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芦野宿

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芦野宿
芦野宿の位置(栃木県内)
芦野宿
栃木県における芦野宿の位置
種類古代宿場
所在地栃木県那須郡那須町芦野
座標北緯36度59分26秒 東経140度09分49秒 / 北緯36.990632度 東経140.163517度 / 36.990632; 140.163517

芦野宿(あしのしゅく)は、奥州街道(奥州道中)の25番目の宿駅宿場町)である。現在の栃木県那須郡那須町芦野。奥州街道における関東最北端(東北から見た関東の入口)の宿場として発展した[1]

沿革

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前史

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古代の芦野は東山道の黒川駅とされ、芦野の名となったのは中世以降とされる[2]蘆野氏の居城桜ヶ城(御殿山)の城下町として発生し[1]、芦野宿としての成立時期は定かではないとされているが、17世紀初頭には成立していたと推定される[3]。制定時の当主は蘆野氏16代の蘆野盛泰で、天正18年(1590年)の小田原征伐の折に豊臣秀吉から本領を安堵され、奥州仕置に際しては、芦野に茶屋を構え、秀吉に茶と赤飯を献じたとされる[3]。このことは「太閤台」や「太閤清水」といった地名に残る[3]。また、慶長3年(1598年)の直江兼続石田三成の連署状に「那須之内芦野マテ」物を届けることを命じる記述があることから、この時期には芦野を経由する道中が成立していたとする説がある[3]

江戸時代

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参勤交代で芦野宿を通る大名は33家にのぼり、その一部が宿泊していた[4]盛岡藩には、江戸から盛岡までの街道沿い全ての本陣の間取り図を収録した「御本陣絵図」があり、芦野宿の本陣の間取りも今に伝わる[4][5]寛文9年(1669年)3月21日、芦野町から出火し、伝馬役務めの家72軒が焼失したとの記録があり、少なくともこの時期に伝馬役を務める家が72軒あったことがわかる[3]。幕末の最盛期には旅籠は40余に達したとされる[1]

松尾芭蕉おくのほそ道の旅の途中、那須湯本から那須野が原を通って芦野に立ち寄り、遊行柳の前で「田一枚植えて立ち去る柳かな」と詠んだとされる[6][7]

近現代

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1889年明治22年)、町村制施行により、旧芦野宿一帯を中心に芦野町が成立。1954年昭和29年)に那須村伊王野村と合併し、現在の那須町が成立した。

芦野宿周辺では、街道沿いに一里塚や道祖伸の整備、御殿山とその周辺整備などが進められており、2000年平成12年)には、那須町の歴史がわかる「那須歴史探訪館」がオープンした[8]2023年令和5年)には、栃木県内の信用金庫が連携し、県最南端の野木宿から芦野宿まで、奥州街道県内16宿の御宿場印が作成された[9]

宿の構成

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芦野宿は新町、仲町、川原町の3町で構成され、新町の高橋から川原町の芦野橋まで南北約1km(9町27間余)を宿内という[10][4]。両橋際に建つ地蔵尊は宿内への流行病の侵入を防ぐためのものと言われ、新町の地蔵尊は享保2年(1717年)、川原町の地蔵尊は享保12年(1727年)の建立である[11]

幕府が編纂した「奥州道中宿村大概帳」によれば、天保14年(1843年)には、総戸数168、人口350、本陣脇本陣各1軒、旅籠25軒(大2、中9、小14)が軒を連ねたとされる[11]

  • 本陣
    • 代々臼居氏が務める。建物は現存せず、現在の那須屋商店と石の美術館の敷地にあった[11]
  • 脇本陣
    • 吉川屋という旅籠で、現在の商店2軒分の敷地にあった[11]

また、問屋職は、元禄年間に須佐木(現大田原市)から移り住んだ戸村氏の世襲で、問屋場の前には高札場があった。町年寄は安達氏、高久氏、鏑木氏、青木氏らが務め、宿内の直接支配を行った[11]

隣の宿

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奥州道中
越堀宿 - 芦野宿 - 白坂宿
  • 芦野宿・白坂宿間は、宿駅間の距離として奥州街道で最長となっている(最短は佐久山宿大田原宿間)[12]。両宿間にある「境の明神」は「二所ノ関」と呼ばれ、年寄名跡の由来となっている。

脚注

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参考文献

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  • 『那須郡誌』那須郡役所 栃木縣那須郡教育會、1924年10月17日。 
  • 『高札で見る奥州道中 芦野宿』那須町教育委員会、2014年10月11日。 

関連項目

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