『進化思考批判集』批判 ver.2.0.0 後編(「4 『進化思考』を校閲する」の途中 (p.125) ~「終わりに」)
⭐noteの文字数制限 (39万字) を超えてしまったので、ver.2.0.0以降は前編・後編の2つの記事に分割しました。前編は「初めに」~「4 『進化思考』を校閲する」の途中 (p.125) まで、後編は「4 『進化思考』を校閲する」の途中 (p.125) ~「終わりに」になります。なお、どちらの編にも終わりに「参考文献」と「更新履歴」を付しています。また記事内ではこの分割は特に考慮せず、例えば「本稿」というのは前編後編含めたものを意味します。
各種マークや表記・記述ルールは前編の「初めに」を参照して欲しいが、マークについてだけ簡易的に説明する。
「💛💜」重要度マーク。誤りの質や程度、内容の重要度などの観点から特に読んで欲しい項目につけている。💛のほうが読んで欲しい度がより「高い」。
「🔶🔷」下線マーク。noteでは基本的に下線が引けないので、批判集内に存在する下線をこれで表現。例えば、「🔶進化🔶」は「進化」に下線が引かれていることを示す。二色あるのは一色だけだと複数下線が存在するときにどこが挟まれているかが分かりにくいからである。
「📕」『進化思考』追記マーク。『進化思考』を読んだver.2.0.0以降、『進化思考』を読んでの追記部分にはこれを付けて、それ以前のものと区別している。
「4 『進化思考』を校閲する」(伊藤 潤・松井 実) (p.131~)
この章の引用内における地の文の、文章初めの「I」と「M」は伊藤氏と松井氏どちらのコメントであるかを意味する。
| 失敗するくらいなら、やらないほうがましだ。(p.206)
M: 変化の回避は創造性を阻害する、ということらしい。それはそうかもしれないが、進化は(基本的には)変化を嫌う。そのため、失敗するくらいならやらないほうがましだという判断は進化によって得られた形質ともいえる。ヒトの進化においても、進化適応環境EEAではrisk aversion的なバイアスを進化の途上で獲得したらしい。それが生存などに関わらない起業などでも発揮されてしまっているため、もっと起業すればいいのにという意味でrisk takingな行動を勧めることがある。つまり、本能的に勘定するリスクは過大評価しがちなので、努めてその感覚に抗って、「怖く思えるけれど、実際のリスクは今私が感じているものよりも矮小なはずだ」と思えるかが成功の鍵となる、という研究がある。
💛「それはそうかもしれないが」とのことだが、太刀川氏の言っていることには同意した上で、その後言ってることは全部ついでの話ということで良いのだろうか?実際その後言ってることは太刀川氏の言ってることを一切否定しないので。
なお、「進化は(基本的には)変化を嫌う。そのため、失敗するくらいならやらないほうがましだという判断は進化によって得られた形質ともいえる」という推論はおかしい。ここで松井氏が言っている「進化は(基本的には)変化を嫌う」というのはふつう有益な変異よりも有害な変異のほうが多いということについてだと思うが、そういった変異の有益性に関する期待値の話と「失敗するくらいならやらないほうがまし」という行動から得られる利益に関する期待値の話は全く別の話である。要するにおそらく松井氏は伊藤氏がp.180で述べている「媒名辞曖昧の誤謬 fallacy of the ambiguous middle」に近いものをここで犯している。すなわち「変化を嫌う」という1つの語に「有害な変異の方が多い」と「やらない方がましであることが多い」という異なる意味を同居させ、それによって異なる話を繋げているように見える。
また似たようなことを何回か言ってきているが、この本は引用が少なすぎて太刀川氏が何を言いたいのか分かりづらいことが多い。「変化の回避は創造性を阻害する、ということらしい」と後から補足してあるが、初めに引用している文だけでは、太刀川氏自身が「やらないほうがまし」と考えているように一瞬見えるので紛らわしい。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はここの引用部位の直前に「そうした痛い経験によって、人はいつのまにか創造への挑戦そのものを避けるようになる。」(『進化思考』p.205-206) と述べ、また直後に「こうした自己防衛本能による変化の回避や、関係性の無視は、実は創造性を阻害する大きな要因となる。そんな悪循環から抜け出すには、どのように関係と向き合ったらよいだろう。」(同 p.206) と述べており、ここでの太刀川氏の趣旨は主に失敗の"経験"に関するものにあると思われる。したがって、松井氏がここで述べている未経験の挑戦(起業など)に対する防衛反応の話は、その内容そのものは正しいが、太刀川氏の主張へのコメントとしてはややズレている気がする。とはいえ、経験に基づくリスク回避も結局そういったリスク回避一般の思考に内包される訳ではある。
| 思い込みの発生だ。思い込んでしまうと、わかったつもりになって、
| 実はわかっていない自分に気づかなくなる。だから自分とは違うもの
| の見方をする人を見ると、相手が間違っていると考えてしまう。
| (p.207)
I: 第2章で林も絶賛しているが、同感である。この文で締め括りたい。
💜ここまで説明してきたように、この批判集にも多くの誤りが存在する。例えば、「適応」の定義に関する指摘の多くは彼らが歴史的定義しか知らないことによるものであり、しかも第二章で述べたように林氏は本書の執筆の一年ほど前にこの点について指摘されていたのに、それを訂正しないままである。まさに自分が正しいという思い込みが発生しているように思える。(なお、実は伊藤氏と松井氏に関してもこの適応の定義に関する同様の指摘を批判集の執筆前または執筆中に確認していた可能性が高い。詳しくは本稿最後の「終わりに」を参照)。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、伊藤氏の指摘には生物学的・論理的・文章読解的誤りが非常に多く存在する。そしてそういった誤りが存在するという話を批判集出版一年以上前から太刀川氏がしていたのにも関わらず、伊藤氏は批判集において十分な内容の修正(またはどのように太刀川氏の反論を否定できるかの説明)を行っていない。また最近(2026/1/31)になってようやく本稿への詳細な応答記事が返ってきたが[92]、そこで伊藤氏が認めている誤りはなんと「引用における無断下線付加(しかもなぜか林氏ののみ)」「野球ゲームと野球」「ベイツ型擬態におけるケアレスミス(?)」という些末or些細な点3つのみであった。また、同記事内で「「もしかして『進化思考批判集』も信用できないの…?」と思ってしまう人もいるかもしれない。そういう人の不安を取り除くためにも「安心してください、間違ってませんよ」と言っておくのも大切だろう。」というように批判集には間違いがほぼ存在しないかのようなことも述べている。私には以上のことは全く以って理解しがたいのだが、伊藤氏は私の批判のほぼ全てを否定し切れると思っているのだろうか?また皮肉なことに、太刀川氏は騒動当初はやや反発的な対応を取っていたりもしたようだが、最終的には正誤表による訂正や増補改訂版の出版によって自らの誤りの修正を行っている。したがって、私には伊藤氏の方がよっぽど思い込みや固定観念が強いように見えている。以下参考[92][97]。
| 動物行動学(ethology)を確立したニコ・ティンバーゲンは、動物の
| 関係性を理解するために「四つのなぜ」を提唱した。
|
| 1 解剖生理学(内部の機構がなぜ、どのように機能するのか)
| 2 発生学(どんなプロセスで生物が生み出されるのか)
| 3 系統学(どんな歴史的経緯をたどって進化してきたのか)
| 4 行動生態学(生態系のなかで生物がどんな適応的関係を持ってい
| るか)(p.208)
M: 個体発生学を解剖として統合するのは無理がある。発生生物学は解剖の一分野ではない。適応はティンバーゲンの4つのなぜにあてはめれば静的な究極要因にあたる。適応を観察するために予測を加えるのはどういう理由で? ティンバーゲンの4つのなぜは動物の行動を対象にしていて、適応は「この行動にはどのような繁殖・生存上の利益があるのだろうか、という適応の観点からある行動を分析(リバース・エンジニアリング)する」ということであって、「この適応を解剖しよう」とか「この適応を系統にあてはめよう」ということではない。ほとんどあらゆる動物行動は適応の結果であるからといって、ティンバーゲンの4つのなぜが適応を対象にしているということにはならない気がする。学習learningをあてているが、ティンバーゲンの4つのなぜは探究studyingのほうが近いのではないか。時空観とは? 結局、著者の提案する「時空観マップ」とティンバーゲンの4つのなぜには関連はあまりないといわざるをえない。用語の借用と、用語の奥にあるコンセプトの援用には深い溝がある。別物として捉えなければいつまでもティンバーゲンの4つのなぜの表との対応を見出せず苦しむことになる。
I: 「 四つのなぜ」に関してだが、参考文献に挙げられている長谷川眞理子氏の『生き物をめぐる4つの「なぜ」』[44]では「至近要因」「究極要因」「発達要因」「系統進化要因」とされている。そもそも参考文献(p.503)に挙げられているニコ・ティンバーゲンの『動物の行動』[45]には「四つのなぜ」も書いていないように思うが…。
💜まず松井氏の指摘に関してだが、引用部分が少なすぎて何について批判しているのか全く分からない (まず1文目の「個体発生学を解剖として統合する」からしてその対象が存在しない。またそれ以降の「予測」云々についても関係する記述が引用されていない。時空間マップについてもそう)。これまでもそういう傾向が結構あったが、この部分はかなりひどい。批判内容そのものはそれなりに一理ありそうだが、当の太刀川氏の主張が全く分からないので、批判そのものへのコメントは控えることにする。
なお、引用されている部分に関してコメントすると、まず初めの「動物の関係性を理解するため」というのが曖昧でよく分からない。何と何の関係性について考えているのかが不明であるし、そもそも一般にニコ・ティンバーゲンの4つのなぜとは動物の「行動」について理解するためのものである。また4つ目の行動生態学における「生態系のなかで生物がどんな適応的関係を持っているか」についても同様に怪しく、「適応的関係」というのが具体的に何と何の関係を考えているのか分からないが、単に環境へのフィットを語るならば適応的"関係"と言う必要はない。
また伊藤氏の指摘についても意図が今一分からない。ここで太刀川氏が四つのなぜを持ち出している箇所で参考文献として明確にその二つの書籍が挙げられているのに、それと太刀川氏の記述にはズレがあるということを問題視しているのだろうか?もしそうであれば一理ないこともないが、別に引用している訳ではないのであれば、参考文献通りに記述する必要はないだろう。またそういった忠実性に関する問題ではなく、単に「至近要因」「究極要因」「発達要因」「系統進化要因」の方が正しいのではないかという趣旨であれば、それは伊藤氏の理解が浅いだけである。4つのなぜについては分類の命名の仕方に大きく2つの流派があり、太刀川氏と長谷川氏の両方が正しく(あくまで命名問題なので白黒つけることにあまり意味がない。多くの場合文脈的に容易にどちらであるか判別が付くので)、「至近要因↔解剖生理学」「究極要因↔行動生態学」「発達要因↔発生学」「系統進化要因↔系統学」のように対応している。また太刀川氏の命名方法においては解剖生理学と発生学は至近要因、行動生態学と系統学は究極要因としてまとめられる。なお、「~学」という太刀川氏の命名そのものについてはやや一般的命名とは離れた部分もあり(普通はメカニズム・発達・機能・系統進化などと言う)、また「解剖生理学」の「解剖」については不要だと思うが、大枠としてそこまでズレたことは言っていないし、少なくとも伊藤氏はここで長谷川氏による異なる流派の命名法を持ってきているので、その辺の不適切について指摘したい訳ではないようだ。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、ここで太刀川氏はあくまで創造性に関する方法論の話をしているので、個体発生学を解剖として統合することも、ティンバーゲンの4つのなぜを流用することも別にそれほど問題ないだろう。「個体発生学を解剖として統合するのは無理がある。」とのことだが、太刀川氏がその後「なぜかといえば、これらの分析手法がそれぞれ、ミクロ(解剖)からマクロ(生態系)の空間、過去(系統樹)から未来(予測)の時間に対応しているので、時間と空間にわたって適応関係を網羅できるフレームワークだからだ。」(『進化思考』p.209) と述べているように、解剖は生態系での働きというマクロな視点と対比的に置かれており、その観点で解剖生理学と発生学という個体レベルの話を一つにまとめることはそこまでおかしなものではない。また予測を加えることに疑義を呈しているが、上でも述べたように太刀川氏はここで進化思考という方法論の話をしており、例えばここの引用部位のすぐ後に「「四つのなぜ」の方法は、現在の時間軸にフォーカスして生物の生態を理解するには網羅的な方法だが、ここには一つだけ、創造性を語る上で足りないものがある。人は未来を志向する動物であり、創造性や世界のこれからを観察するには、未来を「予測」する観点が不可欠だと私は考える。」(『進化思考』p.208) と述べている。そしてそういった純粋なティンバーゲンの4つの問いとは異なる分析対象のために新たな観点(予測)を加えることは別におかしなものではない。また、松井氏は「結局、著者の提案する「時空観マップ」とティンバーゲンの4つのなぜには関連はあまりないといわざるをえない。用語の借用と、用語の奥にあるコンセプトの援用には深い溝がある。別物として捉えなければいつまでもティンバーゲンの4つのなぜの表との対応を見出せず苦しむことになる。」と述べているが、対象を多角的に分析するという点では似通っている訳なので、別に強く否定されるようなものではないだろう。
また伊藤氏の指摘に関してだが、太刀川氏はこの付近で『生き物をめぐる4つの「なぜ」』と『動物の行動』を引用・参考文献として明確に挙げている訳ではない。太刀川氏は巻末にて「参考文献」と「出典一覧」を分けて記しており、上記二冊は前者に該当するが、「参考文献」は本文と明確に紐づけられている訳ではない (一方、「出典一覧」に該当する文献は本文中に出典番号が付されている)。したがって、参考文献と太刀川氏の記述に多少表現のズレがあっても特にそれが即問題である訳ではない。また、ニコ・ティンバーゲンの『動物の行動』には「四つのなぜ」は書いてないのではないか云々についても、長谷川氏の『生き物をめぐる4つの「なぜ」』において四つのなぜはニコ・ティンバーゲンによるものであるという趣旨のことが書かれているので[70]、別に『動物の行動』に四つのなぜが書いてなくても特に問題はない(またそもそも上記した通り長谷川氏の書籍にそれが書いてなくても特に問題ない)。
また、読み返して気付いたが、松井氏の「ほとんどあらゆる動物行動は適応の結果であるからといって」という記述における「適応」はプロセス的定義ではないだろうか?私個人的としては、本人が意味の違いを自覚できているのならば、適応の意味が個人内で文脈(または使用法)によって変わることは特に問題ないと思っているが、「自然選択によって適応が生じる」(p.20) や「進化学における適応は自然選択の結果生まれる環境への適応のことであって」(p.91) というように単一的な定義のみを採用する立場を取るのであれば、複数定義の混用は批判対象となる。「適応」を自然選択の結果としての形質と定義するのならば、「適応の結果」という記述は「自然選択の結果の結果」というおかしな記述になる。なお、ここで松井氏が「適応(的行動形質)」を個体に内在する性質として定義し、また「動物行動」をその内在的性質に基づいて表出される個々の行動として定義しているのであれば、「動物行動は適応の結果である」というのを「歴史的定義としての内在的な適応的行動形質によって個々の行動が結果的に表出される」というように整合的にも読むことは可能ではある。しかし、そのような分割的な定義は一般的ではない。動物行動学において「行動」といったときには多くの場合それは「行動形質」も含意する。
| そして四つの観点が揃うことで初めて、現在の事象を網羅的に理解で
| きるのだ。(p.209)
M: 進化生物学は基本的には未来をうまく予測しないので、現代の生物学は生物を網羅的に理解できないということだろうか。
これに関しては松井氏が何を言いたのか全く分からない。なぜなら、まずそもそも太刀川氏は引用されてる範囲では「予測」については何も語っていないし、「現代の生物学は生物を網羅的に理解できない」を意味するようなことも全く述べていないように見えるからだ。たぶんこの部分も引用不足ではないかと思われる。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、1つ上の追記でも述べたように、ここで太刀川氏は未来をも見据えた話をしており(「「四つのなぜ」の方法は、現在の時間軸にフォーカスして生物の生態を理解するには網羅的な方法だが、ここには一つだけ、創造性を語る上で足りないものがある。人は未来を志向する動物であり、創造性や世界のこれからを観察するには、未来を「予測」する観点が不可欠だと私は考える。」『進化思考』p.209)、これは単に現代の生物学を否定している訳ではない。太刀川氏が述べているようにティンバーゲンの4つの問いが分析対象とするのは、「現在の行動形質(もっと汎用的に用いるならば形質)」であり、その分析対象が未来にも有効かどうかは特に考えない。したがって、「現代の事象」という表現がややミスリード的ではあるものの、未来における有効性も踏まえて現在の事象を評価するという太刀川氏の意図に特に問題はない。そういう訳で、以上のような意図を理解した上で敢えて「現在の事象」という表現について指摘しているのであれば問題ないが、もし仮に以上のような意図を全く読み取れない故の指摘であるのならば、それは本の評者としては少々力不足であると感じる。
| 時空観マップ:時空観学習の4つの観点(p.210)
I: 外部―内部、過去―未来の2軸自体は良いと思うので、生物学の援用は全く必要ないだろう。「予測」は生物学ではない。
これも引用が少なすぎて太刀川氏の主張がよく分からない。4つの観点そのものは分かったが、ここでも「予測」とは何のことなのか全く述べられていない。
📕『進化思考』を読んだので追記する。時空間マップというのは以下のようなものである(画像4)。それで2つ上の追記で述べたように、対象を多角的に分析するという観点では似通っている訳なので、4つの問いを援用することに特に不適切性はないだろう。「生物学の援用は全く必要ないだろう」とのことだが、この程度で「全く必要ない」と言われてしまうのならば、世の中の多くのアナロジーが否定されてしまう。また「「予測」は生物学ではない」とのことだが、生物学の範疇であれば予測することも当然可能である。例えば、保全生物学は分かりやすく予測に焦点を当てている生物学分野だろう。またそもそも太刀川氏はここで創造性に関する方法論の話をしているのであって、純粋に生物学における分析手法の話をしている訳ではない。
| 私の目標の一つは、時空観学習の四つの軸を、現在の義務教育のカリ
| キュラムに導入してもらうことだ。(p.212)
M: ぼくのかんがえたさいきょうの教育法だ。EM菌、江戸しぐさ、水の記憶の類だ。当書のように完全に間違った進化学の理解を子どもに教えるのだけはやめてほしい。自己啓発スピリチュアルデザインセミナーはそれ相応の聴衆が(主に企業などに)いるはずだ。疑似科学は20歳になってから。
💛太刀川氏が進化を完璧に理解している訳ではないのは確かだが、完全に間違っているとは別に言えないだろう。ここまで指摘してきたようにこの批判集には著者らの理解不足に基づく誤った指摘が数多く存在する。したがって「完全に間違った進化学の理解」というのは松井氏のただの思い込みである。例えば「適応」の定義に関する指摘は、批判集の著者らが歴史的定義しか知らないことによるものであり、そうであるのに「当初の最大の誤り」などとまで批判してしまっている。果たして「完全に間違った進化学の理解」などと他人に言っている場合なのだろうか?(「適応」や「進化」に関して、その定義の複数性を無視して自分の考える定義以外は誤りとする批判集の著者らは、私からすれば「ぼくのかんがえるさいきょうの適応・進化」に拘泥しているように見える)。
またそもそもここで太刀川氏は進化学そのものではなくてあくまで思考法について言っている気がする。したがって「完全に間違った進化学の理解を子どもに教える」という指摘はやや不適切ではないだろうか?(時空間学習の四つの軸または進化思考について語る上で一般的な進化学の話が多少入る可能性があるのはそうだが)。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、直前の追記でも述べて来たようにここで太刀川氏はあくまで創造性に関する方法論の話をしている。また時空間学習も、そしてその元となっているティンバーゲンの4つの問いも、特に「進化」に限定した話ではない。ただ、上でも述べたように、時空間学習を教える際に進化学に関する話が付随する可能性はあり、かつ太刀川氏の進化理解に間違った点があることも確かだが、「完全に間違った進化学の理解」というのはやはり松井氏の理解不足に基づく行き過ぎの誤った認識である。
あと、「自己啓発スピリチュアルデザインセミナー」というのはだいぶラインを超えていないだろうか?私は『進化思考』をスピリチュアルと評するのは明らかに言い過ぎだと思うのだが (「適応の愛、変異の力」(『進化思考』p.450-451) や「コンセプトの受精」(同 p.452-454) など本当に一部分だけそういったスピリチュアル的とも言えなくもない話はあるが、それもあくまで比喩的であり、程度としてそこまで強くないし、本全体の割合としても極小に過ぎない)、松井氏は本当にスピリチュアルに該当すると思ってそう述べたのだろうか?もし本当にそう思って述べたのであれば、それは松井氏の深刻な読解力不足であるし、そうは思っていないけど勢いで誇張的に述べてしまったのであれば、それは評者(及び研究者)として極めて不適切な行為である。以降の部分(p.164-165)でも松井氏は太刀川氏の主張を不適切にスピリチュアルと批判しているが、こういった学術的に誠実とは言えないような軽々しい批判に果たして存在価値はあるのだろうか、と私は思う。こういった軽々しい批判も現在の法では多くのばあい批評や論評などとして扱われ擁護される訳だが、こんな主張は本来擁護するに値するものではないし、学術の場における発言の自由の価値をタダ乗り的に棄損しているように思う。そういう訳で、学術の場における発言の自由の価値をボトムアップ的に保つためにも、こういった不適切な主張は批判されるべきであると私は考える。しかし、第三章p.75への指摘でも述べた通り、本件において多くの研究者や専門家等は批判集その他諸々に同意・賛同するばかりで、不適切な主張に対して指摘や批判を入れていないのである。(これに関しては「あとがき」p.354への指摘でも同様のことを述べる)。
| 生物学における解剖は、次の三つの考え方に大別できる。(p.223)
I: 根拠が不明。形態学的な解剖に尽きると思うが。少なくとも「3 要素がどのように発生するのかを理解する―発生学的な解剖」は時間軸に沿った「形態学的な解剖」では。
ここも引用不足である。批判の妥当性を検討できるようになっていない。「根拠が不明」と主張するならば、最低限どう三つに大別しているか引用すべきだろう。なお若干引用されている3番を見るに、太刀川氏がここで言っている「解剖」は生物学で普通言う意味での解剖ではなく、「細胞や組織、器官など生物体の中身について観察および実験すること一般」という意味であるような気がする。ただこれは「3 要素がどのように発生するのかを理解する―発生学的な解剖」が発生学的な操作実験を含む場合の話であり、もし単に発生段階の異なる対象を比較して観察することについて言っているのであれば、太刀川氏の云う「解剖」は生物学における一般的な意味と同じかもしれない。また「少なくとも「3 要素がどのように発生するのかを理解する―発生学的な解剖」は時間軸に沿った「形態学的な解剖」では」とのことだが、発生に関する視点も持って(またそういった目的を持って)解剖しているのであれば、それは発生学にも絡みうる話ではあるので「発生学的な解剖」というのは別に誤りとは言えないだろう。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、ここで太刀川氏が云う三つの大別というのは「1 内部にあるモノを分類して形態を観察するーーー形態学的な解剖」「2 各部位がなんのためにあるのかを理解するーーー生理学的な解剖」「3 要素がどのように発生するのかを理解するーーー発生学的な解剖」(『進化思考』p.223) である。また、ここが「時空間学習」における「解剖」のパートであることを踏まえるに、ここで太刀川氏が云っている「解剖」というのは厳密に生物学的な意味での解剖学としての解剖ではないと思われる。したがって、ここでの「生物学における解剖」というのは誤解を生む表現ではある(「生物学における解剖的分析」とかなら問題ない)。ただ、個体を分解して内部要素レベルで形態やその機能及び発生理由を分析するという視点そのものは特に問題ないし、それを「解剖」(ここでは解剖学の意味でのそれではなく一般的な意味での)という言葉で括ることもそこまで問題はない。また、生理学や発生学は解剖学的な観察に関連して個々の対象の機能や発生過程を考える中で分化・発展してきた面もある分野なので、そういった点からも広い意味での「解剖」として括ることはそこまで的外れなものではないだろう。
| 生物も無生物も共通して、それぞれの膜ごとに要素がコンポーネント
| になっているので、臓器移植やコンピューターのメモリ交換のよう
| に、それらを交換することができる。(p.226)
M: 生物も無生物もコンポーネントを交換できるということになっているが、交換可能なモジュールの単位として臓器をだしてくるのはさすがに無理がある。臓器は自然科学の発展によって人工的に無理やり交換できるようになったのであって、生物全般でいえば臓器は交換できないものの代表である。逆になにであれば交換可能なのかといえばたとえば体細胞があげられるだろう(とはいえ色々条件が揃わないと正常に交換できないが)。造血幹細胞などでは細胞というモジュールを壊してはまた新しい細胞を作っている。臓器は不全に陥れば基本的に死あるのみだ。蟻の足は要素がコンポーネントになっているが、一度失えば二度と生えてこない。
💜臓器も交換可能であることは確かなので、「さすがに無理がある」と言うほどではないだろう。別に「非人工的に」とか「簡単に」とか言ってる訳でもないので。最後の蟻に関しては、少なくとも引用範囲内では太刀川氏は別にあらゆるコンポーネント的器官が交換可能と言っている訳ではないので、明確な反例とはならないだろう。また「一度失った後にまた生えてくるか否か」という観点も「交換可能か否か」という太刀川氏の話とはズレている気がする。再生可能性と移植可能性は関係していない訳ではないが、一般にある器官の再生不可能性がその器官の移植不可能性を含意する訳ではない。例えばよく知られるように腎臓は一度不全となると基本的に自力では再生しないが、腎臓は移植可能であり、移植されることでその人は腎機能を取り戻すことができる。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、確かに引用部位のみを見ると、あらゆるコンポーネントが交換可能であるという解釈も不可能ではないが、この前後含め全称を示す強い表現がある訳でもないので、全称命題として解釈する必要はないだろうし、実際太刀川氏もそこまで強いことが言いたかった訳ではないように個人的には思う。また、松井氏は造血幹細胞を代案として挙げているが、今は部品的に異なるものに交換する(取り替える)話をしている訳なので、造血幹細胞は不適切ではないだろうか?造血幹細胞のそれは交換ではなくて「変換」である気がする。
| つまりテーブルと食事は、目的のベクトルで繋がれている。(p.230)
M: 目的のベクトルとは? 目的のベクトルで繋がるとは?
「つまり」の前から引用してもらわないと文脈がよく分からない。おそらくだが、太刀川氏は「目的 (機能) の観点で関係している」というようなことを言いたいのではないだろうか?
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏は引用部位の直前に「それぞれのモノの目的(なぜそれはあるのか=WHY)は、他のモノや状況に働きかける。そのため、パーツそれぞれの目的にはベクトルのように繋がりの方向性がある。テーブルの天板の意味は「モノを置くための平らな面」だが、この目的は「上に置くモノ」があってこそ生まれる。そのため、何も置かなければ天板単体では意味をなさない。」(『進化思考』p.230) と述べており、また直後に「この目的のベクトル、すなわちモノや人の関係は、創造の背景にある見えない繋がりの正体だ。」(同 p.230) と述べている。したがって、ここで太刀川氏の云う「目的のベクトル」というのは私が上で推測したように、ある二つの対象が目的(機能)の観点で関係していることを述べているように見える。すなわちこの場合、例えば、ある対象がどのような目的で別の対象を必要としているか(テーブルの話で言うならば、テーブルの天板がどのような目的(「モノを置くため」「上に乗るため」「モノを弾ませるため(卓球とか)」「モノを滑らせるため(おはじきとか)」など)で別の対象を必要としているか)としてベクトルの方向を定義し、ベクトルの大きさはその目的における対象物との関係性の近さ(例えば、テーブルの天板は「モノを置くための平らな面」という目的で「皿」と強く(小さなベクトルで近く)繋がっている一方、同じく「モノを置くための平らな面」という目的でも「岩」とは弱く(大きなベクトルで遠く)繋がっているといえる)と定義することができそうである。ただ、『進化思考』p.232の図13-8「解剖生理学マップ」(下記の画像5)においては、「目的のベクトル」と明示されている訳ではないものの、曲がりくねった矢印(「WHY(モノの目的)」)によって椅子のパーツや構造らが目的を介して繋がっており(またはパーツや構造の目的そのもの同士が繋がっており)、これを見るにあまり厳密に方向や大きさを定義している訳ではなさそうはある。ただ、階層的な距離というのはある程度ありそう、かつ単方向という方向性は存在する(この点で単なる繋がりである「モノの構造」(図13-8のWHAT)とは違う)という点ではベクトル的な要素は多少存在するので、「目的のベクトル」と表現することが全く的外れという訳ではないだろう (厳密な意味でのベクトルの方向に関しても、個々の対象の位置ベクトルの差として考えれば図13-8で示しているような繋がり的な矢印を表現することはできそうではある。ただそのベクトルの方向に何か意味があるかと言えば微妙だが)。そういう訳で、太刀川氏が実際どのように考えているのかははっきりとはしないが、ある程度のざっくりした意味は以上のように容易に推測できる。したがって、「目的のベクトルとは?」「目的のベクトルで繋がるとは?」という松井氏の問いが、「何となくの意味は分かるけど、ちゃんと詳細にベクトルを定義して欲しい」という意図のものであれば、それそのものは問題ないが、もし仮に「大まかな意味も含め一切理解できない」という意図なのであれば、それは本の評者としては読解力不足だろう。なお、図13-8の上にある「進化のワーク17」には「2 目的(WHY)は、必ず何かと関わるためにあるので、働きかける方向性があるはずだ。要素同士が補い合う適応関係を、矢印で繋いでみよう。」(『進化思考』p.232) といった説明もある。
なお、太刀川氏はこのパートで元々解剖生理学、すなわち分解した内部要素らの機能について話をしており、そうしたとき「テーブルの天板」と「上に置くモノ」に繋がりを見ることは不適切であるようにも見えなくもないので(解剖という観点なので内部パーツ同士の関係性を見るべきとも言えるので)、もし仮に松井氏の指摘がこの点に引っかかっている故のものであるのならば、その意図そのものも問題ない(しかしそれが分かるような指摘内容にはなっていない)。
それと、ここまでも何度か述べてきたが、批判本として成立させるためには読者がその批判の妥当性をちゃんと判別できる必要があり、今回の例で言えば、今私が引用した程度の範囲をちゃんと引用する必要があるだろう(少なくとも松井氏が引用している一文だけでは少なすぎる)。また松井氏自身の主張も短すぎて、松井氏が何に引っかかっているのかよく分からないので(上記したように太刀川氏の云わんとしていることそのものはある程度は普通読めるので)、もう少し詳しく説明すべきである。こういった「狭すぎる引用範囲」及び「説明の足りなさ」は批判集の質を下げる要因の一つである。
| すこし抽象的な話になるが、目的にも入れ子構造があることを補足し
| ておきたい。たとえば、テーブルの天板の目的が「モノを置くための
| 平らな平面」なら、その奥に広がる意味をさらに問いかけてみよう。
| (p.230)
M: この記述じたいは正しいと思う。しかしここでは解剖をとりあげており、個体発生学と生物の機構というHOWを問う観点を(「解剖生理学」)を解剖として集めているのだから、目的(機能、適応的な視点)はスコープ外のはずだ。「なぜこの人工物(テーブル)はこういう機能(「平面を提供するため」「モノを置くため」「食事を便利に扱うため」)があるのか?」を考えるのは機能・適応を考えるフェーズでやるはずだ。つまりこのパラグラフは「生態」のところで展開するべきだったのではないだろうか。ティンバーゲンの4つのなぜを自ら取り上げているが、正確に援用できていない。ティンバーゲンの4つのなぜは、対象を深く知るためのフレームワークであって、対象を改善するためのフレームワークではない。深く知ることで改善に結びつけることができる、という主張はよくわかるし私もそのとおりだと思うが、「対象を知る」と「対象を改善する」はそれこそ混じり合うことのない、振り子の両極端だと思う。
I: 目的に「入れ子構造」という語を使うところに筆者のオリジナリティを感じる…。こういった「顧客が欲しいのはドリルではなく穴」[46]的な話の場合、「上位目的」や「メタ思考」のように、上あるいは外という感覚を用いることが多いように思う。またその際に一般的に用いられるのは「入れ子」ではなく梯子だろう。長谷川眞理子氏がよく「入れ子構造」の語を使う[47][48]から使いたかったのだろうか。
伊藤氏の指摘に関してだが、文脈がはっきりとは分からないものの、別に入れ子構造で問題ないのではないだろうか?「「モノを置くための平らな平面」なら、その奥に広がる意味をさらに問いかけてみよう」と言っているのだから、何を何のために置くのかといったようにテーブルの階層的な機能(目的)に関する話であるように見える。そしてもしそういう話であれば入れ子構造で問題ないし、むしろ「上位目的」や「メタ思考」は不適切なようにも思える。また梯子がより一般に使用されるというのも個人的経験としては特に無く、感覚的にもそっちの方がより分かりやすい表現とは特に思わない。また長谷川真理子氏が使っているかどうかは私は知らないが、「入れ子構造」は一般に普通に使用される言葉である。
📕『進化思考』を読んだので追記する。松井氏の指摘についてだが、確かにこの部分は太刀川氏が目的を外に拡大し過ぎているようにも見える。ただ、「平面を提供するため」といった低次のレベルの目的であれば、それはテーブルの天板の機能として認められるものであり、問題はないように見える。なお、松井氏は「解剖生理学」で扱うのは機構(メカニズム)であって機能(ファンクション)ではないとも言っているが、後のp.138-139の指摘部位で私が述べているように形態の機構と機能は区別が曖昧なことも多く、その辺がマージされていることも多い。例えば、天板の機構を正確に述べるならば「適度に摩擦がある水平で頑丈な板状の物体」とかになるのだろうが、こういった説明は厳密過ぎるため、「水平面を提供するような物体」といった機能的説明でまとめられることが多いだろう。実際、松井氏も批判集p.139にて水中生物の流線型形態に関して「ある機構(たとえば水中生物に共通する流線型)がどのように(HOW)機能しているか(流線型が抵抗を少なくし、同じスピードで泳ぐ際のエネルギー消費を抑える効果がある)という機構的な観点」と述べており、機構と機能をマージしてしまっている(この辺については該当ページで詳説している)。また、これは別の観点で言うならば、どのレベルを考えるかで「機構」か「機能」かは変わるということだと思う。すなわち、高次のレベルでは機構されているものも低次のレベルでは機能となり得るということである。例えば、人間の各臓器の働きは行動を語る上では機構(の一要素)であるが、臓器そのものを語る上では機能となる(そしてこのとき臓器内の組織の働きは機構(の一要素)であるが、組織そのものを語る上では機能である)。より一般に言うと、ある対象の働きはその対象そのものを語る上では機能であるが、その働きが部分となるより高次の対象を語る上では機構になる、ということである。
また改善云々についてだが、太刀川氏はここのパートで特に改善のみを目的として4つのなぜを用いている訳ではなく、松井氏がここで言っているように、まず知って、その後それをどう改善していくかという話をしている訳なので何も問題はないように思える(例えば、『進化思考』p.228では「創造の内部も生物と同じように理由の集積になっているので、解剖によって要素の繋がりを理解すると、その本質が見えてくる。知っているつもりのモノでも、解剖して要素同士の関係を考察すると、はるかに短時間でその本質が理解できるようになる。」と述べている)。また、「対象を知る」と「対象を改善する」が別物というのはその通りだが、「振り子の両極端」というのには同意できない。両極端とするならば何らかの同一尺度に置く必要があるが、私にはそのような尺度は全く思い付かないため、単に松井氏が勢い余った喩えによって太刀川氏を誇大に批判しようとしているように私には見えてしまっている (例えば、「知る」の反対は「無知」や「無関心」、「改善する」の反対は「改悪する」「放置する」といったような対比が考えられるが、「知る」と「改善する」を両極とする対比尺度は私には思いつかない)。また一点補足すると、太刀川氏はこの辺の目的の入れ子構造の話を、「すこし、抽象的な話になるが、目的にも入れ子構造があることを補足しておきたい。」(『進化思考』p.230)というように補足的に話し始めているので、ここは純粋に解剖生理学的な話ではないという読み取りも可能ではある。
なお、上では「上位目的」という表現は不適切ではないかと述べたが、太刀川氏自身もここ付近で「上位の目的」という表現を使っており(「すると「皿などが置けるので、食事を扱うのに便利だ」という上位の目的が見える。」(『進化思考』p.230))、そのように入れ子構造そのものではなく、単に上下関係を述べたい場面ではそれでも問題ないだろう。また太刀川氏はここの解剖生理学パートだけでなく、その一つ前の形態的な解剖パートでも「入れ子構造」という表現を使っており(「複雑な機構を機能させるために、内側と外側を分ける膜が何層にも重なった入れ子構造となっていて、部位ごとに別の役割を果たし、それが連携して全体が機能している」(『進化思考』p.226))、そしてそちらはマトリョーシカ人形的に自然な表現である。したがって、ここの解剖生理学パートでも「入れ子構造」を用いているのは他の箇所と同じような思考フレームで考えたいとかであって、別に長谷川眞理子氏がよく使っているからとかそういう訳ではないように感じる。
| こうしてモノに秘められた目的は、入れ子構造の内側から外側へ向か| って広がっていくのだ。(p.231)
I: やはり「外側へ向か」う感覚だったようだ。入れ子構造nestingは「ファイルシステムのディレクトリ構造」(p.226)のように下位や内側に意識の向かう表現である。「重くなる」ことを「軽さが減る」とわざわざ表現しないように、「内側から外側へ向かって広がっていく」ことを述べるのに内向きの方向性を持つ「入れ子」の語を用いる必要はあるまい。「多層の構造」(p.231)もしくは「多層構造」で十分な筈だ。
そもそも「入れ子構造」という語が多義的である。元々の「マトリョーシカ人形」(p.225) のように物理的な「入れ子構造」は相似形(正確にはオフセットした形状)を重ねるものだが、プログラミングでは再帰的な構造を指す。長谷川眞理子の言う「入れ子構造」[47]は「コンポーネント」(p.231)や関係代名詞のように、関係する複数の要素をひと括りにするものだ。こうみるとあまり良い語ではない気がしてきた。
💜これに関しても引用部の前がないので、「こうして」というのがどういうものなのか分からない。引用は適切に行って欲しい。また入れ子構造が「下位や内側に意識の向かう表現」であるというのは個人的には特に同意できるものではない。単に似たようなものが多層的に包含されているという意味で私は理解しているし、普通そうではないか?確かに下位や内側に意識が向かう意味を読み取ることは可能だが、それは別に外側に意識が向かう意味を否定するものではない。また代案として「多層構造」を提示しているが、多層構造は単に多層であること (上下関係) を言っているだけなので包含関係 (内外関係) の意味は特に持たず、したがって不適切ではないだろうか?
また「「入れ子構造」という語が多義的である」に関しては、結局どれも再帰的に包含する意味を持つ訳なので特に問題はないだろう。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの引用部位の直前に「こう考えれば、人はテーブルを買うとき、平面を買っている訳ではないことが分かる。「コミュニティが信頼関係で結ばれる場をつくる」という本質的な視点に立ってテーブルを設計すると、デザインの結果はまったく異なるモノになるだろう。」(『進化思考』p.231) と述べている。したがって、太刀川氏はモノ同士の関係から人や社会との関係へと目的が広がることを「内側から外側」としていることが分かる。ただ、これは元々こういう入れ子構造が存在可能性としてはあるけど普段はそれを意識できていないのでそれを問いによって発見するという認識的な話に過ぎず、この場合入れ子構造という語はあくまで「構造」を意味しているに過ぎない訳なので、内側から外側へ向かって広がっていくことを述べるため(だけ)に「入れ子構造」という表現を用いるのはおかしいという伊藤氏の指摘は不適切であるように思う。
あと「「重くなる」ことを「軽さが減る」とわざわざ表現しないように」に関してだが、もしこれが「「軽さが減る」という表現は純粋に変」という話ならば、「軽くなくなる」という表現であれば自然であるし、実際世の中でも使用されている。すなわちその場合「逆×逆」という表現がおかしい訳ではなく、単に伊藤氏のそれがコロケーション的に不適切なだけである。またそうではなく「「軽さが減る」という表現そのものには違和感はないけど、単に「重くなる」と言えば良いじゃないか」という話ならば、「逆×逆」という表現が生きる場面もある訳なので、それは別に一般的に言えることではない。
| 自然選択 張力――それは関係と形が一致するか(p.236)
M: 自然選択としての張力などというものはない。物質や構造が十分な時間をかけるとある安定な形状に落ち着くことは確かにあるし、それが自然によるデザインであるということができるということに関してはよいと思うが、それと進化学における、集団を篩にかける自然選択を結びつけるのは無理がある。皮肉でもなんでもなく、この「自然選択」アイコンはなんのためにつけているのだろう? カッコつけだろうか…。学術用語を適当に散りばめればカッコつくとは私には思えないのだが。
これに関しても引用が少なすぎる。これだけでは太刀川氏の言いたいことがほぼ何も分からない。太刀川氏がここで云う「張力」というのが自然選択によって環境にフィットした安定状態について言っているのならば全くの的外れという訳でもない気がする。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、まずここでの「自然選択」というのは、ここで松井氏が記述している通りの表記ではなく、縦書き二行で書かれた正方形上の「自然選択」が四角く線で囲まれたアイコン状のものである(画像6)。松井氏も「この「自然選択」アイコンはなんのためにつけているのだろう?」とアイコンに関しては述べているものの、批判集のみを読んだ人にはこれは全く分からないだろう。松井氏の表記では、張力そのものが自然選択の一種だったり、私が上で予測したように自然選択の様相を張力的に喩えているかのように見えてしまうが、ここまでの文脈とアイコン性を考えるとこれは何らかのコーナーとして見るべきものだろう。そして『進化思考』ではこれ以降も「生産性」「天敵」「ニッチ」といった対象を同一の自然選択アイコン下で説明していること、またそれらの説明には創造における話も入っていること、及び進化思考の重要概念である「適応の思考」を踏まえるに、ここでの自然選択アイコンは、創造において(非歴史的定義的)適応の観点からアイデア群を選択する「篩(ふるい)」の紹介コーナーであることを意味している可能性が高い (そして実際、太刀川氏はここの第三章「適応」の最後のまとめにおいて、この自然選択アイコンの項目に関して「このチェックリストは、生物進化を導いた自然選択のさまざまな適応的理由を、進化思考の時空間学習に基づいて抽出したものだ。」「これは生物のみならず、人工物の創造やイノベーションにおいても同じ観点の選択圧が自然発生している。変化する時代を生き残る創造を作るためにも、私たちが胸に刻んでおくべき本質的な観点だ」(両方とも『進化思考』p.438)と述べている)。そういう訳で、以上のようなことは本全体の文脈などを考えれば容易に予想がつくと思うのだが、もしこういったような解釈を本当に全く思いつかなかった故の指摘であるのならば、申し訳ないが本の評者としては力不足と言わざるを得ない。なお、松井氏がアイコン表記を正確に記述していないことに関しては、そうしていないのは批判集上で再現できない(またはそれが難しい)からであるとは思うが、そうであるならば「本来は~だが、ここでは~と表記した」といったような説明をちゃんとすべきである。こういった説明がないと読者は誤読してしまう。また、上記したようにこの自然選択アイコンがその後も何回も出てくることも述べるべき情報だろう。なお、下記するようにここの「張力」パートの内容そのものに関しては不適切さはある。
| さまざまな幾何学的構造を持つことで知られる放散虫の一種に、カリ
| ミトラという生物がいる。カリミトラの構造はまさに、泡そのものの
| 形だ。(p.237)
M: このことと、放散虫などの生物の形状に泡のような構造が現れることの間に関連はない。泡は最小の材料で作れるので、進化上も有利の構造となりうる、という記述はそのとおりだと思うが、だからといって張力が直接自然選択と関係があるわけではない。同じ物理法則に従うこの宇宙で、1)自然選択が最小の材料で作れるようなある特定の形を選好した結果似たような構造が生物にも非生物にも現れたか、2)発生の際に泡と同様のメカニズムで構造をつくるように進化したか、その両方であるだけで、張力が自然選択の決定要因であるわけではない。この反論の記述そのものが意味のわからない文章になってしまっているが、当書にそのように書かれているのだから仕方ない。生物の「形態はどのようにして決まるのか」に対して、「張力こそが、あらゆる形態を決定する鍵となるのだ」と記述されている限り、反論はこのような書き方になる。張力はあらゆる形態を決定する鍵とはならない。
📕この辺の「張力」パートを純粋に張力に限って評価するならば、確かに不適切な部分があるのはそうだが、曲面的な物理構造一般(特に強度/材料比の観点)について述べているとすれば、そこまでズレたことは言っていないと思う。松井氏は「1)自然選択が最小の材料で作れるようなある特定の形を選好した結果似たような構造が生物にも非生物にも現れたか、2)発生の際に泡と同様のメカニズムで構造をつくるように進化したか、その両方であるだけで、張力が自然選択の決定要因であるわけではない。」と述べているが、一つ上の指摘部分で述べたように太刀川氏はここで自然選択の要因となる性質・現象について述べている訳なので、たしかに「あらゆる」形態を決定する鍵となるというのは言い過ぎだが、鍵となることもあるという程度であれば一応受け入れられるものではある。
| アントニオ・ガウディの代表作であるバルセロナの教会「サグラダ・
| ファミリア」の構造は、このカテナリー曲線をもとに設計されてい
| る。(p.239)
M: カテナリー曲線はロープを垂らしたときの曲線であって、ガウディが有名な鎖や糸と重りで模型を作ったのはカテノイド(曲面)である。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
カテナリー曲線や泡の張力(p.238)は生物学の文脈で言うところの自然選択とは全く関係がない。泡のような幾何学的構造を生物が獲得したのは、カリミトラCallimitraならカリミトラの集団において変異・継承・適応度の差によってカリミトラの遺伝子に選択圧が生じたからだ。もし泡の形態が自然選択の産物であると論じたいのなら、泡一つ一つを無理やり生物個体に準じる個体に見立て、それらにバリエーションがあり(これは実際生じるだろう。大きさや位置、形、不純物の具合など)そのバリエーションによって泡の生存率に差があり(これも一応ありうる。不純物が多い泡は潰れやすい、など)、もしくは繁殖率に差があり(これはありえない。泡は繁殖しないし、一度できたら静的な環境であれば基本的には個体数は減るばかりだ。常に外部から泡を発生させ続ける機構があれば別である)、しかもその特徴が次の世代に継承されなければいけない*、ということを論じなければいけない。このように、裏付けとなるメカニズムの精査なしに理論の適用範囲を闇雲に広げてもアナロジーが弱まるだけでなく、牽強付会の印象を与えるだけではないだろうか。
📕上でも述べたが、この辺で太刀川氏が言っているのは自然選択の要因となり得る性質・現象の話であるので、泡的な張力があらゆる形態を決定付けるかのような記述は確かに誤りだが、曲面的な構造そのものに関して見れば自然選択と全く関係がないとは別に言えないだろう。またカテナリー曲線云々についても、私は建築についてはよく知らないが、それが耐久性などの観点で利点があったりするのであれば、そういった構造性はデザインの選別において「篩」となり得るのではないだろうか?また太刀川氏が「一説によれば、人が最も美しいと感じる曲線はカテナリー曲線だと言われている。」(『進化思考』p.238) と言っているように、シンプルに美の観点から言っても、デザインではそれが一部選別の要因となることはあるだろう(こういった美の観点は進化思考の主旨とはややズレるものではあるが、どういったデザインが世の中では美的に好まれるかという観点もデザインにおいてはやはり必要なものだろう)。
| 私は、デザイナーには暗黙知としての張力感があると感じている。
| (p.240)
I: 「張力感」という感覚を否定はしないが、さすがに文字のカーニングとカーデザイナーの空力に対する感覚を一緒にするのは無理がないか。そもそも科学的な泡やカテナリー曲線などの記述に続けて「張力観」という視覚的な感覚の話を続けてしまうことで、一気に擬似科学感が発生してしまっている。
「「張力観」という視覚的な感覚の話」とのことだが、視覚的な感覚の話とは別に一般には言えなくないだろうか?私は太刀川氏の云う「張力感」をはっきり理解できている訳ではないが、「張力」とはあくまで元々は物理学的な力な訳なので、視覚的な話に張力感という語を用いているからと言って、それは「張力感」という概念そのものが視覚的な感覚に限定したものであるとは別に言えない気がする。とはいえ、この辺の太刀川氏の張力云々の話が分かりづらく、また一部的を外しているように見えるのも確かである。
| 自然選択 最適化――それは徹底的に無駄がないか(p.241)
M: 自然の世界での最適化(エネルギー最小化)と、自然選択による最適化と、人工物の改善プロセスでの最適化(なにかの、多くの場合数値的な評価基準を改善するための方策)は似ている点よりも異なる点のほうが多い。自然の世界での最適化は、自己組織化のような条件が揃えば自ずと独特の形態をとり、それがあるパターンを形成する、というものだろうし、自然選択による最適化は適応度地形上を変異によって探索するプロセス(最適をめざすのであって最適であるわけではない。進化は完璧な生物を産まないというのは当書の指摘する通り)だし、人工物改善プロセスでの最適化は境界条件をはっきりさせたのちの(つまり問題設定がはっきりしており、ある数値を改善するためにチューニングできる変数も多くの場合限定される)試行錯誤プロセスで、問題設定次第では厳密最適解にたどり着ける場合もあるだろう。しかし当書ではこれらは明確に区別されておらず、「自然界には最小になろうとする小さな圧力がまんべんなく働いている」という曖昧な説明がされる。何が最小化されるのだろうか?たとえば煙は放っておけばどんどん拡散する。星は引力により大きくなる。生物も自然界に含めるのであれば、子どもは大きくなるし恐竜のなかには極めて大きくなるよう進化したものがいる。先述したように、無生物自然界であればエネルギーを最小化する方向にダイナミクスが働くという説明がされることが多いと思うが、生物・遺伝子の場合は自身の適応度を最大化するようなダイナミクスが働くというべきだろう。
太刀川氏がこの前後でなんと言ってるのか分からないが、必ず最適化すると言っている訳ではなく、最適化に"向けて"進化すると言っているのであれば特に問題ないのではないだろうか?
また最小云々については単に無駄な部分を省くという意味で言っているだけな気がする。ここで言っている「自然界」というのが生物以外も含めた話なのかどうかが引用範囲が狭すぎて分からないが、少なくとも生物に関しては非適応的な無駄が省かれる方向に進化するというのは別に間違ってはいないだろう。「自然界には最小になろうとする小さな圧力がまんべんなく働いている」というのは、自然界のあらゆる力が最小方向に向かっていると言っている訳ではなく、自然界のあらゆる(?)対象に対して何らかの最小方向の力がかかっていると言いたい気がする。すなわち「自身の適応度を最大化するようなダイナミクス」といったような増大方向の圧力一般の存在を否定してる訳ではないということ。
📕『進化思考』を読んだので追記する。松井氏の引用範囲が狭すぎて何の話をしているかさっぱりだったが、太刀川氏はここで批判集p.129の張力の話と同様に自然選択アイコン下で創造も含めた話をしている。まず、松井氏は「自然の世界での最適化(エネルギー最小化)と、自然選択による最適化と、人工物の改善プロセスでの最適化(なにかの、多くの場合数値的な評価基準を改善するための方策)は似ている点よりも異なる点のほうが多い。」と述べているが、確かに異なる点はあるものの、似ている点よりも異なる点の方が多いとは明確に言い切れるものではないと感じる。張力や泡といったような自然界での物理的な最適化に関しては確かに最適が物質量的な最小を保証する訳ではないので、生物進化や人工物の話とはややズレはあるが、後者二つ(生物進化と人工物)に関しては生成コストの観点で似ていると言っていいだろう。松井氏はプロセスの違いでこの二つの相違性を説明するが、それはここで太刀川氏が着目している「無駄があるかどうか」という観点には特に関係ない。また太刀川氏は『進化思考』p.241にて「最適化とは、多すぎず少なすぎずといった状態に向かおうとする自然の性質のことを指す」と述べており、これに沿うならば、やや大雑把な括りではあるものの張力や泡の話と自然選択の話をまとめることも一応可能ではある。
また上でも述べたが、少なくとも自然選択に関しては太刀川氏はここで明らかにコスト削減的な話(同等程度の適応度であれば、生成コストは少ない方が得という話)をしており(例えば太刀川氏はp.241で「進化のなかでは、不要な部位はいつかなくなる。たとえば、ヒトとサルの共通の祖先にはあったはずの尻尾が、ヒトにはもうない。」と述べている)、それに対して子供の成長を反例として挙げるのは明らかに的外れだろう。また、太刀川氏はあくまで最小方向への圧力が存在していると言っているだけであり、それは増大する方向への圧力の存在を否定しないし、前者が後者に必ず勝つことを意味する訳でもない。したがって、ある種の恐竜の巨大化を反例として持ち出すのもおかしい。
| 進化のなかでは、不要な部位はいつかなくなる。(p.241)
M: 誤り。何をもって不要とみなすのかも曖昧で、なるべく正確に表現すれば「適応度の向上に直接貢献する部位をさしおいてその部位をつくるにはコストがかかるのに、その部位はコストに見合う適応度の向上が見られない場合、その部位を不要な部位とよぶ」ということだろう。そうだとしても、不要な部位はいつかなくなるには「不要な」部位をなくすような変異が起き、しかもその変異がその個体の適応度を顕著に害さない必要がある。その両方を進化プロセスは保証しない。直後に例示されるヒト(より正確にはヒト上科か?)にはもうない尻尾は「不要だから」ではなく、いわばコストパフォーマンスが悪かったために(つまり尻尾の提供するベネフィットが尻尾を持つことによる適応度低下リスクを下回ったために)たまたま起きた変異に十分な正の自然淘汰圧がかかったと考えるほうがよいのではないだろうか。
💛「何をもって不要とみなすのかも曖昧で、なるべく正確に表現すれば「適応度の向上に直接貢献する部位をさしおいてその部位をつくるにはコストがかかるのに、その部位はコストに見合う適応度の向上が見られない場合、その部位を不要な部位とよぶ」ということだろう」というように長々と述べているが、ここで太刀川氏が言っている「不要」というのは普通に考えれば「その生成コストに見合うだけの適応度増加が得られない」という意味だろうし、それで特に問題はない。それと「適応度の向上に直接貢献する部位」における「直接」というのが具体的にどういうことについて言っているのかよく分からない。コストパフォーマンスについて考えたいならば直接間接は特に関係なく単にそれによる適応度の増加量を見るだけで良いのでないだろうか?またもっと突っ込むならば「貢献する部位をさしおいてその部位をつくるにはコストがかかる」というのも言いたいことがよく分からない。貢献する部位をさしおくか否かに関わらず、ある形質を作るためには必ずコストがかかる。それともここで松井氏が言っているコストというのは他の貢献する部位を作れないことによる適応度減少も含んでいるのだろうか?しかし、もしそうだとすればそれは一般にこういった文脈におけるコストの意味とは異なる気がする。
また「不要な部位はいつかなくなるには「不要な」部位をなくすような変異が起き、しかもその変異がその個体の適応度を顕著に害さない必要がある」とのことだが、松井氏は「不要な」というのを「コストに見合う適応度の向上が見られない」こととして定義しているのだから、単に不要な部位だけをなくすような変異が起きれば個体の適応度は増加するだろう。ただ、不要な部位を無くす遺伝子変異が不要な部位以外の形質にも絡んで来る場合は不要な部位が無くなるとは限らない。したがってもし松井氏がこの点について述べているのならばその指摘は正しい。またもしここで松井氏が言っている「コスト」というのが上で説明したように他の貢献する部位を作れないことによる適応度減少も含めた概念であるならば、確かに不要な部位をなくすような変異がそういった別の貢献する部位の生成を含意する訳ではないので、不要な部位を無くす変異の発生だけでは簡単には不用な部位は無くならない。とはいえ上で説明したようにそういった意味でのコスト概念は一般的なそれとは異なると思われる。ただ、ここで松井氏は「しかもその変異がその個体の適応度を顕著に害さない必要がある」というように適応度の減少について特に言及しており、貢献する部位の生成による適応度の増加については述べていないので、これは松井氏がそういった特殊なコスト概念を採用している可能性を弱める。
また「直後に例示されるヒト(より正確にはヒト上科か?)にはもうない尻尾は「不要だから」ではなく、いわばコストパフォーマンスが悪かったために(つまり尻尾の提供するベネフィットが尻尾を持つことによる適応度低下リスクを下回ったために)たまたま起きた変異に十分な正の自然淘汰圧がかかったと考えるほうがよいのではないだろうか」というのもだいぶ意味が不明で、この部分だけを読んでも引っ掛かるのだが、そもそもここで松井氏が言っている「尻尾の提供するベネフィットが尻尾を持つことによる適応度低下リスクを下回ったために」というのは、自身がすぐ上で言っていた「その部位はコストに見合う適応度の向上が見られない場合」という「不要」の定義と明らかに同じ話に見える。それともやはり先ほどから述べているような特殊なコスト概念を松井氏は採用しているのだろうか?確かにそのコスト概念を採用すれば「不要」は複数の形質を考慮したコストパフォーマンス (どの形質にどれくらいコストを回すのが最も適応的か) の話となり、ここでの尻尾単独のコストパフォーマンスの話と違うと言えそうではある。また実際、ここで松井氏は「尻尾の提供するベネフィットが尻尾を持つことによる適応度低下リスクを下回ったために」というようにベネフィットの対義語としてコストではなく「リスク」という語を用いており、これは特殊なコスト概念と形質単体のコストパフォーマンスの使い分けを意味しているのかもしれない。とはいえ以上色々解釈を試みてみたものの、私の主観的推測としては松井氏はここまで厳密には考えておらず、単に色々混同しているだけではないかと思う。
| 生物の形態進化の過程には絶えず、減らす負圧がかかりつづけてい
| る。(p.241)
M: それはそうかもしれないが、より強く、より大きく、より多い子孫を残し、と「増やす」正圧も場合によってはかかりつづけているので、負圧のみを取り上げることにさしたる意味はないように思う。
💜文脈がよく分からないが、太刀川氏がここで言っているのは、何らかの形態の形成には常にコストがかかっておりタダで作れる訳ではない、ということではないだろうか?そうであれば、別にその負圧だけを語ることに特に問題はないように思われる。太刀川氏が言っている「負圧」と松井氏が言っている「正圧」は圧の質が異なるので、片方だけ語ることに不自然さはないということ。
なおここで太刀川氏は「形態」の進化について語っているのだから、「子孫を残し」という観点は的外れだろう。形態だけについて語る妥当性はとりあえず置いておいて。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、二つ前の指摘の追記でも述べたように太刀川氏はここで生成コストの話をしているので、したがって負圧のみを語ることに特に問題はない。
| デザイン的観点から見れば、どちらが優れているかは明白だろう。
| (p.242)
I: オリーブの木と扇風機はそもそも機能が異なるので比較対象とすること自体無理がある。「ただ風を発生させるだけのために」と言うが、それならオリーブの木は何のために存在すると言うのだろうか。
引用部分が少なすぎて、両者のどのような機能をどのような観点で比較しているのか全く読み取れない。
📕進化思考』を読んだので追記するが、引用部直前に太刀川氏は「こうした観点で、オリーブの木と扇風機を比較してみると、自然物と人工物では最適化のレベルがまったく違うことに気づく(図13-16、243頁)。オリーブの木は、大まかに分類すると実・葉・根・花の五種類の構造で成り立っており、それらすべてを構成しているのは一種類の植物細胞だ。一つ一つのパーツが複数の機能を有していて、わずかな構成要素にもかかわらず、植物は生殖からエネルギーの創出や水の汲み上げ、害虫を寄せ付けない仕組みにいたるまで、数多くの機能を実現している。それに対して扇風機は一〇〇種類以上のパーツから成り立っていて、一つ一つのパーツに込められた意味はとても少ない。各パーツの形態も、まだまだ無駄を省けそうだ。オリーブの木と比較すると、ただ風を発生させるだけのために、ずいぶん非効率に作られているように見えてしまう。」(『進化思考』p.241-242) と述べており、これを見れば、太刀川氏が内部のパーツ種の少なさと全体としての機能の多さのトレードオフに関して語っていることが分かる。つまり、太刀川氏は一般的なトレードオフ曲線に対してどれだけ上振れているかを語っている訳だが、ここで伊藤氏が云うようにオリーブの木と扇風機はその成り立ちや機能も全く異なるものなので当たり前だが同一のトレードオフ曲線に乗せて単純比較することは難しいし、あまり意味はない。したがって、「デザイン的観点から見れば、どちらが優れているかは明白」という太刀川氏の主張は不適当であるが、将来的な観点で創造物もこれくらい優れたデザインになれれば良いね、という希望や願望の意味でそう語る程度であれば全く的外れということもないだろう。
| 生物の構成は現在の人工物よりも、はるかに効率的かつ美しくできて
| いる。(p.242)
M: 無駄だらけの設計になっていることに言及しないのはやや自然選択びいきと感じる。たとえばヒトの眼球において、網膜の上に血管を走らせるというとんでもない位置関係を採用したせいで血管を除くよう画像処理をしなければならず、しかも盲点が生じるという欠陥が挙げられる。こういった無駄な設計ミスが適応度を左右するレベルになっても改修がなされにくいのも、設計ミスの上でのさらなる新設計の積み重ねによって発生の根幹部分を変更できない*という生物特有の宿痾で、人工物の創造はその宿痾からかなり解放されていることに言及したほうがよかったのではないだろうか。いずれにせよ、「無駄のない生物・無駄だらけの人工物」という二項対立はやや一面的という印象を受ける。
📕太刀川氏がやや生物進化びいきしているという指摘はその通りだと思うが、実際人工物には無駄的な要素が多いものも数多くある訳なので、傾向そのものとしては問題ないと思う。また、個人的にはそれほど気にならないが、「網膜の上に血管を走らせるというとんでもない位置関係を採用した」というのは割と擬人的な表現であり、似たような太刀川氏の擬人的表現を批判するのであれば、自らもこういった表現はすべきではないのではないだろうか?松井氏は批判集p.91において「「進化における生物の知的構造」という語が何を意味しているのかを理解している自信がないが、遺伝子じたいは当然考えることができないので進化する生物の遺伝子に知的構造を認めなくても、遺伝子は進化する、というのが進化学の考え方だ。そのため、完全に間違った記述としか解釈できない。」と述べているが、ここで太刀川氏が述べているのは外からはまるで知的に振る舞っているように見えるという話であり、すなわちここで松井氏が述べている擬人的表現と同じようなことを言っている。そして松井氏は太刀川氏のそれを批判しているのだが、ここでは自身が同じようなことをしている。(ただ、もし仮にp.91の松井氏の批判が「太刀川氏は比喩ではなくメカニズムとして真にそういう知的構造が進化を引き起こしていると考えている」と解釈してのものならば、擬人的表現を批判している訳ではなくなる。ただし、そのような読解は明らかに不適切である(そのような読み取りを支持する情報がほとんどない、かつ上記したような比喩的な意味での読み取りを支持する情報が多く存在するので))。また松井氏は同様に批判集p.159においても、「そこで生き残るのは、激変以前の価値軸で強者だったものではなく、偶然にも変化に柔軟に対処できたものだ。」という太刀川氏の記述に対して「ここにも著者の変態主義的な理解が色濃く現れている。生物の進化は環境の変化に「対処」してあるものが違うものに変わるものではない。」(p.159) と批判しているが、ここでの「網膜の上に血管を走らせるというとんでもない位置関係を採用した」というのはそういった能動的な対処の意味を持つだろう。なお、松井氏は批判集p.148においても、ある花の形に合うように口吻が進化した種が他種と交雑することで口吻がその花に合わなくなることに関して「そのためCとは交雑しないように性器の形を独自のものに変えたりすることはありえたのではないか」というように能動的な対処を意味するような表現を取っている。そういう訳で他人を批判する割には自身も同じようなことをしているのである。「太刀川氏は基本的に変態主義的な理解をしてそうだから、こういった擬人的表現も真にそう思っている可能性が高く、それで批判している。一方、私は変態主義ではなく変異主義的な理解を正しく取れているから、こういった擬人的表現を"敢えて"便宜上使うことにそれほど問題はない」という弁明もありそうだが、本稿で何度も述べて来たようにそもそも太刀川氏が一貫して変態主義的な理解をしているというのが松井氏の間違った解釈である訳なので、客観的に見て松井氏のやっていることにそれほど妥当性はない。それに、太刀川氏のあの程度の記述で変態主義と断定されるのであれば、松井氏のこういった擬人的表現を以って松井氏が変態主義的な理解をも取っていると見做すことも可能だろう。また、単にうっかりミスしてしまったという可能性も考えられるが、もしそうであるのならば、結局松井氏自身の理解も不完全ということになるだろう。
あと「~なことに言及したほうがよかったのではないだろうか。」という表現は相手がそれを知っていることが分かっている(またはそうであると強く推測できる)ときに用いる表現であり、今は太刀川氏がそれを知っているとは限らない訳なので表現としておかしくないだろうか?特に、ここまでの太刀川氏の生物学及び進化に関する理解度から言って、太刀川氏がここでの改修可能性の話を理解または認識している可能性は低いように思うのだが、松井氏は太刀川氏が知っているに違いないと思って述べたのだろうか?申し訳ないが、私には太刀川氏が知っていないだろうと思いつつ皮肉的にこう言っているように見える(または太刀川氏が知っていようが知っていまいが、ただ単に自分の知識・理解を誇示しようとしてそう述べたか)。松井氏の真意が実際にどうであるかは分からないが、一般的に相手がそれを知っているという確信がそれなりに無い限り、こういった表現はしないべきである。太刀川氏が知っているという確信があったのならば問題ないが。
| できるかぎりシンプルな造形を追求した伝説的なデザイナーもいる。
| 電気シェーバーで日本でもおなじみのブラウン社のプロダクトデザイ
| ナーだったディーター・ラムスだ。彼のシンプルなデザイン哲学は、
| 現代プロダクトデザインの一つの原型だ。(p.244)
M: ここでの著者の主張はつぎのうちどれだろうか。
a) 人工物はなるべくミニマルな見た目である「べきだ」という(私を含め
た)デザイナーに広く受け容れられている教条を伝えたい。
b) 人工物は生物や非生物自然物同様に時が経つにつれミニマルな見た目に
なるのだ、という一般的な法則をアナロジーとして伝えたい。
c) 人工物を創造する際、生物の進化と同様に製造の無駄や部材の無駄を省
く「べきだ」という教条を伝えたい。
d) 人工物は生物や非生物自然物同様に時が経つにつれ無駄が省かれるの
だ、という一般的な法則をアナロジーとして伝えたい。
さすがにa)ではないと信じたいが、もしそうであれば著者のあげるようなラムスやアイブのミニマリズムと最適化・無駄の削減にはさしたる関係がないと私は思う。装飾としてのミニマリズムはその製造に多くの無駄が生じる(たとえば例に挙げられているMacBookはとても生産効率の悪いCNC削り出しで作られている)し、機構的な機能にも悪影響を与えがちだ(MacBookの角が掌に刺さる、他の「ミニマルでなく無駄な造形の」同程度の性能のノートブックPCよりも重い、など)。b)であればもし人工物にミニマルな見た目になるような淘汰圧がかかっているのならどの製品もミニマルになっているはずだが、私にはそのようには見えない。c)であればその信条には私も同意するが、そのためにラムスやアイブのミニマリズムをあげるのは前述のa) に対する指摘と同じ理由で不適当だろう。それよりも無駄な部材を使わないことによってコストを削減するトポロジー最適化の事例や、しばしば長年の洗練により力学的にムダの少ない形態をとることのある伝統的な民具などをあげるのが適しているだろう。また生物の進化には無駄を極限まで削減する力だけでなく、宿痾のような大きな無駄を保存する力もあるため、前者に絞ったほうが比較としてはよいのではないか。たとえば鳥の骨の部材削減などに限定したほうが議論が単純になってよいのではないだろうか。d)はおそらく本文の主張する点とは異なるので考えない。人工物の傾向としてはある程度はあると思うが、必ずしも強くなく、しかもその洗練度合いは生物のそれに比較すれば明らかに低い。ただし、生物の神経回路や会話よりも圧倒的に高スピードで情報をやりとりできるようになった事例(電線やインターネット)など、明らかに生物側に不利な比較をしようと思えばできる。
📕基本的に単一的な決めつけの批評が多い『進化思考批判集』にしては珍しく多様な解釈が提示されているのだが、生物進化について太刀川氏はこの前後で全く触れていないため、解釈b,c,dは明らかに的外れだろう (この前後は「少ないほど豊か」「少ないもので多くを実現する」「いかに減らすか」といったような最適化の観点でデザインを行っている建築家やデザイナーを紹介をしたり、如何に無駄を減らしたデザインをするかについて語ったりしている部分である)。松井氏は本当にb,c,dがその引用における太刀川氏の主張としてあり得ると考えているのだろうか?確かにcは『進化思考』の主旨からして百歩譲ってありとしても、b,dの「時が経つにつれて無駄が省かれる(ミニマルになる)」といった経時変化の意味を件の文章から読み取るのはさすがに無理がある。あとaに関する反論についても、太刀川氏は別に材料的な無駄のみについて論じている訳ではないし、機構的悪影響に関してもその代わりのメリットについても同時にトレードオフ的に考えなければ意味はないだろう(例えば、松井氏はここで「同程度の性能のノートブックPCよりも重い」と重量に関してMacbookを批判するが、少なくともAppleはunibody採用時に「これまで想像もできなかったほどに薄く、強く、頑丈になった」といったようなメリットを述べている[183])。あと「MacBookはとても生産効率の悪いCNC削り出しで作られている」とのことだが、Appleは削りカスを回収して再生利用しているようだ[184][185][186]。それとも再生利用したとて生成過程そのものには本質的に無駄があるということだろうか?それとMacbookの角が掌に刺さるというのは、(そもそもそんなに重大な問題点か?と思うが)、掌に刺さるのは単に細部の形状デザインの話であって、ミニマリズムかどうかとは関係なくないだろうか?角を丸めたミニマリズムデザインも十分に可能ではないか?あと、そもそも論として私はa,b,c,dのいずれでもないと思っていて、一番近いaと比較しやすいように表現すると「人工物はなるべくシンプルな造形である「べきだ」という(私を含めた)デザイナーに一つの価値観として広く知られている教条を伝えたい」となる。まず初めに「シンプル」「造形」を勝手に「ミニマル」「見た目」に変換するべきではないと思うのだが(少なくとも両者とも同義でないし、前者に関しては「シンプル→ミニマル」ですらない)、一番は「現代プロダクトデザインの一つの原型だ」というのが別に普遍的な規範を意味している訳ではないということである。「一つの原型だ」というのは原型が複数あるうちの一つとしてそういうものがあると言っているに過ぎず、ここではそういう一つの価値観として広く知られているといった程度の解釈が適切ではないだろうか?もちろん松井氏のa案が正しい可能性もなくはないが、少なくとも私の案が正しい可能性も十分にあり得る訳なので、私の案に近いものを思い付けない、かつ明らかに的外れな別案ばかり出しているというのは、本の評者としては力不足感を否めない (もし仮に「デザイナーに広く受け容れられている教条」というのが、皆がその教条に納得しているという意味ではなくて、私が言ったように単に多くの人に知られている程度の意味であれば、そこに関しては問題ないが)。
またもっと言うと、厳密には「という教条を伝えたい」というのがそもそもおかしく、ここでの太刀川氏の"主張"は単に「ラムスのデザイン哲学は~である」だろう。「という教条を伝えたい」というのは「ここの記述における著者の主張」ではなくて「ラムスを紹介した意図」とかである。主張と意図は別物である。この辺は問題設計または語用の話でもあるが、こういった文章読解一般に関する曖昧な理解も、松井氏が批判集にて多くの誤読を犯している原因の一端であるように思う。(そもそも「ここでの著者の主張はつぎのうちどれだろうか?」といった現代文の問題は、普通まとまった量の文章に対して問うものであって、今のような2文程度に対して聞くものではない。また、「主張」じゃなくて「意図」の間違いだったとしても、松井氏はその後a,b,c,dを挙げた理由またはa,b,c,dの意図としての妥当性について何も語っていない。松井氏がここでやっているのは、主張(及び意図)の中身の妥当性の検証であり、これは主張(及び意図)の把握(対象認識)、すなわち「何が読み取れるか」という現代文の問題の範疇外の話である。そういう訳で松井氏は色々と混同しているように見える)。
| デザインを駆使して減らそうとしなければ、どこまでも無駄は増殖し
| てゆく。 (p.245)
M: ここでいうデザインが何を指すのかによるが、現代的な分業としてのデザイン業を指すのなら、上述の伝統的な道具の形態的な洗練からいってあてはまらない。もしそうではなく伝統的な道具のデザインも含めているのであれば箸のような伝統的な道具に現代的なデザイン業のような能動的な「デザインの駆使」が働いてきたのかについては疑問だ。デザインの駆使というよりもむしろ、無駄があったりなかったりする様々なバリエーションの箸が生まれ、それらが生活の中で揉まれ、あるものはたくさんコピーされ、あるものはほとんどコピーされなかったためにだんだんと変わっていった形態だという論のほうが説得力があるように思う。つまり能動的で意識的なデザインの駆使なしでもデザインの洗練はありうるし、大半の道具のデザインはそうやって進化してきたのだと思う。
📕『進化思考』を読んだので追記する。まず初めに「上述の伝統的な道具の形態的な洗練からいってあてはまらない」というのは、一つ上の指摘部位において引用している「しばしば長年の洗練により力学的にムダの少ない形態をとることのある伝統的な民具など」(批判集 p.135) のことである。それで、以下はプロダクトデザイン素人の一意見に過ぎないということを先に断っておくが、確かにあらゆる人工物について述べる全称命題として見れば誤りであるが、一般的な傾向としての主張として見ればそれほど的外れではないのではないだろうか?何か新しい機能をくっつけるというのは分かりやすい新規性であるので新規プロダクトの方策として取られやすく、また一般に何かを一度増やすとそれを減らすのに(または一度変えたものを元に戻すのに)抵抗があるという人間の心理傾向があるような気もするので、新たな機能が付きやすく、そしてそれが残りやすいという傾向はある程度ある気がする。もちろんプロダクトが何であるかによって違いはあると思うが。
あと後半の「能動的で意識的なデザインの駆使なしでもデザインの洗練はありうるし、大半の道具のデザインはそうやって進化してきたのだと思う」に関しては、これはシンポジウム発表への批判記事[129]でも書いたが、松井氏は少々環境主体的なデザインを重視し過ぎな気がする (「デザインのプロセスってのは、実は、実際はデザイナーのものではなくて、えっと、むしろユーザーがデザインしてるという方が私は正しいと思ってます」(シンポジウム動画[128] 24:15辺りの発言))。「無駄があったりなかったりする様々なバリエーションの箸が生まれ」というのがあたかも非能動的な自然発生かのように述べているが、何かしら既存のものと違うものを生もうとする製作者の能動性は大抵の場合存在するのではないだろうか?もちろん特に目的なく何となく可変的に作ったという場合もあるだろうが、「大半の道具のデザインはそうやって進化してきたのだと思う」と言えるほどにそうなのだろうか?私個人の感覚としては程度の差はあれ能動的なデザインの方が多いような気がするし、松井氏はここで何かしら文献を引いている訳ではないのであまり納得できない。
なお、「ここでいうデザインが何を指すのかによるが、現代的な分業としてのデザイン業を指すのなら、上述の伝統的な道具の形態的な洗練からいってあてはまらない。」という松井氏の記述がやや分かりにくいと思うので一応解説しておくと、これは「現代的な分業としてのデザイン業のみを太刀川氏が想定してデザイン"一般"について語っているのであれば、それは伝統的な道具の洗練を見落としている」ということだと思われる。しかし「ここでいうデザインが何を指すのかによるが、現代的な分業としてのデザイン業を指すのなら」というのは、太刀川氏がそれのみに関して言っている(デザイン一般については述べていない) と普通読めるので非常に分かりづらい (「現代的な分業としてのデザインのみについて語っているならそれで別に問題ないやん」となる)。松井氏の意図を的確に伝えるためには上記のように「想定(念頭に)している対象」と「実際に語っている対象」を分けて述べる必要があるだろう。
| 人工物は無駄に満ちあふれている。(p.245)
| こうした無駄が発生する要因の一つに、過剰供給がある。「量が心配
| だから多めにしておこう」とか「安く作れるから作れるだけ作ろう」
| といった考えだ。(p.245)
I: この本の無理やりな生物学の援用がまさに「過剰供給」であり、かつ不適切な例が多いため「無駄」だと言わざるを得ない。
M: 過剰という言葉じたいに「多すぎて無駄」という価値判断が含まれているためややトートロジーぎみだが、これをその人工物の本来想定されている機能に必要とされる最低限までコストをさげることを最適化というのならば、まあそれは無駄ではある。しかし生物の進化はこういった無駄をたくさん用意している。たとえばヒトの平均寿命(繁殖が不可能になる年齢を大きく超えて長生きする)や生理での出血、有性生殖のコスト、同性愛など。そしてこういった一見無駄に見える機能を適応の観点からよく調べていくことによっておばあさん仮説のような興味深い考察がうまれる。生理の出血はいくつか説がでているがよくわかっておらず、有性生殖のコストの説明には有力な説がいくつかあるがコンセンサスには至っておらず、同性愛についても同様だと聞く。比較のために想定した「人工物の本来想定されている機能に必要とされる最低限」という閾値の想定がそもそも主観によるものであり、本質主義的だと感じる。
💜まず伊藤氏の指摘に関しては、確かに過剰供給と言えるような記述もあるのは事実だが、ここまで指摘したように批判集における批判には彼らの生物学的知識不足や読解力不足による誤ったものも多く、伊藤氏が「無駄」だと思っている程度よりはその無駄は実際は少ないだろう。
松井氏の指摘に関しては、引用されている部分が狭いため、「こうした無駄」の「こうした」というのがどのようなものを指しているか分からないため批判を評価することができない。供給に関する無駄について言っているのであればたしかにトートロジーだが、製品の機能や形態などに関する無駄について言っているのであればトートロジーではないだろう。
また「比較のために想定した「人工物の本来想定されている機能に必要とされる最低限」という閾値の想定がそもそも主観によるものであり、本質主義的だと感じる」に関しては、確かにやや主観的な曖昧さは否めないが、実際のところそういった最低限の機能を基に消費者の購買行動が行われていることは多いので、他の製品との生き残り競争においてコストパフォーマンスが悪いものを「無駄」と定義したとき、太刀川氏のそれとある程度の関連はあるだろう。また製品は段々と進化していくのにただ一つの「変わらない本質」を設定することは不適切であると批判しているのであれば、「本質」は段階的・漸進的に変化しうるものと定義すれば特に問題ないだろう。時代によって標準・当たり前といったものが変化するように。
中盤の生物の記述に関しては特に問題ない。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏は「こうした無駄が発生する要因の一つに、過剰供給がある。」の直前に「私達のゴミ捨て場を見れば一目瞭然だ。」(『進化思考』p.245)と述べているので、これを見るにここでの「こうした無駄」というのは単に過剰供給のことを指しているように見えるが、さらにその直前には「人工物は無駄に満ちあふれている。デザインを駆使して減らそうとしなければ、どこまででも無駄は増殖してゆく。」(同 p.245)と言っており、またそれ以前にも建築家のミース・ファン・デル・ローエの「少ないほど豊か」や、同じく建築家のバックミンスター・フラーの「少ないもので多くを実現する」、プロダクトデザイナーのディーター・ラムスの「いかに減らすか」といった言葉を引用し、少ないモノで如何に多くの機能を実現するといったような話をしているため、ここでの「こうした無駄」というのは諸々の無駄一般を述べているか、または直前まで最適化の観点での無駄について語っているものの、ここではそれを過剰供給的無駄と混同してしまったか、のどちらかであるように思われる。
| いつのまにかそのモノは贅肉だらけの美しくないモノになってしま
| う。(p.245)
M: 美しくないからと言って何が悪いのか? たとえば文字通り贅肉だらけのオットセイ(厚さ15cmにもなる[54])は美しくないということか? ここでいう贅肉は比喩であってそのものではないということだろうけれど…。無駄があれば美しくない、というのと無駄があると競争に勝てず淘汰される、というのは別の問題だ。淘汰されないことが善であると仮定すれば様々な無駄があるにもかかわらず淘汰されずに繁栄しているデザインはいくらでもあげられるし、むしろ私が無駄であると感じるものがむしろ誰かにとっては価値のあるものであるからこそ繁栄している楽天のサイトのようなものもたくさんある。ここでいう「無駄」や「美しい」がなにを指すかわからないまま、「無駄」や「美しい」などの主観に依存する価値観をもとに議論しているため説得力のないものになっている。このように、「作りすぎるべきでない」とか「ミニマルな見た目にすべきだ」とか「美しくあるべきだ」といった著者がもつ「人工物の創造のプロセスにおいて創造する者はこうすべきである」という自論と、生物進化や設計の進化との関連はどんなに甘く見積もってもほとんどない。
💛初めの「たとえば文字通り贅肉だらけのオットセイ(厚さ15cmにもなる[54])は美しくないということか? ここでいう贅肉は比喩であってそのものではないということだろうけれど…。」については、明らかに (10000人中9999人がそう考えるレベルで) ここでの「贅肉」は比喩であるし、松井氏自身も「ここでいう贅肉は比喩であってそのものではないということだろうけれど…」と思っているのだから、態々言う必要はなくないか?ただオットセイに関する知識を見せびらかしたいだけのように見える。p.240で伊藤氏が「本書では『進化思考』著者の衒学的な姿勢 ~(中略)~ を批判してきた」と、また批判集の商品説明 [3] においても「日本インダストリアルデザイン協会最年少理事長の衒学的物言い」というように、太刀川氏が衒学的であると批判しているが、私からすればよっぽど伊藤氏や松井氏のほうが衒学的であるように見える (詳しくはp.240のところで説明した)。太刀川氏の例示的説明は (その内容の適切性は置いておいて) 彼自身は本筋に関係があると思って言っているものであるが、ここでのオットセイの話は松井氏自身が「ここでいう贅肉は比喩であってそのものではないということだろうけれど…」と言っているように話の本筋に全く関係ない。よってただの知識の見せびらかし (衒学的行為) である。もしかしたら比喩でない意味で「贅肉」と言っている可能性がまともに考慮するレベルであると思っていた可能性もあるが、そうであるならば申し訳ないがそれは松井氏の読解力がさすがに低すぎるだろう。
また「どんなに甘く見積もってもほとんどない」はさすがに言い過ぎだろう。過剰なデザインが淘汰されていくことと生物進化におけるコストベネフィットの話にある程度関連はある。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの引用部位周辺で「無駄があると競争に勝てず淘汰される」といった話は特にしていないので、美しさと淘汰性を混同しているかのような松井氏の指摘は的外れだろう。確かに『進化思考』全体の趣旨としてはそういった美しい最適化の観点で環境へのフィットを考えようというのはあるのだが、今はまだそこまで踏み込んだ話をしていない。松井氏は「淘汰されないことが善であると仮定すれば様々な無駄があるにもかかわらず淘汰されずに繁栄しているデザインはいくらでもあげられる」というように反例的に述べているが、むしろ太刀川氏はこの付近でそういった無駄があるにも関わらず繁栄していってしまうモノについて疑義を呈しているのである(「こうしたプロセスが当たり前になっていると、いつのまにかそのモノは贅肉だらけの美しくないモノになってしまう。結果的に私たちは、生産した食料の三分の一を捨てつづけ、無駄の多いデザインを廃棄しつづけている。時にはこうした過剰供給による汚染によって生物種が絶滅し、資源が枯渇する。減らせる無駄は、できるかぎり減らしたい。そのためにも、ここであらためて、最適化の知恵を自然から学びたいと思う。」(『進化思考』p.245))。また「ここでいう「無駄」や「美しい」がなにを指すかわからないまま、「無駄」や「美しい」などの主観に依存する価値観をもとに議論しているため説得力のないものになっている。」と松井氏は述べているが、少なくとも太刀川氏は「無駄」についてはここまで多くの例を出して説明している訳で (「少ないもので多くを実現する」「どこまで無駄を減らして最適化できるだろうか」「必要のないプロセス」「社会の流動性を上げ、無駄な時間やエネルギーから文明を解放する」「こうした無駄が発生する要因の一つに、過剰供給がある。「量が心配だから多めにしておこう」とか、「安く作れるから作れるだけ作ろう」といった考えだ」「結果的に私たちは、生産した食料の三分の一を捨てつづけ、」(『進化思考』p.245-245))、ここで太刀川氏が意図している「無駄」が全く分からないのであれば、申し訳ないがそれは本の評者としては読解力不足と言わざるを得ない。確かに厳密に定義している訳ではないが、太刀川氏の言いたいことはある程度読み取れるし、少なくともこの辺の記述における太刀川氏の趣意を成立させる上では十分である。またもし仮に厳密に定義せずして「無駄」という言葉を使ってはならないというのが松井氏の主張であるならば、それは明らかにおかしい。
あと初めのオットセイについて補足するが、仮に松井氏がオットセイの話を純粋に例え話として出していたのだとしても、オットセイの贅肉は別に無駄なものではないのだから太刀川氏への反論的例えとして出すのは不適切だろう[187]。あとそもそも「贅肉」という語は必要以上についた余分な脂肪や肉を指すのであって、エネルギー貯蔵・保温・浮力といった機能がある彼らの脂肪を「贅肉」と表現するのはおかしい[187]。また、「美しくないからと言って何が悪いのか?」というのは美しくないものを悪と見做すことに関して疑問を呈するものであって、これに対して「たとえば文字通り贅肉だらけのオットセイ(厚さ15cmにもなる[54])は美しくないということか?」というように贅肉(無駄)だらけの対象を美しくないと見做すことに関して疑問を呈する例えを続けるのもおかしい (「例えば」というのが前文ではなく、太刀川氏の引用にかかっているのであれば問題ないが)。
| 二〇一二年には生物学者の渡邉正勝や近藤滋らによって、CX418遺伝
| 子が、斑点模様を作るleopard変異、すなわちチューリングパターン
| を発生させる原因遺伝子として特定され、チューリングのパターン形
| 成仮説が分子生物学的にも証明された。(p.250)
I: CX「418」遺伝子、ではない。最早固有名詞が間違っているくらいどうでも良いことのような気さえしてくるが、調べてみると「CX41.8」遺伝子であった。渡邉・近藤両名による2012年の論文“Changing clothes easily: connexin41.8 regulates skin pattern variation”[55] の本文を読むと、「CX41.8」という遺伝子が登場し(既にタイトルに「41.8」という数字が出ているので予想通りである)、「CX418」という遺伝子は登場しない。
ただし、本件に関しては情状酌量の余地がある。大阪大学の近藤滋氏の研究室のweb サイトには「CX418遺伝子」とピリオド無しで書いてあるからだ*。だが、他の論文や科研費の報告書などを読むとコネキシン41.8(connexin41.8)やコネキシン39.4 について研究しているので、41と8の間に「.」が入ることは間違いなく、近藤滋氏のサイトのテキスト入力時の誤りであると断言できる。
通常、ここまでのファクトチェックが必要かと言われると微妙だが、一応一次資料に当たる習慣があれば、論文タイトルから気付けると思う。念の為にファクトチェックをしてみると、悉く間違っている本はやはり問題だろう。
💜確かに正確な表記は「CX41.8」だと思うが、ここで伊藤氏が挙げている研究室サイト以外にもピリオド無しの「CX418」表記のものはいくつかあるので、単なる入力ミスではなく略記である可能性も高い(例えば、科研費関連で二つ[188][189]、またJST関連で三つ[190][191][192]、また阪大(?)の授業スライドで一つある[193]。なお、JST関連の資料の一つだけは41.8と418が混在しているが、その他の資料では混在はない)。少なくとも「間違いなく、近藤滋氏のサイトのテキスト入力時の誤りであると断言できる。」などとは言えない。そういう訳で、確かに正確には41.8とすべきだったが、もし仮に近藤氏らが略記として418を用いているのであれば、太刀川氏がそれらを見て(?)418と表記したことを全く以っておかしいと糾弾するのは不適切だろう。(あとこれはあくまで個人的な推測だが、おそらく普段の研究室内での会話では「CXよんいちはち」と呼んでいて、そういった読みが(厳密には不正確ではあるが)書き文字としてもやや浸透していったのではないかと思った)。
なお、伊藤氏は「通常、ここまでのファクトチェックが必要かと言われると微妙だが、一応一次資料に当たる習慣があれば、論文タイトルから気付けると思う。念の為にファクトチェックをしてみると、悉く間違っている本はやはり問題だろう。」と述べているが、上記のように伊藤氏自身も大した根拠なく「間違いなく、近藤滋氏のサイトのテキスト入力時の誤りであると断言できる。」と不適切な断定をしている訳なので、そこまで人のことは言えないだろう。こういうことがあるために私も批判集に関して一々ファクトチェックをしなければならなくなっている。
| スズメバチや唐辛子のように赤や黄色の危険色をしている商品はアピ| ール性が強い。〔中略〕私たちの色彩感覚が、自然界がそもそも持っ| ている模様や色彩の意味と重なるのは興味深い。(p.251)
I: 「危険色」でも通じるが、aposematismは「警告色」と訳すべきであろう。例えば 地球外生命体の色彩感覚が地球の自然の色彩の意味と重なるのであれば「興味深い」 と思うが、地球で暮らす「私たち」にとっては「自然」なことのように思うのだが。
💜途中で中略されているせいで、ここでいう「色彩感覚」の意味が今一分からない。もし引用されているような赤や黄色のアピール性が強いことに関して言っているのであれば、それは確かに人間における警告的認識そのものと関連している可能性が高いので、それほど興味深いものでもないかもしれない。ただ、警告色に対する忌避反応は一般に学習によるものであると考えられており、人間においてそれが進化的に生得化した可能性はいくらかあるかもしれないが、学習起因のものもいくらかは残っているのではないだろうか。そして人間が普段そういった赤や黄を見るときに起こる感情と純粋な意味での警告色への忌避感情は異なる気がするので、そういった学習も絡めての警告色に関する色彩感覚一般の個体発生にはある程度興味深さがあると言っても良いだろう。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、引用の中略部分にあるのは「一方で、茶色や緑のような木や土を連想させるアースカラーのものは落ち着いた商品として認識する。」の1文であり、また引用部直後に「これは文明誕生以前から、生物としての私たちのDNAに宿っている色彩と情報への本能的感覚が現れているということなのだろう。」(『進化思考』p.251) と述べているため、ここで太刀川氏の云う「色彩感覚」とは商品選択などで関わってくるような日常生活一般における色彩感覚のことだろう。したがって、上記の通り人間が進化的に獲得してきた色彩感覚が現代の日常生活における色彩感覚と関連することそのものはそれほど興味深いものではないが、生得的感覚が個人の経験や社会文化を通してどのように現れ・変化していくのかという具体的な感覚形成過程の観点では興味深いものではあるだろう。
| これは、身体内部の圧力と、外部の水圧とのせめぎあいによって、形| 態がおのずと決定されたからなのだ。(p.253)
M: 進化は試行錯誤の連続であって「おのずと決定」しない。本章を通して、著者は自然選択をひとつの最適解をまっしぐらに目指し、そこに落ち着くプロセスであるかのような説明を繰り返しているように思えるが、自然選択はそのようなプロセスではない。そうではなく、「無駄」な探索を繰り返し、「無駄」死にを繰り返し、あるものは局所最適解に陥って衰退し、あるものは自滅するという極めて惨たらしい無駄足を踏みながら、長期的には極めて優れた機能を形作る可能性のあるプロセスであるという説明が欲しかった。生物は決して最適化された体を持っていない。それどころか我々は最適化されていない体の、放置された問題箇所に苦しみながら生きている。痔になる肛門は無理な直立歩行の突貫開発が遺したといわれているし、前述のとおり目の網膜の上に毛細血管を置いてしまったものだから常に脳での画像処理でそれをキャンセルしなければならない。
💜もしここで太刀川氏が云う「おのずと決定」というのが、ただ唯一の最適解に迷いなく辿り着くという意味ではなく、単に「目的論的なものではない」や「適応度が高くなる方向に選択が働き、長期の結果辿り着く」という意味であればそれほど問題はないだろう。松井氏は唯一解に迷いなく辿り着くことを言っていると解釈したようだが、少なくとも「おのず」という語に唯一解や迷いの無さの意味は特にない。確かに「おのずと決定」という表現からは唯一解や迷いのなさの意味を読み取れなくもないが、自然選択による選別を「おのず(naturally)」と見るとき、それの集積としての局所的終着点への行き着き(決定)を「おのず」と見ることも可能である。
また「生物は決して最適化された体を持っていない」というのはさすがに言い過ぎだろう。全ての生物の全ての形態がそうでないのは当たり前だが、一般的に最適と思われるような形態を持っている種は多く存在する。そもそも「最適」という概念はだいぶ曖昧であり、仮に環境を固定したとしても、どの範囲までの進化的・形質的条件を所与のものとして最適を定義するかは恣意的であるので、最も最適 (局所最適ではない最適) かどうかにこだわり過ぎることにあまり意味はない。例えば「鳥類は飛行するのに最適な体を持っている」という文章は一般的に言って十分に受け入れられるものである。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はここの引用部直前に「同じような生態系の圧力にさらされている生物は、その内部と外部に発生する張力の類似によって、必然的に似た形態を生み出すのだ。たとえば、サメ、イルカ、ペンギンが泳ぐときの形はほとんど同じだ。」(『進化思考』p.253)と述べ、また直後に「このように、まったく違う進化をたどったはずの種同士でも、同じような状況に適応すると類似した形になる現象を、収斂進化と呼ぶ。」(同 p.253)と述べている。したがって、長期的には"必ず"似た形態になるかのような主張そのものは誤りであるが、「最適解にまっしぐら」という意図が含まれているかどうかは断定できないだろう。こういった表現を持って太刀川氏がまっしぐらなプロセスとして進化を捉えていると見做すならば、松井氏自身も批判集p.95にて「卵の産卵数が多いほど生存可能性が上がる」という太刀川氏の主張に対して「もしこの記述が真ならば、なぜ人間の女性は毎年1億の子を産まないのだろう」というように、太刀川氏の記述が正しければ人間の女性が毎年1億の子を生むように必ず進化するかのように述べている訳なので、松井氏も自然選択をまっしぐらなプロセスと捉えていることになるだろう。なお、太刀川氏が述べている形態の類似性は傾向としてはある程度認められるものなので必然というのは言い過ぎなものの話の筋としては悪くはない。一方、松井氏の毎年1億人出産する人間の女性というのは人間及び哺乳類の繁殖形式を全く以って無視した箸にも棒にも掛からない珍説であり、そのような進化を必ず遂げると考えるなど申し訳ないが常軌を逸している。もっと進化の初期段階で今とは全く違う進化を遂げることに関して述べているという弁明も予想されるが、その場合はそもそも今私達が認識しているような「人間 (ホモ・サピエンス)」は出現しないだろう。また同様に松井氏は批判集p.160でも、「無数の精子によるランダムさと、生態系でのオスのバリエーションのなかからの性選択によって、生物は偶発性を高め、生き残れる可能性を向上させた。」という太刀川氏の主張に対して、「有性生殖が無条件に適応度を高めるのなら、あらゆる生物が有性生殖になっているはずだがそうなっていない。」と述べているが、もし仮に有性生殖が無条件に適応度を高めるとしても、繁殖形式という複雑なシステムにおいて有性生殖への進化が必ず起こるとは限らない。そういう訳で、以上のように松井氏自身もある適応的な形質が可能性として存在するならば「必ず」そう進化すると言ってしまっている。しかも、松井氏が述べているのはある特定の環境の話ですらない極めて強い主張である。したがって、そういった必然性について太刀川氏を批判しているのであれば、まずは自分の理解も見直した方が良いだろうし、上記のような強すぎる主張を見るに生物学を基礎から学び直したほうが良いようにも感じる。なおちなみに、太刀川氏は『進化思考』p.74にて「進化という語感は、前よりも良くなる進歩的現象だと誤解されている。しかし実際の進化は必ずしも進歩ではなく、ランダムな変化の連続だ。」と述べており、進化が単調的な(まっしぐらな)前進でないことは一応理解しているようだ。
| この収斂進化と同じ現象は、モノでも確認できる。(p.253)
M: スポーツカーやミニバンというジャンルで切り分けて収斂進化の例とするのは無理がある。スポーツカーはいわば「種」や種のグループに相当するカテゴリーなので、「まったく違う進化をたどったはずの種同士」とはいえないだろう。ある文化形質が収斂進化の成果である可能性を指摘するには、ほとんど交流のない文化圏で独立に発見された事実や発明された人工物をあげたほうがよい。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
また、ここでスポーツカーのような人工物に種の概念を持ち出す意義が果たしてあるのかは一言ではいえない。ここでの種の概念の借用は「ポルシェのスポーツカーでできることはだいたいベンツのスポーツカーでもできるだろうけれど、ホンダのミニバンにはポルシェのスポーツカーではできないことばかりだし、逆にミニバンしかできないことも多い」という大雑把な交換可能性の高さでくくっている。曖昧と言われる生物種の概念よりもさらにその垣根は曖昧で主観的だ。
解剖の文脈で収斂進化をとりあげるのも適切とはいえないだろう。ある機構(たとえば水中生物に共通する流線型)がどのように(HOW)機能しているか(流線型が抵抗を少なくし、同じスピードで泳ぐ際のエネルギー消費を抑える効果がある)という機構的な観点と、なぜ(WHY)そうなっているか(エネルギー消費を抑えることで繁殖にまわせるエネルギーを増やせるし、漁に行く回数を減らせるので漁に伴う生存に関わる怪我などのリスクを減らせる、行動時間が長くなるのでよりたくさんの魚を捕らえられる、など)という適応的な観点をわけるのが4つのなぜのキモとなる考えのはずだ。
💛これも引用部分が少なすぎて、具体的に太刀川氏が何と何において何が収斂進化していると言っているのかが分からない。あと「スポーツカーはいわば「種」や種のグループに相当するカテゴリーなので、「まったく違う進化をたどったはずの種同士」とはいえないだろう」というのが今一よく分からない。引用が少なすぎてそもそも何の話をしているかがさっぱりなのだが、「スポーツカー」という括りは様々なメーカーに見られる多系統的なものであるものの相互に関係し合ってもいるみたいな話だろうか?
また、「ここでスポーツカーのような人工物に種の概念を持ち出す意義が果たしてあるのかは一言ではいえない」「曖昧と言われる生物種の概念よりもさらにその垣根は曖昧で主観的だ」とのことだが、機能的な観点からの分類ということで別にそこまで問題はないのではないだろうか?引用が少なすぎて太刀川氏が正確にはなんと言っているか分からないが、分類そのものにはそれなりに価値はあると思われる。「種」を言いたいならば、ポルシェ、ベンツではなくて、ポルシェ901、ポルシェ930といったようなレベルで定義する必要があるとは思うが、どのレベルを「種」「属」などと見なすかはあまり太刀川氏の話の本質ではないだろう。
また最後のティンバーゲンの4つの問いについては残念ながら大きな誤りがある。HOWとWHYというのは至近要因と究極要因のことを言っていると思われるが、「ある機構(たとえば水中生物に共通する流線型)がどのように(HOW)機能しているか(流線型が抵抗を少なくし、同じスピードで泳ぐ際のエネルギー消費を抑える効果がある)」は至近要因ではなくむしろ究極要因 (WHY) である。流線型形態について至近要因 (HOW) を挙げるならば流線型が物理学的に水の抵抗を小さくするメカニズムや形態形成のメカニズムがそれに該当するだろう。確かに「流線型が抵抗を少なくし」と言っているので至近要因にも掠ってはいるのだが、具体的にどのように抵抗が少なくなっているのかを考えるのが至近要因 (の内の「メカニズム」) であり、抵抗が少なくなったことによるエネルギー消費の減少は究極要因 (の内の「機能」) の領分である。また本来ニコティンバーゲンの4つの問いは動物の行動に関する分析法であり、行動以外の形質にも応用することそのものは別に否定しないが、その場合行動と違って分析観点が分かりづらくなるので注意が必要である。行動であれば「行動の生起メカニズム」(メカニズム) と「行動の適応的意義」(機能) は明確に分かれているが、例えば今回のような形態においては多くの場合そもそもメカニズムに該当するものがなく(発生メカニズム(個体発生)に該当するものはある)、今回の流線型においては例外的にメカニズムの観点でも見れるものの、形態による物理的な効果(物理的に何が起こるか)とその適応的意義(その物理的に起こったことでどう得をするか) の違いがやや分かりにくいことが多い。そういう訳で松井氏も至近要因と究極要因を混同してしまったのだと思われるが、こういった誤りが起きるので行動形質以外に対して4つの問いを適用する場合は注意が必要なのである。「どのように(HOW)機能しているか ~(中略)~ という機構的な観点と、なぜ(WHY)そうなっているか ~(中略)~ という適応的な観点をわけるのが4つのなぜのキモとなる考えのはずだ」と自信満々に述べているが、残念ながらそれは自身への説教ともなってしまっている。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、まず太刀川氏はここの引用部位の直前に「このように、まったく違う進化をたどったはずの種同士でも、同じような状況に適応すると類似した形になる現象を、収斂進化と呼ぶ。」(『進化思考』p.253) と生物進化に関して述べた後に、松井氏が引用している部分を述べ、その直後に「たとえば時速三〇〇キロで走るスポーツカーは、内部と外部の圧力のせめぎあい(空気抵抗)によって、空気の流体を感じさせる曲面(流線型)になる。逆に、ミニバンのようなファミリーカーは、内部の空間を最大化しようとして膨らみ、直方体のようなフォルムになりがちだ。さらに、マーケットのニーズや法律などの適応的な圧力があるため、結局のところ、同じような用途の車は形態が似通っていく。」(同 p.253-254)と述べている。したがって、松井氏が批判しているのはおそらく上記で私が述べたように、スポーツカーは各メーカーが開発するものではあるものの、それらはアイデア着想や競合などの観点で相互に関係し合ってもいるので、それらを収斂進化の例とするのは不適切である、ということだろう。それで、確かに松井氏のその批判はそれなりに妥当であるようにも見えるのだが、それは「スポーツカー」といったジャンルが社会的に形成された後の話に過ぎず、メーカー各社が「速さ」という機能を重視した車を作り始めたころは「スポーツカー」という概念はおそらくなかったと思われるし、速さを実現させるアプローチも今よりも各社多様だったのではないだろうか?したがって、全くお互いが影響していなかったということはもちろんないと思うが、かつては今よりも多少は独立しており、それが次第に各メーカーがアイデア等で強く影響し合うようになっていき(また一般的な技術的・科学的進展による効率的な形態・機構が一種の適応圧となり)、その結果「スポーツカー」というジャンルを形成するほどに似通っていったのではないだろうか?そしてもしそうならば、それを収斂進化と表現するのはそこまでおかしくないだろう。(なお上記の話全体を明確に支持するほどの資料は見当たらないが、例えば、Britannicaによればracing carとtouring carの二つの側面を持つものが一般にsports carとされるようだ[194]。ただsports carの定義は様々にもあり、そう簡単な話でないことも述べられている。また、1910年に世界一のオールラウンドなtouring carを見つける目的でドイツで行われたトライアルに出場するために作られたC-10 3-liter Vauxhallが後に(世界発とは言わなくとも)イギリス発の真の初のスポーツカーとして知られるようになったという記述もあり[195]、これは当時touring carとsport carがやや重なるような概念であったことを示唆する。またこれは車一般の話だが、1930年代に機械構造の変化・製造技術の進歩・空気力学の導入によって、流線型デザイン(streamline design)の時代が来たそうだ[196])。
また、そもそも上記のような歴史的な話でなくとも、メーカー間がそれなりに関係しているとはいえ、結局は異なる意思決定主体(としてのメーカー)による開発プロセスな訳であり、そういったとき同じような適応圧においてある程度似た形態・機構に落ち着くことを現在でも"緩く"収斂進化と呼ぶのは全く間違いという訳ではないだろう。
また「解剖の文脈で収斂進化をとりあげるのも適切とはいえないだろう。」に関しては既に似たような指摘を上でしたが、太刀川氏はここの「解剖」パートで生物(&人工物)の個々の(内部的)パーツの機能や発生に関しても言及している訳なのでそこまで問題はないだろう。確かにもう少し開けた上位目的(例:「家族団欒の場の提供」というテーブルの上位目的)についてまで言及し出すと不適切感があるが、ここはあくまで流線型形態の機能という低次の話なので太刀川氏の趣旨には沿っている。
| しかし実際には、形の背景には張力の流れが渦巻いていて、〔中略〕
| 適応に向かう張力と流動の力学に沿って、形はほぼ必然的に決まる。
| (p.255)
M: 張力や流動といった用語がカーニング時に作業者が感じる文字間に働く「力」などにまで乱用されているため、全く進化と関係ないように思われる。進化学の概念を取り入れられていない以上は、進化という語を進歩に読み替えるなどしたほうが読者の混乱は避けられる。
I:「流れ」や「渦巻く」、「力学」といった語が科学的なものなのか、比喩なのかがわからず文意を掴めない。「流動の力学」とは「流体力学」とは違うのだろうか。
📕太刀川氏の云う「張力」や「流動」というのがやや比喩的過ぎる&進化とは関係ないものも含まれているのは確かだが、一部妥当な部分はあるので「全く進化と関係ないように思われる」という総評を下すのは言い過ぎだろう。また「進化学の概念を取り入れられていない以上は、進化という語を進歩に読み替えるなどしたほうが読者の混乱は避けられる。」と松井氏は述べているが、「進化とは特に関係ないものを進化の要素として挙げていること」と「進化学の概念を取り入れていないこと」は異なるものであり、前者から後者を導くのは不適切である。したがって、進化ではなく進歩と読み替えた方が良いという結論も不適切である。「それは進化ではなく進歩である」というのは進化の不理解に対する典型的な批判句であるが、ちゃんと対象を分析せずに不適切にそれを用いるのならば、それはただの思考停止のレッテル貼りに過ぎない。またもし仮に分かってて「嘘」を述べているのならば尚更問題がある。(なお、もし仮に松井氏が「ここ付近で太刀川氏が張力や流動について述べていることの全てが進化とは特に関係ないものである」と考えているのならば、「進化学の概念を取り入れていない」を導き出すことは論理的には問題ないが、実際には太刀川氏は上で述べたような流線型形態の話など多少は進化的に妥当な話もしている訳なので、その前提は間違っている。また、ここでの進化じゃなくて進歩云々がここの引用部位近くの本当に極めて局所の話をしていると読めなくもないが、少なくともここの引用部位付近の見開き2ページにおいて不適切な意味で「進化」という語を用いている部分は存在しないので、やはりおかしい (「似た関係は、共通する形態のデザインを誘発し、創造もまた収斂進化する」(『進化思考』p.254) といった別におかしな使い方でない「進化」の登場が一回あるだけである)。というかそもそもここで松井氏が述べているカーニングはp.240の話であり、ここの引用部位の15ページ前な訳なので、この局所理論は通らない。この範囲内には先程述べた流線型形態の話も存在するので)。
| ものを作るには膨大な工程が必要だが、その工程の一部に過ぎないこ| の図面からも、美しいプロセスを生もうとする愛情を感じないだろう | か。(p.257)
M: 生物進化とデザインの進化のアナロジーと応用を語っているのかと思って当書を読み進めてきた読者は、ここに至って愛を持ち出した説明に頭を抱える。生産性と愛を結びつけるのは自由だが、この「生産性」というセクションには自然選択と関係のある部分は一文もない。私の理解では、ティンバーゲンの4つのなぜは「いま興味を持っている疑問は、どの立場から投げかけているのか」を明らかにするものであって、4つとも揃っている必要があるわけではない。こどもに「どうして目はものが見えるの?」と聞かれたときに、4つの非常に異なった答え方ができてしまう。当該質問には4つのなぜがオーバーラップしており、どの観点からの質問であるかが指定されていないからだ。同様に、「どうしてこのボタンを押すと写真が保存されるのか?」について4つの観点から答えることができる。それらを理解するのは重要だと私も思うが、はたして人工物に投げかけられる4つのなぜが、生物の4つのなぜのそれぞれに相当するほどに重要なのかは疑問がある。また、たとえばメスーディは研究が進んでいない分野として文化的進化発生学をあげている[58]。
💛これも引用部分が少なすぎて太刀川氏がどういった意図で愛情について話を出しているのか今一分からない。愛情を進化思考への理論的補強として持ち出しているのならば不適切であると思うが、単にここで愛情について語りたかったというだけならば何も問題はないだろう。
また「私の理解では、ティンバーゲンの4つのなぜは「いま興味を持っている疑問は、どの立場から投げかけているのか」を明らかにするものであって、4つとも揃っている必要があるわけではない」とのことだが、これに関しては間違っていると言っていいだろう。確かに自己の分析の視点を整理する意味合いもあるが、ティンバーゲンの4つの問いは生物の行動を包括的に理解するためには4つの視点からの分析が必要であることも言っている。つまり究極的には4つとも揃っている必要があるのである (「究極的には」というのは個々の研究において4つの観点を全て入れろという話ではないということ)。
また先ほども述べたが、ティンバーゲンの4つの問いは本来動物の「行動」に関するものである (彼が4つの問いについて初めて語った論文のタイトルは「On the aims and methods of ethology」[33]である)。行動以外の対象についても使用することそのものは否定しないが、出てくる例に一つも行動がないのは問題だろう (流線型、目でものが見える理由、ボタンを押すと写真が保存される理由。なお松井氏はp.89において「種分化」というもはや形質ですらないものにも至近要因・究極要因を適用していた)。
というように基本的な部分をよく理解していないために、先ほどの流線型の話での分析観点の混同も起きたのだろう。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの引用部位の直前に「形だけでなく製造プロセスも、なるべく少ないほうがいい。モノには形だけでなく、その作り方にも最適化の圧力がつねに働いている。同じ目的を実現するなら、時間や材料の無駄は少なければ少ないほど良い。どうすればもっと効率的に作れるだろう。こうした最適化の先に、プロセスの美しさが生まれる。右頁にエッフェル塔の膨大な図面の一部を載せた。」(『進化思考』p.256-257) と述べている (ここで云っているエッフェル塔の図面(図13-25)は下の画像7の通り)。したがって、ここでの「愛情」というのは、無駄のない最適で分かりやすい図面に作業者等のために美しいプロセスを生もうとする図面作成者の真心を感じたみたいな意味だろう。またはもっとシンプルに、図面作成者にとっては美しいプロセスを追い求めることが愛情的なものであると太刀川氏が感じ取ったという解釈も考えられる。したがって明確に一意に意味を断定することはできないが、大まかな意味は伝わるし、ここでは愛情を進化思考の補強に使っている訳でもないので全く問題はない。したがって松井氏は、難癖を付けたくてたまらなくて些細な表現につっかかっているのか、または以上述べたような解釈を本当に全く何も思いつかなくて頭を抱えたのかのどちらかであるように思われる。そして後者の場合は、申し訳ないが本の評者としては読解力不足と言わざるを得ない。(なお、ここの引用部位の次の段落以降(次のパート)にて太刀川氏は「モノの内部に秘められた姿を観察してよく知ること、そしてモノの本来の意味を考えること、そのモノの育み方を知ること、これらはつまるところ、モノに対する愛情の話なのだ。解剖のプロセスから見えてくるのは、モノに内在する可能性の種(SEED)だ。」「内部に秘められた可能性に気づける人がいて初めて、モノは輝きを放つ。」「子どもの成長を励ますような気持ちで、モノの内部にある可能性の種を見つめれば、そのモノがより本領を発揮する余地を発見できるかもしれない。」(『進化思考』p.258-259) と述べており、これを見るに先ほど私が二つ目に出した案が近いように思われる。すなわち「モノの内部の姿やその意味や生成プロセスを上手く改善・発揮させてあげられるように真心を持って探求的に関わり合うこと」といったようなことを愛情的としているのだと思われる。そしてこれは進化思考を愛情によって理論的に正当化している訳ではない)。
また「この「生産性」というセクションには自然選択と関係のある部分は一文もない。」とも述べているが、ここでいきなり「自然選択」というワードが出てきているのは、このパートが先ほど「張力」や「最適化」でそうであったように、ここも自然選択アイコンが付けられているからである。そして、「張力」のところで説明したが、この自然選択アイコンは創造において(非歴史的定義的)適応の観点からアイデア群を自然選択させる「篩(ふるい)」の紹介コーナーを意味している。そして、生産方法を知っているのか&効率よく生産できるのかといった生産性の観点はアイデアのより良い選別の篩となり得る訳なので特に問題ないだろう。また、それは生物進化においても同様で、ある同等の形質の発生(生成)において時間や資源の観点でより無駄が少なければそれは適応的な訳なので当然自然淘汰と絡み得る。この辺の生物進化との絡みは直接的に明示されている訳ではないが、少し考えれば容易に分かるものであり、人の本を批判するのならばこれくらいは読み取れて欲しいと感じる。
また「私の理解では、ティンバーゲンの4つのなぜは・・・」以降は引用部分との関連が今一分からない。ここの引用部位周辺で太刀川氏はティンバーゲンの4つのなぜ一般について特に言及していない。松井氏は4つのなぜを援用すること(「時空間学習」)の是非という根本的な議論をいきなりしたくなったのかもしれないが、それなら何かそうと分かるクッションを入れて欲しい。また「はたして人工物に投げかけられる4つのなぜが、生物の4つのなぜのそれぞれに相当するほどに重要なのかは疑問がある。」とも述べているが、この辺は主観に過ぎず、松井氏がそう思うのならばそれで良いが、一応4つのなぜを創造に援用することの価値はちゃんとこれまで説明されてきているので、少なくとも私は特に疑問を感じない。また最後の「また、たとえばメスーディは研究が進んでいない分野として文化的進化発生学をあげている」も何の繋がりの発言なのかよく分からない。「例えば」とあるが何に対しての例示なのだろう。文脈からするに、創造における4つのなぜよりもっと有用な観点の一つとして文化的進化発生学というのがあるという話だろうか?
なお、上ではティンバーゲンの4つの問いとして松井氏が流線型形態を挙げているという体で述べていたが、実際にはこれは太刀川氏が『進化思考』にて述べているのが始まりなので、そこについては松井氏に非はない。
| 分類学は、系統全体を一つの生物の身体と考えて解剖する学問だと言
| い換えてもよい。(p.267)
M: 意味がよくわからなかった。そういえる根拠はなんだろう?
📕太刀川氏は引用部位の直前で「分類の思考(WHATの系統)は、解剖で触れた形態学(WHATの解剖)の思考とよく似ている。考察の対象が内部か外部かという観点が違うだけで、「それは何なのか(WHAT)」を定義して分類するという点では、探求の方法は同じだ。」(『進化思考』p.267) と述べているので、外部の分析を「解剖 (内部分析)」的に見るために「一つの生物」という箱を比喩的に用いたのだろう。また箱になりうる候補はいくつもあるだろうが、解剖パートとの繋がりでこちらも「生物」を用いたのだと思われる。そういう訳で、この比喩がどれくらい有用かは置いておいて、太刀川氏の意図そのものは以上のようにある程度推測できる。松井氏の指摘が以上のようなことを理解した上で尚生物を箱とすることの妥当性を問う疑問なら問題ないが、全く何も意図を推測できない上での疑問であるのならば、やはり本の評者としては力不足であると感じる。また、やや似たような話として生物系統学者の三中信宏氏が系統樹を四次元の「時空ワーム」と見做したりもしているので[149]、もしかしたら太刀川氏はそれを意識していたのかもしれない。(三中氏は垂直に伸びる時空ワーム(系統樹)を水平に切断したときの切断面に特定の時間点における「分類」が現れるといったような話をしている。「時空的な連続体(時空ワーム)である系統樹をある特定の時間平面で切断することにより、時間軸をもたない分類体系のマップとして視覚化することができる。」(『系統樹曼荼羅』[149] p.32)、「一般に系統樹とは、直観的にいうならば、一本の「幹」とそこから分岐するたくさんの「枝」によって形づくられている。したがって、系統樹を切断すればその切り口には大小の「円」がみえるはずである。分類パターンはこれらの「円」の配置の様相だと解釈すればよい。」(同 p.32) など。このように時空ワームといった生物性だけでなく、系統樹の切断面に分類を見分けていく点も太刀川氏の云う「解剖」とそれなりに親和性があるように見える。なお、この『系統樹曼荼羅』は『進化思考』巻末の参考文献欄に挙げられており、太刀川氏がこの辺の時空ワームのくだりを読んでいた可能性はそれなりにある)。
| 評価軸を知るためにも、世界中のさまざまな分野のトップクオリティ
| のモノを通常のモノと比較して、両者のあいだにある違いの因子を自
| 分なりに定義してみるとよい。(p.268)
M: この作業のデザイン業での効果に異論はないけれど、そこに分類学を持ち出すほどの関連があるのだろうか。たとえばリヒテル演奏の平均律クラヴィーア曲集と無名のピアニストの平均律クラヴィーア曲集を聞き分けようとしている音楽愛好家が「私のやっていることは分類学です」と言ったとして、分類学の専門家は「そのとおりだ」と思ってくれるだろうか…。
📕確かにここで太刀川氏は「両者」と述べているが、彼はここまでコレクションといったそれなりに種類数あるものの比較分類の話をしていたので(「人はコレクションのプロセスによって文脈に詳しくなり、微差を比較分類することでクオリティを理解したりする。」(『進化思考』p.267))、ここでの引用部もそういった多種比較の話として見た方が良いような気がする(例えば、「両者の群」というような解釈は可能。または単に太刀川氏の表現ミスか)。したがって、もしここでの太刀川氏の意図がそのような他種比較であるのならば、それが学術的に認められるような分類かと言えばそうではないと思うが、純粋に行為そのものとしては比較分類ではあると思う。「私のやっていることは分類学です」というように学問的な話として松井氏は話を進めているが、そもそも太刀川氏はそういった身近な比較分類の話が学問であるとは特に言っていない。この辺は松井氏が学問としての「分類学」と一般行為としての「比較分類」を混同しているように見える。
また太刀川氏は創造物の比較分類の話をしているので、松井氏が例に出している演奏表現(orクオリティ)の話は少々ズレている気がする。確かに演奏も創造物の一種ではあると思うが、ジャズとか即興性が高い音楽ならまだしも既存クラシック曲集の演奏者間の違いの比較を「創造性の比較」とするのは、太刀川氏の趣旨とは少々離れていないだろうか?また松井氏はここで「聞き分け」と述べており、これが単に「聞いて違いを区別する」ことを言っているのか、「聞いて二者の演奏表現の違いを分析する」ことを言っているのか分からないが、どちらにせよこの表現は「分類」の要素が弱い。したがって、上記した「両者」の解釈の問題はあるものの、先ほど述べた学問と行為の違いも含めて、松井氏は不適切な例え話を自ら持ち出してそれによって誤った納得をしてしまっている部分があるように私には見える(またはそもそも根本的に話を理解していないか)。例えば、「世界トップレベルのプロとアマチュア達のジャズプレイを聞き込んで、両群のあいだにある違いの因子を自分なりに定義して整理する」とすれば、ある程度分類っぽくなるのではないだろうか?
またそもそもこの引用部は「では、比較分類は、なぜ創造性にポジティブな影響を与えるのか。実は、私たちの認知の仕組みには、微差を繰り返し比較することで、微差を大差として認識できるようになる性質がある。つまり比較分類によって、クオリティにおける競争の評価軸を高い解像度で捉える感受性が鍛えられるのだ。」(『進化思考』p.267-276) という記述に続くものであり、したがって、ここでは比較分類の中でも特に「比較」にウエイトを置いた話であると解釈することも可能ではある。
| こうした進化の歴史における時間的な繋がりを理解し、進化図に描く
| 学問を、生物学では系統学と呼ぶ。(p.269)
M: 「進化図」とは系統樹のことだろうか。また次の行には「個体のランダムな変異」とあるが、変異するのは遺伝子である。
💜これも前後が引用されていないので、太刀川氏が正確になんと言っているのかが分からない。もし文字通り「個体がランダムに変異する」という意図で言っているのだとしたらそれは確かに誤りであるが、もし「各個体においてランダムに変異 (variation) が存在している」や「変異個体のランダムな発生」といった意図で言っているのだとしたらその真意そのものには特に問題はない。表現としては分かりづらいので訂正したほうが良いが。
また「変異するのは遺伝子である」とのことだが、ここで松井氏が言っている「変異」がmutationならば問題ないが、variationならば不足がある。variationは形質についても使われる (むしろ形質における意味の方が一般的であるという見方もある[24])。なお、しばらく前にmutationのみを「変異」とし、variationの意味でのそれは「多様性」とするという用語の訳し方の改定案が日本遺伝学会から出されたようだが、既に定着している呼び方に関連した不便の発生可能性が高く、同時に出された「顕性・潜性」などよりも浸透していないように思われる。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、「個体のランダムな変異」の前後を補完すると、太刀川氏は『進化思考』p.269にて「生物は、三八億年ほど前の母なる生物の起源から始まり、自然選択による適応と個体のランダムな変異を繰り返して、永い時間をかけて分化していった。気が遠くなるような回数の分岐を繰り返した結果、世界は多様な生態系で満ちている。」と述べており、これを見るに個体そのものに対して変異がかかると考えているように見えなくもない。ただ、上で述べたように「各個体においてランダムに変異 (variation) が存在している」や「変異個体のランダムな発生」といった真意である可能性も十分にあるので、もしそうならば問題はないだろう。そもそも一般に「個体の変異」という表現は学術レベルでもよく使われるものであり[197][198][199]、これは個体そのものの変異ではなく、個体の持つ変異(variation)を指す(そして太刀川氏も「個体の変異」という表現を『進化思考』の中で何度か用いている)。ただ、ここで太刀川氏が述べたように「自然選択による適応と個体のランダムな変異を繰り返して」といった表現をすると、個体そのものが変異するかのように解釈されやすいというのはあると思う。なお、もし仮に松井氏の指摘がそういった「個体の変異」という表現を知らない故のものだとしたら、やはりその辺は専門分野外の人間による批判の限界及び問題点をよく表していると言える。また上ではmutationの意味での変異を取り扱わなかったが、「ランダムなmutationの結果としての個体ら」と好意的に読めばこれも一応それほど問題ないものにはなる。ただ、進化の要因となる変異(variation)の発生理由はmutationのみに還元される訳ではないので、今の場面ではmutationはあまりそぐわない。
| 現在ではこれらの理論が融合し、進化はDNAの複製エラーによる「変
| 異」と、生存競争や性淘汰などの「適応」が繰り返されることで進化
| が発生するという、統合的な進化論(セントラルドグマ)を形成する
| に至っている。(pp.275-276)
M: 適応ではなく自然選択が適当だろう。セントラルドグマはDNAからmRNA、そこからタンパク質へと情報伝達され、その逆がありえないという考え方のことで、現在一般となった進化理論全般を指す語ではない。統合的な進化論をまとめるのならばネオダーウィニズムでよい。セントラルドグマはネオダーウィニズムを構成する一部であり、進化学全体を統合する考えではない。
💜セントラルドグマに関する指摘はその通り。一方、適応云々については、ここでの適応をプロセス定義的や非歴史的定義として見れば間違っているとはそこまで言い切れないものではある。また、松井氏は自然選択を代案として出しているが、これは批判集p.32における林氏の「「個体の変異」は自然選択のプロセスの中に含まれるものであり、自然選択と対をなす単語として用いられるものではない。」という主張とは矛盾するものである。私自身は自然選択と変異を対にすることそのものは特に問題ないと思っているが、とりあえず一冊の本の中では見解を統一して欲しい。p.11によると批判集の内容は著者らが相互にチェックしているらしいが、これらの該当箇所を読み落としていたのか、読んだけど問題性を感じなかったのか、または問題だと感じたがスルーしたのか、どれなのだろう?いずれにせよ一冊の本として一貫性がない。
| もし進化が自然発生しているなら、デザインやアートなどの創造性も| また、自然発生する現象と考えられるのではないか。(p.276)
M: 自然発生という言葉が何を指すのかわからない。進化は確かに条件が揃えば自ずと発生するメカニズムと言って差し支えないと思うが、創造性が自然発生するとはどのような状況を指すのか? 自然発生しない創造性とはなにか? 直後の記述にあるように創造的な仕事は偉大な天才だけに可能であるという意味であれば、そう信じている人はあまり多くないのではないだろうか。そうではなく、積極的な創造性を想定しなくても、製造された人工物に差異があり、見た目が少しだけ好まれたり、機能が少しだけ優れていたり、ユーザーが大変に魅力的だったり、その他いろいろな要因で好まれるときに、その変異体は他の競争相手に比べてよりコピーされやすいため、何かしらの変更が蓄積していくはずで、個々人に特筆すべき創造性がなくとも、文化は進化しうるということであれば私は全く同意する。残念ながらそういう文脈ではないようだ。「誰もが人工物にまつわる文化を進化させる一端を担える」という主張には私も同意できる(あなたがあるプロダクトのメーカーAとメーカーBで悩んでAの製品を選ぶとき、明らかにその一端を担っている)が、「誰もが積極的な創造性を発揮して人工物を意図通りに改善できる」という著者の提案する文脈は進化理論とはあまり関係がなく、進化理論によって裏付けられる主張ではない。
💛「進化が自然発生している」と「デザインやアートなどの創造性もまた、自然発生する現象 (である)」の間に論理的ジャンプがあるというのはそうだが、進化と創造性にある程度類似性が見られることから創造性をも自然発生する現象として捉えようとすることそのものは全く見当外れと断定できるものでもないだろう。既に似たようなことを何回か述べたが (例えば批判集p.94への指摘部分とか)、太刀川氏は創造を無意識的な要素をもつ認知的現象として見たときの話を主にしているように見える。すなわち、創造という無意識的な要素をもつ認知的現象に進化的な要素があるならば、進化的観点を取り入れて研鑚を積むことで創造を意識的に行ったり、または無意識的過程を意識的にドライブしたりすることができるのではないかということである。
というような話をしていることは太刀川氏の文章をちゃんと読めば十分分かると思うのだが、「ということであれば私は全く同意する。残念ながらそういう文脈ではないようだ」という松井氏の発言にも表れているように、松井氏は太刀川氏の主張を読み取ろうとする気があまり無く、いかにいわゆる文化進化の文脈に持ち込むかという姿勢で読んでいるように見える (ここまでもいわゆる文化進化的な話に持ち込もうとする姿勢や、太刀川氏が文化進化的な話をすると積極的に同意するということが多く見られた)。そしてそういったバイアスの入った読み方は評者としても研究者としても不適切なものである。単なる読解力不足のために自分の見知った理論に安易に当てはめているだけの可能性もあるが、その場合も結局評者としては力不足と言えるだろう。(なお上で私が述べたような太刀川氏の本旨を実は松井氏 (と伊藤氏) は批判集の執筆以前に確認していた可能性が高いのだが、その情報が批判集には一切反映されていない。詳しくは本稿最後の「終わりに」を参照)。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの引用部位の直前に「創造的現象のように見える生物のデザインは、誰かによって作られた形ではなく、進化によって自然発生する現象だったのだ。」(『進化思考』p.276) 述べ、少し後にも「ダーウィンが言う通り、変異と適応が繰り返されれば、そこに誰かの意図がなくても、進化は自然発生する。それと同じように、変異と適応の往復によって、私たちは創造性を発生させられるという考え方が、進化思考だ。」(同 p.276) と述べている。また引用部に続く文として「だとすれば、創造性を発揮する仕事が、偉大な天才だけに可能だと諦めがちな私たちにとって、これこそ大いなる福音になるだろう。」(同 p.276)とも述べている。したがって、ここでいう創造性の自然発生というのは、優れたデザインであっても、初めからそれを思い付いていた(または初めから完璧な完成品として生まれた)訳ではなく、「変異と適応の往復」によって意図せずとも発生するといったような意味だろう。それで、このような話を太刀川氏はここまで何度もしてきている訳なので、その内容に納得できるかどうかは置いておいて太刀川氏の意図を全く推測できないのであれば、申し訳ないがそれは評者としては読解力不足と言わざるを得ない。松井氏はここで述べているようなユーザー主導の集団的選択の話をここ以外にも批判集にて何度かしており、また『進化思考』に関する学会シンポジウムにおいてもそういったユーザーによる選択を極端に重視する立場を取っているのだが[128][129]、そういった自論に拘泥し過ぎて他の意見を受け入れられなくなっているようにも見える。そして当然だがそういった批評態度は批評者としては不適切である。
なお、上では「「進化が自然発生している」と「デザインやアートなどの創造性もまた、自然発生する現象 (である)」の間に論理的ジャンプがある」と述べたが、上で引用したように太刀川氏は引用部位の直前に「創造的現象のように見える生物のデザイン」と述べているので、ここでの「もし進化が自然発生しているなら」というのはそのような「創造的現象のように見える生物デザイン」という意味が含まれていると読むのが自然で、その場合論理的なジャンプは特にない。ここも引用範囲の不足によって読者の解釈に歪みが発生するポイントであり、このような不適切な引用が批判集には多い。
なお、上では太刀川氏の主旨が無意識の創造過程にあると断言に近いような主張をしてしまったが、『進化思考』を読むと、ここで太刀川氏が言っているような変異と適応の往復というのが、プロダクト生成レベルのトライ&エラーのことを述べているのか、それとも頭の中での(特に無意識の)アイデア錬成過程のことを言っているのかは明確には断言できない。というのは、どちらに関しても『進化思考』にて具体的に言及しているからである。したがって、真意は片方のみなのに誤って混同してしまったのか、または両方含むような概念として考えているのか読者からは分からないので、その辺の区別や関係性などについてもう少し詰めた説明をした方が良いと思う。ただ個人的には、『進化思考』というタイトル、及び思考レベルでの往復の説明が相対的に多いこと、また進化思考に関する概要パートである第一章にて「こうした発想と取捨選択を超高速度で繰り返しているのが思考の構造なら、私としては大いに納得がいく。天才と呼ばれる人たちは、誰でもできることを、高速で繰り返す癖がついているのではないか。もしそうだとすれば、創造性とは、天才だけに再現可能な、秘密のベールにつつまれた魔法ではなくなり、実習可能な技術となる。私自身、長年にわたってデザイナーとして何かを作る仕事をしてきた。そんな私にとっても、この変異と適応の往復が、アイデアを考える頭のなかで起こっている感覚が確かになる。」(『進化思考』p.40) と述べていることから、主旨のウエイトとしては思考レベルのアイデア錬成過程にあるのではないかと思う。
| それと同じように、変異と適応の往復によって、私たちは創造性を発
| 生させられるという考え方が、進化思考だ。そう、進化思考の挑戦
| は、創造が自然発生するプロセスを解き明かし、多くの人に創造性を
| 伝えられる教育を生み出すことだ。(p.276)
I: 発生させられる、なら人工発生とでも言うべきで、自然発生ではないのではないか。意味が全く逆だと思うのだが。相変わらず「創造」「創造性」の定義が不明だ。
💛本来自然発生するものを意図的に発生させるということを言っているのであれば別に問題ないのではないだろうか?また無意識的な自然発生プロセスを意図的にドライブするという話をしているようにも見える。
また「相変わらず「創造」「創造性」の定義が不明だ」とのことだが、おそらく太刀川氏は「創造行為、及びその結果」の意味で「創造」を、「創造を生み出す能力・性質」の意味で「創造性」を使用しているように思われる。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、ここまで説明してきた通り、太刀川氏は自然発生するものを意図的に発生させるといった話をしている訳なので何も問題はない。太刀川氏がここで云っている「自然発生」とは、初めから完璧な対象を企図せずとも変異と適応の往復によって最終的には優れたデザインに至るといったことであり、その過程を人為的にドライブすることは、その過程の中身である「自然」を否定しない。
| このように、あらゆる創造は、共通の目的を持つ原始的な創造を起源
| として世の中に出現する。(p.277)
M: キーボードのキーキャップを外すクリップ[60]はどんな共通の目的を持つ原始的な創造があるのだろうか?
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
共通の目的を持たなくても、たとえばピンセットのようにキーキャップを外すクリップそのものには影響を与えたであろう道具があるから、そこに直接の継承関係を見出すことはそこまで不自然ではない。
これは話の本筋とはかなり関係ない重箱の隅を突っつく指摘になるが、「ピンセットのようにキーキャップを外すクリップそのものには影響を与えたであろう道具がある」いうのには全く同意できない。ここで松井氏が言っているのは所謂キーキャッププラーのことだが、二つの針金の輪をキーキャップ下に引っかけて抜き取るそれに、ピンセットの影響は全く見えない。ピンセットの本質はモノを挟むというところあるが、キーキャッププラーは特に挟むという動作行為とは関係ない。たしかに二つの針金の輪が挟むように引っ掛かって機能するが、それは元々近接している針金が弾性によって元に戻ることによるものであり、ピンセットのように指の筋力で挟むという動作とは関係ない。
ちなみにキーキャッププラーには環状のプラスチックに足が生えた、形状的にはややピンセットっぽいものもあるが、これも結局指の筋力で挟む訳ではないし、松井氏が[60]で引用しているのは上で説明した針金状のものである (画像2,3) [34]。
| 敬意と疑問の繰り返しによって前例を超えたとき、初めてその創造は
| 歴史に刻まれる。(p.282)
M: 敬意や疑問がないと歴史的な創造は生まれない、というのは成り立つのだろうか。石器が改良されるとき、ヴァイオリンのf字孔が改良されるとき、箸がピンセット型から分割型になったとき、そこに敬意と疑問はあったのだろうか。それらの存在をどのように調べるのだろうか。
📕確かにこの辺は太刀川氏がやや言い過ぎであるように思うが、傾向としてはそこまでおかしくはないだろう。また、「敬意と疑問の繰り返しによって」というのは前例を超えるためのある一つの手段を示しているだけであって、「歴史に刻まれる」ための必要条件ではないと読むことも一応可能ではある。すなわちこの場合「初めて」は「前例を超えたとき」のみを対象としている。実際、太刀川氏はここの引用部位の直前に「このプロセスから分かる通り、前例を超えるには、敬意を持って前例を学ぶ姿勢と、前例に疑問を投げかける姿勢の両方が役に立つ。」(『進化思考』p.282) と述べているが、そこで言っているのはあくまで「役に立つ」であり、決して「必須」「必要」などとは言っていない。
| 系統樹に正解はない。(p.284)
M: 正解と正確は違う。真の系統樹(仮にそれがあったとして!)に達することはできなくても、新しいデータや精密なデータを追加したり、過去の解析の誤りを正したり、より精密な仮定をおいたアルゴリズムの開発などにより、より正確にすることはできるはずだ。
引用部分が少なすぎて太刀川氏の主張がよく見えない。もし太刀川氏が現在の科学理論では系統樹を完全に正確に生成することはできないという意味で現状認識論的な正解はないと言っているのだとしたら特に問題はないだろう。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、この「系統樹に正解はない。」というのはここの小パートのタイトルの一部であり、正確には「系統樹に正解はない。正確さよりも文脈の流れを意識しよう」というタイトルである。またその後に「逆にいえば、分子生物学が登場する以前の系統樹は、正確ではなかったけれど、大局としては十分に機能し、生物進化の系譜を理解するのに支障はなかった。」(『進化思考』p.254)、「つまり、系統樹による分類の細部は、自然科学ですらも絶対的ではない。その探求の本質は、系譜の流れの全体像を理解することにあるのだ。」(同 p.254)、「そこで開きなおって言えば、創造の系統樹は私たちが納得のいくまで調べて、間違いを恐れず忠実に描けばよいのだ。」(同 p.285)、「そもそも正解がないのだから、肝心なのは正確さではない。それよりも系統樹を描くことで見えてくる文脈的な観点のほうが、計り知れないほど重要だ。まずは自分自身の理解のために系統樹を描く姿勢で、あまり構えすぎずに挑もう。」(同 p.285)、とも述べている。したがってこれらの記述を踏まえるに、太刀川氏の趣旨は「かつての自然科学におけるあまり正確でなかった系統樹でさえ十分に役に立っていたのだから、過去の系譜の流れの全体像を大まかに把握するという目的においては、厳密性を重視し過ぎることにそこまで価値はない。そして特に創造の方法論として(個人的に)系統樹を用いる際は尚更そうだろう」といったものであるように思われる。つまり、太刀川氏は単に「正解はないから、正確さは捨てていい」と言っている訳ではなく、大局的な系譜の把握という目的の元でのトレードオフの話をしているのではないだろうか?実際、少なくとも太刀川氏は上で引用したように「創造の系統樹は私たちが納得のいくまで調べて」と言っているので、単に正解がないから正確性は全く無視していいと言っている訳ではない。「正解と正確は違う」という指摘を見るに、松井氏は太刀川氏が単に正解と正確を混同していると解釈したようにも見えるが、もしそうならば、やはりそれは本の評者としては読解不足だろう。
あと上で述べたようにここは正しくは「系統樹に正解はない。正確さよりも文脈の流れを意識しよう」というタイトルであり、ここで二文目を省略する理由がよく分からない。本文中だったら百歩譲って許せなくもないが、タイトルとしてまとめて機能しているものを一部省略するのは不適切ではないだろうか?しかも見て分かるように文も短く、全部記載したところで大して文章が嵩張る訳でもない。またそもそも松井氏は二文目の「正確」についてコメント内で語っている。ここまでも批判集には引用から全く読み取れないことについて言及している箇所が多々あったが、松井氏(と伊藤氏)は引用を住所か何かだと勘違いしている可能性が高い。もし仮に明確に『進化思考』の副読本として出版するのであれば、批判集の読者は皆『進化思考』を所持しているという前提になるので、そういった住所的な最小限の引用でもいいかもしれないが、実際はそういった売り方は特にされていない訳であるし[3]、やはりセットで売られている訳でもない独立した本でこういった不適切な引用が多々存在しているというのは批評本としては致命的な問題だろう。
| これは創造に限らず生物学でも同じで、近年まで生物の進化図も厳密
| な正確さは保証されていなかった。(p.284)
M: 厳密な正確さとは? 真の系統樹には至っていない、という意味であれば、今もそうだろう。どれだけデータを追加しアルゴリズムを改良したとしても、我々は真の系統樹に至ることはできない。そうではなく、より正確になった、ということであれば、近年のどのような進歩によって正確さが保証されるようになったのだろうか。生物の進化系統樹にはconfidenceを付記することがあるが、それはアルゴリズムから見た自信であって、たとえそれが100であってもそれが「絶対に正しい宇宙の真理」であるということにはならない。また、p.293などにもでてくるが、「進化図」=「系統樹」ならば「系統樹」に統一したほうがよいのではないだろうか。
📕確かにこの辺の太刀川氏の記述は分子生物学的手法を絶対視し過ぎだが、ある程度飛躍的に正確性が増したのは確かだろう。また「近年のどのような進歩によって正確さが保証されるようになったのだろうか。」と述べているが、太刀川氏はこの引用部位の後に同ページ(p.284)にて「その後に正確な系統樹が描けるようになったのは、なんとリンネから二五〇年近い歳月を経た二〇世紀の終盤に、DNAの解析技術が確立した以降のことだ。」と述べている訳なので、その辺の太刀川氏の意図は明らかに分かるだろう。松井氏は以降の指摘にてその辺の分子生物学的な話についても引用して言及しているので、ここの指摘はそういった以降の部分を読む前に書いたということなのだろうが、一般に同ページ内程度の内容であればそれも含めて批評すべきではないだろうか?少なくとも今は異なるパートとして分かれている訳でも、一行挟んで段落が分かれている訳でもないので。
また、もし仮に太刀川氏が単に分子系統学の台頭について言っているだけだと確信しつつも、「私の理解では分子系統学であっても正確性は保証されていないはずなのだが、太刀川氏はどんな新情報を持っているのだろう?気になる...」といったような皮肉的な意図の記述であれば、そういうのは本当にやめた方がいい。
| 分子生物学の台頭によって、いきなり系統の順番がわかるようになっ
| たのである。(p.284)
M: 今までも地層などで判定する方法はあったのだし、表現型をもとにした分岐学でも表現型が出現した順番は推測することができる。また分子系統学を使えば100%の確度で順番が「わかる」ようになるわけではなく、より頑健で信頼性が高く客観的な証拠が手に入るようになったという改善だった。それが途方もない改善だったことに異論はないが、「いきなり」すべてがありありと見えるようになったわけではない。
📕確かにここでの太刀川氏の記述は分子生物学の発展によって系統関係が完全に正確に把握できるようになったかのようなものであり、それ自体は確かに誤りであるが、かつてよりも格段に把握しやすくなったのは事実だろう。またこの引用部位だけを見ると、太刀川氏が分子生物学の台頭以前は系統関係をほぼ把握できていなかったと言っているように見えなくもないが、太刀川氏はこの引用部位の2~5文前にて「また、進化図の順番も不確かだった。前述の通り、もともと生物の進化図は分類学から始まった。では生物学者がどのように順番を決めていたかといえば、形態や地層の年代の違いを観察し、専門家同士の見解を学会や論文で交換しながら決めていたわけだ。当然、位置づけに迷う生物の化石も出てくるし、根拠が曖昧なまま順序を決めることもあった。」(『進化思考』p.284)というように、ある程度の系統の把握はできていたと述べている。また同様にp.285でも「逆にいえば、分子生物学が登場する以前の系統樹は、正確ではなかったけれど、大局としては十分に機能し、生物進化の系譜を理解するのに支障はなかった。」というように述べている。したがって、松井氏がどういう理由で「今までも地層などで判定する方法はあったのだし、表現型をもとにした分岐学でも表現型が出現した順番は推測することができる。」と言っているのかよく分からないのだが、もし仮にこれが「太刀川氏は分子生物学的手法の登場以前は一切分岐の推測ができていなかったと思っている」と考えての指摘であるのならば、申し訳ないがそれは本の評者としてはだいぶ読解力不足だろう。またそうではなく「太刀川氏の説明は、これまでは形式的な手法が一切存在せず学者達による非形式的な議論のみに基づいて分岐を推測していたと言っているように見えるので、一応ある程度客観的な形式的手法は存在していたということを言いたい」という趣旨の指摘であれば、その意図そのものは問題ない。しかしその場合も、やはり松井氏の説明の仕方だと、あたかも太刀川氏が分子生物学の台頭以前は系統関係の把握がほとんどできていなかったと考えているようにも見えるので、その辺はやや不適切であると感じる。(ただ、一応批判集の次の指摘部位(本稿では引用していない)において、先ほど挙げた「逆にいえば、分子生物学が登場する以前の系統樹は、正確ではなかったけれど、大局としては十分に機能し、生物進化の系譜を理解するのに支障はなかった。」(『進化思考』p.285) という太刀川氏の記述を引いているので、ある程度は系統の把握ができていたと太刀川氏が考えていることは、ここまで読め進めれば分かる)。
| つまり系統樹による分類の細部は、自然科学ですらも絶対的ではな
| い。(p.285)
M: 自然科学に絶対などあるのだろうか。「ですら」とあるが、自然科学ほど「絶対」から遠い理念もない気もする。反証可能性のない絶対的な分類が自然科学で受け容れられることはないと思う。
自然科学に厳密な意味での絶対がないのはその通りかもしれないが、現実的にはほぼ絶対と言えるようなことはいくらでもあるだろう (例えばカブトムシの祖先が馬でないことはほぼ絶対である)。なお以上は総合的命題に関してであって、自然科学における定義の上での分析的命題であれば絶対は普通に存在する。
また「自然科学ほど「絶対」から遠い理念もない気もする」とのことだが別にそうでもないのでは?社会科学や人文科学よりも「絶対」から遠いとは別に言えない気がするし、個人的印象としてはむしろ社会科学や人文科学の方が絶対から遠いと感じる。
| 実際の発明者が、他から強い影響を受けていたとしても、それが客観| 的な記録に残されていなければ、その発明の先祖を正確に定義するこ| とは不可能といえるだろう。(p.285)
M: ここでの「定義」という言葉の意味がわからないが、単純な誤植かもしれない。系統学でいうところの祖先推定のことだと仮定する。前述の生物の進化系統樹と同様、より精密で信頼のおけるデータの追加や推定アルゴリズムの改善などによって、発明の先祖をより正確に推定する試みは不可能ではない。たとえば人工物のコード化であれば、椅子の差異を印象からコード化する方法(日光浴にむいていると思うか、ワクワクする気持ちになるか、3万円なら欲しいと思うか、など)よりも、形状や部品の有無によってコード化する方法(背もたれがあるかどうか、背もたれはフカフカか、背もたれの材質は布か、など)のほうが客観的で信頼がおけるだろう。そしてそういった方法を使えば、もしかすると東京オリンピックのロゴのようなパクリ疑惑が生じた際に、それらが相同なのか相似なのかが議論できる…と思っているのだが、そういった研究は寡聞にして知らない。
💜ここで太刀川氏が言っている「定義する」というのは単に「知る」とか「決定する」とかそういう意味だろう。また松井氏はそれ以降の部分で「より正確に推定する試みは不可能ではない」という程度 (degree) の話を延々と語っているが、太刀川氏が言っているのは (認識論的に)「正確に定義すること」 (定義を祖先推定としても同様) が可能かどうかであるので話がズレている。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの引用部位の直前に「つまり、系統樹による分類の細部は、自然科学ですらも絶対的ではない。その探求の本質は、系譜の流れの全体像を理解することにあるのだ。生物学ですら二五〇年間そうだったわけで、ましてや創造の系統樹にいたっては、客観的な正解は存在しない。」(『進化思考』p.285) と述べている。したがってここで太刀川氏は、DNAといった客観的な遺伝情報が存在しない人工物においてはその系統樹を生成することは認識論的に不可能であるといったことを言いたいように見える。そして実際、ある創造物の発明がそれ以前のどの創造物にどれだけ影響を受けていたのかを正確に把握することはほぼ無理な訳なので(例えば全く違うカテゴリーのモノから着想を得ていた場合、それを他人が把握するのは極めて難しいだろう)、創造の系統樹が生物のそれに比べてかなり不正確なものになるというのは正しいだろう。松井氏は形状や部品といった客観的要素から話を進めているが、彼は創造・発明というのが人間の思考・行為であることを見落としているように見える。部品などの客観的要素から作られる系統樹には思考や行為の要素が十分に含まれていない。松井氏は進化思考に関する学会シンポジウムでもユーザー主導/デザイナー軽視の立場を取っていたが (「デザインのプロセスってのは、実は、実際はデザイナーのものではなくて、えっと、むしろユーザーがデザインしてるという方が私は正しいと思ってます」(シンポジウム動画[128] 24:15辺りの発言))[129]、そういったデザイナーの希薄化も今述べていた思考・行為の軽視に繋がっているように感じる。例えば、松井氏がそこで挙げている「パクリ」のような話では、ある程度のラインで話を落とし込まないと社会が回らない訳なので、そういった意図や思考を厳密に考慮せずに対象物の客観的なパクリ度(類似度)からパクリを判定していく(そしてそういう客観性を基にした社会を構築する)必要があるのかもしれないが、そういった社会活動的な話とは別の純粋な系統関係の把握においては上記したような多くの困難が存在しているのである。
| そこで開きなおって言えば、創造の系統樹は、私達が納得のいくまで
| 調べて、間違いを恐れず忠実に描けばよいのだ。(p.285)
M: あまりに非科学的で、ダーウィン登場以前の博物学と大差のない思い込みに感じる。文化系統学を使わない理由はどこにあるのだろう。当書は進化学に関連する本であると謳っているが、進化学が提供する既存の手法や考えをとりあげずに、しばしば自らの思うところを述べるのみにとどまっており、進化学との関連は基本的にない。
I: 何に対して「忠実に」描け、と言っているのかよくわからないが、次の文に「肝心なのは正確さではない」とあるので、「事実」に対して忠実に描け、というわけではなさそうだ。「こうかもしれない」「こうであってほしい」という己の「願望」や「妄想」に忠実に描け、ということだろうか。そして正確ではないものを「系統」と呼べるのだろうか。要はトニー・ブザンの発想法である「マインドマップ」に時系列を取り入れたもの、ということだろうか。
💜ここも引用部分が少なすぎて太刀川氏の主張がよく見えない。文化系統学を使わないということを太刀川氏は明確に主張しているのだろうか?もしそう言っているのであれば問題だが、一つ上の指摘部分を見るに、太刀川氏は単にDNA情報に相当するものがない分、創造の系統樹は生物の系統樹に比べて正確性が落ちざるを得ないという話をしているだけにも見える。また「文化系統学を使わない理由はどこにあるのだろう」とのことだが、もし太刀川氏が単に文化系統学を知らないだけであれば、それは知らなかったゆえにその手法を使おうとしなかったというだけの話であり、選択肢として知っているのに敢えて使おうとしないかのような表現は不適切ではないだろうか?
「「肝心なのは正確さではない」とあるので、「事実」に対して忠実に描け、というわけではなさそうだ」というのも、引用の前後が抜けているので太刀川氏がどのような意図で言っているのかが分からず評価不能である。科学的に十分突き詰められるレベルの正確性すら求めないと言っているのであれば確かに問題があると思うが、単に科学的な限界に思い悩む必要はないということを言っているのであれば特に問題はないだろう。
またここで伊藤氏がいう「事実」というのが何のことなのかよく分からない。真の系統樹といったことだろうか?しかしその場合真の系統樹は認識論的に把握不可能なので、それに忠実に描くということは不可能である (「それを目指して描く」ならば問題ないが)。また客観的なデータという意味で「事実」と言っている可能性もあるが、その場合「忠実」という表現には違和感がある。なぜなら客観的なデータから一意に単一の系統樹が得られる訳ではないからだ。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、上の追記部分で述べたように、太刀川氏のここでの意図は「創造の系譜の流れの全体像を(個人的に)大まかに把握するという目的においては、厳密性を重視し過ぎることにそこまで価値はない」といったものであるように思われる。したがって、これは文化系統学的手法を敢えて使わないという意味も孕みうるが、もし仮にそうだとしてもここでの太刀川氏の目的は「創造の系譜の流れの全体像を(個人的に)大まかに把握する」ことであるので、それの達成度と手間・時間のトレードオフを考えたときに敢えて手間や時間がかかり過ぎる手法は取らないという選択をすることは全く否定されるものでもないだろう。ここで太刀川氏はあくまで創造の方法論の話をしている訳であり、そういった非学術レベルの話であればコストパフォーマンスやタイムパフォーマンスを重視することに意義はあるし、太刀川氏はここで「そこで開きなおって言えば」とも言っており、正確性を多少捨てることに何も問題がないと考えている訳ではないように見える。また、そもそも太刀川氏は『進化思考』p.278にて「また興味深いことに、乗り物の系統樹を作る際、その母型となるような研究を探してみたが、適切なものを見つけることはできなかった。創造の系統樹に関する研究は思いのほか未発達のようだ。」と述べており、これを見るに太刀川氏は松井氏がここでいうような文化系統学の手法を単に見つけられなかっただけであり、文化系統学的手法を知ってて敢えて捨てている訳ではないように思われる。またそういう訳で、上記の通り「文化系統学を使わない理由はどこにあるのだろう。」という、太刀川氏が敢えて既存の科学的手法を用いないかのような批判は不適切だろう。松井氏がこの表現の意味を理解していないのか、または太刀川氏が文化系統学的手法を知っているに違いないという謎の確信があったのか、または太刀川氏が知っていないのを分かってて相手の不勉強を強く糾弾するためにこう言ったのか、または太刀川氏が知っているか知っていないかに関わらず単に自分の知識を誇示したかったのか、また何か別の理由なのかは分からないが、いずれにせよそれぞれ問題があるだろう (二つ目に関しては、もし仮に太刀川氏が文化系統学的手法を知っていると確信できるような情報があったのであれば問題ないが)。
| 実際は、近い遺伝子プールを共有した生物間にだけ生殖的交配が成立
| する(p.286)
M: 遺伝子プールの定義が「繁殖可能な個体からなる集団が保有する遺伝子すべて」なので、「近い遺伝子プール」が何を指すのかよくわからない。また、通常「交配」は人為的なものをさす言葉なので、「繁殖」としたほうがよいと思う。交配は生殖的なので生殖的交配とは同語反復ではないか。生殖的でない交配は存在しないと思う。交配という言葉の濫用は「交配的思考による創造のプロセス」(p.462)などにも見られる(「交配、すなわち有性生殖の獲得」など?)
💜ここでの太刀川氏の主張が誤りなのはその通りだが (おそらく太刀川氏はゲノムのことを指して遺伝子プールと言っている気がする)、「交配という言葉の濫用は「交配的思考による創造のプロセス」(p.462)などにも見られる」については別に問題ないのではないだろうか?前後の文脈はよく分からないが、何か異なる二つのモノからお互いの良いところをいいとこどりした新しいモノを作ることを「交配的」と表現することはそこまでおかしくはないと思う。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、「交配的思考による創造のプロセス」というのは小パートのタイトルであり、そのパートの一文目として「交配、すなわち有性生殖の獲得」(p.462) という記述があるので、松井氏はここで後者の「交配、すなわち有性生殖の獲得」といった記述について批判しているのであって、前者は単に所在の提示またはそのパート全般の考え方がおかしいという意味で挙げたのだと思われる。それで「交配、すなわち有性生殖の獲得」に関しては、確かに上で松井氏が述べているように厳密には「交配」の意味から言って誤りであるが、ある程度概念的な距離が近いのと、交配は有性生殖を含意する訳なので、「すなわち」の意味を緩く取れば多少受け入れられなくもない。
| 遺伝子の変異では、数百万年かけて適応してきた遺伝子を未来につな
| ぐほうが生存確率が高いので、既存の遺伝子を保存する仕組みが働く| ようになったのだ。(p.286)
M: なんの生存確率だろうか? もし遺伝子であれば、生存確率ではなく継承される確率ではないか? 遺伝子に生存・死滅の概念はないからだ。保存・絶滅であればよいかもしれないが、そうであれば保存確率よりは継承される確率のほうがやはりよいだろう。もし遺伝子ではなく個体であれば、適応してきた遺伝子を未来につなぐというのは生存には関係ない。サケは遺伝子を未来につなぐ行為によって生存確率をゼロにする。もしここでの著者の主張が、交雑によって大きく遺伝子を変異させるくらいなら古から受け継がれてきた秘伝のタレたる遺伝子をそのままコピーしたほうが適応度が高まる可能性が高い、ということだったらそのように記述すべきだろう。実際には交雑によって適応度が大きく下がる場合もあれば*、生まれるまでに死ぬとか受精しないなどで交雑がそもそも成り立たないとか、適応度にたいした差が生じない場合も**、適応度が大きく伸びる場合もわずかながらあるだろう。いずれにせよ、この記述はよくわからない。
「既存の遺伝子を保存する仕組みが働くようになった」という記述もよくわからない。遺伝子が大きくかけ離れたヒトとイヌの間で繁殖が成り立たないのが自然選択による適応であるという主張だとしたら誤りではないだろうか。たとえば天変地異により一つの繁殖可能な集団が地理的に分断され長い時間が経ち、その2群からつがいを作ろうとしても遺伝的な乖離が大きすぎて繁殖できない場合、その乖離自体には自然選択が貢献していた*としても、自然選択がその2群を遺伝子的に乖離させようとしたわけではない**。ただ、生殖的隔離自体は適応的なシチュエーションは考えられると思う。たとえば虫Aのうちの一部がある特定の花Xの形にあわせて口吻を変化させBに進化したが、ほかの花Yの形にあわせて進化したCと交雑すると口吻の形がXにあわなくなってしまい適応度が下がるとする。そのためCとは交雑しないように性器の形を独自のものに変えたりすることはありえたのではないかと記憶している。このあたりは専門家ではないので確かではないが。
💛普通に考えてここで太刀川氏が言っているのは、遺伝子の生存確率 (継承確率) ではなくて遺伝子の変異に関連しての個体の生存確率だろう (分かりづらい表現であるのはそうだが)。またp.43,95,105の指摘部分において述べてきたように、ここまで太刀川氏は「生存確率」を「親一匹に対して繁殖年齢まで生存する子数 (またはもっと一般的にある相対経時時間における生存子数) の期待値」の意味で言っていたので、ここでの意味が文字通りの生存確率なのかそれ以前と同じ意味なのかどうかは分からない。どっちの意味でも文章の意味は通るので。
また「適応してきた遺伝子を未来につなぐというのは生存には関係ない。サケは遺伝子を未来につなぐ行為によって生存確率をゼロにする」というのはよく分からない指摘である。適応してきた遺伝子が生存に寄与するものであれば、それを未来に繋がなければ次世代の個体の生存確率が落ちる可能性は十分にある。まあおそらく松井氏はここで繁殖行為そのものがその行為主そのものの生存確率を増加させるかどうかという話をしているのだと思われるが、仮にその観点で話を進めたところで「生存確率をゼロ」という表現にはおかしさがある。確かにサケは産卵や放精の後に急激に老化するが、すぐに死ぬ訳でもないのでこれは別に生存確率をゼロにする訳ではない。ただ死期が早まるだけである。これを生存確率ゼロと表現するならば、究極的にはほぼ全ての生物が遺伝子を未来につなぐ行為によって生存確率をゼロにしていると言える。
また中間の「交雑によって大きく遺伝子を変異させるくらいなら古から受け継がれてきた秘伝のタレたる遺伝子をそのままコピーしたほうが適応度が高まる可能性が高い」云々に関しては、もしここで松井氏が「変異」をmutationの意味で取っているのならば全くの的外れの話である。なぜなら交雑によるゲノムの変化はmutationではないからだ。またvariationの意味で言っていたとしても不適切である。なぜならvariationは状態を意味する言葉なので「させる」と合わせるのはおかしいからである。「変異variationを生み出す・増加させる」といった表現が望ましい。
後半の「既存の遺伝子を保存する仕組みが働くようになった」に対する批判も不適当な気がする。太刀川氏は単にメタ的な進化一般の話をしているだけではないだろうか (一般にそういう議論が存在するかどうかは知らないが)。ある特定の2種や2グループで生殖隔離が進むことが適応進化だったかどうかという話は特にしていないように見える。
また「そのためCとは交雑しないように性器の形を独自のものに変えたりすることはありえたのではないかと記憶している」とのことだが、ここでの「交雑しないように性器の形を独自のものに変えたり」というのは目的論的な進化(ラマルク的な進化)を強く意味するものである。「交雑しないように」「変えたり」単体であれば目的論的・意志的な意味ではないと見ることも可能だが(例:「交雑しないように進化した」「刺激が与えられると形態を変える」)、この二つがセットで使われば普通は目的論な意味として解釈されるし、実際松井氏もそういった意味で(無意識的に)記述してしまったように見える。まあ批判集のここまでの記述からこれはあくまでうっかりミスで、松井氏が進化は目的論的であると考えている訳ではなく、またこういった目的論的表現に問題がないと考えている訳でもないことは確かなのだが、あれだけ太刀川氏のことを強く批判しておいて(「変態主義的な創造論の時代の進化理論の理解を忠実に図示している」(p.20)、「ここにも著者の変態主義的な理解が色濃く現れている。生物の進化は環境の変化に「対処」してあるものが違うものに変わるものではない。」(p.159))、自身もこういったミスを犯してしまうということは、結局松井氏の理解も不完全なのだろう。(なお、個人的には本人が分かっているのならば便宜的に目的論的な説明をしても問題ないと思っているが、人に対してそれを禁止するならばその人自身のそれも批判対象となる)。ちなみに、松井氏はp.133でも「たとえばヒトの眼球において、網膜の上に血管を走らせるというとんでもない位置関係を採用したせいで血管を除くよう画像処理をしなければならず、」といったように「走らせる」「採用」という意志的・擬人的な表現を用いている。
| このように異種交配は、自然界では稀にしか発生しない。(p.286)
M: それはそうだが、ポピュラーな種の定義においては、生殖が可能な個体どうしに同種と考えるので、まず種が思ったほど明確な分割を提供しないことを念頭に置く必要がある気がする。同時に、人為的な交雑であれば自然界ではまず起こらないような交配も起こせることを説明したほうがよい気がする。
💛この指摘もよく分からない。引用部分の前後に述べていることに関連しての指摘なら問題ないかもしれないが (そうだとしてもちゃんと引用すべきだが)、引用部分のみへの指摘としては不適当だろう。引用文そのものには「交配」の語用以外は特に突っ込まれる点は存在しない。
また「種が思ったほど明確な分割を提供しない」というのも何を言いたいのかよく分からない。種の定義は多くあり、種というものは一般の人が思うより曖昧なものであるというのは確かだが、松井氏は生殖可能性に関する種概念"のみ"を挙げて、そうであるから「種が思ったほど明確な分割を提供しない」と言っているので、種概念の複数性に基づく論理は当てはまらない。生殖可能な個体どうしを同種とするならば、生殖可能性に基づいて種がクリアに定義されるというただそれだけである。何がどう明確な分割を提供しないのか謎である。可能性としては、生殖可能であるかどうかそのものの判断が曖昧であると言っているか、または生殖可能性に基づく種概念のみを以って曖昧性を語っているように見えるが実は頭の中では他の種概念との整合性も踏まえて曖昧性を導き出していたか、のどちらかが考えられる。
またそもそも「種が思ったほど明確な分割を提供しないことを念頭に置く」ことで「種間交雑が自然界で稀にしか発生しない」ことに対して何が言えるのか今一分からない。おそらく文脈的には人間が想定している以上に種間交配が起こっているということを言いたいように見えるが、それを言う為には論理的な隔たりがある気がする。おそらくこの話は本稿における次の次の次の指摘 (p.149-150の進化の結び目の話) で言っていることと同じ話だと思うので、そっちで改めて詳しく述べる。
なお松井氏がここで言っている種概念はおそらく「生物学的種概念」のことだと思うのだが、その場合「生殖が可能な個体どうしに同種と考える」は誤りである。生物学的種概念はその子孫も繁殖能力を持つことを必要とする。松井氏の説明ではレオポンを生むライオンとヒョウは同種になってしまう。そして、「生殖が可能な個体どうしに同種と考える」というのが単なる記述ミスではなくて、子を作れることのみを以ってその二個体が同種と見なされると松井氏が本当に考えているのならば、「種が思ったほど明確な分割を提供しないことを念頭に置く必要がある気がする」という指摘は、太刀川氏が異種交配と言っているものにはそもそも異種でないものも含まれるのではないかいう指摘なのかもしれない。もちろん上記のようにそもそもそのような松井氏独自の種概念は一般的でないのと、もし松井氏の主張を受け入れたとしても、その場合そもそも「異種交配」が矛盾する概念になるという問題が発生する(一応複数の種概念を併用すればそれを回避できるが)。ただこれ以降の部分で「異種交配は水平伝播よりも頻繁に起きているのではないだろうか(そもそも種の概念が人間による恣意的なものであるため)」(p.150) と松井氏は言っているので、(今は水平伝播との相対的な比較ではないものの)ここでの意図も太刀川氏が思っているほど異種交配は多いということである可能性が高い。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、この引用部の一つ前の文は先ほどの指摘部位である「遺伝子の変異では、数百万年かけて適応してきた遺伝子を未来につなぐほうが生存確率が高いので、既存の遺伝子を保存する仕組みが働くようになったのだ。」(『進化思考』p.286) で、直後は「それに対して、創造では頻繁に発生する。」(同 p.286) であり、両者とも批判集において個別に引いて批判されている訳なので、ここで松井氏は特に引用部の前後の内容に関連して批判している訳ではないと思われる。
| それに対して、創造では頻繁に発生する。(p.286)
M: まず創造における種と異種、交配の概念を整理しなければこの主張はできないだろう。当書では「空想のなかでの犬」や「空想のなかでの人」が種であり、それらが異種の関係にあり、狼男はそれらの交配であるとしている。まず、ここでの文化的な交雑を無理やり「思いがけない、くっつきそうにもない文化的な概念がひとつの塊として新たに生成される」ことであると定義してみよう。「思いがけない」とか「くっつきそうにもない」といった判断基準が主観的で好ましくないと思う方は、「今までくっついたことのない、実践されたことのない、実装されたことのない、発話されたことのない、概念」でも構わない。すると犬と人は、生物学的には、生殖的隔離が甚だしいために「かけ離れた」種であることは一目瞭然である。それに対し、「空想のなかでの犬」と「空想のなかでの人」はそこまでかけ離れているといえないのではないか、という気がしてくる。それどころか、理念や概念に関して言えば、いくらでもかけ離れた二者をくっつけて発話し、他のひとに伝達することができそうだ。「メタルなごぼうが支配する非営利国会」。「1億年先から来た家康がノートPCを開発する」など。いくらこれらがクレイジーで意味不明であっても文としては成り立っているし、あなたの脳にはメタルなごぼうに支配された国会が思い描かれているはずだ。それに対し、持続的に、継続的にある人からある人にその新概念が伝達され、変異されるかどうか、つまり文化的な適応を獲得できるかどうかを基準に加えると、生殖的隔離ならぬ「アイディアが融合してひとつになれるかどうか」の隔離の基準になる。メタルごぼうの独裁のような意味不明なアイディアは受け入れられず、この新概念が継続的に伝達されて人々の意識や知識の片隅を占拠し続けることは難しくなる。さらに、単なる概念ではなく、実際に現実世界に存在できるか、になると一段と厳しい隔離条件となる。まずは異種交配ではなく、単体で存在できるかを考えてみよう。永久機関の考えは昔からあるものの、それが頭から漏れ出して現実世界で実現したことは一度もない。三角形の概念は小学生以上であれば誰でも持つことができるが、この世に三角形は存在せず、概念の世界でのみ存在できる。創造にも前述のような「自然条件下」の交雑と「人為的な」交雑のような区別はしようと思えばできる。たとえば前者が意図しない交雑、たとえば誤植によって「不幸の手紙」が「棒の手紙」になった事例のように、棒の概念が不幸の手紙の文脈と「交雑」するもの、後者は意図した交雑、たとえば狼男のようなものだ。
長々と述べているが、結局何を言いたいのかよく分からない。初めのほうでは「それに対し、「空想のなかでの犬」と「空想のなかでの人」はそこまでかけ離れているといえないのではないか、という気がしてくる。それどころか、理念や概念に関して言えば、いくらでもかけ離れた二者をくっつけて発話し、他のひとに伝達することができそうだ」というように、「空想のなかでの犬」と「空想のなかでの人」が別種であるという太刀川氏の主張に否定的であるように見えるが、最後のほうでは「創造にも前述のような「自然条件下」の交雑と「人為的な」交雑のような区別はしようと思えばできる。~ (中略) ~ 後者は意図した交雑、たとえば狼男のようなものだ」というように狼男を交雑として認めている (すなわち「空想のなかでの犬」と「空想のなかでの人」が別種であると認めている) ように見える。それとも一番初めに「まず創造における種と異種、交配の概念を整理しなければこの主張はできないだろう」と言っているようにここではただ概念整理をしたかっただけであり、特に太刀川氏の主張そのものを批判している訳ではないということだろうか?そうであれば、ここで行われれている議論内容そのものには特に異論はない。
| この創造の系統樹上で頻発する再結合を、進化思考では「進化の結び
| 目(evolutionary knot)」と呼んでいる。(p.287)
M: わざわざ新語を開発しなくても進化学には水平伝播という用語があるので、そちらを使ったほうがよいと思う。
💜引用部分が少ないので太刀川氏が云う「再結合」というのが具体的にどのようなものを指しているのか分からないが、交雑に基づく進化についても言及しているのであれば、別に問題ないのではないだろうか?交雑は遺伝子の垂直伝播であり、当然水平伝播には含まれない。もし太刀川氏が交雑も含めて再結合を語っていることが自明ならば、松井氏は種間で遺伝子交流があること一般が水平伝播であると勘違いしている可能性がある。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの直前で「たとえば、車輪と馬が馬車になったり、船と自動車が水陸両用車になったりと、創造では異種も簡単に融合するのだ」(『進化思考』p.286) や「異種交配的な融合によって新種が発生すると、系統樹にも変化が現れる。つまり創造の進化系統樹では、分岐だけでなく分岐の先端がふたたび結びついたような網状の接続が頻繁に現れるのだ。」(同 p.287) と述べている。したがって、少なくともここで太刀川氏は創造における異種交配(種間交雑)も含めて「進化の結び目(evolutionary knot)」を語っている。そういう訳で、こういった創造における掛け合わせを「異種交配(種間交雑)」として捉える見方は絶対ではないものの、少なくとも太刀川氏はそう捉えている訳なので、ここで垂直伝播である種間交雑の話に水平伝播を持ってくるのは不適切だろう。もし仮にそもそも創造の掛け合わせを種間交雑として捉えることを不適切だとして述べているのならばその意図そのものは問題ないが、単に遺伝子交流について言うなら水平伝播で良いよねという意図で述べているのであれば、上で述べたように松井氏は水平伝播の意味をよく理解できていない可能性が高い。ただ松井氏は批判集p.117にて「水平転移=水平伝播は生物進化では世代間(垂直)ではなく世代内での遺伝子のやりとりだし、文化進化では水平伝達、垂直伝達、斜めの伝達を類似の意味で使い分ける。」と述べているので、その辺の違いについてある程度は理解できているように見えるし、また一つ上の指摘部分において「創造にも前述のような「自然条件下」の交雑と「人為的な」交雑のような区別はしようと思えばできる。たとえば前者が意図しない交雑、たとえば誤植によって「不幸の手紙」が「棒の手紙」になった事例のように、棒の概念が不幸の手紙の文脈と「交雑」するもの、後者は意図した交雑、たとえば狼男のようなものだ。」(p.149) というように最終的には創造における掛け合わせを交雑と見做すことに同意しているかのように述べているので、ここは単に太刀川氏が創造における掛け合わせを種間交雑と見做していることや種間交雑も含めて「進化の結び目」を語っていることを読み取れていない故の指摘であるようにも見える。そしてもし仮にそうならば、それは批評者としてはだいぶ読解力不足である。
| 頻度の差は違えども、特に原始動物を中心に、実は生物にも「進化の
| 結び目」は頻発しているのだ。(p.287)
M: 生命の歴史全体を眺めればたしかに水平伝播は頻発しているし、その進化上の意義も非常に大きい。しかし、その前のパラグラフでは「異種交配は、自然界では稀にしか発生しない」としているのが気になる。多細胞の有性生殖を行う生物の間では、異種交配は水平伝播よりも頻繁に起きているのではないだろうか(そもそも種の概念が人間による恣意的なものであるため)。どのタイムスパンを想定して「頻発」とか「稀」と表現しているのだろうか。たとえば大量絶滅は生命の歴史全体のスパンであれば頻発しているが、日常的な人生くらいのタイムスパンであれば極めて稀だというべきだ。
💛太刀川氏が云う「異種交配」というのが単なる種間交雑ではなくて、生殖可能な子孫を生む種間交雑を意味しているのならば、それはそこまで頻繁に発生するものではない (植物では割と起きるが動物では珍しい) 。
また「(そもそも種の概念が人間による恣意的なものであるため)」という理由付けもよく分からない。「異種交配」は「種」を前提とした概念であるのだから、種概念が恣意的であることは異種交配がより頻繁に起こることに特に寄与しないように思われる。松井氏は、①「複数の種概念を全て考慮すると通常思われている以上に種間交雑は多く起こっている」ということを言っているか、または②「人間による種概念とは別に「存在論的な真の種」があって、その真の種のほうが人間における種概念における分類よりも細かい、故に真の種間交雑は想定よりも頻繁に起こっている」ということを言っているか、または逆に③「種概念は「存在論的な真の種」よりも細かいものである故、人間の認識上は真の種間交雑よりも多くの種間交雑が起こっているように見えている」と言っているか、または④「恣意的な種概念を取っ払ってもそこには曖昧な「種モドキ」という謎の分類が存在して、それが通常の種概念よりもより細かいものである、かつその「種モドキ」にもなぜか異種交配という概念が適用できる、故に種モドキの種間交雑は想定よりも頻繁に起こっている」と言っているかのいずれかであるように思われる (個人的な推測としては、言い回しや文脈からするに②または④について言っているような気がする。なおもちろん④の考え方はおかしいし、②③については種概念と真の種との種数差に関する前提に特に根拠がなく、①についてはその内容そのものはおかしくないが、そう考えることに特に意味はない気がする)。なお、④に関しては何を考えて私がこの説を唱えたのか分かりにくいと思うので解説すると、「そもそも種の概念が人間による恣意的なものであるため」という松井氏の記述から、松井氏が本質的に恣意的な種概念を全て取っ払った先に何か人知を超えた細やかな生物"種類"間の交雑を見ているように思えたのだが、そうするとそもそも種間交雑という概念が成立しなくなってしまうので、「種モドキ」という曖昧な概念を導入したという訳である。また、以上は種の分割に関連して種間交雑が多く起きているという話に過ぎず、これは水平伝播との比較というここでの話とはズレているようにも見えるが、水平伝播は同種・別種関係ない概念なので、種の分割に依存した種間交雑の増減は水平伝播との差を生む要因となるため特に問題はないし、松井氏もおそらくそういう話をしたいのだと思われる。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏がここ以前に「異種交配は、自然界では稀にしか発生しない」と言っていたのは、文字通り、異種交配(種間交雑)についてのみなので、ここでの「「進化の結び目」は頻発しているのだ。」と特に矛盾している訳ではない (この後太刀川氏はクマムシにおける水平伝播やCRISPR-Cas9に関して(後者は人為的にという意味で)進化の結び目を語っており(「頻度の差は違えども、特に原子生物を中心に、実は生物にも「進化の結び目」は頻発しているのだ。近年のDNA解析によって、異性物間での外来遺伝子の交換がDNAに刻まれているという事実が確認されている。たとえば最強の微生物といわれるクマムシをゲノム解析した結果、複数の生物界に由来するDNAが大量に含まれていることが判明した。」「また近年では、遺伝子を自在に編集できるCRISPR-Cas9といった技術が登場し、人為的にDNAを融合して進化の結び目を生み出す技術が飛躍的に向上した。」(両方とも『進化思考』p.287))、すなわち彼は「進化の結び目」を種間交雑に限らない概念として考えている。なお、p.57で林氏に指摘されていたが、クマムシのそれは実際にはコンタミによる実験ミスである。ただ、そうであっても太刀川氏が水平伝播も含めて「進化の結び目」を考えていることそのものは変わらない)。
| 今から五〇年前の道具を、私たちはもうほとんど使っていない。
| (p.289)
M: 実感できない。「今から五〇年前の道具」の意味するところが「50年前に使われていた道具」であれば、服、鉛筆、メガネは50年前も今も使われている。「ちょうど50年くらい前に開発・発明されたもの」であれば、MRIは1969-1977年あたりだ。パーソナルコンピュータはXerox Altoが1973年だ。Altoそのものを使っていないからPCは50年前の道具ではないというなら、私の万年筆は70年代、ダイニングテーブルは60 年代の製造だ。開発・発明が50年前で、そのころからほとんど全く姿を変えずに使い続けられているものであれば、Wikipedia[61]を参考にすればペットボトル(1967)、ハイパーテキスト(1968)、CCDイメージセンサ(1969)、カップ麺(1971)などは(もちろん数々の改良が加えられているとはいえ)今も生きる技術だろう。電子メール(1971)や QWERTY配列(1880年代)など、むしろ今風にアップデートされるべきでないかと感じられるような化石技術も未だに広く使われている。
「ほとんど」というのは確かに言い過ぎだが、使われなくなった道具が多くあるのは確かだろう。50年前かどうかは置いておくが、例えば、タイプライター、ラジカセ・VHS、足踏み式ミシン、豆炭あんか、水銀体温計、白黒テレビ・ブラウン管テレビ、かつお節削り器、などは現在では少なくとも一般家庭ではほぼ使われていない。また松井氏は「服、鉛筆、メガネ」といった緩い括りで述べているが、服はファッション一般の移り変わりは大きいだろうし(特にブリーフや褞袍などはだいぶ減っただろう)、メガネもかつてはガラスレンズが主流だった。また鉛筆もそれそのものは昔と変わらないが、かつては鉛筆削り器ではなくて肥後守などのカッターで削っていた。
| それが不都合だと気づき、解決方法を思いついた人であれば、誰もが
| それを創造し得たからだ。(p.290)
I: 恣意的になのかわからないが、アレグザンダーと違うことを書いている。この書き方だと「解決方法を思いつく」つまりある種の正解を出す力が要求されるかのように思える。アレグザンダーは「不都合に気づいたとき、何らかの変化をほどこせば良い」とし、その変化は「必ずしも」「正しくある必要はない」、またその際には「代行人には強い創造力は不要であることを理解するのが特に重要である」と言っている[64]。これは進化における遺伝子のランダムな変異変異と近いので、アレグザンダーの言葉を正しく引用しても当書にとって都合の悪いところはなかったと思うのだが。
ここでのアレグザンダーの言葉というのは、この一つ前の指摘(本稿では引いていない)で引用されていた「Misfit provides an incentive to change; good fit provides none.(不適合は変化の動因となり、良い適合はそうはならない。)」(p.150) を指すのだが、もしここでの太刀川氏の記述が別にそのアレグザンダーの主張そのものの説明ではないのだとしたら特に問題はないのではないだろうか?この辺も引用が断片過ぎて太刀川氏の主張がよく見えず、批判の妥当性を判別することができない。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏のこの引用部位はアレグザンダーの言葉について説明しているところなので伊藤氏の指摘は正しい。
| なぜなら私は、創造という現象もまた、生物の進化と同じように、適
| 応に導かれて自然発生すると考えているからだ。(p.290)
M: 適応に導かれるとは一体どのような状況を指すのか? 適応というか自然選択は進化の中核をなす1プロセスなので、生物進化は適応に導かれるわけではない。
I: 創造は「代行者」(agent)を依り代に「自然発生」する「現象」、という立場をこれ以降とるのだろうか。しかし、続く文では「個人の意志」が必要なようなので、いわゆるアイディアなどが「降りてくる」と言いたいのだろうか。だとすると「次なる創造性に火をつけるのだ」という文の「創造性」という語がよくわからなくなる。「創造」の「自然発生」の確立を高める性質が「創造性」ということか?
💛「適応に導かれる」において太刀川氏が言いたいのは、単に環境にフィットする方向に進化していくとかそういう意味ではないだろうか?適応度地形を上るように。
また「適応というか自然選択は進化の中核をなす1プロセスなので、生物進化は適応に導かれるわけではない」という論理そのものも別に正しくはないだろう。松井氏はここで、プロセスの一部がそのプロセス全体を導くというのはおかしいと言いたいのだろうが、別に必ずしも誤りという訳ではない。適切か適切でないかはプロセスの具体的内容によるが、非歴史的定義(やプロセス的定義)として適応を定義するとき適応は適応進化の必要条件とも言えるので「導かれる」と表現することは別に誤りとは言えないだろう。また単に「進化=適応進化」ではないという話をしているのであれば、厳密には確かにそうだが、ここまでの文脈から太刀川氏が適応進化のことを言っているのは自明だろう。したがって指摘そのものが誤りという訳ではないが、ここまで何度もそれを指摘するチャンスがあったのに今それをここで言うか?という感じではある。
また伊藤氏の代行者(agent)云々はよく分からない。太刀川氏が「代行者」という言葉を出しているのだろうか?そうであるならばそれが分かるように引用すべきである。またそうでない場合、1つ上の指摘部位のアレグザンダーに関する部分で「代行人」という言葉が引かれているものの、一般に膾炙したテクニカルタームというよりは個人的な比喩的用語法に思えるので、もしそうならば意味を説明すべきだろう。普通の人は「「代行者」(agent)を依り代に」と突然言われても意味を理解できない。なお「「創造」の「自然発生」の確立を高める性質が「創造性」ということか?」に関しては、ここは珍しく太刀川氏の主旨を読み取れてる部分であるが、あくまで疑問形であるので、そうであろうと強く思っている訳ではなさそうである(なお、ここでの「確立」は「確率」の誤字として解釈した)。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの引用部位の直後に「個人の意志が目的を生むのではなく、確かな目的こそが個人のなかに意志の火を灯すのではないだろうか。言い換えれば、エラーの発見が、次なる創造性に火をつけるのだ。」(『進化思考』p.290) と述べている。したがって、ここでの「適応に導かれて」というのは、上記のように何らかの意志的なものに拠らずに自然と環境にフィットする方向に進化していくことを述べていると思われる。また伊藤氏がここで云っている「代行者」というのは、太刀川氏がこの直前に述べていた「建築家のアレグザンダーもまた、失敗の発見こそが創造的変化の源泉だと看破した一人だ。そして彼は、創造性によって変化を起こす人を、経緯を込めて職人と呼びつつも、そんな職人たちを「単なる代行者」とも評している。」(同 p.209) に由来するものだと思われる。そしておそらくこれは伊藤氏が先ほど述べていた「代行人」と同じ意味であると思うが、やはり上で述べたように批判集が引用している範囲では言いたいことが今一分からないのでもう少し広く引用すべきである。
| 物質に寿命はないけれど、使われなくなるという意味では道具も絶滅
| する。系統を注意深く俯瞰し観察していけば、失敗した前例や失敗の
| 理由、あるいは本質的な願いもまた浮かび上がってくる。(p.290)
M: 絶滅を失敗と捉えているのだろうか。恐竜は失敗したのか?あんなに繁栄したのに? リョコウバトは失敗作だったのか?あんなに繁栄したのに? Bf-109は現代では全く実戦に使われなくなったが失敗作だったのか?あんなに大量生産されたのに?
💜ここで太刀川氏が「失敗」と言っているのは絶滅一般に対してではなくて、絶命したものの中でも特に失敗と思われているようなものに関してではないだろうか?かつて十分に栄えていたものを出すのは的外れのように思える。恐竜の絶滅は隕石や火山活動といった比較的急な外因によるものと考えられており、リョコウバトも人間という環境的特異点によって絶滅させられたものである (リョコウバトの形質に特段環境に不適応なものがあった訳ではない (人間も環境の一部と言えばまあそうだが、生態系での強さがあまりにも異質) ) 。また、Bf-109に関しては詳しくは知らないが、単にかつて普及していた戦闘機ということであれば、その技術はその後も受け継がれているのではないか?単に技術更新で新たな戦闘機が生まれることによる不使用を失敗と見なすのは誤りだろう。
また引用範囲が狭いためはっきりとは分からないが、そもそもここで太刀川氏が言っているのが人工物のみについてならば、恐竜とリョコウバトを出すのは不適切だろう。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの引用部の直前に「個人の意志が目的を生むのではなく、確かな目的こそが個人のなかに意志の火をともすのではないだろうか。言い換えれば、エラーの発見が、次なる創造性に火をつけるのだ。」(『進化思考』p.290) と述べ、また引用部の少し後に「過去の失敗をなぞるのは創造的でない。なので、どうせ失敗するなら、誰もやったことのない失敗をしたいものだ。過去の失敗を理解し、同じ失敗を回避しながら、新たな失敗に挑戦しよう。」(同 p.290) ) と述べている。したがって、ここで太刀川氏は明らかに創造についての話をしているため、まずそもそも恐竜やリョコウバトという生物の話を持ち出すのは的外れであると思う。また確かに太刀川氏が絶滅一般を失敗として捉えているようにも見えなくもないが、以上の引用や、その後の『進化思考』p.291の「変わるものと変らないもののバランスが保たれたとき、過去からの文脈を時代に合わせる適応が可能となる。このことを、脈々と伝統を受け継いできた昔の人は、よく知っていたのだろう。」といった記述を見るに太刀川氏がここで云う「失敗」というのは、創造初期から的を外していたとか、初めは良かったけどその後時代の変化についていけなかったとか、そういった類のことである可能性が高い。したがって、上記した通り、大いに繁栄していた時期があった生物種・生物グループが急激な外因によってどうしようもなく絶滅したパターンを持ち出すのは不適切だろう。またBf-109に関しても、やはり技術革新による後継機の登場という「Bf-109自身」からすればどうしようもない(諸々の改良だけではどうやっても勝てない)外因がある訳なので、失敗の反例として持ち出すのはやはりおかしいだろう。
| なぜなら、変化しなければ進化もまた発生しないからだ。(p.290)
M: 当書の失敗を恐れず変化していこう、という文脈を考えると、進化を進歩と混同しているのではという印象が強くなる。そのような文脈からの判断なしに純粋にこの文章を読むと、そもそもこの文章はトートロジーになってしまう。(生物)進化は(遺伝子頻度)変化だからだ。進化はよいものだ、進化とは数々の失敗を乗り越えた先にある成功だ、という印象は全編を通して常に拭えない。生物進化における変異から学ぶことがあるとすれば、変化は基本的に悪である(突然変異は大半が有害だから。実際、現代社会でもほとんどの新製品は既存製品を置き換えられず淘汰されていくではないか)、現状維持は基本的に善である(既存の戦略でうまくやってこれたのだから、進化的に安定なはずだ。実際、現代社会でもほとんどの以下略)という、むしろ著者の主張の全く逆のことすら言えるのだ。同じ事実から全く逆の教訓が引き出せる場合、どうすればいいのかは私にはわからない。少なくとも無責任に「変化しないと変化できないから変化していこうよ」と焚きつけることではない気がするのだが…。
💛まず、「当書の失敗を恐れず変化していこう、という文脈を考えると、進化を進歩と混同しているのではという印象が強くなる」については確かにそういう見方もできるが、あくまで「印象」に過ぎず、断定はできないだろう。「失敗を恐れず変化していくこと」は別に進歩を含意しないし、仮に進歩の意味で取ったとしてもそれは進化と進歩が混同されていることを含意しない。太刀川氏が進歩と進化を混同しているという指摘は批判集において多く存在するが、本稿でここまで指摘してきたようにそれらの多くは根拠不十分の決めつけである (とはいえ一部怪しいものがあるのは確か)。
またトートロジー云々については、既に同様のことを指摘したが「(生物)進化は(遺伝子頻度)変化」というのは進化の一定義の話に過ぎない。確かに昨今この定義がポピュラーであるのは確かだが、例えば形質に関する進化の定義も存在する (「羽の進化」「角の進化」など)。オンライン辞書データベースの「ジャパンナレッジ」における「岩波 生物学辞典 第5版」の「進化」の項にも「生物個体あるいは生物集団の伝達的性質の累積的変化.どのレベルで生じる累積的変化を進化とみなすかについては意見が分かれる.種あるいはそれより高次レベルの変化だけを進化とみなす意見があるが,一般的には集団内の変化や集団・種以上の主に遺伝的な性質の変化を進化と呼ぶ.」と書かれている[35]。またそもそもここで太刀川氏が言っている「変化」というのはここまでの文脈からするに「変異」を意味している可能性が高く、もしそうならばそういった単なる変異の発生そのものは進化とは言わない。したがってトートロジーではない。太刀川氏が言っているのは変異が起こらなければ進化は起きないという極当たり前の話のように見える (厳密には生息環境が大きく変わり選択圧が変化すれば新たな変異が発生しなくても進化は起こりうるので、変異の発生が進化に必須な訳ではないが、ある程度固定的な環境を考える限りはそれほど問題はない)。
また「生物進化における変異から学ぶことがあるとすれば、変化は基本的に悪である」「現代社会でもほとんどの新製品は既存製品を置き換えられず淘汰されていくではないか」「同じ事実から全く逆の教訓が引き出せる場合、どうすればいいのかは私にはわからない。少なくとも無責任に「変化しないと変化できないから変化していこうよ」と焚きつけることではない気がするのだが…」というのもだいぶ謎で、太刀川氏は創造性に関する話 (創造性が求められるような場面での話と言ってもよい) をしているのだから、変化を求める記述は別におかしくないだろう。別に太刀川氏は昔からの既存製品で大きく成功しているメーカーの社員に対して「変化しよう」と言っている訳ではない。また単なるアイデア発想や試作段階での話をしているのならば (変化させた新製品を積極的に市場に出せと言っている訳でないのならば)、失敗案・失敗作を作ることに大したリスクはない訳なので、「変化しよう」と言うことに別に無責任さはないだろう。そして『進化思考』全体の文脈から言って太刀川氏はそういうアイデア発想や試作段階での話を主にしているように見える(市場による選択についても一応言及はしているが)。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、この引用部位の前後を含めると太刀川氏はここで「過去の失敗を理解し、同じ失敗を回避しながら、新たな失敗に挑戦しよう。なぜなら、変化しなければ進化もまた発生しないからだ。新しい価値は、いつも失敗を乗り越えた先に生まれてくる。では、生物進化の仕組みにおいて、変異の失敗はどのように位置づけられているのか」(『進化思考』p.290)と述べており、これを見るに太刀川氏がここでいう「変化」というのが「変異」的なものを指しているのは明らかである。したがって、太刀川氏の記述に特に問題はない(環境が大きく変化する場合を除いて)。松井氏は「生物進化は遺伝子頻度の変化である」という前提の存在によって「変化しなければ進化は発生しない」がトートロジーなると述べており、つまり彼の推論に沿うように代入すると「変化しなければ遺伝子頻度の変化は発生しない」となるが、これはトートロジーではない。なぜなら上でも述べたようにここでの前者の「変化」は正確には「変異」なので、そうすると「変異しなければ遺伝子頻度の変化は発生しない」となるが、「各個体において変異が発生すること」と「集団における遺伝子頻度の変化」は異なる現象だからである。松井氏は、太刀川氏のいう「変化」が変異であると読み取れずに「"変化"しなければ遺伝子頻度は"変化"しない」における二つの「変化」を単に同一視してしまったか、または変異であることは読み取れたが個体における変異と集団の遺伝子頻度変化というレベルの違いを認識できずに、トートロジー「P→P」を導いたように見える。この辺の読解も全く難しいものではなく、こういった誤った指摘が出るというのは、申し訳ないがやはり本の評者としては力不足と言わざるを得ない。
また、「現状維持は基本的に善である」について補足すると、松井氏のこの話は「環境が以前と大きく変わってない」かつ「現状のモノがその環境に非常に良くフィットしている」ときの話に過ぎず、太刀川氏は今、環境の変化に付いていくといった話や環境がそこまで変わっていないとしてもそもそも今現在のモノは本当に環境に良くフィットしているのかといった話をしている訳なので話がズレている。また「変化は基本的に悪である(突然変異は大半が有害だから。実際、現代社会でもほとんどの新製品は既存製品を置き換えられず淘汰されていくではないか)」に関しても、創造においては生物と違って意志が全く絡まないようなランダムなアイデアが選別されずにそのまま市場に出ることはほぼありえない訳なので、生物におけるランダムな変異体とそういったある程度意志的なチェックが入った製品プロダクトを同一視するのはおかしいだろう。
| 一つは、失敗したものが次世代に遺伝しづらい自然選択の仕組みで、| もう一つは、かつてうまくいった方法をなるべく保存しようという
| DNAプールの仕組みだ。(p.291)
M: 「DNAプール」は遺伝子プールの誤りだろう。そうでなければここでのDNAプールが何を意味する言葉であって、遺伝子プールと何が違うのか説明すべきだ。そして、遺伝子プールそのものにかつてうまくいった方法をなるべく保存しようという仕組みはないと思う。むしろかつてうまくいった方法が環境の激変などにより適応的でなくなりうる。遺伝子プールが多様であれば多様であるほどそういった急激な変化には対応しやすいはずだ。
I: DNAと遺伝子の区別がついていないのか、単なる誤りなのか不明だが「遺伝子プール」である。また、遺伝子プールはある集団の遺伝子全体を考える際に人間が勝手にモデル化した「概念」である。「仕組み」ではないし、「性質」もない。同様に「メスの持つ適応的な遺伝子プールを保つ卵子」(p.452)もおかしい
💜「遺伝子プールそのものにかつてうまくいった方法をなるべく保存しようという仕組みはないと思う」とのことだが、十分な大きさの遺伝子プールにおいては死に即直結しないような程度の有害変異が遺伝的浮動によって広まる可能性は低いので、それを「かつてうまくいった方法をなるべく保存しようという仕組み」的なものとして見ることは可能だろう。
また伊藤氏の「遺伝子プールはある集団の遺伝子全体を考える際に人間が勝手にモデル化した「概念」である。「仕組み」ではないし、「性質」もない」についてもおかしい。目的論的な仕組みではないのはその通りだが、性質がないというのは誤りだろう。概念であるならば性質は存在しないというならば三角形における中点連結定理や重心や内心などの性質も認められないことになる。
なお既に同様のことを述べたが (p.147の批判への指摘)、太刀川氏はおそらく遺伝子の総体 (ゲノム的なもの) を指して遺伝子プールと言っている気がする。ここで伊藤氏が挙げている「「メスの持つ適応的な遺伝子プールを保つ卵子」(p.452)」というのを見てもおそらくそうだろう。もちろん遺伝子プールにそのような意味はないので誤用だが。しかし、仮にそのように遺伝子の総体の意味で言っていたとしても「かつてうまくいった方法をなるべく保存しようというDNAプールの仕組み」に相当するものは特に存在しないように思えるので(染色体として遺伝情報がまとめられて子孫に受け継がれるというシステムは若干それに近いかもしれないが)、結局ここで太刀川氏が云う「DNAプール」というのが本来の意味での「遺伝子プール」なのか、遺伝子の総体という意味で勘違いした「遺伝子プール」なのか、またはゲノムという意味なのかはよく分からない。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの直後に「一個体の失敗が種全体の失敗になりにくいのは、この二つの仕組みが巧みに組み合わさっているからだ。」(『進化思考』p.291) や「生物は、DNAプールの性質によって、過去の失敗が自動的に次世代に引き継がれにくくなっている。個体が生まれるたびに細部に変異が発生する一方で、祖先のDNAプールの全体像は簡単には改変されないようにできているのだ。」(同 p.291) と述べている。したがって、太刀川氏がここでいう「DNAプール」というのはいわゆる遺伝子プールのことであると思われる。すなわち、「うまくいった方法をなるべく保存しようというDNAプールの仕組み」というのは、私が上で予測したように少数個体に発生した有害変異含む何らかの変異が即集団全体の遺伝子頻度を大きく変える訳ではない(かつ遺伝的浮動で広まる可能性も低い)ということのように思われる。しかし、あくまでゲノム的なものをDNAプールとし、ある一個体で有害な変異が起きてもそれが集団の全個体の各DNAプールに広まることはないと考えている可能性もなくはない (これを「DNAプールの仕組み」とはあまり言わないと思うが)。なお、『進化思考』p.286の「実際は、近い遺伝子プールを共有した生物間にだけ生殖的交配が成立する」や 同じくp.452の「メスの持つ適応的な遺伝子プールを保つ卵子」を見るに後者のようなゲノム的解釈が正しいようにも見えるが、この辺がもしかしたら「DNAプール」と「遺伝子プール」の意味の違いという解釈もできる。または両者を同じ概念として考えているが理解が安定しておらず、場面によって意味が変動してしまっているか。いずれにせよ、この辺は太刀川氏の理解に不足がある。(なお、太刀川氏は『進化思考』p.82にて「進化のスピードを研究した木村資生によれば、DNAの変異(アミノ酸一〇〇個で作られるタンパク質のゲノム変異)が発生する頻度は二八〇〇万年に一回だという。これを三〇億対の人間のゲノムで考えれば、二年に一回ほどの頻度で人間のゲノムに変異が生まれるらしい。」と述べているため、上記の「DNAプール」や「遺伝子プール」と同じなのか別なのかは分からないが、少なくとも「ゲノム」という概念自体は知っているようである)。
| 個体が生まれるたびに細部に変異が発生する。(p.291)
M: そうとは限らないのではないか。単為生殖ならば子は親のクローンのはずで、ひとつの変異もなくコピーされることはしばしば起きると思う。
💛いろいろとおかしい。まず「クローン」とは遺伝的に全く同一な個体を指すので、「子は親のクローンのはずで、ひとつの変異もなくコピーされることはしばしば起きると思う」というのは明らかに矛盾している。変異が起こっていたらそれはクローンではない。
また「単為生殖ならば子は親のクローンのはず」というのも誤りで、子がクローンになりうるのは基本的に単為生殖の中でもアポミクシスのみである。オートミクシスにおいては減数分裂が行われるので染色体の乗り換えは普通の受精による有性生殖と同様に起こるし、また末端融合型オートミクシスと染色体倍化のオートミクシスではその仕組みからして親の全ての相同染色体の組がそれぞれ完全に同一の塩基配列であるような個体でない限りクローンにはなりえない。
また、松井氏は全体を通しておそらく「染色体の乗り換えが起こらないような生殖では、突然変異が起こらない限り、ひとつの変異もない染色体のコピーが生まれる」と言いたいのだろうが、染色体の乗り換えによる遺伝情報の変化はmutationではない。したがって、もしここで松井氏が言っている「変異」というのがvariaitionの意味ならば特に問題ないが、mutationの意味で言っているのであれば乗り換えの有無は全く話に関係ない。なお「ひとつの変異もなくコピーされる」という表現からはmutationのことを言っている可能性が高いように見える (また松井氏はp.141で「変異するのは遺伝子である」と言っており、これもmutationの意味での変異と取るのが自然)。
📕『進化思考』を読んだので追記する。細かい指摘になるが、1つの上の追記部分で引用したように、「個体が生まれるたびに細部に変異が発生する」は本来句点で終わらず「個体が生まれるたびに細部に変異が発生する一方で、祖先のDNAプールの全体像は簡単には改変されないようにできているのだ。」(『進化思考』p.291) というように続く。そのまま記載するのであれば文の一部分だけ引いても場合によっては問題ないと思うが、今回のように句点「。」を付けて一文としてしまうのは問題である。ここはおそらくケアレスミスだとは思うが。
| 変わるものと変わらないもの。この2つのバランスが保たれたときに
| 適応進化が発生する。(p.291)
M: よくわからない。そうなのか? この2ページの記述はよくわからなかった。一般の読者にもわかりやすく噛み砕くという意図なのかもしれないが強引な読み替えがかえってわかりにくくなっている。素直に赤の女王仮説と進化的に安定な戦略の紹介をすればよいのではないだろうか。
📕太刀川氏の書き方だとその二つのバランスが保たれた瞬間に適応進化が発生するというようにも読め、確かにその意図であれば間違いなのだが、そうではなく二つのバランスが保たれることが適応進化の土台となるといった意味であればそれほど間違いではないと思う。生物では基本的にそれが保たれている訳なので単に生物のみについて語るならば態々言う必要はないが、ここでは創造性についてもそういったバランスが必要という話をしているので (「それは伝統と革新のバランス、すなわち不易流行だ。変わるものと変わらないもののバランスが保たれたとき、過去からの文脈を時代に合わせる適応が可能となる。」(『進化思考』p.291)。ここの「可能」という語からは土台的な意味が読み取れる)、そういった話をすることには意義はある。なお、松井氏が代案として出している赤の女王仮説と進化的に安定な戦略は何を言いたいのかよく分からない。今は共進化の話も、如何に戦略が進化的に安定したところに落ち着くかという話もしていない。何を以って「素直に」なのだろうか?おそらくここも読解ミスであるように思われる。
| 長い時間を生き抜いてきた創造性は、成功要因の保存と、失敗や変化
| への体制を備えている。(p.292)
I: ここは「創造性」ではなく「創造」なのではないかと思うが、どうやら「創造性」は「新規性」や「新奇性」のような「クリエイティブ度合い」の意味で用いられているようである。次章p.187参照。
💜個人または集団の創造的能力について言っているのであれば「創造性」で特に問題ないだろう。また伊藤氏がここでいう「創造」の意味がよく分からないが、もし仮に「創造行為」を意味するのならばそれは創造性を創造能力として解釈した場合とほとんど変わらない話になるし(創造行為で太刀川氏の文が成立するならば創造能力でも同様に成立する)、もし「創造物」を意味するのならば「創造物が失敗や変化への体制を備えている」というのは意味のよく分からない文となる (なお、ここでの「体制」というはおそらく「耐性」の誤字であるように思うが、どちらで解釈しても結局上記の話はあまり変わらない。「創造物」に関しては「耐性」と読めば多少意味は通る)。
また「「創造性」は「新規性」や「新奇性」のような「クリエイティブ度合い」の意味で用いられているようである」とは少なくとも私には読めない。ここの太刀川氏の記述のどの辺から「新規性」や「新奇性」のような「クリエイティブ度合い」」という話が出てくるのか謎である。
なお、伊藤氏は「創造性」と「創造」の定義にここ以前から非常に強い拘りを持っているが、私にはそれが太刀川氏の主張の本質と大した関係があるようには見えない。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、まず引用の「体制」は「耐性」の誤字である。また、太刀川氏はこの直前に「その一方で、数千年や数万年という単位で生き残ってきた原初的な創造も存在する。」(『進化思考』p.292) と述べているため、ここで指摘されている「創造性」は創造能力・創造的性質の意味か、または創造の誤りであるように思われる。すなわち前者の場合はどのような創造能力・創造的性質によって長い時間生き抜いてきたのかという話で、後者の場合は創造物が成功要因を保持しつつ、失敗や変化を許容するようなモノだったという話になる。なお、上記の「創造的性質」というのは伊藤氏が述べているような「クリエイティブ度合い(または種類)」のことであり、したがって伊藤氏の云っていることは一部正しかったのだが、私の云うそれは「新規性」や「新奇性」に限らない話なので以前はピンと来なかった。
| その研究で、ダグラス・ケンリックらが新しい欲求のピラミッドを提
| 案したのである。それによれば、進化的に正しい欲求の段階は、「自
| 己防衛」「病気回避」「協力関係」「地位」「配偶者獲得」「配偶者
| 保持」「親族養育」だという(p.293)
M: もしこの文献[66]のことであれば、間違っている。ケンリックのピラミッドでもマズローのピラミッドと同じく生理的欲求が最も根底に据えられているし、病気回避はでてこない。何を参考にしたのだろう…。なぜ人の提案したものを何食わぬ顔で改変できるのだろう。
📕松井氏が挙げているKenrick et al. (2010) [200]では確かに最下層が生理的欲求でその次に自己防衛があるが、それ以降の論文では、生理的欲求は最重要としつつも、fundamental motives (fundamental motivational systems)としては「Self-protection, Disease avoidance, Affilation, Status, Mate acquisition, Mate rention, Kin care」という紹介の仕方をしている[201][202]。ただし、この後年におけるSelf-protectionとDisease avoidanceというのは2010年のピラミッドにおけるSelf-protecitionを単に細分化したものに過ぎない。したがって、以上のfundamental motivesを「欲求の段階」というようにピラミッド様に説明するのは間違いなのだが(なぜなら生理的欲求が欠けており、かつSelf-protectionとDisease avoidanceが階層付けられているから)、単に根源的な欲求のリストと紹介するのであれば問題はない。したがって、太刀川氏の記述そのものは間違いであるのだが、太刀川氏はこれらの後年の論文に由来する情報に当たる中でfundamental motivesと欲求のピラミッドを混同した可能性が高く、松井氏の「なぜ人の提案したものを何食わぬ顔で改変できるのだろう。」という太刀川氏が何の根拠もなく自分勝手に改変したかのような決めつけは不適切である。林氏の「捏造」(p.54)、伊藤氏の「隠蔽」(p.90) もそうだが、何らかの意図性が絡む行為の断定は(特に批判的な文脈においては)よっぽどの強い証拠がない限りは避けるべきである。
なお、太刀川氏は『進化思考』の参考文献欄にKenrick et al. (2010) のみを挙げているのだが、上記の話に加えて、日本語訳の仕方から言って、おそらく別の日本語資料も参考にしていたのではないかと思われる。例えば、2010年の論文の著者らによる2013年の書籍『The Rational Animal: How Evolution Made Us Smarter Than We Think, Basic Books』[203] の邦訳『きみの脳はなぜ「愚かな選択」をしてしまうのか〈意思決定の進化論〉』[204]の書評[205]を見るに、そこでは太刀川氏と同じく「自己防衛・病気回避・協力関係・地位・配偶者獲得・配偶者保持・親族養育」という名称で分類をしているようだ。こういったものを一次資料として日本では一般に解説されている可能性が高い。また例えば、奥村 (2022) ではKenrick et al. (2010) をもとに筆者作成としつつも、最下層を「自己防衛」、その一つ上を「病気回避」としたピラミッドが描かれている[206]。
| 何より身体の進化によって生理的な欲求が生まれたという考え方はき
| わめて興味深いものだ。(p.293)
M: それっぽい書き方をしているが、読めば読むほどどういう意味かわからなくなってくる。おそらく書いている本人も意味がわからず書いているのだろうと思うが、進化心理学ではこのような主張がなされているのだろうか。それとも単に「我々の生理的な欲求(immediate physiological needs)が進化から生まれたというのは興味深い」という意味だろうか。トイレに行きたいとかご飯が食べたいといった欲求が進化から生まれた、という考えは150年前ならともかく、21世紀においても興味深いとはさすがに思えないので、意図するところをもういちど説明し直したほうがよいと私は思う。
💜これも引用部分が少なすぎて太刀川氏の主張がよく分からないが、引用を見る限りは単に生理的な欲求が身体の進化を通して生まれたことが興味深いと言っているだけのように見える。欲求というソフトな精神作用が身体というハードな物体から進化したことを興味深いと言っているのではないかということである。どの辺が「読めば読むほどどういう意味がわからなくなってくる」のかよく分からない。「それとも単に「我々の生理的な欲求(immediate physiological needs)が進化から生まれたというのは興味深い」という意味だろうか」とのことだが、もしこれが上で私が説明した通りの話であればそれ以外どういう解釈が可能なのか謎であるし、もしソフトな欲求とハードな身体の対比を見落とし単に生理的欲求が進化によって生まれたことのみを言っていると解釈したのであれば、確かにその解釈内容そのものには興味深さはないが、解釈選択としては誤りであるように見える。なお、ここで太刀川氏が云う「生理的な欲求」というのが意識に上るようなものも含んでいるのかどうかは分からないが、意識に上らないような生理的欲求に関しては単なる体の動かし方の「指令」として解釈できる訳なので、そこにそこまで興味深さはないだろう。一方意識に上るような生理的欲求について特に言っているのであれば、確かにそこにはソフト的な意識とハード的な身体の不思議はある。ただその観点で話すならば、それは特に生理的欲求に限った話ではない。とはいえ、意識がなくとも成立する生理的欲求をわざわざ意識的に把握する(できる)意味、また意識一般の進化と生理的欲求の意識化の関係性という観点では興味深くはあるかもしれない。
また「150年前ならともかく、21世紀においても興味深いとはさすがに思えない」とのことだが、社会的な科学理解としては既に興味深いものでなかったとしても、あらゆる時代において全ての個人は一から学習をしていく訳なので、あくまで主観的に興味深いと思うことそのものは別に否定されるものではないだろう (今は書籍における発言なので、客観性を重視した発言と見るべきorそういう発言をすべきというのはそうかもしれないが)。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの直前でダグラス・ケンリッチの欲求のピラミッドの話をしており、「それによれば、進化的に正しい欲求の段階は、「自己防衛」「病気回避」「協力関係」「地位」「配偶者獲得」「配偶者保持」「親族養育」だという。これらの欲求の順番や分類は、生物が進化上で獲得してきた欲求に沿っていて、たしかに説得力がある。」(『進化思考』p.293)と述べている。したがって、身体の進化によって生理的な欲求が生まれたというのは、上記したようなハードな身体とソフトな欲求(意識)の関係性の話をしているように思われる(これはその後の欲求の系統樹に関する「また身体の進化がなければ、それぞれの欲求は決して生まれなかった。」(同 p.295)という記述からも言える)。ただ太刀川氏はここでおそらく上記の7つの欲求全てについて述べているので、ここでは「生理的な」という記述は不適切である。また上記の引用に加えて、『進化思考』p.296の「系統の分岐ごとに適応的に獲得する能力は、生命維持にとって本質的に必要なものなので、生理的欲求が自然発生する。その結果、種が分岐を繰り返すごとに、本能的欲求も多層かつ複雑なベクトルの合成になっていく。」という記述を見るに、太刀川氏は身体の進化に欲求が"付随する"ということに特に興味深さを感じているように見える(なお、この辺で太刀川氏が言っている「欲求」というのは、やや擬人的というか、欲求的に見える事象に安易に欲求の存在を断定し過ぎではある)。
| そもそも私たちは、人間以外の生物に共感することが苦手だ。(p.296)
I: この文が言わんとすることがよくわからない。「ペットに対して慈しみの愛情を感じる」「共感的な感情」(p.295)という話は何だったのか。それとも植物とか大腸菌とかと共感できないと言いたいのだろうか。その割には「「要求の系統樹」の要点」(p.296)の最後が「異種間でも共感が生まれている」という結論なので、混乱する。最後を「共感が生まれ得る」とでもした方が良いのではないだろうか。
その前の「種が分岐を繰り返すごとに、本能的欲求も多層かつ複雑なベクトルの合成になっていく。そのベクトルの合成として本能的欲求が個体にも現れる」のあたりは何が言いたいのかよくわからない。突然「ベクトル」の概念を持ち出すのが良くないように思う。特に、ベクトルの向きをどう捉えているのだろうか。少なくともp.294の系統樹にはベクトルは描かれていない。点線のことだろうか?
💜「共感する (できる) 性質をもつ」と「共感することが苦手」は別に矛盾する訳でもないのでそこまで問題はないのではないだろうか?また「異種間でも共感が生まれている」というのは明らかに存在命題であり、全称命題ではない。したがって伊藤氏が「異種間でも共感が生まれている」を全称命題として解釈し、「そうじゃなくて「生まれ得る」という存在命題にした方が良い」と言っているのであれば的外れである。また、存在命題として解釈してはいるが、「異種間でも共感が生まれている」では存在量が多く、「生まれ得る」というようにもう少し控えめな表現にした方が良いと言っているのであれば、少なくとも引用されてる範囲では異種間で共感できることがすごく少ないと太刀川氏が主張しているようには特に読み取れないのでこれも結局不適切な指摘であるように思う。
また、ベクトル云々に関しては「本能的欲求が個体にも現れる」の辺りが今一よく分からないが、ベクトルの定義に関しては別にそんなに不思議でもないだろう。ベクトルの向きは単に欲求の質の違いを意味しているように思える。またこれは推測になるが、「本能的欲求が個体にも現れる」というのは、本能的欲求が個体の意識に現れることを言っているのではないだろうか?
📕『進化思考』を読んだので追記するが、ここでの太刀川氏の意図は苦手だけど意識次第では共感できるというものなので特に問題はない(「有性生殖の生物はすべて「モテたい」で共感できるし、哺乳類はすべて「一人ひとりの未熟な子どもを大切に可愛がりたい」で共感できる。だからこそ、こうした視点で自然界の生態系を見直すことで私たちはペットなどに共感できるように、人間以外の種の「気持ち」を理解し、共感関係を結ぶことができないだろうか。」(『進化思考』p.295)、「そもそも私たちは、人間以外の生物に共感することが苦手だ。しかし生物多様性が急速に失われている現在、私たちにはさまざまな生物や自然への共感が求められている。人間中心の文明から脱却するためにも、進化系統樹に宿る大古の記憶は、自然への共感と慈しみを取り戻すのに役立つのではないだろうか。」(『進化思考』p.296))。林氏の指摘部分でも述べたが、ペットを出したのはそういった慈しみの愛情を感じる日常例を出したというだけの話だろう。
また、ベクトル云々については、太刀川氏はその「種が分岐を繰り返すごとに、本能的欲求も多層かつ複雑なベクトルの合成になっていく。そのベクトルの合成として本能的欲求が個体にも現れる」の直前に「系統の分岐ごとに適応的に獲得する能力は、生命維持にとって本質的に必要なものなので、生理的欲求が自然発生する。」(『進化思考』p.296)と述べ、また直後に「どのベクトルを優先するかのバランスは個体ごとに異なり、その傾向によって個体にも「欲求上の個性」が自然発生する。」(同 p.296) と述べている。したがって、ここでのベクトルの向きは欲求の質を意味しており、それらの合成によってその個体の総体的な欲求が現れるということを太刀川氏は言いたいように見える。確かに総体的な一つの欲求というのが生物学的に存在するのか、また理論の上であってもそれを考える有用性はあるのかといった疑問はあるが、相反する欲求が個々の欲求それぞれ単体では生まないような意識や行動を引き起こしたりすることはあると思われるので、そういった観点での欲求の合成という考え方は全くの的外れという訳ではないだろう(ただ本当にベクトルの合成で正しくモデル化できるかのかどうかは不明だが)。そういう訳で、内容に納得できるかどうかは置いておいて、ここでの太刀川氏の意図はかなり容易に読み取れる部類のものであり、もし仮に伊藤氏が上記のような解釈を全く思いつかなかったのであれば、申し訳ないがそれは本の評者としては読解力不足と言わざるを得ない。
| 系統樹には、不変の願いが流れつづけている。(p.300)
M: 意味がわからない。系統樹は変更の記録でもある。目を失えば著者のいうところの「ものを見たいという願い」が消えていることになる。そもそも欲求が系統樹を生み出したという考えがおかしいのだが…。「系統樹には、不滅のコイルとしての遺伝子が流れつづけている。我々の遺伝子の中にも、我々とは全く似ても似つかない生物だったころから維持されてきた根源的な欲求を生むようなものがある」であればある程度妥当だし、興味深い書き出しだと私は思う。
引用部分が少ないため太刀川氏の主張が今一よく分からないが、もしここでの「不変の願い」というのが「環境にフィットする形質を得ること」を意味するのならば、環境は変わり得るので不変の願いが流れ続けることが必ず成り立つとは言えない。ただ「ある環境において」という補足を付ければセーフとも言える。また「ものを見たいという願い」といったような具体的な願いについて言っているのだとしても、系統上のそれに関連した形質が存在している範囲のみにおいて不変性を語っているのであれば問題はないだろう。
また「そもそも欲求が系統樹を生み出したという考えがおかしいのだが…。」という批判は不適切のように思われる。なぜなら「系統樹に不変の願いが流れ続けていること」は「系統樹が不変の願いによって生み出されたものであること」を含意しないからだ。それとも太刀川氏は引用外において欲求が系統樹を生み出したと言っているのだろうか?そうであれば誤りだが。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、まずそもそも太刀川氏はここの「系統の思考––––不変の願いを引き受ける経緯」という小パート(『進化思考』p.300-301)にて創造における話しかしていない。したがって、目を失うといった生物の系統樹に関する指摘は、系統樹一般に通用し得る例示と言えなくもないがやや的外れだろう。また「系統樹には、不滅のコイルとしての遺伝子が流れつづけている。我々の遺伝子の中にも、我々とは全く似ても似つかない生物だったころから維持されてきた根源的な欲求を生むようなものがある」という代案に関しては、内容そのものは太刀川氏が『進化思考』p.294辺りで行っていた生物における欲求の系統の話に相当するものであるが、上記の通りここでは創造のみの話をしているので話がズレている。またそういった単なる生物と創造の違い以外にも、太刀川氏は今ここで過去からの変わらない目的(ニーズ)というやや外在的な意味で「不変の願い」と述べており(「系統を探るプロセスは、過去の創造的な人たちが残した足跡をたどり、その願いを引き受けることでもある。つまり系統の探究は、過去への敬意そのものだ。そして、変わらない目的を新しい方法で超えていくための大切な準備運動でもある。こうした不変の願いは目に見えないため、系統を意識しなければ浮かび上がってくることはない。」(『進化思考』p.300))、これは内在的である遺伝子とは質が異なるものである。そういう訳で申し訳ないが松井氏は太刀川氏の文章を全然読めていない。(なお、目を失う云々における元の目的からの完全な離脱そのものについては創造においても関係する話ではあるが、そういった例は少数であると思うし、その場合は分岐元から新たに「変わらない目的」を立てれば特に問題ないだろう)。
また「そもそも欲求が系統樹を生み出したという考えがおかしいのだが…。」に関しては、ここの引用近辺にはそれを明示する記述はないので何の話をしているのかよく分からないのだが、一応『進化思考』p.297にて「実は欲求の系統樹は、創造における系統間の場合でも同じように読み取ることができる。そのため系統樹を観察すれば、それぞれの発明が生まれた理由が推測できる。つまり過去の系譜を理解すると、今まで歴史的にそのモノに求められてきた本質的なニーズが読み取れるのだ。」と述べているので、確かに太刀川氏はそういった話はしている。そして、この記述は欲求的なもの(ニーズ)があらゆる創造の発明を決定付けたと言っているように見えなくもないので、もしそういう意図で太刀川氏が述べているのであればそれは確かに言い過ぎではある。ただ、その場合もそういうニーズ起因の創造が多いのは確かである(と思う)ので、全く以って間違っているとは別に言えないだろう。また、太刀川氏は『進化思考』p.300でも「歴史に流れる本質的な適応への圧力を捉えながら、そこに新しい変異的手段を持ち込むことで、私たちは創造の系統樹の上に、新しい蕾を生やすことができるようになるのだ。」と述べているが、これは単に欲求(ニーズ)のみが系統樹を生み出したという話ではないし、またそのようにして系統樹の全てが形成されてきたという強い主張でもない。そういう訳でここについて松井氏が指摘しているのであれば、それは妥当ではない。あと、私は松井氏のこういった明らかに言葉足らずな説明に関して、一々意図を想像で補完して批評しなくてはならない訳なのだが、読者に対して不親切であると感じるし、批判するのならばもう少し詳しく説明すべきだろう。
| 言うまでもなく、本来の願いを見失った創造は脆弱で、急速に廃れて
| いく。(p.300)
M: 本来の願いとか不変の願いとかの言葉の曖昧性を少しでも減らすため、「本来の願い」を「当初の設計意図」と読み替える。すると電子レンジの「本来の願い」は遠隔で人を煮殺すことだったし、ポストイットに使われた糊の「本来の願い」は強力で剥がれにくい糊だった。日本の古来の武術は安土桃山時代でいったん終わったが剣術や弓術は剣道や弓道として、そして日本刀は美術品としてしぶとく生き残っている。著者の意図しているのはこういうものではなく、むしろ「最初はAを目指していたのに、途中からBばかり追い求めるようになった」かもしれない。その場合の反例はGoogleだろう。当初は検索結果が歪むために検索エンジンと広告は根源的に相性が悪いので広告で稼ぐビジネスモデルは絶対に嫌でござるみたいなことを言っていた[67]のだが、こんにちのGoogleは今日も全力で広告にまみれた結果を返してくる。Googleは急速に廃れているだろうか。それとも、違うとは思うが、昔からの、系統樹に流れつづける不変の願いを見失わせるような創造は脆弱だということだろうか。もしそうだとしたら、コンドームは生殖という系統樹に流れつづける「不変の願い」を見失わせ、適応度を確実に下げるが、廃れるだろうか。
💜電子レンジやポストイットはある創造が応用された例であって、それは太刀川氏が言っている話とは異なるのではないだろうか?松井氏も後に言っているが、太刀川氏の意図は「最初はAを目指していたのに、途中からBばかり追い求めるようになった」というような話であると思われる。また、太刀川氏の主張は全称命題としては確かに誤りであると思うが、そういう傾向が多少あるというのは一般的に受け入れられるものなので、googleの反例を出してそれで満足するのはどうなのだろう。全称命題として正しいかどうかは今ここでは本質ではないような気がする。太刀川氏の意図を汲み取った生産的な批評をすることが批判本のあるべき姿ではないだろうか?またそもそも、Googleは企業としては成功し続けているかもしれないが、ユーザー目線としては広告に辟易し廃れを感じている人はそれなりにいるのではないだろうか?
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はここの引用部位直前に「こうした不変の願いには目には見えないため、系統を意識しなければ浮かび上がってくることはない。そのため、時には現在普及しているモノが本来の目的を見失い、乖離した状態にあるかもしれない。」(『進化思考』」p.300) と述べている。したがって、ここでの太刀川氏の意図は「最初はAを目指していたのに、途中からBばかり追い求めるようになった」だろう。したがって、電子レンジやポストイットはもちろん、最後のコンドームもここでの太刀川氏の記述の意図とはズレているのだが、特にコンドームに関しては、そもそもの話としてここの引用部位は一つ上の追記で述べた「系統の思考––––不変の願いを引き受ける経緯」(『進化思考』p.300-301) という創造のみに関して語る小パートの記述なので、生物系統樹における話を持ってくるのは的外れである。また解釈案そのものとしても電子レンジやポストイットの話に比べてだいぶ無理がある。
また細かい指摘になるが、電子レンジの本来の願いは単に食べ物を温めることであって、遠隔で人を煮殺すことではなくないだろうか?仮に電子レンジの元となった研究にそのような意図のものがあったとしても、それは電子レンジの本来の願いとは言えない気がする。また松井氏はここで電子レンジ開発の元となったマイクロ波の研究のことを指しているのかもしれないが、それもあくまでレーダーの研究であって殺人目的ではないと思う。そのレーダー研究から派生的に殺人兵器としての研究もあったのかもしれないが、それは電子レンジの開発とは独立のものではないのか?すなわち電子レンジの本来の願いと言えるような系統関係にはないと思う。ただこの辺は私は全く詳しくなく、今ネットで軽く調べた知識で述べているだけなので、松井氏が正しい可能性もある。
| そもそもヒトは、わかってもいないことを、わかったつもりになる生
| き物だ。(p.307)
M: ほんとうにそう。
💛松井氏のこのコメントはおそらく太刀川氏に対する嫌みであると思われるが、残念ながらこの批判集の著者らに対しても同様のことが言える。ここまで本稿で長々と指摘してきたように、あれだけ自身満々に批判しているのに、誤りがあまりにも多すぎる。なお、嫌みとかではなく単に自戒を込めてのコメントであるならば特に問題ない。
| 例えば、タイタニック号の沈没事故がきっかけで開発されたソナー
| (音波探知機)は海洋事故を減らした。(p.318)
M: タイタニック号の沈没事故はソナーの開発が加速したきっかけではあったが、ソナーじたいはもっと昔からある。「タイタニック号の沈没事故がきっかけで開発が加速したソナー」なら受け入れられる。
💜p.107の擬態に関するコメントに対しても同様の指摘をしたが、「タイタニック号の沈没事故がきっかけで開発された」という修飾を非制限用法として解釈すれば確かに誤りだが、制限用法として解釈すれば特に問題はない。また「タイタニック号の沈没事故がきっかけで開発が加速したソナー」を代替案として出しているが、「Aの開発が加速する」という文章はAが既に開発済みであることを含意しないので、この代替案を非制限用法的に取る場合は松井氏が指摘している問題は残りうる。なお、個人的な主観としては改善前・改善後どちらの文も非制限用法として解釈するほうがどちらかというと自然である気がする。
| それぞれ特殊なルールに基づいてクオリティを競争する姿がよく見ら
| れる。(p.323)
I: クオリティの語の意味するところが不明だが、前文の「形質」のことなのだろうか?また、「こうしてキリンの首は長くなり」だが、当書ではここまでは高所のエサを取るためという解釈[68]が書かれていた(「・高いところの草を食べる「キリンの首」」(p.97)、「キリンの首が長くなったのは、親が高いところにある葉を食べるために首を伸ばしたから」(p.274))。それが突然ここで性競争の例[69][70][71] として挙げられても読み手は困惑する。
💛ここでの「クオリティ」の意味は普通に考えて「質」や「品質」ではないだろうか?どういう理由で意味が不明なのかよく分からない。引用範囲が狭いため、太刀川氏がここで生物と人工物どちらの話をしているのか分からないが、どちらの場合も何らかの質(クオリティ)に基づいて同種他個体または製品・企業間で競争する。直後にキリンの話を持ってきているのでおそらく生物における話であるとは思うが、「形質の質」や「個体の質」といった表現・考え方は生物学(特に引用されてるような性淘汰の文脈では)では当たり前に使う。もしこれを知らないための疑問であるのだとしたら、仮にも生物学で修士を出た者(批判集p.9参照)としてはちょっと不勉強ではないだろうか?なお一応「競争する」という語は自動詞なので「クオリティを競争する」という表現は正確には誤りであり、「クオリティで競争する」「クオリティを競う」といった表現が適切ではあるが、文脈的に言いたいことは普通分かる(分かって欲しい)のと、伊藤氏が解釈案として出している「形質」では結局「形質を競争する」というように同様の問題に直面するので、伊藤氏はこの観点で批判している訳ではないようだ。
また後半の読み手の困惑云々については、一般に自然選択と性選択は両立するので特に論理的な矛盾はない。しかし一般人が困惑する可能性はありえるので、何か一言補足しておいてもよいかもしれない。また「キリンの首が長くなったのは、親が高いところにある葉を食べるために首を伸ばしたから」というのを太刀川氏が自らが納得している説として述べていたのならば、これはラマルク的進化であるので一般的に不適切とされるが、さすがにこのレベルのミスはしないのではないかと思った。真偽は分からないが。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、「キリンの首が長くなったのは、親が高いところにある葉を食べるために首を伸ばしたから」というのは、ラマルクの考え方を例示するものであって、太刀川氏がそう考えている訳ではない。また、クオリティ云々については、引用部位直前を含めて正確に引用すると「性淘汰の繰り返しによって、それぞれの生物種は特徴的な形質を進化させた。性競争では、それぞれ特殊なルールに基づいてクオリティを競争する姿がよく見られる。」(『進化思考』p.323) と太刀川氏は述べており、またこの周辺一帯も明らかに生物の話をしているので、太刀川氏はここで生物におけるクオリティ競争の話をしている。したがって、上で述べた通りここでの「クオリティ」は文字通り「質」である。そしてこれは生物学(特に生態学や進化生物学)においてごく自然な表現・考え方であり、ここに引っかかっているようであれば、申し訳ないがやはり評者としては力不足と言わざるを得ない。
| 専門分野内での競争は、こうして目的を超えて特殊化するのだ。
| (p.325)
M: 目的を超えているのではなく、目的が増えているだけだろう。当初とは違う目的ではあるにしても。誇示的消費についてはミラーの『消費資本主義!』[39]が詳しい。
引用の不足により文脈はよく分からないが、太刀川氏がここで述べている「目的」というのは「当初の目的」のことではないだろうか?
また誇示的消費についてもよく分からない。太刀川氏が誇示的消費について述べているのだとしたら、それを直接引用するか、そういった類のことを言っているといった記述をするべきだろう。これも何回も言っているが、この批判集は引用不足のために本単体として完結していない。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、この直前で太刀川氏は、腕時計は機能的には軽くて時間も正確な100円ショップのクオーツ式時計で十分だが、不正確で重い超高級時計も美しさの観点で独自のマーケットを形成していると述べている (「たとえば一〇〇円ショップで買えるクオーツ式腕時計は十分に正確で軽く実用的だが、数千万円する機械式腕時計は不正確で重く、保険をかけなければ持ち歩く気も起こらない。けれども超高級時計には、その美しさや文脈を愛でる固有のマーケットがあり、多くのファンを魅了している。」(『進化思考』p.325))。そして後者は腕時計というツールの本来的な機能である「快適な携帯性」や「時間の正確性」を捨てている訳なので、(本来的な)目的を超えたと言って差し支えないだろう。確かに腕時計という大きな括りでは目的が増えているともいえるが、それはあくまで概念としての腕時計というジャンルの話であり、個々の具体的な腕時計そのものに言える話ではない。またそもそもこの腕時計の話は創造における同一領域内での競争の特殊化の例示であり、またこの直前に生物における性淘汰の特にランナウェイ仮説を紹介していることより、ここでは本来的目的を捨てて、目的化が特殊化したという意味で考えるべきだろう。例えば、鳥における尾羽は元々飛行における機能を持つが、クジャクの尾はそういった飛行性能を落とし(加えて、派手な羽根が捕食者からの被検出率を上げ)、代わりに性淘汰に関する目的に特化している。この辺も大して読解が難しい部分ではなく、本の批評をするならばこれくらい読み取れて欲しいと感じる。
なお、松井氏が云うような誇示的消費云々については太刀川氏は直接には触れていない。したがってここで松井氏はモノ消費の目的が特殊化したことについて補足的に誇示的消費を紹介しているのだと思われる。
| こうした行き過ぎた進化は、現在の進化生物学ではランナウェイ現象
| と呼ばれている。(p.326)
M: ランナウェイ説は行き過ぎを意味しない。性淘汰は、傍目には暴走runawayしたかのように奇妙な形質を生み出すことがあるが、彼らの遺伝子にとってはそのような形質を生み出すほうが適応度をあげるのだから、奇形のような非適応的な、行き過ぎた変異とは一線を画す進化である上に、自らの生存率を害するほどに奇妙な形質に投資しすぎ暴走した者は淘汰されるので、行き過ぎないギリギリのところまで発達させる。つまり、自然淘汰を性淘汰以外の淘汰と定義すると、自然淘汰と性淘汰が逆の方向をむいている場合、それらが釣り合うところまでモテと生き残りの両者を同時に最大化するように進化する。また、花の生息地の消滅のような環境の急変によって絶滅するからといって行き過ぎた進化と断ずることはできない。そもそも行き過ぎという言葉が主観的であり、少なくともそのような、特定の花にあわせて進化するのは適応であり、長期的にその適応のおかげでニッチを獲得できていたのなら、その当時は十分に成功した生物種といっていいと思う。しかしどんな生物種も著者がいうように完璧ではなく、しばらくは利益が大きくても、急な環境の変化に脆弱になるような変異はしばしば起きているはずだ。進化には先見性がないためだ。その後絶滅したからといって行き過ぎと評するのは後知恵だろう。
💛残念ながら色々と問題がある。まず、ここでのrunawayの意味は 「① (of a person) having left without telling anyone. ② (of an animal or a vehicle) not under the control of its owner, rider or driver. ③happening very easily or quickly, and not able to be controlled」(Oxford Advanced Learner's Dictionary 10th edition, [36]) の③であるので、「行き過ぎ」と表現することが誤りとは別に言い切れない気がする。またランナウェイ仮説の要点は選好対象の形質が正直なシグナルとは限らないところにあり、そのようにして個体の質を真に保証しない形質が選好性によって(いわば空虚に)進化し続けることを「行き過ぎ」と表現することはそこまで変ではない。
また松井氏は「ランナウェイ説は行き過ぎを意味しない。性淘汰は、傍目には暴走runawayしたかのように奇妙な形質を生み出すことがあるが、~(後略)~」というように1文目のランナウェイ仮説に対して、2文目で即「性淘汰による暴走したかのような奇妙な形質」の話を出し、かつ不正直なシグナルへの選好性については一切触れていないため、これを見るに松井氏は優良遺伝子仮説やハンディキャップ仮説に基づく性選択形質の進化についてもランナウェイ仮説が言えうると思っている可能性がある。つまり松井氏は性選択による形質の過剰的 (に見える) 進化一般にランナウェイ仮説が当てはまると考えているように見える。実際その後の「自らの生存率を害するほどに奇妙な形質に投資しすぎ暴走した者は淘汰される」という記述を見るに、彼はここで優良遺伝子仮説だけを想定してランナウェイ仮説 (もどき) を語っているように思われる。なぜなら本来のランナウェイ仮説においては生存率が下がる形質も進化し得るし、ハンディキャップ仮説についてはその定義からして生存率が下がる形質の進化について述べているからである。(ただ、それ以降の文脈も合わせて考えると、ここで松井氏が云っている「自らの生存率」というのは「適応度」のことを言いたかったようにも見える。とはいえ、いずれにせよ理解に不足があるだろう)。
また「それらが釣り合うところまでモテと生き残りの両者を同時に最大化するように進化する」というのもおかしい。モテと生き残りの両者を同時に最大化したらそれは釣り合いとは全く関係ないだろう。また、もしここでの「最大化する」というのが徐々にベネフィットを大きくしていくことについて述べているのだとしてもやはりおかしい。なぜなら松井氏自身が言っているように今は「自然淘汰と性淘汰が逆の方向をむいている場合」の話をしているからだ。この場合、形質がある方向に進化するとき、自然淘汰と性淘汰について片方の観点ではベネフィットが増加するが、もう片方の観点ではベネフィットは減少する。すなわち、ベネフィットが両方の観点で同時に大きくなるような形質進化は今の場合ありえない。
また重箱の隅を突っつく指摘になるが、「彼らの遺伝子にとってはそのような形質を生み出すほうが適応度をあげる」という表現にもやや違和感がある。たしかに「遺伝子の適応度」という考え方はあるようだが、ここでは表現の擬人臭さが全体的に理解の妨げになっていると感じる。特に「彼らの遺伝子にとってはそのような形質を生み出すほうが」というのはあたかもある遺伝子がどのような形質を生むかを選べるかのように見えるが、実際はある遺伝子とその結果としての形質は基本的に必然であり、選べるものではない(「基本的」というのは細かい発現の仕方はその他条件に拠り得るという意味)。ある遺伝子の存在はその結果としての形質(可能性)を含意している。また、「適応度をあげる」という表現もいまいち主体が分からない。おそらく「遺伝子が自身の適応度をあげる」ということなのだろうが、先ほどと同様にある遺伝子の存在は既にそれに対応した適応度を含意しているのだから、表現としては違和感がある。私は生物学における擬人的表現に必ずしも否定的である訳ではないが、今回の場合は擬人的表現が悪く機能してしまっているように感じる。またそもそも、松井氏は進化に関する太刀川氏のそういった擬人的・意志的表現をここまで批判してきているのだから、自身もそのような表現は控えるべきではないだろうか?また、そもそも今は形質及び個体レベルの話をしているのだから、わざわざ遺伝子の適応度について語る必要はないような気がする。間違いという訳ではないが分かりづらい。直前まで「傍目には暴走runawayしたかのように奇妙な形質を生み出すことがあるが」というように単に形質がどうであるかという話をしているのだから、続きとしては「そういった形質は繁殖機会を得る上で役に立つので」などと言えば十分だろう。また、もし仮にここでの「適応度」というのが個体の適応度のことを指しているのであれば、「遺伝子にとっては、~のほうが、(個体の) 適応度をあげる」というのは不自然な表現である。個体の適応度は遺伝子の利益としてはやや間接的で距離が離れているので。また、以上はここでの「彼らの遺伝子」というのが「そのような形質」の生成・維持に関係する遺伝子であると仮定した上での話だったが、もし仮に「彼らの遺伝子」というのがその個体の遺伝子全体 (すなわちゲノム的なもの) を指すのであれば、よく分からない主張となる。確かに、ある適応的形質によってその個体のあらゆる遺伝子の継承確率は高くなるが、それとその適応的形質が進化することは特に関係ない。
なお補足として、個体レベルの利己的な適応進化が集団の絶滅原因になる「進化的自殺」というものも存在し、これはまた別の意味で行き過ぎた進化と言えるだろう。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏のランナウェイ仮説の理解そのものが間違っているのはその通りである。太刀川氏はここの引用部位の直後に「速すぎる車を運転できないのと同じで、狭い範囲での行き過ぎた競争は時に絶滅に直結する。」(『進化思考』p.326) と述べているため、おそらく絶滅に至り得るような諸々の意味で極度な適応進化をランナウェイ現象と見做しているのだと思われる。したがって、そういった絶滅的な意味で「行き過ぎ」と言っているのならばそれは確かに誤りなのだが(そして太刀川氏はおそらくそういう意味で言っていると思うが)、正しい意味でランナウェイ仮説を語っているのであれば上記したように「行き過ぎ」と表現してもそこまで問題ないだろう。
| 一方で、ペストのような疫病とルネサンスの出現時期が重なったり、
| 一九一八年のスペイン風邪の翌年に、モダニズムを代表する創造性の
| 学校のバウハウスが創立されたりといったように、感染症という恐る
| べき脅威が、私たちをより創造的にするきっかけになった側面もあ
| る。(p.333)
I: 黒死病と呼ばれたペストの流行は1347〜1351年頃のことである。一方のルネサンスであるが、「あらゆる文化が花開いた五〇〇年ほど前のルネサンス期」(p.431)と書き、また「ルネサンスの時代に優れた創造性を放」(p.421)ったとしてダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの3人を挙げているから、イタリアルネサンス、いわゆるルネサンスのことを指している筈だ。だが、この3巨匠の生年は黒死病から100年以上後の1452年、1475年、1483年である。またブルネレスキ(p.421)の名も挙げているが、彼がフィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉のコンペでギベルティと競った1401年をルネサンスの始まりだとしても、ペストの流行とは50年のずれがある。「今から五〇年前の道具を、私たちはもうほとんど使っていない」(p.289)というくらいの大きなずれである。
📕太刀川氏の他所での記述から彼が云う「ルネサンス」の定義を推測しているが、ルネサンスは非常に長い時代であり、別にここで述べているルネサンスと他で述べているルネサンスが同一と考える必要は特にないのではないだろうか?「あらゆる文化が花開いた五〇〇年ほど前のルネサンス期」というのも、ルネサンス期の定義的説明と解釈する必然性はなく、ルネサンス期のうち特に盛況していた時期について述べていると読むことは可能である(「航海から世界が繋がりはじめ、あらゆる文化が花開いた五〇〇年ほど前のルネサンス期は、このような時代感覚から始まったのかもしれない。」(『進化思考』p.431))。あとこのp.431の花開いた云々の記述は、あるワークショップにてバックキャストの練習として太刀川氏が書いた短い小説(2ページほど)をそのまま引用したものであり、そのようにおそらく時間制限もあった中での練習的記述を『進化思考』という書籍における太刀川氏の記述の一貫性を見るために使用するのは少々不適切ではないだろうか?また私はこの辺に詳しくないので今ネットで調べた知識だが、ルネサンスの始まりを14世紀とする解説もそれなりにあるので[207][208][209][210]、その場合黒死病とはそれなりに近い位置にはあったのではないだろうか?ただ一方、そういった感染症の脅威が創造性の発展の要因の一つとなったという主張に疑問符が付くのは確かである。
| しかし、車は急に止まれないし、新しいことに挑戦しろと言われて
| も、それまでの適応圧に縛られてしまい、変化できないままでいるこ
| とも多いだろう。(p.338)
I: 無粋なツッコミであるが、車が急に止まれないのは慣性のためである。この例で言えば 、「挑戦しろと言われても」難しい「新しいこと」は「アクセルからブレーキに踏み替える」ことになるだろう。
💜伊藤氏が何を言いたのかさっぱりなのだが、太刀川氏はその車の慣性と過去の適応圧 (の幻影) に類似性があると言っているのではないだろうか?したがって何も問題は無いように見える。
また 「アクセルからブレーキに踏み替える」ことそのものは全く難しいことではないのでそういう点でも伊藤氏の指摘は的外れである (p.92の批判への指摘で述べたように、このように学者レベルの知能の持ち主でも普通に例え話に失敗するものなのである。それくらい例え話というのは難しい代物である)。ブレーキの話で例えるならば、太刀川氏が言っている「「挑戦しろと言われても」難しい「新しいこと」」は「急に止まることが求められる場面でブレーキを適切に踏んで車を止めること」に相当するだろう (実は多くの人はフルブレーキを踏めない[37])。
また伊藤氏はこのコメントにおいて、「太刀川氏の表現には誤りがあるので、それを訂正した上で代案を示してあげた」つもりなのだろうが、上記したように伊藤氏が言っていることの大枠は太刀川氏が言おうとしていることそのまんまに見える。そして伊藤氏が太刀川氏の記述をどのように解釈したのか全く分からない。新しいことへの挑戦は中々難しいものの別に不可能な訳ではない一方、車が急に止まれないのは物理的な必然なのでどう抗おうが不可能である、という話であれば確かに一理あるが (とはいえ、新しいことへの挑戦を初めから何の一切の抵抗もなく即行うことはほとんどの人には無理だろうし、車のブレーキに関しても無事故を完璧には達成できなくともブレーキを上手く踏むことである程度被害は抑えられる。したがってある程度妥当性は残る)、「「挑戦しろと言われても」難しい「新しいこと」は「アクセルからブレーキに踏み替える」ことになるだろう」というように車の例を使うことそのものには同意しているので、その線ではないようだ。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの引用部位の直前に「それまでの状況にどれほど適応していたとしても、世の中が変われば、新しい適応を目指さなければならなくなる。」(『進化思考』p.338) と述べているので、上記の通り太刀川氏の意図は「車が慣性によって急には止まれないこと」と「かつての適応圧に縛られてすぐに変化できないこと」のアナロジーだろう。したがって何も問題はない。そういう訳で伊藤氏が何を指摘しているのか未だに分からないのだが、可能性としては、そもそも太刀川氏のアナロジーを全く理解できず、太刀川氏が文字通り適応圧に縛られている具体例として車の急停止場面を持ち出していると考えて、適応圧じゃなくて慣性ですよ、と指摘したということが考えられる。ただ、ここの太刀川氏のアナロジーは非常に容易に読み取れるものであり、もし本当にこれを読み取れない故の指摘であるのならば、申し訳ないが本の評者としては極めて力不足と言わざるを得ない。
| そこで生き残るのは、激変以前の価値軸で強者だったものではなく、| 偶然にも変化に柔軟に対処できたものだ。(p.338)
M: ここにも著者の変態主義的な理解が色濃く現れている。生物の進化は環境の変化に「対処」してあるものが違うものに変わるものではない。
💜別にそれほど問題ないのではないだろうか。太刀川氏は「偶然にも~対処できた」と言っており、これは「客観的に見て対処しているように"見える"」ということを意図しているように思われる。なぜなら「対処」の意味は「ある事柄・状況に合わせて適当な処置をとること」 (デジタル大辞泉, [38]) であるが、「処置」は「その場や状況に応じた判断をし手だてを講じて、物事に始末をつけること」 (デジタル大辞泉, [39]) というように意図的な判断性を持つ訳なので、「偶然に対処できた」という表現はそもそも矛盾的であるから (それゆえ文字通りの意味で対処とは言ってないように思われるから) である。また一応「対処に必要な要素が偶然手に入った (ので対処できた)」というようにも読めるが、これも結局今の場合は突然変異などによって変異(variation)が発生することを言っている訳なので、対処そのものに意図的な変化の意味は存在しないように思える。またこんな詳細に考えなくとも、単なる変態主義的進化について言いたいのならば普通「偶然にも」というのは付けないだろう。
したがって、太刀川氏が変態主義的な理解をしているようにはあまり見えない。とはいえ「対処」という表現が誤解を生みうるものであるのは確かなので、「対応」などに置き換えた方がよい。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はここの引用部位の直前に「また恐竜は、六六〇〇万年前の巨大な隕石衝突によって地球が冷却化されたことで絶滅した。このように、環境は何らかの原因で激変することがある。」(『進化思考』p.338) と述べ、直後に「その一例として、恐竜の絶滅後にさまざまな形で進化を遂げた、私たちを含む哺乳動物があげられるだろう。」(同 p.338) と述べているので、上記のようにここでの太刀川氏の意図は「客観的に見て対処しているように"見える"」ということであるように見える。したがって、厳密には誤りではあるが一般的な語用としてそれほど問題はないように思う。こういった能動的・意志的な表現というのは専門家も砕けた文脈ではそれなりに使う訳で、単にこういった表現を以って変態主義的な理解をしていると見做すのは不適切だろう。もしこの程度で変態主義的理解をしていると判定されるのであれば、批判集にて「たとえばヒトの眼球において、網膜の上に血管を走らせるというとんでもない位置関係を採用したせいで血管を除くよう画像処理をしなければならず、」(批判集 p.133) や「そのためCとは交雑しないように性器の形を独自のものに変えたりすることはありえたのではないか」(同 p.148) というように能動的な対処を意味するような表現を取っていた松井氏自身も変態主義的な進化理解をしていることになるだろう。
| その一例として、恐竜の絶滅後にさまざまな形で進化を遂げた、私た
| ちを含む哺乳動物があげられるだろう。(p.338)
M: 単弓類は? そして絶滅「後」という表現がまた変態主義的、チェイン的な進化の理解だ。哺乳類は恐竜が絶滅してから進化をはじめたわけではない。哺乳類は恐竜の後継者ではない。恐竜の絶滅はたしかに哺乳類にとっての環境の変化としては大きなもので、哺乳類とその繁栄に大きく影響したと思うが、恐竜がいたときも、恐竜がいるまえも、恐竜が絶滅したあとも、哺乳類は進化してきた。
💛前後の文で何を言っているのか分からないが、引用されている範囲を読む限りは全く問題ない。太刀川氏のこの文は哺乳類が恐竜の絶滅後に"初めて"出現したことを含意しない。「進化を遂げた」だけであってもそうであるし、加えてここでは「さまざまな形で」と述べており、これは単に恐竜絶滅後の環境において哺乳類が種々多様にニッチを獲得していったことを意図している可能性が高い。松井氏の論理に沿うならば、人間滅亡後に昆虫が地球を支配するというSFにおける「人間の絶滅後にさまざまな形で進化を遂げた、昆虫」という記述に対して「おい、昆虫は人間の絶滅前から存在してたんだから、この文章はおかしいだろ」というツッコミを入れることになる。
また「絶滅「後」という表現がまた変態主義的、チェイン的な進化の理解だ」というのはもはや意味不明である。「絶滅後」という言葉は「絶滅の後に」という時系列について述べているだけであり、「変態主義的、チェイン的な進化の理解」を意味することなどない。仮に「太刀川氏は哺乳類が恐竜の絶滅後に初めて出現したと言っている」という松井氏の解釈を採用したとしても、それでも「絶滅後」は「変態主義的、チェイン的な進化の理解」を意味しない。批判集全編通して大体そうなのだが、ここは特に松井氏のバイアスの入った読みが表れている部分のように思われる。
あと細かい点ではあるが、「哺乳類は恐竜の後継者ではない」というのもよく分からない指摘である。仮に太刀川氏が「哺乳類は恐竜の絶滅後に初めて出現した」と主張していたとしても、それは哺乳類が恐竜の後継者か否かとは特に関係ない。前後の文脈を合わせると「哺乳類は恐竜絶滅以前から存在していたから後継者ではない」と松井氏は言いたいように見えるが、別にこれは認められるものではないだろう。一般にこの社会における後継者というのはふつう前任者が辞める前から生まれているものだし、大抵は元々何らかの活躍をしているからこそ後継者として選ばれるのであるが、松井氏からすればこういった一般に後継者と呼ばれる人々は後継者ではないのだろうか?なお恐竜から哺乳類へは遺伝的に何か情報が伝達されている訳ではないので系統的には後継でないのだが、かつて恐竜が占めていた生態的地位(ニッチ)を継いだと言う意味では後継者と言っても特に問題ないだろう (ただ、ここでの松井氏の発言を見るに彼はそういった点について突っ込んでる訳ではなさそうである)。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、この引用部位は先程の「また恐竜は、六六〇〇万年前の巨大な隕石衝突によって地球が冷却化されたことで絶滅した。このように、環境は何らかの原因で激変することがある。そこで生き残るのは、激変以前の価値軸で強者だったものではなく、偶然にも変化に柔軟に対処できたものだ。」(『進化思考』p.338) に続くものである。したがって上記の通り、太刀川氏がここで哺乳類が恐竜の絶滅後に初めて出現したと言っているとは一意には読み取れないし、むしろ「生き残る」というワードチョイスからして哺乳類も以前から存在していたと考えている可能性が高いだろう。松井氏が何を以って太刀川氏が絶滅後に初めて哺乳類が進化したと言っていると見做しているのか分からないが、少なくとも一意にそれを導き出すのは不可能なので、もし仮に他の解釈案を思い付けないゆえの指摘であるのならば、やはり本の評者としては読解力不足と言わざるを得ない。(全体的に松井氏は、変態主義的・チェイン的進化理解を滅したいという強い欲求(及びそれに基づく認知バイアス)を持ち、それ故に「絶滅後」という語にチェイン的な「順々」の意味を勝手に見て取り、そこから哺乳類が恐竜の絶滅後に初めて出現したという話を勝手に引き出して、それを藁人形的に批判しているように見える。しかし、上記のように「絶滅後」は単に「絶滅の後に」という時系列を述べているだけであり、ある生物グループが別の生物グループの絶滅後に初めて出現したことを意味する訳ではない。またそもそも、変態主義とチェイン的進化は同一系統の話であり、今話している恐竜と哺乳類という別系統の後継関係の話とは全く関係ない。したがって、変態主義とチェイン的進化を今の話に持ち出すことがそもそもおかしく、かつそのおかしな導入を基に推論を展開するのもおかしい。そういう訳で、変態主義的・チェイン的進化理解を滅したいという強い欲求(及びそれに基づく認知バイアス)が元凶となって、諸々のおかしな推論が発生しているように見える。(「後継」の意味を勝手に狭義的に取っているのも、そういった認知バイアスが効いているように思われる。普通は松井氏の云うような「AがBの後継であるのは、Bがいなくなる以前はAが(ほとんど)存在していなかったときに限る」という狭義の意味を一瞬取ってしまったとしても、ちょっと冷静に考えば、日常的な意味での「後継」がそれに限らないことから容易に正しい意味に至れるはずなのである。しかし、上記したような認知バイアスがそういったごく当たり前の日常感覚を思考から遮断し、認知バイアスに沿った狭義の意味を一直線かつ無批判的に採用してしまっているように見える))。あとそもそも初めの「単弓類は?」というのも何を言いたいのかよく分からない。単弓類は哺乳類の上位グループであり、かつK–Pg境界を跨いでいる単弓類は哺乳類のみである。
という訳でこの辺の松井氏の指摘には全体的におかしなものが多い。申し訳ないがちょっと批判の質が低すぎる。
| こうした変化の激しい状況下では、強いものではなく、変化しやすい
| ものこそが生き残りやすい。(p.339)
M: r-K 戦略説のことか? そうであったとしたら、変化しやすいものではなく「強く大きい、生き残りやすい子を少数ではなく、弱く小さい、生き残る確率の低い子を多数生むものの子孫こそが繁栄しやすい」であればそこまで間違っていないと思うが、変化しやすいものこそが生き残りやすい(変異率をあげると生き残りやすくなる?)というのは違う気がする。というか「強い」とか「変化しやすい」とかの言葉が定義されずに使われるのでよくわからない。
生物進化について述べているのか、一般社会について述べているのか文脈がよく分からないが、生物進化について述べているならば、ここで太刀川氏が云う「生き残りやすい」というのは個体の生存率ではなくて、繁殖可能な子孫数の期待値 (繁殖成功度) についてであるように思われる。
また細かい指摘になるが、「「強い」とか「変化しやすい」とかの言葉が定義されずに使われるのでよくわからない」というのはややおかしい。「強い」「変化しやすい」の意味は明らかに一般的な意味のそれであるので、「強い」と「変化しやすい」が適切に定義されていない訳ではない。そうではなく「何が」「どのように」強いまたは変化しやすいのか、というように具体的内容の欠けがあるのが問題なのである。
なお一般的にこういう文脈における「強い」「変化しやすい」というのを敢えて説明するとすれば、「強い」というのは「ある特定環境においては非常に優れた形質を持つが、その他の環境においてはそれが不適であり、また形質の変化が起きにくい (世代交代が遅かったり、形質が遺伝的に盤石過ぎたり、適応度の谷が深かったり) 」といったことを指し、「変化しやすい」というのは「ある特定の環境において非常に優れている訳ではないが及第点程度のフィットはしており、また形質の変化が起きやすい (世代交代が速かったり、形質が割と少数の遺伝子で制御されているので大幅な改変が発生しやすかったり、逆に多数の遺伝子によって制御される量的形質のため微調整が起こりやすかったり、適応度の谷が浅かったり)」といったことを意味しているような気がする。とはいえ、これは種内の個体差の話というよりは、種間におけるニッチの奪い合いの話が該当すると思うので、ここまでの話とはズレているような気がする。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの引用部位の直前まで人間の創造が社会環境の激変(特に職業や道具の絶滅)を起こしているという話をしており (「いや、もっと言えば人間自身の創造性が、社会環境の劇的な変化を招きつづけているのだ。こうした激変のなかで、職業や道具も容赦なく絶滅する。たとえば、石炭をくべることが仕事だった蒸気機関車の火夫の仕事は、~(後略)~」(『進化思考』p.338-339))、また引用部位の直後に「つまり進化思考的に言えば、変異の挑戦に重きを置くと生存可能性が高まる。たとえば、有性生殖などは、まさに生物が進化上で獲得した「変化しやすくなる仕組み」そのものだ。無数の精子によるランダムさと、生態系でのオスのバリエーションのなかからの性選択によって、生物は偶発性を高め、生き残れる可能性を向上させた。」(同 p.339) と述べているので、太刀川氏がここでr-K戦略そのものの話をしていないことは自明である。また、太刀川氏は前ページのp.338において「そこで生き残るのは、激変以前の価値軸で強者だったものではなく」と述べており、ここでの「強い」というのもそういった個々の環境へのフィット性だろう。また「変化しやすい」というのも上の引用から分かるように多様な変異(variation)を生み出しやすいことそのもの(またはそういったこと通じて環境にフィットする当たりを引きやすいこと)を指している可能性が高い。また以降の同ページp.339にて「環境の危機的状況を捉え、逆にその変化を追い風にする会社もある。たとえば花札が売れなくなると、すぐにトランプを作ったり、テレビゲームさん産業を立ち上げたりした任天堂のような会社がその一例だろう」や「テクノロジーの躍進と生態系の崩壊を同時に抱える現代は、変化が速くて読みにくいVUCAの時代だと言われている。こんな時代だからこそ、強者であるよりも、誰よりも早く変化する、しなやかな者を目指したい。変化に挑戦してみよう。そして偶発性を手に入れ、生き残る進化へと進もう。」というように創造においては柔軟に戦略を変えることができ、それらが謂わば偶発的な変異であるかのように述べている(そしてこれは上記の多様な変異を生むという意味での「変化しやすい」とリンクするものである)。そういう訳で、松井氏がここで引用している文章の意図も、「強い」と「変化しやすい」の意味もある程度読み取れるものであり、もしこれらを全く読み取れていない故の指摘なのであれば、申し訳ないがやはり本の評者としては力不足と言わざるを得ない。
| 無数の精子によるランダムさと、生態系でのオスのバリエーションの
| なかからの性選択によって、生物は偶発性を高め、生き残れる可能性| を向上させた。(p.339)
M: 有性生殖が無条件に適応度を高めるのなら、あらゆる生物が有性生殖になっているはずだがそうなっていない。性選択によって生き残れる可能性を向上させた、というのは意味がわからない。性選択されたらその時点で生き残っている。間違いだらけでほんとうにどこから突っ込めばよいのか…。
💛別にそこまで問題ないのではないだろうか?無条件であるとは明確には書いていないし、仮に無条件だったところで有性生殖への進化という大きな変化が全ての生物において起こるとは限らない。そして後者に関しては、ここで松井氏は自身が太刀川氏に対してp.138で批判していた自然選択による進化到達点の唯一化や絶対到達を犯しているように見える。
また「性選択によって生き残れる可能性を向上させた、というのは意味がわからない」とのことだが、ここでの「生き残る可能性」は一つ上の指摘部分と同様におそらく「繁殖可能な子孫数の期待値 (繁殖成功度)」であるように思われる。なお、ここでの太刀川氏の「性選択」というワードチョイスはおかしい。太刀川氏は「性選択」と「有性生殖」と「配偶者選択」を諸々混同しているように見える。
また同様に松井氏の「性選択されたらその時点で生き残っている」というのもおかしい。まず、もし仮にここで松井氏が云っている「生き残っている」というのが文字通り個体の生存を意味するのならば、これは明らかに誤りである。性選択は世代間に渡る集団レベルの進化プロセスの話であって、ある時点での個体の生存に言及できるような点的な概念ではない。確かに交尾前性選択では性選択の篩にかかるということはその時点でその個体が生き残っていることを意味するが、あくまで性選択は集団レベルの進化プロセスの話であるので、「性選択されたらその時点で生き残っている」というように性選択を点的に捉えるような表現はおかしい。(なお今は交尾前の性選択を想定して話していたが、例えば精子選択による性選択を考える上では精子提供済みの雄個体の生き残りは関係ないし、精子の生き残りとして考えるとしても、それは今ここで話している個体の生き残りの話とはややズレているだろう)。そういう訳で以上のような意図の話であれば、それは「性選択」ではなく「配偶者選択」などと言うべきなのである。また、そういう話ではなく、「生き残っている」というのが「子孫が生き残っている(子孫を残せた)」という意味であったとしても、やはりおかしい。なぜなら性選択はあくまで篩的な選択プロセスであって、ある特定の系統を生き残らせることに着目した概念ではないからである。性選択の結果ある特定の系統が生き残ることはあるだろうが、その観点で言うならば同時に性選択によって子孫を残せなかった系統もいる訳なので、「性選択されたらその時点で生き残っている」と生き残っている側だけに言及するのはおかしい。性選択は、相対的にどの個体が配偶・受精に成功し、それが次世代集団にどのようなバイアスとして現われるかという話に過ぎない。以上、そういう訳で松井氏も大いに間違ったことを述べており、「間違いだらけでほんとうにどこから突っ込めばよいのか…。」などと言っている場合ではないのである。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はここの引用部位の直前にて「こうした変化の激しい状況下では、強いものではなく、変化しやすいものこそが生き残りやすい。つまり進化思考的に言えば、変異の挑戦に重きを置くと生存可能性が高まる。たとえば、有性生殖などは、まさに生物が進化上で獲得した「変化しやすくなる仕組み」そのものだ。」(『進化思考』p.339) と述べている。したがって、ここでの「性選択によって、生物は偶発性を高め、生き残れる可能性を向上させた」というのは、有性生殖による遺伝的多様性の増加が変化が激しい環境での集団の存続可能性を増加させるということだろう。したがって、ここでの「性選択」という語用は誤りであり(太刀川氏はおそらくここで「配偶者選択」の意味で「性選択」を使っている)、やや分かりづらい文章ではあるのだが、文脈を踏まえればおおよその意図は十分に把握できる程度ではあるので、本を批評するのであればこれくらいは読み取れて欲しいと感じる。(意図を理解した上で敢えて表面上の瑕疵について突っ込んでいるのであれば、それそのものは誤りではないが)。
| 息子が引きこもりだからといって、彼が寄生者だとは断定できない。
| (p.340)
M:「進化」という語を日常会話では「進歩」の意味で使っても特段問題ないように、「寄生」という語を「あいつ、親に寄生して生きてるよな」のように用いるのは日常会話では全く許容されると思うが、寄生は生物学上の専門用語であり、もし生物学の文脈を持ち出すのなら慎重に使わなければいけない。現代の引きこもりの息子は生物学上の寄生者にはなりえない。寄生はヒトとシラミなど基本的に種間の関係だからだ。生物の親子でも競争は生じうる。親は不出来な子を殺すことがあるし、子は親が飢え死にしないギリギリのところまで資源を提供させようとしうる。しかしこれは競争であって、寄生ではない*。ここでも著者は日常会話で用いる生物学っぽい語から無理に関連を見出している。
💛「寄生はヒトとシラミなど基本的に種間の関係だからだ」とのことだが、寄生とは「ある同所的な二者関係において片方が利益を得て、もう片方は利益は害を受ける」ことであり、別種かどうかは特に関係ない (p.45-46の指摘部分では、ただ単に同所的に住まうこととは違うという意味で、一般に「共生」と言ったときは異種間の関係を指すと言ったが、寄生を含む各論においては同種間のものも存在する)。「種内寄生」という用語も存在する。例えばスズメやアメリカオオバンは種内托卵を行う[40][41] (種内托卵をする鳥種は200種を超える [42])。また社会性昆虫における同種への社会寄生も種内寄生の一種と言えるだろう [43]。
また「親は不出来な子を殺すことがあるし、子は親が飢え死にしないギリギリのところまで資源を提供させようとしうる。しかしこれは競争であって、寄生ではない」とのことだが、ここでいう意味での子殺しは競争には当たらないのではないだろうか?競争とは何らかの資源を巡って争うことを意味し、ここでは親と子は競争関係にない気がする (一般に養育投資量を巡る親子間競争というのは存在するが、ここでの子殺しは親から子への一方的なものである。ただそういった養育投資量を巡る競争の極めて極端なケースとして子殺しを見ることは可能かもしれない。なお今回の話とは違うがライオンで見られるような子殺しは雄間競争とも言える) 。
また引きこもりに関しては親側にも多少利益があるため厳密には寄生ではないが、一般的な養育年齢を大きく超えた年齢でのそれは養育投資量のトレードオフ的に寄生に近いものであるとはいえるだろう。
| 自然界では、寄生者は宿主が死ぬと自身も死んでしまうので、宿主を| 殺すことは稀だ。(pp.340-341)
M: 捕食寄生という、卵を産みつけて孵化した子が宿主を食い殺すタイプの寄生がよくあるのだが…またそのあとに自分で「よりよい宿主を探すために、現在の宿主を殺そうとする」(p.341) ロイコクロリディウムを紹介しているではないか。
確かに引用を見る限りは太刀川氏は捕食寄生のことを知らなさそうではあり、寄生一般について宿主を殺すことは稀であると言っているようなこの文は誤りだろう。しかし、太刀川氏がここで捕食寄生以外について言っているのであれば、その意図そのものには誤りは特にない。ロイコクロリディウムはその中での稀な例外を出しているのだと理解できるので。したがって「またその後で・・・ではないか」という太刀川氏の意図そのものがおかしい (自己矛盾している) と言いたいかのような松井氏の指摘は的外れに見える。
| 進化論で言えば、古典的ダーウィニズムでは生存闘争というマイナス
| の適応関係の繰り返しによって自然選択が起こると言われてきた。し
| かし現在の進化論の観点では、生存競争による残酷な世界だけが自然
| 選択を引き起こすわけではなく、それとは対象的に生物同士が利他的
| に互いを支え合うプラスの共生関係も、また進化の重要な鍵だと考え
| られている。(p.344)
M: ここでいう生物同士が、血縁関係にある者のみをさしているならば問題ない記述だが、 p.474の利己的遺伝子に関する誤った解釈から類推するにここも混乱しているのだろうと思う。このパラグラフは誤りが多すぎるので全面的に書き直したほうがいい。
💛霊長類における利他行動やチスイコウモリの血の分け与え行動は非血縁個体にも行われる。これは互恵的利他行動と呼ばれ、多くの動物行動学の教科書及び大学レベルの生物学一般の教科書に載っているような初歩的な知識であるが、松井氏は知らないのだろうか?(なお、p.45-46の指摘部分で述べたように、生物学における「利他」は即時的には自分に見返りのない行動に関する用語なので、クマノミとイソギンチャクといったような相利共生は「利他的に互いを支え合うプラスの共生関係」には厳密には含めないのが適切だが、文脈から考えるに太刀川氏はここでは単に他個体の適応度にプラスに働く行動及び関係性一般について言いたいように見える (最近はプラスの間接効果が進化に与える影響もよく議論されている)。しかし、それを言うためには太刀川氏の表現がやや不適当であるため、ここでは同種間の利他行動だけについて松井氏の主張を見ることにする)。それで、実際のところはおそらく松井氏もこういった非血縁相手への利他行動例も多少は知っているのではないかと思うのだが (もし知らなければやはり非専門家による批評の限界及び問題点をよく表しているだろう)、利己的遺伝子云々に関する自身の知識・理解を誇示したい、または太刀川氏が間違っていることを咎めたいという欲求が思考の幅を狭めているように見える。(そうでなければ普通こんな視野の狭い指摘はしないからである。少し考えれば最も身近な互恵的利他行動例である人間のそれを思い付くだろう)。なお、私は『利己的な遺伝子』を読んでいないのだが、ネットで調べる限りどうやら互恵的利他行動についても書かれているらしい。こちらのブログ (「書評:利己的な遺伝子〈増補新装版〉Book review : Richard Dawkins, The Selfish Gene」) [44]では、「30周年記念版への序文を読み始めてまず思ったのは、ダーウィンに対する思い入れがいかに強いかということ。「本書は、ダーウィニズムにおけるもう一つの主要な利他主義の発生源である互恵的利他行動とあわせて、それがどのような仕組ではたらくかを説明している」とはっきりと書いている。」と書かれている。したがって松井氏は、ちゃんと読んでいなかった、読んだけど忘れた、読んだけど理解できなかった、上記のように知ってたけどつい間違った主張をしてしまった、または初期の版では互恵的利他行動について書かれていなかった、のいずれかに該当すると思われる (またはこのブログが間違っているか)。
またもう一つの可能性として、松井氏が「利他行動」の定義を「その行動主である個体自身の繁殖可能性には長期含め一切プラスに寄与しないような利他的行動 (例えばミツバチのワーカーの育児など) 」というように極めて狭義で取っていることも考えられる。そしてその定義に従うならば確かに「血縁関係にある者のみをさしているならば問題ない記述」というのはその通りだが、そのような定義は一般的ではない。
またp.474云々については、後の部分で指摘されていたので確認したが、的外れな指摘であるように私には見えた。松井氏は「かつてリチャード・ドーキンスは、個体が種全体を保存する本能(群淘汰)を否定し、個体の利己性が進化を生み出すと説いた」という太刀川氏の主張を誤りとし、『利己的な遺伝子』を引用した上で、「自己複製子のヴィークルとしての個体は、遺伝子にとって利己的である範囲内に限られるものの、利他性を獲得できる、というのがドーキンスの主張であるはずだ」と言っているが、もしこれが太刀川氏の云う「個体が種全体を保存する本能(群淘汰)を否定し」に対する反論であるならば、この反論は妥当ではない。群淘汰と利他性は異なる概念であり、また群淘汰の否定は利他性の否定を含意しない。この場合おそらく松井氏は群淘汰と利他性を混同している。(他の解釈可能性についてはここでは長くなるので、後のp.474について批判しているp.171の部分で詳しく説明する)。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、最後のドーキンス云々については、太刀川氏がドーキンスは利他性を否定していたと考えている可能性が高く、したがって松井氏の指摘はある程度正しいのだが、そういった指摘であると分かる文章にはなっていないのでその辺の不適切性は残る。詳しい説明は該当箇所で行う。
| 実際に、自然界の生態系は共生系によって保たれている。(p.344)
M: ここでいう共生が共生なのか相利共生なのかわからないが、どちらにせよ原因と結果を混同している。「保たれている」生態系には共生関係が多く成立しているだろうし、そのなかには相利共生関係もみられるだろうが、それはトートロジーだと思う。生態系が共生によって保たれているのではなく、生態系には共生がある。相利共生のことであれば、相利共生がなくても生態系は成立しうるのではないか。
💜別に問題ないのではないだろうか?生態系が共生を含んでたところで、それは生態系が共生によって保たれていることを否定しない。「原因と結果を混同している」とのことだが、原因と結果ではなく、部分と全体の話ではないだろうか?部分と全体の話なのに、原因と結果の話であると勘違いし、「原因と結果の混同」という「よくある間違いパターン」を誤適用しているために、よく分からない指摘になってしまっているように見える。
また、「相利共生のことであれば、相利共生がなくても生態系は成立しうるのではないか」とのことだが、菌根共生や送粉関係、サンゴと褐虫藻など多くの生態系において相利共生は存在する。したがって相利共生が存在しなくても生態系が成立しうるかと言えば、今存在する生態系じゃなくても良いならば成立すると思うが (生態系であれば何でもいいので)、既存の生態系の多くは相利共生が消えることでだいぶその様相が変わるだろう。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はここの引用部位の直後に「お互いに余剰を分け与え、お互いにとってプラスの作用を持つ者同士が互いに引き寄せ合ってコロニーを形成し、生態系にしなやかな柔軟性をもたらす。こうした共生的なコロニーの存在が、生態系全体の安定に繋がっているのだ。」(『進化思考』p.344) と述べている。したがって、太刀川氏はおそらくここで異種間の関係性含めて述べているので、とりあえず「コロニー」の語用はおかしいのだが (コロニーは同種の集団に関する用語である)、相利共生であれ、単なる正の生物間相互作用であれ、それらが生態系の安定性に繋がり得るとは言えるので、言っていることはある程度は合っているだろう。しかし厳密には、例えばカンジキウサギとオオヤマネコの例でよく知られているように捕食者・被捕食者間の負の生物間相互作用がシーソー的な安定した個体数変動に寄与しており、正の生物間相互作用のみが生態系の安定化に寄与するかのような主張は誤りである(他には栄養カスケードとかも重要)。そういう訳で太刀川氏の記述に一部誤りはあるのだが、結局「原因と結果の混同」という松井氏の指摘ポイントはおかしいだろう。「「保たれている」生態系には共生関係が多く成立しているだろうし、」「生態系が共生によって保たれているのではなく、生態系には共生がある。」とのことだが、ではその生態系は何によって保たれているのだろう?「部分と全体」の話に落とすことで「原因と結果」の話を回避できると考えているように見えるが、残念ながらそんなことはない。おそらく松井氏は「部分と全体」と「原因と結果」を全く関係ないものとして認識しており、そして太刀川氏が後者の「原因と結果」のみについて述べていると考え、その場合「生態系は共生系によって保たれている」というのは「原因と結果の混同」(という禁則破り) を犯すことになるので、そうじゃなくて「部分と結果」が正しいと主張しているように見える。しかし、実際には太刀川氏は「部分と全体」を語る中で「原因と結果」(保つ・保たれる) について語っているのであり、そこに特に問題はない。そういう訳で、この辺は「部分と全体」と「原因と結果」を全く関係ないものとして見做す松井氏の間違った概念整理が原因となって誤った指摘が生まれているように思われる。
| ニッチの獲得競争は、環境負荷を低減させる効果もある。
| 〔中略〕
| 余剰を互いに価値化し合えば、生態系は効率化し、安定化していく。| (p.348)
M: 余剰を活かせば環境負荷が低減する、というような書き方をしているが、たとえば余剰であるプラスチックごみを埋め立てず燃やして有効活用すればそれだけCO2は 「余分に」大気中に開放されるので、そんな単純にはいかない。
引用部分が少なすぎて太刀川氏がどういう文脈において「ニッチの獲得競争は環境負荷を低減させる」「余剰を互いに価値化し合うことで生態系が効率化する」といったようなことを言っているのか分からないが、もしこれが単に自然の生態系における話であればそこまで問題ないのではないだろうか?上手く利用されていない資源を利用するニッチが埋まれば生態系はより効率的になり得るので。一方「環境負荷」というのは多くの場合人為的なものを指し、太刀川氏もその意味で言っていたのだとしたら、確かにそれはそう簡単な話ではないだろう。なぜなら人為的な環境負荷はその質や量で自然界のそれを大きく上回ることが多く、自然の生態系はそれに簡単に対応することはできないからである(安定化まではいかなくとも、多少の低減くらいであれば可能かもしれないが)。また松井氏が言うように、もし「余剰を活かす」というのが人間による資源利用一般の話についてであれば、確かにプラスチックごみを燃やせばそれだけで問題が解決する訳ではないので、その主張は認められるものではない。しかし、付近のページからの引用に特に人間の資源利用に関する話はないことから、個人的な推測としては太刀川氏は単に自然の生態系における話をしているような気がする。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、引用内の中略部分にて太刀川氏は「ある種にとっての糞や食べかすが他の種にとっては絶好の餌であるように、廃棄物が価値に変わるかもしれない。私たちの社会も、まだ価値化できるモノを非効率に捨てている。価値化できるニッチがまだまだあるはずだ。」(『進化思考』p.348) と述べている。したがって、太刀川氏はここで単に廃棄物の再使用や再利用を述べているだけであり、ここでの「生態系」というのはおそらく人間社会における物質のやり取りのネットワークを比喩的に述べたもののように見える。実際、同ページの引用部直前にも「そんな戦略のなかでも、W・チャン・キムらによるブルー・オーシャン戦略は、競争相手が多いレッド・オーシャンから、ライバルの少ないブルー・オーシャンへと移行することを提唱した、生態系を模したマーケティング戦略だ。時に自然の競争環境は、市場の競争環境と酷似する。」と述べており、また直後にも「ニッチを探そう。創造したい対象にとって競争相手のいない生態的地位があるとしたら、それはどんな場所なのか創造してみよう。」と述べている。したがって、太刀川氏がここで言っているのは「人間社会から出る余剰を価値化し合うことで自然の生態系への環境負荷を低減できる」ということではなく「人間社会から出る余剰を価値化し合うことで人間社会(という生態系)を効率化・安定化することができる」ということであるように思われる。すなわち「余剰を互いに価値化し合えば、生態系は効率化し、安定化していく。」というのは全て人間社会内の話であって、自然界の生態系については特に触れていないように見える。したがって、松井氏がこういった意図を理解した上で、単に同じ系内での物質循環の例え話としてプラスチックごみの話をしているのならば特に問題にないが、もし仮に以上のような意図を全く読み取れず、単に「人間社会から出る余剰を価値化し合うことで自然の生態系への環境負荷を低減できる」という観点でプラスチックごみの話をしているのならば、それは本の評者としては少々読解力不足だろう。
またそもそも松井氏はプラスチックゴミを燃やすことでCO2が余分に出ると言っているが、その分別の燃料を燃やす必要がなくなるので、少なくともCO2収支の観点ではそれほど問題ないのではないだろうか?それともエネルギー効率的に無駄が出るということだろうか?
| イソギンチャクのなかにいれば外敵は攻撃してこないため、弱いクマ
| ノミにとってイソギンチャクは安全な住処になっている。(p.349)
M: むしろカクレクマノミを捕食しようとやってくる魚をイソギンチャクが捕食することもあるらしい(つまりカクレクマノミは囮、餌の役割をしている)ので、そうとは言い切れない。
💜そのような例外的な話を出されても、という感じである。引用されている太刀川氏の主張そのものは一般的に特に問題ない。別に絶対に100%安全と言ってる訳でもないので。
また反例として出すならば、イソギンチャクの中にいるクマノミが食べられ得ることを直接提示すべきではないだろうか?松井氏の例の出し方では、イソギンチャク内にいるクマノミが捕食されることは含意されていない (捕食しようとやってきてるけど結局捕食できていない可能性もある)。それとも行動の適応進化または学習の観点から、捕食しようとやってくるということはイソギンチャク内のクマノミを食べることが可能という論理なのだろうか?また、「安全な住処かどうか」(捕食されるか否か) ではなくて「攻撃して来るか否か」について突っ込んでいる可能性もあるが、結局松井氏の説明には攻撃の発生は含意されていない。ただ近付いているだけの可能性もあるので。
| たとえば、個人的な痛みに訴えかけない反戦の歌や、特定の誰かに寄
| り添えないデザインは、感動に乏しいことがある。(p.351)
I: 私的な語りが他人に響き共感を呼ぶことがある、という表現側の話と「特定の相手を深く理解」するという受け手側の話を混ぜて語っている。共生関係にある相手と共感しあうことはできそうだが、共感し合った相手と共生関係を築けるかは互いの手持ちのリソースやポジションに依るだろう。
📕太刀川氏はここの引用部位直前に「私たちの創造性を考えるうえで、こうした共生関係から学べることは何だろう。それは、真に強固な共生関係は、お互いを深く理解した特殊な個と個のあいだに起こるということではないか。」(『進化思考』p.350-351) と述べており、また直後に「逆に、きわめて個人的な痛みや経験に寄り添う声が、強い共感を生むこともある。」(同 p.351) と述べている。したがって太刀川氏は伊藤氏が挙げている引用部位においては、相手の共感を生むためには相手のことをよく理解する必要があるという至極真っ当なことを述べているだけのように思われる。伊藤氏は「私的な語りが他人に響き共感を呼ぶことがある、という表現側の話と「特定の相手を深く理解」するという受け手側の話を混ぜて語っている。」と述べているが、「私的な語りが他人に響き共感を呼ぶ」ためには「(特定の)相手を深く理解」する必要があるという話な訳なので特に問題はないのではないだろうか?確かに共感と共生は異なるものであり、前者が後者を含意しないというのはその通りなのだが、それを「表現側」と「受け手側」という不適切な対比で語ってしまっているように見える。「共感させることは表現側の問題で、その共感をきっかけに相手を深く理解(評価)することは受け手側の問題である」といったようなことを伊藤氏はおそらく言いたいのだろうが、私的な語りに共感することは受け手側の話でもあるし、特定の相手を深く理解することは(共感させるための)表現側の話でもある。
そういう訳でここは議論が錯綜しているのだが、まとめると、おそらく伊藤氏はここで引用している部分外の「真に強固な共生にはお互いを深く理解することが必要」という主張に関して主に突っ込んでおり、まずそれが分かりづらいポイントの一つ目で、それに加えて、伊藤氏はその主張を否定するために太刀川氏の例示の話を引き、それを「表現側と受け手側の混同」というように不適切な対比軸で説明しようとしているように見える。したがって、論理的に問題があるというのはもちろんなのだが、そもそもの話として引用部位狭すぎるという問題がある。伊藤氏が引用した部分のみでは何の話をしているのか全く分からない。ここまでも何度も指摘したようにこの批判集にはこういった引用不足が多過ぎる。そしてもちろんそれは批評本としては致命的な問題である。
| それは、真に強固な共生関係は、お互いを深く理解した特殊な個と個
| のあいだに起こるということではないか。(p.351)
M: 前ページの表現から、ここでいう真に強固な共生関係とは相利共生関係のことだと仮定する。その場合、少なくとも生物の相利共生関係から学べることはこれではない。お互いを深く理解していなくても利が生じる、渦巻の数式を知らなくても渦巻の殻が作れる、反応拡散方程式を知らなくても縞模様が作れる、カテナリー曲線を知らなくても垂れるだけでカテナリー曲線を構成できる、というデネットのいうところのcompetence without comprehension(理解なしの有能さ)が進化のキモであるはずだ。また個と個に限定する必要はない。削除すべき記述だと思うが、もし無理やり書くなら「真に強固な人間同士の共生関係は、お互いを深く理解した特殊な個と個のあいだに起こるべきだ、というのが私の考えだ」であればまだよいか。
📕太刀川氏はこの引用部位の直前に「私たちの創造性を考えるうえで、こうした共生関係から学べることは何だろう。」(『進化思考』p.350-351) と述べている。したがって、太刀川氏はここでお互いを深く理解することで上手いこと共生関係を築くことができるという話をしており、確かにお互いに深く理解し合わなくとも共生関係が生まれうるという突っ込みはその通りである。しかし、お互いを深く理解することで「真に強固な共生関係」が生まれ得ることそのものは確かであるし、また「外部からは理解しているように"見える"」という程度であればこれは広く言えるものであり、そこから方法論的にお互いに深く理解し合うことの重要性を導くことは特に問題ないだろう。ある生態的構造があくまで個々の生物種らが単に自らの適応度を高くするように(いわば自分勝手に)進化した結果だとしても、それを人間社会に役立てる際にそういった盲目性を排して援用することは可能である。そういった構造に至る手段は多様にあり得、自然的なものに限らないのである。また、ここで太刀川氏は「真に強固な」と述べており、ここに何かしら含みがあるようにも見える。実際、太刀川氏は引用部位の少し後の部分で「製品を流通するような場面でも、開発者、製造者、販売者、ユーザー、アフターサポートなど、多様なステークホルダーが助け合う繋がりができていて、それぞれがお互いを活かす生態系を形成しているのだ。しかし本当の意味で共生関係を強固に構築するには、役割の違いを生み出すだけではなく、お互いのことを深く理解する必要があるのだ。」(同 p.351) や「社会には、それぞれの立場の人ごとに違う観点があり、誰に寄り添うのかによって、創造のフィールドが無限に広がっている。特定の相手を深く理解し、寄り添うことで初めて、深い適応関係が生まれる。自然界の共生と同じように、創造では、それが限られた特定の相手にどう響くかという観点が、つねに問われているのだ」(同 p.351-352) と述べており、これを見るに、単なる利害関係を超えたものとして「真に強固な共生関係」を考えている可能性が高い。そしてその場合、莫大な時間をかけて共生関係を進化的に生めない代わりに、意識的・能動的に相手を深く理解することを通してより上手い関係性の取り方を考えることはそれなりに有用ではあるだろう。
| ヒトは赤緑青の三色を認識できる錐体細胞を持つのに対して、イヌは
| 青と黄を認識できるだけだ。つまり、イヌはほとんどモノクロームの
| 世界に生きているのだ。(p.353)
I: イヌが二種類の錐体細胞を持つことを自分で書いておきながら、なぜ「モノ」クロームと書いてしまうのか理解に苦しむ。
単に「モノクローム」と言っている訳ではなく「ほとんどモノクローム」と述べている訳なので、別に「理解に苦しむ」とまで言われるほどのことではないだろう。確かに「ほとんど」というのは言い過ぎだと思うが、人に比べて色相の幅が狭く相対的にモノクロームに近いのは確かである。同じく伊藤氏による批判集p.72の「多用」の見落としや、林氏による同p.60の「膨大な」の見落としといったように批判集には程度表現を無視した稚拙な批判がちらほら存在する。例えばここであれば私が上記したように「ほとんど」という部分に突っ込むべきなのであって、「モノクローム」そのもの(のみ)に突っ込むのは筋が悪い。
| 世界の全体像は、個の視点だけでは正しく捉えられないばかりか、そ
| の視点を相手に押し付ければ分断が生じるだろう。(p.354)
M: このリストじたいのことを指摘されているようで心苦しいが、我々と著者との分断は明らかであり、この分断は埋められるべきで、埋める(歩み寄る)作業はいくらなんでも我々ではなく著者がするべきだと私は思う。また、我々の視点の押し付けは、まずはこの分断を認識していただくために必要なことだと考えていただければと思う。問題を認識することが問題を解決する第一歩なので。
💛前後の文脈が分からないが、太刀川氏のこの記述は別に「このリストじたいのこと」への指摘を強く類推させるようなものではない気がする。ただの一般論なので。「このリストじたいのことを指摘」しているように感じるのは松井氏自身が相手に押し付けをしている自覚及びそれに対する何らかの負い目があるからではないだろうか?
なお分断云々については、私の個人的な感想としては松井氏らの方にも割と原因があるような気がする。まずここまで私が引用してきた部分を見れば分かるように攻撃的で馬鹿にするような表現が多すぎる。普通の人はそういうことをされたら対話する気にはならない。またここまで何度か指摘したが、文章をよく理解しようとせずに太刀川氏の主張を安易に「よくある誤解パターン」に当てはめているように感じられる部分も多い。文章をよく読んでない的外れな指摘をしてくる上に馬鹿にしてくるとなれば、分断が生じてもしょうがないだろう。ここでも「埋める(歩み寄る)作業はいくらなんでも我々ではなく著者がするべきだと私は思う」と言っているが、こういう態度こそが分断を生むものではないだろうか。松井氏は自分達が絶対に正しいという自信があるためこういうことを言っているように見えるが、普通そんな態度の人に歩み寄りたいとは思わない。またここまで長々と指摘してきたように、そもそも松井氏らの批判には彼らの生物進化への不理解や単なる読解力不足などによる不適切なものが多過ぎる。したがって客観的に見て、松井氏らは太刀川氏に対して一方的に歩み寄りを求めることができる立場にはいない。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、上記のようにここでの太刀川氏の話はただの一般論である。また、私は本稿を2025/06/11に公開し、直後に批判集の著者ら3人に記事を公開した趣旨の連絡をtwitter上で行ったものの、伊藤氏と松井氏から簡易的な間接的応答[211][96]があった以外はこれまで長い間詳細な応答がなかった(林氏からは間接含め一切の応答なし)。また、最近(2026/01/31)になってようやく伊藤氏が応答記事[92]を公開したが、残念ながらそれも私の批判内容を理解できているとは思えないもので、また基本的に(匿名と『進化思考』未読の2つが解消されない限り)今後の応答を拒否する趣旨の内容でもあった[97]。そういう訳で私と批判集の著者らには分断が起きているように見えるのだが、誤っている側が歩み寄るべきという松井氏の論理に沿うならば、私視点では批判集の著者らが歩み寄る側になるのだが、かつて自分たちが太刀川氏に対して思っていたことを今自らしていないだろうか?騒動当時から数年経っていることもあり、騒動当時の熱量での応答が返ってくることはないだろうと本稿執筆当初から思っていたが、想像以上に応答がなく非常に驚いている。確かにこれは私が好きで勝手に批判しているものではあるのだが、本稿の初めに述べたように批判集の著者らは自ら批判をお願いしている訳なので (「当書の記述に対する、より科学的に厳密な検討はもとより、本稿で我々が指摘した各論点に関しても不備を見つけた方にはさらなる批判をお願いしたい。」(p.23)、「本書がどなたかの文献リストに信頼できる参考図書として掲載されることを夢見ているが、文献リストに限らず、本書の内容に疑問や認識の間違い、改善を要する点があれば批判をお願いしたい。」(p.363))、応答がこれだけないことへの納得性は低い。なお、先日の伊藤氏のその応答記事[92]では「この部分は次回改訂で書き改めようと思う」というように誤りを修正する意志はあるかのように述べているが、その記事内の反論のほとんどが的外れであり、かつ伊藤氏が唯一認めた誤りは驚くべきことに「引用における無断の下線付加(しかもなぜか林氏のミスのみ)」と「野球と野球ゲーム」と「ベイツ型擬態に関するケアレスミス(?)」という些末・些細な3点のみなので[97]、一度「問題を認識する」ためにtwitterでもnoteでも何でも良いので健全な対話がなされた方がよいように思う。なお、本件はver.2.0.0公開時現在『進化思考』及び太刀川氏が不当な(実際の誤りの質・量を超えた)評判下げを受けている状態であり、また同時に批判集著者ら(及びその周辺の批判者ら)による批判全般が「科学的に真っ当な批判」や「知的に誠実な科学コミュニケーション」として不適切に過大評価されている訳なので[212][213]、この辺の評判・評価を適正なところに落ち着かせるために (及び何が問題だったのかを個人個人に考えてもらうために) 私としてはクローズドよりオープンな場での対話を望んでいる。(なお、知的に誠実かつスムーズなやり取りができるのであれば、上記のようにtwitterもしくはnoteでもいいのだが、現状伊藤氏以外からは返事すらほぼない訳で、かつ書き文字だと都合が悪いことへの非言及が第三者に認識されにくい、及びそれの追求もかわされやすいので、そういう意味ではリアルタイムのやり取りである公開討論とかが一番よいのかもしれない)。
| 生態系マップの中にある負荷や競争相手、あるいは寄生者など、負の
| 関係を持つものは、さらなる負の連鎖を生み出す。(p.357)
M: 生物間の競争や寄生があたかもよくないことであるかのように書いているが、理解に苦しむ。これらと人間による環境破壊を結びつけることは難しい。あえて環境破壊と結びつけたいのなら、生物の習性と生物進化の近視眼的な性質をあげたほうがよいと思う。たとえばシャーレの中の栄養を食い尽くし、自らの排泄物の毒素にやられて死滅する微生物など。“Are we better than yeast?” [72]
負の連鎖云々については松井氏に概ね同意だが、環境破壊については太刀川氏がそれについて述べていることが確認できないので評価できない。ここまで何度も指摘しているが、引用範囲が狭すぎる。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、まず太刀川氏がここで云う「生態系マップ」というのは創造に関するマップであって(『進化思考』p.320。画像8)、自然の生態系そのものについてではない。実際この引用部位の次の文章では「発注の見積もりを安く叩きすぎれば、その二次受けの業者が海外で子どもを強制労働させるなどのアンフェアなトレードを行う結果になるかもしれない。」(『進化思考』p.357) というように人間社会での話をしている。したがって、少なくとも松井氏が引用している文章においては、太刀川氏は生物間の競争や寄生が「よくない」という話はしていないのはもちろん、そもそも生物の話をしていない。また同ページの後の部分で太刀川氏は「これまで考察した負の関係「WHY・-」を理解することで、生存競争とそれがもたらす負の循環について、日常では得がたい想像力を補うことができる。」(同 p.357) というように生物の話もしているが(ここでの「負の関係「WHY・-」」というのは基本的に競争や寄生などの負の生物間相互作用のことを言っている)、これも人間社会における負の関係の把握(という難題)に自然界のそれが役立つという話であって、自然界における競争や寄生が良くないと述べている訳ではない。実際、同ページのそれ以前の部分でも太刀川氏は「~(前略)~ その二次受けの業者が海外で子どもを強制労働させるなどのアンフェアなトレードを行う結果になるかもしれない。こうした繋がりの連鎖はとても読みづらい。」や「そのため、何かひとつが破壊されると、その影響はドミノ倒しのように広がっていく。特に厄介なのは、その影響を事前に予測することに、私たちがまったく慣れていないことだ。」というように負の関係の認識の難しさについて述べている。そもそも松井氏がここで云っている「よくない」というのはおそらく価値判断的に「純粋に悪」という意味だと思うのだが、太刀川氏がここで(少なくとも生物の文脈で)云っている「負の関係」や「負の連鎖」というのは単にマイナス方向の影響を与える(他個体に負担をかける)という意味に過ぎず、別に競争や寄生が本質的に悪であるという訳ではないだろう。実際、太刀川氏は「自然界には、避けられない競争が多様な形で存在している。自然の生態系は、全体は調和的にできているが、それぞれの生物はお互いに生きるのに一生懸命なので、必ずしも他の種や個体がお互いにとって都合の良い関係ばかりとは限らない。」(『進化思考』p.322) や「自然界でも人間社会でも、愛情的な共生関係と痛みを伴う競争関係の、プラスとマイナスの両方への適応が、進化を動かしていく。」(同 p.360) といったように負の生物間相互作用については語っているものの、そういった競争が本質的に悪いものであるという価値判断的な話は少なくとも私が読んだ限りではしていない。
また「これらと人間による環境破壊を結びつけることは難しい。あえて環境破壊と結びつけたいのなら」云々については、同ページにてその後「沖縄県北部のやんばるの森では、林道開発のために山を切り開いたところ、赤土が海に流れ込み、結果的に珊瑚礁が大きなダメージを受けた。つまり、山の環境を壊したら、海の環境も壊れてしまったということだ。林道開発をした人は、人々の暮らしに利便性をもたらそうとしていたのだから、良いことをしようとして環境を劇的に破壊したことになる。」(同 p.357) と太刀川氏が述べていることに関してだと思うが、もしここでの松井氏の意図が「自然の生態系における負荷や競争 (という太刀川氏の云う「悪」) がこういった環境破壊 (という悪) を起こす訳ではない。生物における負荷や競争を「悪」と見做すことで、環境破壊という悪と不適切に関連付けてしまっている」といったようなものであるのならば、それも上記した通り全くの的外れの批判である。太刀川氏はここで単に人間社会における負荷の予測の難しさの一例として環境破壊の話を出しているだけであり、環境破壊が話の中心である訳ではない。実際、さっき上で挙げたように発注の買い叩きが二次受け以降で子供の強制労働に繋がるといったような非環境破壊的な話もしている。この辺の読解も全く難しいものではなく、もし上記のような勘違い故の指摘であるのならば、申し訳ないが本の評者としては読解力不足と言わざるを得ない。
| キリスト教の伝来も同じで、江戸時代にハブとなっていたイタリアの
| 聖地から遠路はるばる長崎へ、宣教師が越境している。(p.374)
I: 確かに1602年にイタリア人宣教師カルロ・スピノラ(Carlo Spinola)が来日しているが、キリスト教の伝来は1549年のフランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸からという教科書的理解が一般的であろう。確かにザビエルはローマを発ってリスボンから出航したので「イタリアの聖地から」と表現し得るかもしれないが。何故「戦国時代」ではなく「江戸時代」と書いているのか理解できない。
💛二つ上で馬鹿にしている云々の指摘をしたので、その一例をとして挙げた。指摘そのものは妥当だと思うが、最後の「何故「戦国時代」ではなく「江戸時代」と書いているのか理解できない」は攻撃的で馬鹿にしているだろう。間違ってると思うなら単にそう言えばいいのに、態々「理解できないような間違ったことを書くあなたの頭は悪いですよ」とか「もしかしたら江戸時代でも正しいのかもしれないけど私には分かりません (絶対間違ってるけどねw) 」というようなことが読み取れうる表現をしている。もし時代について突っ込みたければ、例えば「またスピノラとザビエルどちらのことを言っていたとしても、少なくともそれは「江戸時代」ではなくて「戦国時代」である」と言えば十分だろう。(なお一応、「江戸時代にイタリアがハブになっていたとは言ったが、宣教師が長崎に来たのが江戸時代であるとは言っていない」というような解釈をすれば、江戸時代という表現は擁護されうる。ただこれはかなり不自然な読みであるし、個人的にはおそらく太刀川氏は単に間違えただけだと思うが)。
他にも例えば、「間違いだらけでほんとうにどこから突っ込めばよいのか…。」(p.160) といったような三点リーダーによる煽りが批判集において数多く見られるがこれも普通に失礼である。こういった表現は見知った仲やアカデミアでは問題ないのかもしれないが、今回のように特にそれ以前の関係もなく信頼関係が築けていない人にいきなりこういうことをしたら、そりゃ分断も生まれるだろう。
なお本稿もやや攻撃的な表現がないかと言えば否定できないが、他人を盛大に攻撃したり馬鹿にしたりしている者へお灸をすえる意味合いもあるので、多少は許して欲しい。
| その観点から、聖書・十字架・賛美歌、お経・数珠・声明といった拡
| 散の道具を観察すると、再生産数を生み出す仕組みとして実に良くで| きていることがわかる。この繋がりの構造を知っていれば、生態系の
| 全体像を把握できなくとも、共生的な繋がりを増幅させ、闘争的な繋
| がりを遮断し、ポジティブな繋がりを広げていくことができるかもし
| れない。(p.374)
M: ほかにもp.390の空海の引用、p.430の「もし私が神様だったら」p.442「適応は愛を目指す」p.472創世記引用など、スピリチュアルな表現が当書の終盤に向かうにつれて特に多くなっており、当書は学術書よりもビジネス書よりもスピリチュアル自己啓発本のカテゴリに近いのではないかと思わずにいられない。このような「共生」とか「適応」といった学術用語の濫用とスピリチュアルな概念との結びつけにあふれた記述は当書の科学的妥当性を直接に損なっているように思う。
また、デザインの進化において闘争的な繋がりが悪であって害ばかりを生む、という立場なのだろうか。資本主義経済において各社はしばしば闘争的に競争をしつつしのぎを削っていると思うのだが、共産主義的なデザインを育みたいということだろうか。私としてはこういう闘争的な共生関係も興味深い進化を生み出す原動力だと思っているので、非倫理的な攻撃(丸コピや、逆にPatent trollなど)や全体の利益にならない破壊行為(相手企業のサーバーのクラッキングやコモンズの悲劇)は法律で縛りつつ、フリーファイトがよいと個人的には思う。
スピリチュアル云々については、初めの引用部分だけを見る限りは特に問題はないように見える。ただ単に布教の道具・方法がその目的達成に関して優れていると言ってるだけなので。他の空海だったりの引用は、それがそのまま論の根拠とされていなければ問題ないのではないだろうか?
また資本主義・社会主義云々についても的外れの指摘のような気がする。太刀川氏は単に不要な闘争を減らすと言っているだけで、別に資本主義における競争一般は否定していないだろう。競争でいかに勝ち抜くかというような話をここまでしてきたのに、競争全てを否定するというのはありえないように思える。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はここ以前10ページ程度使って、如何に人同士の繋がりを上手く広げるかという話をずっとしており(「この見えない繋がりを理解する力が、創造性の鍵にもなる。なぜなら創造とは、このネットワークが繋がっていないポイントを繋ぎ、新たな関係を結ばせる行為に他ならないからだ。」(『進化思考』p.362))、ここでの「再生産数」というのもp.370辺りで一度語っているし(「再生産数が上がるということは、主観を発信者から受信者に移し、受信者が発信者になる仕組みを持つということだ。宗教や成功しているブランドを見ると、教会やコミュニティミーティングのようなハブの形成や教え合いを大事にしていることがわかる。」(同 p.372-373))、ここの引用部位の直前にも「宗教や歴史上の文化の広がりは、どれも似たようなネットワーク構造が応用されていて、ハブと越境がくり返し生まれることによって作られてきたのである。」(同 p.374)と述べているし、松井氏が引用している部分でも明らかにそういう話をしている。したがって、ここでの宗教における「道具」の話を以って、『進化思考』がスピリチュアル的であると批判するのは""明らかに""誤りである。そして、もしそういった太刀川氏の意図が読めない故の指摘であるのならば、申し訳ないが本の評者としては極めて力不足と言わざるを得ない。
またp.390の空海の引用というのも確認したが特に問題ないものである。太刀川氏は「排虚沈地、流水遊林、惣べて是れ我が四恩なり」という空海の言葉を引用して、「「空を飛ぶ鳥や虫、地中に住む生物たち、水にたゆたう魚や珊瑚、林をうごめく獣たち、これらが皆私たちを支えている」という意味の言葉だ。生態系との繋がりのなかに自分自身の存在がある。この当たり前のことを、私たちをすぐに忘れてしまう。大切なことは一〇〇〇年以上前から変わっていない。この至言を、つねに心に留めておきたい」(同 p.390)と述べており、これはここまで太刀川氏が述べて来たことが昔からも言われてきているという引用の仕方なので何も問題はないだろう。また太刀川氏はもう一つ「大欲得清浄」という空海の言葉を引用し、その後独自の意訳をした上で「空海のいう大きな欲という考え方は、生態の繋がりにアプローチする指針を与えてくれる。私という範囲の認識を拡張すれば、私とは家族のことであり、街のことであり、人類のことであり、生態系のことであるかもしれない。大我大欲には、自己を拡大した視点で繋がることの重要性が示されている。」(同 p.391)といった話を展開するが、これもここまで説明してきた生態系的なマクロの視点の話との関連の話な訳なので特に問題ないだろう。もし「同じようなことを言っている人が他にもいますよ」という引用の対象が宗教家であることを以って、スピリチュアル的であると批判しているのであれば、それは明らかに不適切である。
また、p.430の神様云々についても確認したが何も問題はない。太刀川氏はその前後含めて「過去に語られた未来の神話は、いつも現在に影響を与えつづけてきた。もちろんほとんどの夢や予測は叶わないし、未来はつねに不確実だ。しかし創造的な人は、間違いを承知で「もし私が神様だったら」と神話の視点で未来の景色を描いてみるものだ。現実のさまざまな制約をいったん脇へおき、自分が向かいたい未来の像をできるかぎり鮮明な物語として空想する力が、フォアキャストのシナリオを超えた未来を私たちに導いてくれる。」(同 p.430) と述べており、これを見るに太刀川氏がここで神様を出したのは、ただ単に常識に縛られない自由な想像をすることの喩えのようなものだろう。したがってスピリチュアル要素は特にない。
p.442の「適応は愛を目指す」に関しては唯一ややスピリチュアル的に見えなくもないのだが、別に批判されるほどのものではないと感じる。太刀川氏は適応の章の最後のまとめにて、これまでの解剖・系統・生態・予測という4つの視点について、「内側の可能性に目をくばる愛情」「過去の願いを受け取る愛情」「他者との繋がりや想いに共鳴する愛情」「子孫の将来を未来の人々に託す愛情」といったように、どれも愛情的な要素があり、そこから「愛情というのは、時空間の広がりのなかに、適応の在り方を探すことなのかもしれない。細部に至る細かい配慮、過去から現在までの繋がりに対する敬意、相手に対する思いやり、未来に対しての希望。こうした適応への感受性は、創造のプロセスだけでなく、人を繋ぎ、協力によって何かを成し遂げる集合知のために欠かせない能力ともなる」(同 p.442-443) ということを述べている。したがって、ここでの「愛」というのは「適応の思考」をこれまでとは少し違った角度から表現したものに過ぎず、特に根幹から新しいことを述べている訳ではない。またこれを「スピリチュアル」と呼ぶことにも個人的にも疑問符が付く。スピリチュアルとは神秘的なものや霊的なものを指す言葉であり[214]、一般的に言って「愛」はスピリチュアルを含意しないし、今回の語用としてもやはりスピリチュアルには該当しないだろう。したがって、もし松井氏が元々「愛→スピリチュアル」という語用感覚を持っているのならば、それは一般的感覚からズレていると思うし、個人的推測としては松井氏は太刀川氏の主張を「スピリチュアル」という語でラベリングしたいという欲求・目的によってスピリチュアルでないものも安易にスピリチュアルとしてしまっているのではないかと感じる。そして後者のような認知バイアスは上記下記のスピリチュアルに関する他の誤った批判に関しても同様に一部効いている気がする。なぜならいずれも批判のレベルがあまりにも低いからである。もし効いていないのならば端的に極めて読解力不足と言わざるを得ない。申し訳ないが。
また、p.472の創成記についても確認したが何も問題はない。太刀川氏は「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」という創成記の文を引用した上で、「人はすべての生物の支配者であると旧約聖書は言う。創造という超能力は、人が自然のなかの不自由を克服し、自身と世界との関係、つまり生態系を人のために変える行為そのものだった。私たちはそこに疑問を持たなかった。」(同 p.472) や「こうして人間中心の世界を作り上げていった結果、数億年かけて築かれてきた生物の生態系と、人間社会の生態系とのあいだには強烈な断絶が生まれてしまった。」(同 p.473)や「今こそ人間中心の観念を卒業して、生物の生態系から学ぼう。」(同 p.475) と述べており、またこの創成記の引用は「人間中心からの卒業」という大パートの冒頭 (同 p.472) に置かれているものである。したがって、ここでの太刀川氏の主旨が創成記的な人間中心主義の否定であり、創成期がそのような否定対象の例示であることは極めて明らかであり、これに対してスピリチュアル的であると批判するのは""明らかに""誤りである。本当に申し訳ないが、本の評者としては極めて実力不足と言わざるを得ない。
そういう訳で、この辺のスピリチュアルに関する批判は非常に的外れで質の低いものである。また資本主義云々に関しても、私が読んだ限りでは、太刀川氏は「デザインの進化において闘争的な繋がりが悪であって害ばかりを生む」に相当することを一切言っていない。また、太刀川氏は『進化思考』p.360にて「自然界でも人間社会でも、愛情的な共生関係と痛みを伴う競争関係の、プラスとマイナスの両方への適応が、進化を動かしていく。」というように競争が創造の進化を動かすことについて述べているし、p.337では「創造の初期の試みが成功したあとには、こうした進化競争が遅かれ早かれ発生する。その競争を予見し、進化の競争に勝てる態度をイメージしておくことが大切だ。そして逆説的には、進化を早めたいのなら、領域内に適切なライバルをつくることもまた、共進化の近道となるだろう。」というように競争が創造の進化を加速させることを一部肯定的にも述べている。また、ここでの「闘争的な繋がりを遮断し、ポジティブな繋がりを広げていくことができるかもしれない。」というのも、上記した通り不要な闘争を減らすという話だろう。例えば太刀川氏はここ以前のp.372-373にて「宗教や成功しているブランドを見ると、教会やコミュニティミーティングのようなハブの形成や教え合いを大事にしていることがわかる。こうしたハブを形成することで、コミュニティ内の仲間同士が助け合い、お互いに研鑚を積むことで、ゆるぎない文化を築いてきたといえる。」と述べており、無駄な争いを無くし、建設的にメンバーが切磋琢磨できるようなコミュニティが望ましいという話をしていることが分かる。すなわち、そもそも太刀川氏がこの辺で述べているのはコミュニティ形成といったような話であって、単なる市場競争の話ではないのである。似たような話はp.382でもされている(「共感できる人たちと繋がっている実感は、私たちを強くしてくれる。変化への恐れや、余剰を分け与えることへの不安を上回る心理的安全性のある状況を築くことができれば、社会は共生系に近づけられるはずだ。こうした共生的な関係を増やし、ポジティブな適応の循環を強めるために必要なことを、複雑ネットワークの性質をもとに考えてみたい。」「人の繋がりで考えるなら、人が心の奥で深く共感するコンセプトを発見し、その願いを共にする仲間を集めてポジティブなハブとなるコミュニティを作るのは、つねに有効だ。繋がる人が増え、彼らが心の底から伝えたいと思っているものができれば、強力なハブになる。」(同 p.382))。また、今挙げた引用の一つ目「共感できる人たちと繋がっている実感は、、、」や「プラスの繋がりも、マイナスの繋がりも、同じ構造のネットワークを生み出す。しかしあらためて考えてみれば、私たちは無意識の傾向として身近な人たちを幸せにし、遠くの人たちに負担を負わせがちになる。それは目先の課題解決にはなるけれど、根本的な解決をしていなければ負担が遠くに越境し、負荷の総量もまた増えてしまう。」(同 p.374) といった記述を見るに、上記のような小コミュニティ形成の考え方をより大きな範囲に広げていくというような意図があるようにも見える(実際、太刀川氏はその一つ目の引用の直後に「世界をアクセス可能にして変化を促すには、ここでもまたスモールワールドネットワークに見られたハブの求心力と越境が鍵となる。」(同 p.382)と続けている)。そういう訳で、「デザインの進化において闘争的な繋がりが悪であって害ばかりを生む、という立場なのだろうか。」や「共産主義的なデザインを育みたいということだろうか」といった松井氏の指摘は明らかに的外れである。この辺の太刀川氏の意図も容易に読み取れる部類のものであり、もし以上のような話を全く読み取れない上での指摘であるのならば、申し訳ないがやはり本の評者としては読解力不足と言わざるを得ない。
| たとえば、山に生息する雑食性の野ネズミのなかには、主食にしてい
| る笹の葉の豊作具合を予測して、出産数をコントロールしているもの| がいるらしい。(p.393)
I: 引用元が示されていないので信じられない。雑食性なら笹の葉以外のものも食べるだろうから、笹の生育が悪いのなら他の動植物の生育も悪く、単純に繁殖期の栄養状態が悪いのではないか?
私も個別例としてはよく知らないが、別に信じられないというほどのことでもなくないだろうか?笹の葉の生育とネズミの出産のタイミングが分からないが、妊娠中の母体の生理的制約 (出産"可能"数の低下) 関係なく、何らかの指標 (天候や餌資源など) を基に将来的な育児環境を予測して出産数をコントロールすることは適応的であり、理論的には進化しうる。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、ここの引用部位に続けて太刀川氏は「笹が不作のときには、繁殖量を事前に減らす傾向がはっきりと見て取れるそうだ。」(『進化思考』p.393) と述べている。したがって、もし太刀川氏がこの後ろの情報を基に初めの引用部位の主張を述べているのであれば、それは推論としては誤りである。
| 図16-2 フォアキャスト
| 図16-3 バックキャスト(p.397)
I: 矢印が何を表しているのか不明な図である。勿論フォアキャストとバックキャストの違いはなんとなくは伝わるが。上段中央「未来 予測」の「予測」の語が不適当なのではないだろうか。中段から上段に向かう矢印はすべて「予測」のように思われる。また左右の「解剖」と「生態」は、「ミクロ」と「マクロ」という対になる概念で整理した方が簡潔で万人が理解可能なのではないか。1977年にイームズ夫妻が『Powers of Ten』で示したように、オーダーの大小を考えることはデザインにとって重要な視点である。
図について批判するなら図を引用して欲しい。これでは批判の妥当性が全く評価できない。一冊の本として上梓しているのに本として論理的に完結していないのはどうなのだろう。
📕『進化思考』を読んだので追記する。図16-2,3というのは以下の図(画像9)のことであるが、ここでの矢印は単にどの情報を基に次の対象を考えるかといった意味だろう。例えば、フォアキャストは事物xに関してその過去の系統から現在までの流れを踏まえてその延長線で未来のxの予測をしたり、また現在の生態から未来の生態を予測してそれを基に未来のxの予測を補足したりといった感じである。したがって、矢印の意味に関しては特に問題はないように見える。また伊藤氏は中段から上段に向かう矢印が「予測」であって上段中央の「予測」は不適当であると伊藤氏は述べているが、ここでの「予測」というのは単に事物xに関して最終的に得られる予測結果のことだろう。特に問題はない。また、「解剖・生態」じゃなくて「ミクロ・マクロ」の方が良いと言うのも個人の好みの問題に過ぎず、太刀川氏は今「時空間学習」というパッケージで語っている訳なので特に問題ないだろう。また少なくとも太刀川氏はここまで「時空間学習」としてミクロ視点の解剖とマクロ視点の生態について長々と解説してきた訳であり、何の説明もなく唐突にここで初めて「解剖」「生態」という用語が出て来た訳ではない。なお、矢印の太線細線はおそらく主に思考の順番や重要性を意味しているように思われる(太線が先で重要)。
| 相関関係と因果関係を読み取る(p.406)
| この例からも、相関関係だけを信じるのがいかに無意味かがわかるだ
| ろう。(p.408)
I: ここだけ読むと著者は相関関係と因果関係の違いを理解しているようだ。それこそ「無意味」な「相関関係」である狂人性云々(p.31)を書いたのと同一人物とは思えない。
これも言ってることそのものは正しいと思われるが、「それこそ「無意味」な「相関関係」である狂人性云々(p.31)を書いたのと同一人物とは思えない」という文は不必要に攻撃的である。このようにこの本ではまともに対話する気がない表現が多々存在するが (p.124での想定読者層を馬鹿にする松井氏の発言やp.62,63の林氏の盛大な煽りなど)、これ以上突っ込みするのも面倒なのでこの類の指摘は以上にしておく。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏は「グラフ同士を同じ時間軸で比べると、片方が上がると他方も上がるような傾向が見られたり(正の相関)、それとは逆に、片方が上がると他方が下がるといった傾向が見られたり(負の相関)する場合がある。こうした共通の傾向が発見できた場合、それらのグラフには相関関係があることになる。つまりグラフの傾向が似ていて、互いに影響しあっていることが推測できる事象は、すべて相関関係があるわけだ。」(『進化思考』p.406) や「図16-7 これらのグラフには同じ傾向、すなわち相関関係がある」(同 p.407) や「私は一九八一年に生まれたので、それから二〇〇〇年くらいにかけて身長が伸びつづけている。だからそのあいだには、私の身長とこれらのグラフに相関関係がある。」(同 p.407-408) と述べており、これを見るに太刀川氏は相関が単に二変数間の概念であることをあまり理解していないようにも見える (グラフとグラフの間に相関を見たり、変数とグラフの間に相関を見ている。しかし「相関」と「相関関係」を使い分けているようにも見える。すなわち、前者が二変数間の関係を示す所謂相関で、後者はそれを基にしたもう少し緩い意味での事象の関係性について述べているのかもしれない。しかしもし仮にそうだとしても、両者(相関と相関関係)は一般的に同義とされるため、あまり上手い語用ではない)。
| たった一度、残念な結果が出ただけなのに、すぐに諦めて二度と挑戦
| しない人がいるが、この人は確率を無視している。(p.413)
M: リスク回避的な行動は進化的に身に着けたものであり、べつに確率を無視しているわけではない。コストが見合わなかっただけだろう。このような計算こそ期待値計算であり、成功に対するリターンと、失敗した場合のコストを計算しているはずだ。それを無視している著者こそ確率を無視している。つぎの指摘にも書いたリスク回避的な本能に言及して、「現代的な業務の範疇で、すぐに諦めて二度と挑戦しない人がいるが、この人の心は小さな怪我や失敗が生死に直結したころに磨き上げられたものなので、失敗したときのリスクを過大に評価している可能性が高い」であれば受け入れられる。
指摘内容はその通りだと思うが、「確率を適切に評価できていない」という意味で「確率を無視している」と言っているならばそれほど問題ない気もする。厳密には進化心理学的な観点を踏まえると確率というより確率変数を適切に評価できていないというのが実際の脳内での現象だと思うが、出てきた期待値判断を別の人が見たときに、その人が確率変数を正確に把握できているかつ元の人も当然それを理解していると思うならば、その人視点では元の人が確率を適切に評価できていないように見える。また「確率に関することを適切に評価できていない」と好意的に解釈してあげれば意味は通る。
📕『進化思考』を読んだので追記する。この引用部位同ページ少し後に太刀川氏は「このように考えれば、失敗に傷つく必要などさらさらない。しかし、人は失敗に対して本能的に構えてしまうため、往々にして挑戦を冷静にとらえることができず、思い込みによって自分の可能性を減らしているのである。」(『進化思考』p.413) と述べているので、太刀川氏は松井氏の云うような本能的なリスク回避について一応言及している。また太刀川氏は同ページで「たとえば過信とは逆に、行き過ぎた自己への不信感を持ってしまった場合だ。挑戦しない人には理由がある。かつての経験の惨憺たるトラウマによって失敗するのが怖いとか、次もまた失敗するかもしれないという固定観念から逃れず、挑戦を躊躇するのだ。そういう人の話をあらためて聞いてみると、どれくらいの確率で成功するかを客観的に計っている人は、ほとんどいない。」(同 p.413) といったことも述べており、この「行き過ぎた」「固定観念」「客観的に計っている人は、ほとんどいない」といった表現からするに、太刀川氏の意図は上記の通り「確率を適切に評価できていない」(客観的な期待値計算ができていない) といったところにあるように見える。そういう訳で、太刀川氏は松井氏が代案的に主張していることをざっくりとであるが一応説明しているのだが、本能的な判断を客観的な確率判断で如何に是正するかというところに話の焦点があるため、本能的な確率判断の一切を否定しているかのようになっている。なお、太刀川氏が本能的な判断に確率計算が絡むと考えているかどうかは、それが明確に分かる記述がないので何とも言えないが、特に言及していないことからするに、個人的推測としては少なくとも意識的には把握していないような気がする。なお、「それを無視している著者こそ確率を無視している。」と松井氏は言っているが、これは結局太刀川氏とやっていることは同じである。すなわち、太刀川氏は客観的な確率計算ができていないことに対して確率(一般)を無視していると述べ、そして松井氏はそれに対して本能的確率の見落としがあると批判していた訳だが、松井氏もここで同様に太刀川氏が本能的な確率計算を見落としていることに対して確率(一般)を無視していると述べており、これは太刀川氏の客観的確率計算の話を無いものしてしまっている。また、ここはただ単に太刀川氏が言っていることをそっくりそのまま返しただけであるという弁明も予想されるが、仮にそうであったとしても、今は両者(太刀川氏と太刀川氏が言及している客観的な確率計算をできていない人)が同じようにある種の確率計算を見落としている訳なので、ここは「著者こそ」ではなくて「著者も」と言うべきである。
| 成功確率が一%ならば、あと九九回挑戦すれば、求めていた結果が得
| られる期待値計算になる。(p.413)
I: 「釣り」なのだろうか。自己啓発本であれば「100回やれば必ず成功する!」というマインドでも良いのかもしれないが、確率というものはそうではない…。「期待値計算」の前段階の確率計算が明らかに誤っている。「成功確率が一%」の場合、100回挑戦しても、(0.99)^100≒0.366、つまり約37%の確率で100回全部失敗するのである。つまり、100回挑戦しても成功確率は約63%しかない。
M: 求めていた結果が絶対に得られる保証ができるのは無限回の試行を行ったときのみ。期待値の損得を議論したいのなら、コストとリターンを定義しなければいけない。もしくは、コストを考えず、「少なくとも一度成功する」ときの確率変数を1に、そうでない場合を0に設定すればたしかに期待値は100回の試行の際に期待値は1になる。が、それは「求めていた結果が得られる」期待値ではない。中学数学でやるはずだが…。そして、コストとリターンを一旦定義してしまえば、失敗はするもののリターンが大きいので何度も試すべきなのか、試行を繰り返すごとにコストばかりかかる、わりに合わないくじなのかが議論できるようになる。たしかに人間の損得勘定は現代の社会ではあまりにリスク回避側に偏っているために損をするという知見はあるので、それを引用すれば著者の言いたいことが説得力をもって伝えられるだろう。
💛もし太刀川氏が述べている「求めていた結果が得られる期待値計算になる」というのが、「求めていた結果が必ず得られること」に関してであれば、伊藤氏と松井氏の指摘は正しい。ただここで太刀川氏はあくまで「期待値」について述べている訳であり、仮に「100回の試行で成功数の期待値が1になる」という意図であるのならば、これは何も問題がない主張である。しかし現実的な話としては、求めていた結果が出た後も100回まで試行を続け、結果的に求めていた結果を計3回得るなどといったことは普通しない訳なので、前後の文脈も踏まえた個人的推測としてはここで太刀川氏は「求めていた結果が必ず得られること」を念頭にして、それを「100回の試行で成功数の期待値が1になる」数値計算と混同してしまっているような気がする。
また、松井氏は「「少なくとも一度成功する」ときの確率変数を1に、そうでない場合を0に設定すればたしかに期待値は100回の試行の際に期待値は1になる」と述べているが、これは数学的に明確に誤りである。上記の話で期待値が1となるのは「成功の回数」を確率変数としたときであり、松井氏の定義では100回中少なくとも1回成功する確率がそのまま期待値として反映されるので期待値は約0.63となる。「中学数学でやるはずだが…。」と太刀川氏を馬鹿にしているが、松井氏自身も中学数学からやり直したほうがよいのではないだろうか? (なお、個人的推測としては太刀川氏は「0.01 × 100 = 1」を以って100回という解を導き出したのではないかと思うが、成功確率が1%である試行に関して成功数の期待値が1になる試行回数を考える上では、その計算で何も問題ない。しかし上記の通り、その計算で得られるものは太刀川氏の真意とはおそらくズレている)。
| しかし、考えたくないからといって悲観的シナリオから目をそむけて
| いるのは創造的な姿勢ではない。(p.416)
M: なにが創造的な姿勢かは限りなく主観的なものだ。悲観的なシナリオから目を背けながらも生まれた(私の感覚では)創造的なアイディアをいくつか紹介しよう。大戦末期はイノベーションの宝庫だ。ナチスドイツは敗戦というシナリオ濃厚だったが、Me262 のような先進的なジェット戦闘機で爆撃機の迎撃をしようとしたり、戦況は変えられないことはおそらく知りつつもV2ミサイルで一矢報いようとしたりしており、これらの技術は終戦後の世界を形作った。旧日本軍は数々の希望的観測で「ユニークな」作戦を編み出した。そのなかには真珠湾攻撃のようにたまたま大成功してしまったものも、特攻のようなイノベーティブな(と表現せざるを得ないほど、自爆攻撃は第二次大戦以降世界各地で使われるポピュラーなものとなった。その前から存在していたにせよ、一般化するほどに普及させたのは日本軍の(恥ずべき)「功績」といってよいと思う)攻撃法もあるし、ちょっとした戦果をおさめたコンニャク風船爆弾のような特殊兵器、竹槍のような実際には使われなかったが当時のメンタリティの象徴として有名になったものもある。ナチスドイツにせよ旧日本軍にせよ、そんなおもちゃのような新兵器を開発して徒に双方の犠牲を増やすくらいならさっさと全面降伏すべきだった、それが悲観的シナリオを直視した際の創造的な姿勢だと後知恵ではいくらでもいえる。モアイ像にまつわる環境破壊には諸説あるが、モアイ像製造にあまりに莫大な森林資源を費やしてしまったために深刻な環境破壊に陥り、ヨーロッパ諸国に「発見」されたときには人口が激減していたという説がある(人口減の原因については奴隷狩りとその後の疫病によるものなど諸説あるが、森林伐採も関連しているのではないかとされていたと記憶する)。ナチスドイツや旧日本軍のような新兵器による戦況打開を狙う姿勢、イースター島の人々のような美?信仰?道楽により身を崩す姿勢を創造的でないと断じることは私にはできない。どうしてもこれを書きたいのなら、「考えたくないからといって悲観的シナリオから目をそむけているのは私がみなさんに望むような創造の姿勢ではない」などとしたほうがいいと思う。私はAだと考えていない、というのと、事実としてAではない、というのと、私はあなたにAだと考えてほしくない、というのは違う。
📕ここも松井氏の読解ミスによる誤った批判である。太刀川氏はこの引用部位の直前に「けれどもフォアキャストから浮かび上がる未来は必ずしも明るいとは限らず、むしろ憂鬱なことも多いだろう。いつか地震はくるし、コンピューターは人間の知能を超えるだろうし、生物多様性は失われつづけているし、国の借金は膨らみつづけている。社会が培ってきた惰性は強力だ。」(『進化思考』p.416) と述べ、また直後に「客観的なデータによって望まない未来像を知ったときに初めて、私たちには使命感が生まれ、その未来を回避する創造力を発揮しはじめる。」(同 p.416) とも述べている。したがって、太刀川氏がここで云う「悲観的シナリオから目をそむけている」というのは、「悲観的なシナリオを知りつつ、その対象に対して新たな施策を特に行わず、惰性的に今までと同じことをし続けること」である。一方、松井氏が戦争云々で述べているのは「悲観的なシナリオを知りつつ、それを何とかして回避しようとして新たな(時に悪あがき的な)施策を打ち出すこと」である。つまり、松井氏が述べていることは太刀川氏の論で言うとそれなりに悲観的なシナリオに向き合っているものであるのだが、「そんなおもちゃのような新兵器を開発して徒に双方の犠牲を増やすくらいならさっさと全面降伏すべきだった、それが悲観的シナリオを直視した際の創造的な姿勢だと後知恵ではいくらでもいえる。」辺りを見るに、松井氏は太刀川氏が「楽観的シナリオよりも悲観的なシナリオの方が確率的に起こりやすいと分かっているのならば、無駄なあがきは止めて悲観的シナリオ実現時に最も有効となりうる対応を今からすべきである」と主張しているのだと勘違いしているように見える。そういう訳で、太刀川氏は悲観的シナリオに向き合わずにただ惰性でこれまでと同じことをし続けるのは創造的な姿勢ではないという至極真っ当なことを述べているのだが、松井氏は太刀川氏の文章をよく読まずに(または読み取れずに)「悲観的シナリオから目を背けているのは創造的な姿勢ではない」という一部分のみから想像を膨らませて批判を行ってしまっているように見える。したがって、もし文章を良く読まずに一部分から勝手に想像を膨らませたのであれば、それは批評態度として非常に問題があるし、またはちゃんと読んだけど文意を読み取れなかったのであれば、やはり本の評者としては力不足と言わざるを得ない。(そもそも戦況を鑑みて全面降伏することそのものを「創造的」と見做すのは『進化思考』における「創造(的)」の語用一般と大きくズレているし、日常感覚としても違和感がある。松井氏はここで「想像」(先を想像して見通すこと) と「創造」を音の類似性経由で無意識に混同しているようにも見える)。なお、批判集にはこういったように文脈を無視した切り取り的批判が多いと感じる (分かりやすいので言うと、p.40の林氏による優生思想批判がそれだが、それ以外にも私が本稿で「誤読」と言っている部分はだいたいそれに該当し得る)。そういった近視眼的な批判の原因としては、上記したような不適切な読解態度や、単なる読解力不足、または「太刀川氏が間違っていることにしたい」などといった認知バイアス、などが考えられるだろう。
なお、モアイの話に関しては唯一「無駄なあがき」ではなくて現状維持的な話ではあるのだが、松井氏がそこで云う「創造性」というのは現状維持的な行動の"中身"がたまたま創造的なものであるというだけの話であって、太刀川氏がここで述べているような「問題に対して積極的に関わり合って解決策を試行錯誤する」といった観点での創造性とは全く話が違う。太刀川氏はそういった「美?信仰?道楽により身を崩す姿勢を創造的でないと断じ」てなどいない。そんな話はしていない。(あとそもそも「美?信仰?道楽により身を崩す姿勢」が創造的なのではなくて、美や信仰 (や道楽?) の具体的行為内容が創造的なのではないだろうか?身を崩すまでに美を追求する"姿勢"そのものに対して「いやあ、あなたは創造的ですね」と言う人はいないと思う)。
あと、真珠湾攻撃に関しては今の話とは全く関係ないのではないだろうか?松井氏は単に成功するか失敗するか分からないユニークな奇襲だけど偶々上手くいったという話をしているのだろうが、今は悲観的シナリオが見込まれる状況においてどうするのかという話をしている(それとも私の歴史の知識が浅いだけで、真珠湾攻撃計画時点で日本の戦況(?)は悲観的シナリオに傾いていたのだろうか)。またモアイによる環境破壊の話も、松井氏の記述を見る限りでは、悲観的シナリオを人々がどの時点で把握し始めたのか、またはそもそも把握したことがあったのかどうかが分からない。すなわち、モアイ像を製造している間は環境破壊が人口減に繋がるという悲観的シナリオを把握していなかった可能性もある。(またそもそも「人口減の原因については奴隷狩りとその後の疫病によるものなど諸説あるが、森林伐採も関連しているのではないかとされていたと記憶する」というように議論中の一仮説(のさらに記憶)を以って、「イースター島の人々のような美?信仰?道楽により身を崩す姿勢を創造的でないと断じることは私にはできない。」といったように影響度が十分に強い確定的な事実としてここで例示として出すのは不適当ではないだろうか?悲観的シナリオを知っていた上での現実逃避的現状維持の例として出すのに十分なほど、モアイ製造による森林伐採が人口減に寄与していたとはおそらく(少なくとも松井氏の認識上は)分かっていない訳なので)。
そういう訳でこの辺もおかしな記述が多い。申し訳ないがちょっと批判の質が低すぎる。
| 一四二五年頃、フィリッポ・ブルネレスキによって透視画法が確立さ
| れると、それまで存在しなかったまったく新しい機械や建築を、あた
| かも実物のように美しく描くスキルが芸術家たちの手に渡った。
| (p.421)
I: パースペクティブ、透視図法のことを透視「画」法と書き損なう建築・デザイン関係者がいるとはにわかには信じがたい…。画法という語はそもそもあまり使われないように思うのだが、強いて言えば、点描とか塗り方とかの技法に近いだろうか…? 図法でも画法でも伝わるだろ、大差ないだろ、と言われればそうかもしれないが、例えば遺伝子を遺伝児と書く人がいたら「どちら様?」という反応をされると思う。
💜一般的には透視図法と聞くが、透視画法でも別に誤りというほどではないのではないだろうか?実際ざっとネットで調べたところ一応出てくるし、『透視画法の眼 ルネサンス・イタリアと日本の空間』(横山正, 1977, 相模書房) [45]という本も出ている。したがって、仮に両者に多少の意味の違いがあり、かつ今の太刀川氏の文脈では図法の方がよりニュアンスとして適切であったとしても、それは「パースペクティブ、透視図法のことを透視「画」法と書き損なう建築・デザイン関係者がいるとはにわかには信じがたい…。」や「図法でも画法でも伝わるだろ、大差ないだろ、と言われればそうかもしれないが、例えば遺伝子を遺伝児と書く人がいたら「どちら様?」という反応をされると思う」と馬鹿にされるほどのものではないだろう。浅い知識で人を馬鹿にすることほど恥なことはないので伊藤氏は気を付けたほうがよい。
なお「画法という語はそもそもあまり使われないように思うのだが」というのには全く同意できない。普通に一般的に使われる語である。googleで「画法」と検索して欲しい。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、『進化思考』p.421にて引用されている「ダ・ウィンチがメディチ家のために設計したといわれる建設機械」(図16-11) は図面というよりも絵画に近いものであり(画像10)、したがって太刀川氏がこういった絵画的なものを意図しているのであれば、「透視画法」の使用そのものには問題はないように見える (「フィリッポ・ブルネレスキによって透視画法が確立されると」という記述内容が正確かどうかはまた別の話だが)。実際ここはバックキャストについて説明するパートであり、太刀川氏は「イノベーションのためにはデザインが必要だと世界中で語られる背景には、デザインの持つ未来を可視化する力がある。可視化には、未来を手元に引き寄せる力があるのだ。」(『進化思考』p.420) や「まるで実物を描いたスケッチのように、ありありと細部まで描写されている。これを見せられたクライアントは、彼の提案に投資しようと思ったことだろう。」(同 p.420) や「つまり当時のデザイナーたちは、そのたぐい稀なる正確なスケッチを駆使して、時代の権力者から建設現場の職人まで、言葉を超えたコミュニケーションを可視化の力によって行えるようになったのだ。その力の一端がダ・ヴィンチのスケッチにも現れている。そしてデザインによる可視化は、空想を現実に近づける橋となった。」(同 p.421) といったように、単なる正確的な図というよりは未来の姿をありありと想像できるような絵画を語っているように見える。(なお、太刀川氏は伊藤氏が引用している部分の直前に「彼らが爆発的に道具を発明するようになったきっかけには、当時開発された最先端の画法が関係している。」(『進化思考』p.421) というように「画法」という語を単独でも(そして特に問題ない語用で)使っている)。そういう訳で、総じて「パースペクティブ、透視図法のことを透視「画」法と書き損なう建築・デザイン関係者がいるとはにわかには信じがたい…。」や「図法でも画法でも伝わるだろ、大差ないだろ、と言われればそうかもしれないが、例えば遺伝子を遺伝児と書く人がいたら「どちら様?」という反応をされると思う」と馬鹿にされるような話ではないように見える。またそもそも「遺伝子を遺伝児」云々に関しては、遺伝子における「子」は「小さいもの」といったような意味だと考えられるため[215] (遺伝子が元々「遺伝因子」「メンデル因子」「因子」などと呼ばれていたことからもそう考えるのが妥当だろう[216])、「子供」という意味で「児」と交換するのは不適切である。したがって、(上記したそもそも透視画法という語は存在するという点も含めて) 残念ながら「透視図法⇔透視画法」へのアナロジーとして全く成立していない。人を馬鹿にするのならば、もう少し自分の発言にも気を付けた方がよい。
| しかしこうした発想がSFや空想の中では数多描かれていて、未来の| 誰かによって実現される時を待っている。(p.425)
I: SFの後の「空想」は「空想小説」のことだろうか? 「視覚的な思考力」を表現するのが文章による描写で良いのであれば、数ページ前の透視図法云々のくだりはまるで意味がなくなってしまう。逆にこの文の「描く」が文字通り絵を描くことを意味しているのであれば、p.427の図16-13のアルバトロス号の挿絵を描いたのはレオン・ベネットであり、ジュール・ベルヌ本人ではないことを指摘せざるを得ない。もちろんこういう絵を描いて欲しい、という指示はしているとは思うが。
これも文脈がよく分からない。太刀川氏は透視図法(ここでいう「視覚的な思考力」)が発想の原初的創造(発想の初めの種を創造すること)において必須であると述べているのだろうか?そうであるならば、ここでの記述は矛盾していることになるが、必須ではなく重要程度のことであるならば別にそこまでおかしくはないだろう。また発想の原初的創造ではなくて、発想の具体的顕現として透視図法を語っていたのならば、ここでのSF云々の記述には何も問題はないように思える。文章での描写は具体的顕現以前の原初的な発想であると見なせるからである。
また後半の「逆にこの文の「描く」が文字通り絵を描くことを意味しているのであれば、~中略~ ではないことを指摘せざるを得ない」というのも論理がよく分からない。ジュール・ベルヌ本人の「視覚的思考力」が優れていると太刀川氏が引用部分以前に述べていたのだろうか?
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの引用部位の同ページ少し前にて「可視化の力が創造性を加速させたにちがいないが、それ以前に、まだ存在していないものを、ありありと頭のなかに景色として描く力こそ、未来への創造力の源泉となったはずだ。私たちが創造力を発揮するとき、作るより前に、私たちは実際にそれを空想のなかで「観ている」のだ。」(『進化思考』p.425) と述べ、引用部位少し後に「まるで実際に目で見てきたように未来を思考する視覚的な思考力を、私たちは想像力(imagination)と読んだり、ビジョン(vision)と呼んだりする。」(同 p.425) と述べている。したがって、ここでの「空想」は空想小説ではなく単なる空想を指しているように見える。すなわち、「発想」は個々のアイデアを、「空想」はそういった発想を含む想像行為全体を指すように思われる。また一つ上の指摘部でも述べたが、太刀川氏の透視画法云々は未来の空想を他者に分かりやすく提示するという文脈でのものであり (「つまり当時のデザイナーたちは、そのたぐい稀なる正確なスケッチを駆使して、時代に権力者から建設現場の職人まで、言葉を超えたコミュニケーションを可視化の力によって行えるようになったのだ。その力の一端がダ・ヴィンチのスケッチにも表れている。そしてデザインによる可視化は、空想を現実に近づける橋となった。」(『進化思考』p.421)) 、それはここでの「視覚的な思考力」と特に矛盾しない。太刀川氏は視覚的な思考結果を他者に分かりやすく提示する一つの手法として絵としてのデザインがあると述べている。実際、p.425でも「この視覚的な思考力こそ、デザインという知の重要な一翼をなしているのだ。」というように視覚的思考がデザイン(という知)の構成要素の一つであると述べている。また、先ほど引用した中でも「私たちが創造力を発揮するとき、作るより前に、私たちは実際にそれを空想のなかで「観ている」のだ。」というように実際に手を動かす前の段階として空想があるかのように述べている。一方、確かに太刀川氏はこの辺のSFや空想の下りでも「可視化」という表現を使っており、この辺がやや紛らわしいものではあるのだが、別にSFや空想での「可視化」がイラストによる可視化を否定する訳ではないので特に問題はないだろう。「新しいモノが創造される以前には、ほぼ必ずその出現をいち早く可視化する人が存在している。宇宙の果てまでワープする機械、人型の巨大ロボット、脳に知識をインストールする配線などの装置は、実用的なレベルではまだ実現していない。」(同 p.425) や「可視化は思考の現実化を加速させる。まるで実際に目で見てきたように未来を思考する視覚的な思考力を、私たちは想像力(imagination)と読んだり、ビジョン(vision)と呼んだりする。」(同 p425) と述べているように、思考における可視化というのは、脳内におけるリアリティに溢れた詳細な描写(具体的な視覚的イメージ) のことを指しているように思われる。またこれに関連して、伊藤氏は「この文の「描く」が文字通り絵を描くことを意味しているのであれば」と述べていたが、上記したような説明からして、ここでの「SFや空想の中では数多描かれていて」というのは「文字通り絵を描くこと」ではなくて脳内(または小説世界)における描写のことを指しているように思われる。
ただ一点だけ問題があって、太刀川氏は次のページp.426において「ジューヌ・ベルヌが語った通り、未来をありありと想像し、想像したものを実現する力こそが、まさに創造そのものだ。そしてデザインには本来、想像した景色を可視化する視覚的な思考力が備わっている。」というように「想像した景色」を「視覚的な思考力」が可視化すると述べているのである。しかしこれは、これまで上で説明してきた「視覚的な思考とは頭の中でありありと景色を想像することである」という解釈とは矛盾するものである。したがって、この部分だけ太刀川氏が色々混同しているか、または想像した景色を何らかの形で具現化することにも視覚的な思考力が関わっていると考えているのか、または私の解釈が足りていないのかのどれかであると思われる。
| 成功組織には強いビジョンを持った人、すなわちビジョナリーがいる
| といわれている。〔中略〕こうして視覚は思考に軸線を与える。
| (p.426)
I: 組織における「ビジョン」は比喩的なビジョンである。「視覚」すなわち網膜で知覚するものとは違う。この話と「ディープラーニングなどの先端的AI技術は、CPUよりもGPUでの処理を多用している」(p.426)というのは全く別の話である。
いわゆる「ビジョン」というのが必ずしも視覚的なものとは限らないが、そういう比喩がされるということはある程度視覚的な要素もあるのではないだろうか?人によってものを視覚的に考えやすい人とそうでない人がいるので (経験的感覚としてもそう思うし、科学的にも認知の仕方に個人差があることそのものは認められているようだ[46])、視覚的に考える傾向が強い人がビジョナリーに多いのならば、全くの的外れの話という訳でもないだろう。ただ確かに厳密な意味での「視覚」(外部からの光刺激に対する感覚) ではないのはその通りである。あくまで脳内で完結した「視覚的イメージ」に過ぎないので。
| 進化思考の提唱者のEisuke Tachikawaから思想を引き継ぎ、(p.431)
|
| 進化思考は、太刀川の言葉を借りれば(p.432)
I: このフィクションにおける初出で「Eisuke Tachikawa」と英文表記だったものを何故2度目では「太刀川」と和文表記するのか理解できない。わずか数ページの文章内で表記ゆれが発生してしまうのは良くない。
📕伊藤氏がフィクションと言っているように、ここで引用されているのは「進化思考のワークショップが行われた日の一〇〇年後にニューヨークで開かれる「進化思考の展覧会」の会場に掲げられる序文のつもりで書いたフィクション」(『進化思考』p.433) の一部である。またこのフィクションはスミソニアン博物館の館長であるジョージ・ミヤモトという架空の人物が書いたという設定である。また、引用部分を前後まで含めて広く書くと「二〇一八年六月のある日、日本の小さなイノベーターのコミュニティだったコクリ!に集まった変革者たちが、進化思考の提唱者のEisuke Tachikawaから思想を引き継ぎ、それぞれのフィールドで実践するなかで、現在を培ううえで不可欠な運動が自然発生的に数多く生まれたのである。」(同 p.431) と「進化思考は、太刀川の言葉を借りれば「部分最適な世界を脱却し、人の観念を進化させ、人類を永続させるためのメソッドであり、人類存続のための祈りだった。」(同 p.432) となる。したがって、表記が統一されていた方が分かりやすいのは確かだが、初出の部分は太刀川氏が進化思考の提唱者として世界的な著名人であることを示す意図が特にある一方、二回目の登場では単に言葉の主を指すだけなので他の地の文と同様に日本語にしたようにも見える。またそもそもこのフィクションの作成は、上記の引用の中にもある通り、二〇一八年に行われた「コクリ!」というコミュニティのキャンプでのワークショップにてバックキャストのワークとして行われたものであり、多少の修正はあるのかもしれないが、「少し恥ずかしいが、ここにそのときの原稿を掲載したいと思う。」(同 p.431) というように基本的には当時の原稿ママのようなので、そのように限られた時間内で練習的取り組みとして作成されたであろうものに対して細かい表記ゆれに突っ込むのは野暮な気がする。
| こうした適応圧にさらされた先には、意図したような知が自然発生す
| る。適応を読み解いていくと、その知が向かう方向性に必ず出会う。
| (p.440)
I: 知の定義がよくわからない。他者が読み取ったものを知と表現しているのだろうか。「知が向かう方向性」はさっぱりわからない。具体例がこの先書いてあるのだろうか?
📕太刀川氏はこの引用部位の直前に「そして長い時間を生き残るものは、それが偶然の産物であっても、製作者の想定通りであっても、変異と適応が十分に往復した先には、まるで最初からさまざまな目的にかなうものを狙ったかのように、最適化された姿に収斂する。」(『進化思考』p.440) と述べている。したがって、ここでの「知」というのは環境にフィットした性質が外部からは知的に見えるということだろう。また、このような「知的構造」の話を太刀川氏は以前に何回もしている (「それでも、バクテリアはあたかも知性を持っているかのように、食物を効率的に捕食する仕組みを持っている。」(同 p.41)、「興味深いのは、バクテリアは単純な動きを機械的に切り替えているに過ぎないが、この行動を外部から観察すると、まるでそこに「餌を探す思考」が存在するように見えることだ。この化学走性は、生命が持っている知的性質の中でも最初期に獲得されたものだ。」(同 p.41-42)、「こうして変異的なランダムさと適応的な知覚が伴えば、それが単なる科学的な反応にもかかわらず、知性的な構造が出現するという訳だ。」(同 p.42)、「自然界に存在する知的構造の極めつけとして、創造に大変よく似た自然現象がある。それは進化だ。」(同 p.43)、「そして不思議なことに、この構造は進化だけにとどまらず、さまざまな知的現象にもそっくりな構造が見られる。こうした類似性を知るにつれ、私は自然物にも人工物にも共通する、普遍的な創造の法則があるのではないかと考えるようになった。」(同 p.50)、「それは、あらゆる知的構造は、「変異」と「適応」の往復が生み出すということだ。」(同 p.50))。そういう訳でここでもそういった「知的構造」の話をしている可能性が高い。なお、伊藤氏の「他者が読み取ったものを知と表現してるのだろうか?」というのは何を言いたいのか今一分からないのだが、もしこれが私が上で説明したような「外部から知的に見える」というようなことを言いたいのであれば、その意図そのものは問題ない。しかし、今は創造物に関しても「知」を考えているのだから、「他者」の反対としての「主体」が(内在的)知の前提であるかのような表現は不適切だろう。ただ、個人的推測としてはそうではなく、おそらく伊藤氏は「ある創造物を見たときに感じる設計者(仮想的な設計者を含む)の意図そのもの」のことを「知」と言っているような気がする。しかし、それは上記したような太刀川氏の意図とはややズレているだろう。「意図したような知が自然発生する」や「知が向かう方向性」という表現からするに、太刀川氏は事物内在的な性質として「知」を考えている可能性が高い。なお、伊藤氏は「知が向かう方向性」の意味が「さっぱりわからない」ようだが、これまでの書籍全体の文脈や、上記の「最適化された姿に収斂する」、引用部位直後の「こうした適応の方向を読み取る感受性は、創造の先を照らす眼となる。」、次のページp.441の「創造を取り巻く関係性が明確になってこそ、意図が叶うための形態が自ずと絞られてくる。」といった記述を見れば、適応的な方向に進化していくこと (松井氏風に言うならば適応度地形における山の頂点へ向かうこと) について述べていることは容易に分かる。確かに「最適」というのは少々言い過ぎだが、本の批評をするならばこの程度の意図は読み取れて欲しいと強く感じる。
また、伊藤氏は「具体例がこの先書いてあるのだろうか?」というように判断を一旦保留しているが、次の指摘部位で「そう思って読み進めたら「知」の話ではなくなってしまった。」と続くようにこの謎はすぐに解決しており(実際、該当の太刀川氏の二つの記述は同ページ内にあり、段落を跨ぎつつも間に3文しか挟んでいない)、一般に批評をする際はこの程度の範囲であればまとめて批評すべきではないだろうか?広い流れを見ない局所的な批評に価値はあまりないように感じる。顕著な例としては他にもp.145の松井氏の「近年のどのような進歩によって正確さが保証されるようになったのだろうか」もそうだったが、それ以外にもこの批判集には広い文脈を考慮していない(または読解力不足ゆえに考慮できていない)局所的な批評が多い。(ただここの伊藤氏の批評に限っては、次の指摘部位の執筆者マーク(I or M)が欠けている、かつ通常の指摘部位間の空白よりも一行狭いことから、ここは一繋ぎの批評である可能性もあり、もしそうであれば批評の仕方としては特に問題ない。ただ、もしそうするのであれば、「しかし、すぐ後に以下のように述べている」といった記述をしないと読者にはよく分からないだろう。特に第四章ではここ以外は全て「一つの引用部位+批評文」という単位で批評が構成されているので)。
| その感受性を使って、私たちはモノに込められた真意を読み取り、価
| 値を判断する。たとえば、同じメニューの食事を別のレストランで食
| べると、丁寧に作られたものか、そうでないかによって、まったく違
| う感覚を得る。〔中略〕私たちは明らかに、〔中略〕見えない関係性
| を読み取って価値を認識している。(p.440)
I: そう思って読み進めたら「知」の話ではなくなってしまった。「意図したよう」に「自然発生」した筈が、「込められた真意」となっており、何者かの意思が働いた結果だと読める。「食事」のくだりはおかしいだろう。「丁寧に作」る、が「真心を込めて」というスピリチュアルな意味でなければ、肉をもみこむとか隠し包丁を入れるとか、下茹でしておくとか灰汁をこまめに掬うとか、そういうことだろう。当然食感や味の染み込み、香りなど「感覚」も異なる筈だ。また「見えない関係性」は少なくとも「知」ではないだろう。
※本稿執筆者注:元の文では松井氏・伊藤氏のどちらの記述であるかを示すマークが欠けているのだが、「そう思って読み進めたら」という記述より一つ前の指摘部位との関連性を考えて伊藤氏と判断してマークを追加した。
📕太刀川氏はここの引用部位の少し前に「生物の進化にも人の創造にも共通して、モノの周りには適応的な理由(WHY)が自然発生する。そして長い時間を生き残るものは、それが偶然の産物であっても、製作者の想定通りであっても、変異と適応が十分に往復した先にはまるで最初からさまざまな目的にかなうものを狙ったように、最適化された姿に収斂する。どちらでも同じことなのだ。」(『進化思考』p.440) と述べている。すなわち、太刀川氏はあるモノが環境に適するような姿に至ること一般について「意図したような知」を語っており、したがってそれが何者かの意思が働いた結果であろうがなかろうが関係ない。そういう訳で「「意図したよう」に「自然発生」した筈が、「込められた真意」となっており、何者かの意思が働いた結果だと読める。」という伊藤氏の指摘は的外れである (またここでの「込められた真意」を仮想的な主体による意図も含むものとして読むことも可能である)。またそもそもここでの「込められた真意」というのはそういった環境にフィットした結果としての「知」の話というよりは、環境相対的な情報を如何に上手く読み取るかという説明の文脈におけるものであるように思われる (太刀川氏はここの引用部位の直前に「適応を読み取る感受性は、そもそも誰にでも備わっていて、しかも鍛えることができる。「解剖」「系統」「生態」「予測」に集約した時空間学習は、それを学ぶための本質的な観点を示したものだ。」(『進化思考』p.440) と述べている)。したがって、「「意図したように」や「自然発生」」と「込められた真意」は、あまり明確に比較できるものではないだろう。実際、太刀川氏は次のページp.441にて「あらゆる発想は、自然発生する進化のように、世界に出現する。物事に秘められた声にならない声を聴くように、目に見えない関係を読み解き、適応の方向を見定めること。時間・空間上の関係に宿る、秘められた方向性を感じ取る力は、新たな創造を未来の世界に適応させるための鍵となる。」と述べており、これは「込められた真意」云々の話は見えない関係性の読み解きに対する類似的提示(アナロジーとしての近い話の提示)であることを示唆する。そういう訳で伊藤氏の指摘はズレているだろう。この辺も太刀川氏の主張に納得するかどうかは置いておいて、意図そのものは割と容易に読み取れるものであり、本を批評するならばこれくらいは読み取れて欲しいと感じる。
また「「食事」のくだりはおかしいだろう。」に関しても、太刀川氏は伊藤氏が中略している部分 (「まったく違う感覚を得る」の直後) にて、「同じ分量のほぼ同じ食材を、ほぼ同じプロセスで加工したのに、心象的な結果はまるで違う」(同 p.440) というように「ほぼ同じプロセスで」や「心象的な結果」と述べている。また「私たちは明らかに」の直後の中略部分においても「栄養価などの数値化できる情報だけでは価値を判断しておらず、」(同 p.440) と述べている。したがって、ここでの太刀川氏の意図が「料理の客観的な味ではなく、丁寧な見た目などの非味覚情報によって味への印象が変わる」ということであれば特に問題はない。ただ、もし仮にここでの料理の話が想像上の話ではなくて太刀川氏の体験談に基づくものであるのならば、太刀川氏は調理における細かい配慮による客観的味への影響を見落としているようにも見える。したがって、太刀川氏の意図ははっきりとはしないのだが、このように中略部分まで読めば印象はだいぶ変わる訳であり(実際、私も『進化思考』未読時は伊藤氏の指摘に納得してしまっていた)、こういった重要な情報は省略されないべきである。さすがに自身の主張に合わないような情報を意図的に隠した訳ではないとは思うのだが、少なくとも結果としてはそのように伊藤氏の主張に上手く沿うように不都合寄りの情報がカットされている訳なので、批評本としてはだいぶ問題であると感じる。まあ実際のところは特に重要性を感じなかったので単に論旨が分かりやすいようにカットしただけだと思うが、こういった局所的なカットは自身の文章読解力に大層自信がない限りは避けるべきである。(なお、同様に自身の主張に不利な情報が落ちているものとして批判集p.85の道具使用に関する松井氏の批判がある。また、中略ではなく単なる引用範囲不足まで含めると、p.119の伊藤の「手段と目的」云々を始めとして批判集には引用不足による誤読誘発が非常に多い)。
また最後の「「見えない関係性」は少なくとも「知」ではないだろう」に関しても、「見えない関係性」は進化対象と環境との関係性の話であり(「適応の引っ張り合いによって、その状況にふさわしいデザインが形作られているはずだが、時空間的な感受性を養わないかぎり、人はそのWHYの流れをなかなか観ることができない」(『進化思考』p.441))、一方「知」というのは進化の結果の話なので、次元が全く異なり、比較できるものではない。申し訳ないが、伊藤氏は文章を全く読めていない。
あと「「真心を込めて」というスピリチュアルな意味でなければ」に関してだが、そもそも「真心を込めて」をスピリチュアルと見做すのはスピリチュアルの一般的語用からしておかしいだろう[214]。p.164-165の松井氏もそうだったが、申し訳ないが太刀川氏のことを貶めたいという欲求によって安易にスピリチュアルというレッテルを貼っているように見える。そしてもしそうであればそれは批評態度としては大変問題のあるものである。
| 細部に至る細かい配慮、過去から現在までの繋がりに対する敬意、相
| 手に対する思いやり、未来に対しての希望。(p.443)
I: 前半2つが当書には圧倒的に足りていない。また情報の正しさという意味での、読者に対する誠実さも。
💜太刀川氏の記述に誤りが多いのは事実だが、この批判集も他人のことを言えないほど多くの誤りを含んでいる。似たようなことを既に何回か述べてきたが、批判本かつ著者が学者という構図は一般読者に情報を無批判に受け入れさせるバイアスを与えるので、こういった本では正確性が普通より高く求められる。しかし、ここまで本稿で批判してきたようにこの批判集はそのレベルの正確性には全く達していないと言っていいだろう。
📕『進化思考』を読んだので追記する。引用部位だけでは何の話をしているかよく分からないと思うが、太刀川氏はここで時空間学習における「解剖・系統・生態・予測」に関して述べている (「細部に至る細かい配慮」が解剖、「過去から現在までの繋がりに対する敬意」が系統、「相手に対する思いやり」が生態、「未来に対しての希望」が予測に対応している)。それで、上でも述べたが、批判集はこの一つ目と三つ目を欠いているだろう。というのは、生物学的・論理的・文章読解的な誤りが山ほど存在し、かつ太刀川氏(及びその周辺のコミュニティの人々)を馬鹿にするような発言も存在するからである。また、本稿の初期バージョンを2025/6/11に公開した直後に私は批判集の著者らに記事を公開した趣旨の連絡をし、かつ直後に彼らが本稿の存在を把握していることが読み取れる反応もあったのだが[211][96]、今の今まで(ver.2.0.0公開時まで)まともに誤りについて認めていない(現状認めた誤りは些細・些末な3点のみ)。なんなら先日2026/1/31の伊藤氏の応答記事「『進化思考批判集』批判への応答」[92]では、誤りを認めるどころか「「もしかして『進化思考批判集』も信用できないの…?」と思ってしまう人もいるかもしれない。そういう人の不安を取り除くためにも「安心してください、間違ってませんよ」と言っておくのも大切だろう。」というようにむしろ誤りがほぼないかのような発言をしている。私はこれは「情報の正しさという意味での、読者に対する誠実さ」を著しく欠く行為であり、およそ大学教授が言っていいものではないと思うのだが、どうなのだろう?それとも伊藤氏は私の数々の指摘のそのほとんどを否定し切れると本当に思っているということなのだろうか?
| 図17-1 精子と卵子の授精は、コンセプトの誕生と相似形をなしてい
| る。(p.453)
I: 前ページの「この「受精」と「コンセプト」には深い意味での類似性があり」は良いのだが、何故「類似性」が「相似形」になってしまうのか。形のないもの(コンセプト)と「相似形」ということなどあり得ないことは言うまでもないだろう。
💜厳密にはそうかもしれないが態々突っ込むほどのことだろうか?それに抽象的構造として似ているということであれば、別に物体としての形が存在しなくてもそれほど問題ないように思える。実際「相似」には「1 形や性質が互いによく似ていること」(デジタル大辞泉, [47]) というように「性質」に関する意味もあるとされている。
📕『進化思考』を読んだので追記する。伊藤氏は「前ページの「この「受精」と「コンセプト」には深い意味での類似性があり」は良いのだが」と述べており、また松井氏もこの辺について特に突っ込んでいないのだが、私はこの辺の太刀川氏の記述は不適切であると感じる。確かに単に「原初」とか「多数の変異の中から優れたものが選ばれる」といった意味であれば類似性はあるのだが、太刀川氏はここで「多様な変異と本質的な適応は、それぞれ精子と卵子にたとえられる、それらが掛け合わさる創造のプロセスもまた、数億個の精子を競争させ、一つの卵子に受精させるプロセスに思えてならない。」(『進化思考』p.452) というように、「変異と適応」∽「精子と卵子」や、「多様な変異∽数億個の精子」「本質的な適応∽一つの卵子への受精」といった類似を見ている。しかし、変異と精子の類似性は問題ないとして、適応と卵子に類似性を見るのは不適切ではないだろうか?ここでの「本質的な適応」というのはこれまでの文脈通り「環境にフィットするような性質や関係性」または「適応の観点でアイデアを選別すること」を指すと思うが、そのような性質や選別行為は卵子一個とは特に関係はないように見える。なぜなら卵子一個には特にそういった適応的な要素はないからである。太刀川氏は同ページで「変異と適応による進化思考の構造は、実際に生物の受精のプロセスに酷似している。オスの無数の精子による多様な変異と、メスの持つ適応的な遺伝子プールを保つ卵子が出会い、Conception(受胎)が起こる。」(同 p.452) と述べており、これを見るに、卵子が持つこれまでのその種の長年の歴史に基づく"適応"的なゲノムという意味で「適応」と「卵子」に類似性を見ているのではないかと思うが、もしそうならば、太刀川氏は卵子もまた個々が変異的であることを見落としている。単に変異的であるということに関しては精子も卵子も変わらないのである。また当たり前だが精子も卵子と同様にそれまでのその種(及びその系統)の長年の歴史に基づく適応的なゲノムを持っている。
そういう訳でこの辺の太刀川氏の表現は不適切だと思うが、「適応」との関連をどうしても述べたければ、上記したように「莫大な数の精子のうち卵子に辿り着くのはただ一つ」ということのみに関して緩く述べるのが良いと思う。(「緩く」というのは、同一雄個体における各精子の受精関連形質の差異はその精子のDNAのみによって決まるものではなく、また受精過程では受精に関係する形質以外の形質 (例: 形態形質や行動形質) については特に評価できていないため、卵子と受精できた精子が個体として発生できたときの適応度が卵子と受精できなかった他の精子に比べてすごく高いとは限らないからである)。
| 有性生殖の生物がたくさん存在しているのは、もちろんそこに適応的
| な優位性があってのことだ。(p.453)
M: 有性生殖がなぜ進化したのかは非常に興味深い進化学上の課題で、いまだに定説はないため、「もちろん」と言い切れるほどに(本来の意味での)適応かどうかはわからない。その証拠に、少なくない植物が単為生殖に移行している。生物進化は長期的なビジョンを持たない。なので、同じ趣旨のことを書くとすれば「多細胞生物の大部分がなぜコストのかさむ有性生殖を採用しているかの解明は進化学上の難問で、いくつもの仮説が提示されているが、そのどれにも共通するのは『こんなに成功を納めているからには、きっとそのようなコストを上回る適応的な利得があるからだろう』という適応主義的な作業仮説だ」だろうか。
💛確かに100%証明されたは言い切れないので「もちろん」という語は不適切ではあるが、適応的観点がある程度受け入れられているのは事実である。また有性生殖が適応的優位性を持つことへの反例として、単為生殖に移行した植物種を例として出しているように見えるが、太刀川氏は有性生殖がどの種・環境においても適応的とは別に言ってない。植物は動けないので、個体や小集団が疎にばらけており、交配相手が遠かったり送粉者の飛来数が安定しなかったりする状況では、単為生殖への移行が適応的である場合もある。したがって、そういった点では松井氏の例はむしろ有性生殖か単為生殖かに適応が絡みうるという例になっているとも言える。
また「(本来の意味での)」というのが何を意図しているのかはっきりとは分からないが、もし自然選択の結果としての「適応」のみが正当な「適応」の定義である、ということを言っているのであれば、ここまで本稿で何度も指摘してきたように、それは適応の「歴史的定義」に過ぎない。
| 有性生殖の理由は、進化しやすくなり、環境の変化についていけるよ
| うになるためだったといわれている。(p.453)
M: これはWikipediaのSpeed of evolutionの項[73] にあるように、基本的には支持されていない仮説だと思う。有性生殖のパラドックスについては反寄生説やラチェット説など少なくとも多数の仮説が並立しており、いまだにホットな分野なので、そのうちのひとつ(しかもよりにもよって支持の薄い学説)をあげて「これのせいだといわれている」とは言うべきではないのではないだろうか。これは「交配、すなわち有性生殖の獲得は、進化のスピードを加速した」(p.462)にもあてはまる。
💛松井氏はWikipediaのSpeed of evolutionの項を本当に読んだのだろうか?そこに書かれているのは、むしろ有性生殖では進化速度が遅くなるという全く逆の話である。項の一文目から「Ilan Eshel suggested that sex prevents rapid evolution.」と書かれているし、その後も「so the population is less affected by short-term changes.」や、クラミドモナスを用いた実験では逆に進化速度が上がったという反例的結果が出ているよと書いてあるのだが[48] (ここで私が引用しているURLは松井氏が[73]で引用しているものと同一である。つまり参照違いということはない)。それにSpeed of evolutionの項に何が書かれているかとか関係なく、引用されている太刀川氏の主張そのものは割と受け入れられている説であると普通理解できないだろうか?実際松井氏が挙げている反寄生説は太刀川氏が言っていることの個別例である (寄生虫も環境の一部) 。松井氏は何か根本的に理解していないか、もしくは太刀川氏の主張をよく見ずに、それと似た(?)説をWikipediaで参照し、そこで支持されていないって言われているから (「This explanation is not widely accepted, as its assumptions are very restrictive.」[48]) 支持されないものであると判断しているかのどちらかだと思われる。そして後者の場合、それは評者としても研究者としても極めて問題のある態度である。
また松井氏が参照した当時と私が確認した2025/05/03ではWikipediaの記述が変わっている可能性もなくはないが、真逆の説明に変わる事はほぼないのではないだろうか?それにさっきも言ったが、Wikipediaになんと書いてあろうと、太刀川氏の主張そのものは別に支持の薄い学説ではないので、Wikipediaに頼らず太刀川氏の主張そのものを普通にちゃんと読めば、支持されていないという結論に普通は至らないのである。(なお、私が参照したバージョンが正確に閲覧できるようにweb魚拓も取っていおいた[49])。
また松井氏が「進化しにくくなり」などと読み間違えてる可能性に関しては、「これは「交配、すなわち有性生殖の獲得は、進化のスピードを加速した」(p.462)にもあてはまる」と同様の主張についても批判しているので、その可能性はほぼないだろう。
なお、太刀川氏の記述は仮説が100%正しいと断言しているように見えなくもないので、その辺の表現の不適切性については同意する。しかし、あくまで「環境の変化についていけるようになるためだったといわれている」という緩い確定であって、「環境の変化についていけるようになるためである」という明確な断定ではないのでそこまで言われるほどかとも思う。とはいえ「環境の変化についていけるようになるためではないかといわれている」とか「環境の変化についていけるようになるためというのが有力な説の一つとしていわれている」のほうが適切なのは確かである。
また、そもそも引用範囲が狭すぎて太刀川氏が有性生殖の何の理由について話しているのかはっきりしない。ある程度被る部分はあるだろうが、有性生殖が初期に発生し広まった理由と、その後維持されている理由は厳密には別の話である気がする。
📕『進化思考』を読んだので追記する。松井氏の指摘がおかしいのは特に変わりはないのだが、この辺の太刀川氏の記述には誤りが多い。例えば「進化しやすくなるためには、単純にエラーを生みだす量を増やす必要がある。有性生殖ではこれを精子や卵の数が解決した。そして環境が変わっても、自然選択のなかを生き残るにはバリエーションの多様性が必要だ。これを性差と性競争が解決した。」(『進化思考』p.453-454) と太刀川氏は述べているが、精子や卵の”数”そのものは実効的なエラーを特に増やさない(なぜならどれだけ精子や卵(?)が多くても結局受精できるのは少数だからである)。また性淘汰は確かに種内に形質の多様性を生みうるが、それが集団の生き残りの意味で有利に働く可能性はゼロではないものの可能性としてはそれほど高くはなく、一般にそうであるとは言えないと思う。また性差に関しても、仮に片方の性が環境の急変によっても淘汰されずに生き残ったとしても、残った性が単為生殖出来ない限り結局滅びる訳なので性差が集団の生き残りのためのバリエーションとして機能するとは別に一般には言えないと思う。ただ性差云々というのが減数分裂における組み換えや親から一つずつ染色体をもらい受けることについて言っているのであれば、その意図そのものは問題ない(しかしそれが分かる表現にはなっていない)。
そういう訳で松井氏が引用している太刀川氏の記述そのものは問題ないのだが、その記述意図や内容理解に関しては間違いが大いに存在する。なお、この辺だけ見ると太刀川氏は有性生殖が環境変化に有利であるという説の概要をほぼ全く理解できていないようにも見えるが、松井氏が挙げている「交配、すなわち有性生殖の獲得は、進化のスピードを加速した」(『進化思考』p.462) 辺りを見てあげると、「多様性を生み出し、異なるもの同士を交配させる有性生殖の獲得によって、生命の進化は加速した。」(同 p.460) や「品種改良と同じように、生物でも創造でも他のモノが持つ優れた性質を選択して組み合わせることで、適応に叶った変異が生まれやすくなるのだ。」(同 p.463) といったように雌雄の遺伝子の組合わせによる多様性についても一応多少は述べているので、ある程度は理解しているように見える。
| 創造も交配できるのか。そうはいってもオズボーンさん、そんなの、
| いったいどうやるんだ。そんな声が聞こえてきそうだ。大丈夫。ここ
| まで進化思考を一緒に探求してきたあなたなら、そのための方法はす
| でにあなたの手中にある。 (p.461)
I: 既に指摘しているが、オズボーンの同書から言葉だけ引用し、いわゆるSCAMPERを一切無かったことにして話を進めるのは白々しすぎないか。
📕太刀川氏は『進化思考』p.52-53にて「だが、こうした発想法や戦略の類は、その成り立ちの都合上、どれも効率よく発想するための方法論(HOW)に終始していた。そして巷にあふれる発想法の大半は、それを提案した人の経験則と主観的な方法論に陥った、再現性の乏しい自伝的な内容に思えた。また創造が起こる不思議を生物学的に論じた考え方はほぼなく、なぜその方法が生物である私たちが創造できるのか(WHY)に答えてくれるものは皆無だった。私なりにたくさん探してみたものの、結局「なぜ進化と発明は似ているのか」に答える内容や、「進化に寄り添った創造の具体的な手法」は発見できなかった。」と述べており、これを見るに単なる方法論を超えた進化との関連を重視しているようなので、そういう観点でSCAMPERにはそれほど重要性を感じなかったのかもしれない。実際、太刀川氏は「著者のなかでオズボーンは、「人間の思考力は〈分析する判断力〉と〈アイデアを生み出す創造精神〉の二重構造になっている」と論じているが、まさにこれは、適応の思考と変異の思考を彷彿とさせる。」(同 p.52) というように、進化思考の根幹に関する「適応の思考」と「変異の思考」に類似する概念について引用している訳なので、進化思考に近いようなアイデアを特に隠したいと思っている訳ではないようにも見える。
| こうして変異と適応を往復し、その山を登るうちに、適応圧はどんど
| ん強くなり、酸素も薄くなるだろう。なぜ山を登るのか、麓の人は不
| 思議に思うかもしれない。それでも、高みにおいてなお、変化の可能
| 性を確かめることが、まだ見ぬ景色を観ることが、本人は楽しいの
| だ。こうして多くの人が到達できない高さまで到達したとき、雲を突
| き破って、初めて創造性は価値として姿を表す。(p.468)
M: 著者が進化を天まで続く梯子のように崇高なものへと登っていくものととらえているのはここでの表現から明らかだ。p.61への指摘参照。
I: 雲を突き破らないと価値が生まれないとは…。誰もが創造性を諦めることなく発揮できるようになる思考法、の割にはそこから生まれるものの評価はかなりシビアだということが本の最後に明かされたわけで、結構衝撃的なラストである。
💛松井氏の指摘については既に似たようなことを何度も述べたが、ある一定の環境においては適応進化を高みへと上っていくものとして捉えてもそれほどおかしくはないだろう。また、迷いのない一直線的な進化云々について批判しているのであれば、それはここでの太刀川氏の記述から一意に読み取れるものではない。また批判集全体を通して松井氏は、結果として優れた適応的形質を得ることと、それが初めから企図されたものであるような偽の進化を梯子or枝分かれの観点を不適切に絡ませることで混同してしまっている気がする。系統樹の一つの枝分かれの先から溯ればそれは一直線であり、局所におけるそれをある環境に対して優れた形質を段々と得ていく過程として見ることはそれほど誤りではない。また同様にノード間においても当然梯子的な進化は起こり得る。したがって、ある説明が梯子的に見えるならばその説明は絶対に間違っている、という考え方は正しくない。進化について真に理解していないために「梯子的かどうか」という権威的匂いを持った表面的な問題に拘泥し、その結果判断を誤ってしまっているように私には見える。またそもそも文脈がはっきりとは分からないが、ここで太刀川氏が述べているのは生物進化というよりは進化思考といったアイデア発想の話ではないのか?
伊藤氏の指摘については、誰でも努力すればそのような域まで到達できるという話であれば特に矛盾はないのではないだろうか?
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの辺り(『進化思考』p.466~468)でずっと創造の話をしている。したがって、それほど問題ないように思われる。また、引用部位の直後に太刀川氏は「さらに登れば上るほど、一歩の重みが大きくなる。そしてコンセプトは未踏へと磨かれていく。」(同 p.468)と述べており、加えて図17-2では創造の螺旋の上半分を「社会への貢献」、下半分を「個人の遊びと好奇心」としている(画像11)。したがって、ここで太刀川氏の云う「雲を突き破って」というのは、この「社会への価値」と「個人の遊びと好奇心」との境界を超えることを述べている可能性もあり、もしそうであればその難易度というのは伊藤氏が衝撃を受けるほど高い訳ではないだろう。このように図を見れば解釈可能性はそれなりに変わるのだが、批判集では図の引用がされず、かつ「天まで続く」といった表現の使用により、読者はあたかも太刀川氏が山の頂点ほどの極めて高いクオリティのものにしか創造性の価値を認めていないかのように読んでしまう(実際私もそうだった)。そしてこれは批評本としてはだいぶ問題だろう。ここまで何度も指摘したように、批判集には引用不足が数多く存在するが、読者がある程度妥当性を判断できるだけの情報をちゃんと記載すべきである。
| 図17ー2 創造性の螺旋階段を登っていく(p.468)
M: この図で唯一よいと思うのは、個人学習に比すべき「個人の遊びと好奇心」と、社会学習に比すべき「社会への価値」*をわけつつも順に繋がったプロセスとしている部分だ。文化進化学でいうところの誘導された変異の生成プロセスにおいて個人学習の試行錯誤のプロセスの中においてすら脳内で競争するアイディアどうしの集団的な進化のアルゴリズムのプロセスが走っていることを示す際には同様の考えを使うことになるだろう。この観点は現在の文化進化学研究においてほとんど重視されていないため、デザインの立場から主張していきたいと個人的には考えている。ただし、そもそも筆者が前提としている「進化の螺旋」が全面的に間違っているため、その部分に関しては作り直しが必要だ。
💜似たようなことをここまで何度も指摘してきたが、図について話すのであれば、図を引用して欲しい。一冊の本として論理的に完結されていない。林氏も言及していた螺旋図のことだろうか?でもそこでは「個人の遊びと好奇心」や「社会への価値」については特に言及されていなかった気がする。
「そもそも筆者が前提としている「進化の螺旋」が全面的に間違っている」に関しては何がどう間違っているのか説明して欲しい。高み云々については既に返答した。
なお、「文化進化学でいうところの誘導された変異の生成プロセスにおいて個人学習の試行錯誤のプロセスの中においてすら脳内で競争するアイディアどうしの集団的な進化のアルゴリズムのプロセスが走っている」という部分に関しては一見太刀川氏の主張に近いようにも見えるが、p.94で意識的な観点から同様のこと(「脳内にあるアイディアたちのうち、実際に人に伝えたり(伝達、社会学習)、より磨き上げたり(個体学習)することのできるアイディアは少数だ。どれを選択してお話しようか/磨き上げようか、という吟味をして選ばれてから、次のステップ(他人に伝達したり、個体学習として試行錯誤するプロセス)に移る(継承)」(p.94)) を述べていることより、ここでのそれも意識的なそれである可能性が高い。しかし、ここまで何度か説明したように太刀川氏の主旨は無意識的な思考にあると思われるため、その点で松井氏と太刀川氏の主張は異なっている。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、一つ上の追記で述べたように、この図17-2は進化の螺旋 (『進化思考』p.61, 図1-8) の上半分を「社会への価値」、下半分を「個人の遊びと好奇心」というように領域分けしたものである(画像11)。そして太刀川氏がここでいう「社会への価値」というのは、「さらに、その「好奇心」の先の適応を見せよう。絵の画法を知る。世界を変えた挑戦的な絵を見る。絵を楽しむ人に触れる。絵が希望になる時を探求しよう。」(『進化思考』p.468) といったような、これまで太刀川氏が述べてきた「適応の思考」に関するものである(順に「解剖」「系統」「生態」「予測」に対応していると思われる)。したがって、松井氏がここでいう「社会学習」の定義がはっきりしないが、もしこれが生物学でいう「社会学習」であるのならば、それは話が全くズレている。ただ、対比として「個体学習」ではなく「個人学習」を挙げているので、ここでの「社会学習」は単に人間が社会に関して学習することを意味している可能性もある。ただ、その場合も結局それは太刀川氏が述べている「適応の思考」とは意味がややズレているだろう。また、松井氏は「「社会への価値」*」の「*」の注釈で「やや意味不明ぎみなので、社会での篩とか、市場での試練などのほうがまだよいと思う。」(批判集p.171) と述べているが、上記のように太刀川氏は環境との関係性という「適応の思考」の観点で「社会への価値」を語っている訳なので、これはそこまでおかしな表現ではない。この辺もおそらく松井氏は太刀川氏の意図を読めていないように見える。ただ、もし仮に松井氏がそういった「社会での篩」や「市場での試練」という意味で「社会学習」と述べているのならば、それそのものは太刀川氏の話と割と近いものではある。
また無意識か意識かについてはp.94-95の指摘の追記でも述べたが、太刀川氏は思考レベル(脳内でのアイデア錬成プロセス)の話と実践レベル(プロダクトのトライ&エラー)の話を少々混同している可能性があり、ここでは後者の実践レベルによって話をしているようにも見える。そしてその場合は無意識の意味は少々弱まる。だが、次のページp.469では「振り返れば誰もいないところまで山を登れば、あなたはすでに創造の歴史を刻んでいる。その創造は、美しくデザインが最適化され、過去の願いを引き受け、しっかりと周囲の生態系に根付き、希望に満ちているだろう。こうしたプロセスを潜り抜けたコンセプトはたくましく、永い歴史を生き残る。」というように述べており、これは前半はやはりプロダクトレベルの話をしているように見えるが、後半のコンセプト云々はアイデアの脳内錬成の話をしているように見えなくもない。本全体の流れや説明のウエイトから言って太刀川氏の主旨はやはりアイデア錬成にあるように私は思うが、少なくとも現状の書き方では太刀川氏の云う「変異の思考」と「適応の思考」というのが明確に何であるのかは分からないので、その辺の詳しい説明があった方がよい。ただいずれにせよ、批判集がこの辺の無意識の脳内アイデア錬成という太刀川氏の主張の核について論じれていないのは批評本として欠陥であると感じる。
| かつてリチャード・ドーキンスは、個体が種全体を保存する本能(群
| 淘汰)を否定し、個体の利己性が進化を生み出すと説いた。(p.474)
M: 誤り。『利己的な遺伝子』の「三十周年記念版への序文」での記述を引用する[74]。
このタイトルがどれほど誤解されやすいかは容易に理解でき〔中略〕
『利他的なヴィークル』はもう一つの可能性だったかもしれない〔中
略〕自然淘汰の単位には二種類があり〔中略〕 遺伝子は自己複製子
という意味での単位であり、個体はヴィークルという意味での単位で
ある。両方とも重要なのである。
自己複製子のヴィークルとしての個体は、遺伝子にとって利己的である範囲内に限られるものの、利他性を獲得できる、というのがドーキンスの主張であるはずだ。著者は利己的な遺伝子を読んでいないか、満足に理解できていない。私もできていないが…。
※本稿執筆者注:初めの「かつてリチャード・ドーキンスは、個体が種全体を保存する本能(群淘汰)を否定し、個体の利己性が進化を生み出すと説いた。(p.474)」は批判集では縦傍線が付いていない、すなわち『進化思考』からの引用ではないものとして扱われているが、文脈的にこれは明らかにミスと思われるので、ここでは本稿執筆者独自に縦棒線を追加した。
💛これは先ほどp.160の指摘においてちらっと出てきた部分である。既に述べたことの繰り返しになるが、私にはこれは的外れな指摘であるように見える。「自己複製子のヴィークルとしての個体は、遺伝子にとって利己的である範囲内に限られるものの、利他性を獲得できる、というのがドーキンスの主張であるはずだ」とのことだが、もしこれが太刀川氏の云う「個体が種全体を保存する本能(群淘汰)を否定し」に対する反論であるならば、この反論は妥当ではない。群淘汰と利他性は異なる概念であり、また群淘汰の否定は利他性の否定を含意しない。したがってこの点に関して、引用されているドーキンスの発言と太刀川氏の発言に特に矛盾はない。この場合おそらく松井氏は群淘汰と利他性を混同している。
また、「個体の利己性が進化を生み出す」のではなく、遺伝子の利己性が進化を生み出すのだという批判であるのならば、松井氏がここで引用している部分でドーキンスが言っているように、個体も自然選択の単位として重要であるので別におかしくないだろう。遺伝子は結局その遺伝子が乗った個体が利己的に振る舞わなければ相対的に次世代に多く伝わらない訳なので。
また、個体の利己性だけじゃなくて、遺伝子の利己性についても述べるべきという批判であったとしても、そもそもここでは群淘汰の否定に関する話をしているので、群ではなく個というように個体についてだけ言及することは別におかしなことではないだろう。
また私は『利己的な遺伝子』を読んだことがないのでここで太刀川氏が述べている内容をドーキンスが実際に言っているのかどうかは知らないが、太刀川氏がここで言っていることそのものは群淘汰を否定する文脈でよく見る文章である。一応、この線(内容の正誤関係なくドーキンスが『利己的な遺伝子』でそうは述べていないという線)での批判であれば現状通り得る。
以上、いくつか松井氏の批判の意味案を出したが、「に限られるものの、利他性を獲得できる、というのがドーキンスの主張であるはずだ」という表現を見るに、松井氏が言っているのは初めに挙げた群淘汰の否定に関する反論である可能性が高いように思われる。
なお「著者は利己的な遺伝子を読んでいないか、満足に理解できていない。私もできていないが…。」とのことだが、以上説明したようにドーキンスが実際にそう言っているかどうか以外について批判しているのならば、太刀川氏の発言に特に誤りはないように思える。またもし一番可能性が高いように私には見えている群淘汰の否定に関する批判が松井氏の意図であるならば、松井氏の理解は完全に間違っている。したがって、もし仮にその線の場合、ここでの「私もできていないが…。」という謙遜アピールをしたいかのような発言は、本当に全然理解していないというただの事実の告白になってしまうだろう。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの引用部位の直後に「たしかに自問してみると、自分の欲は理解できても、人類や地球全体のことまで理解するのは難しい。しかし昨今の進化論では、余剰を生み出して与える生物の利他性に注目し、それが共生関係の進化を促したと考える説が主流になりつつある。」(『進化思考』p.474) と述べており、これを見るに太刀川氏はドーキンスが利他性を否定していると考えているように見える。したがって、もしそうならば太刀川氏の理解は間違っているのだが、それについて指摘したいのならばもう少し広く引用するべきであるし、利他性について直接語っている部分を引用していないのを見るに、やはり松井氏が群淘汰と利他性を混同している可能性は残る。なお、太刀川氏は上で引用した文章の中で「共生関係」と述べており、これは『進化思考』第三章の「共生」(同 p.345) や「群れ」(同 p.349) の話からするにプラスの生物間相互作用一般や特に相利共生を指すと思うのだが、もしそうならばそれはドーキンス及び松井氏が今話題にしている「利他行動」とは少々異なる話である。したがって、批評するならばそういった「利他性」と「共生関係」の違いについても同時に指摘しないと、この辺の太刀川氏の話を完全に紐解くことはできない。(林氏の同様の指摘(p.45-46)のところでも述べたが、全体的に太刀川氏は相利共生などに対しても「利他性」を考えている可能性が高く、その考え方そのものはもちろん誤りなのだが、そういう訳で太刀川氏がここで所謂「利他行動」に関しても言及しているのかどうかははっきりしない)。
Ⅱ デザイン学と批判
5 創造と変異の創造 (伊藤 潤)
💛本章においては『進化思考』からの引用部分には度々下線が引かれているが、これが『進化思考』において実際に引かれているものなのか、それとも伊藤氏独自のものなのかは不明である (ただ、あくまで私の主観的推察になるが、下線部が引かれた部分の内容を見るに伊藤氏独自のものである可能性が高い気がする。太刀川氏がその部分に下線を引く意図が見えないものが多いので)。そして、もし後者であれば林氏と同様に引用ルールに反している。少なくとも私が読んだ限りでは「以降、引用の下線は全て伊藤によるものである」といったような注意書きは一切存在しないからだ (「強調」「線」「ライン」で文書内検索をかけたがそれでも見つからない)。断りなく引用を改変することがルール違反であるのは学術分野においては常識であり、もし職業研究者が本当にそれをやってしまっていたとすれば、おいおい、という感じである (しかも批判集著者の3人中2人に現状その嫌疑がかかっている (嫌疑というか林氏に関しては、引用先の確認が取れた少なくとも二箇所でそれを明確にやっている))。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、おそらく下線部は全て伊藤氏と林氏独自のものである (「おそらく」というのは全てを逐一チェックして訳ではないからである。ただ少なくとも私の記憶の中では『進化思考』の本文中に下線は存在していない)。なお、この辺の下線の無断付加は先日(2026/1/31)の伊藤氏の応答記事[92]にて誤りとして認めたごく少数例の一つとして挙げられているが(他に認められた誤りは同じく第五章の「野球ゲーム」と第四章のベイツ型擬態に関するケアレスミス(?)のみである)、なぜか伊藤氏は第二章の林氏のミスにしか言及していない。すなわち、伊藤氏にも同様の下線ミスがあったことに関しては一切触れられていない[97]。
当書は生物学のリテラシーをもたない著者による本であるため、前章で指摘したように生物学に関する記述は残念ながら大概誤っている。「クマの一種であるコアラ」(p.119)のような明らかな事実誤認*は捨て置くが、例えば「ベイツ型擬態」(p.107)や「キラー海藻」イチイヅタの話(p.143)や水鳥の「ワンダーネット」(p.166)などは誤った理解をしている。これらは一目でわかる明らかな誤りというわけではないが、「…本当かなあ?」と思って調べると案の定間違った理解をしている、という感じである。
💛ここまで指摘してきたようにこの批判集にも数多くの誤りが存在する。既に指摘したが、ここで挙げられている「ベイツ型擬態」に関しても全くの的外れの指摘であるように私には見えた。伊藤氏はベイツ型擬態は強いふりではなく、強いふりはトラカミキリの標識的擬態が例として妥当と言っているが、ベイツ型擬態は標識的擬態に含まれるし、そもそもトラカミキリの擬態はベイツ型擬態に該当する。本当に調べたのだろうか?
また「明らかな事実誤認*」における「*」に関してはページ下部に「* 些細な誤りとも言えるし、逆にその程度の確認もしていない稚拙な本だということもできる」と注釈されているが、今言ったベイツ型擬態や前章の松井氏のSpeed of evolutionのWikipediaの話のように、確認した上でこれなのかという事例の存在のせいで、確認した上で明らかな間違いをしてしまう稚拙な本であるという印象を私も批判集に持ってしまっている。
なお、ベイツ型擬態に関しては、先日(2026/1/31)の伊藤氏の応答記事[92]にて、伊藤氏側にケアレスミスがあったかのようなことが述べられているが(「この部分はちょっとケアレスに書いたなと反省した。改めて『進化思考』の該当箇所を読んでみると、最も重要な誤りは、異なる次元の話を混同していることにあった。」[92])、私にはそもそもそれはケアレスミスには見えない[96]。記事を見るに伊藤氏はどうやら「「カメレオンがするような擬態行動」と「非行動的なものであるベイツ型擬態」は異なるものであり、「強いふり」という行動的表現は前者のみに当てはまる」といったことを言いたかったようだが、それを表現しようとした結果が「ベイツ型擬態の「嫌な相手」は「有毒」あるいは「食べると不味い」ということであって、「強いふり」ではない。強いふりは直前の「トラカミキリは強力なアシナガバチにとても似た外観を獲得している」のmimicry(標識的擬態)の例が妥当だったのに、何故余計なことを書いてしまったのか理解に苦しむ。」(批判集 p.108) であるのならば、これはちょっとケアレスミスとは言えないだろう。また「そう表現しようとした結果」ではなく、「本当はそう言いたかったけど、論点を外して違うことについて語ってしまった」という意図であれば、これもケアレスミスとは言えないだろう。そういう訳で申し訳ないが、意識的か無意識的かは分からないが伊藤氏は自らのミスを矮小化しようとしているように私には見えてしまっている。また、一つ上の指摘部位の追記で述べた、自らの無断下線付加への無言及も含めて、伊藤氏の応答姿勢・態度には不適切性を感じられる部分が多い (詳しくは伊藤氏の記事への応答記事「「『進化思考批判集』批判への応答」への応答」[97]を参照)。
編者はこのような生物学に関する誤りの数々については「著者は門外漢なのだから仕方ないよね」と思っている。ただし、門外漢が土足で他所様のコミュニティに踏み込んでいるのは良くないだろう。特にデザイナーはそのような姿勢を取るべきではないと思うのだ。
💛これは引用部分への批判ではないが、この批判集の著者らは仮にも研究者で進化や生物学に一応精通しているようなので、批判集に存在する誤りの数々は仕方ないよねでは済まされない。これも既に何回か述べたが、批判本という構図や執筆者が博士号持ち研究者ということより、一般読者は批判集の情報の信憑性が高いと感じる可能性が高い。もちろん誤りが一切ない本などほぼ存在しないのは承知だが、この批判集に存在する誤りの質・量は一般的な学術書で許容される程度さえ遥かに超えている。そうであるからこそ、本稿では誤りについて細かく指摘してきた。
筆者の松井は「誰が言ったかではなく、何を言ったかを重視する」、というスタンスであるが、編者伊藤は「誰が言ったか」を重視する立場を取る。そうしないと「間違いだらけかつ非論理的なトンデモ本だから放っておけ」で話が終わってしまうからだ。
💛論理の流れがよく分からない。この章の書き手が伊藤氏であることと、「~は~であるが、~は~を取る。そうしないと~からだ」という文章から考えるに、「そうしないと」というのは「誰が言ったか」を重視する伊藤氏の立場を取らないとどうなるかを述べていると思われるが、「間違いだらけかつ非論理的なトンデモ本だから放っておけ」で話が終わって困るのは、むしろ松井氏のスタンスの方ではないだろうか?「何を言ったか」を重視するときは素人が書いた間違いだらけの非論理的なトンデモ本であったとしてもスルーすべきでないとなるが、「誰が言ったか」を重視するときは素人が書いたのならば別にスルーしてもよいとなり得る気がするので。それとも素人であっても影響力のある人の誤った発言はスルーすべきではないということだろうか?ただ仮にそうだとしても、何を言ったかを重視する場合「「間違いだらけかつ非論理的なトンデモ本だから放っておけ」で話が終わってしまう」とは別にならない気がする。
それで一つ思ったのは、おそらく伊藤氏は「発言を信用するか否か」ではなくて「発言に対して関わり合うか否か」の話をしているような気がする。すなわち、発言を (社会的に) スルーしてよいのか否かに関して「誰が言ったか、何を言ったか、どちらを重視するか」を定義しているのではないかということである。少しややこしいので、それぞれの観点において「誰が言ったかを重視」と「何を言ったかを重視」がどのような意味になるのかを下にまとめた。
発言を信用するかどうか
誰が言ったかを重視:信頼のおける人の発言は信用するが、そうでない人の発言は信用しない
何を言ったかを重視:発言内容が正しければ信用するが、そうでなければ信用しない
発言に対して関わり合うかどうか (伊藤氏)
誰が言ったかを重視:影響力の高い人の発言には関わり合うが、そうでない人の発言には関わらない。
何を言ったかを重視:発言内容が正しければ関わり合うが、そうでなければ関わらない
以上のように考えれば、確かに伊藤氏の定義(と思われるもの)では何を言ったかを重視するとき「間違いだらけの非論理的なトンデモ本」は必ずスルーされるが、誰が言ったか重視するときは発言者の権威によってスルーするか否かが変わる。とはいえ、一般に「誰が言ったか、何を言ったか、どっちを重視するのか」という話をしているときは、発言の信用性 (及びそれに基づく行動判断) について言っている気がする。要するに伊藤氏の語用は特殊であると私は言いたい。
だが少なくとも『研究者』は厳密性のない論理や根拠のない断定にあふれた書物は歯牙にもかけないし、またそのような発信をする人物ならびにその人物が長たる団体に信を置くことはないだろう。疑似科学的な『進化思考』を放置することは、「やっぱりデザイナーってアカデミックとは程遠い人たちだな」と思われ、JIDAならびに日本のデザイン界にとって大きな損失となるおそれがある。反知性*では困るのだ。
💜「反知性*」の「*」のページ下部注釈にて「* 「反知性主義」ではないことに注意。反知性主義(anti-intellectualism)は反「主知主義」のことである。」と述べているが、これは正しいのだろうか?私はこの辺について詳しい訳ではないが、反知性主義と反主知主義は多少重なり合う部分はあるのかもしれないが、別物ではないだろうか?調べて見るとどうやら英語ではどちらもanti-intellectualismと呼ぶようだが、少なくとも日本語の運用としては両者は完全に同じものではないように見える。例えば、主知主義はデジタル大辞泉では「感情や意志よりも知性・理性の働きに優位を認める立場」とされ、対義語として主意主義や主情主義を置いている[217]。またこの意味に関連して、方法知は命題知のみによって余すことなく説明できるとする(すなわち方法知を命題知の一種と見做す)立場を主知主義、方法知を命題知とは別種の知識であると見做す立場を反主知主義とする語用があるようだ[218]。このように反主知主義という言葉はどちらかというと哲学寄りな意味が強い気がする。少なくとも方法知は命題知で説明不可能とする立場を反"知性"主義とするのは少なくとも個人的には違和感がある。また反知性主義については、アメリカにおいて知識人に反発する社会的傾向を叙述するために生み出された概念であるとする論稿もあり[219]、一般的な語用としても、単に知性・理性よりも感情・意志が優位といった意味ではなく、そういった知的なモノ・人に対する「反発」の意味合いが強いような気がする。また、Merriam-Websterではanti-intellectualismは「1: the philosophic attitude or doctrine that assigns intellect or reason to a subordinate place or denies the power of intellect to grasp the true nature of things」と「2: hostility toward or suspicion of intellectuals : hostility toward inquiring, speculative, or academic habits of thought」の二つの意味があるとされ[220]、日本語の反主知主義は1の意味、反知性主義は主に2 (場合によっては1) の意味といった語用がなされているのではないかと感じた。そういう訳で反知性主義と反主知主義を同義と見做す伊藤氏の主張にはやはり私は同意できない。しかし初めにも述べたように私はこの辺について詳しい訳ではなく、今さっきネットで調べたことを述べているだけなので私が間違っている可能性も十分にある。なお、伊藤氏が何を参考にしてこのようなことを述べているのかは分からないが、例えばWikipedia「主知主義」では両者は同義として扱われている[221]。
あとそもそも「主義」的であるかどうか以外の観点で「反知性」と「反知性主義」を全くの別種と見做すことにも私は同意できない。伊藤氏が言いたいのは「反 + 知性主義 (主知主義)」じゃなくて「反 + 知性」である (そして後者の「知性」に「主知主義」の意味はない) ということなのだろうが、「主義」が付くかどうかで「主義」の意味以上に意味が大きく変わることなどあるのだろうか?「反知性 + 主義」と「反 + 知性主義」が異なるという話であれば分からなくもないが。(例えばこの分け方では、前者が私が上で述べていた「反知性主義」(Merriam-Websterでいう2)、後者が「反主知主義」(Merriam-Websterでいう1)といった整理もできなくはなさそうではある)。
なお、「やっぱりデザイナーってアカデミックとは程遠い人たちだな」に関してやや皮肉的なことを言うと、本件に関してデザイナー限らずアカデミアを含む多くの人々が、批判集の著者らの主張に無批判的に同意・賛同していたり、太刀川氏の主張を安易に「よくある進化の誤謬」と見做して藁人形的に批判していたりするのを見るに、真にアカデミックな思考をできる人はアカデミア含めてそう多くないと感じる(少なくともtwitterで活発に発信している人々においては)。権威的な人物の主張を鵜呑みにすることも、権威的・ステレオタイプ的な判定パターンに安易に当てはめることも、それは「学問」でも「科学」でもないのである。また、別の記事[110]でも述べたが、個人的な好みの問題を過度に社会的・科学的に正当化している人が多いようにも感じる。すなわち、多少科学的に傷はあるがそこまで大きくはない問題に関して、それをその人が個人的に嫌いであるということを以って、まるでその対象が社会的・科学的に極めて問題であるかのように語る人が多いような気がする。記事[110]ではこれを「学術的・社会的正当性という「正義の衣」を借りた嫌悪感の表出」と表現している。
読者の中には生物学に関する話は自身で正誤の判断がつかないため傍観しようという方が少なからずいることだろう。それだと話が始まらないので、本稿では生物学の話題も避け、進化学との関係はあくまでアナロジー、例え話です、ということにしても、躱すことのできない大きな問題点を3つ指摘しておく。
• 悪文である(特に「創造」に関して)
• 「変異」で人間のエラーに関する考察がない
• 「変異の9パターン」に剽窃の疑いがある
さらに「悪文」については具体的には以下の3項目に集約できるだろう。
• 論理の飛躍(例えの不適当さを含む)
• 自己矛盾(用語の統一感のない用法を含む)
• 勉強不足(ファクトチェックの甘さを含む)
💛剽窃についてはそれが事実ならば確かに大きな問題かもしれないが、その前の二つは「躱すことのできない大きな問題点」とまで言うほどのことなのだろうか?これも繰り返しになるが『進化思考』は学術書ではなくビジネス書である。そこまで厳しく論を評価する必要は果たしてあるのだろうか?私には、何とかして『進化思考』の評価を下げたい、また第Ⅲ部で出てくる「もうひとつのありえたはずの進化思考」の方が正しいのだ、自分達の方がすごいのだ、などと言いたいだけのように見えてしまっている。
また、「○○は▲▲に似ている」と「▲▲は♨♨に似ている」から「○○は♨♨に似ている」を導き出すのもまずい。まずいというかまずいことに気付いていないのがまずい。意図的にやっているのでなければ。例えば「人間と人参は似ている」としよう。漢字の字面も読みも似ている。続いて「人参と大根は似ている」としよう。同じ根菜類という点で。だがここから「人間と大根は似ている」と結論を導いたとしたら当然誤りである。違う観点、違う次元の話だからだ。「媒名辞曖昧の誤謬 fallacy of the ambiguous middle」と呼ばれる三段論法における典型的な誤りである。それをやってしまっているのが以下の文だ。
| 言語は創造に似ている。そして創造は進化に似ている。ここで当然の
| 疑問が浮かび上がる。はたして言語と進化は似ているのか。(p.77)
💜あくまで引用されている部分を見る限りでは、「似ているのか」というように疑問形であるので何も問題ないだろう。仮に媒名辞曖昧の誤謬に該当することを後に犯していたとしても、少なくともこの時点では単に類似する共通項を介して「言語と進化は似ているのか」という疑問を持っているだけである。何らかの疑問や推測を持つだけで誤謬に該当しうるならば、人は日々多くの誤謬を犯していることになる。
また仮に議論の末に「言語と進化は似ている」という結論を出していたとしても、言語と進化の関連を直接的に議論した末の結論であるならば (単に共通の対象を介すことのみによって結論を出してる訳ではないのならば)、それは媒名辞曖昧の誤謬とは言えないだろう。
また仮に単に共通項を介すことのみによって結論を出していたとしても、もしここで太刀川氏が言っている「言語と創造の類似」と「創造と進化の類似」の類似性の次元が同一であるならば、媒名辞曖昧の誤謬とは言えないだろう。今回は類似性という緩い話をしているので。(パっと見、同一の次元の話には見えないが)。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、ここでの太刀川氏の記述は本当にただの疑問的な記述であって (「しかしデザインと言語の関係性を考えつづけるなかで、それだけでは語りえないさまざまな疑問が生まれ、徐々に別の角度の本質的な思考の輪郭が見えてきた。それが生物の進化であり、進化思考だった。言語は創造に似ている。そして創造は進化に似ている。ここで当然の疑問が浮かび上がる。はたして言語と進化は似ているのか。」(『進化思考』p.77。なお、ここで小パートが終わり、かつ続きのパートの初めの文で続く内容を語っている訳でもない))、これそのものは媒名辞曖昧の誤謬でもなんでもない。また太刀川氏はこれ以降の部分で言語と進化の関係性について一応諸々比較して検証しており、少なくとも単に三段論法的に結論を導き出してはいない。また上記の通り疑問の立て方そのものとしてもこれは特に問題ないものである。したがって、申し訳ないが指摘のレベルが低すぎる。「まずいというかまずいことに気付いていないのがまずい。」とのことだが、私からすれば疑問と断定を混同している伊藤氏の方がよっぽど「まずい」と感じる。(なお、確かに上の人間・人参・大根の例であれば、「そもそも人間と大根は似ているのか」という疑問を持つだけでも「まずい」と言えるが、それは「文字としての字面や読みの類似性」と「実際の対象物としての類似性(分類群など)」という明らかに全く異なる次元を繋げてしまっているからである。一方、今太刀川氏が話題にしている言語・創造・進化はそういった明らかに異なる次元の話ではない (「言語と創造」と「創造と進化」のどちらもが実際の対象物としての類似性について考えている) ので、その線での批判も無効化される)。
まえがきで「変異」と「エラー」について循環定義をしていることを指摘したが、「変異の9パターン」も自ら提唱する概念でありながら、その分類方法が首尾一貫していない。提唱者は自分で自由に決められるから良いが、読者が応用しようとすると困惑する。
💜循環定義云々については既に上の方で何度も述べた。繰り返しになるが、伊藤氏または松井氏曰く「「エラー的な変異」(p.43)と書いた直後に「変異によるエラー」(p.44)と書いて循環定義をするなど、論理も破綻しています」 (p.5) とのことだが、私としてはこの二つを定義文と見なすのは無理やり感が強いと感じる。前者の「エラー的な変異」における「エラー的な」というのは単なる修飾語であるように見える。確かにエラー的な変異 (やりそこない的なmutation) というのは重複表現のようでもあるが、一般的に言って特に問題はないように見えるし、この場合少なくとも変異の定義文ではない。また後者の「変異によるエラー」(mutationによるやりそこない) に関しても、これも重複表現的なものであるが、エラーの定義文には見えない。またそもそも「「エラー的な変異」と言うからにはどうやら著者は遺伝学の立場に立っているようではある」(p.88) と伊藤氏は主張するが、ここでの変異をvariationの意味で取ることは十分可能である。「エラー」という語は「1 やりそこない。失策。2 理論的に正しい数値と、計算・測定された値とのずれ。誤差。」 (デジタル大辞泉, [25]) という意味を持ち、伊藤氏は1の意味でしか取っていないようだが、2の意味を取るとき集団の既存のメジャーな形質とのズレという意味で変異 (variation)と合わせることは可能である。また重複表現的ではあるが同様に「変異によるエラー」における変異をvariationの意味で取ることも可能である。また「変異によるエラー」に関しては、先程のように変異をmutaionの意味で取った場合においてもズレの意味でのエラーを合わせることが可能である(mutationによるズレ)。
なお、「変異の9パターン」が曖昧なものであることには同意する。しかしそれは太刀川氏の主張を一切無効化するものではないだろう。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、ここでの「首尾一貫していない」というのが同じ対象に複数の変異パターンが当てはまり得るという話であれば、それは太刀川氏自身が許容しているものである(「変異のパターンはもっとあるかもしれないし、重複する思考もあるだろう。しかし、肝心なのは、発想にはパターンが存在するということだ。」(『進化思考』p.201))。また実際太刀川氏がそこで言っている通り、重要なのは発想の型やアイデアを導き出せることであり、重複に実践上の問題は特にないように思える。少なくとも型が似ていて混乱するということはほとんどないだろう。私からすればオズボーンのチェックリストにおける「転用 (Put to other uses)」「応用 (Adapt)」「代用 (Substitute)」辺りの方がよっぽど分かりづらくて困惑する。また、ここでの「首尾一貫」というのがそのような重複の話ではなくて、批判集p.123で伊藤氏が指摘していたような「電気こたつ」を「交換」ではなくて「融合」としてしまっているといったような話であれば、それは単に太刀川氏の運用ミスであり、変異の9パターンそのものに問題がある訳ではない。
また変異とエラーの循環については、「まえがき」における追記でも述べたが、伊藤氏は本稿への応答[91][92]も含めてこれまで何がどのように循環しているのかを一切述べておらず、私の見立てではそもそもこの二つは循環定義にはなっていない。おそらく伊藤氏は「「変異によるエラー」というのはエラーが変異によって発生することを述べている」と言いたいのだろうが、その論理で攻めるならば「エラー的な変異」が「変異がエラーによって発生すること」を含意する必要がある。しかし、「エラー的な変異」から「変異がエラーによって発生すること」を一意に導くことは不可能であるし、一般にそう解釈する妥当性も大してない。したがって、残念ながら私には伊藤氏は何となく雰囲気で「循環定義」と非難しているように見える。もし循環定義と主張するならば、何がどう循環しているのか詳細に説明すべきである。それが「論理的な読み手」[91][92]のすべきことだろう。(またそもそも仮に「エラーが変異によって発生する」と「変異がエラーによって発生すること」の循環の線で説明し切れたとしても、それは「循環定義」ではなくて単なる「因果的な循環」に過ぎない。例えば「物価上昇が賃上げを促す」と「賃上げが物価上昇を促す」は因果的に循環しているが、これは明らかに循環定義ではない。鶏と卵も同様である)。なお、伊藤氏は太刀川氏のそれを定義文と見做すのはやや無理があるという私の主張に対して、「「定義文」などと大袈裟なことを言わなくても、この循環がまずいと思わない時点で「私は論理的な読み手ではありません」と宣言しているようなものだ。」[91] や「「循環定義をする」という表現は別に「これが「定義文」です」と宣言することを意味しない。見なすも何も、書いていることが循環ができていないために前掲の6/16のツイートでも書いたが、非論理的な読み手であることの宣言のようなものである。」[92] と述べており、これを見る限りやはり伊藤氏は「循環定義」の意味を理解していないように思われる。
もう少し言えば、上記の「論理の飛躍」と「自己矛盾」の2つも文章を書く基礎の勉強(トレーニング)不足、である。また前章の最後に詳細に解説したのでここでは省略するが、図版の出典も書き方がめちゃくちゃである**。これらは少なくとも大学の卒業論文で指導され体得すべきものである。この『進化思考』の書きぶりでは、ちゃんと査読した場合、修士論文はおろか卒業論文としても認められないだろう。書いてある内容(例えるなら素材)の良し悪しではなく、書き方(例えるなら調理法)が悪いのである。よほど熱心な指導教員でなければ、本稿のように懇切丁寧な朱入れをせず、少し読んだ時点で即書き直しを命ずるであろう。私ならそうする。
📕ここでの「論理の飛躍」と「自己矛盾」というのは上で述べた媒名辞曖昧の誤謬や変異とエラーの循環、変異のパターンの非首尾一貫、及び「創造」という語の濫用のことなのだが、ここまで述べて来たように媒名辞曖昧の誤謬は明らかに伊藤氏の読解or論理ミス、また変異とエラーの循環も現状大して説得性がない、また変異のパターンの非首尾一貫もそこまで大した問題ではない、また「創造」の濫用に関しては以下で述べていくが、いくつかの指摘は妥当なものの伊藤氏がクリティカルに批判していると思っている部分のほとんどは伊藤氏の論理ミスである。そういう訳で、申し訳ないが伊藤氏自身も文章読解&論理的推論に関して大いに「基礎の勉強(トレーニング)不足」であると感じる。また、「よほど熱心な指導教員でなければ、本稿のように懇切丁寧な朱入れをせず、少し読んだ時点で即書き直しを命ずるであろう。私ならそうする。」とのことだが、上記のような伊藤氏自身の読解・論理ミスに基づいて即書き直しを命ずるのであれば、学生はたまったもんじゃないだろう(以下で詳述する中で出てくるが、伊藤氏はイコールと包含(含意)を混同しており、そういった論理的に明らかに間違った推論に基づいて「進化と創造の関係について論じる以前に私はここで脱落。これ以上読めない。学生になら付き返す。」[222]といったように同様に付き返すようだ)。
また「この『進化思考』の書きぶりでは、ちゃんと査読した場合、修士論文はおろか卒業論文としても認められないだろう。」とのことだが、同様に批判集に関しても、申し訳ないがこの出来栄えでは卒業論文としても認められないと感じる。なぜなら生物学的・論理的・文章読解的誤りが余りにも多いからである。またこの三つ以外にも、ここまで説明してきた通り、引用範囲が狭すぎたり、不適切な誇張表現だったり、必要以上に相手を馬鹿にする表現だったり、形式および意図や内容の観点で不適切な引用だったり、著者内および著者ら間での主張の食い違いがあったりなど、様々な問題が存在する。
| なぜ、これほどまでの作品を創造することができたのか。(p.4)
| 彼らも創造の天才だったから、それを生み出すことができたのだ。
| (p.5)
始まりはこのように通常の「創造」の意味で用いられている。だが太刀川
は
| だが創造とは本当に、そういう事なのだろうか。(p.4)
と疑問を投げかけ、
| では創造とは何なのか。それはとても不思議な現象だ。(p.5)
として「創造」は「不思議な現象」だとする。「不思議」かどうかは別として、「創造」は「現象」なのだろうか? ここで全読者が困惑するだろう。
💛別に困惑することでもないのではないだろうか?創造という意識的・自発的な行動と一般に思われていることが、実は何らかの無意識性を持つ行動・思考現象、または集団レベルにおける (それこそ進化的な) 自然な現象ではないかと考えているように私には読める。「個人の意識的な行動」に対して「現象」が対置されているのではないかということである。
📕『進化思考』を読んだので追記する。伊藤氏はここで「だが創造とは本当に、そういう事なのだろうか。(p.4)」「と疑問を投げかけ、」「では創造とは何なのか。それはとても不思議な現象だ。(p.5)」というように非常に近い距離での論理の流れであるかのように言っているが、実際には「だが創造とは本当に、そういう事なのだろうか。(p.4)」の後には8行程度開きがあり、その間に太刀川氏は「実はどんな人でも、創造性を発揮する驚くべき力を秘めている。私はそう確信している。だがよく考えてみると、創造性の構造とか、創造性を育む適切な練習方法について、私たちは何も知らないのだ。椅子の設計や料理の作り方のように、ものづくりの方法なら教えてもらったことはあっても、こと「創造性」の体系について教わったことは一度もない。ではもし創造性に確固たる構造があって、それを体系的に身に付けられるとしたらどうだろう。そうなれば創造は、誰もが挑戦できる科目になる。」(『進化思考』p.5)と述べており、また「では創造とは何なのか。それはとても不思議な現象だ。」の直後に「他の生物が無数にいるなかで、人間だけが圧倒的な創造を発揮しているように見えるのはなぜだろう。私たちも自然の一部だから、創造もまた自然現象には違いない。それに似た自然現象は存在しないのか。」(同 p.5) と述べている。したがって、ここでの「現象」というのは上で述べたように「個人の意識的な行動」に対しての「現象」という意味もあるかもしれないが、どちらかというと単に創造という行動を客観的に分析対象として見たいということを意味しているように見える 。すなわち「創造」を生物学的な「行動形質」及び「認知形質」として見ているということである (近い例で言うと「睡眠とは不思議な現象だ」とか「計算とは不思議な現象だ」とかだろうか)。そしてこういった解釈は個人的にはごく自然であり、文章を読んで引っ掛かりは一切感じない。そういう訳で、伊藤氏は「ここで全読者が困惑するだろう。」と述べているが、私はどちらかというとここで困惑する方が少数派な気がする。少なくとも「全読者」というのは明らかに言い過ぎだろう。本稿初期バージョン公開直後に伊藤氏は「あと「普通」とか「一般的に」という言い回しは巧妙に相手に反論させにくくする常套句であり、議論に誠実でありたい場合は多用しない方が良い。私も意識せずに使っていないとも限らないので自戒を込めて指摘しておく。」とX(twitter)にて述べており[223]、これそのものについてはそれなりに妥当で、私もそれ以降のバージョンで一部そういった表現を直したりもしたのだが(やはり「普通」という表現が一番適切であると判断し残している部分もある)、これを言っている伊藤氏自身が実は「全読者」という極めて強い主張(しかもどちらかというと傾向としては逆じゃないかと思われる主張)をしているのである。(なお私は本稿において文章解釈に関して「全読者が~だろう」といった全称的言明は特に述べていない。批判集第四章のp.136の松井氏の「たとえば文字通り贅肉だらけのオットセイ(厚さ15cmにもなる[54])は美しくないということか? ここでいう贅肉は比喩であってそのものではないということだろうけれど…。」についても、文字通りの贅肉と解釈する人はほぼ全くいないと思いつつも「10000人中9999人」(が比喩と考える) というように一応弱めて述べている)。
それはさておき、「新しいモノを作り出すこと」は確かに「知覚できる一切の物事」ではあると思うが、それを言い出すと何でも「現象」になってしまう。
「創造」をもう少し一般的な行為「〇〇すること」まで拡げて、数式的に書いてみると、
「〇〇すること」∈「知覚できる一切の物事」
もしくは
「〇〇すること」⊂「知覚できる一切の物事」
となるだろうか。少なくとも
「〇〇すること」=「知覚できる一切の物事」
ではない。左と右は同じレベルの話ではないのでイコールでは結べない。
| 進化は、〔中略〕自然発生する創造的な現象だ。(p.50)
これくらいであれば、進化の理解云々は別として、
「進化」=「〇〇な現象」=「〇〇な知覚できる一切の物事」
と言えるように思う。
💛全体的に言いたいことがよく分からない。おそらく伊藤氏の中でいろいろ混同している。ここでの「新しいモノを作り出すこと」と「知覚できる一切の物事」というのは伊藤氏がこれ以前の部分で議論のために定義した「創造」と「現象」を指すのだが、「「新しいモノを作り出すこと」は確かに「知覚できる一切の物事」ではあると思う」という記述からは、伊藤氏は創造が現象であることに同意しているように見える。しかし、その直後に「それを言い出すと何でも「現象」になってしまう」とそれに否定的なことを述べ、またその後の数式的な話では「少なくとも「〇〇すること」=「知覚できる一切の物事」 ではない。左と右は同じレベルの話ではないのでイコールでは結べない」というように等価的意味に関して否定的なことを述べており、そして最後に「これくらいであれば、進化の理解云々は別として、「進化」=「〇〇な現象」=「〇〇な知覚できる一切の物事」 と言えるように思う」というように別の表現においては等価的意味が擁護されうるとしている。したがって後半の否定的な話をまとめると、「「新しいモノを作り出すこと」は「知覚できる一切の物事」である」という等価性に関する個別命題を認めてしまうと、同様の論理によって「「〇〇すること」=「知覚できる一切の物事」」という一般命題まで認めることになってしまうので背理法的に誤りである、と伊藤氏は言いたいように見えるのだが、前述のように伊藤氏はその前の部分で、「「新しいモノを作り出すこと」は確かに「知覚できる一切の物事」ではあると思う」というように肯定している。つまり自己矛盾しているように見える。
それで、なぜ伊藤氏がこういった矛盾的主張をしてしまっているかというと、おそらく彼の中で「「新しいモノを作り出すこと」は「知覚できる一切の物事」である」という表現の意味が揺れているからだろう。すなわち、自然言語における「AはBである」という表現は「A⊂B」と「A=B」の二つの意味で取られ得るのだが、伊藤氏はここで「A⊂B」と「A=B」どちらの意味で取るのかを場面によって変えてしまっているように見える。つまり、初めの「「新しいモノを作り出すこと」は確かに「知覚できる一切の物事」ではあると思う」においては包含 (「A⊂B」) の意味でこれを肯定しているが、後半の数式的な議論では等価 (「A=B」) の意味を以ってこれを否定しているのではないかということである。話の流れとしてはおそらく等価的意味での解釈が彼の本旨に沿っているように見えるが、彼自身が混同しているためかよく分からない文章になっている。
また「それを言い出すと何でも「現象」になってしまう」という記述も、そういった彼の中での混同をよく表しているように見える。「それを言い出すと」とのことだが、それを言い出すも何も今はただこれ以前の部分で伊藤氏自身が定義した「創造」と「現象」の意味に従って演繹的に議論しているだけである (「「新しいモノを作り出すこと」は「知覚できる一切の物事」である」ということを認めているとき、これは包含的解釈を取っていることを意味し、実際この解釈の中身そのものは論理的に問題はない)。すなわち「それ」に相当する新たな仮定 (前提) はどこにもないように見える。では一体伊藤氏が何を「それ」としているかというと、おそらく包含的解釈としての「「新しいモノを作り出すこと」は「知覚できる一切の物事」である」であろう。すなわち、伊藤氏は等価的解釈を基本として持っているので、包含的解釈としての「「新しいモノを作り出すこと」は「知覚できる一切の物事」である」は、(一瞬認めたものの) 自分の主張とは違う新たな仮定 (前提) として認識されたのではないかということである。
また全体的な文脈として、(等価的意味で定義するならば)「知覚できる一切の物事」ではなくて「〇〇な知覚できる一切の物事」というように何らかの個別的な「現象」 (「現象」の真部分集合) として「創造」を定義するべきというのが伊藤氏の本旨であるように見えるが、そもそも太刀川氏は等価的な意味で「創造は現象である」(「新しいモノを作り出すこと」は「知覚できる一切の物事」である) とは別に言っていないように思える。常識的に考えて「創造」と「現象」が同一であると考える人はほぼいないように思われるし、そもそも引用されている範囲では「創造は現象である」という主旨の発言はしていない。伊藤氏が初めに「「創造」は「現象」なのだろうか?」という疑問を持ったのは、「では創造とは何なのか。それはとても不思議な現象だ。」(『進化思考』p.5) という太刀川氏の主張に対してなのだが、ここでは「不思議な現象」と言っており、これは現象一般ではない。また常識的に考えて、この「創造は不思議な現象」というのも包含的意味で太刀川氏は言っていると思われる。
というように、全体的に「包含か等価か」「一般的現象か個別的現象か」という点で混同や勘違いが発生しているために、何かそれっぽいことを言っているように見えて、よく見たら論理的にめためたな文章になってしまっている。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、伊藤氏が「「創造」は「現象」なのだろうか?」(批判集 p.183) という疑問を持った「では創造とは何なのか。それはとても不思議な現象だ。」(『進化思考』p.5) の周辺を見たが、太刀川氏は特に「創造は現象である。」に相当することは述べていない。例えば、その辺を広く引用すると「ではもし創造性に確固たる構造があって、それを体系的に身につけられるとしたらどうだろう。そうなれば創造は、誰もが挑戦できる科目になる。では創造とは何なのか。それはとても不思議な現象だ。他の生物が無数にいるなかで、人間だけが圧倒的な創造性を発揮しているように見えるのはなぜだろう。私たちも自然の一部なのだから、創造もまた自然現象には違いない。それに似た自然現象は存在しないのか。そう考えていたら、ふと思い付いた。自然界には、創造によく似た現象がひとつだけ存在する。生物の進化だ。自然界で、機能する多様な形態を生み出しているのは進化において他にない。この観点から、創造の不思議を解き明かせないだろうか。」(『進化思考』p.5) となっている。したがって、事の顛末としては、「では創造とは何なのか。それはとても不思議な現象だ。」という太刀川氏の記述から「「創造」は「現象」なのだろうか?」という一般的な話を引き出し、それについて考えている内に、その伊藤氏が個人的に引き出して考えていた一般的な言明 (「「創造」とは「現象」である」) が太刀川氏自身の言葉であると勝手に錯覚し、「「新しいモノを作り出すこと」は確かに「知覚できる一切の物事」ではあると思うが、それを言い出すと何でも「現象」になってしまう。」というように、太刀川氏の言葉として検証対象としてしまったのではないかと思われる。すなわちここでの「それを言い出すと」というのは、太刀川氏がそう言っていると勘違いしているのではないかということである。またもう一つ似た解釈としては、途中までは一緒だが、「それを言い出すと何でも「現象」になってしまう。」というのは太刀川氏がそう言っているという訳ではなく、単に自分の頭の中での議論の応酬を開陳しているだけというものである。しかし、そもそも上記したように太刀川氏は創造に対して「不思議な現象」や「自然現象」としか言っていないのだから、「創造=現象」「創造⊂現象」について議論し、「これくらいであれば、進化の理解云々は別として、「進化」=「〇〇な現象」=「〇〇な知覚できる一切の物事」 と言えるように思う。」というように結局太刀川氏が言っていることそのまんまの主張に返ってきて、あたかもそれが何か新しい情報であるかのように述べる必要は全くないのである。仮に個人的な関心事として頭の中でそういった議論をしていたのだとしても、それは態々批判集に書き記す内容ではない。太刀川氏の主張を追う上ではほぼ無意味なので。そういう訳で、今提示した二つの解釈であれ、追記以前に書いた別解釈であれ、結局この辺の伊藤氏の記述にはおかしさがある。
ところが太刀川はさらに「創造」について
| 私たちも自然の一部だから、創造もまた自然現象には違いない。(p.5)
と「自然現象」だと主張する。確かに人間も自然の一部であるが、そこまで言ってしまうと人間の意思も行為も論じられなくなるのではないか。創造性教育をしようがしまいが「自然現象」だし、「生物多様性の崩壊」(p.474)も「自然現象」だ。この定義を認めてしまうとこの後の全ての議論が無駄なのではないかと思う。「創造」=「自然現象」説はひとまず見なかったことにしておきたい。
💛広義の自然現象 (自然界で見られる現象) で言えば人間の意思も行為も間違いなく自然現象であるし、狭義の自然現象 (人間の意思によらず自然発生する現象) を取っても決定論的には特に問題ないだろう。したがってこの観点では「創造性教育をしようがしまいが「自然現象」だし、「生物多様性の崩壊」(p.474)も「自然現象」だ」という反例的主張は反例になっていない。一方、狭義の自然現象を取り、かつ自由意志を認めるならば、そういった人間の行為を自然現象と呼ぶことは誤りとなり得る。「なり得る」というのは、自由意志における「自由」にも「リバタリアン的自由」と「両立論的自由」という異なる二つの定義があるからである。前者がいわゆる自由意志に関するもので、行動を自発的に選択して行えるという意味での自由である。一方、後者の定義では行動現象としては決定論的 (行動の選択権がない。全て必然) であってもそれを主体が自発的に行っていると感じるならば自由であると見做す。したがって後者の意味で自由意志を考えるならば「創造性教育をしようがしまいが「自然現象」だし、「生物多様性の崩壊」(p.474)も「自然現象」だ」という反例的主張は反例とはならない。客観的現象としての決定性と人間の意識における自由の感覚は別の話であり、「創造」や「生物多様性の崩壊」が客観的に自然現象 (人間の意思によらず自然発生する現象) であることは特に問題ないとされるからである。
とはいえ、一般 (ここでの一般とは一般人・一般社会の意味であって、学術的議論における一般ではない) に自由意志の存在は信じられているし、そこでは普通リバタリアン的自由が想定されているので、伊藤氏 (含め一般人) は人間の意思や行動が全て自然現象と見なされるという主張に全く同意できないのだろう。したがって、「「創造」=「自然現象」説はひとまず見なかったことにしておきたい」というように「間違ってると思うけど一旦スルーしておいてあげるよ」といったような上から目線の態度を取っているが、残念ながら単に伊藤氏の理解が浅いだけである。あとそもそも上記した通り、ここでの「自然現象」を「自然界で見られる現象」というように広義の意味で取れば特に問題は起こらず、「私たちも自然の一部だから、創造もまた自然現象には違いない。」という文章を見るに、個人的にはそっちの広義の意味で取るのが自然だと感じる。
また「「創造」=「自然現象」説はひとまず見なかったことにしておきたい」とのことだが、もし「私たちも自然の一部だから、創造もまた自然現象には違いない」という太刀川氏の記述から「創造」=「自然現象」を導いたのだとしたら完全に誤りである。「創造もまた自然現象には違いない」というのは「創造⊂自然現象」ということを言っており、「創造=自然現象」とは普通読まない。ここで話すと長くなるので、詳説は同じ間違いを犯しているp.187で行う。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、ここの引用部位を前後含めて広く引くと「では創造とは何なのか。それはとても不思議な現象だ。他の生物が無数にいるなかで、人間だけが圧倒的な創造性を発揮しているように見えるのはなぜだろう。私たちも自然の一部なのだから、創造もまた自然現象には違いない。それに似た自然現象は存在しないのか。そう考えていたら、ふと思い付いた。自然界には、創造によく似た現象がひとつだけ存在する。生物の進化だ。自然界で、機能する多様な形態を生み出しているのは進化において他にない。この観点から、創造の不思議を解き明かせないだろうか。」(『進化思考』p.5) となっている。したがって、この辺では別に人間の意思によるか否かみたいな話は特にしておらず、また「自然の一部なのだから」といった文言を見ても、やはりここでの「自然現象」は広義の意味で取るのが適切であるように思う。
次に、「創造性」について見てみよう。「創造性」も冒頭から登場する語だ。
| 実はどんな人でも、🔶創造性を発揮する🔶驚くべき力を秘めてい
| る。私はそう確信している。だがよく考えてみると、🔷創造性の構
| 造🔷とか、🔶創造性を育む🔶適切な練習方法について、私たちは何
| も知らないのだ。(p.5)
「創造性」の「構造」、というのが少々引っかかるが、「創造性」を「クリエイティビティ」に置き換えてもそれほど違和感なく読める文だ。その後も「創造性」は「発揮する」ものとして、また「育む」ことができるもの、つまり個人の「創造」に関する「能力」としてたびたび使われる。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
といったように。ところが、読み進めていくと、違う使い方が現れる。
| しかし歴史に残る優れた🔶創造🔶は、必ずといっていいほど強いア
| イデアを内包していた。むしろ発明や事業について目を向ければ、
| 🔷創造性🔷という言葉は🔶「強度のあるアイデア」を主に指してき
| た🔶ことにも気づく。(p.17)
ここでは「アイデア」について「創造性」の語を用いている。人間の「能力」ではなく、人間が生み出したもの、結果についても用いると言うのだ。「創造性」を「クリエイティビティ」に置き換えて読んでみると、なんとなくそんな言い回しもあるような気がしてくる。しかし、その直後では再び「能力」として用いられている。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
「むしろ発明や事業について目を向ければ、~(中略)~ を主に指してきたことにも気づく」というのは、ある分野ではそういう意味での使用もあるよという話をしているように見えるので、その場合それまでの意味との違いは特に問題ないのではないだろうか?
またはこの部分は太刀川氏の表現ミスで、正確には「創造性という言葉は「強度のあるアイデア」"に関して主に使われてきた"」ということを意図していた可能性もあるかもしれない。
📕『進化思考』を読んだので追記する。太刀川氏は「しかし歴史に残る優れた創造は、必ずといっていいほど強いアイデアを内包していた。」の直前に「「そのアイデアは、強いアイデアだろうか」そんな問いが創造には必ずと言っていいほど問われる。「発想の強度」なんて言葉で表すこともある。デザインでもアートでも経営でも、創造的な活動では、発想=アイデアがその中核をなすことが多い。このアイデアが「強い・弱い」といった議論が、コンセプトを作る段階では必ず出てくる。どうやら美などの表現の質とは別のところに、発想の強度という、まったく別の評価軸があるようだ。しかもその軸は、美とは違って形には現れないため、さらに曖昧で捉えにくい。」(『進化思考』p.17) というように発想の強度の重要性について述べており、これを見るに、ここで太刀川氏が言いたいのはおそらく上で述べた内の後者の「「強度のあるアイデア」"に関して主に使われてきた"」というものであろう。したがって、表現の一貫性という観点では厳密には問題がある。しかし、個人的にここまで厳密な語用を考える必要はないように思う。何度も述べているが、『進化思考』は査読論文でも学術書でもないし、この程度の「創造性」の語用のブレによって太刀川氏の主旨が読み取れないということもないだろう。
その次の「創造性」は勝ち負けの対象となっている。
| 5「自然のほうが🔶創造がうまい🔶」のはなぜか
| 「🔷創造性🔷で自然には🔶勝てそうにない🔶が、なぜそう感じる
| のか」(p.20)
これは「能力」とも読めるし、小見出しの「創造がうまい」のように、「創造されたもの」のことのようにも読める。もうこの辺りではなし崩し的に自然を擬人化してしまっているので、「現象」も「能力」も大差ないような気がしてきてしまう。意識してやっているのだとすると巧妙というか悪質だが、おそらく太刀川も書きながら自分でわからなくなっているのではないかと思う。そのため、「創造性」の使い方もぶれてくる。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💛ここでの「創造性」は普通にこれまで通り「能力」の意味ではないだろうか?「創造されたもの」と読むのは不自然な気がする。
またそもそも小見出しの「創造がうまい」における「創造」を「創造されたもの」の意味で取るのも不自然だと思う。普通にこれ以前の部分で伊藤氏自身が辞書で確認したように「新たに造ること」や「それまでなかったものを初めてつくり出すこと」といった意味ではないか?「~が上手い」という表現における「~」には行為的意味が来るのが普通である。例えば「料理」には「1. 材料に手を加えて食べ物をこしらえること。また、その食べ物。調理。」(デジタル大辞泉, [50]) というように行為とその行為の結果物の両方の意味があるが、「料理が上手い」と言ったときには普通、料理する行為が上手いことを指す。(ここでは「普通」と穏当に述べたが、正直それ以外の用法を見たことがない)。
また「もうこの辺りではなし崩し的に自然を擬人化してしまっているので、「現象」も「能力」も大差ないような気がしてきてしまう」というのも的外れだろう。そもそも太刀川氏は「現象」と「能力」を近いようなものとして説明してきている (創造性という能力の自然現象的な側面について太刀川氏は語ってきている) ので、擬人化の結果それらが大差ないように見えたところで特に問題はない。むしろ伊藤氏のこういった指摘こそが「太刀川氏は「擬人化」というレトリックによってズルをしている」という巧妙で悪質な印象操作であるように見える。単に何も理解せずに言ってるだけかもしれないが。
| 自然物に対して、なぜ私たちは創造的な感覚を抱くのだろう。生物が
| これほどに🔶美しい創造性🔶の宝庫となった背景には、🔷創造性
| 🔷の本質を解き明かす手がかりがあるように思える。そもそも自然| 物はデザインなのか……。(p.20)
ここでは「創造性」について「美しい」という形容詞をかけており、先ほどの「アイデア」と同じ使い方といえる。この使い方は他にも何箇所かある。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
確かに自然に読むと、ここでの「創造性」は創造行為の結果物 (アイデア) と解釈できる (実際私もそう読んだ)。しかし「美しい創造性」というのを、「美しい創造行為の結果物」ではなく、「美しい創造を生成するような能力」と好意的に解釈をすることも不可能ではない。
なお、これは以前にも突っ込んだし、先ほども似たようなことを述べたが、ここでの「創造」「創造性」の定義の正確性に関する議論は果たして進化思考の是非について語る上でそこまで重要なことなのだろうか?少なくとも私には「躱すことのできない大きな問題点」(p.179) とは現状思えない。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏は引用部分の直前にて「デザイナーからすれば驚異的な創造性を感じる。こうした形態によって生まれる美しい関係は、自然界のあらゆるところに数多く存在している。どの種をとってみても、ヒトが作り出した発明より、はるかに緻密で効率的なデザインを構築しているように見える。」(『進化思考』p.20) と述べているので、伊藤氏の引用中の「自然物に対して、なぜ私たちは創造的な感覚を抱くのだろう」も合わせて、ここでの「美しい創造性の宝庫」における「創造性」は、私達人間から見て創造的だと感じる(自然が創造性を発揮しているかのように見える)という能力的な意味を幾分に含んでいる気がする。したがって、創造の結果物というのが一意な解釈とは限らないし、もし仮に上記の意図があるのであれば、「美しい創造性の宝庫」という表現は別にそこまでおかしなものではない。また、太刀川氏は『進化思考』p.43-44でも「まさに進化は「創造性の宝庫」なのだ。生物の構造は知性の塊のように見えるが、しかし進化は設計者を必要とせず、変異と適応によって自然発生する現象だという。」と述べており、やはり太刀川氏がここで言っている「創造性」というのは外部の観察者からはあたかも自然が知性を持って創造しているように見える(そういう創造能力を持っているように見える)といった意味合いがいくらかあるように思われる。なお、この場合「美しい」という語はやや不自然だが、「そういった創造性に溢れた生体構造が美しい」や「美しいものを生み出すような創造性」または「そういった優れた創造性そのものが美しい」となどと解釈すれば一応意味は通る。
| だが実際にデザインの現場も、これとまったく同じなのだ。何度もト
| ライアルをして、何度も選択をすると、モノはおのずと良くなってい
| く。このやむことのない繰り返しが🔶創造性を前にドライブする
| 🔶。(p.45)
| 長い時間を🔷生き抜いてきた創造性🔷は、成功要因の保存と、失敗
| や変化への体制を備えている。(p.292)
おそらくここでの「創造性」は、「新規性」や「新奇性」のように「創造されたものにおけるクリエイティブ度合い」の意味で用いられているのだろう。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💜ここでの「創造性」はこれまで通り、普通に「能力」の意味でよくないだろうか?前後の文章まで見ないとはっきりとしたことは言えないが、少なくとも私には「「新規性」や「新奇性」のように「創造されたものにおけるクリエイティブ度合い」」という意味は特に読み取れない。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、まず、前者については太刀川氏はここの引用部位直前に「自然の進化のほうが人よりも創造性が高いと認めるなら、デザイナーがいなくても、合理的で美しいデザインを自動的に発生させる仕組みが存在することになる。デザイナーの身としては、なんとも複雑な心境だ。」(『進化思考』p.45) と述べているので、今指摘されている「創造性」は創造的性質やアイデアといったものを指しているように見える。また後者に関しては(p.153でも同様の指摘がされているのでそのコピペになるが)、まず引用の「体制」は「耐性」の誤字である。また、太刀川氏はこの直前に「その一方で、数千年や数万年という単位で生き残ってきた原初的な創造も存在する。」(同 p.292) と述べているため、ここで指摘されている「創造性」は創造能力・創造的性質の意味か、または創造の誤りであるように思われる。すなわち前者の場合はどのような創造能力・創造的性質によって長い時間生き抜いてきたのかという話で、後者の場合は創造物が成功要因を保持しつつ、失敗や変化を許容するようなモノだったという話になる。なお、上記の「創造的性質」というのは伊藤氏が述べているような「クリエイティブ度合い(または種類)」のことであり、したがって伊藤氏の云っていることは一部正しかったのだが、私の云うそれは「新規性」や「新奇性」に限らない話なので以前はピンと来なかった。
このように、「創造性」のように重要な語が2種類の意味で混用されているので、当書はまともな議論に耐えられないのである。「「バカ=変異=HOW」と 「秀才=適応=WHY」」 (p.30)というような独自の観点の評価以前の問題である。
💛繰り返しになるが、そこまでの厳密性を求める必要は果たしてあるのだろうか?確かに意味が分かりづらい部分もあるが、太刀川氏の主旨は十分に理解できないだろうか?勝手に学術レベルの土俵に上げて相撲を取らせてるように私には見える。確かに生物進化に関する事実的記述には厳密性が求められるが、それ以外の部分にもそれと同じくらい厳密性を求める必要はないのではないか?生物進化に関して出した矛の収め所を見失っていないか?
またそもそもここまで指摘してきたように伊藤氏の解釈には不自然なものも多く、伊藤氏がここで思っている「混用」の程度よりも実際のそれは小さいだろう。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、ここまで追記してきたように混用に関しては確かに伊藤氏の主張が妥当である部分もそれなりにあった。ただ、やはりあの程度の混用を以って「当書はまともな議論に耐えられない」とするのには同意できない。これ以降の部分でも伊藤氏は創造性の意味に絡めて批判を展開するが、その多くが大して妥当とは言えないものであり、論理的に明確に間違った批判も多い。
さらに困ったことに
| 🔶創造性🔶のことを、二つの思考を往復しながら生み出す🔷螺旋的
| な現象🔷として捉えれば、頭のなかで何度も作り直し、世代を発展| させるように創造の強度を高める視点に慣れてくる。このプロセスを
| 体得すると、はるかに効率的に創造的な仮説に辿り着けるようになる
| のだ。そして何より肝心なこととして、このプロセスは誰でも一つ一
| つ丁寧に学ぶことができる。つまり🔶創造性🔶は暗黙知ではなく、
| 🔷学べるもの🔷になるだろう。(p.62)
と「創造性」もイコール「〇〇な現象」になってしまった…。だがその直後に「学べるもの」だともある。そうすると「現象」=「学べるもの」ということになるのだが、もちろん「現象」は「学べるもの」ではない。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💛「創造性」=「〇〇な現象」に何か問題があるのだろうか?「創造性」を能力的なものと定義するとき、その認知的なプロセスは紛れもなく現象だろう。そしてそういった認知的プロセスを学べる (学習・練習によって (特に方法知として) 会得することできる) という主張は別におかしなものではない。
また「「現象」=「学べるもの」」というのはおかしい。「だがその直後に「学べるもの」だともある」というのは「つまり創造性は暗黙知ではなく、学べるものになるだろう」というのについて言っているのだろうが、ここでの太刀川氏の意図は明らかに「創造性⊂学べるもの」だろう。既に上で似たような話をしたが、「AはBである」という自然言語は「A⊂B」と「A=B」 という二つの解釈可能性を持つ。「りんごは赤色である」という文章では「A⊂B」が適切だが、「りんごはバラ科リンゴ属の果樹またはその果実である」という文章では「A=B」が適切である。私には太刀川氏が「学べるもの⊂創造性」と捉えているようには全く見えない (「創造性⊂学べるもの」はどちらの解釈でも成り立つので、等価を示すにはあと逆方向が必要)。伊藤氏には太刀川氏が「学べるもの⊂創造性」と捉えているように見えているか、または一般に自然言語の「AはBである」が「A⊂B」と「A=B」の二つの解釈可能性を持つことを意識的には理解しておらず「A=B」だけ採用してしまっているように見える (さすがに「りんごは赤色である」というのが「りんご=赤色(のモノ)」ではないことは無意識的には理解していると思う。なお本稿のver.1.2.0より前のバージョンでは「→」「↔」といったような論理学的表現も用いていたが、伊藤氏の語用との一致及び一般人への分かりやすさの観点からver.1.2.0では集合論的な表現 (⊂, =) に統一した。自然言語を分析する上ではどちらの表現にも向き不向きがあるが、例えば集合論的表現では「性質」について自然に表現することができない。「りんごは赤色である」というのを「りんご⊂赤色」するとこれは厳密には不正確で、正確にはすぐ上でそうしたように「りんご⊂赤色のモノ」というように表現しなければならない(要するにこれは「性質」が内包的である一方、包含関係は外延的であるからである)。一方、論理学的表現では「りんご→赤色」というように自然に考えることができる。しかし、論理学的表現では含意の具体的な意味内容を無視して一括化してしまうというデメリットも存在する(統語規則だけでは、分類的な包含関係を述べているのか、因果関係を述べているのかなどが分からない)) 。
したがって「「現象」は「学べるもの」ではない」というのが、以上のような等価性に関する指摘であるのならば、それはそもそも伊藤氏の解釈の仕方がおかしい。「つまり創造性は暗黙知ではなく、学べるものになるだろう」という太刀川氏の発言を普通は等価の意味で取らない。また、そうではなく「創造性⊂学べるもの」の妥当性に関する指摘であるのならば、初めに説明したように「創造性」を能力的なものと定義したとき、その能力は紛れもなく認知プロセス的現象であるので、それを学びによって向上させる (またはそういった暗黙知・方法知を体系立った学びによって会得する) ことができるという主張は別におかしなものではない。
またそもそもの話として、仮に①「創造性=学べるもの」であったとしても、それと②「創造性=○○な現象」から③「現象=学べるもの」を導き出すのはおかしい。①と②から導き出せるのは「○○な現象=学べるもの」という現象の部分集合に関する命題に過ぎず、③のような現象一般に関する命題は出てこない。p.184でも指摘したが、伊藤氏は一般的対象と個別的対象(全体集合とその真部分集合)の区別が甘く、同じ推論の中で個別的対象を一般的対象に無意識に置換してしまっている。
編者はこの辺で脱落である。脱落というか、ついていける文章ではない。
💜この引用部分は1つ上の指摘部分の直後に繋がっているものである。残念ながら、ここまで説明してきたように私には単に伊藤氏の力不足なだけに見える。
だがそれはそれとして、とにかく「創造」と「創造性」周りはリライト必須だ。
💜ここまで述べてきたように、確かに一部分かりづらい部分もあるが、それらは太刀川氏の主旨を大きく見失わせるようなものではないだろう。また、そもそも「創造」と「創造性」の定義に関する伊藤氏の評価には、彼の力不足による勘違いが多く含まれているように見える。
また後に説明する伊藤氏のツイートによれば[53]、増補改訂版『進化思考』では「創造性」が一部「創造力」に修正されているらしいが、個人的には別に修正する必要はそれほどなかったようにも思う。「創造性」というのは能力をも意味する概念として一般に使用されるものであるが、「創造力」というのは一般にはあまり聞かれない言葉であり、かつよく使われる語である「想像力」と音が似ているため概念の混同が生まれうる。上でも似たようなことを説明したが、人間の性質に関する「~性」という語は能力的な意味も持つことが多い。例えば、「共感性」「協調性」「巧緻性」辺りはそうだろう。またこれは個人的な感覚であるが、「~力」と言ったときは「~性」よりも意識的な力(意識的に制御できる力)の意味合いが強いように感じるため、創造の無意識性について語る進化思考の観点では「創造性」の方がむしろ適切であるようにも思える(もちろん個々の文脈にもよるが)。
つまり、「創造性」は「発揮する」ことが重要なのだ。ところが、終章に至り「創造性」に「進化」が必要だ、という新しい主張が登場するのである。
| 今こそ人間中心の観念を卒業して、生物の生態系から学ぼう。
|
| 私たち自身の🔶創造性を進化させよう🔶。(p.475)
|
| 自然に立ち返った教育の進化は、世界中の人の創造性を進化させるだ
| ろう。それが進化思考の挑戦だ。(p.478)
「人間中心」もデザインの領域では議論をすると長くなりそうな語であるのでおいておくとして、「進化」云々を気にしなければ、文章としては理解可能である。太刀川によれば「進化」は「エラー的な変異と自然選択による適応を繰り返す」(p.43) ことだというのだが、「創造性」の「エラー的な変異と自然選択による適応を繰り返す」というのはどういうことなのだろうか。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
| そして創造性によって社会に変化を生み出す人が、あと全世界にどれ
| くらい増えれば、未来は今より素敵になるのだろうか。(pp.478-479)
とあり、やはり「創造性」をそのまま「発揮」することが求められている。その後も
| 時間を超えて創造的な仲間を増やすことは出来るのか。その成否は、
| 🔷創造性を体系的に学べる理論と教育🔷を今の私たちが生み出せ
| かどうかにかかっている。(p.479)
と書いており、やはり結局のところ「創造性」を「発揮」することができるようにする「体系的」な教育を太刀川は志向しているのだろう。その点について異論はないが、「体系的」に学ぶことができれば良いのであって、その学ぶべき対象が「進化」する必要はない筈である。その「創造性」の「進化」とはどういうことなのか結局わからないままであった。おそらくここでも「進歩」の意味で「進化」を使っているのだろう。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💜確かにこの辺は創造現象が進化的現象であること (創造能力がアイデアを進化させること) と創造現象または創造能力そのものが進化することが混同されているように見える。そして後者の「進化」は進化ではなく進歩 (成長) であるというのはその通りである。したがって、後者については進歩や成長などと言い換える必要があるが、創造能力は伸びるものであるという主張そのものには特に問題はないだろう。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、ここの「創造性教育の進化」という『進化思考』p.476~479の小パートにて出てくる「創造性の進化」という記述を他に挙げると、「ゲーテの自然哲学からフレーベルの教育、そしてバウハウスへ至る、近代の創造性の進化」(『進化思考』p.477)、「自然に立ち返った教育の進化は、世界中の人の創造性を進化させるだろう。」(同 p.478)、「だが歴史を振り返れば、危機的な状況を乗り越えてきたのも、また創造性の進化だった。」(同 p.478)、「だが、そこに必然性があるとしたら、新型コロナウイルスのCOVID-19で世界中が苦しむ今こそ、創造性を進化させる時期だと感じる。」(同 p.478) といった感じになる。したがって、ここでの「進化」というのが単なる進歩を意味している可能性はそれなりに高い(個人の創造能力の成長(進歩)とその創造性の中身に進化的構造があることを混同しているように見える)。ただ、ここでの「創造性」というのを「創造能力 (クリエイティビティ)」と取るとき、「創造性の進化」を集団のクリエイティビティの進化(個々人のクリエイティビティ間の競争に基づくクリエイティビティの文化進化)と解釈することは可能そうではある。ここに限らずだが、一般に文化・社会的な対象に対して「進化」の語を使うことは進化と進歩の混同であると糾弾されがちだが、その批判が即通るのは多くの場合、その進化対象が集団的なものでなかったり、世代交代的な要素がなかったりするような場合である(例えば「この会社を進化させよう」「あなたはもっと進化できる」など)。一方、批判集でも述べられている通り、変異・遺伝・(選択)の3要素が揃えば基本的にどのような対象にも起こり得るのが進化であり、したがって人間社会に関して進化を述べているから即進化の誤用と見做すのではなく、個々の対象に対して逐一本当にそこに進化の構造(変異・遺伝・選択) はあるのかを見ることが大事だろう。
| こうした未来の仲間の🔶創造性に役立つ🔶ために、私はこの本を書
| いた。🔷創造性は🔷私たちが自然から学べるものであり、私たち全
| 員に宿った本来の力を活かす🔶方法🔶でもあるのだ。(p.479)
この章最後の文も「創造性」の使い方が混乱している。最初の「創造性に役立つために」は「創造性の発揮に役立つために」とでもするべきであろう。続いて「創造性は」「本来の力を活かす方法でもあるのだ」とあるが、「〇〇性」=「方法」ではないのは明らかだろう。「創造性」が「発揮」できれば「本来の力を生かす」ことができるので、その「方法」を太刀川は今まで語ってきたのではなかったのだろうか。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💛「創造性に役立つために」を「創造性の発揮に役立つために」という指摘はその通りだと思うが、これは「創造性」の使い方の混乱ではなくて、単なる情報の不足 (創造性に関してどういう点で役立つのかが分からない) ではないだろうか?
また「「創造性は」「本来の力を活かす方法でもあるのだ」とあるが、「〇〇性」=「方法」ではないのは明らかだろう」に関しては、まずそもそも伊藤氏はp.184やp.187と同様にここでも一般的対象と個別的対象(全体集合とその真部分集合)を混同し、個別的対象に関する議論を一般的対象に関する議論に勝手に置換してしまっている。一応、もし「〇〇性 ∩ 方法」が空集合であるならば、「創造性=本来の力を活かす方法」という個別的命題は否定されるので、そういう意味では一般的命題について語ることも無意味ではないのだが、そういう話をしたいのであればそう言うべきであり、少なくとも「「〇〇性」=「方法」ではないのは明らか」ではそれを表現できていない。
そしてさらにそもそもの話として、「「〇〇性」=「方法」」と伊藤氏は言っているが、先ほどのp.187と同様に、もしかしてここでも「創造性は私たちが自然から学べるものであり、私たち全員に宿った本来の力を活かす方法でもあるのだ」から「創造性=本来の力を活かす方法」を導き出しているのだろうか?だとしたらその解釈は普通ではない。先ほども説明したように、「AはBである」という自然言語は「A⊂B」と「A=B」という二つの解釈可能性を持つが (例:「りんごは赤色である」という文では「A⊂B」が適切だが、「りんごはバラ科リンゴ属の果樹またはその果実である」という文では「A=B」が適切である) 、私には太刀川氏が「本来の力を活かす方法⊂創造性」と捉えているようには全く見えない (「創造性⊂本来の力を活かす方法」はどちらの解釈でも成り立つので、等価を示すにはあと逆方向が必要)。常識ともズレているし、そんな話も特にしていないからだ。伊藤氏には太刀川氏が「本来の力を活かす方法⊂創造性」と捉えているように見えているか、または一般に自然言語の「AはBである」が「A⊂B」と「A=B」の二つの解釈可能性を持つことを意識的には理解しておらず「A⊂B」だけ採用してしまっているように見える (さすがに「りんごは赤色である」というのが「りんご=赤色(のモノ)」ではないことは無意識的には理解していると思う)。
したがって「「〇〇性」=「方法」ではないのは明らかだろう」というのがこのような等価性についての指摘であるのならば、それはそもそも伊藤氏の解釈の仕方がおかしい。「創造性は私たちが自然から学べるものであり、私たち全員に宿った本来の力を活かす方法でもあるのだ」という太刀川氏の発言を普通は等価の意味で取らない。もしそうではなく、「「〇〇性」⊂「方法」」の意味で「「〇〇性」=「方法」」と言っているのであれば (こういう不正確な意味でのイコールを使用をする人は割と多い。とはいえ伊藤氏は上で「左と右は同じレベルの話ではないのでイコールでは結べない」(P.184) と言っているので恐らくイコールの等価性については一応理解しているようにも見える)、上で説明した通り、そもそもこのような一般化した命題は不適切なので、ここでは「創造性⊂本来の力を活かす方法」として検証するが、「創造性」をここまでと同様に「創造に関する能力」として定義するならば、それほど問題はないように思われる。確かに若干違和感もあるが、「物事を成し遂げることのできる力」 (デジタル大辞泉, [51]) 及び「目標に達するための手段。目的を遂げるためのやり方」 (デジタル大辞泉, [52]) という「能力」と「方法」の意味を考えればある程度納得できるものではある。
また最後の「「創造性」が「発揮」できれば「本来の力を生かす」ことができるので、その「方法」を太刀川は今まで語ってきたのではなかったのだろうか」に関しては、「方法 (となる能力)」 を発揮する「方法」を太刀川氏は今まで語ってきた訳なので、何も問題はない。
「創造性」の語の用法が一貫せず、非論理的である、と書けば済むことだったかもしれないが、「非論理的だ」とだけ指摘されて直せるくらいなら初めからこのような文を世に出さないであろうから、老婆(爺)心ながら長々書いた次第である。
💛ここまで指摘してきたように、太刀川氏の用法に多少揺れや分かりづらい部分があるのは事実だが、それは太刀川氏の主旨の理解を大きく妨げるものではないだろう。また伊藤氏の批判には彼の力不足による勘違いが多く存在する。特にp.187とp.190で指摘したように、伊藤氏は「AはBである」という自然言語が「A⊂B」と「A=B」という二つの解釈可能性を持つことを意識的に理解できていない可能性があり、残念ながらその場合「非論理的である」という言葉は伊藤氏自身に大きく降りかかるだろう。
ちなみに以下のツイートで言っているように[53]、この第5章は論理性に自信があるところだそうだが、残念ながらそのような出来にはなっていない。すぐ上で述べたように「創造性は暗黙知ではなく、学べるものになるだろう」という文を「創造⊂学べるもの」ではなくて「創造=学べるもの」として読んでしまう人には他者に論理性を語ることは申し訳ないがちょっと難しいだろう。また、p.184の「「〇〇すること」=「知覚できる一切の物事」」云々においては「包含か等価か」「一般的現象か個別的現象か」という点で伊藤氏が色々混同や勘違いをおそらくしているために論理的に混迷した文章になっている(一般的対象と個別的対象の混同に関してはp.187とp.189でも同様の誤りを犯している)。
最初の方で「創造性」が「創造力」に変わってたところがあって、多分全体を通して多少は改善されて読める文になっているだろうとは思われたけど。
— Jun ITO/イトウジュン (@itojundesign) December 23, 2023
『進化思考批判集』の5章は卒論書いてて先生に「文章が論理的なじゃない」と指摘された学生の役に立つんじゃないかなと思って書いたところもあります。
また、批判集における発言ではないが、包含か等価かに関しては以下のツイートにおいても同様に混同している可能性が高い[54]。(またこの一連のツイートはその後伊藤氏のnoteでそのままコピペ的に繋いで記事としてまとめられている[55])。
例えばp48「私は、創造という現象について次のような仮説を立てた。創造とは、言語によって発現した「疑似進化」の能力である。」現代文や英文読解的に書けば、前文からは「創造」=「現象」、後文からは「創造」=「能力」、となるが、明らかに「現象」≠「能力」であるため、もう理解不能だ。23/n
— Jun ITO/イトウジュン (@itojundesign) December 3, 2022
このツイートで伊藤氏は、「私は、創造という現象について次のような仮説を立てた」から「創造」=「現象」を、「創造とは、言語によって発現した「疑似進化」の能力である」から「創造」=「能力」を導いているが、上記の二文は(「創造と現象」「創造と能力」という関係性に関しては)どちらも明らかに包含を意味するので伊藤氏の解釈は誤りである。したがって、そのような誤った解釈から導かれる「明らかに「現象」≠「能力」であるため、もう理解不能だ」という結論も当然誤りである。また伊藤氏がイコールの意味をよく理解しておらず、ここで包含の意味でイコールを用いている可能性もあるが、仮に「「創造」⊂「現象」」かつ「「創造」⊂「能力」」としたところで、ここから「現象」=「能力」を導くことはできないので、その推論は誤っている。当たり前だが、一般に「「A⊂B」かつ「A⊂C」」から「B=C」を論理的に導くことはできない (結論の「現象=能力」(「B=C」) を「現象⊂能力」(「B⊂C」) と解釈したとしても結局これは誤りである)。なお、個人的な推測としては、伊藤氏はおそらくイコールが等価を意味することは一応理解しているが、包含という間違った意味でイコールが使われることも慣用的にはあることから、それに沿って包含の意味でイコールを用いてしまい、そうであるのに伊藤氏の認識では基本的にイコールを等価の意味で理解しているので、伊藤氏自身が包含の意味での「偽イコール」を用いて表現した「創造」=「現象」、「創造」=「能力」に対して、等価の意味での本来的なイコールを上書き的に用いて「現象」=「能力」を導き出してしまったのではないかと思われる。というように、伊藤氏は場面場面でイコールの意味を無意識に変えてしまっている可能性が高い。そしてこれはp.184での等価と包含の混同と同じ根を持つように思われる。それでこれも個人的な推測にはなるが、おそらく伊藤氏はイコールの意味を正確には理解していないと思われる。というのは、ここまでの数々の等価と包含の混同からそう思うのと、また伊藤氏はp.184で「少なくとも「〇〇すること」=「知覚できる一切の物事」 ではない。左と右は同じレベルの話ではないのでイコールでは結べない」という記述をしているからである。伊藤氏はこの直前に「〇〇すること」⊂「知覚できる一切の物事」を認めているのだが、ここでもしイコールではないことを示したいのならば、その流れに沿って単に「〇〇すること」⊃「知覚できる一切の物事」が成り立たないことを言えばよく(イコールの意味を正確に理解している人であれば普通そうする)、態々「レベル」というフワッとした概念を持ち出す必要はない(一応、そのすぐ上で「〇〇すること」∈「知覚できる一切の物事」という考え方を並列させてはいるのだが、「〇〇すること」⊂「知覚できる一切の物事」も提示している以上、レベルが違う(元と集合の違い)のみでイコールを否定し切るのは無理である。そしてどちらの説でも「知覚できる一切の物事」を集合としている以上はここでのイコールは集合の等価性に関して説明すべきだろう)。そういう訳でおそらく伊藤氏はイコールの意味を正確には理解していないのだが、これまで数学などでイコールを用いてきた経験から正しい意味を一応何となく理解しており、しかし一方世の中では正確には誤りではあるものの包含の意味でのイコールも慣用的に用いるため、それらが混ざり合った曖昧なものとして伊藤氏の中ではイコール概念が形成されており、同じ議論の場で無意識的に等価の意味と包含の意味を併用してしまっているのだと思われる。(また「創造とは、言語によって発現した「疑似進化」の能力である」という二つ目の文だけに関して言えば、「創造」と「言語によって発現した「疑似進化」の能力」が等価であるとも読めるが、そこから「創造=能力」を導き出すのは当然ながら誤りである。もしこの観点で伊藤氏が「創造=能力」を導き出していたのであれば(すぐ上で包含と等価の混同から「創造=現象」と述べているのを見るに、ここでも包含と等価がその理由であるような気もするが)、それはp.184, p.187, p.189で指摘したように、伊藤氏の中で一般的対象と個別的対象の区別が曖昧であることによるだろう)。
まあ実際のところイコールの意味を真に正確に理解している人は世の中にそんなに多い訳ではないと思われるが、自身たっぷりに論理的な説明として語っておいてここまで間違っているとなれば指摘せざるを得ないし、申し訳ないが大学教員(2025年12月現在は教授)がイコールの意味を正確に理解していない(かつそれによって誤った推論を行ってしまっている)とすればそれは少々問題であると感じる。しかし、本稿の初期バージョンを読んだ伊藤氏は以下のように私に対して「非論理的な読み(ご自身は「読解力」だと誇っているようですが)」と言っており[56]、自身の論理的読解の問題点を未だに理解できていない可能性があるので(この引用先で例として具体的に突っ込んでいる部分はイコールに関する話ではないが、普通ここまで論理的誤りを指摘され(今のイコールの話は極めて分かりやすい問題点であるが、それ以外にも本稿では伊藤氏の読解の誤りを数多く指摘してきた)、かつそれをちゃんと受け入れていれば普通こんなこと言えないはずなので)、老婆心ながら修正バージョン(ver.1.2.0)にて長々と加筆した。
ただ残念ながら、
— Jun ITO/イトウジュン (@itojundesign) June 16, 2025
・この期に及んで匿名
・『進化思考』は未読
・非論理的な読み(ご自身は「読解力」だと誇っているようですが)
という欠点がありますね。
文字数が多ければ良いというものでもないです。まずはこの鼻息の荒さで本歌の『進化思考』をお読みになってはと思います。憤死必死ですが。
📕ver.1.2.0公開以降の2026/1/31に伊藤氏が本稿への応答記事[92]を公開したが、そこではこの辺の論理の話は一切触れられておらず、また伊藤氏が明確に認めた誤りは「野球ゲームと野球」「引用における無断下線付加(林氏のミスのみ)」「ベイツ型擬態のケアレスミス(?)」の些末・些細な3点のみである。また伊藤氏は上のツイートにて『進化思考』を読めばその問題点が(批判集だけを読んだ場合よりも)より強く分かるかのようなことを述べているが、『進化思考』を読んだ私の感想としては、細かい記述にはやはり問題が多くあるものの、論旨・構成・文体などに関しては思ったよりもちゃんとした本であると感じた。また伊藤氏は上記応答記事[92]やtwitter[224]にて、私が『進化思考』未読であるがゆえに誤読的な誤った批判を批判集に向けているかのようなことを述べているが(「こういった誤読が起こるので、『進化思考』を参照しないでの批判は無理があるし、あまりに枝葉末節であろう。」[224])、確かに明確な判定ができていなかった部分のうち太刀川氏に誤りがあることが判明したものはいくつかあったものの、その量は伊藤氏が思うほどには多くないだろう。例えば、伊藤氏はベイツ型擬態の件はそのような未読に基づく誤った批判であると述べているが[94]、全くそういうものではない(該当箇所(批判集p.108)への指摘を参照)。また伊藤氏は私が未読ゆえに「サントリー学芸賞受賞→「専門家のお墨付き」という売り方の流れ」を把握できず「『進化思考』は学術書ではなく一般書なのだから」という不毛な擁護をしているかのように述べているが[92]、これも全くの的外れである。伊藤氏は「『進化思考』内の記述における文脈」と「『進化思考』騒動の文脈」を混同している。私が把握できていないのは前者であり、後者に関してはある程度把握している。少なくともそのお墨付き云々の話の流れに関しては批判集にそれが書かれている。またそもそも専門家のお墨付き的な売り方をしているならばその本は学術書レベルの正確さを持っているべきであるかのような主張もおかしい。伊藤氏は「程度」というものを無視しているように見える。(参考記事:「「『進化思考批判集』批判への応答」への応答」[97])。
そもそも「変異」は進化学以前から用いられていた語であり、variationのことを指していた。「バリエーション」はほぼ日本語として通じるであろう。一方、進化学では多くの場合「突然変異」mutationを意味する*。どちらの意味で「変異」の語を用いているのかを明確に宣言する必要があると思うが、以下のように「エラー的な変異」と書くからには太刀川は遺伝学の立場に立っていると推察される。
| では進化とは何なのか。まさに進化とは、エラー的な変異と自然選択| による適応を繰り返す、生物の普遍的な法則性のことなのだ。(p.43)
ところが次ページには
| 1 変異によるエラー:生物は、遺伝するときに個体の変異を繰り返
す(p.44)
と書いている。さらに
| そもそも失敗=変異的エラーがなければ、成功=創造的進化もないの
| だ。(p.73)
とも書いており、エラーと変異の循環定義(無限ループ)になってしまっている。
💛前半に関してはp.88のところでも指摘したので繰り返しになるが(同じ話だし説明も長いのでp.88の指摘をそのままコピペさせていただく)、「進化学以前」「一方、進化学では」「生物学と遺伝学で」のいずれかにおそらく誤字があると思うのだが (3つ目の「生物学と遺伝学で」は「*」の注釈内)、このせいで伊藤氏がどのようなものを遺伝学的or進化学的と考えているのかよく分からない。「*」の注釈内で引用されている「「Variation」の訳語として「変異」が使えなくなるかもしれない問題について: 日本遺伝学会の新用語集における問題点」[24] を読んでみたが、そこではむしろ「進化学ではvariationが重要な概念であるが,この用語はダーウィンの『種の起源』においても表現型の変異を示すために使われている用語である(Darwin1859).日本においてダーウィンの進化論は石川千代松の 『進化新論』によって紹介された.1891年に出版されたこの本の中で石川は「変異」という訳語をvariationに当てており(石川1891),1897年の訂正増補再版版では巻末の「進化論ニ関係アル原語ノ訳」という項目で,variationの訳が変異であると明示されている(石川1897)」や「つまり,時系列的にはまずvariationの概念があり,その日本語訳である変異が使われはじめ,その後に地球上でmutationの概念や遺伝学が誕生したといえる.」や「現行の数研出版,東京書籍,第一学習社3社の高校生物の教科書をチェックしたところ,『遺伝単』で扱われているそのほかの遺伝学用語と異なり, 変異は遺伝分野ではなく,生物の進化の項目で扱われている.数研出版と東京書籍では「変異(variation)」「遺伝的変異」「環境変異」等を太字の重要用語としてクローズアップしており,第一学習社では「環境変異」のみを太字で記載している.」というように、進化学では変異がvariationの意味で用いられることが多いかのような記述がされている。これは伊藤氏の「進化学では多くの場合「突然変異」mutation を意味する」とは食い違う内容だが、上で述べたようにおそらくここでは誤字が存在しているように思われるので、伊藤氏の主張の真偽についてはスルーしておく。
また伊藤氏は「エラー的な変異」と「変異によるエラー」で循環定義になっていると主張するが、私としてはこの二つを定義文と見なすのは無理やり感が強いと感じる。前者の「エラー的な変異」における「エラー的な」というのは単なる修飾語ではないだろうか?確かにエラー的な変異 (やりそこない的なmutation) というのは重複表現のようでもあるが、一般的に言って特に問題はないように見えるし、この場合少なくとも変異の定義文ではない。また後者の「変異によるエラー」(mutationによるやりそこない) に関しても、これも重複表現的なものであるが、エラーの定義文には見えない。「失敗=変異的エラー」に関しても、これは「変異によるエラー」と似たようなものであると見做せるだろう。
また、そもそも「「エラー的な変異」と書くからには太刀川は遺伝学の立場に立っていると推察される」と伊藤氏は主張するが、ここでの変異をvariationの意味で取ることは十分可能である。「エラー」という語は「1 やりそこない。失策。2 理論的に正しい数値と、計算・測定された値とのずれ。誤差。」(デジタル大辞泉, [25]) という意味を持ち、伊藤氏は1の意味でしか取っていないようだが、2の意味を取るとき集団の既存のメジャーな形質とのズレという意味で変異 (variation) と合わせることは可能だろう。また重複表現的ではあるが同様に「変異によるエラー」における変異をvariationの意味で取ることも可能である。また「変異によるエラー」に関しては、先程のように変異をmutaionの意味で取った場合においてもズレの意味でのエラーを合わせることが可能である(mutationによるズレ)。
要するに、太刀川氏の云う「エラー」と「変異」というのは伊藤氏が考えている以上に多義的に解釈できるし、またそもそも「エラー的な変異」「変異によるエラー」「変異的エラー」を「エラー」や「変異」の定義文と見なすのはおかしい。とはいえ、誤解を生みうるのは確かなので、変異をvariationの意味で使うかmutationの意味で使うかを明確にした上で、個々の表現も分かりやすく整理したほうが良いのは確かである。
📕『進化思考』を読んだので追記する(なお、これと同様の追記を「まえがき」「第四章」「第五章」でもしているが、ここではそれらにおいて『進化思考』を読んでの追記要素であった太刀川氏の発言周辺が広く引かれているので実質追記欄に書く必要はないのだが、内容的にはほぼ同じ話なので追記として記載する)。伊藤氏はtwitter上での応答[91]やnote記事[92]でもこの点について尚も循環定義であると主張しているが、伊藤氏は本稿への応答なども含めてこれまで何がどのように循環しているのかを一切述べておらず、私の見立てではそもそもこの二つは循環定義にはなっていない。単に同じ言葉を反転的に使った表現を安易に「循環定義」と見做しているのならば、それは誤りである。循環定義とはAの定義にBを用い、かつBの定義にAを用いることを指すが、「エラー的な変異」は「エラー」を「変異」で定義している訳でもその逆でもないし、「変異によるエラー」に関しても同様である。まあおそらく伊藤氏は「「変異によるエラー」というのはエラーが変異によって発生することを述べている」と言いたいのだろうが、その論理で攻めるならば「エラー的な変異」が「変異がエラーによって発生すること」を含意する必要がある。しかし、「エラー的な変異」から「変異がエラーによって発生すること」を一意に導くことは不可能であるし、一般にそう解釈する妥当性も大してない。したがって、残念ながら私には伊藤氏は何となく雰囲気で「循環定義」と非難しているように見える。もし循環定義と主張するならば、何がどう循環しているのか詳細に説明すべきである。それが「論理的な読み手」[91][92] のすべきことだろう。またそもそも仮に「エラーが変異によって発生する」と「変異がエラーによって発生すること」の循環の線で説明し切れたとしてもそれは「循環定義」ではなくて単なる「因果的な循環」に過ぎない。例えば「物価上昇が賃上げを促す」と「賃上げが物価上昇を促す」は因果的に循環しているが、これは明らかに循環定義ではない。鶏と卵も同様である。なお、伊藤氏は太刀川氏のそれを定義文と見做すのはやや無理があるという私の主張に対して、「「定義文」などと大袈裟なことを言わなくても、この循環がまずいと思わない時点で「私は論理的な読み手ではありません」と宣言しているようなものだ。」[91] や「「循環定義をする」という表現は別に「これが「定義文」です」と宣言することを意味しない。見なすも何も、書いていることが循環ができていないために前掲の6/16のツイートでも書いたが、非論理的な読み手であることの宣言のようなものである。」[92] と述べており、これを見る限りやはり伊藤氏は「循環定義」の意味を理解していないように思われる。
もしこれが循環しないのだとしたら、それはエラーと変異が多義的な(複数の意味をもつ)語からだろう。きちんと定義をしてから論を進めなければならない。
💜何を言いたいのか今一分からない。循環しているというのが伊藤氏の主張ではなかったのだろうか?それとも伊藤氏は循環していると思ってるけど、循環していないと主張する人も存在し得て、そういう人は多義性を無意識に不適切に使用していると言いたいのだろうか?そうであるならば、「循環しないのだとしたら」ではなくて「循環しないと言うならば」などと表現するべきである。「循環しないのだとしたら」では、循環するのかしないのか伊藤氏自身も判断できていないように見えてしまう。
また、仮に「循環しないと言うならば、それは多義性を無意識に不適切に使用している」というのが伊藤氏の意図であったとすれば、1つ上で指摘したように、別に多義性を利用しなくとも (「変異」を「mutation」または「variation」のどちらか片方の意味で取っても)、循環なく説明することは一応可能である。またさっきも言ったが、そもそも「エラー的な変異」「変異によるエラー」「変異的エラー」を「変異」や「エラー」の定義文と見なすのは無理やり感が強い。
その意味で、人間のエラーすなわちヒューマンエラーに関する考察がない点も問題である。そもそもDNAの(突然)変異と人間のエラーを同列に語ることに無理があると思うが、無理やり対応させるとするならば、少なくともヒューマンエラーに関する研究を参照すべきであろう。
玉入れの例(p.56)で言えば「あてずっぽうでも玉を投げまくる」試行錯誤は計画段階での「見当違い」で、正しくカゴの方向に向かって投げたつもりがコントロールが悪くて違う方向に飛んで行ってしまうのが実行段階での「し損い」だ。この質的に異なる2つを区別できていないのは明らかな欠陥だろう。
📕ヒューマンエラーをより細かく分類することでより詳細な議論ができるのというのは確かかもしれないが、それが太刀川氏の主張にそこまで大きな影響を与えるかと言われると微妙である。変異が意図的なものであろうとなかろうと変異・遺伝・選択があれば起こるのが進化であり、「見当違い」と「し損ない」の区別をしていないために方法論的に大きく失敗するということはないように思える。したがって、確かに「見当違い」と「し損ない」の区別によってより良い方法論の構築はできるだろうが、「明らかな欠陥」や「躱かわすことのできない大きな問題点」(p.179) と言えるほどではないと思う。
サッカーのPKで、緊張や疲労で枠を外してしまうのは「し損ない」だが、相手キーパーに背を向けてゴールポストと正反対の方向にボールを蹴ったとしたら、これは「見当違い」で相手ゴールには入りっこない。「見当違い」は「作戦ミス」と言っても良いかもしれない。
💜いや、「相手キーパーに背を向けてゴールポストと正反対の方向にボールを蹴」ることは現実的にPKの作戦としてはあり得ないのだから「見当違い (作戦ミス)」の例としては不適切だろう (p.92の批判への指摘で述べたように、このように学者レベルの知能の持ち主でも普通に例え話に失敗するものなのである。それくらい例え話というのは難しい代物である)。敢えてPKで例えるならば、よく分からない奇抜なステップで翻弄してから蹴る作戦が結局あんまり効果がないとかが「見当違い」に相当するだろう (一般にステップによる翻弄はある程度効果があるらしいが、ここでは本当に意味不明で滅茶苦茶なステップのためにそもそも大して翻弄されず、加えてデメリットとしてボールを十分に強く蹴ることができないものとする)。
野球ゲームで送りバントをしようとして、空振りしたりキャッチャーフライになってしまったら「し損ない」だが、ちゃんとバントできたとしても、もし2アウト走者1塁の場面であれば3アウトでチェンジになってしまうので送りバントという作戦自体が間違いだ。
💜これも常識的に考えて2アウト走者1塁の場面では送りバントはしないので「見当違い (作戦ミス) 」の例としては不適当ではないだろうか?3アウトになる未来が容易に予測できるので。例えば、相手捕手が強肩なのを知らずに盗塁して容易にアウトとかのほうが例としては適切だろう。
またこれは重箱の隅を突っつく指摘になるが、「野球」ではなくて態々「野球ゲーム」としたのは何か意図があるのだろうか?おそらくこれは「野球の試合」ではなく「野球のゲームソフト」のことを意味していると思うが、プレイの全責任が自分にある野球ゲームではリアル野球とは違ってそういったおかしな作戦も試せる (試しても誰にも責められない) 、またはそういった作戦が発生し得るということだろうか?
ちなみに先日(2026/1/31)の応答記事[92]にて伊藤氏はここの野球ゲームの語用は私が上で述べた通りであることを認めた。そして驚くべきことに伊藤氏がその記事で認めた私の批判はその「野球ゲームと野球」と「引用における無断下線付加(しかも林氏のミスのみについて述べ、伊藤氏自身の同様のミスには一切言及せず)」と「ベイツ型擬態の件におけるケアレスミス(なお伊藤氏はケアレスと称するが私にはケアレスには見えない)」の些末・些細な3点のみである。私にはこれは非常に理解しがたいことなのだが、伊藤氏からすれば他の全ての批判は否定し切れるということなのだろうか?また伊藤氏は同記事内で「「もしかして『進化思考批判集』も信用できないの…?」と思ってしまう人もいるかもしれない。そういう人の不安を取り除くためにも「安心してください、間違ってませんよ」と言っておくのも大切だろう。」というように批判集にほぼ間違いが存在しないかのようにも述べている。
はぐれメタルに通常攻撃をしてもダメージを与えられないミスは「し損ない」であり、そのうち会心の一撃が出て倒せる可能性はある。だが魔法無効の相手にベギラマやメラゾーマなどの攻撃魔法を唱えたところでダメージは与えられない。何度やっても無駄な「作戦ミス」である。「見当違い」「作戦ミス」の場合は基本的に誰がやっても失敗するし、「し損ない」の場合は上手な人であれば発生が少ない。違いがあることは明らかだろう。
これも細かい指摘になるが、通常攻撃をしてもダメージを与えられないのは「はぐれメタル」の防御数値が非常に高いからであり、したがって「ミス」ではなくてそれが普通なのではないだろうか?実は「通常攻撃」というのは常に会心の一撃を狙って試行している内の失敗の攻撃である、という裏設定があるのならば一応納得できるがそんなものはおそらくないと思う。またそもそもこの「し損ない」というのがゲームプレイヤー側の話なのか、ゲーム内キャラクター側の話なのかも曖昧である。ゲームプレイヤー側の話であれば会心の一撃を望んでいるけど出ないという意味で「し損ない」と解釈するのも不可能ではないが、そうすると「「し損ない」の場合は上手な人であれば発生が少ない」というのと整合性がない。誰がやっても確率は同じだからだ。またそもそもそういった確率の観点で言うならば、同確率のコインを延々と振るような試行に「し損ない」という語を当てるのはおかしいだろう。そういう訳で、ではゲーム内キャラクターの話なのかというと初めに指摘した問題にぶつかる訳なので上記の裏設定が存在しない限りは話は成立しない。したがって、(上記裏設定が存在しない限りは) どの場合でも伊藤氏の主張はおかしい。まあ、個人的な推測としてはおそらく伊藤氏はその辺のゲームプレイヤー側の話とゲーム内キャラクター側の話を混同しているのではないかと思う。(その2つの混濁の中にあるのがまさしく「ゲーム (プレイ)」なのであるという考え方も不可能ではないが、もしその線で攻めたいのであれば、そもそもそういう分かりづらい例をここで使わないべきである)。
そういう訳で残念ながら、この辺のスリップとミステイクの違いの説明として持ってきた三例(サッカー、野球、はぐれメタル)のいずれもに喩えとして難がある。
ノーマンの『誰のためのデザイン』は「アフォーダンスaffordance」の語(後に「シグニファイアsignifier」と訂正した*)とドアノブの話で有名になった本だが、ヒューマンエラーについて書いていることでも重要だ。
アフォーダンス理論については既に述べたが、私は基本的にアフォーダンス理論に懐疑的である。特に『誰のためのデザイン?』ではそのアフォーダンス理論をさらに誤解釈して援用していたらしく、そういった点から私はあまり読む気にならない。後になって誤解釈を訂正した改訂版が出版されたらしいが、問題は未だ存在すると思われる (「思われる」というのは私自身は『誰のためのデザイン』を読んでおらず、ネットの情報を元にそう判断しているだけだからである)。ここで伊藤氏が言っているように彼はドアノブをアフォーダンスの例として出しているらしいが[30]、ドアノブ及び扉を開くといった極めて非自然的な対象すら拾うようにアフォーダンス理論における直接知覚が進化してきたとは私はとても思えない。ただ私はアフォーダンス理論にだいぶ懐疑的であるものの、生態的に瞬時の判断が要求されるような知覚に限定すれば、正しい可能性もあるかもしれないと思っている。しかし、ドアノブ程度であれば既存の知覚理論における学習で十分説明が可能である。したがって、そんな例を気軽に出してしまうということはノーマンはアフォーダンス理論をよく理解していない気がする。とはいえ、アフォーダンスの提唱者であるギブソン自身が「郵便ポストのアフォーダンス」といったものがあると言っているらしいので[31]、そういうのに納得していればドアノブの例を出すことに特に疑問を持たないのかもしれない。私にはギブソンは不適切にアフォーダンス概念を拡張しているように見えるが。
また私の管見ではアフォーダンス理論というのは未だに大して実証されていないような理論なのだが、ネット等ではあたかも科学的に受け入れられた理論であるかのような見方がされていることが多く、そういった点でも少々問題があると思っている。プロダクトや建築などをデザインする際に、アフォーダンス的見方が方法論的に役に立ち得るというのはある程度同意できるので、そういった方法論的な使用は特に否定しないのだが、方法論として擁護されることは科学的に擁護されることを意味しないので注意が必要である。またそういった単なる方法論的な話を超えて、私の理解からすればトンデモ一歩手前みたいなアフォーダンスの定義・適用も散見される。
なお、近年ではギブソンの云うオリジナルなアフォーダンスの定義を超えた、新しい定義がいくつか提案されているようだが、それをするならば新しい用語を立ててくださいと私は思う。元の意味との混同を招くし、そもそもアフォーダンス (affordance) という語は環境が意味をaffordする (与える) というところから来ており、そういった意味を保持させることはトンデモ理論の温床になると私は思っている。
そもそもDNAの変異と人間のエラーもアナロジーであるので、ここでは深掘りしない。だが、これらの先行研究を一切参照せずに人間の「エラー」について語るのは独善が過ぎよう。
DNAの変異は複製を正しく遂行できなかった「し損ない」である。それとエジソンのフィラメント探索の過程での「一万通りのうまくいかない方法」(p.70) つまり「見当違い」は全く違う。この両者を区別できず混ぜてしまっている時点で当書の副題の「変異と適応」の片方の看板「変異」が怪しくなる。
💜一体伊藤氏は何を求めているのだろう。「だが、これらの先行研究を一切参照せずに人間の「エラー」について語るのは独善が過ぎよう」とのことだが、そういった先行研究を参照しなければエラーについては語ってはならないかのような主張はあまりにも無茶苦茶過ぎる。何度も指摘しているが『進化思考』は学術書ではなくビジネス書である。学者様のお眼鏡に叶う議論しか認めないということなのだろうか?学者はそんなに偉いのだろうか?そもそも太刀川氏の論の本質にエラーの詳細な分類はそれほど重要なのだろうか?伊藤氏は2026/1/31の応答記事[92]にて「実際にサントリー学芸賞受賞→「専門家のお墨付き」という売り方の流れがあった以上、「『進化思考』は学術書ではなく一般書なのだから」という擁護は不毛である。」と述べているが、もしこれが「お墨付き的な売り方をしているのならば、その書籍は学術書レベルの正確性が求められる」という主張なのであれば、それはおかしい。確かにそのような売り方をするからには多少は正確性を求められるが、そこから一気に学術書レベルまで正確性を要求するのは行き過ぎである。山本七平賞(上記のサントリー学芸賞はミスであると思われる)を受賞したことを以って読者が学術書レベルに正確な書として読むとは思えないし、実際太刀川氏自身も「昨年、養老孟司先生や長谷川眞理子先生が、山本七平賞という賞をこの本に授けて下さいました。だから、この本は学術的な根拠のない議論を連ねたとんでもない本ではなくて、生物学的に見ても、経済学的に見ても、ある程度読める本になっているんじゃないかなと思います。」[225] というように「ある程度」と弱めて述べている。山本七平賞を受賞しようがあくまで一般書であることには変わりはなく、したがってエラーの分類に関する先行研究の非参照に対して「独善が過ぎよう」と言われるほどに学術レベルの厳密性・文脈性を要求される筋合いはないだろう。
「DNAの変異は複製を正しく遂行できなかった「し損ない」である。それとエジソンのフィラメント探索の過程での「一万通りのうまくいかない方法」(p.70) つまり「見当違い」は全く違う。」とのことだが、DNAの変異が「し損ない」であるのはあくまで変異 (mutation) の発生メカニズムについてであり、そういった数々の変異の結果何らかの適応的な形質が進化するという観点から見れば、非適応的な変異を「見当違い」と捉えることは全くの検討外れというものでもないかもしれない。ただやはり個々の「見当違い」が何らかの意図を持ったものか否か、またその先の発見及び適応的形質を目指しているか否かという点で両者には開きがある。したがって結局、見た目上は似ているものの、メカニズム的には別物であると言えるだろう。
とはいえ、以上の話は発明への探索行動を完全に (リバタリアン的な) 自由意志的行動と捉えた上での話であり、もし探索の選択に何らかのランダム性が多少存在しているならば、探索行動の失敗に「し損ない」 の要素が多少あるとは言えるかもしれない。また少し話は離れるが、集団レベルのアイデア創造の話をするならば、個々人の探索行動をランダム的な「し損ない」と見なすことも可能かもしれない。
そしてその変異について、太刀川は「変異の9パターン」として「変量・擬態・欠失・増殖・転移・交換・分離・逆転・融合」を提唱しているのだが、それが「オズボーンのチェックリスト」として知られる「転用・応用・変更・拡大・縮小・代用・再利用・逆転・結合(Put to other uses? Adapt? Modify? Magnify? Minify? Sustitute? Rearrange? Reverse? Combine?)」と、「9」という数も含めて酷似していることについて、一切触れていないのも看過できない問題だ。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
先行書が日本語に訳されていないとか、無名の人物によるものであるのなら、たまたま「車輪の再発明(reinventing the wheel)」的に似た分類に独自に辿り着いたということもあり得るとは思う。だが上記のように「オズボーンのチェックリスト」がデザイン界で知られていなかったとは言い難い。しかも『進化思考』ではオズボーンがブレインストーミングの生みの親であることを彼の著作『創造力を生かす』の文章まで引用して紹介し(pp.51-52)、また89頁でも同書のオズボーンの言葉を紹介しているが、その『創造力を生かす』こそが「チェックリスト」の元となった本なのだ。にもかかわらずそのことにはまったく触れていない。極めて不自然である。オズボーンの『創造力を生かす』をちゃんと読んでおらず、使えそうな言葉をピックアップして引用しただけなので気付かなかった、という可能性もあるが、太刀川の言葉を借りれば*「そんな訳はないだろう」[23]。都合が悪かったので触れなかったと考えるのが自然だろう。もしたまたま「車輪の再発明」だったのなら、「過去にも同じようなことを考えている人がいた」と書くべきだ。仮に「オズボーンのチェックリスト」にヒントを得た「アレンジ」だった場合でも、「アレンジ」にも一定の価値はあるのだから、きちんと乗った「巨人の肩」を明記すればよい。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
だが、意図的であれ不注意であれ、明記しないことにより「剽窃」の誹りを免れなくなる。上述したように、太刀川の過去の「デザインの文法」で既に「変異の9パターン」のうちのいくつかが現れているため、編者は必ずしも「盗作」とは思っていないが、少なくとも現在の書き方は「剽窃」もしくは「意図的でない剽窃」と言われても仕方がない。当書は学術書ではないが、太刀川は出版時*はアカデミアに片足つま先くらいは突っ込んだ慶應大学特別招聘准教授という立場であった以上、「剽窃」が「不正」であるという認識は必要だろう。
💜この辺に関しては概ね同意だが、実際太刀川氏が本当にオズボーンのチェックリストを知らなかったかどうかは分からない。また知ってはいたが、オズボーンのそれと太刀川氏の「変異の9パターン」に大した関連性を見ていなかった可能性もある。すなわち、内容の妥当性は置いておいて太刀川氏は生物進化との関連から進化思考を語ろうとしており、そういったときオズボーンのチェックリストのような単なる方法論は自論と大して関係ないし、自論の強化としてもそこまで有用ではないと思ったのかもしれない。
とはいえ、指摘されているように剽窃・盗用の疑いが持たれるということは事実なので、実際に知っていたどうかに関わらず、そういう似たものがあるということについて何かしら言及しておくことが望ましいと思われる (もしかしたら既に改訂版では訂正されているのかもしれないが)。なお、こういった話はあくまで学術倫理的な問題であって、「進化思考」という方法論の内容そのものを否定するものではない。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、オズボーンのチェックリストと太刀川氏の変異の9パターンには内容的に割と相違がある。まず、進化思考の「欠失」「分離」に相当するものはオズボーンにはない。また進化思考の「変量」はオズボーンの「拡大」「縮小」をおおよそ内包する(「拡大」は進化思考における「増殖」を含む)。また進化思考の「転移」は主にオズボーンの「転用」、一部「置換」の要素を持つ。そういう訳で純粋に一対一対応のようになっているのは「逆転」と「融合」くらいであるように思う。そういう訳で少なくとも「9」という数字の同一性には大した意味はないだろうし(仮に9つの項目がそれぞれ対応するように類似しているのであれば、9という数字の一致は剽窃疑惑を強化するが、今はそうではない)、内容的にもそれなりに相違があるので「酷似している」とまでは言えないと個人的には思う。また、第四章でも述べたが、太刀川氏は『進化思考』p.52-53にて「だが、こうした発想法や戦略の類は、その成り立ちの都合上、どれも効率よく発想するための方法論(HOW)に終始していた。そして巷にあふれる発想法の大半は、それを提案した人の経験則と主観的な方法論に陥った、再現性の乏しい自伝的な内容に思えた。また創造が起こる不思議を生物学的に論じた考え方はほぼなく、なぜその方法が生物である私たちが創造できるのか(WHY)に答えてくれるものは皆無だった。私なりにたくさん探してみたものの、結局「なぜ進化と発明は似ているのか」に答える内容や、「進化に寄り添った創造の具体的な手法」は発見できなかった。」と述べており、これを見るに単なる方法論を超えた進化との関連を重視しているようなので、そういう観点でSCAMPERにはそれほど重要性を感じなかったのかもしれない。また、太刀川氏は「著者のなかでオズボーンは、「人間の思考力は〈分析する判断力〉と〈アイデアを生み出す創造精神〉の二重構造になっている」と論じているが、まさにこれは、適応の思考と変異の思考を彷彿とさせる。」(『進化思考』p.52) というように、進化思考の根幹に関する「適応の思考」と「変異の思考」に類似する概念について引用している訳なので、特に進化思考に近いようなアイデアを隠したいと思っている訳ではないようにも見える。ただ、やはり似ていることは確かなので何らかの言及があったほうが良いのは確かである。(なお、進化思考を特にポジりたいという訳ではないのだが、オズボーンのチェックリストは進化思考に比べて似たような重複的項目が多く非常に分かりづらいと個人的には感じる。何かを別のところで使うという意味での「転用・応用・代用・置換」や、何かを別のもので置き換えるという意味での「変更・代用・置換」とか)。
なお「「9」という数も含めて酷似していることについて、一切触れていないのも看過できない問題だ。」や「にもかかわらずそのことにはまったく触れていない。極めて不自然である。オズボーンの『創造力を生かす』をちゃんと読んでおらず、使えそうな言葉をピックアップして引用しただけなので気付かなかった、という可能性もあるが、太刀川の言葉を借りれば*「そんな訳はないだろう」[23]。都合が悪かったので触れなかったと考えるのが自然だろう。」に関して、少々文脈はズレるが、先日(2026/1/31)の応答記事[92]にて伊藤氏は引用における無断の下線付加を認めたが、そこでは何故か林氏のミスについてしか触れられていない。確かに第二章の指摘では林氏についてのみ述べているが、それ以外の「初めに」「第五章」「終わりに」では伊藤氏の同様のミスについても指摘している。またその応答記事内で述べられている「野球ゲーム」含め伊藤氏はこれまで第五章の内容に関して反論を行っているため[93]、第五章を全く読んでいないという訳ではないようだ。また第五章における下線の指摘は章の最冒頭で💛マーク(最重要マーク)付きで述べている。したがって、伊藤氏が自身への同様の指摘に全く気付いていないことなどあるのだろうか、と少なくとも私は思う。
出版社は『進化思考』の増補改訂版を2023年末に出版予定ということだが、 これだけの誤りを直した上で全体として整合性のとれた文章になるとはとても思えない。そもそも「変異と適応」という進化のアナロジーを用いなくても「発散と収束」というデザイン界の既存の言語で充分なところを無理やり関連付けているのだから。
💛以上述べてきたように、伊藤氏が指摘した3つの問題点は彼が言うほど大きなものではない気がする。「創造」「創造性」の定義については、確かに一部不適当な部分もあるが、そもそも些末な問題である上に論理的に誤った指摘も多い。「変異」については、確かに太刀川氏はmistakeとslipの違いを理解していないように見えるが、これも進化思考を語る上でそこまでクリティカルな問題点にはならないように思われる (mistakeとslipのどっちだろうが結局「変異」は起こる訳なので。また厳密な分類としても個人の行動選択や集団的なアイデア創造におけるランダム性の観点では所謂mistake的なものにslip性を見いだせなくもない)。また最後の剽窃の疑いについても、それそのものについては適切な対応が望まれるが、これは「進化思考」の内容そのものの妥当性とは特に関係ない。したがって太刀川氏の力量次第ではあるが、全体として整合性のとれた文章にすることは特に不可能という訳でもないし、進化思考の主旨そのものの論理が大きく破綻しているという訳でもない。
また後半の「発散と収束」で十分という指摘についても、あまり同意できない。伊藤氏含め批判集の著者らは意識的な創造についてしか語っていないように見えるが、太刀川氏は創造を無意識的な要素をもつ認知的現象として見たときの話をしているように思われる。すなわち、創造という無意識的な要素をもつ認知的現象に進化的な要素があるならば、進化的観点を取り入れて研鑚を積むことで創造をある程度意識的に行ったり、または無意識的過程を意識的にドライブしたりすることができるのではないか、といったことを言っているように見える。
またそういったこと抜きにしても、アイデア発想においては単なるアナロジーとして見方を変えるだけでも有効なのではないだろうか?
📕『進化思考』を読んだので追記する。上では無意識的なそれが『進化思考』の主旨であるかのように述べたが、この辺はあまりはっきりとしない。というのは、確かに『進化思考』第一章辺りではそのような無意識に関する記述は多く存在するのだが、第二章以降ではそのような無意識に関する話はほとんどなく、意識的な思考の話が多くなるからである。また同様に「変異の思考」「適応の思考」に関しても、これが個人の頭の中のアイデア錬成過程の話なのか、プロダクト生成レベルにおけるトライ&エラーの話なのかははっきりとはしない。これに関してもそのどちらもが述べられているからである。という訳で太刀川氏の主旨ははっきりとはしないのだが、個人的には本全体の文脈や説明のウエイトから言って、頭の中でのアイデア錬成過程(の特に無意識が絡む部分)が太刀川氏が主に言いたいことであるように感じる。したがって、もしそうであれば、「発散と収束」という既存概念以上の意味が「変異の思考」「適応の思考」としての「変異と適応」にはある。
太刀川は元々NOSIGNERとして活動していたように、匿名を美学としているのだと思うが、ここは第2章末の林の提案のように堂々と自身の名を冠するなりして、既存の生物学や進化学の威を借りることなく、自身の思考のオリジナリティを声高に主張すれば良いだろう。
💜「第2章末の林の提案」というのは、「「進化」は生物学における進化とは全く異なる「太刀川進化」とでも表現すべき特殊概念である(よくある誤解ともいう)。「今西進化論」や「千島学説」など、これまでも提唱者の名前を冠した主張はある。そこで、当書における進化を「太刀川進化」、変異を「太刀川変異」、適応を「太刀川適応」とし、生物学とは全く異なり矛盾もしない新たな概念『太刀川思考』として提唱するのが最適な改訂方法ではないかと代案を提案して本稿の結びとしたい」(p.63) のことなのだが、別に態々自分の名前を付ける必要はないだろう。既に「進化思考」というのがある程度新規的な言葉なので (三中信宏氏の云う「進化思考」との関わりについては、批判集のp.6で語られているので割愛する) 。また既に述べたが、林氏はここで太刀川氏を大いに馬鹿にしているが、残念ながら林氏も進化についてよく理解していない部分が多く、このように馬鹿にできる立場にはいないことを付言しておく。林氏の理解がいかに間違っているかは第二章の部分で解説しているので参照して欲しい (例を一つ出すと、林氏は「適応」の定義を1つしか知らず、その定義を以って太刀川氏の云う適応が誤りだと繰り返し述べているが、太刀川氏の云うような適応進化の必要条件としての「適応」も学術的に普通に使われているものである) 。
「創造」は「語 word」だが、「変異」は「用語 term」である。少なくとも「用語」には明確な定義が存在し、それを共有することでコミュニケーションが行われている。勝手に拝借して違う意味を付与して造り変えてはならない。
📕「変異」には生物学用語以外の意味も存在する[226]。また生物学用語に限ったとしても、太刀川氏は「変異」の意味自体はそれほど間違って使っていないはずである。確かに変異の9パターンには怪しい事例もいくつか存在するが、基本的に太刀川氏は形質レベル(及び一部遺伝子レベル)の変異を語っており、それそのものは特に問題ない。また、もしここでの伊藤氏の主張が、創造物に対してはたとえアナロジーであったとしても変異という語は使ってならないというものであれば、それは別に一般に認められるものではない。
6 どこで批判をするべきか 日本のデザイン界における批判 (伊藤潤)
最終段落の日本デザイン学会からの「大変遺憾であった、という旨のご返答」については、独自の解釈がなされている可能性が排除できないため、松井から日本デザイン学会に事実確認のメールを送った。それに対する日本デザイン学会2022年春季大会長小林昭世・同実行委員長佐藤弘喜名義での返信の主要部分を以下に示す(事前に転載の旨は伝えてある)。「 > > A)」から始まる1行目のみ松井からの質問である。2行目以降が日本デザイン学会からの返信部分であるが、1行空きを詰めたり、改行をつなげるといったレイアウト変更を加えている。
>>A)これは事実でしょうか。もしくは、どこからどこまでが事実でしょうか。
太刀川様がどのように解釈をされたかは、学会が関与する範囲ではありませんし、また太刀川様の個人的な問合せに対する回答を、そのままお送りすることもできませんので、太刀川様にお伝えした趣旨のみ、お伝えさせて頂ければと思います。
• 日本デザイン学会の研究発表大会は、提出された概要集がフォーマットに準拠しているかの確認はしてはいますが、査読などは特に行っておらず、自由投稿の形をとっています。
• 学会にとって一番の基礎であり、重要であるのは、研究者それぞれの主義主張の自由を保障し、開かれた議論の場を提供することであると考えています。
• しかし、だからと言ってどのような発言をしても良いかというと、学会というコミュニティーを健全に保つためには、共に同じ分野で知の構築に励む同志としての最低限の配慮は必要であり、今回の松井氏の発表、その後の発言は、その部分が欠けていたように思います。
学術団体としては発表梗概の撤回という一種の言論弾圧要求には毅然とした対応を取るべきだったと思う。このメールにあるような弱い書き方では、「研究者それぞれの主義主張の自由を保障し」ているので撤回はしない、という第2文の意図が伝わらず、「内容の真実性や正否に寄らず論文発表を取り下げる仕組みがな」い(ので取り下げられない)、と「誤読」されてしまう。はっきりと「撤回はあり得ない」と書くべきだ。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
問題は3つ目の文だ。
まず、学会という学術の場において、誤りを正さんとすることで保たれなくなる「健全」とは何だろうか。平和的な「空気」(正に山本七平のいう「空気」である)は保たれるかもしれないが、それは「退廃」ではないのか。
続いて「知の構築に励む同志」という表現が出てくる。編者は学会員ではないため、太刀川が学会員かどうかを知らないのだが、太刀川が学会員でないならば、「共に同じ分野で知の構築に励む同志」は太刀川ではなく正会員である松井の方ではないだろうか。少なくとも「進化思考家」としての太刀川は、先人たちの構築した知を軽視した振る舞いをする者だ。日本デザイン学会は正会員を擁護することなく(擁護するのが正しいのかはわからないが)、外部の有名デザイナーに阿った回答をした、と言えるだろう。
太刀川が学会員であるならば、「共に同じ分野で知の構築に励む同志」という表現も納得できるのだが、「最低限の配慮」とはどういったものを想定しているのだろうか。改めて発表動画を見返してみたが、私の記憶よりも松井は淡々と話していた。発表スライドにある「いらすとや」のイラスト等が不適切だということだろうか。また「その後の発言」というのはTwitter上での発言のことだと思うが(先述のように発表後の質疑応答では何も質問が出なかった)、それに関して学会がどうこう言うことに違和感を覚える。勤務先ならばまだわかるが、「学会が関与する範囲」ではないのではないだろうか。
💛これは太刀川氏が2022/7/6に日本デザイン学会へ「進化思考批判への意見書」として学会発表の梗概(「『進化思考』批判」) [18] の撤回を求めた意見書の当時(2023/9/12)の最新バージョン(?)における「またその後日本デザイン学会より、日本デザイン学会はそもそも査読のない自由投稿の学会であり、内容の真実性や正否に寄らず論文発表を取り下げる仕組みがなく、今回の論文発表の件は大変遺憾であった、という旨のご返答をいただいたことをご報告します。」[227] という日本デザイン学会から太刀川氏への返答に関する太刀川氏の記述に対して、松井氏が事実確認のために日本デザイン学会に対してメールをし、その返答に関しての話である。
まず、伊藤氏は「「研究者それぞれの主義主張の自由を保障し」ているので撤回はしない、という第2文の意図が伝わらず」と述べているが、「学会にとって一番の基礎であり、重要であるのは、研究者それぞれの主義主張の自由を保障し、開かれた議論の場を提供することであると考えています。」という主張からそれを一意に導き出すことはできないだろう。「一番の基礎で重要であること」はそれがいついかなる場合であっても保証されることを含意しない。本件すらも超えるような著しく問題のある内容であれば撤回のようなものは本質的には十分あり得るだろう。したがって、「はっきりと「撤回はあり得ない」と書くべきだ。」という伊藤氏の主張には大して妥当性はない。学術の場で言論の自由が保証されるべきなのは、そうすることにメリットがあるからであって、そのメリットを大きく上回るデメリットがあれば場合によっては保証されないこともあり得るだろう。伊藤氏の主張は手段と目的を取り違えたものであるように感じる。また「撤回はあり得ない」といったような絶対的な主張を要求しているのを見るに、学問に何か不必要な権威性を見て取っているようにも見える。(この辺については後で改めて述べるが、言論の自由があるからといって何を言っても良い訳ではないし、「雑な」言論は学術の場における言論の自由にタダ乗りし、むしろその自由の価値を棄損しているとも言えるだろう)。
また、伊藤氏は「学会という学術の場において、誤りを正さんとすることで保たれなくなる「健全」とは何だろうか。平和的な「空気」(正に山本七平のいう「空気」である)は保たれるかもしれないが、それは「退廃」ではないのか。」と述べているが、ここで日本デザイン学会が言っているのは単に批判が問題という訳ではなく、表現や言い方の話ではないだろうか?さすがに批判一般を問題とするのはあり得ないと思うし、「どのような発言しても良いかというと」「最低限の配慮」「欠けていた」という表現からもそうであると感じる。
また、「知の構築に励む同志」云々については学会に限らず広く見れば太刀川氏もその一人であるのだから特に問題ないと思う。「日本デザイン学会は正会員を擁護することなく(擁護するのが正しいのかはわからないが)、外部の有名デザイナーに阿った回答をした、と言えるだろう。」というのも「擁護・批判」というゼロイチの思考をしているから問題に見えるのであって、実際松井氏の発表・発言に礼を欠いたものが多いのは確かな訳であり(以下で詳細に例を挙げる)、そういった点についてはその問題性に言及するのは特に問題ないし、むしろそうすべきだろう。そういった問題のある発言に対して学会が擁護する義理はないし、むしろ学会内の問題について問題であったと自浄作用を働かせることが適切な対応であるように個人的には思う。
また「「最低限の配慮」とはどういったものを想定しているのだろうか。改めて発表動画を見返してみたが、私の記憶よりも松井は淡々と話していた。」に関しては、松井氏は発表内の口頭・スライド[72]で「"どこから突っ込んでいいのか混乱する怪文" ほんまそれ」(これは松井氏・伊藤氏以外の進化思考批判からの引用であり、「"」内が引用で、「ほんまそれ」は松井氏のコメントである)、「"そこかしこの間違いがダサく思えて落ち着いて読めません"」(これも同様の引用)、「267ページで分子生物学と進化系統学の関連に関して、まあかなりめちゃくちゃなことを言ってたりします」、「ここでの目的は、本書に細やかな、罪のない誤植がいかに多いかを示すことではない。そうではなく、いかに本書が基礎的な知識とリサーチ能力に欠けた著者によって書かれ、基礎的な知識とリサーチ能力に欠けた編集者によって出版されているかを明らかにしたい」(実際にはこの一文目はスライドの見出し、二文目は下位の記述なのだが、意味的に繋がってるのでここでは文として繋げた。この過剰な糾弾は必要だろうか?)、「これらの知識・リサーチ不足は本書の根幹をなす理論にまで及んでおり、説得力のないヨタ話に」、「「改訂版でこの本をよりよくしたい」とご本人も仰っている...が、我々が期待するような方向での改訂は望み薄😩」、「進化思考の布教は、自らの責任で疑似科学を受容できる大人を相手にサロンでやってください。」「宗教は20歳になってから」といったように、礼を欠いたり、攻撃的だったり、事実とは異なったりしている発言・記述が多く存在する。また、ここで伊藤氏が述べている「いらすとや」のイラストというのは、進化思考を疑似科学と見做し、江戸しぐさ、EM菌、ゲーム脳、水からの伝言、とともにそれらをウイルスとして描いた「いらすとや改変イラスト」(元は単にウイルスを跳ね返している元気な人のイラスト) である(動画[72]10:57~)。以上のような発言・記述の表現が「最低限の配慮」のラインを満たしているようには少なくとも私には思えない。(疑似科学かどうかに関しては私はそうではないと思っているが、多少微妙なラインではあるので一旦置いておくが、少なくとも「宗教は20歳になってから」は少々ラインを超えていないだろうか?)。
また「その後の発言」に関する「「学会が関与する範囲」ではないのではないだろうか」云々については、確かに学会が積極的に関与する範囲ではないかもしれないが、この件に関連した話ではあるのでそれに言及することはそこまで問題ないだろう。またそもそもこれは太刀川氏への個人的な返答の話であり、別に学会の声明として公に述べている訳でもないのでそういった点からも特に問題ないだろう。松井氏に対してSNSでのそういった発言は控えろという行動制限をしている訳でもない(と思う)ので。
我々がAmazonにレビューを書くのではなく学会大会での批判を選択したのは、議論の場となることを期待してであった。学会大会に対する私の認識は概ね「近代デザインの父」ウィリアム・モリス(William Morris, *1834―†1896)の次の言葉の如しである。rashlyに対する中橋一夫訳「乱暴な」はちょっと違う気もするが。
私は、亂暴な言葉を使っても許していただけるであろうが、僞りを喋
るならば許してはもらえないような人々の間に立っているものと考え
ている。[129]
I think I am among friends, who may forgive me if I speak rashly, but
scarcely if I speak falsely.[130]
このメールを受け、松井は日本デザイン学会を退会した。
💜何を以ってウィリアム・モリスの言葉を引いているのかよく分からないが、彼の言葉は「法典」ではないし、ここでのrashlyは礼を欠いた発言を許すものではないと思う。また一つ上の指摘で挙げた「疑似科学」辺りはrashlyを超えてfalselyにやや片足を突っ込んでいるように思うし、「宗教は20歳になってから」に関してはだいぶfalselyではないだろうか?
また、何を以って松井氏が学会を退会したのかは分からないが、一つ上の指摘で述べたように少なくとも私には太刀川氏への学会の応答は特に問題ないものであるように見える。
学会での発表後、デザイン界からの反応は極めて少なかった。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
しかし、実務家ではなく研究をメインとしている大学教員からはもう少し反応があって然るべきではないかと思う。クローズドのSNS等で散見されたのは「結果として良いデザインが生み出せるのであれば瑣末な誤りに目を向けるのは非生産的である」といった論調である。だが、本書のまえがきをはじめ繰り返し述べているように、教育者や研究者が「目的(あるいは結果)は手段を正当化する」スタンスでいるのは大いに問題だと考える。
💛一般に「目的(あるいは結果)は手段を正当化する」スタンスに何も問題かと言えばそうではないと思うが、目的と手段それぞれの内容によっては擁護されるということはありえるだろう。例えば、目的がそれなりに価値あるもので、かつ手段の不適切性が十分に小さなものであるならば、目的を理由に手段を正当化することは一般に問題ない。要するにトレードオフの問題であって、トレードオフを考えずにただ「「目的(あるいは結果)は手段を正当化する」ことは不適切だ」という「まとも」っぽい理由によってあらゆる「目的(あるいは結果)よる手段の正当化」を批判することは不適切であるし、むしろそういう人こそ「少しの瑕疵ですら残さないべきだ」という自己信念 (目的) によって「あらゆる「目的(あるいは結果)よる手段の正当化」を批判する」という不適な手段を正当化してしまっているだろう。
以上は一般論であるが、翻って今回の件についてはどうだろうか。まず「有用な創造的思考を手に入れる」という目的やその結果としての「良いデザイン」というものはそれなりに価値があると言っていいだろう。次に手段についてだが、上記目的のための「「進化思考」という思考法」及び「その妥当性を論じる記述・発言」には、批判集において批判されてきたように確かにそれなりに誤りが存在する。ただ本稿で説明したようにその誤りの量や程度はこの批判集の著者らが思っているよりはずっと小さいだろう。したがって諸々のトレードオフを考えたときに、『進化思考』をその目的のために擁護することが極めて問題であるとは私は思わない。しかし、完全にスルーしていいかと言えばそんなことはなくて、あまりに大きな事実的間違いや大きな誤解を生みうるような記述に関しては、その影響の大きさから指摘することに価値があるだろう。
そういう訳で「「結果として良いデザインが生み出せるのであれば瑣末な誤りに目を向けるのは非生産的である」といった論調」が教育者や研究者から出ているのであればやや問題があるとは言える (ただし、もし批判が全て非生産的であると言っている訳ではなく、やり過ぎではという程度に関する発言であったとすればそれは特に問題ないだろう)。一方で、批判集の著者らの批判は少しやり過ぎであるとも感じる。あまりにも厳密に精査し過ぎというのもそうだが、ここまでも何度か指摘してきたように態度が明らかに対話のそれではない。攻撃的・皮肉的発言の数々からするに、批判集の著者らが批判する動機は単なる事実訂正以外にもあるようにも見える。
なお、これらのトレードオフの話をこの批判集に適用するならば、「批判集の記述」(手段) における問題性は「『進化思考』を読んで間違った理解を得てしまった人への処方箋となる」また「太刀川氏本人に読んでもらうことで彼の理解及び諸行為を改めてもらう」といった目的によって正当化される限度を超えていると思ったので、私は本稿を長々と書き続けた。
また、太刀川が「意見書」の撤回と同時に「批判者の皆さん」に向けて「納得がいかなければ、次はいきなり批判ではなく、質問してください」[137]という文章を公開したのを受け、昆虫の進化発生学を専門とする静岡大学の後藤寛貴博士がTwitter上でこう質問した。
何かあればまずは質問して欲しいとのことですので、質問します!
「誤読」という言葉は、読者に非があると暗に仄めかす言葉に感じま
すし、「誤植」という言葉は、誤りは技術的なエラーであり自分に過
ちはないというニュアンスを感じます。やはり、本心としてはそのよ
うにお考えでしょうか?[138]
もし、そうでないのなら、この語句の選択はさらなる対立を招くよう
に思います。これは(僕を含め)批判している人の多くは「多くの人
に誤解を与えるような文章は、書き手の責任」という文化で生きてる
からです。[139] まずは質問して欲しいとのことですので、お言葉に
甘えてもう一つ質問します!
「学問を権威付けに利用して自分の論を補強する」という風に見えた
ことが批判を招いた一因と思います。ご自身はどの程度その構造(権
威付け)に自覚的でしたか?また、そのような指摘についてどう思わ
れますか?[140]
清々しいほどに直球な質問であるが、これに対して太刀川は回答することなく後藤をブロックするという実に残念な行動を取った(図27*)。対話の呼びかけはただのポーズであったのだろう、自らの手で対話を端から閉じてしまった。
💛ここで太刀川氏が言っている「質問してください」というのは進化思考の内容に関する質問だろう。そこまでの経緯として、太刀川氏視点では批判者が誤読しており適切な批判空間になっていないので、まず食い違いを減らすために分からないところや曖昧なところがあれば聞いてください、ということのように見える。そしてそれに対して進化思考の内容そのものではなく、言葉尻を捉えたり、権威付け云々などの批判が来れば、そりゃ答えたくなくなるだろう。まだ内容の善し悪しについて適切に議論できていないと太刀川氏には見えているのに、「「学問を権威付けに利用して自分の論を補強する」」という風に見えた」と言われたら太刀川氏がどう思うか、後藤氏と伊藤氏は分からないのだろうか?誤読しているように見えるのでお互いの認識をすり合わせましょうというところに、「生物学の不適切な援用で権威付けに見えますよ」というようなことを言ってくる人とはコミュニケーション不可能と取られてもしょうがないだろう。「対話の呼びかけはただのポーズであったのだろう、自らの手で対話を端から閉じてしまった」とのことだが、後藤氏のそれは対話にはなっていないのである。ただ自分が言いたいことを言っているだけである。
ちなみに私は伊藤氏にX (旧twitter) 上でp.108のベイツ型擬態についての批判は誤りではないかと聞いてみたが、残念ながら返信は無かった (いきなりそれを聞いたのではなく、それまでに別の内容の会話が続いているところで、「ちなみに、、、」というような感じで切り出した流れである[57])。松井氏と伊藤氏は批判集p.23で「当書の記述に対する、より科学的に厳密な検討はもとより、本稿で我々が指摘した各論点に関しても不備を見つけた方にはさらなる批判をお願いしたい。」と述べていたが、伊藤氏の言葉を借りればこれは「ただのポーズ」だったのだろうか?
なお、本稿初期版公開後、私はすぐに批判集の著者らにtwitter上で連絡をしたが、伊藤氏と松井氏から多少間接的応答があったのみで[211][96]、詳細な応答は永らくなかった。またつい最近(2026/1/31)になってやっと割と詳細な応答記事を伊藤氏が公開したが[92]、残念ながら記事内の反論のほとんどが的外れであった[97]。また伊藤氏は記事内で「また、「確かに」と思う部分もないわけではない。」という記述に続けて、批判を受け入れる箇所を述べていくが、なんとそれは「第五章の野球ゲームと野球」と「引用における無断の下線付加」の2点のみである(しかも下線付加については林氏のそれについてだけ述べ、伊藤氏自身が同様のミスを犯していることには一切触れていない)。またそれ以降の部分でベイツ型擬態に関する部分にケアレスミスがあったかのようなことは述べているのだが、それも私にはそもそもケアレスには見えないものである。という訳で、本稿公開後半年以上過ぎた段階においても伊藤氏は些細なミス3点しか誤りを認めておらず(特に野球ゲームは些末過ぎる話である)、これは私には到底理解しがたいものである。それとも伊藤氏はそれ以外の批判についてはその全てを否定し切れると本当に思っているのだろうか?また、松井氏に関しては本稿公開直後の間接的応答[96]以降は、私の記事については一切言及していない。林氏に至っては私の記事公開以降は進化思考に関する発言を一切行っていない。そういう訳で、私にはこういった批判集著者らの態度は「当書の記述に対する、より科学的に厳密な検討はもとより、本稿で我々が指摘した各論点に関しても不備を見つけた方にはさらなる批判をお願いしたい。」(p.23) や「本書がどなたかの文献リストに信頼できる参考図書として掲載されることを夢見ているが、文献リストに限らず、本書の内容に疑問や認識の間違い、改善を要する点があれば批判をお願いしたい。」(p.363) という批判集における記述とはあまりにも言行不一致だと思うのだがどうだろうか?それともやはり伊藤氏の言葉を借りればこれらは全て「ただのポーズ」だったのだろうか?(なお、伊藤氏に関しては私が匿名かつ『進化思考』未読であることを以ってこれ以上の応答を基本的に拒否する趣旨の発言をしているが[92]、私からすればこの主張の納得性は低い。詳細はその伊藤氏の記事への応答記事で書いた[97]。また少なくとも『進化思考』未読に関してはver.2.0.0にて解消される)。
後藤の書いた「多くの人に誤解を与えるような文章は、書き手の責任」という部分は、デザインで言えば「多くの人に伝わらないデザインは、デザイナーの責任」となるだろう。この文章であれば太刀川も同意するのではないだろうか。デザイナーを代表するであろうJIDA理事長の立場にある者として、自らの誤りを認めずに読み手の「誤読」だと強弁するのも残念な振る舞いである。
💛似たようなことを既に何回も書いたが、この批判集の著者ら含めアカデミア系の批判者には太刀川氏を「よくある進化への誤解」に安易に当てはめようとするバイアスが効いており、それによって誤読している節があるように見える。そしてそのように文章そのものをよく読まずにバイアス的に安易に解釈する態度は批評者としても研究者としても非常に問題のあるものである。
またここまで長々と指摘してきたように、単なる誤読に基づく不適切な批判もこの批判集には多く見られる。したがって「自らの誤りを認めずに読み手の「誤読」だと強弁する」に関しては、もし太刀川氏が妥当な批判すら受け入れていないのであればそれは問題だが、この批判集及びその他資料を見る限り、「読み手の「誤読」」というのは完全な強弁ではなく、多くは事実であるように思われる。次の批判も単なる誤読の例である。
📕『進化思考』を読んだので追記する。ここまで数々の追記をしてきた通り、『進化思考』の該当部分を確認することで批判集著者らの誤読であるとほぼ言い切れる箇所は非常に多い。
他にも京都大学の教授であった櫻井芳雄博士はその著書『まちがえる脳』(2023)の中で、「進化思考」を取り上げ、
なお、ヒトが創造性を生むための仕組みを、このような進化のプロセ
スに準えた「進化思考」という考え方がある。つまり、突然変異の良
し悪しは、最初はわからず、ほとんどは単なるエラーとなり消えてい
くが、時として生存に有利な個体をも生み出すという事実から、アイ
デアの良し悪しも最初はわからないが、偶然に任せエラーとなる覚悟
でどんどん出していくと、時としてヒットするアイデアが出てくると
いう考え方である。脳の信号伝達の実態は、この考え方を支持してい
る。[141]
と書いている。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
もっと言うならば「ヒットするアイデアが出てくる」と書くのも不正確だろう。「ヒットする」かはアイデアの段階ではわからない。「(その段階では)良い(と思える)アイデア」が出てくるだけである*。
💛さすがにこの指摘はおかしいだろう。「ヒットするアイデアが出てくる」というのは単に「後にヒットするアイデアが出てくる」という後付け的な客観的事実を述べているだけであって、アイデアが出てきた時点での主観的認識の話はしていない。伊藤氏の論理では、例えば「売れる企画」といった表現も誤りになってしまう (企画段階では売れるかどうかは分からないので)。また「アイデアの良し悪しも最初はわからないが」という記述とはやや矛盾するが、「ピンとくる」という意味で「ヒットする」と言っている可能性も無くはない。
このように普通の人ならなんなく理解できる表現に引っかかっていることからも、残念ながら伊藤氏の文章読解力は本人が思っているほど大して高くないように見える (もちろん根拠はこの例だけでない。本稿では伊藤氏含む批判集著者らの誤読についてここまで数多くの指摘をしてきた)。先ほど『進化思考』の誤読云々について太刀川氏に責任があるかのようなことを言っていたが、少しは自身の能力を疑ってみてはどうだろうか?
以上のように、少なくとも正誤表から読み取れる著者あるいは出版社の姿勢からは、残念ながら増補改訂版での劇的な改善は期待できない。
💛伊藤氏は本稿への応答記事[92]にて「というわけでこの部分は次回改訂で書き改めようと思う。」というように改訂する意志があるかのように述べているが、その記事内では本稿の指摘に対してたった3点(しかも些細な)しか誤りを認めず、主要な反論もそのほとんどが的外れで間違ったものであるため[97]、現状適切な改訂が行われるようには思えない。また、松井氏に関しても2026/2/26に伊藤氏の記事[92]に対する河田氏の応答記事[98]に関して「林・松井を名指しして「適応概念の議論をよく把握していないと思われる」とありますが、具体的に私のどの記述のどこが誤りでしょうか。誤りがあれば改訂しますよ!」と述べているが[99]、これまで「適応」の定義に関しては私と太刀川氏が何度も指摘してきた訳であり、未だにこのような発言が出てくる理由が私には全く理解できない(またそもそも河田氏はその記事内でそれをちゃんと説明している)。もし仮に本当に未だに問題点を全く理解できない故の発言であれば、やはり現状としては適切な改訂が行われるようには見えない。
なお、松井氏はその[99]のツイートに続けて、以下のように「伊藤先生の理解は私と林さんの入れ知恵を鵜呑みにしているせいだという憶測で私をも批判していますが、これも「事実を十分に確認しないまま、憶測に基づいて批判を行うことは、研究者倫理の観点から問題がある行為」とはお考えになりませんか。」と河田氏を批判しているが[228][229]、私は河田氏のそれはそれほど問題のあるものとは思わない。まず、少なくとも私がこの松井氏のツイートの3時間後くらいに河田氏の記事を閲覧した限りでは、河田氏は「入れ知恵を鵜呑みにしている」とは述べていなかったはずで、該当しうるような記述として「おそらく共同批判者である林亮太氏および松井実氏の見解をそのまま受け入れているのであろう。」という記述はあったものの[230]、これもあくまで「おそらく~であろう」という推測であって、別に断定的に述べている訳ではない。また、そもそも河田氏のその記述は「この分野の潮流は門外漢には分からない」(正確には「この辺りの業界の潮流は門外漢には肌感覚でわからない」[92])というような伊藤氏の記述に対するものであり、そのように自分で門外漢と言っているのに自身の理解に誤りがないかのような自信満々な態度 (「安心してください、間違ってませんよ」[92] や「「適応」への指摘は完全に間違いだし」という指摘は間違いだし」[92] など) を取っているのであれば、林氏と松井氏の主張を鵜呑みしているのではないかという推測を述べることはそこまでおかしくないだろう。(ただ、私に見落としがあったり、私が閲覧した時点ですでに修正されていたりなど、松井氏が批判している記述と私が見ている記述が異なる可能性はある。しかし、もし仮に松井氏が「おそらく共同批判者である林亮太氏および松井実氏の見解をそのまま受け入れているのであろう。」を指して「入れ知恵を鵜呑みにしている」と言っているのであれば、それはニュアンスの不適切な改変であるように思う)。なお、このおよそ一カ月後(2026/3/28)に松井氏は「そういえばこの件、伊藤先生が私や林さんの意見を鵜呑みにしているという記述は憶測だったとして修正いただきました」というツイートをしているが[231]、個人的にはもし仮に河田氏が「入れ知恵を鵜呑みにしている」という表現そのままを述べていなかったのであれば修正する必要はなかったように思う。また仮に「入れ知恵を鵜呑みしている」と言っていたとしても、それが推測の形であるのならば、上記説明したような文脈の中での記述としてそこまで問題はないと私は感じる (なおその[231]のツイート後に河田氏の記事を確認したが、河田氏の記述は松井氏の[98]のツイート後に私が確認したときと特に変わっていないように感じる。したがって、私が初めに確認した時点で既に修正がされていたか、または私が気づいていないだけで松井氏とのやり取り後に修正がされたか、またはここで松井氏の云う「修正」というのが記述の修正ではなく単に認識のすり合わせや訂正のことを言っているかのいずれかだろう)。
以前「Note記事にコメントがあるならメールで」とメールをいただきましたが、ご自身には適用なさらないんですか。伊藤先生の理解は私と林さんの入れ知恵を鵜呑みにしているせいだという憶測で私をも批判していますが、これも「事実を十分に確認しないまま、憶測に基づいて批判を行うことは、
— minoru matsui (@minoru_matsui) February 26, 2026
研究者倫理の観点から問題がある行為」とはお考えになりませんか。なお『進化思考』の著者は批判書の出版停止や書籍回収を要求する法的措置をとられていますが、その「適応研究者」の倫理は論じませんか。慶應義塾大学の特任教授を慶應義塾大学のガイドラインをひいて批判してはいかがですか。
— minoru matsui (@minoru_matsui) February 26, 2026
また、このように松井氏は他人の物言いには非常に鋭く突っ込むが、この批判集にもp.54の林氏の「捏造」、p.90の伊藤氏の「隠蔽」、p.154の松井氏の「何食わぬ顔で改変」といった、太刀川氏の意図的行動を不適切に断定しているものが存在する訳で、他人を糾弾するのであれば、自らのそういった記述にも鋭い自己糾弾の姿勢を取るべきではないだろうか?少なくとも河田氏の「鵜呑み」よりも批判集著者らの「捏造」「隠蔽」「何食わぬ顔で改変」の方がその言及されている行為の問題性は高い訳で、もしそれを明確な根拠なく断定しているのならば、その断定の問題性はより高い。また以上に加えて、学会発表・批判集出版を通してこれまで太刀川氏のことを非常に厳密に強く批判してきた一方、本稿の指摘にはまともに応答しない点から言っても、申し訳ないが「他人に厳しく、自分に甘い」といった批判態度を感じずにはいられない (本稿の指摘のほぼ全てを否定し切れると本当に思っているのであれば、態度そのものは問題ないが)。なお、伊藤氏に関しては上記の通り内容はともかく一応多少は応答しているのだが、無断下線付加に関して自らのミスには言及していなかったり、それなりのミスをケアレスミスと称したりといった応答を見るに[97]、やはり「他人に厳しく、自分に甘い」と感じずにはいられない。また林氏に関しても本稿公開以降彼が一体何を思って進化思考について一切発言していないのか分からないが、当時あれだけ熱心に太刀川氏を強く批判していたのに本稿への応答は間接的なもの含めて一切ないというのは、やはり「他人に厳しく、自分に甘い」と私は感じてしまう。
本書では『進化思考』著者の衒学的な姿勢、つまり学術の権威の借用(しかもそれがほとんど誤っているというのがさらにややこしいのだが)を批判してきた。
💛伊藤氏は「衒学」の意味を理解しているのだろうか?内容の正確性は置いておいて、太刀川氏本人は彼の主張に関係あると思って理論的・例示的に援用しているのだから、それは衒学ではないし、学術の権威の借用ともならないだろう。むしろ私にはこの批判集で伊藤氏や松井氏が度々行っているような話の本筋とは特に関係ない小噺への脱線や敢えて小難しい言い回し取ることの方がよっぽど衒学的に見える。例えば、p.86の伊藤氏の「「彼」…? 夕方を黄昏(誰そ彼)時と言うのの逆で明け方を「彼は誰」時と言うそうだ。ここでの「彼」は誰ぞ。スペリーかガザニカか、はたまた図1-3の引用元のソボッタ(そもそも何故別人の書いた図を引用するのか理解できないのだが)なのか。」の二文目の黄昏云々は明らかに不要だろう。またp.91の松井氏の「生物の進化は進化というクラスの1インスタンスである。」における「クラス」や「インスタンス」は主にプログラミングなどで使われる言葉であり一般読者には分かりづらいだろう。クラスはまだある程度一般的に使われるものの、インスタンスは日常的にはほぼ見ないと言っていい。そういう小難しい用語を使う行為は知識のひけらかしまたは自分の主張を大きく見せる行為と見られ、衒学的と言われても仕方ないものである。後はp.106の伊藤氏の「1981年10月に登場した「埼玉県の吉田くん」考案の「ウォークマン」をモチーフとした悪魔超人ステカセキング[28]は「超人大全集」のカセットテープに加えてラジオを使った必殺技「地獄のシンフォニー」も使う[29]で、そのイメージが強いのかもしれないが、ラジオチューナー内蔵の「ウォークマン」WM-F2が登場するのは1982年10月である。」とか (余分な情報が多過ぎる。「「埼玉県の吉田くん」考案」「超人大全集」「地獄のシンフォニー」は省いていいだろう)、p.112の伊藤氏の「藤本弘*の天才ぶりをこれ以上ないくらいに示しているとも言えよう」とか (わざわざ有名でない本名の方で書く必要がない。ページ下部にある「*」の注釈で「言わずと知れた藤子・F・不二雄(*1933―†1996)とドラえもんのことである。」というように種明かし的な二度手間を取っている。藤本弘の名を出す必要があると思ったとしても、普通は「藤子・F・不二雄 (本名:藤本弘)」などと書くだろう)、p.114の松井氏の「たとえばなにかを仮定して解けないはずのナヴィエストークスを解けるようにする、とか、モアレフィルターなくして画質向上なら退化かも。いや、前者は違うな…。」とか (モアレフィルターはギリ分からなくもないが、ナヴィエストークスを一般人が知ってるはずがない。「たとえば」という例としてあまりにも不適切である。しかも後に「いや、前者は違うな…。」と言っており、違うと思うなら初めから書くなという話である。自分の知識や思考能力をひけらかしたいだけのように見える)、p.115の伊藤氏の「内臓(焼肉)で言うならば肺(フワ)や腎臓(マメ)が左右2つあることの方がまだ「増殖」の例と言えるように思う」とか (その直前で牛の胃袋が「増殖」でないということを言うために、焼き肉でもミノとハチノスは触感が違うという話をしていた後の発言だが、ここでは肺と腎臓は左右で同一と言いたいのだから焼肉における名を書く必要がない。よってただの知識自慢である) が例として挙げられる。
まだまだたくさんあるのだが、これだけ見ても伊藤氏が太刀川氏のことを衒学的と批判できる立場にはいないことが分かっていただけるだろう (他者を批判するのに自分の立場は関係ないという考え方はあるが、一般社会では受け入れにくいのが事実である。また仮にその主張を受け入れたとしても、先ほど説明したようにそもそも太刀川氏のはあまり衒学的とは言えないものであり、それに対して上記のような明らかな衒学的発言をする伊藤氏が批判するならば、こっちは「いやいや」と言いたくもなる)。
なお「(しかもそれがほとんど誤っているというのがさらにややこしいのだが)」に関しては、ここまで本稿において指摘してきたように、批判集における批判には著者らの生物進化等に関する理解不足や単なる誤読による不適切なものも多いので、ほとんど誤っているというのは言い過ぎだろう。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、『進化思考』で持ち出される事例や援用される理論は太刀川氏の主張に十分関係しうる(話の本筋とは関係ない余分な情報ではない)ものがほとんどであった (「ほとんど」というのは、そうでない例はパッとは思い付かないが、もしかしたら探したらあるかもしれないという意味でである)。また個人的な感覚の話としても太刀川氏の記述に特に衒学臭さは感じなかった。
少し希望らしきものが見えるとすると、太刀川が新しく始めた活動では相変わらず「環境に適応進化した生物の身体と行動に例える」と進化学や生物学を援用してはいるものの、造語を使い出したことだ。
| そもそも適応は進化学で使われる言葉だ。僕はデザイナーだが適応と
| いう概念には深い思い入れがある。なぜなら適応は、生物が環境の中
| で美しく機能的なデザインへと進化した現象のことだからだ。〔中
| 略〕そんな僕にとって気候変動への適応策も進化から学ぼう、という
| 発想はごく自然なものだった。
| 昨年度、僕たちは環境省のサポートを受け、気候変動適応策の戦略を
| デザインした。有識者のラウンドテーブルには生態学者や防災学者な
| ど、各分野を代表する約10人の英知が集まり、深い対話がなされ
| た。そして生物の身体と行動の適応進化から、気候変動に適応した都
| 市コンセプトを抽出するADAPTMENT(アダプトメント)とい
| う考え方を3月下旬に発表し、世界に発信しようとしている。[151]
本書第2章の冒頭の説明にあるように、進化学における「適応」とは動詞ではなく「進化の結果生じた性質のことを指す」のである。したがって、「気候変動への適応策」の「適応」は進化学における「適応」ではない。進化学での「適応」は英語では「Adaptation」であるが、ここでは「ADAPTMENT」という言葉を造っており、少なくとも英語では進化学とは無関係の別概念だとわかる。
💜何度も指摘してきたが、ここで伊藤氏が主張している「進化の結果生じた性質のことを指す」という「適応」の定義は複数ある適応の定義の中の一つに過ぎない。確かに「気候変動への適応策」における「適応」が厳密に生物進化における「適応」と同一でないのは確かだが、非歴史的定義やプロセス的定義を取るときアナロジーとしてはある程度意味を持つだろう。またそもそも気候変動対策における「適応」という語は生物学用語の「適応」もある程度は意識したものなのかもしれないが、一般用語としての「適応」に由来するところもそれなりにあるのではないだろうか?実際、IPCCはAdaptationを「In human systems, the process of adjustment to actual or expected climate and its effects, in order to moderate harm or exploit beneficial opportunities. In natural systems, the process of adjustment to actual climate and its effects; human intervention may facilitate adjustment to expected climate and its effects. See also Adaptation options, Adaptive capacity and Maladaptive actions (Maladaptation).」[232]と定義しており、これは調整や順応的な意味が強く、特に生物学のそれを強く意識している訳ではなさそうである。また別の資料では「Adaptation refers both to the process of adapting and to the condition of being adapted. The term has specific interpretations in particular disciplines. In ecology, for example, adaptation refers to changes by which an organism or species becomes fitted to its environment (Lawrence, 1995; Abercrombie et al., 1997); whereas in the social sciences, adaptation refers to adjustments by individuals and the collective behavior of socioeconomic systems (Denevan, 1983; Hardesty, 1983). This chapter follows Carter et al.(1994), IPCC (1996), UNEP (1998) and Smit et al. (2000) in a broad interpretation of adaptation to include adjustment in natural or human systems in response to experienced or future climatic conditions or their effects or impacts—which may be beneficial or adverse.」[233]というように生物学用語としての「適応」に言及しつつも、加えて社会科学用語としての「適応」にも触れた上で、環境条件・状況への応答一般として適応を広く解釈することを述べている。そういう訳で気候変動対策における「適応」はある程度は生物学のそれを意識したものではあるのだろうが、生物学用語としての「適応」と純粋に比較して「それ生物学でいう適応じゃないですよ」と指摘することにあまり意味があるようには私は思わない。なお、今は太刀川氏が生物学における適応に関して明確に言及しているために、両者が混同されやすくなっているというのは確かではある。
また、「少し希望らしきものが見えるとすると、 ~(中略)~ 造語を使い出したことだ。」や「進化学での「適応」は英語では「Adaptation」であるが、ここでは「ADAPTMENT」という言葉を造っており、少なくとも英語では進化学とは無関係の別概念だとわかる。」とのことだが、調べて見るとこの「ADAPTMENT」というのは、適応を意味する「ADAPTATION」、開発を意味する「DEVELOPMENT」、調整を意味する「MANAGEMENT」(など) を組み合わせた造語だそうなので[234][235]、単に生物学で云う「Adaptation (適応)」とは異なる独自概念ということを言いたくて敢えてAdaptationを避けたという訳ではないだろう。また、別の記事では「地球環境に適応(=ADAPT)しながら、都市を開発(=DEVELOPMENT)していく。そんな意味が込められています。」というように少し異なる話もしているが[236]、これも単なるAdaptation避けではないということに関してはそれを支持するものである。
ところで、上の文に添えられた図28[151]は人間界と自然界を別の集合としている。「人間界∩自然界=適応」、という定義をとりあえず受け入れるとしても、
| 私たちも自然の一部だから、創造もまた自然現象には違いない。
| (p.5)
という『進化思考』での主張とは相容れないことになる。この創造も自然現象だから、というのが進化と「創造性」を無理やり結びつける唯一の根拠だったと思うのだが、ADAPTMENTでは宗旨替えをしたのだろうか。
💜ここでの「上の文」というのは一つ上の指摘部で伊藤氏が引用している「ADAPTMENT」に関する太刀川氏の記述のことであり、また図28というのはその記事内に置かれているベン図的なものである(画像12, [237])。それで確かに図28を見ると、人間界と自然界は別物であり、これは人間も自然の一部という『進化思考』内の記述と矛盾するようにも見えるが、「界」という語や「気候変動への適応策も進化から学ぼう」「気候変動に適応した都市コンセプトを抽出するADAPTMENT(アダプトメント)という考え方」「緩和と適応」[237]といった文脈からするに、ここでの「人間界」「自然界」というのは人間が住んでいる範囲や人間が自由に制御できる範囲などで分けられるような日常感覚的及び社会実践的なものであるように思われる。実際、ある記事[236]では似たような図において、自然界が「自然環境」に、人間界が「人間環境」になっており(画像13)、やはりここでの「自然界」というのは「人間を含む天地万物の存在する範囲」[238] といった意味ではない可能性が高い。また、その記事[236]の図では、図28で「適応」だったところが「自然災害」となっているが、「人間環境」に「レジリエントでない」という文言が付加されているのを見るに、これは人間環境がレジリエントでないと自然環境との間に軋轢が生まれそこが自然災害として現れるが、人間環境が適切にレジリエントであるときは環境との間に「適応」が生まれ得るということであるように思われる。そういう訳で、この辺のADAPTMENTに関する記述や図は『進化思考』の記述とそれほど矛盾する訳ではなく、「ADAPTMENTでは宗旨替えをしたのだろうか。」という伊藤氏の解釈の妥当性は低いように思う。
批判をするにあたって、批判をする対象は言動そのものであるべきで、人格であってはならない、とはよく言われることである。また、誰が言ったかではなく何を言ったかが重要だ、ともよく言われる。だがこの二つは微妙に違う。
言動の批判は、そもそも誰の言動かが問題になることが多く、言動だけを切り離すことが難しい。例えば我々が『進化思考』を批判する動機の一つに、太刀川が公益社団法人であるJIDAの理事長という官民問わず影響力のある立場にあり、2025年の大阪万博にも関与し、『進化思考』が多くの人に読まれているから、ということが挙げられる。無名のデザイナーによる少部数の本であればわざわざ相手にしていなかっただろう。
同様に私が『進化思考批判集』を批判した動機は、博士号持ちの研究者らがビジネス本を批判するという構図が、それなりの影響力を持つと思ったためである。
誰が言ったかは、その言説の「信頼性」に影響する。説得力と言っても良いかもしれない。我々が著者プロフィールに博士と書いて専門性を有していることを示しているのも本書の「信頼性」を高めるためである。
💛しかし残念ながらここまで指摘してきたように、この批判集は博士号を自負できるような内容になっていない。生物学的にも文章読解的にも誤った指摘が数多く存在する。博士号という権威性によって数多くの読者が間違った説明を信じてしまうことだろう。
そもそも「専門性を有している」と言っているが、松井氏と伊藤氏は生物進化および生物学一般は専門外なのではないだろうか?p.9の記述を見るに、伊藤氏は修士にて植物の研究をしていたらしいが動物 (および生物進化?) については別に専門ではないように見える。また松井氏は文化進化に関する研究をしているらしいが、生物学一般については専門外であるようだ。別に専門外のことは何も言ってはならないとは思わないし、正しいことを言ってるならば別にいいのだが、ここまで指摘してきたように間違った説明があまりにも多過ぎる。批判するならそれなりに調べて確実的なことを述べて欲しい。「博士号」が不正直なシグナルとして働いてしまっている (博士号は専門外に関する主張まで保証するものではないが、一般人はその権威性にやられて専門外の話も信用する)。
なお、林氏は正真正銘生物学 (進化・生態・分類) が専門のようなので (p.9参照)、第二章における彼の主張を多くの人が無批判に信用してしまうことだろう。
だが、その「妥当性」、確からしさはまた別だ。「信頼性」が高い研究者の集まりである学会では、誰が書いたかわからない無記名の状態で論文の査読が行われ、その内容の「妥当性」が評価される。国家資格である医師の「信頼性」は一般的に高いと考えられるが、その所見の「妥当性」は必ずしも同じではない筈で、同じように「信頼性」が高い別の医師にセカンドオピニオンを求めることも少なくないだろう。
💛批判集は2023年12月15日に発刊されており、Twitter (X) において『進化思考』を批判する人々の間で大いに受け入れられ読まれていたように見えるが、現在2025年5月8日においても、Twitter(X)上での批判的意見は私が調べた限りでは一切存在しない(Twitter以外だと後述する森中氏のブログ[71]にて林氏担当の第二章に対して指摘が行われている)。リツイートや感想等を述べているアカウントには大学教員や科学コミュニケーターなど識者寄りのものも多数存在していたが[156][239][240][241]、彼らも特に批判的意見は述べていない。彼らが批判集を本当は読んでいないのか、それとも読んだ上で問題点を見つけられなかったのか、問題点を見つけたけど敢えて黙っていたのかは分からないが、この間違いに溢れた批判集の「妥当性」をきちんと評価して記す必要があると思い、私はここまで長々と批判し続けてきた。
無意識のうちにしてしまいがちなのは、「ポジティブな人格批判」とでも呼ぶべきものである。ネガティブな人格批判、人身攻撃は不適切だと気付きやすい。ところが、これが逆の場合はどうだろう。間違いのないようにしたいと発言しているからといってその人の言説の妥当性には直接は関係がないし、真剣だからといって、社会のため、未来のため、というスローガンを掲げているからといって、その人の言説の妥当性には直接関係がない。これらは人格を高評価したことでポジティブなバイアス、いわゆる「光背効果halo effect」がかかってしまっているのである。
💜この批判集に関しても同様である。批判集の内容紹介には「山本七平賞を受賞した巷で話題の本『進化思考』の疑似科学を徹底的に検証。日本インダストリアルデザイン協会最年少理事長の衒学的物言い、論理の破綻、目に余る不勉強に対してデザイン界と進化学界から3人の博士が立ち上がり、一刀両断。自分の得にはならない、だが誰かがしなければならない、雪かきのような重労働。」[3] と書かれており、また批判集の「まえがき」p.8でも「実際のところ、「学者」すなわち研究者にとって、擬似科学を相手にするのは「雪かき」[13]に近いもので、誰かがしなければならないけれど、やったところで得をするわけではない、面倒な重労働です。ブランドリーニの法則(the bullshit asymmetry principle)[14] として知られるように、出鱈目に反論するのに必要なエネルギーは出鱈目を生み出すよりも桁違いに大きいのですが、擬似科学を矯正したところで科学を前進させるわけでもないので研究者としての「業績」としてはほとんどカウントされません。研究者の時間も有限なので、そのようなことに時間を使わずにスルーしたいのが本音です。」と述べられているが、このように自分の得にはならないけど、社会のために自ら立ち上がり、雪かきのような重労働を頑張ってしていたとしても、これは批判集の内容の妥当性には直接関係ない。しかし、専門知識が大してない人はこういう文脈を受けて、批判集の内容を無批判に受け入れてしまうだろう。
リアルタイムで双方向性があるのがネット(正確にはWeb2.0)の利点であり、また集合知、特に専門家による集合知が得やすいという点で、炎上リスクを差し引いても言論空間としてのネットの優位性は揺るがないように思う。本章の題名として掲げた「どこで批判をするべきか」という問いに対しては、いささか凡庸な答えではあるが、やはり「ネット上でするべき」ということになるだろう。これまで見てきたように、ネット上でもSNS、特に日本ではTwitterに勝るものはないように思われた。2ちゃんねるにも特に初期(2000年代)には少なからぬ数の専門家がいたと思われる*が、「板」やスレッドごとに分断されていた。Twitter(や他のSNS)が優れるのは、同一タイムライン上に多くのユーザーの投稿やニュースの引用など様々なものが表示されることで、他の属性(クラスタ)の人、他の領域の専門家と交わりやすいという仕組みである。
💛言論空間としてかつての「2ちゃんねる」を高評価するかのようなことを述べているが、これらはtwitterも含めて匿名プラットフォームである。一方、伊藤氏は本稿筆者が匿名であることを非常に問題視しており[56][92]、ここには少々矛盾のようなものが存在するように思う。この辺の匿名云々については伊藤氏の応答記事[92]への返答記事[97]で詳細に書いたが、まず本件は書籍に関するやや開けた学術的批判の文脈の話ではあるものの、やはり匿名プラットフォーム上の議論において匿名を問題視するのはあまり上手くないと思うのと、また世の中では実名を出さずに(批判含む)社会活動をしている人も多くいること(例えば、伊藤氏が以前からそのblog内容に驚嘆しているらしい読書猿氏もそうだろう[242])、また私は基本的に内容に関して批判しており匿名を盾に卑怯な批判(誹謗中傷や過度な人物批判)をしている訳ではないこと、またそもそも批判集の著者らは自ら批判(及びそれによる改善)を求めていること、などから匿名を応答拒否の理由とすることの納得性は低いように思う。確かに批判するのならば匿名より実名が望ましいというのはその通りであり、そこは私の欠点の一つではあるのだが、太刀川氏や批判集著者らの主張や批判の妥当性を評価するという文脈において、匿名か実名かというのは本当にそこまで重要なのだろうかと個人的には思う。(例えばあくまで想像の話に過ぎないが、仮に私が何かしらの書籍を出版してそれに対して本稿に相当するようなクリティカルな匿名批判が来たのならば、私はある程度真摯に応答するように思う)。
第三節である「Ⅲ 文化進化学とデザイン」 (第7, 8, 9 ,10章) には『進化思考』への直接の批判がないので、本稿では取り扱わない。
あとがき (松井 実)
『進化思考』も批判をうけて2023年12月末の増補改訂版の出版を予定してはいるが、残念ながら問題の多い第1版は約1年半出版され続けた。我々が指摘したような問題点が改訂版で全面的に改善することもあまり期待できない。そのような状況を鑑みて、ウェブに散在する我々の関連文献を相互に関連させつつ引用しやすい形でひとまとまりの書籍とすることにした。
💛批判集も同様である。私が本稿の初期バージョンを公開したのは2025/6/11なのだが、それから10カ月以上経った現在(ver.2.0.0公開時点)も特に改訂もなく販売・公開され続けている。またその間も内容に関しては伊藤氏のわずかな応答があったのみである[211][92] (詳細な応答は半年以上経った2026/1/31が初であり、かつその応答記事内の反論はそのほとんどが的外れであった[97])。また現状(ver.2.0.0公開時点で)批判集の著者らが認めている誤りは「野球ゲームと野球」と「引用における無断の下線付加(しかも林氏のミスだけ)」と「ベイツ型擬態におけるケアレスミス(私にはそもそもケアレスではないように見える)」の3点のみである[97]。(なお、厳密には林氏は批判集出版後に彼が師匠と呼ぶ人物からrunaway process云々に関して一点見落としがあるという指摘を受け、それを認めた趣旨のことを述べているが[150]、本稿への応答という意味ではやはり上記の3点のみである)。伊藤氏の応答記事[92]では今後改訂される可能性があるかのようなことが述べられているが、以上のような些細・些末な誤りしか認めていないことからするに、適切な改訂はあまり期待できない。また松井氏は先日2026/2/26に伊藤氏の記事[92]に対する河田氏の応答[98]に関して「「林・松井を名指しして「適応概念の議論をよく把握していないと思われる」とありますが、具体的に私のどの記述のどこが誤りでしょうか。誤りがあれば改訂しますよ!」」と述べているのだが[99]、適応の定義に関してはこれまで私及び太刀川氏が何度も指摘してきた訳であり、未だにこのような発言が出てくることが全く以って理解できない(しかもそもそも河田氏は記事内で何が問題か述べている)。また林氏に至っては本稿公開後は進化思考に関して一切発言しておらず、騒動当時あれだけ強く批判を繰り返していた彼が今何を思っているのか全くの謎である。
また以下の伊藤氏と松井氏のツイートからするに[243][229]、どうやら太刀川氏は批判集の販売停止や回収を要求しているようだが (その他様々な要求との選択式なのか、またはそれぞれを個々に要求しているのかは分からないが)、もし仮に批判集著者らからの謝罪が一切なく、かつ改訂等の意志も見えないようであったのならば、そういった要求をするのもそれほどおかしいものではないように私は思う。本稿でこれまで長々と指摘してきたように批判集には『進化思考』の評価を不当に貶めるような誤った指摘が余りにも多いので。(伊藤氏のツイート内の「記述4ヶ所」の詳細はこの話に関する伊藤氏の詳細note記事[244]に書かれており、そのいずれもが誹謗中傷"的な"ものであるため、おそらく太刀川氏サイドはここではあくまで法的な名誉棄損を意識した催告をしているのではないかと思われるが、その他の多量の誤読や初歩的な指摘ミスや緩めの攻撃的表現とか、そういった法的にはほぼ裁けないものの集積も多少は念頭に入っているのではないかと個人的には思う。なお、この辺の伊藤氏の応答の問題点に関してはtwitter(X)にて指摘した。参照[245])。
また、太刀川氏も「私たちは学術の価値と言論の自由を尊重しています。また言論の自由には誤解する自由があります。しかし学術の名を借りて誤った内容に基づく誹謗中傷を繰り返す行為は別物であり、適切に対応せざるを得ません。」[246] というように、誤りも含め学術における言論の自由を基本的に認める姿勢を取っており、学術における自由な議論を軽視して安易に販売停止を求めている訳ではないように見える。
なお、この辺の学術における発言の自由に関してはtwiter(及びそのまとめ記事)で詳しく書いたが[247][110]、確かに学術の場においては言論の自由はかなり許されており、たとえ誤った内容の批判をしたところで大抵の場合はそれは批評や論評として扱われるため、法で裁くことはできないし、学者内でもそれほど問題視されることはない。しかし、それはあくまでアカデミアでの話であり、本件のように一般人の書籍を学者が批判するといった場合はやや話が異なるだろう。すなわちそのような場合、一般人側は相対的に能力が劣りがちのため批判の妥当性の判定が難しく適切な応答がしにくい、また第三者からすると学者の主張の方が正しいと思われやすいため、そのような非対称なパワーバランス下では言論の自由に関してアカデミアレベルの基準をそのまま適用するのは不適切であるように個人的には思う。すなわち一般人を批判する際には学者側は自らの批判が相対的に強いことを自覚し、批判する前にその批判が本当に妥当なものなのかをより慎重に検討し、かつ批判後に批判の誤りが判明したならばそれを訂正するような発信をすべきではないかということである。以下参考[110]。
また伊藤氏と松井氏は以下のツイートのように「スラップやキャンセルカルチャー的なものに屈することなく今後も学術に誠実な書籍を刊行していく所存です」[248]や「今後も科学的に妥当でない内容に関して学術の場を含め粛々と批判していきたい」[249]と、自らは学術的に誠実な批判のみをしているかのように述べているが、申し訳ないが私はこれには首を傾げざるを得ない。というのは、批判集p.21の「初歩的な事実誤認が平均して一見開きに一つ程度の割合で出現する」(これに関してはカウント方法にもよるが) や、同p.54の「この著者は本に書かれてもいない内容を勝手に都合よく捏造して引用する」、同p.54の「当書では生物学分野において正当な引用はないと言っていい」、同p.90の「当書では存在が隠蔽されている「オズボーンのチェックリスト」」、p.154の「なぜ人の提案したものを何食わぬ顔で改変できるのだろう」、同p.164の「当書は学術書よりもビジネス書よりもスピリチュアル自己啓発本のカテゴリに近いのではないかと思わずにいられない」など、その主張の正当性を疑わざるを得ないような記述が批判集には数多く存在するからである(上記のような直接的に『進化思考』及び太刀川氏の評価を下げるもの以外にも、博士号の名の下での批判としてはあまりにも軽率でレベルの低い指摘が批判集には数多く存在する)。批判集の著者らがこれらを一体どういった理由で書いたのかは分からないが、もし仮にこれが意図的だったり勢い余ってとかではなく、本当にそう記述することが妥当だと思って書いたのだとしても、少なくとも私はこれらは「学術的に誠実な批判」には当たらないと感じる。「産業デザイン研究所出版局はスラップやキャンセルカルチャー的なものに屈することなく今後も学術に誠実な書籍を刊行していく所存です」という伊藤氏の文言からは、彼が学術の場における発言の自由を守ることの重要性を強く認識し、そしてその堅守を自らが実践していることへの自負のようなものが伺えるが、そのようにして頑張って守り抜いた発言の自由の結果として上記のような学術的に誠実とは言えない記述の数々が許されるのならば、そんな自由は本当に必要なのだろうか?私はむしろ批判集のそういった軽々しくもある学術的に誠実ではない記述の数々が学術における発言の自由の価値を棄損しているように思う。別の言い方をするならば、そういった学術的に誠実でない軽々しい記述の数々はこれまで多くの研究者が守り抜いてきた学術の場における発言の自由にタダ乗りしているように見える。私がこれだけ時間をかけて本件に関わっている理由は、学術批判の自由の正当性を守るために、こういった問題のある言動を批判する必要があると思っているからでもある。特に、本件はなぜかほとんどの研究者・専門家等が(賛同・同意はすれど)そういった不適切な学術批判を問題視しておらず、こういった自浄作用の無さは学術における自由の正当性を間接的に棄損し、また一般人のアカデミア不信を招き得るだろう。
楽しく批判する
次々と出現する新手の疑似科学の批判は手間のわりに無力感が伴う。誤りを訂正していくのは誤りをつくりだすよりもずっと大変とみなされている。それはそうだろうが、私は批判の学会発表を裁判員や死刑執行人、余命を宣告する医師のような社会や人のために仕方なく行う献身的な自己犠牲としてではなく、自らの信念を根拠とともに表明するという学術者にとっては楽しい行為として行った。だから私はあえて「学術的に批判したりされたりするのが楽しく有益と思えるなら、もっとみんなやるべきだ、楽しさを包み隠さずに」と言いたい。ひとさまが苦労して作ったものを楽しみながら批判する態度は大勢の顰蹙を買うだろうが、顰蹙などどうでもいいではないか**。批判が科学の基礎であるなら、そして科学が楽しいと思うなら、学術的な批判を楽しみながら行うことに私は違和感がない。我々の学会発表での態度が日本デザイン学会に顰蹙を買った(「知の構築に励む同志としての最低限の配慮」が「欠けていた」)のも、私が楽しそうにやっていたからではないかと伊藤に指摘された。もし太刀川や日本デザイン学会と同様に松井の発表態度を不快に感じたとしたらそれはひとえに私の性格と行儀の悪さに起因するものであって、批判そのものや、批判を楽しくやっていたことに紐づけないでいただければと願う。
※本稿執筆者注:太字は原文ママ
💛楽しく批判したあとに、その主張に対する指摘・反論にも応答するのが批判をする者の責務である。楽しいとこだけいいとこ取りなどということは許されない。しかし、現状(ver.2.0.0公開時点)松井氏は本稿そのものに関する言及としては以下のような論点ずらしのようにも見えるツイート[96]のたった一つしかしていない。それとも本稿の指摘のほぼ全てを否定し切れると思っているということなのだろうか?
この記事を「進化学の専門家による」ものだと読み取るリテラシーをみると、最初の学会発表の時点で著者本人の意見を変えることを諦めたのは正しい判断だったと改めて思います 「社会の各セクターを進化へ導くデザインパートナー」に進化学は早すぎた https://t.co/JzvJyWzk03
— minoru matsui (@minoru_matsui) June 14, 2025
本書は無査読なので、学術書よりも同人誌に近いと私は捉えている。そのため残念ながら厳密なファクトチェックはなされていない。林が執筆した2章は例外で、複数の進化生物学者がコメントをしている。
💜「同人誌」と言うことでハードルを下げているようにも見えるが、少なくともビジネス書である『進化思考』よりは学術的な正確性が強く求められる本である。また批判集の書籍紹介における「山本七平賞を受賞した巷で話題の本『進化思考』の疑似科学を徹底的に検証。日本インダストリアルデザイン協会最年少理事長の衒学的物言い、論理の破綻、目に余る不勉強に対してデザイン界と進化学界から3人の博士が立ち上がり、一刀両断。自分の得にはならない、だが誰かがしなければならない、雪かきのような重労働。話題の検証本『土偶を読むを読む』の著者・松井実が博士論文を携え本格参戦。単なる糾弾に留まらず、進化学、デザインと進化の関係性、創造性教育に関する正しい理解を得られる一冊となっています。」[3] といった記述からしても、やはり高い正確性が求められる本と言える。
またそもそも、無査読ゆえに学術書よりも同人誌に近いというのは少々論理として飛躍していないだろうか?学術書であるかどうかはあくまでその内容によって決まるものであり、査読されているかどうかはそこまで重要ではないはずである。確かに査読されていることはその本を学術書方向に引っ張るが、査読されていないことを以って、即学術書よりも同人誌側に振れるというのはおかしいだろう。また加えて、「そのため残念ながら厳密なファクトチェックはなされていない。」というのもよく分からない記述である。もし仮にこれが文字通り「同人誌である故にファクトチェックをしていない」というものであれば、これは変である。なぜなら松井氏はその前の部分で無査読ゆえに同人誌に近いと言っていたのだから、つなげて考えると「無査読ゆえに同人誌に近くて、かつそのためにファクトチェックを行っていない」というやや循環味のある主張になってしまうからである。また、ここでのファクトチェックというのがそういった査読とは関係なく、批判集の著者ら自身のチェックのみを指しているのだとしても、これは「同人誌に近いゆえにファクトチェックしなくてもよいよね」というジャンルを理由にした甘えのような意味になる。したがって、文字通り自然に読むと、松井氏の記述にはおかしさや納得性の低さがある。また、もしここでの「そのため」というのが「学術書よりも同人誌に近いと私は考えている」ではなく「本書は無査読なので」にかかっているのだとしたら、「残念ながら厳密なファクトチェックはなされていない」というのは単に無査読であることの言い換えとなり、この場合意味的には妥当と言えるが、日本語の表現としては上手くないだろう。普通は「そのため」は「学術書よりも同人誌に近いと私は考えている」にかかっていると読まれると思う。なぜなら「~なので、~だ」の主文は「~だ」だからである。
なお、あの第2章が複数の進化生物学者によるチェックを通ったものというのは正直驚きである。生物学的にも、論理的にも、文章読解的にも。
そのため、Ⅲ部は論文集というよりはアーカイブと捉えてほしい。これらを批判集に収録する意義は、『進化思考』がハチャメチャに破壊したデザインと進化の関連が、学術的にも興味深い主題だということをなるべく広く、一つでも多くの方策を通じて示したかったという点に尽きる。
📕ここまで長々と述べてきたように、太刀川氏の記述に誤りが多いのは事実だが、「ハチャメチャに破壊した」というのは明らかに言い過ぎである。なお批判集の著者らによる実際の誤りの質・量を超えた不当な貶めからは、むしろ批判集著者らが『進化思考』を「ハチャメチャに破壊した」とも言える。
こちらも内容的にはいくつもしくじったところがあり冷や汗ものだが、「デザインの進化を論じたければ、進化思考ではなく、地味だがこういう方法があるよ」と示せればと思っている。10章冒頭の内容は7章の抄訳なので、再掲されている図がいくつもある。
太刀川氏の主旨は結果物としてのデザインの進化というよりは、創造的な思考が持つ進化「的」な性質にあるように見える。よって、松井氏が云うそれと比較できるものではない気がする。
デザイン学を研究する功利的な動機は、『進化思考』のような粗悪なデザイン学による推論から我々を守ることにある。輝かしい業績を残してきた他分野と比較すると見劣りする動機だが、それしかないし、なにもないわけではない。
デザイン学については詳しくないが、太刀川氏が主に言いたいことは認知心理学的な方向の話のように見える。
本書がどなたかの文献リストに信頼できる参考図書として掲載されることを夢見ているが、文献リストに限らず、本書の内容に疑問や認識の間違い、改善を要する点があれば批判をお願いしたい。本書もまた変異と適応を繰り返すことによって、さらなる最適にむかって進化していく…あ、あれ?ハクション!
💛本稿は当初の想定よりもはるかに長編の記事になってしまったが (そして同時に莫大な時間も)、それなりの内容にはなっていると思う。批判の受け入れを含む真摯な対応を期待したいが、現状(ver.2.0.0公開時)この松井氏の批判願いから期待されるような応答は特に来ていない(伊藤氏からは多少応答が来ているが、応答項目が非常に少ない上に、反論内容もそのほとんどが的外れである[92][97])。
また、二文目の「本書もまた変異と適応を繰り返すことによって、さらなる最適にむかって進化していく…あ、あれ?ハクション!」というのはここの「あとがき」の最終文である。そしてこれは松井氏が「あとがき」の前半で行っていた「アイディアは私たちの脳に滞在し、ときに私たち宿主を操るウイルスだ***。優秀な思念のウイルスは脳内で増え、十分に増えると、宿主を操って「くしゃみ」として体外に放出させる。おしゃべり、論文、書籍、動画、布教活動などがくしゃみにあたる。ダーウィンが1859年に発した初版わずか1500部という小さめのくしゃみに含まれた進化学のアイディア/ウイルスは、幾度もの変異を重ね、いまやダーウィニズムとして定着・蔓延している。」(批判集 p.355) や「我々は社会ダーウィニズム、優生学、インテリジェント・デザイン論などの有害な進化学変異株を根絶できていない。進化学は危険思想だ[14]。『 進化思考』は最新の進化学変異株のひとつであり、広く読まれた結果、進化学とほぼ無関係の疑似科学がたくさんの方の脳に巣食うことになった。」(同 p.356-57) といったアイデアの伝播をウイルスに喩える考え方に関して、「変異と適応を繰り返すことによって、さらなる最適にむかって進化していく」という進化思考のアイデア(ウイルス)が(それを批判しているはずの)松井氏にもうつってしまった(笑)といったような意味の記述である。そういう訳で批判集には最後の最後まで皮肉的というか人を馬鹿にしたような記述が多いのだが、そういったある意味での「楽しい批判」(一種の快楽的行為とも言える) をするならば相手等からの批判はより厳しくなるという自覚はあるのだろうか?皮肉ったり馬鹿にしたりという行為は「無料」ではなく、それ相応のリスクが付く諸刃の刃である。しかし上記したように本稿に対する松井氏からのまともな応答は現状(ver.2.0.0公開時点で)一切ない。「楽しい批判」(ここでは特に皮肉や人を馬鹿にする発言という快楽的意味での) をするのは個人の勝手だが、それによる相手等からの強く厳しい批判や自分の記述間違いへの恥かきの倍増を受け入れる覚悟がないならば、初めからそんなことはしないべきである。申し訳ないが、そういった「楽しい批判」をリスクを受け入れずに行うそれは、SNS等で匿名で他者を馬鹿にして気持ち良くなっている人々と大差ないものであると感じる。(ただし、もし仮に本稿の批判のほぼ全てを否定し切れると思っているのであれば特に問題はない。ただ私にはそれが可能であるようには思えない)。
終わりに (これは本稿の)
読み始めた当初は、10個くらい誤りが見つけられれば良い方かなと思っていたが、結局引用込みで20万字超え(ver.2.0.0では50万字超え)の記事になってしまった。言いたいことは既に述べてきたので、ここでは全体の総括を軽く行う。
まず結論から言うと、この批判集には大いに問題があると感じる。『進化思考』の科学的妥当性を検証するという心意気は一応評価できるし、実際妥当な批判もそれなりにあるのだが、ここまで長々と指摘したように生物学的・論理的・文章読解的に誤った批判が余りにも多過ぎる。この批判集はデザイナーが書いたビジネス本を博士号持ちの研究者が批判するという構図の本であり、そういった権威性や功労的文脈は一般人に批判集の内容を無批判に受け入れるバイアスを与える。したがって、こういった本では情報の正確性がより求められるのだが、残念ながらこの本はそれを十分に満たす出来になっていない。
また、生物学的・論理的誤りについては単に実力不足という話で終わるのだが、本書は特に文章読解的誤りが酷いと感じた。これも基本的には能力不足という話ではあるのだが、それとは別に読み方にかなりバイアスが入っているように感じた。すなわち「太刀川氏は典型的な進化の誤解を起こしている」「太刀川氏が進化についてよく理解していないことにしたい」「太刀川氏の主張はそもそも考慮する価値のないものである」「太刀川氏の主張を既存の文化進化の話に落とし込みたい」などといった認知バイアスが文章読解に強く効いているように感じた。というのも、そういったバイアスが効いていなければ普通起こらないようなレベル・質の誤読や決めつけが数多く存在していたからである。文章をよく読まずに、見えた一部の単語や文から想起される「よくある誤りパターン」や「自分が知ってる理論」に太刀川氏を安易に当てはめて批判や理解をしたつもりになっていることが非常に多いように感じた。そしてそういったバイアスの入った読みというのは批評者(及び研究者)として非常に問題のあるものである。(なおこういったバイアスの入った読解・理解はこの批判集の著者らのみでなく、X (旧Twitter) で批判している多くの人々 (アカデミア含め) にも当てはまる気がする。自分の頭で良く考えずに既存のパターンに当てはめることは楽であるし、お手軽に相手を貶めることは「娯楽」ともなり得るのだろうが、知的誠実性に照らして褒められる行為ではない。(関連記事:「『進化思考』の件を振り返ることの重要性について」[110]))。
そしてそのバイアスゆえか批判者の著者らはその誰一人として太刀川氏の主旨を読み取れていないように見えた。太刀川氏の主旨は「創造は無意識的な認知現象であるものの、適切に鍛錬を積めばそれをある程度意識的に行う (または無意識的過程を意識的にドライブする) ことができるのではないか?そしてその無意識的な認知現象である創造が進化的な要素を持つならば、進化のアナロジーが創造の意識的実行や意識的ドライブのために役立つのではないか?」というものであると十分読めると思うのだが (批判集から断片的にしか情報を得ていない私ですら読めた)、「太刀川氏は進化について誤解している」「そして進化について誤解しているから彼の言ってることは全て無茶苦茶である」などといった認知バイアスが適切な読みを妨げている、またはそもそもまともに読む気がないように見えた。また、少なくとも松井氏と伊藤氏に関しては実はこの「答え」を既に読んでいたはずなのだが、それが批判集の内容に全く反映されていない。詳しく説明すると、松井氏と伊藤氏が「『進化思考』批判–文化進化学と生物学の観点からの書評と改訂案–」[18]を出した後に、「『創造性の誤解を解く鍵としての進化論』」[58]というnote記事を太刀川氏が書いており (厳密にはその記事を書く前に批判側と
の間でワンクッションやり取りがあるのだがここでは省略)、そこでは「「創造は意志によらない現象」という進化思考の仮説」「進化思考では、創造を意志による進歩的な現象とは捉えません」「創造は、普通は個人の意思による行為だと思われています」「もし創造性が進化的な構造なら、必然(適応)と偶然(変異)には意思がなく、繰り返されれば極論、意思がなくても発明はできます」「ただ「意思のない創造」のループ構造を意図的に往復する、という仮説と実践が、創造性の常識からはぶっ飛んでるので誤読しやすいと思います」といったように先ほど私が説明した解釈と同じようなことが書かれている。
そして、松井氏はこの太刀川氏の記事を引用して「誤読者より」[59]というnote記事を書いている (なおこの「誤読者より」というタイトルは嫌みのつもりなのだろうが、本稿で指摘してきたように松井氏は数々の誤読を犯しているので、残念ながら単なる事実的記述になっている)。
また伊藤氏に関しても、批判集第6章p.234の「また、太刀川が「意見書」の撤回と同時に「批判者の皆さん」に向けて「納得がいかなければ、次はいきなり批判ではなく、質問してください」[137]という文章を公開したのを受け、昆虫の進化発生学を専門とする静岡大学の後藤寛貴博士がTwitter上でこう質問した。」において件の太刀川氏の記事を引用している ([137]がそれに該当する)。
したがって、松井氏と伊藤氏の両者とも件の太刀川氏の記事自体は閲覧していると言っていいだろう。しかし、以上述べたように太刀川氏が記事で述べている本旨的主張は批判集の内容に全く反映されていない (主張に同意するかどうかはおいておいて、主張内容そのものが一切触れられていないor考慮されていない)。読んだけど理解できなかったのか、理解できたけど何となく触れなかったのか、理解できたけど不都合だったので敢えて触れなかったのかは分からないが、もし敢えてスルーしていたのだったらだいぶ問題だろう。(また、はっきりとは断言できないが、もし以下の林氏のリプライ[60]における「進化思考著者の反論」というのが「『創造性の誤解を解く鍵としての進化論』」であるならば (「『創造性の誤解を解く鍵としての進化論』には「とある進化生物学者のコメント」[20]のリンクが貼られている)、林氏も同様に太刀川氏の記事を読んでいることになり、そこで述べられている太刀川氏の主旨に関して批判集で一切触れていないor考慮していないことの問題性が問われるだろう)。
📕『進化思考』を読んだので追記する。上では太刀川氏の主旨が無意識の思考におけるアイデア錬成にあるとほぼ断言的に述べてしまったが、これはやや早計であった。というのは、確かに『進化思考』ではそういった無意識的思考におけるアイデア錬成の話をしているのだが (「こうした発想と取捨選択を超高速度で繰り返しているのが思考の構造なら、私としては大いに納得がいく。天才と呼ばれる人たちは、誰でもできることを、高速で繰り返す癖がついているのではないか。」(『進化思考』p.40)、「そんな私にとっても、この変異と適応の往復が、アイデアを考える頭のなかで起こっている感覚が確かにある」(同 p.40)、「先述の通り創造的な人の脳内では、これらの往復がシームレスに行われていると考えれば、納得できるのではないだろうか。しかし、特に背反する二つの思考を同時に行うのは、慣れないとお互いをロックしてしまい、思考停止に陥る。何しろバカなことを考えながら、秀才的に選択するのだから、まるで二重人格のような構造だ。そのため進化思考では、慣れるまでは変異と適応の思考で考える時間を物理的に分け、バカになる時間と、本質を見つめる時間、それぞれに集中することを推奨している」(同 p.58) 、「変異と適応を往復しつづけると、最初は偶然にすぎなかったアイデアが徐々に必然的な理由を帯びるようになり、ついにはまったく揺れ動かない強固な思考の結晶にまで育つ。それが創造という現象だ」(同 p.448) など)、 それ以外にも太刀川氏はプロダクト生成過程におけるトライ&エラーに近い話を述べているからである(「だが実際にデザインの現場も、これとまったく同じなのだ。何度もトライアルして、何度も選択すると、モノはおのずと良くなっていく。このやむことのない繰り返しが創造性を前にドライブする。」(同 p.45) や「つまり創造から価値をつくるプロセスでは、最初に自由でおおらかな「遊び」のプロセスと、その高みはどのような景色なのかを示す「好奇心」のプロセスがいる。事業のイノベーションでも、子どもの成長でも、創造性を生み出すための構造はまったく同じだ。絵が好きな子どもなら、たくさんのスケッチブックを渡そう。バカな絵が次々に生まれるよう変異を促そう。そして一緒に笑おう。さらに、その「好奇心」の先の適応を見せよう。絵の画法を知る。世界を変えた挑戦的な絵を見る。絵を楽しむ人に触れる。絵が希望になる時を探求しよう。」(同 p.467-468) など。また後者の引用付近で太刀川氏は進化の螺旋図を上限に二分し、上を「社会への価値」、下を「個人の遊びと好奇心」としている(同 p.468))。またどちらとも読み取られ得る記述も多く存在する (例えば、「生物の進化が、誰の意図も介さずに偶然の変異と自然選択の繰り返しで発生するように、進化思考では創造もまた偶発する現象だと捉えている。実際のところ、創造は意図するだけではないし、逆に意図しないで偶然に生まれてくることがある。私たちは自分が思うほどには、意図を持ってモノを創造していはいないのだ。」(同 p.446) というのは脳内のアイデア錬成の話とも読めるし、プロダクト生成過程におけるトライ&エラーの結果の話(とりあえず目の前の物をひたすら上手く改良していったら気づいたらすごいものができていたとか、何となく一部変えてみたら偶々上手い感じにハマったとか)とも読める)。ただ全体的な説明の流れやウエイトからするに、無意識的思考におけるアイデア錬成が太刀川氏の主張の主軸であるように個人的には思うし、これらの複数の観点の話は矛盾する訳でもないので、やはりそういった無意識的な思考におけるアイデア錬成過程について批判集で言及されていないことは批評本としての質を大きく下げるものであると感じる。(なお、厳密には「個人の頭の中におけるアイデア錬成」と「プロダクト生成過程におけるトライ&エラー」の違いがまずあって、その前者がさらに「無意識の思考におけるアイデア錬成」と「意識的な思考におけるアイデア錬成」に分けられるのだが、太刀川氏の主旨が純粋に「意識的な思考におけるアイデア錬成」単独であるということは本全体の文脈からいっておそらく可能性としては低く、「無意識の思考プロセスを意識的にドライブする」または「鍛錬によって無意識の思考プロセスを意識的思考として(一部)模倣できるようになる」といったようにいずれも無意識の思考プロセスが関係する話であると思われるので、上では無意識のアイデア錬成としてまとめて説明した)。以上『進化思考』を読んでの追記終わり。
また、実はこの「『創造性の誤解を解く鍵としての進化論』」には以下のように「適応」の定義の複数性についても説明されている。
ただ本批判について細かく言えば、進化論の場合でも教科書の定義によって「適応」は結果のみならずプロセスを指す場合があるので、ここを軸に批判を立ち上げるのは、単語の解釈の違いがあるだけだと思います。ここに海外の教科書の定義を置いておきます。
適応 : 集団における遺伝的変化のプロセスで、自然選択の結果、集団
が何らかの環境に適した状態になったと考えられること。
(Futuyma, D. & Kirkpatrick, M. Evolution (forth edition). Oxford
University Press, 2018).
※本稿執筆者注:字下げ部分 (「適応 : 集団における…」以降) は原文での引用部分 (背景が灰色になるnoteの引用システム) を指す。
そして、これと同じ指摘が同note記事内に貼られている「とある進化生物学者のコメント」[20] 中にも存在する。すなわち松井氏と伊藤氏がこれを確認している可能性はかなり高い。しかし、批判集ではこれが一切反映されておらず、p.20では松井・伊藤の連名で「二大テーマのもうひとつ「適応」も間違って使われている。自然選択と適応は密接に関連するが別のプロセスで、自然選択によって適応が生じるが、当書では二者が混同されているうえ、~(後略)~」、p.241では伊藤氏が「本書第2章の冒頭の説明にあるように、進化学における「適応」とは動詞ではなく「進化の結果生じた性質のことを指す」のである。」と言っている。これに関しても、件の太刀川氏の記事の当該部分を読んでないのか、読んだけど理解できなかったのか、理解できたけど不都合だったので敢えて触れなかったのかは分からないが、もし敢えてスルーしていたのならばそれは知的誠実性を疑われる行為である。また同様のことを林氏も犯しているとp.61の部分で説明したが、このように著者3人全員において自身の主張に不都合な情報が触れられていないのを見るに、おそらく当該部分を読んである程度は理解したものの、「太刀川氏が間違っているに違いない」という強い認知バイアスが不都合な情報を見えなくさせたか、またはあれだけ自信満々に批判した手前引っ込みがつかなくなり意識的にスルーしたかのどちらかであるように私には見える。そしてもし本当にそういったものであれば、それは評者として(及び研究者)として非常に問題があるだろう。
そういう訳で、林氏がp.62で「思い込みの発生だ。思い込んでしまうと、わかったつもりになって、実はわかっていない自分に気づかなくなる。だから自分とは違うモノの見方をする人を見ると、相手が間違っていると考えてしまう」(『進化思考』p.207) という太刀川氏の文を引用した上で、「ここに書かれたように、著者が積み重ねてきた進化に関する固定観念を見直し、「自分だけの思い込みを外す」ために進化生物学をきちんと学びなおしてほしいと切に願う」(p.63) と皮肉的に述べていたが、私からすれば思い込みが発生しているのはむしろこの批判集の著者らであるように思える。なぜなら以上述べたように、自己にとって不都合な指摘を受け入れずに自分が正しいと言い続けているように見えるからである。
(またそもそもの話として、適応の定義の複数性に関しては、以上のような太刀川氏からの指摘に頼らずともちょっとネットで調べれば簡単に分かるようなものである。例えば、googleで「適応 生物 定義」と検索した場合、少なくとも2025/12/25現在、検索結果1ページ目に出てくるサイトの多くが非歴史的定義としての適応を説明している。例えばWikipedia-適応 (生物学), 東邦大学生物分子科学科-用語解説, 浜島書店-用語解説, 九州大学の授業スライド(?), 京都大学の授業スライド(?), 日本植物生理学会のQ&Aコーナーでは、主に非歴史的定義としての適応(またはそれに近いもの)を適応の定義として紹介している[61][62][63][64][65][66]。また国立環境研究所の記事ではプロセス的定義を挙げている[67]。また、上で挙げた河田氏のnote記事や研究対話に関する心理学論文では、非歴史的定義及びプロセス的定義を含めた定義の複数性を説明している[9][68]。また英語で検索した場合に関しても、例えばWikipedia「Adaptation」ではプロセス的定義(の過程とその結果としての状態)と歴史的定義が挙げられている[69]。という訳で、適応の定義が歴史的定義だけでないことはこれだけ簡単に気付けるようなものであり、適応の定義に関して批判するならばその前に一度ちょっと調べて欲しいものである(一応林氏はいくつか本から引用して説明しているが、「生物が、そのすんでいる環境に対して非常にうまくできていることを「適応」と呼びます」という長谷川眞理子氏の書籍[70]における記述を歴史的定義として一意に読んでしまっている (「うまくできていること、つまり進化の結果として「適応」という単語を使っており、進化の要因として「適応」という単語を用いてはいない。」(批判集 p.29)) ので、「非歴史的」という意味を明確に記述したものや、またはプロセス的定義を目にしない限りは自身の誤りに気づけなかったのだろう)。また、「適応的」という用語に関して少なくとも林氏は非歴史的定義としての意味を当てており(「生き残りやすい有利な性質を持つことを「適応的」と呼ぶ」(p.31))、また松井氏もおそらくそのような意味を当てている可能性が高いのだが(「奇形のような非適応的な、行き過ぎた変異」(p.157))、そうであるならば「適応」を歴史的定義のみとしたときとの整合性について疑問には思わなかったのだろうか、と個人的には思う。もちろん「適応」と「適応的」の意味が全くズレなくリンクしている必要はないのだが、「適応」の定義についてあれだけ強く批判しているのだから、「適応的」という自らが発する言葉に対しても同様に感度を高く持ち思考を広げて欲しいと感じる。そのように思考を広げることで自身が持つ「適応」と「適応的」の意味の違いに気付けば、定義に関して改めて調べる(自分の理解が間違っている可能性を検討する)という行動にも繋がるのである。そういう訳で、言葉の定義について厳格であろうとしている割には言葉に対する感度が低いように個人的には感じた。(また、無いとは思いたいが、もし仮にこういった定義の複数性について本やネットで調べる中で気づいたが、批判内容に合わないため意図的にスルーしていたのであれば、それは極めて問題のあることである))。
また、攻撃的・皮肉的表現の数々も批判集の問題点の一つである。「詐欺的商法」(p.61)、「太刀川進化」(p.63)「進化をはじめとした難しくて巨大な概念を、よく読むと意味のわからない、短くてそれっぽい言葉で断定的に決めつけることに魅力を感じる読者むけの本であることは重々承知しているが…」(p.124)、「疑似科学は20歳になってから」(p.127) 、「遺伝子を遺伝児と書く人がいたら「どちら様?」という反応をされると思う」(p.168) 、「本書もまた変異と適応を繰り返すことによって、さらなる最適にむかって進化していく…あ、あれ?ハクション!」(p.363) などといった表現を見るに批判集の著者らはまともに対話する気がないように見える。一体彼らは何のために批判集を上梓したのだろうか?もしこういった攻撃的・皮肉的表現をして向こうから快く返答が返ってくると思っているのならば、残念ながらコミュニケーションに難ありなので、いろいろ基本から見直した方がいい。また太刀川氏に向けて書いたつもりは特になく、攻撃的・皮肉的表現は単なる「快楽」に基づいたものであるならば、それは個人の嗜好なので特に否定はしないが、そういった発言を不快に思う人はそれなりにいるということだけ述べておく。(なお、読者に問題の重大性を認識させやすくするという観点では攻撃的・皮肉的表現にも多少プラスの効果はある。ただ批判集のそれはそういった効果を目的としているようには見えないものも多く、かつ程度としても不必要に強過ぎと感じることが多い。なお、本稿も多少皮肉的表現を取ったりしているが、それは基本的に批判集の著者らの不適切な批判に対して、彼らの言葉をそっくりそのまま返すといったものが多く、批判集の著者らのように不必要には用いていない。なお、そのような皮肉返しをする意図としては、攻撃的・皮肉的な表現のリスクをきちんと与えてあげること(そういった表現はデメリットなく使えるものではなく、使うことにリスクがあるということを示すことが言論空間を適正化させる)、及び批判集の著者らの無礼かつ(太刀川氏からの反論を一切聞き入れないような)自身への過信に溢れた態度にややお灸を据える必要があると思ったからである)。
また、あれだけ攻撃的・皮肉的に批判しておいて、彼ら自身も生物学的・論理的・文章読解的な誤りを多量に犯しているのには本当に困ったものである。「適応」の定義云々に関しては、まさに「夏の虫氷を笑う」だろう。
また上記に比べれば些細な点ではあるが、林氏と伊藤氏には特に断りなく引用に下線を追加しているという嫌疑がかかっている (少なくとも林氏に関しては引用先の確認が取れた2例においては嫌疑ではなく確実にそれを犯している)。引用を無断で改変してはならないというのは学術分野では常識レベルのルールなのだが、もしそれを博士号持ちの研究者が本当に犯しているとすれば、「おいおい」という感じである。些細な点に関して便宜的に改変や省略を行うくらいなら無断でしてもギリセーフだと思うが、下線という強調を意味する記号を無断で加えるのはアウトだろう (下線部分を見るにおそらく林氏と伊藤氏は指摘したい部分を示すために下線を引いているのだと思われ、したがって、下線の追加によって太刀川氏の主張の趣旨が大きく変わることはないし、多少変わったところでそれが林氏や伊藤氏にとって有利に働くという訳でもないので、問題性はそこまで大きくないのだが、ルール的に問題であることには変わりはない)。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、これらの下線はおそらく全てが著者ら独自のものである (「おそらく」というのは全てを逐一チェックした訳ではないからである。ただ少なくとも私の記憶の中では太刀川氏は『進化思考』の中で下線を一切使っていなかったように思う)。また伊藤氏は先日2026/1/31の応答記事[92]にてこれらの下線ミスを認めたが、認めたのは何故か林氏のそれのみであり、自身が同様のミスを犯していることについては一切触れられていない。以上『進化思考』を読んでの追記終わり。
以上のようにこの批判集には様々な点で問題がある。そしてこれだけの問題が存在するのに、批判的評価がほぼ見当たらないのも結構問題であると感じる (ちなみに「ほぼ」というのは1件だけ生物学者の森中定治氏の個人ブログに批判的記事があったからである[71]。しかしこれは個人ブログのため拡散性は低く、そしてこの記事の他には一切見当たらない)。そもそも批判集の閲覧者がそれほど多くないというのはあるとは思うが、レビューサイトに批判的意見が無いのはもちろん、X (旧Twitter) を見てもそうである。もしかしたらFacebook等他のSNSでは批判的議論が行われているのかもしれないが、少なくともX (旧Twitter) では大学教員含めそれなりの数の人が批判集に対してリツイートやコメントをしているので、その中で批判的意見が無いのはやはり問題がある気がする。彼らが、実は読んでいないのか、読んだけど問題点を見つけられなかったのか、問題点を見つけたけど黙っていたのかは分からないが、これだけ誤りを含む本に対して肯定的意見ばかり並ぶのは正直言って異様である。読んだけど問題点を見つけられなかったのであれば、結局そのレベルの人が騒いでいたということであるし、問題点を見つけたけど黙っていたのであれば批判側に自浄作用がないとも言える。
また議論の活発さから言えば、松井氏の学界発表[72]、松井氏・伊藤氏の「『進化思考』批判–文化進化学と生物学の観点からの書評と改訂案–」[18]、林氏の「『進化思考』における間違った進化理解の解説」[19]といった初期の頃の方が盛り上がっていた気がするが、当初から松井氏らに対する批判的な意見はかなり少なかった (当時の流れについては以下のサイト[73][74] がよく整理されていて分かりやすい)。
色々見ていくと批判的意見も多少はあったようだが、少なくとも生物学的な正誤について指摘している大学教員・専門家は少なくともX (旧Twitter) にはいないように見えた (もしかしたら一般人アカウントを装った人もいたかもしれないが)。特に林氏のブログ記事「『進化思考』における間違った進化理解の解説」[19]は批判集第二章の前身であり、そのため本稿で指摘した以上に穴があるのだが (例えば、「道具の進化と人間の進化は独立であり、「道具の進化によって人間が進化する」とはなりません」とか (批判集では独立に関する記述が消えている)、「生き残りやすい有利な性質を持つことを「適応」と呼ぶ」とか (批判集では「適応」が「適応的」と訂正されている)、「性選択の結果、生存に不利とも思えるような極端な形質が進化した場合をrunaway process と呼んでいる」とか (批判集では「極端な形質が進化した場合を」が「極端な形質が進化しうるメカニズムを説明した仮説のひとつを」と訂正されている。なお訂正前の記述は論外なのだが (runaway仮説及びその周辺理論をちゃんと理解しているならば絶対にこんな記述をしない)、p.59の話を踏まえると林氏はここでも「性選択」と「配偶者選択」を混同している可能性があり、もし「配偶者選択」の意味で「性選択」と言っていたのであれば「論外」が「ギリギリ擁護できなくもない」程度にはなる))、内容に関して指摘している大学教員・専門家は見当たらない。例えば、生物系大学教員と思われる「Hiroki Gotoh@静大5年目」(@Cyclommatism) 氏は「かめふじさんの渾身の解説。ほぼ全面的に支持します」というようにほぼ全面的に支持している [75]。他にも肯定的な (特に否定的意見を述べていない) 生物系研究者・専門家 (と思われるアカウント) は多数いる[76][77][78][79][80][81][82][83][84][85][86][87][88][89]。そしてX (旧Twitter) 以外も含めた場合、私が探した限り (前述の通りfacebook等はチェックできていない) 唯一生物系研究者・専門家で批判的指摘をしているのが、上で出てきた「とある進化生物学者からのコメント」[20]を書いた人なのである (林氏のツイート[21]や河田氏の記事[97]など諸々の情報を繋ぎ合わせると「とある進化生物学者」が河田氏である可能性が高いように思うが、本人から明言されていないので断言はできない)。批判的意見を述べていない彼らが、林氏のブログをちゃんと読んだのか、読んだけど問題を見つけられなかったのか、問題を見つけたけどスルーしたのか、いずれなのか分からないが、結局読んだけど問題が見つけられなかったのであればその程度の人が騒いでいただけということだし(もちろん、だからといって批判が全て棄却される訳ではない)、問題を見つけたけどスルーしたのであれば学問的誠実性に欠けるということであろう。またこの「スルー」というのも、「些細な点だと思ったのでスルーした」「割と問題だと思ったが林氏を慮ってスルーした」「林氏の記事に対して否定的主張を述べることで『進化思考』積極的擁護者であると思われることを回避したかった (これは主に同業者に)」「林氏の記事への否定的主張を見た一般人が『進化思考』に一切何も問題が無いと勘違いする可能性を回避したかった」などといった様々な詳細理由が考えられるが、ここで一つ思ったのは、X (旧Twitter) といったようなSNSは学問的な批判空間としてはまともに機能しないのではないかということである。伊藤氏はp.243-244で以下のようにtwitterが批判空間として適切であると言っていたが、
もっと簡単に言ってしまえば、知人友人を批判するのは難しいのだ。その点、第三者が当事者と関わらずに批判をしやすいTwitterは適当な場のように思う。
リアルタイムで双方向性があるのがネット(正確にはWeb2.0)の利点であり、また集合知、特に専門家による集合知が得やすいという点で、炎上リスクを差し引いても言論空間としてのネットの優位性は揺るがないように思う。本章の題名として掲げた「どこで批判をするべきか」という問いに対しては、いささか凡庸な答えではあるが、やはり「ネット上でするべき」ということになるだろう。これまで見てきたように、ネット上でもSNS、特に日本ではTwitterに勝るものはないように思われた。2ちゃんねるにも特に初期(2000年代)には少なからぬ数の専門家がいたと思われる*が、「板」やスレッドごとに分断されていた。Twitter(や他のSNS)が優れるのは、同一タイムライン上に多くのユーザーの投稿やニュースの引用など様々なものが表示されることで、他の属性(クラスタ)の人、他の領域の専門家と交わりやすいという仕組みである。
①そもそも集まって来る人に偏りが存在するというのと、②ある程度個人とアカウントが紐づいていることより批判的主張がしにくい、という2点が合わさっていわゆるデジタルバブル的な空間が形成されやすいような気がする。②は実名および個人が容易に特定可能な運用をしているアカウントではもちろんそうだし、その他のアカウントであってもアカウント一般が持つアイデンティティ性が割と効いてくるような気がする。したがって、忖度・自己保身・誤った情報伝播の回避などといった観点から無難な感想・意見・主張が大部分を占め、そして単に些細な問題だと思ってスルーしたこと含めて、そういった非否定的な主張の集積がある一定方向にバブルを増大および強固にさせていくように思われる。そしてそういった言論空間はもちろん批判空間として適切なものではないだろう。(なお、twitterの上限文字数が無料アカウントでは140文字というのも、諸々の誤解を回避する方向にツイートを寄せさせる要因であるように思われる)。
また、以上は彼らがいちおう科学的態度を取っていた場合の話だが、個人的にはそうではない可能性もあるような気がする。というのは、先ほど認知バイアスの話をしていたが、これは批判集及びその周辺の批判文書への読みに関しても言え、私にはどうも「門外漢のデザイナーの記述を博士号持ちの研究者らが多大な時間をかけて正そうとしているのだから彼らの言っていることは正しい」といったバイアスのかかっている人が多くいるように思えるからである (そうでなければあそこまで批判側への指摘が存在しないことはありえない気がするし、また批判集著者らの功労を労う発言も多く見られたので)。そして当たり前だが、そういった権威性・功労性に拠った読みは「科学」とは程遠いものである。すなわち「科学」ではなく「科学ごっこ」である。「科学という名の権威主義」と言ってもいいだろう。非専門家がそういった科学ごっこをしてしまうのは百歩譲って許すが、生物系を専門とする人間がもしそれをしているとなればかなり問題である。また、対象の文書を一応読んだ上でバイアスに因った誤った評価をしてしまうのならまだしも、もし文書を全く読まずにただ上記のバイアスのみによって評価的発言をしているのならば、その人にはもはや科学について語る資格は一切ないだろう(関連記事:「『進化思考』の件を振り返ることの重要性について」[110])。
なお林氏は件のブログ記事[19]で「あのヒトのお墨付きがあるから僕の理解は大丈夫なんだ、というのは学問という場でのふるまいとして端的にくっそダサいという感想しかないのですが、まぁそこはいいでしょう」と言っているが、彼は批判集出版後に以下のようなツイートをしている[90]。
進化思考批判集、師匠から一ヶ所ツッコミが入ったけどだいたいよろしいというおホメの感想が来てとても安心している。これでもうこの件についてやり残したことはない。マサカド思考はもう知らん。あとは任せた。
— かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所 (@kamefuji) December 19, 2023
「とある進化生物学者からのコメント」[20]における指摘箇所を碌に訂正せずに、「師匠」からおホメをもらったからといって安心してこの件を〆るというのは、「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」を重視する権威主義に見えるのだがどうなんだろう。そもそも太刀川氏は生物の専門家ではないので専門家の意見を重視したがるのはしょうがないと思うし、実際一般に確証性なんてものは基本的に最後には権威に拠らざるを得ないと私は思っているのだが、仮にも研究者であり主張の良し悪しを自己で判断できるべき人間が「何」よりも「誰」を重視するのはだいぶアウトではないだろうか?それとも林氏は私には妥当に見えるまだ応答していない「とある進化生物学者からのコメント」の指摘の数々を、全て否定し切れると判断したということなのだろうか?
さて、だいぶ長くなってしまったが、最後に本書の初めの部分に戻るとする。
もうひとつは現代的な進化学を学び直し、科学的に妥当な表現に書き直すという道だ。著者の進化の理解は残念ながら全面的かつ完全に間違っているため、科学的な妥当性への疑念は我々が指摘した[5]ような変更を施しさえすれば解決できる水準では決してなく、当書のほとんどを書き直すことになるし、客観的な事実のみをもとに論を構築すれば第一版のような個人的なメッセージを伝えるのは難しくなるだろう。
これを初めに読んだとき、私は別に全面的にも完全にも間違ってはいないような気がしていたが、今こうやって全編読み終わった後もその考えは特に変わらない。むしろ相対的に言ったら全面的に間違ってるのはこの批判集の方ではないかとすら思う。確かに太刀川氏の進化理解及びその援用に怪しいところや誤りがあるのは事実なのでその訂正は必要だが、それらは彼の主張の骨子を大きく否定するものではない (なお一応補足しておくが、私は太刀川氏の本旨が科学的に正しいor支持されるとは一言も言っていない)。一方、批判集で何度も繰り返されている主要な批判には非妥当なものが数多く存在する。著者三人全員が繰り返し述べている「適応」の定義に関する指摘の多くは彼らの知識不足に基づくものであり、第二章で林氏が述べた適応以外の主要な3つの指摘 (p.61,62) もどれも的を外している(進歩云々に関しては多少刺さっている部分もあるが)。また進化以外に関しても誤読が多量に存在し、太刀川氏の主旨を全く読み取れていない。
進化的に誤った部分を訂正するという志及びそれを実行した点では評価できるが、現状では「杜撰な本」と言わざるを得ないだろう。そしてその内容の訂正は『進化思考』のそれと同等程度に大変であると思われる。まずは自身の誤りを認めるところからだが。
📕『進化思考』を読んだ上での批判集の総評価をすると、妥当な指摘はそれなりにあるものの、①生物学的・論理的・文章読解的誤りのあまりの多さ、②引用範囲が狭いことによる批判の妥当性の判別不可能性および誤読誘発の多さ、③不適切な誇張的批判、④著者内および著者ら間での主張の食い違いなどから、申し訳ないが批判本としては40~50点程度の出来と言わざるを得ない。またそういった出来の悪さに加えて、強い言葉や馬鹿にするような言葉で批判する割には、批判集執筆以前及び本稿公開以降含めて自らの誤りを十分に受け入れて改めようとしない点から言って、この本は「非常に傲慢で困った本」であると私は感じる。厳しい言い方になるが、ちゃんと文章を読めない&批判対象への詳細な知識がないのならそもそも大々的に批判をするべきではないと個人的には思うが、そうであってもどうしても批判したいのであれば、反論・指摘が来るのを承知の上で批判を行い、そして批判後に来た自身への誤りの指摘を真摯に受け入れて訂正・発信等を積極的に行うべきではないだろうか?
なお、一点補足として本稿(特にver.2.0.0更新分)では度々批判集著者らの読解力等が不足しているといった個人の能力に関する指摘をしているが、これは殊更に人批判がしたかった訳ではなく、単に本の批評というそれなりの能力が必要な行為相対的に力不足であるということ、また批判集発刊以前や本稿公開以降含め批判集著者らの自己の誤りを頑なに認めない態度から推測される自己能力・理解の過信に対してはっきりと事実を告げることでそれを崩す必要があると思ったこと、及び博士号持ちの研究者・大学教員であることを以って盲目的に信奉してしまっていた第三者の読者に対してそういった博士号持ちの研究者・大学教員にも能力の幅があるため権威性を基に安易に信用してはならないということを伝えるためである。
そして最後にもう一点、私がこの進化思考の件についてこれだけ強く関わり合っているのは、本件が適切な科学コミュニケーションを考える上で非常に重要だと思っているからである。批判集著者らの問題点はここまで何度も繰り返し述べて来たのでここでは割愛するが、本件ではその他多くの専門家・研究者(及び著述家)など一般に識者とされている人々による批判・提言が適切に機能していないと感じる。すなわち、ここまで述べてきたように批判集著者らの批判には様々な問題が存在するのだが、それらに対して指摘や批判をせず、彼らと同様に批判したり、彼らの批判に(消極的なものも含め)ただ単に同意・賛同している人が多いということである(一応補足するが、私は単に批判や批判の紹介はするなと言っている訳ではなく、「不適切な批判」や「不適切な批判も含めた批判群を一切の否定なく肯定的に紹介すること」は問題であると言っている)。そしてそういった権威性のある批判の集積の結果として『進化思考』及び太刀川氏の評価は不当に貶められていると感じる。そしてこのような結果は適切な科学コミュニケーションが行われたとはとても言えないものであるのだが、巷では本件は適切な科学コミュニケーションが行われた例として見なされている[212]。本来適切な批判・指摘によって市井の「学術的空間」を正すべき専門家・研究者等によって逆に不当な貶めが発生したこと及び現在進行形で影響が続いている状況は極めて問題だと私は感じる(本件に関しては「進化」という中心的議論対象が特殊であるというのはあるものの、本件の結果は一般に学術の名を語れば気に入らない対象を不当に貶めることが(しかもその貶めが不当でなくむしろ賞賛される形で)可能であり得ることも意味している)。そういう点で私は河田氏の取り組みは至極真っ当なものであり、高く評価されるべきだと思っているが、twitter(X)上ではむしろ逆に河田氏を非難する声が多い[250][251][252]。そしてこれは、少なくともtwitter(X)においては疑似科学「的な」主張への訂正的批判のみならず、識者同士の相互評価空間さえまともに機能していないことを意味する。
そういう訳で、批判集著者らやその周辺のその他批判者らは、太刀川氏の学術用語の濫用すなわち「誤った「知」の取り扱い」を批判しているつもりなのだろうが、彼ら自身にも「知」への関わり方に大いに問題があるように私は感じる。そういう意味では、林氏が第二章のエピグラフとして『「知」の欺瞞』を引用していたが、本件の批判者らのそれ (「知」の番人を自認しつつ、実は正しく「知」を理解・実践できていないそれ) もまた一種の「「知」の欺瞞」と言えるだろう (「まえがき」p.8への指摘では、これを「表層的な知性主義」とも表現した)。
以上、本件の振り返りによって、より良い科学コミュニケーションの模索・議論が行われること、そしてそれらを通して『進化思考』及び太刀川氏が不当に受けた分の評価の回復を願っている(一応補足するが、私が言っているのはあくまで「不当に受けた分」の回復である)。
参考文献
伊藤潤, 林亮太, 松井実 (2023) 『進化思考批判集: デザインと進化学の観点から』 産業デザイン研究所出版局
太刀川英輔 (2022)『進化思考――生き残るコンセプトをつくる「変異と適応」』 海士の風
Amazon.co.jp: 進化思考批判集: デザインと進化学の観点から : 伊藤潤, 林亮太, 松井実, 伊藤潤: Japanese Books
太刀川英輔 (2023)『進化思考[増補改訂版]――生き残るコンセプトをつくる「変異と選択」』 海士の風
「xerroxcopy/critiques-of-evolution-thinking: 書籍『進化思考』を批判した書籍のサポートページ」, GitHub. https://github.com/xerroxcopy/critiques-of-evolution-thinking
CULTIBASE編集部 (2021/6/7)「探究とは、専門性の枠内に閉じ込められない横断的な活動である―太刀川英輔さんに聞く創造力の育み方」https://www.cultibase.jp/articles/7133
Kampourakis K. & Uller T. (eds.) (2020) / 鈴木大地, 森元良太, 三中信宏, 大久保祐作, 吉田善哉 訳 (2023)『生物学者のための科学哲学』 勁草書房, p.332-333
河田雅圭 (2022/10/8) 「進化における「適応」という言葉をめぐって」, note. https://note.com/masakadokawata/n/n2dfc4217831e
Reeve H. K. & Sherman P. W. (1993) Adaptation and the goals of evolutionary research. Quarterly Review of Biology, Vol.68, No.1, p.1–32. https://www.journals.uchicago.edu/doi/abs/10.1086/417909
日本人間行動進化学会 (2020) 「「ダーウィンの進化論」に関して流布する言説についての声明」 https://www.hbesj.org/wp-content/uploads/2020/06/HBES-J_announcement_20200627.pdf
「論文」, デジタル大辞泉, 小学館, weblioにて2025/6/8閲覧
「『進化思考』正誤表」, (2022/12/16), 海士の風. https://amanokaze.jp/amanokazewp/wp-content/themes/amanokaze/img/230118errata_shinkashikou.pdf
Radford C., McNutt J. W., Rogers T., Maslen B. & Jordan N. (2020) Artificial eye spots on cattle reduce predation by large carnivores. Communications Biology, 3, 430. https://www.nature.com/articles/s42003-020-01156-0
Rouxel Y., Crawford R., Cleasby I. R., Kibel P., Owen E., Volke V., Schnell A.K. & Oppel S. (2021) Buoys with looming eyes deter seaducks and could potentially reduce seabird bycatch in gillnets. R. Soc. Open Sci., 8 (5): 210225. https://royalsocietypublishing.org/doi/10.1098/rsos.210225
「引用」デジタル大辞泉, 小学館, weblioにて2025/6/8閲覧
Kohda M., Bshary R., Kubo N., Awata S., Sowersby W., Kawasaka K., Kobayashi T. & Sogawa S. (2023) Cleaner fish recognize self in a mirror via self-face recognition like humans. Proc. Natl. Acad. Sci., 120, e2208420120. https://www.pnas.org/doi/10.1073/pnas.2208420120
松井実, 伊藤潤 (2022)「『進化思考』批判–文化進化学と生物学の観点からの書評と改訂案–」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssd/69/0/69_174/_article/-char/ja/
かめふじ (2022/7/21)「『進化思考』における間違った進化理解の解説」, かめふじハカセの本草学研究室. http://kamefuji-lab.seesaa.net/article/489743059.html
「とある進化生物学者のコメント」, Google ドキュメント. https://docs.google.com/document/d/1oGoCZLNPmqOB8RR-Sr2zDnvisVSZxiKXhpOaIXyYOFM/edit?tab=t.0
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2022/7/30) 「進化思考著者のSPAMメッセージによれば国立大進化生物学教授らしいのですが、査読のレベルに達してません。僕に誤解があると勝手に読み取られていますが、こちらの解釈では「オレサマ定義をどこかに書いておけば問題ない」としかフォローできておらず、僕の指摘への反論になっていないと考えます。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1553238692084363265
「生き生き」, デジタル大辞泉, 小学館, weblioにて2025/6/8閲覧
「性」, デジタル大辞泉, 小学館, weblioにて2025/6/8閲覧
浅原正和 (2017)「「Variation」の訳語として「変異」が使えなくなるかもしれない問題について: 日本遺伝学会の新用語集における問題点」哺乳類科学, 57巻, 2号, p.387-390. https://www.jstage.jst.go.jp/article/mammalianscience/57/2/57_387/_article/-char/ja/
「エラー」, デジタル大辞泉, 小学館, weblioにて2025/6/8閲覧
「証明」, デジタル大辞泉, 小学館, weblioにて2025/6/8閲覧
「検証」, デジタル大辞泉, 小学館, weblioにて2025/6/8閲覧
「究極要因」, 日本大百科全書(ニッポニカ), 小学館, コトバンクにて2025/6/8閲覧
伊藤理子 (2021/5/24公開, 最終更新2021/6/15)「世界的デザイナーがやさしく解説「誰でもつかめる、創造的なアイディアを生む進化思考」~太刀川英輔氏」, リクナビNEXTジャーナル. https://next.rikunabi.com/journal/20210524_p01/
井上拓也 (2018) 「アフォーダンス知覚を促すデザインとしての言語 ––生態学的言語論の理論的考察––」 Japanese Journal of Ecological Psychology, Vol.11, No.2, 59-62. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jep/11/2/11_59/_article/-char/ja/
豊泉俊大 (2020) 「郵便ポストのアフォーダンスについての一考察」 Journal of Kyosei, 4巻, p.80-106. https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/75387/
内村真之 (1999)「地中海のイチイヅタ」藻類Jpn. J. Phycol. (Sorui), 47, p.187-203. http://sourui.org/publications/sorui/list/Sourui_PDF/Sourui-47-03-187.pdf
Tinbergen N. (1963) On aims and methods of Ethology. Zeitschrift für Tierpsychologie, Vol.20, Issue 4, p.410-433. https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1439-0310.1963.tb01161.x
「Ergo Grip Keycap Remover」, 株式会社アーキサイト. https://archisite.co.jp/products/archiss/kbp/keycap-remover/
「進化」, 岩波 生物学辞典 第5版, 岩波書店, ジャパンナレッジにて2025/6/8閲覧. https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1757
「runaway」, 『Oxford Advanced Learner's Dictionary 10th edition』, Oxford University Press, p.1362
藤田竜太 (2022/1/12 06:20)「多くの人のフルブレーキは「フル」じゃなかった! イザというときABSを効かせられる方法とは」, WEB CARTOP. https://www.webcartop.jp/2022/01/830829/
「対処」, デジタル大辞泉, 小学館, weblioにて2025/6/8閲覧
「処置」, デジタル大辞泉, 小学館, weblioにて2025/6/8閲覧
Sakamoto H., Aoki D., Uemura S. & Takagi M. (2023) Genetic parent- offspring relationships predict sexual differences in contributions to parental care in the Eurasian Tree Sparrow. Ornithological Science 22(1), p.45 - 56. https://bioone.org/journals/ornithological-science/volume-22/issue-1/osj.22.45/Genetic-Parent-Offspring-Relationships-Predict-Sexual-Differences-in-Contributions-to/10.2326/osj.22.45.short
Lyon B. E. (1993a) Conspecific brood parasitism as a flexible female reproductive tactic in American coots. Animal Behavior, Vol.46, Issue 5, p.911-928. https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S000334728371273X?via%3Dihub
Yom-Tov Y. (2001) An updated list and some comments on the occurrence of intraspecific nest parasitism in birds. Ibis, Vol.143, Issue1, p.133-143. https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1474-919X.2001.tb04177.x
Moli F. L., Grasso D. A., D'Ettorre P. & Mori A. (1993) Intraspecific slavery in Polyergus rufescensLatr. (Hymenoptera, Formicidae): field and laboratory observations. Insectes Sociaux, Vol.40, p.433-437. https://link.springer.com/article/10.1007/BF01253905
jcmswordp (SHINICHIRO HONDA) (2016/2/17)「書評:利己的な遺伝子〈増補新装版〉 Book review : Richard Dawkins, The Selfish Gene」, "進化,歴史 Evolution, History". https://jcmswordp.wordpress.com/2016/02/17/%E5%88%A9%E5%B7%B1%E7%9A%84%E3%81%AA%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90%E3%80%88%E5%A2%97%E8%A3%9C%E6%96%B0%E8%A3%85%E7%89%88%E3%80%89/
横山正 (1977) 『透視画法の眼 : ルネサンス・イタリアと日本の空間』 相模書房
青木久美子 (2005)「学習スタイルの概念と理論―欧米の研究から学ぶ」Journal of Multimedia Aided Education Research, Vol.2, No.1, p.197-212. https://www.code.ouj.ac.jp/media/pdf2-1-3/No.3-18kenkyutenbou01.pdf
「相似」, デジタル大辞泉, 小学館, weblioにて2025/6/8閲覧
「Evolution of sexual reproduction」, Wikipedia, (2025/5/3閲覧). https://en.wikipedia.org/wiki/Evolution_of_sexual_reproduction#Speed_of_evolution
「【魚拓】Evolution of sexual reproduction」, Web魚拓, (2025/5/30/19:00アーカイブ). https://megalodon.jp/2025-0530-1900-06/https://en.wikipedia.org:443/wiki/Evolution_of_sexual_reproduction
「料理」, デジタル大辞泉, 小学館, weblioにて2025/6/8閲覧
「能力」, デジタル大辞泉, 小学館, weblioにて2025/6/8閲覧
「方法」, デジタル大辞泉, 小学館, weblioにて2025/6/8閲覧
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2023/12/24)「最初の方で「創造性」が「創造力」に変わってたところがあって、多分全体を通して多少は改善されて読める文になっているだろうとは思われたけど。
『進化思考批判集』の5章は卒論書いてて先生に「文章が論理的なじゃない」と指摘された学生の役に立つんじゃないかなと思って書いたところもあります。」, X. https://x.com/itojundesign/status/1738585761107316771Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2023/12/24)「例えばp48「私は、創造という現象について次のような仮説を立てた。創造とは、言語によって発現した「疑似進化」の能力である。」現代文や英文読解的に書けば、前文からは「創造」=「現象」、後文からは「創造」=「能力」、となるが、明らかに「現象」≠「能力」であるため、もう理解不能だ。23/n」, X. https://x.com/itojundesign/status/1598973773038120960?s=20
イトウジュン (2022/12/31)「意見書とその撤回を受けて(進化思考関連)」, note. https://note.com/phd_itojun/n/nb1ea0fa0bd54
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/6/16)「ただ残念ながら、 ・この期に及んで匿名 ・『進化思考』は未読 ・非論理的な読み(ご自身は「読解力」だと誇っているようですが) という欠点がありますね。 文字数が多ければ良いというものでもないです。まずはこの鼻息の荒さで本歌の『進化思考』をお読みになってはと思います。憤死必死ですが。」, X. https://x.com/itojundesign/status/1934571009463783864?s=20
かきのね@hmn38n (2025/4/10)「あと他の批判者のツイートにて以下の画像のような記述を見たので、ベイツ型擬態(とランナウェイ仮説)については別におかしくないのではないかと思い、批判集の該当部分を読みましたが、普通に不適切な批判だと思いました。https://x.com/katzkagaya/status/1908533396390740010」, X. https://x.com/hmn38n/status/1910139356788240780
進化思考 (2022/7/28) 「『創造性の誤解を解く鍵としての進化論』」, note. https://note.com/shinkalab/n/n767884b40a54
松井実 (2022/7/28)「誤読者より」, note. https://note.com/xerroxcopy/n/n1c266544f43b
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2022/7/30)「進化思考著者の反論の中でリンク貼られてますよ。是非読んでみてください。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1553278970593828864
「適応 (生物学)」, Wikipedia, (2025/12/25閲覧). https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A9%E5%BF%9C_(%E7%94%9F%E7%89%A9%E5%AD%A6)
「適応 (adaptation) - 生物分子科学科」, 東邦大学. https://www.toho-u.ac.jp/sci/biomol/glossary/bio/adaptation.html
「生物用語解説 - 適応」, 浜島書店. https://www.hamajima.co.jp/rika/nsbio/glossary/term_04_4.html
「適応度とは何か?」, 九州大学. https://www.biology.kyushu-u.ac.jp/~ecology/yahara/lecture/2010EcologyI1.pdf
「環境と生物 8D #( 環境への適応 :5 -」, 生態学研究センター. https://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~tsubaki/Tsubaki/Lecture_Note_files/Adaptation.pdf
庄野邦彦 (2018/08/02)「植物が環境に適応できる訳とは? | みんなのひろば」, 日本植物生理学会. https://jspp.org/hiroba/q_and_a/detail.html?id=4167
熊谷直喜 (2022/12/28)「気候変動に対する生物の「適応」(2022年度 41巻5号)」, 国立環境研究所. https://www.nies.go.jp/kanko/news/41/41-5/41-5-05.html
伊藤哲司 (2018)「世界に向けた研究対話の展望:「適応」概念の越境を通して考える」発達心理学研究, 29巻, 4号, p.189-198. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjdp/29/4/29_189/_article/-char/ja/
「Adaptation」, Wikipedia, (2025/12/25閲覧). https://en.wikipedia.org/wiki/Adaptation
長谷川眞理子 (2002)『生き物をめぐる4つの「なぜ」』集英社
森中定治 (2024/10/25)「太刀川英輔著『進化思考[増補改訂版]』を読んで」, 森中定治ブログ「次世代に贈る社会」. goo blogサービスが終了したので代わりにWEB魚拓のURLを貼る (2025/10/3/22:10アーカイブ). https://megalodon.jp/2025-1003-2210-33/https://blog.goo.ne.jp:443/delias/e/c3269509e2d03e10ee71be77037f5956
Minoru Matsui (2022/6/26)「『進化思考』批判 日本デザイン学会第69回春季研究発表大会」, YouTube. https://www.youtube.com/watch?v=iFAO_-PSxDI
shokou5@shokou5 (最終更新2022/8/2)「太刀川英輔『進化思考』と,デザイン学/生物学研究者らの批判,著者からの応答など.」, posfie. https://posfie.com/@shokou5/p/TDaMteq
「太刀川英輔『進化思考』を巡る論争のログをやっと読み終わったので個人的なまとめ」, Days of TRICKS, (2022/8/3). https://sdtricks.net/archives/7437
Hiroki Gotoh@静大5年目@Cyclommatism (2022/7/21)「かめふじさんの渾身の解説。ほぼ全面的に支持します。 「進化」って言葉を専門用語として正しく理解している人って本当に少なくて、生物学者でも誤った理解をしている人が少なくありません(むしろ多数派かもしれない)。 『進化思考』における間違った進化理解の解説 http://kamefuji-lab.seesaa.net/article/489743059.html」, X. https://x.com/Cyclommatism/status/1550093990846148609
阿部真人|Masato S. Abe@a_symap (2022/8/16)「「進化思考」批判ブログを執筆したかめふじさん@kamefuji には頭が上がらない。あれだけ時間かけて調べて書いたって1円も入らないわけで。彼にあるのは進化の正しい理解を広めたいという思いだけですよ。(ほしい物リストが公開されていたので応援のためAmazonギフト券を贈った)」, X. https://x.com/a_symap/status/1559538711661907968
Tetsukazu Yahara@TetYahara (2022/8/1)「『進化思考』は以前に購入してページをめくってみたが、そっとページを閉じた。進化についてに多くの記述が不正確であることに加え、創造性研究という研究分野の先行研究がほとんど参照されていない。先行研究に対するリスペクトと理解抜きに自説を展開した本は、私にとっては価値がない。」, X. https://x.com/TetYahara/status/1553859229110321153
Sakaguchi Yukitoshi@Sakaguchi920 (2022/8/20)「メタ的に見て、社会としてこういった一般書にどこまでの科学的正当性を期待するべきかの議論は面白そう。科学的言説にこだわって8割方のビジネス書を出版停止に追い込むのか、それとも一般書なんだからと、単なる「宗教」なんだと割り切るのか。」, X. https://x.com/Sakaguchi920/status/1560745296455692288
H. Tanaka@Hayato_1117 (2022/7/21)「とても勉強になる解説。 それにしても、よくここまで丁寧に解説できるなぁ。本は読んでないけど、引用されている部分だけで発狂しそうになる。」, X. https://x.com/Hayato_1117/status/1550112035161092096
Shohei Takuno@ShoheiTakuno (2022/7/22)「すごい読み応えのある記事やった。適応っていう言葉をちゃんと使いたい人は読むべし。」, X. https://x.com/ShoheiTakuno/status/1550348228054650880
Eiji Domon/ Bernardo Domorno@Dominique_Domon (2022/7/31)「ウムウムとうなずきながら読んだけれど、これを読むとお金を払って原典(『進化思考』)にあたる気がしなくなるのである。」, X. https://x.com/Dominique_Domon/status/1553610095258324994
Katsushi Kagaya@katzkagaya (2022/7/21)「思い出すのは、脳の「活性化」ですが、ここでは「適応」が主。教育的価値のある投稿、ありがとうございます。」, X. https://x.com/katzkagaya/status/1550106191933476865
深野 祐也@Alien_Evolve (2022/7/22)「お疲れ様です。某面接で「それは進化なの?適応じゃないの?」と言われたことを思い出しました。 この本、私も少しだけ読みましたが、著者のアイデアは自然選択による進化の枠組みではなく、文化進化の枠組みにきちんと乗せた方がよかったのではないかと思っています。」, X. https://x.com/Alien_Evolve/status/1550278908049649664
Ryusuke Niwa@TsukubaNiwaLab (2022/7/24)「素晴らしい力作。」, X. https://x.com/TsukubaNiwaLab/status/1551144632314015744
佐伯恵太@Keita_Saiki_ (2022/7/22)「本当は専門家でも理解するのが大変なのに、表面上キャッチーなテーマというのは、扱うのが本当に難しいです。科学を利用するのであれば、科学に誠実でなければならないと思います。科学の知識や理論を、誰のために、何のために使うのか。」, X. https://x.com/Keita_Saiki_/status/1550325367826956288
Takefumi Nakazawa@Take_Nakazawa (2022/7/21)「おつかれ」, X. https://x.com/Take_Nakazawa/status/1550093036621021187
ら@mutselbalance (2022/7/25) 「社会的意義が大きい」, X. https://x.com/mutselbalance/status/1551465235239686144
勝川 俊雄🐬@katukawa (2022/7/31)「面白かった。 進化は、生態系の多様性の源泉のメカニズムなので、多くの研究者の関心が注がれてきた一方で、ポケモンの進化のように、誤用が多い概念でもある。一般人ならいざ知らず、他人にものを教える立場なら、正しく用語を使うべきですね。」, X. https://x.com/katukawa/status/1553614978674225152
Toru Miyamoto@toooochan0514 (2022/7/24)「やっと読み切った。渾身の記事でした。」, X. https://x.com/toooochan0514/status/1551098486493696000
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2023/12/19)「進化思考批判集、師匠から一ヶ所ツッコミが入ったけどだいたいよろしいというおホメの感想が来てとても安心している。これでもうこの件についてやり残したことはない。マサカド思考はもう知らん。あとは任せた。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1737040055032774794
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/6/16)「例えば非論理的だと感じる部分。 >>「エラー的な変異」と「変異によるエラー」を変異とエラーの定義文と見なす伊藤氏の解釈にはやや無理やり感がある 「定義文」などと大袈裟なことを言わなくても、この循環がまずいと思わない時点で「私は論理的な読み手ではありません」と宣言しているようなものだ。」, X. https://x.com/itojundesign/status/1934572008689561889?s=20
イトウジュン (2026/1/31)「『進化思考批判集』批判への応答」, note. https://note.com/phd_itojun/n/na9ea62198fec
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/6/16)「「ヒットするアイデアが出てくる」云々の「普通の人ならなんなく理解できる表現に引っかかっていることからも、残念ながら伊藤氏の文章読解力は大して高くないだろう」に至っては笑止である。「なんなく理解できる表現」だとて誤りは誤りである。トークであれば聞き流すが文字にするとなれば話は別だ。」と宣言しているようなものだ。」, X. https://x.com/itojundesign/status/1934574806785228927?s=20
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/6/16)「生物学の事実誤認だとして私に向けられたものの一例に「ベイツ型擬態」に関するものがある。ここでは字数が足りないので後日noteにでも書くが、「強いふり」のトラカミキリ云々は『進化思考』の本文の前後に書かれているのである。「間違っている」とされているのは私のではなく太刀川氏の理解なのだ。」, X. https://x.com/itojundesign/status/1934573829311115478?s=20
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/6/16)「批判集への批判が出ること自体は健全で良いことなのだが、残念ながら批判としての質には大いなる疑問符がつく。また一連の流れだけを見て、内容を読まずに「批判集も批判されているんだから大したことないな」と思う向きも多そうなので、とりあえず編者として明確に反論をしておく。」, X. https://x.com/itojundesign/status/1934576994110574825?s=20
minoru matsui@minoru_matsui (2025/6/14)「この記事を「進化学の専門家による」ものだと読み取るリテラシーをみると、最初の学会発表の時点で著者本人の意見を変えることを諦めたのは正しい判断だったと改めて思います 「社会の各セクターを進化へ導くデザインパートナー」に進化学は早すぎた」, X. https://x.com/minoru_matsui/status/1933786426317156675?s=20
persimmon (2026/2/11)「「『進化思考批判集』批判への応答」への応答」, note. https://note.com/prime_ivy5995/n/ne874057305ce
河田雅圭 (2024/10/16) (2026/2/26 追記)「『進化思考』の生物学監修の経緯と専門家の役割」, note. https://note.com/masakadokawata/n/n7dcf9549d4cd?sub_rt=share_pw#e7bbc6bc-5123-4471-a225-57d6316a24ef
minoru matsui@minoru_matsui (2026/2/26)「林・松井を名指しして「適応概念の議論をよく把握していないと思われる」とありますが、具体的に私のどの記述のどこが誤りでしょうか。誤りがあれば改訂しますよ!記事中では「修正点がある場合は太刀川氏や私に直接指摘してほしい」とも書かれていますが、ご自身による批判には適用なさらないんですか」, X. https://x.com/minoru_matsui/status/2026809491656782090?s=20
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2022/7/24)「デタラメ言う方は言うだけ言って聴衆を煙に巻ければそれでいいのでしょうけど、ファクトチェックしなければならない方は例の記事みたいに専門書やら論文やらいちいちチェックしてからなるべく誤解のないように丁寧に説明しなきゃいけないので、努力も労力も非対称なんですよね…。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1551038002809704448?s=20
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2022/7/21)「進化学徒どもからの批判はとりあえず現時点で来ていない。よかった。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1550121866378952706
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2022/7/21)「ほぼ全面的に支持してくれる研究者がいて安心した。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1550098607462023170?s=20
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2022/7/22)「おおむね好評のようで安心している。著者の進化理解の更新は諦めているので、既に購入してしまった人と潜在的読者層に届いてほしい。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1550318170086735872?s=20
minoru matsui@minoru_matsui (2022/7/6)「適応と選択が逆なのでは、と思っていたのだけど不勉強で確たることを書けなかった。やはりそうだそうです」, X. https://x.com/minoru_matsui/status/1544343927347523584?s=20
minoru matsui@minoru_matsui (2022/7/21)「本当に素晴らしい解説になっとる。ありがたすぎる 特に「自然選択によって発生する適応は進化のすべてではなく浮動による中立進化もある」というのは「あっそうかそういえばよかったんだ」という中立進化でD論書いた人としては忸怩たる思いが」, X. https://x.com/minoru_matsui/status/1550109226856374274?s=20
minoru matsui@minoru_matsui (2022/7/22)「かめふじさんの記事を読んだあとだと、この「別のプロセス」ってのよくなかったかなと思い始めている(始めているだけで確信には至っていない 至るための知識がない)適応という結果が生じるプロセス=自然選択、とするのがいいのかな」, X. https://x.com/minoru_matsui/status/1550266544025874432?s=20
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2022/12/3)「『進化思考』に対する私からの批判は学会の梗概とZennに書いた通りであり、徒に繰り返す気はないのだが、進化学周辺からの批判がこれほど燃え上がるとは想像していなかった。博士の皆さんがこれだけ激しく批判しているのだから、著者の進化に関する理解は間違っているのだろうと思う。21/n」, X. https://x.com/itojundesign/status/1598973268102615040?s=20
あきらこさくらい@AkrSakr (2025/10/01) 「太刀川たれがしの「進化思考」の進化てのはポケモンの進化のことか。だったらあれは進化でなく変態だから、変態思考、いやH思考とよべ(それならゆるす」, X. https://x.com/AkrSakr/status/1973370230773784821?s=20
姫岡 優介@yhimeoka (2022/7/21)「いや、あの本は「クリエイティブと進化は似ている!」みたいな話と「進化=進歩だ!」みたいは激ヤバ進歩史観&歴史知らなさすぎ優生思想(批判記事読む限り)らしいので、単にヤバいだけですよ」, X. https://x.com/yhimeoka/status/1550110843559297024?s=20
persimmon (2026/1/17)「『進化思考』の件を振り返ることの重要性について」, note. https://note.com/prime_ivy5995/n/n5caf8e6e6adf
Matsui M. & Ito J. (2022) Data for Critique of Evolution Thinking. https://osf.io/r864c/overview
Yuta Kashino@yutakashino (2022/7/4)「『進化思考』批判 日本デザイン学会第69回春季研究発表大会 - YouTube https://buff.ly/3NA3NQs 講演も公開されてますね。擬似科学で間違いだらけと一刀両断。良い。」, X. https://x.com/yutakashino/status/1543884607548002306?s=20
シャンメリエンヌ@Chanmerienne (2022/7/22)「めちゃくちゃ笑った。ビジネスの人って好き勝手な自分語を他人が別の意味で定義した言葉に当てはめるよね、悪びれもせずに。 >当初、「進化」と「創造」を同じ意味で使うことは誤用だったはずだ。(p. 46) 現在でも誤用です。 『進化思考』における間違った進化理解の解説 http://kamefuji-lab.seesaa.net/article/489743059.html」, X. https://x.com/Chanmerienne/status/1550381314942967814?s=20
Yuki Yokoyama@dagastein (2024/1/4)「進化思考批判集、とても興味深くて年末にサクサク1-2部読了。自分が何故こんなに進化思考に対して激しい怒りや悲しみを抱いてるのかについて的確に指摘されてて言語化してくれてるのが非常に助かる… 「著者の思い込みが出発点なので、結論もまた思い込みによる断言にしかなっていない」 ほんこれ…」, X. https://x.com/dagastein/status/1742893987252596749
Alan S. & Jean B. (1997) / 田崎晴明, 大野克嗣, 堀茂樹 訳 (2012)『「知」の欺瞞』岩波書店
浜地貴志@hamajit (2022/7/30)「進化生物学に関しても、この本で描かれた騒動はまさしく当てはまる、ということです。わたし世代にとっては常識ですが、後の世代では秘匿されていくのではないかと危惧する→「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)」, X. https://x.com/hamajit/status/1553393187816763392?s=20
Yasuyuki Hashiguchi@hashiyuki0909 (2022/7/31)「私もこの件に関してはまさにこの本が思い浮かんだ ソーカル事件のように、進化生物学の側が専門用語を駆使したデザイン理論(?)の論文を書いて界隈に投稿し、話題になってから種明かしする、とか考えたけど趣味の良い話ではないし、現代の研究者は忙しいので、変なのに関わっている時間はない」, X. https://x.com/hashiyuki0909/status/1553599795465715714?s=20
Eiji Domon/ Bernardo Domorno@Dominique_Domon (2024/5/27)「昔、ソーカル事件というのがございましてな。 最近では「進化思考」というのもそうですが、他分野の概念を玩具にして、いや玩具という価値判断を抜きにすれば、本来の文脈から切り離された不正確な概念の援用をして自説を展開する人は様々な分野に散見されますな。」, X. https://x.com/Dominique_Domon/status/1795062159442948459?s=20
川端裕人・「新版・色のふしぎと不思議な社会 2020年代の色覚原論」(ちくま文庫)が出ました!@Rsider (2023/12/16)「ぼくもつい2週間ほど前に「当書」の最初の50ページくらいを読んだけれど、苦痛だった。最初の大きな引っ掛かりは「進化」を「変異と適応」という言葉で表現すること。変異があって、自然選択があって、結果、適応的なものが残っていく、くらいならまだしも。大小細々ありすぎて、読み進められなかった」, X. https://x.com/Rsider/status/1735982156189675602?s=20
川端裕人・「新版・色のふしぎと不思議な社会 2020年代の色覚原論」(ちくま文庫)が出ました!@Rsider (2023/12/16)「PDF版が無料公開された『進化思考批判集』でもその点、はっきりと指摘されていた。あと、自分が「ええっ」と思ったのは、進化論を語る場面で「創造」を語るなら、進化論が当時の宗教的世界観との相克を経験したことを踏まえた丁寧な記述と、今ここで扱う「創造」とどう違うのか説明がほしいこと。」, X. https://x.com/Rsider/status/1735983538728784293?s=20
Williams G.C. (2018)/辻󠄀和希 訳 (2022)『適応と自然選択―近代進化論批評―」共立出版
Williams G.C. (1996)『ADAPTATION AND NATURAL SELECTION―A Critique of Some Current Evolutionary Thought―』Princeton University Press.
Williams G.C. & Nesse R.M. (1991) The Dawn of Darwinian Medicine. The Quarterly Review of Biology, Vol.66, No.1, p.1-22. https://www.journals.uchicago.edu/doi/abs/10.1086/417048
Sober E. & Wilson D.S. (2011) Adaptation and natural selection revisited. Journal of Evolutionary Biology, Vol.24, Issue 2, p.462-468. https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/j.1420-9101.2010.02162.x
Sober E. (1984) 『The Nature of Selection: Evolutionary Theory in Philosophical Focus』Cambridge MA: MIT Press
Lewens T.「Adaptation」In: Hull D.L., Ruse M., eds. (2007)『The Cambridge Companion to the Philosophy of Biology』Cambridge Companions to Philosophy, Cambridge University Press, p.1-21. https://www.cambridge.org/jp/universitypress/subjects/philosophy/philosophy-science/cambridge-companion-philosophy-biology?format=PB&isbn=9780521616713#contents
Minaka Nobuhiro 〈みなか食堂〉店主@leeswijzer (2024/4/10)「[欹耳袋]日本生物地理学会第78回大会シンポジウム〈進化思考の光と影〉2024年4月14日(日)15:00〜17:00(zoom開催)【演者】伊藤潤「増補改訂版を読む」/松井実「賢いデザイナー、本質主義、ビンゴカード」/林亮太「特級呪霊に育つ前に:ダーウィンの呪いと解呪の試み」(続」, X. https://x.com/leeswijzer/status/1777800320002785522?s=20
Minoru Matsui (2024/06/27)「松井実(2024) 賢いデザイナー、本質主義、ビンゴカード. 第78回生物地理学会大会シンポジウム」youtube. https://www.youtube.com/watch?v=yrSpJ-6tq7Y
persimmon (2026/2/7)「日本生物地理学会主催シンポジウム〈進化思考の光と影〉について」, note. https://note.com/prime_ivy5995/n/n59d7b4a0dc50
Kimura M. (1968) Evolutionary rate at the molecular level. Nature, Vol.217, p.624-626. https://dosequis.colorado.edu/Courses/MethodsLogic/papers/Kimura1968.pdf
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2022/7/12)「あとがきから読み始めた師匠本、アタマでいきなりよくわかんないとこが出てきてめんどくさくなり電話で質問した。「こんなとこでつまづいてんじゃねぇ」と怒られるかと思ったが、わりと丁寧に説明してくれた。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1546844807456509953?s=20
「伊藤, 林, 松井(2023)進化思考批判集 印刷版(V1.0.0)正誤表」, Google スプレッドシート. https://docs.google.com/spreadsheets/d/1kBQVRnizuNQKd_WJDbRE76dxKoDw117orOidol-hVOI/edit?sharingaction=ownershiptransfer&gid=1515657852#gid=1515657852
Darwin C.R. (1859)『On the origin of species by means of natural selection, or the preservation of favoured races in the struggle for life』 London: John Murray. [1st edition] (Cite as: John van Wyhe ed., 2002-. The Complete Work of Charles Darwin Online). https://darwin-online.org.uk/content/frameset?itemID=F373&viewtype=text&pageseq=1
長谷川眞理子 (2020) 『ダーウィン種の起源 : 未来へつづく進化論』NHK出版, NHK「100分de名著」ブックス, kindle版
「mimesis」, 世界大百科事典(旧版), 小学館, コトバンクにて2026/3/16閲覧
小西泰正「昆虫界の真と贋——擬態」, 西野嘉章 編 (2001)『真贋のはざま: デュシャンから遺伝子まで』 東京大学出版, 東京大学コレクション, Web公開版. https://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/dkankoub/publish_db/2001Hazama/index.html
宇津木成介 (2010) コミュニケーションと擬態. 国際文化学研究 : 神戸大学大学院国際文化学研究科紀要, Vol.35, p.127-155. https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/81002671/
江口英輔 (2002)「擬態の不思議—嘘も立派な生存戦略」横浜市立大学論叢自然科学系列, Vol.53, No.3, p.27-42.
von Beeren C., Pohl S. & Witte V. (2012) On the use of adaptive resemblance terms in chemical ecology. Psyche: A Journal of Entomology, Vol.2012, Issue 1, 635761. https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1155/2012/635761
小池孝範, 清多英羽, 奥井現理, 紺野祐, 走井洋一 (2011)「「タブラ・ラサ」説と教育万能論 ––「生まれか育ちか」論争をてがかりに––」秋田県立大学総合科学研究彙報, 12号, p.1-15. https://akita-pu.repo.nii.ac.jp/records/106
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2024/1/5)「これはなかなかいいところを抜き出してくれていて、引用のない文章ももちろんだし、生物学分野だろうがデザイン分野だろうがとにかく著者の思い込みに合わせて文献の中身を捏造して引用するという著者の知的不誠実さが進化思考の最大の問題点なんです。最大の問題は中身の正確さではないんです。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1743271662735507937?s=20
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2024/1/5)「なので河田さんが監修してたとえ生物学的には間違いがなくなったとしても(見てないけどそれも無理だと思うけど)、著者の知的不誠実さが改善されていないのであれば進化思考は相手にしてはいけないんです。先人が積み上げてきた成果と既知の知識に対する敬意と誠実さがないからです。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1743273893048254819?s=20
Langley L. / 米井香織 訳 (2015/12/02) 「「最強生物」クマムシ、衝撃のDNA構成が判明」, ナショナルジオグラフィック日本版. https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/a/120100053/
深野祐也 (2026/2/2)「「気持ち」でながめる自然保護(前編)」WEBみすず. https://magazine.msz.co.jp/series/evolution-ecology/11/
Andersson M. (1982) Female choice selects for extreme tail length in a widowbird. Nature, Vol.299, p.818-820. https://www.nature.com/articles/299818a0
Andersson S., Pryke S.R., Örnborg J., Lawes M.J. & Andersson M. (2002) Multiple Receivers, Multiple Ornaments, and a Trade‐off between Agonistic and Epigamic Signaling in a Widowbird. The American Naturalist, Vol.160, No.5, p.683-691. https://www.journals.uchicago.edu/doi/abs/10.1086/342817
Pryke S. R. & Andersson S. (2005) Experimental evidence for female choice and energetic costs of male tail elongation in red-collared widowbirds. Biological Journal of the Linnean Society, Vol.86, Issue 1, p.35-43. https://academic.oup.com/biolinnean/article-abstract/86/1/35/2691528?login=false
Pryke S. R. & Andersson S. (2002) A generalized female bias for long tails in a short-tailed widowbird. Proceedings of the Royal Society B: Biological Sciences, Vol.269, p.2141-2146. https://royalsocietypublishing.org/rspb/article-abstract/269/1505/2141/71598/A-generalized-female-bias-for-long-tails-in-a
三中信宏 (2012)『系統樹曼荼羅―チェイン・ツリー・ネットワーク』NTT出版.
kamefuji (2024/3/5)「『進化思考批判:デザインと進化学の観点から』について」, note. https://note.com/kamefuji/n/nb25baced9306
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2022/7/24)「なおこちらもツイ消しされてしまいましたが、当方といたしましては対話したところで進化思考の進化理解が完全に間違っていることが揺らぐわけでもないので、対話の必要性を感じていません。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1551036897480552449?s=20
アサイ@poplacia (2023/12/18)「主にまえがき、1章、2章、あとがきを中心に読んだ。お疲れさまです。本当に。」, X. https://x.com/poplacia/status/1736670393350693115?s=20
KN(生物系翻訳)『家畜化という進化』『世界のサメ』『世界のクモ』『地球博物学大図鑑』など@KanaeNishio (2023/12/16)「100回ぐらいリツイート(リポスト)したい!」, X. https://x.com/KanaeNishio/status/1735819339062997191?s=20
小坪 遊 Yu Kotsubo@SciKotz (2024/1/3)「新年最初の読書は「進化思考批判集」を読み始めましたが、気分が悪くなってやめてしまいました。これはこの本が原因というより、元の本の内容がきちんと引用されているため、改めてあの「ドヤァ!」と自信満々で間違っている記述に何度も向き合わざるを得ないのと、自分の知識では分からなかった 続」, X. https://x.com/SciKotz/status/1742388223224267177?s=20
こなみひでお@konamih (2024/2/23)「かめふじさんらの『進化思考批判集』のサポートページ。立派な仕事だ! 自分の得にはならない、だが誰かがしなければならない、雪かきのような重労働。話題の検証本『土偶を読むを読む』の著者・松井実が博士論文を携え本格参戦。」, X. https://x.com/konamih/status/1760892409075146937?s=20
保科英人@hidetohoshina (2025/4/14)「本学の図書館に『進化思考』は所蔵されているが、『進化思考批判集』はない。今年度の図書推薦で『進化思考批判集』を購入希望図書に挙げておこう。出版社に在庫はあるはず。」, X. https://x.com/hidetohoshina/status/1911752174746673327?s=20
かなW@oookanaW104 (2022/7/22)「こうばしい本があるもんだ
言葉の誤用(というか理解していない言葉を乱用すること)には気をつけなければならないね」, X. https://x.com/oookanaW104/status/1550275035021348864?s=20海ゴリラ@the_kawagucci (2022/8/10)「こういうのスゴい大事だし、こういうのをオーソライズしてアーカイブするために学会の和文誌ってのが存在しているのではないかと思う。」, X. https://x.com/the_kawagucci/status/1557101466459840514?s=20
伊藤洋志/Ito Hiroshi@marugame (2022/7/24)「「進化思考」だけではなく、進化を誤用したビジネス本は多く一個一個誤りを指摘するのは頭が痛くなるし手間。こんな面倒な仕事を未来ある学生のために労を取っていただき感謝しかない。」, X. https://x.com/marugame/status/1551066902700601344?s=20
Yuta Kashino@yutakashino (2022/7/31)「『進化思考』における間違った進化理解の解説: かめふじハカセの本草学研究室 https://buff.ly/3blH9y7 かめふじさんの「進化思考」批判がまとまってます.取り付く島も無い容赦無さが良い.そう,インチキな人たちが「適応」にこだわるの,操作可能と思わせないと信者商売に結びつけられないので…」, X. https://x.com/yutakashino/status/1553696057166528512?s=20
Eiji Domon/ Bernardo Domorno@Dominique_Domon (2022/7/31)「"『進化思考』批判"もななめ読みした。 こちらも、少し気を付けてほしいのだけれど、「エラー」 (p70)について「DNAの変異は転写翻訳を正しく遂行できなかった「スリップ」である。」と指摘しているが、DNAの変異は複製の際に発生する。https://zenn.dev/xerroxcopy/books/9d41f9b4f1701f」, X. https://x.com/Dominique_Domon/status/1553612688369938433?s=20
Eiji Domon/ Bernardo Domorno@Dominique_Domon (2022/7/31)「こんな感じですので、お金を出して原典を読むことはないと思います…」, X. https://x.com/Dominique_Domon/status/1553628773718695936?s=20
姫岡 優介@yhimeoka (2022/7/28)「あらかじめ存在している用語を使いながら、それが間違っていると指摘されると「私の用法(『進化思考』)においてはそういう意味ではありません」と言うのはすごいな
進化論における「創造」含め、用語が出来上がってきた歴史やそれに由来するものを都合よく無視したいなら自分の言葉で語ればいいのに」, X. https://x.com/yhimeoka/status/1552476288757116928?s=20Hoso🐌@MasakiHoso (2022/7/30)「進化思考家さんのFBコメント欄を覗いてみて驚いた。150年かけて積み上げてきた進化生物学の体系を捨て置いて、学術用語をファッションとして弄んでいる人たちの群れがいた。」, X. https://x.com/MasakiHoso/status/1553367387151355905?s=20
Yasuyuki Hashiguchi@hashiyuki0909 (2022/7/27)「284ページからの「系統樹」についての記述を一読するだけでも、著者が進化生物学はおろか、科学もまともに理解していないことがわかる」, X. https://x.com/hashiyuki0909/status/1552113564181495808?s=20
松井実 & 伊藤潤「『進化思考』批判」, Zenn. https://zenn.dev/xerroxcopy/books/9d41f9b4f1701f
Paul S.S,. Ron R.H., Itai C. & Tsevi B. (2017) Walking like an ant: a quantitative and experimental approach to understanding locomotor mimicry in the jumping spider Myrmarachne formicaria. Proc Biol Sci, Vol. 284, Issue 1858, 20170308. https://royalsocietypublishing.org/rspb/article/284/1858/20170308/78593/Walking-like-an-ant-a-quantitative-and
Davis Rabosky A.R., Cox C.L., Rabosky D.L., Title P.O., Holmes I.A., Feldman A. & McGuire J.A. (2016) Coral snakes predict the evolution of mimicry across New World snakes. Nature Communications, Vol.7, Article no.11484. https://www.nature.com/articles/ncomms11484#citeas
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/6/16)「我々も『進化思考批判集』単独でも読めるように、と編集執筆したつもりではあるが、こういった誤読が起こるので、『進化思考』を参照しないでの批判は無理があるし、あまりに枝葉末節であろう。」, X. https://x.com/itojundesign/status/1934574197499666881?s=20
「ノートパソコン」, Wikipedia, (2026/3/20閲覧). https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%91%E3%82%BD%E3%82%B3%E3%83%B3
大河原克行 (2025/4/7 09:54)「ニュースリリースで振り返る、時代を築いたPCたち【NEC編 PC-9801N~PC98-NX】」PC Watch. https://pc.watch.impress.co.jp/docs/topic/feature/2004547.html
佐々木潤 (2017/12/19 08:05)「“国民機”と銘打って登場したEPSONの「PC-286・386」シリーズと、数多くの作品を発売した老舗ソフトハウス「エニックス」」AKIBA PC Hotline!. https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrosoft/1090204.html
本田雅一 (2009/10/16)「【本田雅一の週刊モバイル通信】“ネットノート”という言葉に込めた東芝の想い」PC Watch. https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/mobile/322105.html
「欠失」, デジタル大辞泉, 小学館, weblioにて2026/3/19閲覧
千田 峰生「系統分化におけるダイズ種皮着色形質の欠失に関する分子遺伝学的研究」, KAKEN. https://kaken.nii.ac.jp/grant/KAKENHI-PROJECT-09760003/
吉永直子 (2025/6/19)「22K05452 研究成果報告書」, KAKEN. https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-22K05452/22K05452seika.pdf
正井博之 (1984) 「食酢醸造微生物学の進歩 (2)」, 日本釀造協會雜誌, 79巻, 7号, p.467-474. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jbrewsocjapan1915/79/7/79_7_467/_article/-char/ja/
志村貴也「分子病理学的解析による十二指腸上皮性非乳頭部腫瘍の病態解明」, 研究実績報告書. https://www.acrf.or.jp/joseikin/2020/index.html
本道栄一 (2021)「コウモリがウイルスの自然宿主になりやすい仕組みを解明」, 名古屋大学 研究成果発信サイト. https://www.nagoya-u.ac.jp/researchinfo/result/upload/20210830_agr_4.pdf
小田広樹, 秋山-小田康子, 山崎一憲, 入江雅美, 田中千咲「脊索動物と節足動物の共通祖先を理解する 4-2 クモ胚における胚葉形成と体軸形成の解析」, 年度別活動報告書:2003年度. https://www.brh.co.jp/research/lab04/activity/detail/107
厚生労働省医薬局食品保健部監視安全課 (2002/4/xx)「「遺伝子組換え食品の安全性審査の手続を経た旨の公表について」に対して寄せられたご意見等について」, 厚生労働省. https://www.mhlw.go.jp/public/kekka/p1221-1.html
Oliva D., Piro A., Carbone M., Mollo E., Kumar M., Scarcelli F., Nisticò D.M. & Mazzuca S. (2024) Physiological and proteomic responses of Posidonia oceanica to phytotoxins of invasive Caulerpa species. Environmental and Experimental Botany, Vol.228, Part A, 105987. https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0098847224003459
「New MacBook Family Redefines Notebook Design」 (2008/10/14) Apple. https://www.apple.com/newsroom/2008/10/14New-MacBook-Family-Redefines-Notebook-Design/
MacPeople編集部 (2008/10.20 18:00更新)「新MacBookの魅力を大いに語る」, ASCII.jp. https://ascii.jp/elem/000/000/181/181585/
「Apple Special Event October 2008」(2008/10/14) Apple Inc., Internet Archiveにて閲覧 (Added date: 2021/09/05 02:32:22). https://archive.org/details/6-october-2008
Joseph L., Lalit D. & Stephen J. (2025) Decarbonizing Structural Alloys in Consumer Electronics: Case Studies at Apple. Journal of Sustainable Metallurgy, Vol.11, p.3550-3563. https://link.springer.com/article/10.1007/s40831-025-01258-1
Heather E.M.L., Annalisa B., Daniel P.C., Suzanne M.B. & Terrie M.W. (2012) Morphological and thermal properties of mammalian insulation: the evolutionary transition to blubber in pinnipeds. Biological Journal of the Linnean Society, Vol.107, Issue 4, p.774-787. https://academic.oup.com/biolinnean/article-abstract/107/4/774/2701646?login=false
「動物皮膚模様の人為的な再構成技術の確立」KAKEN. https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-22370079/
近藤滋 (2013/6/6)「科学研究費助成事業(科学研究費補助金)研究成果報告書」, KAKEN. https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-22370079/22370079seika.pdf
近藤滋「動物の皮膚模様形成メカニズムの分子レベルでの解明」統合データベース. https://lifesciencedb.jp/houkoku/pdf/A-12_2007.pdf
近藤滋「動物の形態形成の分子メカニズムの探求と形を操る技術の創出」国立研究開発法人 科学技術振興機構. https://www.jst.go.jp/kisoken/crest/research/nenpou/h24/05_kondo.pdf
近藤滋「戦略的創造研究推進事業 CREST 研究領域「生命動態の理解と制御のための基盤技術の創出」 研究課題「動物の形態形成の分子メカニズムの探求と形を操る技術の創出」 研究終了報告書」JSTプロジェクトデータベース. https://projectdb.jst.go.jp/file/JST-PROJECT-12101628/JST_1111070_12101628_2017_%E8%BF%91%E8%97%A4_PER.pdf
Shigeru Kondo「Introduction of the study in Pattern Formation Group Ⅰ」https://www.fbs.osaka-u.ac.jp/labs/skondo/files_for_lecture/lecture170516kondo.pdf
Britannica Editors (2025/1/24)「sports-car racing」 Encyclopedia Britannica, 2026/3/21閲覧. https://www.britannica.com/sports/sports-car-racing
VR Staff「Britain’s First Sports Car—The Vauxhall C-10 “Prince Henry”」Sports Car Digest. https://sportscardigest.com/britains-first-sports-car-the-vauxhall-c-10-prince-henry/
「From the Dawn of the Automobile to the Birth of Japanese Cars」, トヨタ博物館. https://toyota-automobile-museum.jp/en/facilities/exhibition/car/2f/
間島信男 (1990)「変異に基づく進化論の諸説」Journal of Fossil Research, Vol.23, No.2, p.34-42. https://www.kasekiken.jp/kaishi/p3_22-31.html
上田恵介 & 樋口広芳学 (1988)「個体識別による烏類の野外調査-その意義と方法一」Strix, Vol.7, p.1-34. https://www.wbsj.org/activity/conservation/publications/strix/strix07/
服田昌之「Special Story 刺胞動物を探る サンゴの一風変わった進化」JT生命誌研究館. https://www.brh.co.jp/publication/journal/019/ss_1
Kenrick D.T., Griskevicius V., Neuberg S.L. & Schaller M. (2010) Renovating the Pyramid of Needs: Contemporary Extensions Built Upon Ancient Foundations. Perspectives on Psychological Science. Vol.5, Issue 3, p.292-314. https://journals.sagepub.com/doi/10.1177/1745691610369469
Griskevicius V. & Kenrick D.T. (2013) Fundamental motives: How evolutionary needs influence consumer behavior. Journal of Consumer Psychology, Vol.23, Issue 3, p.372-386. https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S1057740813000259
Schaller M., Kenrick D.T., Neel R. & Neuberg S.L. (2017) Evolution and human motivation: A fundamental motives framework. (pre-publication manuscript version). https://www2.psych.ubc.ca/~schaller/SchallerKenrickNeelNeuberg2017.pdf
Kenrick D.T. & Griskevicius V. (2013) The Rational Animal : How Evolution Made Us Smarter than We Think. Basic Books.
Kenrick D.T. & Griskevicius V. (2013) / 熊谷淳子 訳 (2015) 『きみの脳はなぜ「愚かな選択」をしてしまうのか 意思決定の進化論』講談社
友野典男 (2015)「書評 『きみの脳はなぜ「愚かな選択」をしてしまうのか (意思決定の進化論)』」行動経済学, 8巻, p13-15. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jbef/8/0/8_13/_pdf/-char/en
奥原剛 (2022)「行動変容のためのヘルスコミュニケーション—COVID-19の教訓—」日本健康教育学会誌, 30巻, 2号, p.163-171. https://www.jstage.jst.go.jp/article/kenkokyoiku/30/2/30_300204/_article/-char/ja/
「中学社会 定期テスト対策【世界の歴史】 ルネサンスとは?」ベネッセ教育情報. https://benesse.jp/kyouiku/teikitest/chu/social/social/c00772.html
「ルネサンス」, 実用日本語表現辞典, weblioにて2026/3/23閲覧
「ルネサンス」, デジタル大辞泉, 小学館, weblioにて2026/3/23閲覧
「ルネサンス」世界史の窓. https://www.y-history.net/appendix/wh0902-001.html
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/6/16)「拙編の『進化思考批判集』の批判、というnote記事が公開されたようだ。まずはこれまでほとんど反応がなかったので、大変ありがたいことだと感じる。特に紙の本は最近全く売れていないのでそろそろ絶版にしようかと思っていたところなので、これを機に再度図書館などに蔵書してきただければと思う。」, X, https://x.com/itojundesign/status/1934568036675293628?s=20
かきのね@hmn38n (2025/11/13)「そういう訳で、本件は巷では良い科学コミュニケーションの例として捉えられているようですが、私は全くそうは思いません。なぜなら上で述べたように、批判集の著者らは太刀川氏の反論を一切聞き入れず、太刀川氏が全面的に間違っていると言い続けていただけだからです。(続く)」, X. https://x.com/hmn38n/status/1988639439514698050?s=20
佐伯恵太@Keita_Saiki_ (2022/7/30)「250箇所以上もの誤りを指摘され真っ当な批判を受けておいて「重箱の隅をつつかれるってこれかー」って。その重箱、隅しかないのか?そうなのか!?さては進化思考によって生み出された新たなデザインの隅しかない重箱なのか!?さすがにいかんです。遺憾です。」, X. https://x.com/Keita_Saiki_/status/1553374938501103616?s=20
「スピリチュアル」, デジタル大辞泉, 小学館, weblioにて2026/3/25閲覧
「子」, デジタル大辞泉, 小学館, コトバンクにて2026/3/25閲覧
「遺伝子」, 『改訂新版 世界大百科事典』, 平凡社, ジャパンナレッジにて2026/3/25閲覧. https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1754
「主知主義」, デジタル大辞泉, 小学館, コトバンクにて2026/3/28閲覧
井上颯樹 (2024)「反主知主義を改訂する」人文公共学研究論集, 48号, p.1-14. https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900122281/
新井理志 (2022)「「反知性主義」の概念分析 知の運用へのまなざしの一考察」『人文×社会』, 6号 , p.27-47. https://scicom.c.u-tokyo.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2022/12/006002.pdf
「ANTI-INTELLECTUALISM」, Merriam-Webster, (2026/3/28閲覧). https://www.merriam-webster.com/dictionary/anti-intellectualism
「主知主義」, Wikipedia, (2026/3/28閲覧). https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E7%9F%A5%E4%B8%BB%E7%BE%A9
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2022/12/3)「p62には「創造性のことを、二つの思考を往復しながら生み出す螺旋的な現象として捉えれば」とあり、「創造性」もイコール「現象」になっている。進化と創造の関係について論じる以前に私はここで脱落。これ以上読めない。学生になら付き返す。とにかく「創造」と「創造性」周りはリライト必須だ。24/n」, X. https://x.com/itojundesign/status/1598974533771591681?s=20
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/6/16)「あと「普通」とか「一般的に」という言い回しは巧妙に相手に反論させにくくする常套句であり、議論に誠実でありたい場合は多用しない方が良い。私も意識せずに使っていないとも限らないので自戒を込めて指摘しておく。」, X. https://x.com/itojundesign/status/1934575603216421251
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/6/16)「我々も『進化思考批判集』単独でも読めるように、と編集執筆したつもりではあるが、こういった誤読が起こるので、『進化思考』を参照しないでの批判は無理があるし、あまりに枝葉末節であろう。」, X. https://x.com/itojundesign/status/1934574197499666881?s=20
太刀川英輔 (2022)「進化思考で考える地層処分事業の未来」原環センタートピックス, No.141, p.3-16. https://www.rwmc.or.jp/library/file/Topics_No141.pdf
「変異」, 『精選版 日本国語大辞典』, 小学館, コトバンクにて2026/3/29閲覧
太刀川英輔 (2022)「進化思考批判 への意見書」Internet Archiveにて閲覧 (Added date: 2023/9/12). https://web.archive.org/web/20230912021313/https://docs.google.com/document/d/1wKacpCXHtoqQPabA6Fy_Hzciz0dL_cCAvSZTbVajGpo/edit#heading=h.ev6jxjxcnsdk
minoru matsui@minoru_matsui (2026/2/26/09:00)「以前「Note記事にコメントがあるならメールで」とメールをいただきましたが、ご自身には適用なさらないんですか。伊藤先生の理解は私と林さんの入れ知恵を鵜呑みにしているせいだという憶測で私をも批判していますが、これも「事実を十分に確認しないまま、憶測に基づいて批判を行うことは、」, X. https://x.com/minoru_matsui/status/2026809495486157059?s=20
minoru matsui@minoru_matsui (2026/2/26/09:00)「研究者倫理の観点から問題がある行為」とはお考えになりませんか。なお『進化思考』の著者は批判書の出版停止や書籍回収を要求する法的措置をとられていますが、その「適応研究者」の倫理は論じませんか。慶應義塾大学の特任教授を慶應義塾大学のガイドラインをひいて批判してはいかがですか。」, X. https://x.com/minoru_matsui/status/2026809497763577858?s=20
かきのね@hmn38n (2026/2/26/12:29)「言えない。」)。また伊藤氏の鵜呑み云々については河田氏は「おそらく共同批判者である林亮太氏および松井実氏の見解をそのまま受け入れているのであろう。」というように「おそらく~だろう」と述べているので、「同僚くらいの感じで「知り合い」とさらっと書かれていますが、会社の役員と」, X. https://x.com/hmn38n/status/2026862074551525656?s=20
minoru matsui@minoru_matsui (2026/3/28)「そういえばこの件、伊藤先生が私や林さんの意見を鵜呑みにしているという記述は憶測だったとして修正いただきました」, X. https://x.com/minoru_matsui/status/2037546367107858784?s=20
「Annex II: Glossary」, IPCC. https://www.ipcc.ch/report/ar6/wg2/chapter/annex-ii/
Smit B. & Pilifosova O. (2001) Adaptation to Climate Change in the Context of Sustainable Development and Equity. Climate Change 2001: Impacts, Adaptation, and Vulnerability, p.877-912. https://www.ipcc.ch/report/ar3/wg2/chapter-18-adaptation-to-climate-change-in-the-context-of-sustainable-development-and-equity/
「ADAPTMENT」, NOSIGNER. https://nosigner.com/projects/adaptment/
NOSIGNER (2024/2/21)「都市は気候変動に適応できるのか? | WHY & HOW by NOSIGNER Vol.02」, note. https://note.com/nosigner/n/n56b01952c3dd
太刀川英輔 (2023/10/13)「地球温暖化への適応策を加速させる「適応進化」の思考」, 宣伝会議, ブレーン. https://www.sendenkaigi.com/creative/media/brain/027523/
太刀川英輔 (2023/04/14 05:25)「気候変動適応 進化に学ぶ…4月の店主は太刀川英輔さんです」,読売新聞オンライン, https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/column/20230411-OYT8T50001/
「自然界」, デジタル大辞泉, 小学館, コトバンクにて2026/3/30閲覧
Hiroki Gotoh@静大5年目@Cyclommatism (2023/12/15)「昨年の夏にTLを賑わわせた「進化思考」に関して、その内容的な問題点を指摘した「進化思考批判集」が無料公開されたようです。例の書籍の問題点を客観的、科学的な視点から整理・指摘しています。すげー労作よ、これ。」, X. https://x.com/Cyclommatism/status/1735640545790402967
Katsushi Kagaya@katzkagaya (2023/12/16)「工学的デザインやバイオインスパイアードロボティクスの方々がご縁あってフォローしてくださってるので、おすすめします。直接私と議論された方には耳タコかもですが…」, X. https://x.com/katzkagaya/status/1735688422298370369
佐伯恵太@Keita_Saiki_ (2023/12/15)「“学術的に認められたかのように喧伝するのであれば、学術の民の目が光ることは避けられません。” 学術の民の目が、状況の改善に繋がることを願うばかりです。圧倒的ボリューム、内容。気迫を感じます。微力ながら宣伝📣」, X. https://x.com/Keita_Saiki_/status/1735655207135318487?s=20
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2022/12/3)「今回独学の限界も見えた気がする。例えば読書猿@kurubushi_rmさん(以前からblogに感嘆している)の著作『独学大全』が売れているようであるが、学び続けるということ自体は素晴らしいのだが、独学は勘違いや誤解に陥ってしまった場合、それに気付くのが難しい。33/n」, X. https://x.com/itojundesign/status/1598977264309661698?s=20
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/12/28)「『進化思考批判集』出版局にも記述4ヶ所が「およそ研究活動に基づく本件書籍に対する正当な批判論評に必要な限度を超えて不必要に本件書籍の内容及び通知人の人格を揶揄する、行き過ぎたもの」だとして「発売の停止、回収、表現の訂正、その他の必要な措置を講じること」を請求する催告書が来ました。」, X. https://x.com/itojundesign/status/2005021439389565020?s=20
イトウジュン (2025/12/28)「『進化思考批判集』発売停止して回収しろってよ」, note. https://note.com/phd_itojun/n/ncb2379eae092
かきのね@hmn38n (2025/12/28)「私は本件における太刀川氏と批判集著者らのやり取りそのものに割って入るつもりは特にないのですが、一応批判集を批判した者として、また私のnote記事が太刀川氏が本件について再度話題にした要因ともなっていたようなので、コメントさせていただきます。(続く)」, X. https://x.com/hmn38n/status/2005094774278349088?s=20
太刀川英輔 / Eisuke Tachikawa / NOSIGNER@NOSIGNER (2025/11/17)「【ご報告】『進化思考』に関する議論は、出版以来、多様なご意見とともに育ってきました。一方で、ご批評くださった一部の方々については、科学的誤解に基づく誤った情報・デマの拡散について早期に指摘しても修正していただけず、事実と異なる内容に基づく誹謗中傷が約三年にわたって継続しました。 さらにはこうした誤解や誤り、および悪質な誹謗中傷を含む批判書籍が、著者の所属する大学内に設立された出版社から刊行され、関係者の安全や事業活動に影響が及ぶような状況がありました。 そこで本日、関係者および該当大学出版会への第一の法的措置として弁護士より通知書を送付しました。当事者には適切な対応を期待します。 私たちは学術の価値と言論の自由を尊重しています。また言論の自由には誤解する自由があります。しかし学術の名を借りて誤った内容に基づく誹謗中傷を繰り返す行為は別物であり、適切に対応せざるを得ません。 本件の共有は、同様の事案の再発を防ぎ、創造に携わるすべての人が安心して活動できる環境を守るためのものです。 創造を探究するうえで批判的思考は欠かせないものであり、私たちも肯定的な意見も正当な批判も、その両方から多くを学びながら進化思考を進化させてきました。 進化思考の活動については、これからも健全な批判については今後も前向きに受け止め、対話を大切に誠実に取り組んでまいります。 いつも活動を支え、応援してくださる皆様に、心より感謝申し上げます。」, X. https://x.com/NOSIGNER/status/1990363017398415629?s=20
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/12/28)「当然ながら、書籍の発売の停止、回収には応じません。 以上が太刀川氏側からの唐突なアクションに対する対応です。産業デザイン研究所出版局はスラップやキャンセルカルチャー的なものに屈することなく今後も学術に誠実な書籍を刊行していく所存です。どうぞよろしくお願いいたします。」, X. https://x.com/itojundesign/status/2005023109024485603?s=20
minoru matsui@minoru_matsui (2025/12/3)「私の『進化思考』批判に不法行為があったとは考えていませんので、今後も科学的に妥当でない内容に関して学術の場を含め粛々と批判していきたいと考えています。」, X. https://x.com/minoru_matsui/status/1996137966079521136?s=20
かきのね@hmn38n (2025/11/13)「そういう訳で、本件は巷では良い科学コミュニケーションの例として捉えられているようですが、私は全くそうは思いません。なぜなら上で述べたように、批判集の著者らは太刀川氏の反論を一切聞き入れず、太刀川氏が全面的に間違っていると言い続けていただけだからです。(続く)」, X. https://x.com/hmn38n/status/1988639439514698050?s=20
Yoshitugu Tuduki/都築良継@TSMoon56 (2025/8/9)「河田雅圭氏のnoteで、河田氏が以前著された「はじめての進化論」が注釈付きで全文公開されている 進化思考絡みもあるのであんまり印象は良くないけれど、今西進化論についてきちんと批判と分析が為されているっぽい?(そして注釈で福岡伸一氏への批判もきちんとしてある)」, X. https://x.com/TSMoon56/status/1954107070149509396?s=20
いるま@irumandal (2023/12/24)「ということで、ちゃんとスタンスを書くと「進化学会の現副会長(次期会長?)が監修をする」という相当に強いお墨付きを与えてしまったことを進化学会会員諸氏は重く受け止めて対応すべきだと思います。 次は「進化思考(の監修を務めた河田氏)に進化学会の教育啓発賞を与える」とか来かねませんよね?」, X. https://x.com/irumandal/status/1738783499510022263?s=20
原 拓史@haltaq (2025/4/5)「河田さんのこれは本当に残念だった。 晩節汚しすぎだからマジで御隠居をお勧めする。」, X. https://x.com/haltaq/status/1908372909397070098
更新履歴
・ver.1.0.0 (2025/6/11):【魚拓】『進化思考批判集』批判|persimmon
・ver.1.0.1 (2025/6/12):閲覧方法に関する追記を最初に追加 【魚拓】『進化思考批判集』批判|persimmon
・ver.1.1.0 (2025/6/20):些細な点から割と大きな点まで内容の修正。詳しい修正内容は以下の通り【魚拓】『進化思考批判集』批判 ver.1.1.0|persimmon
・ver.1.1.1 (2025/6/21):前回の修正ミスの訂正、及び新たな修正を少々。詳しい修正内容は以下の通り【魚拓】『進化思考批判集』批判 ver.1.1.1|persimmon
・ver.1.1.2 (2025/6/25):少々の修正。詳しい修正内容は以下の通り【魚拓】『進化思考批判集』批判 ver.1.1.2|persimmon
・ver.1.1.3 (2025/7/20):少々の修正。詳しい修正内容は以下の通り【魚拓】『進化思考批判集』批判 ver.1.1.3|persimmon
・ver.1.2.0 (2025/12/26):大幅な修正。詳しい修正内容は以下の通り【魚拓】『進化思考批判集』批判 ver.1.2.0|persimmon
・ver.2.0.0 (2026/5/4):主に『進化思考』読了に基づく大幅な修正。詳しい修正内容は以下の通り

