取が結ぶ単一のシステムとしてとらえる、これがウォーラーステイン的な視座である。日本もこのシステムの一部として、世界市場との関係のなかで読み直されることになる(★3)。
ウォーラーステイン自体は、このシステムはやがて終局を迎えると予想していた。
たとえばこの動画(2015年に公開)では21世紀初頭の世界を500年続いた資本主義世界システムの終末的な構造的危機と位置づけ、利潤確保と資本蓄積の行き詰まり、米国覇権の低下、大型通商協定の機能不全などをその徴候として挙げる。移行後の世界が階層と不平等を再生産する体制になるか、より平等で民主的な体制になるかは決定されておらず、中央集権的な権力奪取ではなく水平的連携の積み重ねが帰趨を決すると説く。
だが、その明確な兆候や道筋が示せぬまま、また『近代世界システム』を完結させることなく、2019年に亡くなった。
そうしたネオ・マルクス主義者としての所論とは裏腹に、近代世界システム論が右派にも一定の受容がみられたのが、日本におけるウォーラーステイン受容の特徴だ。
世界システム論には、オランダ→イギリス→アメリカと続いてきた近代世界システムのヘゲモニー国家の長期サイクル論という側面がある。1990年代の日本でこの議論が読まれたのは、バブル崩壊やアジア通貨危機を経て「アメリカのヘゲモニーが衰退するなら、その次は中国か、日本か」という時局的な問いと響き合ったからでもあった(★4)。
「日本文明」への注目
もう一つの水脈、すなわち日本を独立した文明圏として前景化する系譜が、戦後を通じて着実に育っていた。1990年代後半に表に出てくるのがこの系譜である。
その構造を理解するには、二つの軸を区別する必要がある。
「脱欧」とは欧米普遍主義的な世界史構成(ヨーロッパ的な発展段階論や、欧米の価値観を普遍とみなす枠組み)からの離脱。
「脱亜」とは中国を中心とする文明圏のなかに日本を包摂する見方からの離脱である。
1990年代に集約される保守系世界史の核心は、この両方からの離脱による日本の文明的独立にあった。
連載でたどってきた梅棹忠夫の「文明の生態史観」(→#12)は「脱亜」ではあるが、日本を西欧とパラレルな生態学的位置に置く点では「脱欧」ではない。
これに対して安田喜憲の環境考古学(→#47)は、縄文文明を「森と水の文明」として世界史のなかに位置づけ、その起源を中国大陸の影響が及ぶ以前にまでさかのぼらせる。「脱亜」かつ「脱欧」としての日本文明論である。川勝平太の『文明の海洋史観』(1997年)(→#50)もこの「脱亜+脱欧」の系譜にいる。
1980年代の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の自負を背景に、日本文明という単位への関心が広がっていた。日本にも独自の文明があるんだ、という感覚(そう言いたい感覚)は、すでにある程度共有されていたと言ってよい。
すでに見たとおり、1980年代以来のこうした視点は、"公式"世界史=学習指導要領にも反映されていた。
藤岡信勝の転回と自由主義史観
藤岡信勝(1943〜)の自由主義史観が脚光を浴びたのは、そのような中のことであった。
教育学を専門としていた藤岡が保守論壇に身を転じ、近現代史教育に対する批判を展開する直接的なきっかけとなったのもまた湾岸戦争であった。
湾岸戦争の体験を通じて私が強く感じとったことは、日本がおよそまともな国家の体裁をなしていない国であったという発見である。なぜこうなってしまったのか、どうすれば現状を改善できるのか、という問題を私は否応なく考えざるをえなかった。その結果たどり着いた結論が、近現代史教育の改革という課題であった。私たちが日本国民として「われわれの来歴」(坂本多加雄氏)を語ることばを持たなかったということこそ、日本が国際社会の中で根無し草のように漂流するおおもとの原因だったのである。
藤岡信勝によれば自由主義史観とは、戦後の日本歴史像を支配してきたマルクス主義的「階級史観」と、東京裁判史観に連なる自虐的な近現代史叙述の双方を退け、その代わりに四つの柱に立つ立場であるという。すなわち、健康なナショナリズム、リアリズム(戦略論)、官僚主義批判、そして石橋湛山的な小日本主義に通じる自由貿易・経済自由主義の評価——明治維新から日露戦争期までの自由主義的改革を肯定的に位置づけ、その後の昭和の軍国主義と官僚主導体制を「失敗の四十年」として捉え返すことが軸とされた(藤岡信勝、上掲、p.180-181)(★5)。
1995年の自由主義史観研究会結成、1996年の「新しい歴史教科書をつくる会」設立は、この流れを教科書という制度のなかに埋め込もうとする試みだった。1996年から1997年にかけては、産経新聞紙上の連載「教科書が教えない歴史」が書籍化(扶桑社)されてベストセラーとなる。
ここに合流したのが、漫画家・小林よしのり(1953〜)だった。小林は当初、薬害エイズ訴訟運動に関わるなど反リベラルというより反権力的な立場の論客として知られていたが、1996年から『SAPIO』誌上の「新・ゴーマニズム宣言」で慰安婦問題を扱うなかで急速に歴史修正主義に接近し、つくる会のメンバーとなる。1998年7月に幻冬舎から刊行された『新ゴーマニズム宣言 SPECIAL 戦争論』(幻冬舎)はベストセラーとなり、運動はサブカルチャーの読者層にまで一気に拡張した。
同時期にはテレビ朝日系『朝まで生テレビ!』で西尾幹二・藤岡らが論陣を張り、論壇誌・新聞・テレビ・漫画を横断する大規模な保守クラスタ(伊藤昌亮)が形成されていく。
西尾・藤岡・小林に共通していたのは、近現代史をドメスティックに閉じた記述から解き放ち、世界史のなかに置き直すという身ぶりである。近隣諸国条項に縛られた教科書叙述を、世界史的なスケールで書き直す。
小林も『戦争論』のなかで「世界史のスケールで見た日本の祖先たちの偉大な歩みと知恵の集積をすべて知ったところから、それこそ本物の自己決定権を子供たちは発揮するでしょう」(新しい歴史教科書をつくる会編『「つくる会」という運動がある』扶桑社、1998年)と書いている(★6)。
(筆者の整理したExcelをもとにClaudeで編集・作画)
ハンチントン『文明の衝突』と西尾幹二『国民の歴史』
西尾幹二(1935〜2024)の『国民の歴史』(産経新聞社、1999年)。「新しい歴史教科書をつくる会」の委嘱を受けて書き下ろした一冊で、発行部数72万部のベストセラーとなった。
だが中身を読むと、西尾自身が断っているとおり、面食らうはずだ。
冒頭から展開されるのは通史ではなく、西尾の得意とする比較文化論・比較文明論なのだ。
随所で日本と西ヨーロッパが比較される。縄文文明への注目、文明圏としての日本という自己認識、そして大東亜戦争をアジアにおける欧米植民地主義への対抗として位置づける「興亜」的な歴史叙述。これらが一つの物語として結合している。
ただしそれは梅棹流の「日本=西欧の平行進化」的な対称性とは違う。西尾の見立てでは、日本は西欧ともアジア諸文明、とりわけ中国文明とも一線を画す存在である。日本は「ユーラシア大陸に対峙する独立の一文明圏」(p.39)であり、東洋にも西洋にも属さない。中国文明に対しても、「他者との対応がなければ成り立たない」中国とは違って、日本は「島国で後ろは海というのは、ある意味ではなはだ心許ないし、不便でもある。完全に拒絶するということが不可能であった」(p.30)がゆえに、来るものを包摂してきた。その同質性は受動性ゆえの包摂性であり、単一というより多様性を内に包み込む性質を持つ。「日本列島はかなり多様な民族の混淆であろう」(p.70)。
そして西尾は、世界史のなかの縄文文明を論じた安田喜憲を参照しつつ、日本を「エジプト文明に並ぶ長期無変動文明」(p.66)として位置付ける。そのロジックについては、安田喜憲の示す「世界史のなかの縄文文明」(→#47)のやり方を踏襲したものである。
西尾が日本文明の歴史的独立性の根拠としてもう一つあげるのが、ハンチントンの『文明の衝突』だ(p.39)。
1993年の論文、1996年の書籍化、1998年の日本語訳(鈴木主税訳、集英社)の流通を通じて、冷戦後の世界はイデオロギーではなく文明を単位に動くという見方が広がった。
西尾が「日本はユーラシア大陸に対峙した独立の一文明圏である」(p.38-39)と引くように、重要なのは、ハンチントンが日本を西洋文明にも中華文明にも包摂されない独立文明として扱った点である。1993年の論文の時点で、西欧、儒教、日本、イスラム、ヒンドゥー、スラヴ・正教、ラテンアメリカなどが主要文明として挙げられていた。日本については「ロンリー・カントリー(孤立した国)」という呼び方で、どの大きな文明圏にも属さない独立の単位として描かれた。
これがどれほど例外的な扱いかは、トインビーの世界史構成と比較するとはっきりする。アーノルド・トインビー『歴史の研究』(1934〜61年)は、20世紀を代表する比較文明論として戦後日本でも広く読まれたが、トインビーの分類で日本は独立文明ではなく、「極東文明」(中国本土を本体とする)の派生・関連文明として位置づけられていた。日本は中国文明の枝、あるいは衛星文明であって、中国とは別個に並ぶ独立文明ではない、というのがトインビー的な体系のなかでの基本的な位置づけだった。トインビーは後年(1956年の日本訪問、1967年の池田大作との対談など)日本文化の独自性をかなり高く評価する発言を残してはいるが、『歴史の研究』本体の体系は最後までこの「派生」の枠を維持していた。
ハンチントンはこの構造を切り離す。文明の生成衰退を哲学的に説明するトインビー的な歴史哲学ではなく、冷戦後の国際紛争を予測・分析する現代地政学として文明論を立て直し、その分析単位として日本を中華文明から完全に独立したプレイヤーとして扱ったのである。
西尾の歴史認識の構えの根底にある、西洋中心主義への懐疑はキャリアの初期から一貫しているといってよい。
1970年代以降、保守論壇に身を構え、時局に関して発言する場が増えていく。1981年の『鎖国の跫音』(PHP研究所)で西尾は、日本の知識人がトインビーらの西洋発の世界史を受容する際の構造的な問題を指摘していた。日本人は「外国人にも納得させること」を目的に歴史論文を書き、西洋の尺度で自国文化を測る。トインビーが複数文明の並立を説いても、それを「日本文明の独自性」を主体的に語るための足場として使うのではなく、「西洋がそう言ってくれた」という承認として受け取ってしまう。その受動性こそが克服すべき病だ、と西尾は見たのである(西尾幹二『鎖国の跫音——現代日本の精神的諸相』PHP研究所、1981年、pp.19〜20)。
西尾が問題視するのは、日本がヨーロッパから常に「比較される」という受動性だった。
「もはやどちらが『進んでいる』かという観点からヨーロッパを考える時代は去ったのではないか」とし、「『近代』を不完全に所有し、それでいて、『近代の克服』に直面しなければならぬという奇妙な逆説」のなかで、「近代的な『進歩』や『平等』の観念を取り払って」ヨーロッパを考え直す視点を要請した(上掲所収「日本人にとって『西洋の没落』とはなにか」、p.175。後に『西尾幹二の思想と行動①ヨーロッパとの対話』扶桑社、2000年に再録)。
1999年の『国民の歴史』に至る議論の骨格は、すでにこの1980年代には輪郭をあらわしていたことになる。
そしてこの構えを思想的に下支えしていたのが、西尾が長年研究してきたニーチェだった。ニーチェは『反時代的考察』第二篇(1874年)で、ランケ以来の実証主義的歴史学を批判し、歴史は過去の忠実な再現ではなく、現在の生のために選び取られ組み立て直されるものだと論じた。西尾はこの洞察を引き受け、「過去というものは所詮、現在の反映であり、現在のフィルターを通してしか見ることはできない」という認識を、隠蔽すべき欠陥としてではなく肯定すべき条件として受け取った(『西尾幹二の思想と行動②日本人の自画像』扶桑社、2000年所収「学問について」、pp.90〜91)。
かくして西尾は次のように結論する。
繰り返すようだが、日本文化は東洋と西洋との二大文化が対立するそのなかの東洋文化の一翼ではない。西洋、東洋問わず、両方ひっくるめたユーラシア大陸の文化全体と日本の文化とがあい対しているのである。
ここで注意しておくべきは、『国民の歴史』を突如の右傾化現象とみるのは正確ではない、ということだ。
物議を醸しながらも一般読者が西尾の書籍をこれほどまでに受け入れた背景には、一定の条件がこれまでに醸成されていたとみるべきだろう。
たとえば1980年代には、梅棹忠夫・安田喜憲・川勝平太といった、当時称揚された「学際」性をいとわず活動した(それゆえしばしば異端視される)学者たちの仕事が重要である。
彼らは既存の歴史学のディシプリンの外側から、日本を一つの文明圏として捉える視角を提示してきた。
日本史を西洋史や東洋史の従属項としてではなく、世界史を構成する一つの文明の歴史として読む。そして比較文明論的な世界史像のなかに日本文明を位置づける、というやり方である。
その萌芽はすでに比較文明学界に関与した伊東俊太郎(1930〜2023)や江上波夫(1906〜2002)にみられることは以前指摘した。
伊東が「比較文明」というとき、そこには日本が「比較」の主体となるべきだという明確な自負があった。日本だからこそ、世界の諸文明をフラットに「比較」しうるのだという積極的な姿勢である。そして、それだからこそ「世界文明」形成のイニシアティブすら発揮できるのだ、と。
比較文明論的に日本を別個の文明として位置付ける動きは、上山春平(1921〜2012)にも継承された。
京大哲学科で学んだ上山は、海軍に徴兵されて人間魚雷・回天の搭乗員として九死に一生を得た特異な戦争体験を出発点に、戦後一貫して日本国家・天皇制・神話の根源的解明にとりくんだ哲学者である。1972年の『神々の体系』、1977年の『埋もれた巨像——国家論の試み』を経て、1990年に刊行が始まった『日本文明史』全7巻(角川書店)の総論篇で、上山は日本文明史を6期に区分する独自の時代区分を提示する。トインビーが日本を中国文明の「亜流」「衛星文明」とみなしたことを退け、「日本文明は〔中略〕やがて、第1次文明の世界において、西欧文明と平行する独立の文明を成熟させる」と主張した(上山春平『日本文明史 第1巻 受容と創造の軌跡』角川書店、1990年、p.16)。梅棹の「文明の生態史観」を高く評価しつつも、第1次文明と第2次文明の区別を欠く点で距離をとり、日本を西欧と並ぶ独立した文明として段階論的に精緻化したのである。
上山の比較文明論は、京大人文研を拠点とする学際的ネットワーク——梅棹忠夫の生態史観、中尾佐助・佐々木高明の照葉樹林文化論、梅原猛との縄文文明論——のなかで形成された(柴山哲也『新京都学派』平凡社新書、2014年、pp.158-159)。1998年にはイスラエルの社会学者S・N・アイゼンシュタットと「軸文明」の枠組みをめぐって対論し、日本を軸文明にも非軸文明にも還元しない独自の文明として位置づけ直そうとした(同書、p.156)。
1990年代後半に西尾幹二『国民の歴史』が一般読者に受け入れられた背景には、こうした学際的・哲学的な日本文明論の蓄積や交差もあったとみるべきだろう。
左派の動き——ポストコロニアルと国民国家批判
これらと並行して、冷戦崩壊後には左派の側でも歴史と現在の位置付けをめぐる活発な動きがあった。
1980年代の「ニューアカ」は、ポストモダン的な差異の戯れと脱構築を武器に、いわば「日本の外」から現実を分析する立場にいた。日本という場所を相対化し、特権化された主体を解体することがその思想の核だった。これが1991年の湾岸戦争を契機に変わる。多国籍軍に協力する日本政府への批判から、柄谷行人(1941〜)は中上健次・田中康夫・高橋源一郎・いとうせいこうらと「文学者の声明」(1991年)を発表し、戦争への加担に反対の立場を明確にした。ポストモダン的な距離をとっていた批評家たちが、現実への政治的介入に舵を切ったわけである(「ポストモダンの左旋回」(仲正昌樹))。
ポストコロニアル研究の本格的な受容がその一つである。エドワード・サイード『オリエンタリズム』(板垣雄三・杉田英明監修、今沢紀子訳、平凡社、1986年。1993年に増補版)以降、ホミ・バーバ(1949〜)、ガヤトリ・スピヴァク(1942〜)らの議論が翻訳と紹介を通じて流入し、西洋近代の知の枠組みそのものが植民地支配と不可分に形成されてきたという認識が広がった。
日本史研究の側にも波及する。沖縄、アイヌ、台湾、朝鮮、満洲——「日本史」の周縁としてではなく、近代日本という帝国が作った空間として読む研究が増えていった(のち2000年代に岩波講座「帝国」日本の学知シリーズなどに結実する)。
『批評空間』(第Ⅱ期11号)共同討議「ポストコロニアルの思想とは何か」においてデリダ研究者の鵜飼哲(1955〜)が、「アメリカではポストコロニアル的な言説は、言説のレヴェルで何に対峙しているかというと、おそらくフランシス・フクヤマ的な「歴史の終焉」論とハンチントン的な「文明の衝突」論が補完的に形成しているある種のヨーロッパの「再肯定」運動に対してではないでしょうか」と仮説を披露しているが、これはまことに的を射た指摘だというべきだろう(同、太田出版、p.8-9)。
これと連動する国民国家批判の代表が、小熊英二『単一民族神話の起源——〈日本人〉の自画像の系譜』(新曜社、1995年、450頁)である。33歳の若手研究者の修士論文を書籍化したこの大著は、戦後日本人の自画像とされる「単一民族神話」が、戦前の大日本帝国時代にはむしろ「混合民族論」が主流だったところから、戦後になって生まれた構築物であることを実証的に示し、1996年にサントリー学芸賞を受賞した。「日本人」「国民」「民族」というカテゴリー自体が歴史的構築物であるという視角が、1990年代後半に広い読者を得た。
批評家・佐々木敦は、『ニッポンの思想』(講談社現代新書、2009年。増補改訂版、筑摩書房、2023年)で、1990年代の思想・批評が「日本」という場所を脱構築しようとしながら、かえってその引力に絡め取られていく逆説を論じている。椹木野衣『日本・現代・美術』(1998年)の「悪い場所」論(日本では前衛が必ず最初の地点に回帰し、歴史が機能不全に陥る)を主軸に、佐々木はこの逆説を2000年代にかけての兆候として「ニッポン回帰」と呼んだ。
この見立ては世界史受容の風景にも、かなりあてはまる。
日本を独立文明として前景化しようとした西尾・藤岡ラインはもちろん、軸を中央ユーラシアにずらそうとした岡田英弘をうごかしていたのも、出発点は「日本の歴史を世界史のなかにどう位置付けるか」「戦後の世界史教育(国史・東洋史・西洋史の三分割)をどう作り直すか」という問いだった(岡田は1994年に『日本史の誕生』(弓立社)で「倭国」から「日本国」への成立過程を、東アジア史の枠組み、世界史の一部として読みなおす試みを行なっている)。
日本史を相対化するための中央ユーラシア論が、結局は日本の世界史像をどう書き直すかという問いに回帰する。
川北のウォーラーステイン受容にも、ヘゲモニー長期サイクル論からアメリカ衰退後の日本の位置を読むという時局的関心が伏在していた。「日本」を脱構築しようとした左派のポストコロニアル批評と国民国家批判ですら、議論の重心は最終的に「日本」に戻ってきていた(★7)。
1990年代の世界史は、その軸を外部にずらそうとする仕事も含めて、どこまでも、「日本という場所」の引力のなかで書かれていたのである。
1990年代に成立した保守系世界史フォーマット
国際化の唱導(★8)、冷戦の終わり、フクヤマ的一元化、東アジアの括り、湾岸戦争、犠牲者意識ナショナリズムの噴出、経済の崩落。同時に走る変動のなかで「日本は世界史のどこに立つのか」という問いに、複数の応答が出揃った時代だった。
そんな中1990年代のポジショニング・クライシスに対する応答は、いくつかの方向に分かれて出揃った。
岡田・杉山・司馬は、モンゴル・中央ユーラシアを中軸に世界史の枠組みそのものを組み替えた。川北稔はウォーラーステインの世界システム論を「砂糖」というモノから大衆化した。西尾・藤岡のラインは日本を独立文明圏として前景化し、ハンチントンの「文明の衝突」がそこに国際政治論の語彙を与えた。左派の側はポストコロニアル批評と国民国家批判によって、「日本」を世界史の主体として前景化する語り口そのものを批判の対象とした。
方向も論理もバラバラだが、共通点はある。戦後の公式世界史が暗黙に置いてきた前提に、それぞれ別の角度から手を入れた点だ。「西洋史+東洋史+日本史」の三分割、文明圏としての日本、自明の単位としての国民国家。これらが揺さぶられた。
このうち21世紀以降も強固に残っていくのが、西尾・藤岡ラインの保守系世界史フォーマットである。1990年代のポジショニング・クライシスから生まれたこのフォーマットが、その後の日本でどう展開していくのかは、2000年代以降のニッポンの世界史の動向をみるなかで確認していこう。
松本健一「世界史のゲーム」—複数性の時代へ
こうして西尾・藤岡・小林の自由主義史観運動は「世界史」を看板に掲げた。だが同じ1990年代に「世界史のゲーム」という言葉で日本のポジションを論じながら、毛色の違う仕事をしていた論者もいた。近代日本思想史の松本健一(1946〜2014)である。
松本は竹内好、北一輝、大川周明らアジア主義思想家を論じてきた研究者で、湾岸戦争直後から『「世界史のゲーム」を日本が超える』(文藝春秋、1990年)、『日本がひらく「世界新秩序」』(徳間書店、1992年)、『日本人が世界史を描く時代』(1994年)と論考を立て続けに出し、注目された。
注意したいのは、松本の「世界史」は歴史書の世界史ではないことだ。指しているのは現在進行形の世界秩序、国際政治の動態である。
時局論を「世界史」と呼ぶ身振り自体が京都学派以来の伝統であり、われわれ日本人は時局の節目で「世界史」を呼び出してきた。
だが、松本の議論は、倉前盛通『悪の論理』(1977年)以来の地政学言説や1980年代の高坂正堯の現実主義国際政治論とは毛色が違う。
アジア主義思想史の研究者として戦前の語彙に通じていた松本は、冷戦終結後の世界を、対立軸ではなく複数性の共存として書こうとしていた。ハンチントン的「文明の衝突」ともフクヤマ的「歴史の終わり」とも違う第三の道である。
普遍性をもった理念や原理(たとえば『自由と民主主義』)は、人為的に普遍的な世界であろうとしたアメリカの国家内でしか通用しない。これに対して、世界各国は、それぞれローカルな原理つまり伝統と文化をかかえたまま、相互に共通するルールをつくり出すことを通して、これからの世界史を生きてゆくことになるのだろう。
松本は「20世紀末の世界史において、民族がそれぞれの『国体』に閉じこもろうとしている現状を読み解き、そのさきにあらわれる国体イデオロギーの中毒現象について、大いなる示唆を与えてくれるだろう」とも釘を指す。
1990年代前半の時点で、冷戦後の世界が「各民族が自分の国体に閉じこもる」方向に進むことを松本は見ており、しかもそれを「中毒」として警告していた。保守系世界史フォーマットとはいささか毛色の異なる議論である。
***
注釈
★1 岡田の議論にはマルクス主義とその継承体制(ソ連・中華人民共和国)への強い政治的反感も含まれている。岡田はソ連・中華人民共和国をモンゴル帝国の大陸支配の継承国家として位置づけ、それと対比する形で、日本・アメリカ・EUを海洋国家として評価する。「世界の三大勢力はすべて、本質的には海洋国家である」(p.245)。この海洋国家=近代の主役という見方は、梅棹忠夫『文明の生態史観』の系譜に連なるもので、日本を西欧と同じ陣営に置く「脱亜・入欧」の発想に近い。
★2成田龍一『戦後思想家としての司馬遼太郎』(筑摩書房、2009年)は、司馬の作家活動を三期に分け、1980年代後半以降を「文明論」の時期として位置づけている。代表作である『韃靼疾風録』は、平戸藩の通詞・桑助とアビアという女真族の女性のアイデンティティの揺らぎを軸に、17世紀初頭の東アジア世界を描く小説である。明・朝鮮・女真・モンゴル・日本(倭)が交錯するなかで、登場人物たちは「日本人」「明人」「李姓」「韃靼人」と国籍を入れ替えながら生きていく。司馬はここで、近代国民国家の自明性が成立する以前の東アジアを、「辺境」「多文化」「華夷秩序」をめぐる文明論として書こうとしていた。成田によれば、これは1960〜70年代の司馬作品(『竜馬がゆく』『坂の上の雲』など)が描いた「明治国民国家」を主軸にした歴史叙述からの明確な離脱であり、「他者」への対応のなかでアイデンティティの揺らぎを描く方向への転換だった。司馬はモンゴル・東北アジアを、近代国民国家の単位の手前にある広域的な時空として描き出す。それは、1990年代に司馬が没後「グローバリゼーションのなかで読み返される作家」となっていく前提でもあった。
司馬の抱く両義的なモンゴル・イメージについては、片山杜秀『見果てぬ日本—司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦』新潮社、2015年も参照。
★3 川北は発展段階論から距離を取る西洋史家で、消費文化やジェントルマン論から資本主義的な世界の形成の過程にとりくもうとした。
発展段階論への懐疑には長い前史がある。第二次岩波講座『世界歴史』(1969〜71年)の段階ですでに違和感は出ていた。70年代後半からはアナール派・社会史の受容が進み、関心はタテ(時代の発展段階)からヨコ(同時代の空間的な広がり)へ、生産からむしろ消費や日常や心性へと移っていく。1980年代の日本自体が消費社会化を深めたことも、この感性とよく響き合った。ウォーラーステインの世界システム論も、この流れのなかで学界に入る。生産関係の発展段階を縦軸に世界史を語るのではなく、商品と労働の空間的な分業という横軸で世界経済を読む。社会史的な関心とパラレルな枠組みだった
なお、消費や流通に注目する流れには、本連載で前回紹介した川勝平太がいる(→#50)。ちなみに川勝は1996年12月の「新しい歴史教科書をつくる会」結成時に賛同者として名を連ねていた。本人は2009年の静岡県知事就任記者会見で「メンバーになったことは一度もない」と否定しているが、結成時に賛同したのは事実である。本人によれば、その動機は「日本史と東洋史と西洋史が分けられているのがおかしい」という従来の世界史叙述への疑問だったという(2009年知事記者会見、https://www2.pref.shizuoka.jp/ALL\KISHAKAIKEN.nsf/WebDateView/4A2592303A11A30C492575EE002BE7A1)。「日本文明」を独立した文明として立てる川勝の脱亜・脱欧の世界史観が、1990年代の運動と近接していたことを示す事例であろう。
★4 川北稔編『知の教科書 ウォーラーステイン』講談社、2001年、p.10-11の川北の所論。あるいはp.180以降の山下範久の論考「現代日本とウォーラーステイン」を参照。
★5 司馬遼太郎の歴史叙述は、もともと明治を「明るい時代」、昭和を「暗い時代」として対比的にとらえ、日露戦争を国家防衛戦争として位置づけるものだった。1996年2月の司馬の死去をきっかけに、各誌が相次いで追悼特集を組み、「司馬史観」が一般に広く認知されるようになる。
ちょうどその時期に、藤岡信勝や西尾幹二らの自由主義史観運動が、司馬の『坂の上の雲』に「健全なナショナリズム」の手本を見出し、自陣営の援軍として積極的に取り込んでいった。これが事態を一変させる。それまで歴史学からはほとんど正面から論じられてこなかった司馬の明治認識が、自由主義史観の活発化と連動する形で、植民地主義批判の立場から本格的に争点化される。中村政則『近現代史をどう見るか——司馬史観を問う』(岩波ブックレット、1997年)、鈴木良「歴史意識と歴史小説のあいだ」(『歴史評論』1997年2月号)などが、日露戦争を「祖国防衛戦争」と捉える司馬の歴史理解は朝鮮・満州を侵略する側の視点を欠落させているとして、批判を展開した。
司馬本人の意図とは別に、その明治像が自由主義史観に取り込まれたことによって、司馬は事後的に論争の渦中に置かれることになったのだ(福間良明『司馬遼太郎の時代』中公新書、2022年、p.223-231)。
★6 運動の経緯については伊藤昌亮『ネット右派の歴史社会学』青弓社、2019年、第3章を参照。
なお、1990年代の日本において、世界史のスケールから日本史を照らし返せば「まあ、たいしたことはやっていないのではないか」という姿勢は、ドイツの歴史家論争(Historikerstreit, 1986〜87年)にも通ずるものがある。すなわち、ナチズムの犯罪をスターリニズムや他の20世紀の暴力と「比較」のなかに置くことで相対化を図ったエルンスト・ノルテらの議論と、構造的に類似した身振りを見出すことができる。その意味で、両者はポスト冷戦というパラレルな状況にあったともみるべきだろう(ユルゲン・ハーバーマス 他著 ほか『過ぎ去ろうとしない過去 : ナチズムとドイツ歴史家論争』,人文書院,1995.6. 国立国会図書館デジタルコレクション)。
冷戦という大枠の崩壊にともなって、各地域でそれぞれに「世界史のなかの自国」を再定義する作業が要請された。その共通の地殻変動のうえに、ドイツの論争と日本の文明論的世界史も置かれていたのである。その意味で、1990年代半ばに加藤典洋『敗戦後論』をめぐって展開された論争は、いわば日本にやや遅れてやってきた「歴史家論争」だったといえよう。
★7 山下範久『世界システム論で読む日本』(講談社選書メチエ、2003年)は、ウォーラーステイン的な世界システム論の枠組みから日本の近現代史を読み直した本格的な内容であり、重要。
★8 1990年代の議論の前史として、1980年代後半から「国際化」をめぐる論争があった。代表的なのが山崎正和「文化の国際化とは何か」(中央公論社、1997年。原型となる議論は1980年代後半から展開)である。
山崎の論旨の核心はこうだ——「国際化とは事実上、西洋化である」。16世紀以降に西洋文化が世界の標準となった事実は否定できず、今日の国際基準は西洋に発している。これを拒否しても意味がない。問題は「どう受け入れるか」だ。山崎は文化を固定した「民族の魂」として捉える文化民族主義を批判し、文化とはリズムとして変化・更新し続ける動的なプロセスだと論じた。そして日本は「世界文化の周辺国」として、西洋文化を批判的・創造的に受け取り、独自の「世界史的実験」を行う場となれる、と主張した。連載の言葉で言えば、山崎は「入欧」の論理を引き受けたうえで、それを文化の動的なプロセスとして組み替える方向を示している。1990年代の「日本文明」論が「脱欧」の方向で日本を独立文明圏として前景化していくのとは、対照的な応答である。詳しくは、西部邁『批評する精神』、p.229以下を参照。
◉要約
1990年代は、日本(文明)の歴史を世界史のなかに位置付ける「世界史の中の日本文明」フォーマットが成立した時期である。
冷戦終結により、戦後日本を支えてきた「西側」「自由主義陣営」「経済大国」という自己定義が前提を失い、明治以来棚上げにされてきた脱亜/興亜・脱欧/入欧の問いが一斉に噴き出した。フクヤマの「歴史の終わり」、世界銀行報告書による東アジアの経済的台頭、1991年の湾岸戦争と「湾岸のトラウマ」、慰安婦問題に象徴される歴史認識の政治化、1995年の阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件・円高ピーク、1997〜98年の金融機関破綻——「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の自負は決定的に過去のものとなった。日本は世界史のどこに立つのかという問いに対し、応答は複数の方向に分かれて出揃った。
第一に、岡田英弘『世界史の誕生』、杉山正明のモンゴル史、晩年の司馬遼太郎による、モンゴル・中央ユーラシアを軸に世界史の枠組みそのものを組み替える試み。背景には、戦後世界史が結局「西洋史+東洋史」のつぎはぎを温存してきたことへの批判があった。
第二に、川北稔『砂糖の世界史』(1996年)による、ウォーラーステイン世界システム論の中高生レベルへの大衆化。「モノから世界史を見る」というジャンルの確立である。
第三に、戦後を通じて育っていた「日本文明」論の系譜の表面化。梅棹忠夫の生態史観、安田喜憲の環境考古学、川勝平太の海洋史観、上山春平の比較文明論——京大人文研を中心とする学際的蓄積を背景に、西尾幹二『国民の歴史』(1999年)、藤岡信勝の自由主義史観、小林よしのり『戦争論』が、日本を独立文明圏として前景化する保守系世界史フォーマットを確立した。1996年に邦訳されたハンチントン『文明の衝突』が、日本を中華文明にも西洋文明にも属さない独立文明として描いたことが、これに国際政治論の語彙を与えた。
第四に、左派側のポストコロニアル批評と国民国家批判。サイード『オリエンタリズム』増補版(1993年)、小熊英二『単一民族神話の起源』(1995年)などを通じ、「日本人」「国民」「民族」というカテゴリー自体を歴史的構築物として読み直す視角が広い読者を得た。
方向も論理もバラバラだが、戦後の公式世界史が暗黙に置いてきた前提——「西洋史+東洋史+日本史」の三分割、文明圏としての日本、自明の単位としての国民国家——に、それぞれ別の角度から手を入れた点では共通している。なかでも21世紀以降も強固に残っていくのが、西尾・藤岡ラインの保守系世界史フォーマットである。これは突如の右傾化現象ではなく、1980年代以来の比較文明論の蓄積が、冷戦後のポジショニング・クライシスのもとで表面化したものだった。同じ時期、近代日本思想史の松本健一は「世界史のゲーム」という言葉でこの構造を見渡しつつ、「各民族が自分の国体に閉じこもる中毒現象」を警告していた。
いいなと思ったら応援しよう!
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊

