『進化思考批判集』批判 ver.2.0.0 前編(「初めに」~「4 『進化思考』を校閲する」の途中 (p.125))
⭐noteの文字数制限 (39万字) を超えてしまったので、ver.2.0.0以降は前編・後編の2つの記事に分割しました。前編は「初めに」~「4 『進化思考』を校閲する」の途中 (p.125) まで、後編は「4 『進化思考』を校閲する」の途中 (p.125) ~「終わりに」になります。なお、どちらの編にも終わりに「参考文献」と「更新履歴」を付しています。また記事内ではこの分割は特に考慮せず、例えば「本稿」というのは前編後編含めたものを意味します。
2026/5/4 更新:『進化思考』を読んだので、主にそれに基づく大幅な修正 (ver.2.0.0)。詳しい修正内容は以下の通り。更新履歴は本稿最下部にあり。
あまりにも長大の記事になったので、ざっくりとではあるが、本稿の主張を箇条書きでまとめた。
1. 『進化思考批判集』には多数の生物学的・論理的・文章読解的誤りを始めとして、狭すぎる引用範囲による批判の妥当性の判別不可能性および誤読誘発、不適切な引用、不適切な誇張的批判、必要以上に人を馬鹿にする表現、著者内および著者ら間での主張の食い違い、など様々な問題が存在する。またその中でも特に誤りに関しては、博士号持ちの研究者が一般書を批判検証するという権威的・功労的文脈で許される質・量を大きく超えている。
2. 批判集著者らは太刀川氏および本稿等からの指摘に対して十分な応答をしていない。また数少ない応答に関してもその内容・態度に首を傾げたくなるようなものが多々あり、当時あれだけ強く太刀川氏を批判していたことと比較して、「他人に厳しく、自分に甘い」という印象を拭えない。
3. 批判集を始めとした批判集著者らによる問題山積みの不適切な批判に対して、周囲の研究者・専門家などは同意・賛同するばかりで批判的指摘はほとんど存在しない。また増補改訂版への監修協力といった真っ当な知的活動を行った者がむしろ批判されたりもしている。総じて、批判集著者ら及びその周囲の批判者らの、不適切な–––権威に従って自己の理解を安易に固めたり、他者の主張を安易にステレオタイプ化したり、そしてそのようなことを通して謂わばイデオロギー的とも言えるような、知的に誠実な衣をまとったその実軽々しく私的にも見える–––批判態度は「表層的な知性主義」または一種の「「知」の欺瞞」と言えるものであると感じる。
4. 批判集著者らは学術の場における発言の自由を重要視するが、むしろ批判集著者らの学術的に誠実とは言えないような軽々しくもある批判の数々はこれまで多くの人々によって守り抜いてきた学術の場における発言の自由の価値をタダ乗り的に棄損しているように感じる。またそういった不適切な批判に対して周囲の人々が指摘を入れずに同意・賛同のみをすることは同じくそういった自由の価値を間接的に棄損しているとも言える。
5. 本件に関して何が問題であったかを個々人が考えおよび議論することが今後の健全な科学コミュニケーションを育んでいく上で重要である。上記以外についても、例えば専門家が一般人を批判する場合、両者間の力の非対称性に基づいた慎重かつ誠実な批判姿勢が専門家側には求められるだろう。またそういった諸々の振り返りを通して、『進化思考』及び太刀川氏が不当に–––実際の誤りの質・量を超えるほどに–––下げられた評価・評判は回復されるべきである。
⭐以下本文。スマホだと引用部の改行が見づらいのでPCやタブレットでお読みになることをおすすめします⭐
初めに
本稿は『進化思考批判集: デザインと進化学の観点から』[1] (便宜上、これ以降は『進化思考批判集』と表記する) に関して批判を行うものである。まず初めになぜこの文書を書こうと思ったかを述べたい。この記事を読んでいる人はご存じだと思うが、『進化思考――生き残るコンセプトをつくる「変異と適応」』[2] (便宜上、これ以降は『進化思考』と表記する) は創造的な思考法を進化になぞらえて語った本である。しかし、生物学的な記述に多くの誤りが見られたため、学術界隈から激しい突っ込みがなされ、一時話題になっていた。
それで私はその当初から、『進化思考』に怪しい記述があることは確かであるが、批判者側の指摘にも的外れなところが多いと感じていた。そしてその後批判者側から『進化思考批判集』という書籍が出され、特に読まずにスルーしていたのだが、最近になってX (旧Twitter) にて進化思考批判集の一部を見る機会があり、その一部に怪しい記述があったため本文を確認してみたらやはり指摘に誤りがあることが分かった。しかもそのX上に挙げられていた部分というのは批判集p.21なのだが、そこでは「非常に単純で深刻な間違いをいくつか紹介すると」「このような初歩的な事実誤認」といったように間違い (と著者らが思っているもの) が紹介されていたのである。したがって、そのように誤りだと豪語している部分ですら間違った指摘があるのならば、批判集全体を通しての正確性もかなり怪しいと思い、チェックしてみようと思った次第である。
とはいうもののチェックしようと思った当初は、初めに見つけたミスは本当に偶々で、実際には誤りはあって10個程度だろうと思っていたのだが、読み始めると誤りのあまりの多さに驚いてしまった (その誤った指摘の中には林氏が「当書の最大の誤り」(p.26) と称するものも含まれている)。販売サイトにおける内容紹介では「単なる糾弾に留まらず、進化学、デザインと進化の関係性、創造性教育に関する正しい理解を得られる一冊となっています。」[3]と書かれているが、残念ながらそう言えるほどの仕上がりにはなっていない。またビジネス本を博士号持ちが正すという性質上、一般人はその内容を無批判に受け入れてしまう可能性が高い。また販売サイトの内容紹介に書いてあるような「自分の得にはならない、だが誰かがしなければならない、雪かきのような重労働」[3]というような功労的文脈も批判集の内容が正しいと思わせるバイアスを働かせると思われる (本文中でも「「学者」すなわち研究者にとって、擬似科学を相手にするのは「雪かき」[13]に近いもので、誰かがしなければならないけれど、やったところで得をするわけではない、面倒な重労働です。」 (p.8) と同様のことを述べている)。したがって、誤りを訂正することにそれなりの社会的意義があると思い、この長々とした文書を作成した。
なお「批判」というよりは評価する点も含めて「批評」という形にするのが最も望ましいとは思うが、あまりにも指摘必要箇所が多すぎるのでそれは文量的にあきらめた。したがって、指摘していない部分については概ね同意していると見做してよい。
また『進化思考』は2023/12/23に増補改訂版が発売されており[4]、そのため旧版について語っている『進化思考批判集』を批判することにあまり意味はないのではないかと思う人もいるかもしれないが、私が本稿で行いたいのは太刀川氏の主張が正しいか否かというよりは、『進化思考批判集』という批判本が妥当なものであったのかどうかであるので特に問題はない (なお一応太刀川氏の主張についても言及しておくと、私は本稿で擁護してもなお『進化思考』には知識的・理論的間違いが多く含まれると思っているが、創造的思考現象に進化的な要素が存在し、かつそういった創造能力を鍛えることができるという彼の本旨そのものは科学的に即棄却されるものでもないと思っている (積極的に肯定している訳ではなく、あくまで否定はされない程度の消極的な肯定))。また、旧版と増補改定版で変わらない部分については批判集の内容がそのまま通用するため増補改訂版においても批判集を副読本とする人はいるだろうし、かつて批判集を読んで内容に全面的に納得してしまった人も多数いると思われるので、本稿はそういった人の理解の構築・見直しの助けともなるだろう。
批判集に存在する誤りは大きく分けて、生物学などの専門的知識に関する誤り、論理的誤り、誤読の3つである。また、引用範囲が狭いことによる批判の論理的妥当性の判別不可能性、形式および意図や内容の観点で不適切な引用、著者内および著者ら間での主張の食い違い、自身にとって都合の悪い情報を無視している (ように見える) などといった問題も存在している。
なお、批判集本文にも以下のような記述があるので、特に忖度なく批判する。もちろんこの本稿に対する批判も絶賛受け付けている。
当書の記述に対する、より科学的に厳密な検討はもとより、本稿で我々が指摘した各論点に関しても不備を見つけた方にはさらなる批判をお願いしたい。
本書がどなたかの文献リストに信頼できる参考図書として掲載されることを夢見ているが、文献リストに限らず、本書の内容に疑問や認識の間違い、改善を要する点があれば批判をお願いしたい。
なお、私は『進化思考』を読んでいない上で本稿を書いている。したがって文脈を読み切れていない部分がある可能性もあるのだが、仮にも一冊の批判本として上梓するのならば、その本のみで論理的には完結するべきであり、引用及び説明不足で誤読を誘うようであれば、それは単に批判集に問題があると私は考えている。とはいえ、やはり適切な理解のためには『進化思考』についても読んだ方がいいのは確かなので、暇があれば中古で買って読もうとは思っている。
📕『進化思考』をここ最近読んだので、ver.2.0.0以降はそれを反映している。本稿の文にこれまでの修正通り新たに組み込む感じでも良いのだが、それをすると書き換え量が膨大になるので、追記という形で反映している。またそういった手間の観点以外にも、追記という形を取ることで、『進化思考』無しで『進化思考批判集』のみを読んだときにどのような読解になるのか(批判本単体としての批判集の評価)を残しつつ、追記によりさらに詳細な批評を示せる(特に批判集単体で読んだときとのズレを示せる)ので、そういう意味でも合理的な構成と言える。なお、この段落の初めに付けているように、『進化思考』を読んでの情報を元にした追記部分には「📕」という記号を付けてある(元々指摘していた項においては「『進化思考』を読んだので追記するが」といった文言を付けているが、丸々新しく指摘項を立てた場合はそのような文言なく📕マークを付けている)。また、追記部における新たな参考文献に関しては、本稿全体での登場順ではなく非追記部分の参考文献に続く番号(すなわち91から)を振った。(またver.2.0.0におけるそれ以外の新たな修正による追加の参考文献についても91以降に振った。本来ならばそれ以前の番号として組み込むべきだが、文献番号の振り直しがあまりにも面倒(これだけの文字数になるとnoteが極めて重いのも理由の一つ)かつ大して本質的な部分ではないので申し訳ないがそうした。今後暇があれば修正する可能性あり)。なお、『進化思考』を読んだ率直な感想を述べると「文体・内容・構成諸々が思ったよりしっかりしていた」と「批判集著者らの誤読の酷さやその他問題点がより浮き彫りになった」となる。
本稿は、『進化思考』に対する批判本である『進化思考批判集』に対する批判という構造のため非常に読みにくいものになっていると思われる。『進化思考批判集』の該当部分を全文引用すれば意味的には分かりやすくなるものの、そうすると文量が膨大になり逆に読みにくくなると思ったので、できるだけ要点を絞って引用した。したがって、正確な文脈を掴む意味で『進化思考批判集』を別窓で開いて並行して読んでいただくことをおすすめする。本稿は『進化思考批判集』の初めのページから順に批判していく構成となっているのでその辺は追いやすいと思う。なお実際に執筆段階においても批判集を前から読んで逐次指摘していったので、文章そのものもそういった体で書いてあるが、その後の推敲段階において後の部分を読んでる体で書き直した箇所もいくつかあり、故に指摘箇所間でそういった点での相違が発生していることもあるが、あまり本質ではないので特に気にしないで欲しい。
また本稿における、「この本」・「批判集」は『進化思考批判集』を、「本稿」「この文書」はこのnote記事である「『進化思考批判集』批判」を基本的に指す (「この本」に関しては文脈的に別の本であることが明らかな場合はその本のことを指している)。『進化思考』については『進化思考』以外の呼び方はしていない。また「評者」は全て批判集の著者らのことを指して使っており、本稿執筆者のことを指すことはない。
以下、見出しの太大文字は批判集における部名・章名を表す。また各章のタイトルには括弧書きで『進化思考批判集』における執筆者名を添えた。
また『進化思考批判集』においては、『進化思考』およびオンライン上の太刀川氏の記述からの引用は書体が通常と変えられており、かつ2行以上の場合には字下げした上でさらに左に縦傍線が書かれているのだが (それ以外からの引用は字下げだけ)、『進化思考批判集』を引用するのに際して、書体はnoteにおいて変更することができないので省略し、字下げと縦傍線だけを再現した (なお『進化思考批判集』では縦傍線は全て繋がっているのだが、それもnoteでは再現不可能なので、行ごとに「|」を置いて代用している)。1行以下の引用に関しては傍線が付かない、かつ書体の再現ができないことより、特に追加の対処をしない限り『進化思考』からの引用であるのか否かの判別ができないのだが、①そもそも批判集においても書体差は見えづらくあまり機能していないように思える (実際私は書体の違いを一切認識せずに読んだ) のと、②多くの場合文脈的に『進化思考』からの引用であるかどうかを判別できるため、本稿ではこの情報は落としている。また、本稿の引用部位 (noteの引用システムを利用した部分。背景が灰色) 以外の地の文における、「「見本」(p.12) 」というようなページ番号のみが付けられたカギ括弧は全て『進化思考批判集』からの引用及びそのページを指す。他、分かりづらい部分は適宜補足した。
また『進化思考批判集』には下線が存在することがあるが、noteにおいて下線を引くことは基本的にできないようなので「🔶」で代用した。すなわち、「🔶見本🔶」は「見本」に下線が引かれていることを示す。また複数の下線が存在する文章では、どの2つの🔶が文字を挟んでいるのか分かりにくいので、もう一つの下線記号「🔷」を持ち出し、「🔶🔶」と「🔷🔷」を交互に使った。なお途中から読み始める読者のことも考慮して、下線のある部分では逐一このことを述べる。なお、この下線が引用元に存在していたものなのかどうかには疑義がある。すなわち、批判集の著者ら (具体的には林氏と伊藤氏) 独自のものである可能性があると私は思っている (詳しくは後述)。📕『進化思考』を読んだので追記するが、少なくとも『進化思考』からの引用に関しては、おそらくその下線の全てが批判集著者らによるものである(「おそらく」というのは該当箇所を全て逐一チェックした訳ではないからである。ただ少なくとも私の記憶の中では『進化思考』の本文には下線は一切存在していない)。追記終わり。
ルビに関してはnote上では再現不可能だと思っていたので省略していたのだが (ちゃんとするならば、ルビが本来振ってあった箇所を逐一補足すべきなのだが、ルビの有り無しで理解が大きく変わることはないと思われるし、ただでさえ下線の補足で引用部がごちゃごちゃしてて見づらいのでそれはしなかった)、本稿の最終チェック段階においてnoteにルビ機能があることを知った。しかし、20万字超えの記事において改めてルビの有無を一つ一つ確認して付記するのはだいぶ骨の折れる作業なので (批判集の文章をチェックする大変さが主な理由だが、ここまで文字数が多い記事になるとnote編集画面が極めて重くなるのも理由の一つ)、ルビの有無で理解が大きく変わることはないことも踏まえて、大変申し訳ないがとりあえず省略することにした (時間があれば今後の更新で修正するかもしれない)。
また、一段落以内の引用における段落初めの字下げは見やすさの観点から省略した。
なお、批判集は書籍版とPDF版の二つがあり、私が読んだのはPDF版のバージョン1.1.2である。PDF版は以下のページで無料公開されている[5]。したがって本稿と並行して批判集を読む場合、バージョン差には注意して欲しい。ただ現状最新版の1.1.2はだいぶ前 (2023/12/21) に更新されたものなので、少なくともしばらくの間は普通に最新版を読んでれば特に問題は起こらないだろう。
またあまりに指摘必要箇所が多く、本稿は引用込みで20万字超えの大文書になってしまった。できれば全文読んでもらいたいのだが、読む気が失せる人も多いと思うので、誤りの質や程度、内容の重要度などの観点から私が特に読んで欲しいと思った指摘部分に💛💜という二段階の記号を付けた。💛のほうがより読んで欲しい度が「高い」。なおハートマークにしたのは読んで欲しいという意図を表現するのに適した記号だと思ったからであり、特に他意はない (色分けできる星マークがあればそれが良かったのだが残念ながらなかった)
📕なお、主に『進化思考』読了に基づく内容の反映によりver.2.0.0にて文字数は引用込み50万字超えとなった (ver.2.0.0での追記量は20万字超)。また『進化思考』との照らし合わせをするにあたって批判集そのものも久しぶりに初めから通して読んだので、『進化思考』読了とは特に関係ないけど新たに見つけた指摘点も多く反映している。またそれ以外にも特に第二章で林氏が「適応」に関して引いている文献に当たってみたり、本件に関するここ最近(ver.2.0.0公開時点で)の動向に関する情報も加えたりなどしている。なお、伊藤氏は本稿の初期版(ver.1.0.0)の公開後にツイッター上で「文字数が多ければ良いというものでもないです。」と述べているが[56]、私としては必要な分だけ書いたつもりであり、少なくとも伊藤氏のように衒学知識で無駄に文字数を増やしてはいない(唯一批判集とあまり関係ないことを書いたのはアフォーダンスのくだり辺りだろう)。繰り返しの似たような批判はややあるものの、批判集を読んだ人が逐一正誤を判別できるようにしたかったのと、重要な点については繰り返し語ることでその重要性が伝わるような意図となっている。また、「重要そうな点のみ指摘すればよく、些細な細かい指摘はいらないのではないか?」といった批判もありそうだが、批判集が重箱の隅を突っつくような指摘も含め、あれだけの物量であるのならば、それを批判する側もそれに相当するだけの熱量で批判しなければならない。なぜなら重要点だけピックアップして指摘しても、「でも他にあれだけ誤りがあるのだから批判集の妥当性は十分に残るし、やはり『進化思考』の問題は山積みである」といった批判集著者ら等の反論や、「でも他にあれだけの量が指摘があったのだから、『進化思考』はやっぱり問題のある本なのだろうな」といった第三者の懸念は残り得るからである。50万字というのはそれだけ批判集に問題がありうるということの顕れであると受け取って欲しい。なお、本稿の最冒頭で述べているようにver.2.0.0ではnoteの文字数制限(39万字)を超えたため前編・後編の二つに分けることになった。
まえがき(伊藤 潤)
「エラー的な変異」(p.43)と書いた直後に「変異によるエラー」(p.44)と書いて循環定義をするなど、論理も破綻しています。
ここでの「エラー」というのは単に誤り一般を指しているのではないだろうか?その場合やや同語反復っぽくもなるが、特にそれほど違和感はないだろう。また後者の「変異によるエラー」における「エラー」は形質のことを言っている可能性もなくはなさそうである。また、ここでの「エラー」が変異の中でも適応度に寄与するようなものを特に指しているということも考えられる。その場合も特に問題はないだろう。
またそもそも、「エラー的な変異」と「変異によるエラー」を変異とエラーの定義文と見なす伊藤氏の解釈にはやや無理やり感がある。とはいえ分かりづらいのは確かなので、訂正した方が親切ではある。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、前者の「エラー的な変異」は「まさに、進化とはエラー的な変異と自然選択による適応を繰り返す、生物の普遍的な法則性のことなのだ。」、後者の「変異によるエラーは「1 変異によるエラー:生物は、遺伝するときに個体の変異を繰り返す」といった中で述べられているものである。したがって、前者は「エラーのような変異」、後者は文字通り「変異によるエラー」といった意味であり、これは別に循環定義とは言い切れないと思う。伊藤氏はtwitter上での応答[91]やnote記事[92]でもこの点について尚も循環定義であると主張しているが、伊藤氏はこれまで一度も何がどのように循環しているのか説明してない。単に同じ言葉を反転的に使った表現を安易に「循環定義」と見做しているのならば、それは誤りである。循環定義とはAの定義にBを用い、かつBの定義にAを用いることを指すが、「エラー的な変異」は「エラー」を「変異」で定義している訳でもその逆でもないし、「変異によるエラー」に関しても同様である。まあおそらく伊藤氏は「「変異によるエラー」というのはエラーが変異によって発生することを述べている」と言いたいのだろうが、その論理で攻めるならば「エラー的な変異」が「変異がエラーによって発生すること」を含意する必要がある。しかし、「エラー的な変異」から「変異がエラーによって発生すること」を一意に導くことは不可能であるし、一般にそう解釈する妥当性も大してない。したがって、残念ながら私には伊藤氏は何となく雰囲気で「循環定義」と非難しているように見える。もし循環定義と主張するならば、何がどう循環しているのか詳細に説明すべきである。それが「論理的な読み手」[91][92] のすべきことだろう。またそもそも仮に「エラーが変異によって発生する」と「変異がエラーによって発生すること」の循環の線で説明し切れたとしてもそれは「循環定義」ではなくて単なる「因果的な循環」に過ぎない。例えば「物価上昇が賃上げを促す」と「賃上げが物価上昇を促す」は因果的に循環しているが、これは明らかに循環定義ではない。鶏と卵も同様である。なお、伊藤氏は太刀川氏のそれを定義文と見做すのはやや無理があるという私の主張に対して、「「定義文」などと大袈裟なことを言わなくても、この循環がまずいと思わない時点で「私は論理的な読み手ではありません」と宣言しているようなものだ。」[91] や「「循環定義をする」という表現は別に「これが「定義文」です」と宣言することを意味しない。見なすも何も、書いていることが循環ができていないために前掲の6/16のツイートでも書いたが、非論理的な読み手であることの宣言のようなものである。」[92] と述べており、これを見る限りやはり伊藤氏は「循環定義」の意味を理解していないように思われる。
あと伊藤氏は「と書いた直後に」と述べているが、ここの二つは実際には2ページ弱ほど離れており、この程度の離れ方であれば多少の表現の揺れは許容されうるだろう。
主に進化学や生物学について問題のある部分を取り除くと、少し厚めの創造性教育の本となるでしょう(創造性を養うことも学校教育法で目標とされています。前頁脚注)。
📕追記部分含め本稿で指摘した内容を批判集に反映させれば、批判集も同様にだいぶ薄くなると思う。もちろん妥当な批判もそれなりに存在するのだが、非妥当な批判も非常に多く、今現在はそういった膨大な量の批判の集積によって『進化思考』や太刀川氏への不当な (実際の誤りの量・質を超えた) 評判・印象下げが発生しているので、それを是正すべきである。
日本で出版される本には「図書コード」が設定されています。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
『進化思考』は「34」を選んでいるので、「ビジネス書です」と自ら宣言したことになります。その一方で、「学術賞」を受賞し「文理を超えた学術的な評価をいただ」[3]いた書である、というスタンスを取っています。喧嘩屋が「ストリート最強」を自称するのは自由ですが、あらゆる格闘技の頂点に立った、みたいなことを言いだしたとしたらどうでしょう。力士も空手家もボクサーもその腕を路上では振り回していません。それと同じで学術的に認められたかのように喧伝するのであれば、学術の民の目が光ることは避けられません。
「文理を超えた学術的な評価をいただいた」というのは文字通り文理を超えた学術的な評価をいただいたというだけの話であり、学術界の"頂点"に立ったとまでは言っていない。例えが不適切。また最後の文に関してはある程度同意するものの、ビジネス書に対して必要以上に科学的正確性や論証の適切性などを求める行為は行き過ぎであるとも感じる。
「重箱の隅を突ついてどうする」という批判も想定されますが、ミース・ファン・デル・ローエの言葉(とされる[11])「細部に神が宿る」(p.244)を太刀川さん自身が引用しているので、細部までの入念な検証はむしろ推奨される筈です。そもそもこんなにも突つける隅だらけの「カドケシ」のような重箱なのが問題でしょう。
元の文脈がよく分からないが、太刀川氏は自分の主張に関して「細部に神が宿る」と述べていたのだろうか?そうでなければ「細部までの入念な検証はむしろ推奨される筈」というのは伊藤氏の勝手な解釈に過ぎないと思う。また何らかの創作物に関して細部まで追及することと、本筋とは特に関係ない部分まで不必要に突っ込むことは別物である。実際、批判集には本筋からかけ離れた突っ込みも存在するが (例: p.111の猫型ロボットの話)、突っ込みの必要性について今一度よく考えて欲しい。
また、ここで伊藤氏が言っている重箱の隅というのが、そういった不必要な突っ込みのことではなくて、単に知識的・推論的誤りへの細かい突っ込みであるならば、それそのものの必要性についてはそれほど否定はしない。しかし、中には太刀川氏の主張の本筋からは少し外れた点を否定することを以って、太刀川氏の主張全体が誤っているかのように述べているものもあり、そういった批判の仕方に関しては問題があると私は感じる。詳しくはこの先述べていくが。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏は「そんなミースは「細部に神が宿る」という言葉を残している。彼は建築のあらゆる細部から、全体の最適化を目指していたのだ。」(『進化思考』p.244) という文脈でそれを引用しているだけである。したがって、これは細部から全体の最適化を考えるという"構造的"な話であり、それは今ここで伊藤氏が述べているような単に細部まで正確性を詰めることで全体としての仕上がりも良くなるという話とは別物である。大雑把に喩えるならば、太刀川氏の引用意図は「かけ算」であり、一方伊藤氏が云っているのは「足し算」 (または引き算) である。また、太刀川氏は引用の直後に「そんなミースへの敬意とともに、」(同 p.244) と述べているので、そのようなミースの言葉を自らの実践にも取り入れたいかのような意志も見えなくもないが、やはり主だった目的は紹介であり、それを自身の書籍にまで適用することを推奨するはずというのは、伊藤氏の勝手な判断に過ぎないだろう。(またそもそも上記したように、「構造的最適化」と「単なる瑕疵の無さ」という違いがある)。
またカドケシ云々については批判集についても同様に言え、その誤りの多さはデザイナーによる記述を博士号持ちの研究者らが批判するという文脈において許される誤りの量を優に超えている。特に『進化思考』を読むと分かるが、批判集には読解ミスがあまりにも多い。そしてそういった誤った批判の集積が『進化思考』及び太刀川氏の評判を実際の誤りの量や質を超えて不当に貶めていると感じる。
「正しいかどうかなんて学者が騒いでいるだけではないか」という批判(と呼べるのかわかりませんが)もあるかもしれませんが、一般的に「学者が騒いでいる」場合はかなり問題がある状況だと考えていただく必要があると言えるでしょう。
💛学者が一般人に比べて特にある分野に精通しており、的を射たことを言っている場合が多いのは確かではあるが、個人的には「一般的に「学者が騒いでいる」場合はかなり問題がある状況だと考えていただく必要がある」とまでは別に言えないと思う。学者が詳しいのはその専門分野に関してであって、その社会的関連や別分野に関しては大して詳しくないことも多く、畑違いのことについてズレたことを述べているケースはSNSでも多く見られる。またそもそも今回の批判が適切かどうかは当の議論の中身で判断するべきであり、一般的に学者の主張が適切であることが多い、といった一般論で擁護するのはどうなんだろう。実際、批判集における批判には不適切なものが多くあり、また妥当な批判であってもそれが社会的に大きな問題であるとは言えないものが多い。私が唯一社会的に大きな問題となりうると思ったのは、進化を進歩史観的に捉えているようにも見える表現であるが、これが社会的に問題となるのはそれを見て学んだ人が進歩史観的なものとして進化を理解し、かつそれを人間にも適応することで優生思想と繋がることによる。しかし、そもそも太刀川氏が進化を進歩史観的に捉えているとは別に言い切れないし (ある進化的対象がある観点 (尺度) において高みに至るという客観的事実は、その過程が意図的であるとか、その高みが目標的・絶対的・不動的であるとかいったことを別に含意しない)、太刀川氏は人間社会がどうあるべきかといった話もしていないので、読者が優生思想に行き着くまでにはそれなりの距離があると思われる。しかし、進歩史観的な意味が読み取られ得る記述があるのは確かなので、誤解のないような記述に修正したり (もしそもそも太刀川氏が進歩史観的な意味を含めて進化を理解していたとすれば、まずその認識を改める必要がある)、「進化論はそういった進歩史観的な事実を示すものではないし、そのような思想を価値判断的に肯定するものでもない」といった注意喚起を記述しておいたほうが良いと思われる。
という訳で、進歩史観的に見える表現については確かに社会的に問題になりうることもなくはないので指摘することには多少意義があるかもしれないが、逆に言えばそれ以外については社会的に大きな問題となるような瑕疵は特にないように思われる。例えば林氏が「当書の最大の誤り」と称する「適応」の定義に関する指摘は、後述するようにそもそも指摘自体が誤りなのだが、もし仮にそれが指摘通り誤りであったところで社会的には特に大きな問題はないだろう。間違った進化的知識が広まるという問題点はあるが、それが学者が騒ぐくらい「かなり問題ある状況」とは別に思わない。要するに騒ぎすぎであるように私には見える。確かに「進化」はかつて優生学と繋がり人間社会に負の歴史をもたらしてきたこともあり、その扱いには慎重になるべきだが、問題のレベルについて何も考慮せず、進化に関する知識の誤りであれば何でも声を大にして騒ぐというのは思慮に欠ける不適切行為であるように思う。とはいえ、進化に関する不理解一般が遠因的に優生思想へ行き着く原因になる可能性はゼロではないので、進化に関する間違った記述一般を正した方が良いのは確かである。
「世の中が表層的な反知性主義・反教養主義に流れること、あるいは似而非教養の毒に晒されることに対して強く抗うことは、分野を問わず全ての研究者・学会の責務」[12] ですが、実際のところ、「学者」すなわち研究者にとって、擬似科学を相手にするのは「雪かき」[13]に近いもので、誰かがしなければならないけれど、やったところで得をするわけではない、面倒な重労働です。ブランドリーニの法則(the bullshit asymmetry principle)[14] として知られるように、出鱈目に反論するのに必要なエネルギーは出鱈目を生み出すよりも桁違いに大きいのですが、擬似科学を矯正したところで科学を前進させるわけでもないので研究者としての「業績」としてはほとんどカウントされません。研究者の時間も有限なので、そのようなことに時間を使わずにスルーしたいのが本音です。にもかかわらず、敢えて声を挙げるのですから、相当酷いということなのです。
💛まずそもそも進化思考は基本的に進化をアナロジーとした方法論であるので、疑似科学という批判は言い過ぎだろう。確かにメカニズム的な部分に突っ込んだ部分も多少あるのは確かだが、明らかに不適切な部分を削れば特に問題ないレベルまで落ち着くし、それで太刀川氏の主旨が根本からひっくり返る訳ではない。
また疑似科学を相手にするのが重労働であるのと同様に、批判集の著者らへの反論も非常に重労働なものであった。というのは、まずそもそもの誤りの量が莫大というのもそうなのだが、一般人の主張に比べて多少は論理立っていることが多いので、シンプルな知識の提示だけでは済まず、その辺の論理を解きほぐして説明する必要があるからである(そして、専門知識が不足していたり、論理的思考に慣れていない人はこういった批判集の不適切な論理に雰囲気で納得してしまうのである)。という訳で、そういった中途半端に正しい批判を訂正するのは非常に大変なものであるのだが、本件は本稿公開後にも多大な苦労があった。というのは、私が本稿にてあれだけ詳細に批判したのに、長い間批判集の著者らからのまともな応答がなく、間接な応答は多少あったものの、それらは些末な話だったり的外れだったり根拠不足のよく分からない印象付けのようなものだったからである[91][93][94][95][96]。また、先日(2026/1/31)ようやっと伊藤氏から比較的詳細な応答[92]が来たのだが、彼が誤りとして認めたのは「引用における無断の下線付加 (しかも林氏のミスのみについて言及)」と「野球ゲームと野球」及び「ベイツ型擬態のケアレスミス(?)」という些末or些細な点3つのみであり、また詳細に反論している部分もそのほとんどが的外れであった[97]。誤りを理解した上で誤魔化そうとしているのか、本当に全く理解できていないのかは分からないのだが、健全な議論が全く進まず、非常に困惑している(なお、伊藤氏は応答しない理由の一つとして、私が匿名であることを挙げているが、本稿初めに説明したように批判集の著者らは自ら批判(及びそれを基にした改善)を求めている訳なので、匿名を理由に応答しないことの納得性は低い (「批判集を改善して良くしたい!」と言っている人に問題点を指摘して「いや、匿名の人の指摘には応答しないんで」と言われたら、「え、改善したいんじゃないの?」となる))。
また、先日(2026/2/26)松井氏は河田氏のnote記事[98]に関して、以下のように「林・松井を名指しして「適応概念の議論をよく把握していないと思われる」とありますが、具体的に私のどの記述のどこが誤りでしょうか。誤りがあれば改訂しますよ!」と述べているが[99]、適応の誤りに関しては本稿及び太刀川氏がこれまで何度も指摘してきた訳であり、何をどのような意図で松井氏がこのような発言をしているのか全く理解できない(またそもそも河田氏も記事中でちゃんと何が問題かを述べている[98])。申し訳ないが、旗色が悪くなったのを見て、真摯な誤りの修正姿勢を見せることでまるでこれまでの指摘が全く無かったことにしようとしている(ある意味で歴史修正しようとしている)ようにさえ見える。また、林氏に至ってはこれまで一切の返答はない。当時あれだけ熱量を以ってtwitter上で批判していたのに自らの批判への応答はしないというのはどうなのだろう?
林・松井を名指しして「適応概念の議論をよく把握していないと思われる」とありますが、具体的に私のどの記述のどこが誤りでしょうか。誤りがあれば改訂しますよ!記事中では「修正点がある場合は太刀川氏や私に直接指摘してほしい」とも書かれていますが、ご自身による批判には適用なさらないんですか https://t.co/e5lFZ3Lal0
— minoru matsui (@minoru_matsui) February 26, 2026
そういう訳で、もちろん本稿による批判は私が勝手にしているものであり、騒動当時の熱量で応答が返ってくることはないだろうとは執筆当時から思っていたのだが、総じてあまりの暖簾に腕押し具合に途方に暮れており、もはや批判する意欲もだいぶ削がれてしまっている。そういった点では、ある程度批判に応答し最終的には増補改訂版まで出した太刀川氏よりも、批判集の著者らの方がその誤りの訂正はずっと面倒で重労働と言える。林氏が当時twitterで以下のように述べていたが[100]、今の私の気持ちはまさにこれなのである。あれだけ丁寧に指摘したのにも関わらず、著者三人からの十分な応答はなく、最近認めた唯一の誤りも些細な3点のみであり、上記したように松井氏は周回遅れのような質問をするし[99]、伊藤氏は「「もしかして『進化思考批判集』も信用できないの…?」と思ってしまう人もいるかもしれない。そういう人の不安を取り除くためにも「安心してください、間違ってませんよ」と言っておくのも大切だろう。」[92]と大した根拠もなくあたかも批判集にほぼ誤りがないかのように述べるし、加えて「だがその『進化思考批判集批判』の内容を見てみると、『進化思考』同様、断定的な表現を繰り返すことで、専門知識を持たない読者に対し、偽りの説得力を錯覚させる書き振りで、ほとんど論拠が示されていない、いわば感想文であった。」[92]と(それこそ大した論拠や妥当性なく)断定的に批判され、労力の非対称性を痛感している。(なお、この伊藤氏の[92]の主張のためにしょうがなく応答記事[97]では多量の引用を行い、本稿ver.2.0.0の追記分でも参考文献を多めに引いた。また林氏が引用している資料に当たってのファクトチェックも行っている)。
デタラメ言う方は言うだけ言って聴衆を煙に巻ければそれでいいのでしょうけど、ファクトチェックしなければならない方は例の記事みたいに専門書やら論文やらいちいちチェックしてからなるべく誤解のないように丁寧に説明しなきゃいけないので、努力も労力も非対称なんですよね…。
— かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所 (@kamefuji) July 24, 2022
疑似科学に踊らされないために、読み手がリテラシーを向上させる必要があるのは勿論ですが、それができる人はそもそも踊らされないはずですし、疑似科学にハマってしまった人を折伏して改宗させるのはなかなか難しそうです。むしろサイエンスコミュニケーションとしては、疑似科学に対してハッキリとダメ出しをすることで、大多数の「SNSで勧められてたけど本当かな…?」「なんかちょっと変な気がするけど…」と不安を抱いていたり、うっすら勘付いている人たちに「その通り、あれはおかしいんですよ」と伝えて安心させてあげることが社会のために重要だと思います。それを繰り返していくことで社会全体のリテラシーも底上げされていくのではないでしょうか。
💛伊藤氏の云っていることは尤ものようにも見えるが、本件に関してはむしろそういった「自らは科学的リテラシーがあると思っている人々」が話を非常に面倒なものにしているように見える。すなわち、「我こそは科学人であり、疑似科学は滅すべきだと思っている人」や「自分では真偽はよく分からないけど何となく「まとも」側に付きたい人」、「ある程度生物一般や生物進化の知識があり、とりあえず何か言っておきたい人」などが、批判集著者らによる大々的な権威的・功労的批判を無批判に受け入れて同調していったように私には見えている。また、伊藤氏は「安心させてあげることが社会のために重要」と述べているが、むしろそういった「安心」という感覚は、対象の真偽を常に問い続ける科学には適さないものでもある。科学においては常に開いた態度で理解を更新し続けることが重要であり、ひとたび自らを「正しい側」に置いてしまうと、自分が誤っている可能性を考えられなくなってしまう。ただ、もちろん専門家などの圧倒的な実力者が基礎的な知識に関して自らを「正しい側」に置くことは問題ない。しかし、少なくとも今回『進化思考』を不適切に批判していた人々 (批判集著者らを含む) は結果から申し上げてそういった実力者ではない訳であり、そういったように自分の理解が絶対に正しいと明確に断言できないラインの対象に関しては常に理解を更新し続ける態度を持つべきであると私は思う (これは専門家含め各々が各々の理解相対的にそうあるべきということ)。また、そういった周囲からの同意や賛同の声というのが批判集の著者ら自身を「安心」させた面もあると私は思っており、そういったように曖昧な理解者らがお互いに依存し合って「自分たちは正しい」という強固なバブルが形成されていったように私には見えている。実際、批判集の著者らが他者からの評価を基に自身の理解の正しさに安堵・安心していたり、自身の理解不足を自覚していたりするような発言はいくつかあるのだが[90][101][102][103][104][105][106][107]、本来その程度の理解度であるのならば、一時の安心や納得はしていいとしても、それで理解を完全に固めてはならず、反論や指摘には真摯に耳を傾けるべきである。そういう訳で、本件についてはリテラシーが底上げされるどころか、むしろ学者含めリテラシーの低さが露呈した例であると私は思っており、当時のことを各々がよく振り返ることは非常に重要であり、もし振り返りを怠れば同じようなことが今後も繰り返されるだろう。また、本件は科学コミュニケーション一般として見ても、様々な観点で反省すべき点のある一件であり、より良い科学コミュニケーションを考えていく上で有用な教材ともなると思う。そしてそういった中で『進化思考』が不当に受けた負の評価分は回復されていくべきであると思う (最近でも『進化思考』に関する誤った批判は見られ[108]、こういった風評というのは一度付いてしまうと回復が難しいものである。なお、一応補足しておくと、私は進化思考の積極的賛同者という訳ではなく、私が回復されるべきと言っているのはあくまで「不当に (実際の誤りの質・量を超えて) 受けた負の評価分」に関してである)。
また、一つ上の指摘部位で述べたように伊藤氏は「「世の中が表層的な反知性主義・反教養主義に流れること、あるいは似而非教養の毒に晒されることに対して強く抗うことは、分野を問わず全ての研究者・学会の責務」ですが」(p.8-9) と述べているが、これに沿って言うならば上記の話は「表層的な知性主義」と言えるだろう。すなわち、「対象に関して十分な知識・能力を持たない人が、権威的人物の記述・発言を鵜呑みにして、自らを安易に正しい側に固定し、それ以外の理解を非難すること」や「他者の主張を安易にステレオタイプ化し、それを批判することで、自らの知的優位性を誇示しようとすること」といったようなものを指して言っている。しかし、上でも述べたように真に知性的な人というのは、まだ自分がはっきりと包括的に評価できない対象に対しては常に開いた態度で理解を更新し続けるものであり、また他者の主張を安易にステレオタイプ化せずに常に対象をつぶさに視るのである。このような「表層的な知性主義」(一種の「「知」の欺瞞」と言ってもいい) が一般人のみならず学者にも多く蔓延っていることは本件を見て分かる通りである(例えば、大学教員と思われる姫岡 優介(@yhimeoka)氏は「いや、あの本は「クリエイティブと進化は似ている!」みたいな話と「進化=進歩だ!」みたいは激ヤバ進歩史観&歴史知らなさすぎ優生思想(批判記事読む限り)らしいので、単にヤバいだけですよ」[109]とtwitterで述べており、投稿日時から推測するに、おそらくここで言っている「あの本」というのが『進化思考』で、「批判記事」というのは林氏のブログ記事[19]であるように思われるのだが、もし仮にこの推測が正しいのであれば、林氏の批判記事をそのまんま鵜呑みにして、『進化思考』を「激ヤバ進歩史観&歴史知らなさすぎ優生思想」と評するのはだいぶ問題があるだろう。一応「(批判記事読む限り)」という前提は置いているが、そうであるならばもう少し穏当な表現を取るべきだし、そもそも優生思想に関しては林氏の記事をさらに自己解釈した明らかに間違ったものである)。またこういった「表層的な知性主義者」はSNSなどにて声が大きくなりがちであるとも私は感じており、その場合そういった「非理解者を断定的に非難するそれっぽい主張」はどんどん周りを吸収して大きくなっていくように思われる。もちろん反知性主義や反教養主義は問題なのだが、それらとは違った角度でこういった「表層的な知性主義」の問題性もこれからはちゃんと見ていくべきではないかと個人的には感じる。実際、本件では『進化思考』及び太刀川氏は不当な(実際の誤りの質や量を超えた)風評を受けている訳だが、こういった「表層的な知性主義」的な批判行為というのは多くの場合論評として扱われ、法には触れないため、大きく負の風評を受けたにも関わらず泣き寝入りの結果になることも多いのではないかと感じる。そういう訳で、少なくともある程度発信力のある人物・アカウントはかつての自分の批判が間違っていることに気付いたらそれを訂正・発信すべきであるし、内輪的にならずに他者の誤った主張をフラットに批判する相互評価文化を醸成する必要があるように思う ( (以下関連記事 [110])。
最後は問題があると考えられる箇所の指摘リストです。これもオンライン上で発表したものに大幅に加筆修正を加えています。その驚くほどの多さから、決して「生物進化に関する一部をとりあげて批判するのではな」[8]いことがお分かりいただけるでしょう。書く側は途中でうんざりして読むのに疲れてしまっているので、その気になって見ればおそらくもっと指摘すべき箇所があるように思います。
第Ⅱ部は、あくまで「進化論をアナロジーとしてい」[9]るだけだ、としても躱かわすことのできない問題点、進化学者の監修によって進化学的に妥当な書き方に改善されたとしても解消されない問題点を挙げます。「進化学徒が騒いでいるだけでは?」と思う方はここから読み始めていただくと良いかもしれません。「創造」や「変異」の語の用法の破綻と、ヒューマンエラーに関する先行研究を一切参照していないことによる欠陥と剽窃の疑いについて指摘します。
📕第一段落は批判集第四章のことを述べている。以降で詳細に指摘していくが、太刀川氏の主張に誤りが多いのは確かなものの、その質や量は批判集著者らが思っているよりもだいぶ少ないだろう。批判集の指摘には生物学的・論理的・文章読解的な誤りが多く存在する。特に『進化思考』を読めばわかるのだが、読解ミスによる不適切な指摘があまりにも多い。また、伊藤氏による第Ⅱ部第五章の指摘も一部妥当なものはあるものの、「躱かわすことのできない問題点」と言えるほどクリティカルなものは少なく、特に「創造」の語用云々に関しては逆に伊藤氏自身が多くの部分で論理的ミスを犯している。
最後に、批判に対する大きな誤解を解いておきたいと思います。次の文は、「『進化思考』を読み解く問いのデザイン」というイベントにおける太刀川さんを含む鼎談(3人でのトークのこと)でのやりとりの一部だそうです。
続いて編集長の安斎が、「天の邪鬼な質問なんですけど…」と言いな
がら掲げたのが、「めちゃくちゃ嫌いな人が書いたと思って、『進化
思考』をあえて批判するとしたら?」というテーマでした。[22]
批判というのは好き嫌いでするものではありません。好きの反対は嫌いではなく無関心。編著者の伊藤は太刀川さんとは特に利害関係はありません。仕事やクライアントを取り合ったこともなければ、デザイン賞の審査をする側/される側となったこともありません。JIDAにも入っていません。太刀川さんのことを知ったのは、まだNOSIGNERの名のみで活動されていた頃で、東京ビッグサイトでの展示会などでユーモラスな干瓢のキャラクター「かぴょ丸くん」が描かれた干瓢うどん[23]をよく目にしていました。また東日本大震災後のwikiサイト「OLIVE」[24] の素早い立ち上げはリアルタイムで見ながら感銘を受けたもの です。ただ、それとこれとは話が別。是是非非謂之智、ダメなものはダメです。
好き嫌い関係なく批判が存在すると言っているのであれば、それはさすがに世の中の様相が見えてなさ過ぎる気がする。また、「批判というものは好き嫌い関係なく行われるべきだ」という規範性の主張だったとしても、後述するように「好き嫌い」というのは興味関心を含意しており、また興味関心がある多くの場合においては程度の幅はあれ好き嫌いが存在すると思われるので、主張としての妥当性はあまり無いように思われる。
「好きの反対は嫌いではなく無関心」とのことだが、これは「好き」というのを「強い興味関心」として定義した場合の話に過ぎず、別に一般論ではないし、普通「好き」の反対は「嫌い」である。また所謂「好き嫌い」は「興味関心」を含意しているとも言えるので、そういうことからも「好き」を強い興味関心と定義し、その反対として「無関心」を対置することはあまり自然な理解とは思えない。また文章を通して見ると、「批判というのは好きか無関心かで行われる (べき) ものである」と主張しているようにも見えるが、上記の理由からこの主張にも大した説得性はない。
または批判集の著者らが太刀川氏のことを嫌いであるから批判しているという訳ではないということを言いたくて「批判に対する大きな誤解を解いておきたい」と言っているのであれば、そもそも安斎氏の云う「めちゃくちゃ嫌いな人が書いたと思って、『進化思考』をあえて批判するとしたら?」というのは、嫌いな人だと思わない限り態々今持ち上げてるものを普通批判をしないとか、一応ゲストとして呼んでる人の本な訳だから悪い意味で取られないようにクッションを入れているだけだと思う。また、引用元も確認したが[6]、少なくとも太刀川氏は自己の主張が批判される可能性が高いことを理解している発言をしており、別に嫌いな人だから批判するということを彼が一般則として考えているということはないように感じられた。
なお、嫌いだから批判している訳ではないということに関してだが、真っ当な批判については問題ないのだが、批判集における重箱の隅を突っつくような本筋とは大して関係ない指摘や人を馬鹿するような態度からは、太刀川氏のことが嫌いなのではないかと読み取られても仕方がないと思う。
Ⅰ 進化学と『進化思考』
ここでの問題点は、生物学を知らないほとんどのおとなは進化理論の基本概念を理解することがほとんどできないのではないかということだ。進化の概念が複雑すぎる〔中略〕ことが問題なのではない。もっと基本的なこと、たとえば、種内には変異があるとか、ある種の全個体に共通する属性はないとか、〝人種〟というヒトの群は実在しないという点が彼らには理解できないということだ。
———Gelman SA The Essential Child: Origins of Essentialism in Everyday Thought. 訳出は三中信宏 『分類思考の世界』
※本稿執筆者注: 本来「The Essential Child: Origins of Essentialism in Everyday Thought」の表記はイタリック体なのだが、note内でイタリック体にする方法が分からなかったので、ここでは標準体で表記した。また「———Gelman SA The Essential Child: Origins of Essentialism in Everyday Thought. 訳出は三中信宏 『分類思考の世界』」は本来は右寄せであるが、noteでは引用内の一部だけ右寄せにすることは不可能なので、ここでは他と同様に左寄せになっている。
これは第Ⅰ部のエピグラフなので、批判集への批判という訳ではないが、「ある種の全個体に共通する属性はない」と「〝人種〟というヒトの群は実在しない」というのは今一よく分からない。
前者に関しては、ここでいう「属性」の定義がよく分からないが、一般的に言って共通する属性はあると言ってよいのではないだろうか (例えばカンガルーは有袋類という属性を持つと言っていいだろう)?そもそも種というのはあくまで人間の認識論的な概念な訳なので何らかの属性というか特徴がなければそのような恣意的な仕切りは不可能であるように思える(生物学的種概念のみによって種を分割することは理論上可能ではあるが、それによって分割された種は生殖可能性に関する情報しか持たない訳なので、それは私達が一般に思う各々の種の情報をほぼ落とした空っぽの種である)。それとも種の全てを確認できる訳でもないから本当に全ての個体がその属性を持っているかは証明できないということを言っているのだろうか?
後者に関しても人種というのがそもそも人間の認識論的な概念な訳なのでそれに対応する人の群は存在すると言ってもよいのではないだろうか?それともここでいう「実在しない」というのは、そういった恣意的な括りそのものは人間の認識の話であって、客観的に存在する訳ではないということだろうか。
1 『進化思考』批判 – 学会発表梗概(松井 実・伊藤 潤)
遺伝子に突然変異がランダムに生じ、突然変異がDNAを介して継承され、突然変異によって引き起こされた個体の形質の差が多少の生存性や繁殖性の差を生み、不利な形質を生み出す遺伝子が淘汰され、遺伝子の頻度が変化する(進化する)。この「変異」「継承」「選択」の三条件が揃っていれば、生物非生物を問わずなんであっても進化する。人間の作り出す文化もまた、個体学習〜変異、社会学習〜継承、バイアスのある伝達〜選択の前述の三条件が揃っているため、進化する。
これは別に誤りというほどのことでもないが、「変異」「継承」「選択」の順ではなくて、「変異」「選択」「継承」のほうが分かりやすいのではないだろうか。すなわち「突然変異がDNAを介して継承され」は「不利な形質を生み出す遺伝子が淘汰され」と「遺伝子の頻度が変化する」の間、もしくは「遺伝子の頻度が変化する」の後に置くのが適切ではないだろうか?(前者の場合世代間に渡る遺伝子頻度の変化について、後者の場合世代内における遺伝子頻度の変化について述べていることになる。とはいえ一般に進化は世代間に渡る遺伝子頻度の変化のことを言うことが多く、「遺伝子の頻度が変化する」に「(進化する)」という補足が付いていることから前者のほうが適切であろう。また繁殖性についても述べているのでやはり前者のほうが適切だと思われる)。文化進化についても同様。
なお、「そのランダムな変異は次世代に継承されるようなものである」という変異の内在的性質について言いたくて、「変異」「継承」「選択」という順にするのであれば特に問題ないが、林氏の一文目はそういう説明にはなっていない。例えば、「変異がランダムに発生し、その変異が次世代に継承されるものであり、かつその変異が個体の適応度に差を生むならば、世代間で集団の遺伝子頻度は変化する」とかなら分かりやすい。
裏表紙の「進化の螺旋」図(以下「螺旋図」)は著者の進化論の理解の程度を極めてよく表した図である。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
螺旋図は変態主義の図解と非常に類似している。当書p.60によると、螺旋図は「あらゆる創造」が「変異と適応の往復から生まれる」という「進化論のプロセスの図示そのもの」らしい。著者の記述は数文字足せば正しい表現になる。「ダーウィン以前の進化論のプロセスの図示そのもの」と改訂すべきだ。ダーウィンが葬ったはずの、生物の変化に定向性があるという考えは、螺旋図では中心を貫く「最適に向かう」「コンセプト」として蘇っている。連綿と続くある一つの幹が世代を追うごとに「最適」に「収束」(p.60)する螺旋図は、着実に「高みに」「未踏へと」(p.468)向かう梯子を登る生物という、変態主義的な創造論の時代の進化理論の理解を忠実に図示している。
💛ここでの「変態主義」とは、工場の灰に覆われた環境に生息する蛾が黒化していった理由を「環境に溶け込むために、体色を黒っぽくする必要があったから」 (p.19) と説明することに相当するのだが、この変態主義と螺旋図を「非常に類似している」と見なすのは不適切ではないだろうか?変態主義そのものには高みへ向かうという意味は特にないし、螺旋図には生物そのもの (または神?) が目的的意志を持って形質を変化させているという意味はないので。
また文脈がよく分からないので明確なことは分からないが、高みや未踏へと向かうといった螺旋図の進歩性に関しては、環境がある程度不変である場合、すなわちある特定の環境における適応について述べているのであれば特に問題はないと思う。環境が変化するような非常に長いスパンの話をしているのであれば誤りであるが。
📕『進化思考』を読んだので追記する。まず、ここで述べられている裏表紙の螺旋図というのは批判集p.95-96において指摘されている螺旋図 (『進化思考』p.61) と全く同一であるので、そこで画像1として引用した図をそのままここにも貼る。それで、太刀川氏は『進化思考』p.60にて「中心にはコンセプトとなる軸が伸びている。生存戦略が変わり、枝が他の方向に伸びて分化していくと、そこには別の螺旋が現れる。」と述べており、これを見るに太刀川氏はある単一の螺旋図にて、高等な種に段々と進化していくことを述べている訳ではなく、単にある一定の環境において形質が適応度地形を登っていくといったことを述べているだけのように見える。したがって、松井氏・伊藤氏は後に松井氏が紹介している適応度地形と似たようなことをここで太刀川氏が述べているのにも関わらず、螺旋図という表現から条件反射的に「変態主義」「進化の梯子」といったよくある間違いパターンを引き出してしまっているように見える。確かに図に書かれているように毎世代ごとに確実にコンセプトに近づき9世代程度で収束するということは自然界の生物進化でほとんどの場合当てはまらないと思うが、「アイデア」「コンセプト」という語から見て分かるようにこの図は基本的には創造の進化を表した図であるので、その辺の細かいところは目をつぶっても良いのではないかと個人的には思う。
生物進化においては獲得形質の遺伝は否定されている一方で、文化進化においては誘導された変異(もしくは個体学習、非社会的学習)という個人が行う試行錯誤をもととしたラマルク的変異と、ダーウィン的な、文化的変異という偶然に生じた意図しない改変の両方が頻度に影響を及ぼすとされている。 これら二種の変異の区別はデザインの分野でも明確になされてきた。ノーマンは、エラーは目標や計画の設定と、その遂行の二段階で発生し得るとした[4]。前者が個人の試行錯誤によるものなので誘導された変異で、後者が文化的変異に相当する。
文化進化については特に詳しい訳ではないのだが、「偶然に生じた意図しない改変」というのが何のことか今一分からない。この後の部分で玉入れを例えとして「あてずっぽうでも玉を投げまくる」(p.20) ことが誘導された変異、「正しくカゴの方向に向かって投げたつもりがコントロールが悪く違う方向に飛んで行ってしまった」(p.20) ことが文化的変異に相当すると述べているが、具体的にはどういったものが「偶然に生じた意図しない改変」に該当するのだろう。ペニシリンの発見とかだろうか。でもこれは意図しない”改変”ではない気がする。正しい方向に投げた訳ではないので。それともここでの「改変」というのは既存のモノに対する能動的なアクションではなく、単にモノが変わっていくこと一般を指しているのだろうか。しかし、その後の部分でノーマンにおける「スリップ」が文化的変異に相当すると言っているように見えるので、おそらくここでの「改変」は能動的なアクションのことを意味するように思われる。しかし、この分類ではペニシリンの発見のような偶発的な環境要因に起因する文化進化や「ラプス」による文化進化を説明できないのではないだろうか (なお、前者についてはスリップとミステイクの合わせ技と見なすこともできなくはないかもしれない。カビの混入を十全に防ぐ動作をし損ねたとも言えるし、そのような混入がありうるような実験方法を選んだミスとも言えるからである)。また、個人が行う試行錯誤を基にした「誘導された変異」は「目標や計画」通りのものも多い訳なので、それをノーマンの「ミステイク」(「目標や計画」の設定ミス)と同一視するのはおかしくないだろうか?
またそもそも誘導された変異 (個体学習) を意図的なものと考える必要はあるのだろうか?確かに変異の"中身"を見たときにはそこに意図は存在するだろうが、決定論的に考えるならば、個体学習による変異は遺伝と環境に関するランダム性によって決まるため、生成される変異の個体差を考える上では意図は必要ない。とはいえ、変異の中身すなわち変異のメカニズムを探ることも文化進化の理解において重要であるのは確かであり、生物学になぞらえるならば、このように (意図的な) 変異のメカニズムを見ていくことは分子遺伝学に、意図を排して単に変異らの頻度的様相を見ていくことは集団遺伝学に対応するのではないかと思った。これはただの感想。
翻って当書では、この二者が「変化はエラーが引き起こす」(p.70)、「進化もまたエラーから生まれる」(p.74)というように、「エラー」というひとつのキーワードとして混同されている。玉入れの例(p.56)で言えば、「あてずっぽうでも玉を投げまくる」と、ほとんどの玉はカゴと違う方向に投げることになる。これは誘導された変異である。一方、正しくカゴの方向に向かって投げたつもりがコントロールが悪く違う方向に飛んで行ってしまった場合、これは文化的変異である。エジソンのフィラメント探索の過程での「失敗」もとい「一万通りのうまくいかない方法」(p.70)は誘導された変異であり、遺伝子の突然変異はランダムな変異である。現代的な文化的進化は多くの場合意図的な誘導された変異が引き起こし、生物進化はランダムな変異から生まれる。この二つは決定的に異なる概念だ。
💛太刀川氏がノーマンの云うミステイクとスリップを区別していないことはその通りだと思うが、この二つの分類は「進化思考」の正当性を大きく損ねるものではないと感じる。というのは、エラーが意図的なものであろうがなかろうが、それは変異として創造にプラスに寄与し得る訳で、太刀川氏はそういった変異一般と生物進化における変異を対応的に見ているからである。すなわち、ここにおいて変異が意図的なものであるかどうかはあまり重要ではない。松井氏&伊藤氏は「現代的な文化的進化は多くの場合意図的な誘導された変異が引き起こし、生物進化はランダムな変異から生まれる。この二つは決定的に異なる概念だ。」と述べているが、この批判が刺さるのは、例えば練りに練った少数のアイデアのみを案出していくという方法論に対してであり、一方太刀川氏が「変異の思考」で云っているのは、常識外れのバカげたアイデアを多数生み出すということであり、この場合、意図的な誘導された変異とランダムな突然変異の対比は大して刺さらない。
二大テーマのもうひとつ「適応」も間違って使われている。自然選択と適応は密接に関連するが別のプロセスで、自然選択によって適応が生じるが、当書では二者が混同されているうえ、変異とも混同されている。たとえば当書と本稿の関係をとりあげてみよう。当書に従って分類すれば当書が変異にあたり、本稿が適応に相当するのだろうが、実際は、本稿もまた思想・理念のプール内における一変異にすぎず、我々の提案する変異と当書の提案する変異が、読者の時間・同意・もっともらしいと認める知識、などの地位を巡って競っていると捉えるべきだ。
💛「適応」には歴史的定義 (祖先集団において有利に働き自然選択の産物として残ってきた形質) と非歴史的定義 (その時点の環境において生存や繁殖可能性を向上させる形質) という二つの定義が少なくとも存在し[7]、著者らが今述べているのは前者の歴史的定義である。後者においては自然選択は必要ではない (また後で述べるが、自然選択によって形質が適応進化する過程として適応を定義することもある。そしてこの定義では適応は自然選択の結果とも言えるし、自然選択への入力とも言える)。
また変異との混同に関しては具体的にそれが分かる引用がされていないので判断ができない。
📕『進化思考』を読んだので追記する。「変異とも混同されている」に関しては、それに相当することを太刀川氏が述べていると断定できる部分は特に無かったような気がするし、そもそも批判集においてここ以降で適応と変異の混同については特に述べていなかったはずなので、何がどう混同されているのかよく分からない。なお、もし仮にこのすぐ後の「たとえば当書と本稿の関係をとりあげてみよう。」云々がそれに関する解説なのであれば、全く以って的が外れている。
また「当書に従って分類すれば当書が変異にあたり、本稿が適応に相当するのだろう」に関しては、何を言いたいのかよく分からないのだが、もし仮に「ある変異に対してそれを篩にかける(訂正の指摘を入れる)モノが「適応」である」といった話をしているのであれば、それは全く以って的が外れている。太刀川氏は「適応の思考」にて環境にフィットしているかどうかでアイデアをふるいにかけるといったような非歴史的定義的な観点の話をしている訳なので、そんな話は一切していない。もし仮にそういう意図の話であるのならば、申し訳ないが本の評者としては読解力不足と言わざるを得ない。しかもこの辺は太刀川氏の話の根幹な訳で、もしそれを読めていないのであれば、それはもう『進化思考』を全然読めていないと言われても仕方がないものである。また、文章の流れとしては不自然だが、もし後ろで述べている「本稿もまた思想・理念のプール内における一変異にすぎず」云々がここでも関係していて、『進化思考』という変異に対して『進化思考批判集』という変異が適応に値するといったような話をしているのだとしても、結局太刀川氏はそのように「モノ」として適応を語っている訳ではないので的が外れている。
我々は250以上の改訂すべき記述と改訂案のリストをまとめてWeb上で公開[5]した*。当書の細かな事実誤認から進化の理解の根幹に関わる大きな誤解まで、著者と出版社のみならず当書の読者にも有用な注であるようにした。非常に単純で深刻な間違いをいくつか紹介すると、『種の起源』はダーウィンとウォレスの共著ではない(p.44、p270、 p274、p.476)。ベイツ型擬態は「強いふりをする」ことではないし(p.107)、チンパンジーには尻尾はないしコアラはクマの一種ではない (p.119)。「水平遺伝子の移行」(p.192)は遺伝子の水平伝播の誤りだろう。セントラルドグマは統合的な進化論を意味しない(p275)。ランナウェイ説は行き過ぎた進化を意味しない(p326)。このような初歩的な事実誤認が平均して一見開きに一つ程度の割合で出現するため、当書は、デザインと進化の関連に興味があるもののこの分野に明るくない読者は避けるべき誤情報源となっている。
💜これは本稿の初めの方でチラッと触れていた部分である。詳しくは後述するが、ベイツ型擬態に関しては明確に誤った指摘であり、ランナウェイ仮説についても理解が間違っている可能性が高い。
このように「非常に単純で深刻な間違い」や「初歩的な事実誤認」と自信満々に言っておいて間違っているのならば、残念ながら本全体の信頼性は大きく落ちる。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、そもそも「初歩的な事実誤認が平均して一見開きに一つ程度の割合で出現する」(一見開きの「一」は余分な誤字?) というのは言い過ぎではないだろうか?というのは、進化思考の本文は480ページ程度であるため、見開きに平均1つとすると初歩的な事実誤認は240程度となり、これは250以上の改訂点というのと個数そのものは大体一致するのだが、その250以上の改訂点にはそういった「初歩的な事実誤認」以外の指摘も多く含まれているからである (ここで250以上の改訂点のリストとして提示されている[5]のページを閲覧したが[111]、データが見当たらないので、それを加筆修正したバージョンである(「*」の注釈にそう書いてある)批判集第四章の指摘数をカウントしたが、伊藤氏と松井氏の指摘を別々にカウントしておよそ合計260個だったので、そのようにカウントしていると思われる。そしてそのときそこには初歩的な事実誤認以外の指摘も多く存在する)。また私が『進化思考』を読んだ感想としても初歩的な事実誤認はそこまでは多くないと感じる。したがって、もし仮に別のカウント方法に基づいてそう言っているのであれば問題ないが、そうではなく以上私がしたようなカウント方法に基づきつつも、特に根拠なく雰囲気や勢いで「このような初歩的な事実誤認が平均して一見開きに一つ程度の割合で出現する」と言ったのであれば、それは不当に『進化思考』や太刀川氏の評価を貶める極めて問題のある行為である。なぜなら純然たる嘘だからである。(なお、「初歩的な事実誤認」以外も多く存在するが、本稿ver.2.0.0における指摘数(引用部位の数。灰色バックの引用部分に追随する一繋ぎの指摘を一単位とする)を数えるとおよそ335個あり、かつ批判範囲である批判集のページ数(p.1~196, p.228~244, p.354~367)を合わせると227ページとなるので、誤りの指摘でない補足的説明や繰り返しの似た指摘などを大目に考慮しても、批判集の『進化思考』批判に関係する部分に関してはだいたい平均して一ページに一つ(見開きに二つ)程度は指摘点があるということになる)。
当書を改善するには二通りの道があるように思う。ひとつは進化学とのアナロジーを諦め、題名をたとえば『太刀川の思考』に、「進化」の記述を「進歩」に、「変異」を「新しいアイディア」にするなどして進化学の学術用語を避ける道だ。当書の紹介する「進化との類似性を創造に活かす具体的な方法」(p.51)の大半は、実際には進化に無関係で既存のフレームワークの焼き直しだ。たとえば当書の変異と適応は、いわゆるデザイン思考におけるダブル・ダイアモンド[6]の発散と収束に相当するし、アイディア発想支援のツールとして提示している9パターンの「変異」は、SCAMPER(SCAMMPERR)として知られるオズボーンの「チェックリスト」に相当する[7]。
💜私は『進化思考』を読んでおらず、またこの批判集に関してもまだ途中までしか読んでいないのでどれほどの問題が存在しているのかははっきりとは分かっていないが、SNS等含めこれまで得てきた情報からは、果たして本のコンセプトをまるっきり変えるほどの問題があるのかついては現状疑問符が付く。上にも書かれていたが本書はビジネス書であり、学術書ではない。進化に関する科学的記述の誤りは直してもらうとして、進化思考という思考法そのものについては仮にその新規性がガワだけであってもそれを捨てる必要は果たしてあるのだろうか。そういった具体的なガワやアナロジーというのはアイデア発想法の実践において割と重要であるように個人的には思うが。例えばここで挙げられている「発散と変異」と「SCAMPER」を進化的観点で統一的にまとめて理解できるのならば、それは十分価値のあるものではないだろうか?
📕『進化思考』を読んだので追記するが、やはり太刀川氏が犯している誤りの質・量は批判集著者らが思っているよりもだいぶ小さいため、別に進化学とのアナロジーをあきらめる必要はないように思う。
もうひとつは現代的な進化学を学び直し、科学的に妥当な表現に書き直すという道だ。著者の進化の理解は残念ながら全面的かつ完全に間違っているため、科学的な妥当性への疑念は我々が指摘した[5]ような変更を施しさえすれば解決できる水準では決してなく、当書のほとんどを書き直すことになるし、客観的な事実のみをもとに論を構築すれば第一版のような個人的なメッセージを伝えるのは難しくなるだろう。
💜詳しくは後述するが、太刀川氏の進化理解に誤りが存在するのは確かだが、「全面的かつ完全に間違っている」とまでは言えないと私は思った。伊藤氏と松井氏がこのように言えるのは、彼らも進化についてよく理解していなかったり、単なる読解力不足に基づく誤読だったりが原因であるように見える。例えば上でも説明したように「適応」の定義の複数性を伊藤氏と松井氏は理解していない。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、一つ上の追記でも述べたように、「全面的かつ完全に間違っている」というのは明らかに言い過ぎであり、「科学的な妥当性への疑念は我々が指摘した[5]ような変更を施しさえすれば解決できる水準では決してなく、当書のほとんどを書き直すことになるし、客観的な事実のみをもとに論を構築すれば第一版のような個人的なメッセージを伝えるのは難しくなるだろう」とは特に思わない。理論・概念や細かい知識に関する明らかな誤りや、言い過ぎの記述、表現的に誤解を招きうる記述などを訂正すれば、主旨は残したまま一般書としては特に問題ないレベルに落ち着くと感じる。なお、『進化思考』まで読んでしっかり精査すると、批判集の誤りも相当な量であり、これらを削除・訂正すると批判集の全体の主張は弱く、かつ本の厚みも薄くなり、読者が抱く感想もだいぶ変わってくるだろう。
ドブジャンスキーの「生物学においては、進化の光で照らさなければ何もわからない」という格言を借りれば、現時点での当書は、進化の光で照らされていない、断定的な物言いを好む読者むけの疑似科学本であると評さざるを得ない。
💜ドブジャンスキーのその格言は"生物学"に対するものであって、進化思考という思考法の話とは特に関係ない。生物学には分子生物学や生態学など様々な研究分野があるが、進化的背景を考慮して初めて個々の研究分野における深い考察及び分野をまたがる生物への統一的理解が得られるというのがその格言の意図であって、思考法を進化の光で照らしたところで特に意味はない。ただこれ以降で詳しく説明するが、もし仮に太刀川氏が創造的思考に真に進化的メカニズムが働いている(のではないか)と考えているのならば、彼の仮説は生物学的な研究対象となり、当然進化の光の照射対象となる。しかし、ここで伊藤氏と松井氏が批判しているのはそういった認知科学的な研究対象の具体的な進化的因果(進化の光に照らされて見えたもの)ではなく、進化に関する一般理解(進化の光そのもの)であり、これを言いたいだけなら態々進化の光云々を持ち出す必要はない。要するにここで進化の光という格言を持ってくるのは不要な権威付けであるように私には見える。また進化の光が存在しない(進化理解が完全に間違っている)という彼らの主張そのものも、先ほど述べたように彼らの不理解や誤読に基づく不適切なものであるように思われる。
📕『進化思考』を読んだので追記する。一部メカニズム的な関連について述べている部分はあるものの、基本的に進化思考は科学理論ではなく方法論であり、かつ諸々の誤りの訂正で進化思考の主軸が大きく失われる訳でもないので、疑似科学本という評価は不適切であると感じる。また「断定的な物言いを好む読者むけの疑似科学本であると評さざるを得ない。」とのことだが、「断定的な物言いを好む」というのが、学術的レベルの正確性をそこまで気にしないといった意味であるのならば、読者層にある程度その傾向はあるのかもしれないが、やはり「好む」というのは少々言い過ぎかなと感じる。また個人的にはむしろ批判集著者らの断定的な物言いのほうが「自らの科学的リテラシーに自負があり、疑似科学は滅すべきだと強く思っている人」の留飲を下げるという点で好まれているような気がする[112][113][114]。あと先日(2026/1/31)の伊藤氏の応答記事[92]も断定的な物言いが非常に多かったが、その大体が的外れの反論であった[97]。
2 『進化思考』における間違った進化理解の解説(林 亮太)
科学における言葉の意味は、同じ言葉の日常的な意味とは微妙に、しかし本質的に異なっており、複雑に絡み合った理論や実験を知ってはじめて理解することができる。こういった言葉をメタファーとしてだけ用いると、容易に無意味な結論を下すことになってしまう。
———ソーカル&ブリクモン『「知」の欺瞞』[1]
※本稿執筆者注: 本来「———ソーカル&ブリクモン『「知」の欺瞞』[1]」は右寄せであるが、noteでは引用内の一部だけ右寄せにすることは不可能なので、ここでは他と同様に左寄せになっている。
💛ソーカルらの『「知」の欺瞞』[115] における文を第二章のエピグラフとしているが、進化思考の件とソーカル事件を安易に同一視するのは不適切だろう(進化思考とソーカル事件を関連付けている人は他にも見られる[116][117][118])。なぜならまずそもそもソーカル事件は無内容な出鱈目の論文が人文系の学術雑誌に掲載されたという最初から最後までアカデミアの話であるからである。だからこそ本来的意味から離れたメタファーの意義が強く問われるのである。一方、『進化思考』はあくまで一般書に過ぎず、また一部メカニズム的な関連についても述べてはいるものの、基本的には方法論に関する本である。また、ソーカル事件に限らない話としても、『「知」の欺瞞』では主にポストモダン系の哲学者を批判しており、これもあくまでアカデミア寄りの話である。
また、そのメタファー及びアナロジーの程度に関しても両者は異なる。『「知」の欺瞞』で批判されている科学概念の濫用というのは、①「どう見てもごく漠然としか理解していない科学の理論を長々とあげつらうこと」, ②「自然科学の概念を、概念的なあるいは経験的な正当化をすこしも行なわずに、人文科学や社会科学に持ち込むこと」, ③「まったく無関係な文脈に、恥もなく専門用語を投入して、皮相な博学ぶりを誇示すること」, ④「実際にはまったく意味のない言葉や文章をもてあそぶこと」(『「知」の欺瞞』p.7) であるが、『進化思考』の記述はそれらに多少は引っかかるがそこまで大したものではない (途中の「膜」「張力」「コンセプトの受精」といった辺りはややそういった怪しい話に該当するが、進化思考の中核的な議論に関してはこれらの4つに強く該当する訳ではない)。一方、『「知」の欺瞞』で批判されている具体例としては、ラカンによる神経症の患者の構造は正確にトーラスそのものであるとか (ラカン曰くこれはアナロジーではなく正確にそういう構造が存在するらしい。しかしラカンはその根拠を一つも挙げていない)、クリステヴァによる詩的言語は連続の濃度の概念で理論的に記述できるとか (ここでの「連続の濃度」とは実数全体の集合における無限の濃度(基数)のことである)、ボードリヤールによる現代の戦争は非ユークリッド空間を舞台にするとか、イリヤガイによる固体の力学に比べて流体力学が進歩していないのは固体は男性的であるが流体は女性的であるから、などである。
そういう訳で科学概念の濫用という観点で安易に『「知」の欺瞞』を持ってくるのは、問題の質や程度を無視したやや不適切なピックであると私は感じる。実際、ソーカルらもこの辺の程度の違いについて「濫用と一口にいってもその程度は様々である。もっとも軽度な濫用は科学的な概念を正当な適用範囲を越えて使うことである。このような用法は誤りではあるがその理由は微妙なものだ。最悪な濫用は、科学用語で溢れかえっているものの、まったく意味がない幾多のテクストに見られる。そして、当然ながら、これらの両極端の間のどこかに位置づけられるいろいろな濫用がある。この本ではもっとも露骨な濫用を中心に議論するが、7章ではカオス理論に関連したさほど自明ではない混乱にも手短に触れる。」(『「知」の欺瞞』p.9) と言及している。
また『「知」の欺瞞』の「日本語版への序文」には、原書発刊後にソーカルらの主張を捻じ曲げた(ソーカルらが言及していることを無視するような切り取り的な)批判が多数寄せられていて困るといったような話がなされているが(「実際にはわれわれのものではない––––そして、われわれが本書の中ではっきりと否定したかもしれない––––見解を、陰にあるいは陽に、われわれに帰し、それらの見解への(しばしばまったく正しい)反論を行う」(『「知」の欺瞞』p.xi))、これは本件における批判集著者ら及びその周辺の人々の批判にも似たようなものがいくらかあると感じる。例えば、「当書はダーウィン以前の進化観を採用している」(p.19)、「変態主義的な創造論の時代の進化理論の理解を忠実に図示している」(p.20)、「著者の進化理解には形質が遺伝して集団内に固定されていくというプロセスがまるまる抜け落ちている。」(p.31)、「進化学徒が持つ「創造」という単語へのイメージは想像したことがないのだろうか? ~(中略)~ この文はかなり進化学徒にケンカを売っている。」(p.40) とかである。また、批判集の著者ら以外にも、例えばノンフィクション作家である川端裕人(@Rsider)氏は「ぼくもつい2週間ほど前に「当書」の最初の50ページくらいを読んだけれど、苦痛だった。」「あと、自分が「ええっ」と思ったのは、進化論を語る場面で「創造」を語るなら、進化論が当時の宗教的世界観との相克を経験したことを踏まえた丁寧な記述と、今ここで扱う「創造」とどう違うのか説明がほしいこと。」とtwitter(X)で述べているのだが[119][120]、『進化思考』における「創造」が「創造論」のそれとは異なるのは自明であるし、そもそも太刀川氏は『進化思考』p.271-276の「進化論の歴史をたどる」という小パートにて、創造論が歴史的にどのように克服されていったのかを6ページを割いてご丁寧に説明しているのである。そしてこういった似たような話が「『知』の欺瞞」にも書かれている(「たとえば、ダアン-ダルメディコとペストゥル (Dahan-Dalmendico and Pestre 1998, p. 96) は、われわれが認識論におけるデュエムの業績に関する論争を「抹消」しようとしたと非難するが、実際にはわれわれは観察の理論負荷性についてのデュエムの見解を肯定的に引用している。(本書の九九頁の註73を見よ。) ジョン・クライジュ (Krige 1998) は、われわれの本を「政治的パンフレット」と見下し、それが「科学哲学の歴史と、科学そのものの社会的・歴史的研究の進展に対して、嘆かわしいほどに無関心だ。」と主張する–––まさに、これらの論点に関連したクーン、ファイヤアーベント、バーンズ、ブルア、ラトゥールの見解についてのわれわれの議論にはひとことも触れずに。」(『「知」の欺瞞』p.xiii。太文字は原文ママ) )。
また、本稿では批判集の引用範囲が狭いという指摘を度々しているが、批判するに当たっての引用範囲についても『「知」の欺瞞』では「いくつかの場合に、読者をうんざりさせるのを覚悟の上でかなり長々と引用したのは、われわれが文脈を離れて文章を切り出すことで、その意味を誤って伝えていないことを示すためである。」(『「知」の欺瞞』p.25) と述べられている。もちろん本稿自体も引用範囲が狭いと感じる部分はあるが(本当は広く引用したいがそうするとただでさえすごい文量がさらに莫大になるので、絞って引用している)、批判集の引用の短さはそれを優に超え、批判している対象に関する情報のほぼ一切が欠けているものも多い(例えば、伊藤氏は「デザイン的観点から見れば、どちらが優れているかは明白だろう。」という太刀川氏の記述のみを引用して、「オリーブの木と扇風機はそもそも機能が異なるので比較対象とすること自体無理がある。「ただ風を発生させるだけのために」と言うが、それならオリーブの木は何のために存在すると言うのだろうか。」(批判集 p.133) と批判するが、これでは引用が少なすぎて批判の妥当性が判別できない。また松井氏は「そして四つの観点が揃うことで初めて、現在の事象を網羅的に理解できるのだ。」という太刀川氏の記述のみを引用して、「進化生物学は基本的には未来をうまく予測しないので、現代の生物学は生物を網羅的に理解できないということだろうか。」(同 p.126) と批判するが、これも批判の妥当性が全く判別できない。また伊藤氏は「図16-2 フォアキャスト 図16-3 バックキャスト(p.397)」とだけ引用して、「矢印が何を表しているのか不明な図である。勿論フォアキャストとバックキャストの違いはなんとなくは伝わるが。 ~(後略)~」(同 p.165) と指摘するが、当の図が引用されていないため何の話をしているか全く分からない)。また、実際に『進化思考』を読んでみると、引用が狭過ぎるゆえに以前は妥当っぽく見えていた批判(または妥当性の判断を保留していた批判)が実は不適切なものであると判明するパターンも多い。
そういう訳で『「知」の欺瞞』には、適切な批判方法や問題のある批判態度に関して見るべきものが多く、そしてそれらは皮肉にも批判集著者らが「疑似科学」と称する『進化思考』への知的に誠実かのような批判や指摘に刺さるのである。
まずはAmazonの販促画像から見ていきたい。
| 生物の進化は、🔶エラーを生み出す変異の仕組みと、自然選択によ
| る適応の仕組みが往復して発生🔶する。[2]
進化は変異の仕組みと適応の仕組みが往復して発生するわけではない。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
まず「適応」はそもそも進化が生じるための必要条件でないことをここで説明しておきたい。「適応」がなくても進化することはある(図1,遺伝的浮動による中立進化)。自然選択(変異・淘汰・遺伝)の3ステップで複数世代を通して顕現する性質が「適応」だ。「適応」は進化の結果生じた性質のことを指すのに、それが必要条件のように書かれているのが当書の最大の誤りである。
※本稿執筆者注:「🔶」で挟んだ部分は本来下線あり
💛前章でも指摘したが、「適応」には少なくとも歴史的定義 (祖先集団において有利に働き自然選択の産物として残ってきた形質) と非歴史的定義 (その時点の環境において生存や繁殖可能性を向上させる形質) という二つの定義が存在し[7]、ここで林氏が述べているのは前者の歴史的定義である。前者の定義では適応は適応進化の十分条件だが、後者の非歴史的定義では適応は適応進化の必要条件である。したがってこの場合「当書の最大の誤り」でもなんでもない。
とはいえ、「生物の進化は、エラーを生み出す変異の仕組みと、自然選択による適応の仕組みが往復して発生する」という記述を見るに太刀川氏は歴史的定義と非歴史的定義を混用している可能性がある (ただ個人的にはここでの「自然選択による」というのは「自然選択に関する」や「自然選択における」といったことを言いたいような気がする。しかし、もしここであくまで適応進化の範囲内での話をしているのならば「自然選択による (非歴史的定義としての) 適応」というのは世代に渡る自然選択のある一断面における話として解釈可能なので、その場合そこまで問題はない)。こういった混用はないに越したことはないので、もし仮に混用しているのならば気を付けた方がよい (なお、もし後述するプロセス的定義を太刀川氏が取っているならば、「自然選択による適応」という表現は特に問題なく、定義の混用の恐れもない。ただこの場合、進化が変異と適応の往復によって発生するという表現はやや重複的表現に見えなくもない。しかし、(適応)進化を「自然選択を通じて高い適応度に貢献する形質及びそれに関係する遺伝子が集団内で増加していくプロセス一般」、プロセス的適応を「適応進化の内の特に形質(頻度)変化プロセスに着目したもの」として定義すれば、往復表現の問題は回避できる)。しかし本稿執筆者の個人的意見を言わせてもらえば、混用されていたところで科学的議論において問題はあまり発生しないとも感じる。確かに論文や書籍内で統一されていると分かりやすいかもしれないが、混用されていたからといって本旨が理解できないとか何かしら重大な勘違いが生じるといったことは別に起こらないのではないだろうか?というのも、まず基本的に文脈からどういう意味で適応と言っているかは判断できるからである(歴史的定義と非歴史的定義を混用されるとさすがに分かりづらいがそのような混用はほぼないと思われる。混用されるときは、歴史的定義とプロセス的定義 (後述)、非歴史的定義とプロセス的定義といった組み合わせがそのほとんどだろう)。また適応はそれそのものが生物学的な直接の研究対象である訳ではなく、あくまで生物の進化的形質について語る上での便宜的な認識概念に過ぎないので、実際に科学的議論にて支障が出ない程度であればその意味の違いに過度に拘る価値はあまりない (科学の本質ではない) と感じる (早い話、歴史的定義と非歴史的定義とプロセス的定義といった異なる生物学的概念に異なる名前を与えてやればそれで問題は解決する訳だが、なまじ「適応 (adaptation)」という日常用語を使ったばかりに、それぞれの研究者が持つ日常語としての「適応 (adaptation)」の感覚と自身の興味のある研究対象が関係し合って、皆が好き好きに適応の定義を語っているように私には見える (もちろんその定義に沿った個々の「適応」を認識論的に把握可能かどうかといった実践的な観点もあるだろうが、結局「適応」という1つの椅子を取り合うことに意味があるのかは疑問である))。とはいえ、先ほども言ったように混用しないに越したことはないのは確かである。なお、いま上で少し述べたように単なる便宜的な観点を超えた話として、何を「適応」と見なしてきたか (or見なそうとしてきたか) というのは生物学者における認識論の話にもなり、科学哲学的に興味深い研究対象であるように思われる。
また、引用部分では「エラーを生み出す変異の仕組みと、自然選択による適応の仕組みが往復して発生」に下線が引かれているが、Amazonの販促ページを確認したところ該当部分に下線は引かれていない[8]。つまりこの下線は林氏独自のものである。しかし少なくとも私が読んだ限りでは下線が林氏によるものであるという補足情報はどこにも書いておらず (「強調」「線」「ライン」でページ内検索をかけたがそれでも見つからない)、もし本当に書いていないのならば、これは一般的な引用ルールに反している。引用を無断で改変してはならないのは学術分野では常識であり、これは学部生でも知っているレベルのことである。些末な点に関する便宜的な改変・見逃しであれば問題ないとも思うが、「下線」という強調の記号を他者が無断で加えるのは割と問題だろう。まあおそらく単に注目して欲しいところに下線を引いただけであり、特に太刀川氏の主張を改変しようとする意図はなかっただろうし、実際このような下線によって太刀川氏の主張が大きく変わることもないし、変わったところでそれが林氏にプラスに働くということもないので問題性は小さいのだが、ルール違反であることには変わりないし、このような初歩的なミスの存在はその人の主張及び本全体への信頼性を下げてしまう。
またこれ以降の引用部分についても下線が多く引かれているが、それらについては元書籍等が手元にないので厳密な確認はできていない。しかし、下線の引かれている部分を見るに林氏独自のものである可能性が高い気がする (元著者がそこに下線を引く意図があまり見えないため)。また別の章で伊藤氏や松井氏が同じところを引用していることもあるのだが、比較したとき伊藤氏と松井氏のそれには下線が引かれていないので、そういった点からも林氏独自のものである可能性が高い。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、下線はおそらく全て林氏独自のものである(「おそらく」というのは全てを逐一チェックした訳ではないからである。ただこれまで太刀川氏の下線であったパターンは発見されていないし、また少なくとも私の記憶では『進化思考』の本文に下線は一切存在していない)。
「適応」は進化の結果生じた性質のことを指すのに、それが必要条件のように書かれているのが当書の最大の誤りである。最近訳本が出版されたWilliams GC『適応と自然選択』では
進化的適応は特殊で誤解されやすい概念であり、必要なく用いるべき
でない。[3]
適応は、真に必要なときだけに使われるべき専門的でわずらわしい概
念である。[4]
と、「適応」がわかりにくい単語であることが冒頭で宣言されている。また、訳者注として、
本書では、適応(adaptation)を自然選択を受けて発達した形質、す
なわち進化の産物という意味で使っている。しかし、日本語の“適
応”は、動詞の適応(していない状態から適応している状態へ変化す
ること)の意味合いが強いので、訳では適宜(的形質)を追加した。
[5]
と注意書きがされている。ここでも、やはり適応は進化の産物、つまり結果としての性質であり、進化の要因ではないことがきちんと宣言されている。そして、この解釈は進化生物学分野における「適応」の理解として進化生物学者たちの合意を得ていると言っていいだろう。
💛先ほど述べたように適応の定義には少なくとも歴史的定義と非歴史的定義の二つが存在し、ここで林氏が言っている歴史的定義が「進化生物学分野における「適応」の理解として進化生物学者たちの合意を得ている」とは別に言えない (歴史的定義が「適応」の定義の一つとして受け入れられているという意味で言っているのであれば問題ないが、ここまでの文脈からしてそうではないだろう)。また『進化思考』の増補改訂版の監修を行った進化生物学者の河田雅圭氏が「進化における「適応」という言葉をめぐって」というnote記事を書いているが[9]、そこでも適応の定義が進化生物学において複数存在することが述べられている (記事内では既に説明した二つの定義の他に、「高い適応度に貢献する性質が自然選択によって進化していくプロセス」というプロセス的な定義が挙げられている)。
また、河田氏の記事内で引用されている論文 (Reeve & Sherman 1993) [10] においても、「Reviews by Leigh (1971), Krimbas (1984), D. C. Fisher (1985), ENdler (1986), Brandon (1990), and Baum and Larson (1991) reveal that there are numerous, often conflicting definitions, and no consensus about what operational criteria should be used to identify a phenotypic trait as an adaptation.」というように様々な適応の定義が存在し、ある一つの定義のみが正しいという合意は特に取れていないということが書かれている。
加えて、そもそも『適応と自然選択』の原著初版は1966年刊行とだいぶ古い本であり、この本だけを以って現在における語の用法を評価することの適切性には疑問符がつく (前述の河田氏の記事でも、進化要因の中で自然選択の重要性が強調され過ぎた時代においては自然選択によって進化した形質のみを適応とすることに価値があったのではないか、といった考察がされている)。また、訳者注ではあくまで「本書では」と書かれており、「日本語」の対置として決して「進化生物学」を置いている訳ではない。その辺の意味をよく読み取って欲しいものである。すなわち、少なくとも引用されている範囲では「ここでも、やはり適応は進化の産物、つまり結果としての性質であり、進化の要因ではないことがきちんと宣言」などされていない。
それとそもそもの話として林氏はここで訳者の辻󠄀和希氏の「本書では、適応(adaptation)を自然選択を受けて発達した形質、すなわち進化の産物という意味で使っている。」という記述を基に論を組み立てているが、私はこの辻󠄀氏の解釈はあまり正しくないのではないかと思う。というのは、『適応と自然選択』[121]をざっくり読んだが、(私が読んだ限りでは) Williamsは一度も「自然選択を受けて(進化的に)発達した形質を適応とする」といった明示的な定義説明をしていないからである。Williamsが述べているのは基本的に「自然選択によって(あらゆる)適応が説明可能である」という説明可能性の話である(「自然選択はすべての適応の事例を説明可能だが、その適応とは、わずかの例外を除けば生物個体の属性であり、個体が属するグループのものではないということである。」(『適応と自然選択』p.xiv)、「自然選択は適応の創造と維持に対する唯一の容認できる説明である。」(同 p.xxi))。そして、この「定義的説明」と「説明可能性の記述」は同じものではない。「自然選択を受けて(進化的に)発達した形質を適応とする」から「自然選択によって(あらゆる)適応が説明可能である」は論理的に導けるが、逆は成り立たない。また導ける方向(→)に関しても、これはほぼトートロジーであり無内容(自然選択の結果として適応を定義するならば、自然選択によって適応を説明可能なのは当たり前)であるため、Williamsが「自然選択を受けて(進化的に)発達した形質を適応とする」と内心で定義していた可能性は低い(もし内心でそう定義していたのならば、「自然選択によって(あらゆる)適応が説明可能である」といったような記述をすることは不自然(記述に新規性がない)なので)。そういう訳で、やや回りくどい説明になったが、以上よりWilliamsの「自然選択によって(あらゆる)適応が説明可能である」といったような記述は、「適応」概念を所与のものとして想定した上で、それが自然選択によって説明可能であると述べていると解釈するのが妥当であるように思う。私の読解としては基本的にWilliamsは『適応と自然選択』において、「適応の見分け方」と「適応の説明」を分けて考えており、まず機能的な設計物として適応を捉え(適応の見分け方)、その上でその起源と維持を説明するのが自然選択である(適応の説明)と考えているように見える。実際、Williamsは原著(ここではWilliamsの意図について厳密に議論したいので原著から引く。なお以下は邦訳版の原著(2018年版)ではなく1996年版である。内容の違いはDawkinsによる「はしがき(foreword)」があるかないかだけ)である『Adaptaion and Natural Selection』[122]のp.2にて「Major difficulties also arise from the current absence of rigorous criteria for deciding whether a given character is adaptive, and, if so, to precisely what is it an adaptation.」や「If natural selection is shown to be inadequate for the production of a given adaptation, it is a matter of basic importance to decide whether the adaptation is real.」と述べており、これは適応か否かの判断と自然選択による説明が別ステップ的であることを示唆する。前者の「適応か否かの判断」(適応の見分け方) が少々分かりづらいと思うので、もう少しだけ説明すると、Williamsは「Whenever I believe that an effect is produced as the function of an adaptation perfected by natural selection to serve that function, I will use terms appropriate to human artifice and conscious design. The designation of something as the means or mechanism for a certain goal or function or purpose will imply that the machinery involved was fashioned by selection for the goal attributed to it. When I do not believe that such a relationship exists I will avoid such terms and use words appropriate to fortuitous relationships such as cause and effect. 」(同 p.9。原文では「means or mechanism for a certain goal or function or purpose」におけるmeans, mechanism, goal, function, purposeと「such as cause and effect」におけるcause, effectはイタリック体である(noteではイタリック体表記が基本的にできない)) というように形質の設計的機能と単なる必然的効果を区別した上で、「The decision as to the purpose of a mechanism must be based on an examination of the machinery and an argument as to the appropriateness of the means to the end. It cannot be based on value judgments of actual or probable consequences.」(同 p.12) や「The demonstration of a benefit is neither necessary nor sufficient in the demonstration of function, although it may sometimes provide insight not otherwise obtainable. It is both necessary and sufficient to show that the process is designed to serve the function.」(同 p.209)というように、あるメカニズムの目的(function)は、そのメカニズムの検証及びそのメカニズムによる結果的効果(functionや単なるeffectを含む広い意味での効果)のためのメカニズムの適切性(目的のために上手く設計されているか)によって判断すべきであるとしており、Williamsがこういったfunctionを持つ精巧な設計物として適応(adaptation)を捉えていることが窺える。そして実際Williamsはp.212にて「Thus the demonstration of effects, good or bad, proves nothing. To prove adaptation one must demonstrate a functional design.」というようにfunctionalな"design"として適応を捉えていることを明確に述べている。そういう訳で、Williamsは『適応と自然選択』において、自然選択の結果としての適応定義を内心ある程度想定していた可能性もなくはないが、あくまでも話の軸としては機能的設計物としての適応 (または存在論的に自然選択の結果としての適応定義を想定しつつ、機能的設計を徴候として認識論的に適応を見抜く)という非形式的な話をしている(そしてその掴んだ「適応」を自然選択によってどう説明するかという話をしている)ように見える(後者の存在論・認識論の解釈では、Williamsは半分存在論・半分認識論という曖昧なものとして「適応」概念を捉えているように思われる)。したがって、「本書では、適応(adaptation)を自然選択を受けて発達した形質、すなわち進化の産物という意味で使っている。」という辻󠄀氏の訳注は『適応と自然選択』におけるWilliamsの語用の説明としてはやや不適切であると感じる(「動詞」ではなくて「進化の産物」であるという対比観点の説明としては問題ないが)。またWilliamsは後年 (1991年) に「An adaptation is some sort of biological machinery or process shaped by natural selection to help solve one or more problems faced by the organism.」[123]というように機能的設計の意味を残しつつも自然選択の結果として明確に定義している。したがって、こういった後年の解釈も含めれば、「本書では、適応(adaptation)を自然選択を受けて発達した形質、すなわち進化の産物という意味で使っている。」というのも擁護されなくもないが、やはり『適応と自然選択』における語用の説明としては不適切であるように個人的には感じる(またWilliamsの云う機能的設計の観点もやや脱色されてしまっているように感じる)。似たような方向性の定義としてSoberが「A is an adaptation for task T in population P if and only if A became prevalent in P because there was selection for A, where the selective advantage of A was due to the fact that A helped perform task T.」[124] (この定義は多くの他の論文に引用されているが元のSober (1984) [125] が書籍のため敢え無くSober本人の別論文からの孫引き)というように非常に形式的にはっきりと自然選択の結果として適応を定義しており、辻󠄀氏の説明はどちらかというとSoberのそれに (またはSoberの定義を基にしたWilliamsの主張の再解釈として) 良く適合するように見える。(Soberの定義がWilliamsの主張を上手く捉えているというのは、Sober本人がそう言っているし(「Here is a definition that captures what Williams is after」[124])、Lewensも「One of the reasons why a definition like this is attractive is that it promises to tidy up Williams’s claim that adaptations are the result of design rather than chance. What is required, if this claim is to be made respectable, is some evolutionary process that can play the role of design. Sober achieves this by defining adaptation as the product of a natural selection process, a process that can be distinguished from the mere chance appearance in a population of the trait in question.」[126]と述べている。ただ個人的にこれらはあくまでWilliamsの主張の抽象的なメカニズム面の話に過ぎず、Williamsが『適応と自然選択』で述べている機能的設計としての「適応」概念の漏れのない説明ではないと感じる。実際、Lewens(及びその引用内のFisher)も「Sober’s definition helps us to make some sense of Williams’s claim that adaptations are not products of chance, but in doing so it causes problems for Williams’s follow-up assertion that selection is the only permissible explanation of adaptation (a claim that Richard Dawkins [1996] also makes). It makes that second claim true, but vacuously so. It is hard to portray Darwin’s intellectual breakthrough as the realisation that adaptation is best explained by natural selection, if adaptation is simply defined as a product of a selection process. Fisher (1985, 120) makes the point forcefully: ‘Defining the state of adaptation in terms of its contribution to current fitness, rather than origin by natural selection, is essential if natural selection is to be considered an explanation of adaptation.’」[126]と述べている(上の方で私が述べていたトートロジー云々はここの議論を参考にして言っている))。
なお、林氏は「進化的適応は特殊で誤解されやすい概念であり、必要なく用いるべきでない。[3]」や「適応は、真に必要なときだけに使われるべき専門的でわずらわしい概念である。[4]」といったWilliamsの言葉を引用しているが、Williamsがそこで想定している話というのは、本の文脈からするに上記で説明したようなfunctionと単なるeffectの区別や、群レベルでのfunctionを安易に想定してはならない(個体レベルの話で済むならばそれで済ませるべき)といった話であり、批判集で今話題としているような「進化の産物であって、進化の要因ではない」という話とは特に関係ないように思う。 それで、この部分は「適応は、真に必要なときだけに使われるべき専門的でわずらわしい概念である。[4]」という辻󠄀氏の訳が一枚噛んでいる気がしていて、ここの原文は「The ground rule—or perhaps doctrine would be a better term—is that adaptation is a special and onerous concept that should be used only where it is really necessary. 」(『Adaptaion and Natural Selection』p.4-5。原文では「doctrine」はイタリック体である(noteではイタリック体表記が基本的にできない))なのだが、ここの「special」は「専門的」ではなくて単に「特殊な」などと訳した方が良いように個人的には思う。辻󠄀氏が「専門的」という語をどのような意図で当てたかは定かではないが、少なくとも結果としては「専門的」という語は「一般用語⇔専門用語」「一般人⇔専門家」といったような対比の解釈を生み得るものであり、実際に林氏はここでそういった対比の意味(太刀川氏を含めた一般人の語用とは異なるという意味)も含めて引用しているように見える。しかし実際にはこの引用部の直後には「適応を認識せざるをえないときも、証拠が必要とする以上に高次レベルの組織に帰するべきでない。適応の説明は、その理論だけでは不十分であると証拠が明白に示した場合を除き、メンデル集団における対立遺伝子の間にはたらく自然選択という最も単純な形式でするのが適切であると仮定すべきである。」(『適応と自然選択』p.3)という話が続き、一般用語⇔専門用語といったような対比は特に行われていない。そういう訳で、林氏がおそらく考えているであろう引用意図と引用元における元々の意図は異なる可能性が高く、したがって「と、「適応」がわかりにくい単語であることが冒頭で宣言されている。」という林氏の引用の仕方は不適切であるように思う。また、本全体を通しても少なくとも私が読んだ限りでは、Williamsは今ここで話題となっているような「適応が自然選択の結果であるか否か」という話は一切していないはずであり、そのように意図が不確定であるにも関わらず、あたかもWilliamsがそれ(適応が自然選択の結果であるか否か)も含むような一般論として語っているかのように読み取られ得る引用をしているのを見るに、林氏はWilliamsの言葉を元の文脈から離して単なる汎用的な戒めとして権威的に使用しているのではないかとさえ私には思えてくる。そしてもし仮にそうであるのならば、それは林氏自身がp.54で述べている論理に従うならば「本に書かれてもいない内容を勝手に都合よく捏造して引用する」に該当し得るだろう。(一応補足するが、これは私が「林氏は捏造して引用している」と思っている訳ではなく、林自身が述べている論理に従えばそうなり得るという話である)。
| 私たちは道具の創造を通して🔶「進化」を達成してきた🔶。〔中
| 略〕こうした創造は🔷疑似的な進化🔷そのものだ。[6]
それは進化ではない。進化は常に現在進行形で走っている現象であり、達成するものではないからだ。また、「疑似的な進化そのものだ」に至っては完全に個人の感想だ。
※本稿執筆者注:この引用部は『進化思考』からではなく、『進化思考』のAmazon販促画像からである。また「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💛「達成」という表現に全く問題が無いかと言われればそうではないと思うが、別に否定されるものでもないと思う。例えば「”ここまでの”「進化」を達成してきた」と補足すれば十分許容され得るものだろう。現在までの進化の達成はこの先の進化を特に否定する訳ではない。
また太刀川氏の意図ははっきりとは分からないが、「「進化」を達成してきた」においては「進化」にかぎ括弧が付いており、これを学問的に厳密な意味で進化と言っている訳ではないと読み取ることは十分可能である。
なお、この引用部分における下線も林氏独自のものである (一応原文では「「進化」」と「創造は疑似的な進化そのもの」に黄色のマーカーが付いているが、林氏の下線とはリンクしていない)。そして下線が林氏独自のものであることを示す記述は特に見当たらない。
このように、販促画像・宣伝フレーズを一瞥しただけでも進化に関する理解がまったく間違っていることがわかってしまう一方で、著者は力強くこう述べる。
| 「創造性は、人間という生物が起こしている自然現象だ」という信念
| が僕の中ではあります。なので、🔶この本が生物学的に矛盾がない
| ことはとても大事なんです🔶。同時にそれはすごく高いハードルを
| 自分に課したことになるのですが、新しい創造性教育の根幹を目指す
| には、そうありたい。それに、僕が嫌いな人であれば非科学性をまっ
| さきに突っ込むだろうし、まず科学好きの僕が、デザイナーの僕に一
| 番ツッコミを入れてる存在でありたいと。僕は創造性という自然を探
| 究したかったので、そういう🔷科学的な客観性を備えた本にしよう
| 🔷とは思っていました。[9]
なぜこうも自信をもって言い切れてしまうのだろうか。この著者の進化理解への自信の源には、当書が受賞した山本七平賞の選考委員の中に長谷川眞理子氏が含まれていたことがあるようだ。
| 昨年、養老孟司先生や🔶長谷川眞理子先生が、山本七平賞という賞| をこの本に授けて下さいました。だから、この本は学術的な根拠のな
| い議論を連ねたとんでもない本ではなくて、生物学的に見ても、経済
| 学的に見ても、ある程度読める本になっている🔶んじゃないかなと
| 思います。[10]
|
| 結果としてですが、🔷仮にもし根幹的なところで進化論自体に誤解
| があったら、長谷川眞理子さんのような厳しい目を備えた進化論の権
| 威が、進化思考を学術賞である山本七平賞に選ばれるとは思えません
| 🔷。また東北大学で教鞭をとる進化生物学者の河田雅圭先生も進化
| 思考に共感してくださり、この本の改訂にあたっての助言をくださっ
| ています。出版前にもズーラシアの村田園長などの生態学者の方にも
| 読んでいただきました。そういう査読者のご協力もあって、僕の誤植
| はともあれ基本的な進化論の構造についての大きな間違いはないと思
| っています。[11]
しかし、著者がお墨付きを得たと主張する長谷川眞理子氏の著作では、進化のメカニズムについて以下のように解説されている。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💛太刀川氏の発言のどの部分を「言い切り」と見なしているのか謎である。太刀川氏の進化理解が間違っているという引用直前の文章および下線から考えるに、「この本が生物学的に矛盾がないことはとても大事なんです」と「科学的な客観性を備えた本にしよう」のことを言っているのだろうか?しかし、前者は単なる事実であり、後者も筆者の願望に関する発言であるため、それに対して「なぜこうも自信をもって言い切れてしまうのだろうか」という自信の正当性に関する指摘を行うことはおかしい。それとも太刀川氏がこういう発言を態々外に向けてするということは、それが十分に達成されていると太刀川氏は自信を持って思っているに違いないということなのだろうか?だとすればそういう推論をしていると林氏はきちんと説明するべきである。今のままでは何を言いたいのかよく分からない。
また、「まえがき」p.8への指摘でも述べたが、批判集の著者らがこれだけ自信を持って批判し、太刀川氏の反論に対しても全く動じず、また本稿公開以降も誤りをほぼ全く認めないのは、当時アカデミアを含む周囲からの同意・賛同の声が多数あったからではないかと個人的には感じる。すなわちそういった同意や賛同によって「お墨付き」を得たと感じてしまったのではないかということである。実際、林氏は以下のように専門家から批判の声がないから(及び賛同の声があったから)自身の批判は正しいのだという「お墨付き」を得たかのような発言をしている[101][102][103]。また伊藤氏も以下のように専門家も同様に批判しているから太刀川氏の理解はやはり間違っているのだろうといったような「お墨付き」的な発言をしている[107]。
進化学徒どもからの批判はとりあえず現時点で来ていない。よかった。
— かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所 (@kamefuji) July 21, 2022
ほぼ全面的に支持してくれる研究者がいて安心した。
— かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所 (@kamefuji) July 21, 2022
おおむね好評のようで安心している。著者の進化理解の更新は諦めているので、既に購入してしまった人と潜在的読者層に届いてほしい。
— かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所 (@kamefuji) July 22, 2022
『進化思考』に対する私からの批判は学会の梗概とZennに書いた通りであり、徒に繰り返す気はないのだが、進化学周辺からの批判がこれほど燃え上がるとは想像していなかった。博士の皆さんがこれだけ激しく批判しているのだから、著者の進化に関する理解は間違っているのだろうと思う。21/n
— Jun ITO/イトウジュン (@itojundesign) December 3, 2022
また、林氏は批判集出版後に林氏が師匠と呼ぶ人物からの「おホメの感想」をもとに進化思考の件についてはこれにて〆るかのような発言をしており、これも「お墨付き」的な自信・安心を得ているものであるように思われる[90]。
進化思考批判集、師匠から一ヶ所ツッコミが入ったけどだいたいよろしいというおホメの感想が来てとても安心している。これでもうこの件についてやり残したことはない。マサカド思考はもう知らん。あとは任せた。
— かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所 (@kamefuji) December 19, 2023
また、時期的にはだいぶ終盤になるが、生物系統学者の三中信宏氏が主催した『進化思考』に関する学会シンポジウム〈進化思考の光と影〉[127] に批判集著者ら三人が発表者として登壇したことも、彼らに「お墨付き」的な自信を与えたのではないかと個人的には感じる。(なお、現在唯一公開されている松井氏の発表[128]を最近閲覧したが、残念ながらその発表内容のほとんどが的外れで不適切なものであるように個人的には感じる。参考記事:「日本生物地理学会主催シンポジウム〈進化思考の光と影〉について」[129])。
そういう訳で、以上のように批判集の著者らも周囲からの同意や賛同を通して自身の理解は正しいのだという「お墨付き」的自信を得てしまったのではないかと個人的には感じる。ただ私は別にお墨付きを感じることそのものを否定している訳ではない。そのようなお墨付き的な感情は人間なら誰しもが抱くものであり、私も同様である。しかし、そのように他者に認められて初めて安心するような程度の理解なのであれば、お墨付きを得られたからといってすぐに自身の理解を閉じて固めてはならず、自己研鑽を積むのはもちろん、他者からの批判や指摘に対して真摯に向き合って理解を更新し続けるべきなのである。実際、批判集の著者らは以上のような批判そのものへの安心に加えて、以下のようにそもそも対象分野の理解に不足があるかのような発言もしたりしているのだが[104][105][106]、その程度の理解度なのであれば、たとえ「お墨付き」を得た(と感じた)としても、尊大な態度を持たずに太刀川氏の反論や本稿に対してもう少し謙虚かつ真摯に向き合うべきだろう。
適応と選択が逆なのでは、と思っていたのだけど不勉強で確たることを書けなかった。やはりそうだそうです
— minoru matsui (@minoru_matsui) July 5, 2022
本当に素晴らしい解説になっとる。ありがたすぎる
— minoru matsui (@minoru_matsui) July 21, 2022
特に「自然選択によって発生する適応は進化のすべてではなく浮動による中立進化もある」というのは「あっそうかそういえばよかったんだ」という中立進化でD論書いた人としては忸怩たる思いが
かめふじさんの記事を読んだあとだと、この「別のプロセス」ってのよくなかったかなと思い始めている(始めているだけで確信には至っていない 至るための知識がない)適応という結果が生じるプロセス=自然選択、とするのがいいのかな pic.twitter.com/xSraNHzeUF
— minoru matsui (@minoru_matsui) July 21, 2022
しかし、著者がお墨付きを得たと主張する長谷川眞理子氏の著作では、進化のメカニズムについて以下のように解説されている。
自然淘汰は、次の四つの条件が満たされているときに生じる自然現象
です。🔶その前提とは、①生物は、たとえ同じ種に属していても、
それぞれ個体ごとにさまざまな性質が異なる、つまり種内には個体差
がある、②そのような個体差の中には、遺伝的なものがあり、遺伝的
に決められている個体差は親から子へと遺伝する、③そのような遺伝
的な差異の中には、生存と繁殖に影響を及ぼすものがある、④生まれ
てきたすべての子が生存して繁殖するわけではない、の四つです
🔶。
〔中略〕
さて、この四つの条件が満たされているとすると、どんなことが起こ
るでしょうか。うまく生き残って繁殖できるような性質が、どんどん
集団の中に広まっていくことになります。たくさん生まれてきた個体
の中には、生存と繁殖に関して、うまくいく性質を持ったものと持っ
ていないものとがあり、当然ながら、うまくいくものがよく生き残っ
て子孫を残すのですから、世代を重ねるにつれて、そのような子孫の
数が増えていくでしょう。そうすると、その生物の集団は、誰もがそ
の環境においてうまく生存して繁殖するような性質を身につけること
になります。だからこそ、水の中を泳ぐ魚は、泳ぐために理想的なか
らだのつくりをしており、空を飛ぶ鳥は飛ぶために理想的なからだの
つくりをしているのです。このように、🔷生物が、そのすんでいる
環境に対して非常にうまくできていることを「適応」と呼びます
🔷。[12]
ここでは4つのステップとされているが、③と④は意味的には実質同じだ。やはり①変異、②遺伝、③淘汰と3つのステップが自然淘汰のプロセスとして紹介されている。また、「適応」については、うまくできていること、つまり進化の結果として「適応」という単語を使っており、進化の要因として「適応」という単語を用いてはいない。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💛長谷川氏の云う③と④は別に同じものではない。一見④が③の必要条件であるようにも見えるため④は不要であるようにも思われるが、④のポイントは「すべての子」がというところにおそらくある (そして③と④は包含関係にはない) 。すなわち集団内の全ての個体においてある形質が共有されるような自然淘汰について長谷川氏は述べているように見える。そして実際後の部分で「そうすると、その生物の集団は、誰もがその環境においてうまく生存して繁殖するような性質を身につけることになります」と述べている。一般には自然淘汰による適応の過程とは集団内の全ての個体においてある形質が固定される (または消失する) ことを必ずしも言う訳ではないが、そのような狭義の話をすることそのものは特に問題ない。(厳密には全ての個体が繁殖可能だったとしても長期的にはある対立遺伝子・形質が集団から消失することはあり得る訳だが、④でない場合はそういった集団の遺伝子頻度の変化は緩慢になるので、そういった訳で④を入れたように思われる)。
なお繰り返しになるが、「適応」という語の定義については、長谷川氏がここで述べている (と林氏が思っている) 定義が歴史的定義であるというだけであって、進化生物学において歴史的定義がただ一つの正しい定義として認められているということを証明している訳ではないし、実際そうではない。またそもそも「生物が、そのすんでいる環境に対して非常にうまくできていることを「適応」と呼びます」という長谷川氏の文章は、そこでの「適応」の定義が歴史的定義であることを含意しない (「うまくできていること、つまり進化の結果として「適応」」という林氏の推論はおかしい)。むしろこれは非歴史的定義と解釈するのが穏当だろう。この文章が歴史的定義を一意に意味していると林氏が思ってしまうのは、おそらく彼が「環境にフィットするあらゆる形質は適応進化によって生じたものである」という誤った理解をしているためであるように思われる。
進化理論自体は、それほど難しい話ではないのですが、根本的な部分
でいくつか誤解されがちな点があるので注意が必要です。
まず一つ目の誤解は、自然淘汰が「目的を持って」働いていると考え
られやすいことです。🔶自然淘汰が働く大前提は、生き物に遺伝的
な変異があることですが、変異は環境とは無関係にランダムに生じま
す。🔶現れた変異がたまたま環境に適していて、生存や繁殖の上で
有利となる場合に自然淘汰が働き、その変異が継承されるのです。現
在では、変異は遺伝子の配列の変化によって生じることがわかってい
ますが、🔷すべての変異は偶然の産物なのです🔷。[14]
当書では、生物の「変異」のパターンを学ぶことでアイデアの創出に活用することができると主張されているが、生物進化における「変異」はここに解説されている通り、環境とは無関係にランダムに生じるものだ。パターンはない。このように、著者がお墨付きを得たと主張する長谷川眞理子氏の書籍でも『進化思考』の中で説明される「変異」や「適応」、「進化」の使われ方はよくある誤解として説明されており、残念ながら著者が言う「科学的な客観性を備えた本」には遠く及ばない内容になっている。
※本稿執筆者注:引用部は長谷川眞理子氏著『ダーウィン種の起源 : 未来へつづく進化論』からである。また「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💛文脈がよく分からないが、太刀川氏の云う「生物の「変異」のパターン」というのは変異の時系列的な発生パターン (次にどのような変異がくるか) ではなくて、単に変異の類型的な種類についてではないだろうか?おそらく林氏は、生物における変異はランダムに発生するのだから意図的な行為であるアイデア創出には活かしようがないと言いたいのだろうが、太刀川氏は単に変異の類型的パターンを学ぶことで意識的にも無意識的にも広範なアイデア創出に役立つといった話をしているだけな気がする。
また「環境とは無関係にランダムに生じる」という部分に着目すると、「生物は環境相対的に有利な変異を偏って発生させており、そのような適応的な変異パターンを学ぶことでアイデア創出に役に立つ」と太刀川氏が主張しているのだと解釈して批判している可能性もあるが、上記の通り太刀川氏はそんな話はしていないと思われる。太刀川氏は単にアイデアの幅を広げるために変異が役立つと言っているだけであり、ある特定の有利な変異パターンを学ぶという話は特にしていないように見える。
またここまでの所感として、太刀川氏の理解に一部怪しい部分があるのは確かだが、「「科学的な客観性を備えた本」には遠く及ばない内容」とまでは現状言えないと私は感じる。既に何回も述べたように少なくとも「適応」については林氏もよく理解しておらず、誤った知識で批判に成功した気になっているだけである。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏は『進化思考』p.84,85にて「これらの変異のパターンそのものが、バカになるためのルール、つまり発想の型になる。こうしたエラーのパターンは日常生活のなかでも頻発しており、実際にこれらのパターンを取り入れた創造の痕跡を、歴史上のあらゆる発明やデザインに発見できる。」「またこれらのパターンは、不思議なことに生物進化によって獲得した形態やDNAエラーによる奇形にも共通して見られる。」「そのなかには触角が足に「転移」したかのように生えているハチや、卵管が余計に「増殖」したザリガニ、羽の模様が「欠失」した蝶などが見られる。そこには明らかに創造と共通する突然変異のパターンが存在する。」と述べており、これを見れば、太刀川氏が生物における変異の類型的パターンをアイデア創出に生かすという話をしていることは容易に読み取れる。確かにこのp.84,85まで読む前に、ここの指摘文を作成したのだとしたら分からなくもないが(ただここに限らずとも類型的パターンの話をしていると普通は分かる気がするが)、この第二章の最後のまとめ(批判集p.61)でも林氏はパターンに関してここと同様の突っ込みをしているので、もしp.84,85などのように類型的パターンの話をしていると極めて容易に分かる部分(例えば、太刀川氏はこの後の各変異 (「変量」や「擬態」など) の紹介パート (p.90-199) にて「生物における変異」と「創造における変異」という類型的な比較を毎回行っている)を読んだ上で、そういった指摘をしているのであれば、申し訳ないが本の評者としては極めて読解力が低いと言わざるを得ない。また、「太刀川氏は進化について理解していないはずだ」という認知バイアスが適切な読解を妨げ、変異に時系列的なパターンはないという手近な話に無意識に話を落とし込もうとしてしまっている可能性も考えられる。そしてそういった読みも当然評者としては不適切である。
| 進化論の構造は単純明快で、四つの現象を前提としている。
|
| 1 変異によるエラー:生物は、🔶遺伝するときに個体の変異を繰
| り返す🔶
| 2 自然選択と適応:自然のふるいによって、🔷適応性の高い個体
| が残りやすい🔷
| 3 形態の進化:世代を繰り返すと、🔶細部まで適応した形態に行
| き着く🔶
| 4 種の分化:住む場所や生存戦略の違いが発生すると、種が分化し
| ていく(p.44)
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
「遺伝するときに個体の変異を繰り返す」というのも意味が分からない。次世代を残すときに様々な変異が生まれ、選択を受け、その一部の性質がさらにその次世代に遺伝していくものである。「個体の変異を繰り返す」というのも主体がわからない。ヘッケルの反復説的なことを言いたいのだろうか?
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💛おそらく太刀川氏は「生殖細胞の生成及び受精のプロセス一般」という意味で「遺伝」を解釈してしまっているか、または変異が発生するタイミングを知らないかのどちらかであると思われる。
また「個体の変異を繰り返す」というのは、単にそれぞれの個体において変異が発生し、それが世代内・世代間に渡って繰り返されると言いたいのではないだろうか。実際、これ以降の部分で「卵から毎回違う個が生まれる「変異」の仕組み」という『進化思考』の記述が引用されており (p.31)、それを見るに「個体の変異を繰り返す」に関しては上記の解釈で合っていると思われる。「主体がわからない」のが気になるのであれば、「個体の変異が繰り返される」と読めばよいだろう。分かってて敢えて突っ込んでるのか、本当に分からないのか判別が付かないが、これくらいは太刀川氏の意図を読み取って欲しいものである。少なくとも文脈的にヘッケルの反復説のことでないのは明らか。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏は『進化思考』p.80で「DNAは複製を繰り返すなかで、わずかなエラーを引き起こす。」と述べているので、変異の発生タイミングは理解しているように見える。したがって、おそらく太刀川氏は遺伝という語の意味を間違って理解しているゆえに、「遺伝するときに個体の変異を繰り返す」という記述をしたように思われる。
| 2 自然選択と適応:自然のふるいによって、🔷適応性の高い個体| が残りやすい🔷
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
「適応性の高い個体が残りやすい」というのもよくわからない表現である(頭痛が痛い、というような違和感)。生き残りやすい有利な性質を持つことを「適応的」と呼ぶのに、これでは「残りやすい個体が残りやすい」という同語反復で何も説明できていない。「自然のふるいによって、生き残りやすい個体と生き残りにくい個体が選別される」くらいの表現が適切ではないだろうか。このあたりが初学者の方にはわかりにくいニュアンスかもしれないが、Williamsが「進化的適応は特殊で誤解されやすい概念であり、必要なく用いるべきでない」[3] というようにめんどくさい単語なので、このようにいいかげんに使ってほしくないところだ。
※本稿執筆者注:「🔷」で挟んだ部分は本来下線あり
💛少なくとも日本では、厳密な意味で「適応性」という生物学用語が存在している訳ではないので、太刀川氏がここで非生物学的な意味で環境に適応していることを言っているように読めなくもないが、文脈から考えて太刀川氏の頭の中には生物学的な意味でのそれがあったように思われる。ただその場合も、好意的に読んであげれば必ずしも間違いという訳でもないだろう。まず林氏は「生き残りやすい有利な性質を持つことを「適応的」と呼ぶ」と言っているが、「適応」は繁殖成功度に関する概念なので、生き残りやすさだけに言及したこの発言内容は端的に誤りである。そしてこの発言に沿うならば、同語反復と称するこの後の「残りやすい個体が残りやすい」という発言は「生き残りやすい個体が生き残りやすい」を意味していることになる。そしてこの場合は確かに同語反復であり、無内容である。しかし一方、ここで太刀川氏が述べているのは「適応性の高い個体が残りやすい」であり、ここでの「残りやすい」を「生き残りやすい」ではなくて、「次世代にその子孫が残りやすい」と好意的に解釈してあげるならば文の意味は普通に通る (環境にフィットする個体の子孫が次世代の集団で相対的に増えやすいということ)。(とはいえ2,3の流れを見ると、単に生存しやすさのことを言いたいようにも見えるので、太刀川氏の真意がどちらであるにせよ分かりやすい内容に修正したほうがよい)。
というように太刀川氏が「適応」の意味をそれなりに理解している可能性は存在する上に、林氏は「適応」に繁殖が絡むことをよく理解していないようにも見える。そして前述してきたように林氏は適応を歴史的定義でしか理解できていない。果たして「初学者の方にはわかりにくいニュアンスかもしれない」「いいかげんに使ってほしくないところだ」と他人に言っている場合なのだろうか。なお上記では、「適応性」を「環境へのフィット」というやや曖昧な言葉で誤魔化したが、もし仮に「適応性」を「適応度」として解釈したならば「適応度の高い個体の子孫が次世代以降の集団で相対的に増えやすい」となり、これは適応度の一般的な定義が「ある個体が生んだ子のうち、繁殖年齢まで成長した子の総数」であることを考えるとトートロジーとも言える。しかし「適応度」は単なる生存や繁殖の結果ではなく、環境との関係を基に予測(期待値)として定義されるものであるので、これは個々のケースにおいて経験的に検証可能な命題であり(どのような形質が適応度に貢献するのかを見つけることに価値がある)、したがってトートロジーであるからといって命題として無意味な訳ではない。また林氏は代案として「自然のふるいによって、生き残りやすい個体と生き残りにくい個体が選別される」を提示しているが、これも結局ある環境において生き残りやすい個体と生き残りにくい個体がその環境のふるいによって選別される(生き残りやすい個体は生き残りやすく、生き残りにくい個体は生き残りにくい)ことはトートロジーな訳なので、特に問題点は変わっていないように見える。ただ一応、ここで林氏が云う「生き残りやすさ」が単なる個体の生存確率を、「選別」が子孫を残せるか否かを意味するならばトートロジーとはならない (「生き残りやすさ」と「選別」がどちらも生存確率、またはどちらも子孫数期待値について言っているのであればトートロジーとなる)。またここでの「選別される」というのが「選別されて分けられる」ことを言っているのではなく、「選別作業に投げ込まれる」ことを言っているのならば、その場合もトートロジーではない。
なお繁殖に関する不足については、2番の項名が「自然選択と適応」であることから、狭義の自然選択だけを考えてしまっていたという弁明も予想されるが、ここまでの文脈では繁殖に関する形質も含めて自然選択を語ってきており、かつ太刀川氏がここで生存のみに関するものとして自然選択を定義していると判断できる情報も少なくとも引用範囲内では存在しない。したがってここでいきなり狭義の自然選択で解釈するのは不自然であり、その場合林氏の中で広義と狭義の使い分けの意識が薄いと言えるだろう。(なお、一般に「狭義の自然選択」といったときは「生存のみに関する自然選択」(弁明として通用するのはこっち) や「広義の自然選択から性選択を抜いたもの」を指す気がするが、前者の場合は子育てや産子数などの繁殖能力形質の適応進化の所属が無くなり宙ぶらりんになるので前者の捉え方はあまり良いものではないような気がする)。また単なるケアレスミスだとしたら、申し訳ないが理解が浅いだろう。本質的に理解していれば、どれほどうっかりしていても「生き残りやすい有利な性質を持つことを「適応的」と呼ぶ」とは言わないはずである。また、もしここで林氏が云う「生き残りやすい」というのが、上で私が述べたような「次世代以降にその子孫が残りやすい」を意味しているのであれば表現が不適切である。「生き残る」というのは普通一個体の一生についての話なので。
またp.26のWilliams云々への指摘でも述べたが、「進化的適応は特殊で誤解されやすい概念であり、必要なく用いるべきでない」というWilliamsの言葉は目次(『適応と自然選択』p.xxi) における第一章「はじめに」の要約内の言葉であり、それに対応する本文中の言葉は、林氏がp.26で引用していた「適応は、真に必要なときだけに使われるべき専門的でわずらわしい概念である。」(同 p.2) であると思われるが、その前後の文脈を見るに(「私が後で少し分量を割いて議論するように、純粋に偶発する現象を自然選択と見なす向きがあり、実際には存在しない問題を取り上げ、それを解決したのが自然選択(説:訳補)だとされることがある。」(同 p.2) や「適応を認識せざるをえないときも、証拠が必要とする以上に高次レベルの組織に帰するべきでない。適応の説明は、その理論だけでは不十分であると証拠が明白に示した場合を除き、メンデル集団における対立遺伝子の間にはたらく自然選択という最も単純な形式でするのが適切であると仮定すべきである。」(同 p.3) など)、ここでのWilliamsの言葉の意図は、設計された真のfunctionと偶発的なeffectの区別や、個体より高いレベルで安易に適応を想定しないといったものである可能性が高い。したがって、ここで林氏が述べているようなトートロジー云々の話に関してWilliamsの言葉を引用するのは不適切であると感じる。引用はその引用元の意味や意図を保持した上で運用すべきであり、自論を強化するためだけに文脈から切り離して用いてはならない。林氏がどういう意図でその引用を行ったのかは定かではないが、申し訳ないが私には戒めを権威付けるためだけに使っているように見える。(なお、文脈から切り離してはならないとは言ったものの、例えば、ある人の言葉が別の話を導出するとかであれば、場合によっては文脈から切り離しても問題ない。一方、今回のようにただ単に「Aさんもこう言っている」といったような例示的な使用であるのならば、やはり文脈から切り離すことは問題である)。そしてこれは林氏自身がp.54で述べている論理に沿うならば「本に書かれてもいない内容を勝手に都合よく捏造して引用する」に該当し得る。(一応補足するが、これは私が「林氏は捏造して引用している」と思っている訳ではなく、林自身が述べている論理に従えばそうなり得るという話である)。
| 3 形態の進化:世代を繰り返すと、🔶細部まで適応した形態に行| き着く🔶
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
また 、「世代を繰り返すと、細部まで適応した形態に行き着く」ともあるが、細部まで適応した形態に行きつくことはない。進化は現在も走っている現象だからである。終着点があるわけではない。今、完成形のように見えるさまざまな生物たちも進化の途上にいる。もちろん我々Homo sapiensもそのひとつだ。
※本稿執筆者注:「🔶」で挟んだ部分は本来下線あり。また、本来「Homo sapiens」の表記はイタリック体なのだが、note内でイタリック体にする方法が分からなかったので、ここでは標準体で表記した。
💛「細部まで適応した形態に行き着く」という記述が進歩史観的な進化の終着点を含意するということは特にない。確かにそう読むこともできなくはないが一意に読み取れる訳ではない。林氏はおそらく「行き着く」という表現から条件反射的に進歩史観的な終着点を想起してしまったのだと思われるが、「行き着く」ことはその先全く動かないことを含意する訳ではない。例えば「生物の進化はここまで行き着いてきた」という表現は特に問題ないだろう。もっと一般的な例で言えば、東京から広島へかけての旅行中に「大阪まで何とか行き着きました!」とツイートすることに何も問題はない (林氏の論理に従うならば「まだ広島に着いてないのだから「大阪に行き着いた」という表現はおかしいだろう」という突っ込みを入れることになる)。また別のところで似たようなことを既に述べたが、もしある一定の環境における進化的安定戦略を考えているのならば、少なくとも近い未来はこの先動かないという意味で行き着くと言ってもそれほど問題はないだろう。
なお、これについては後でも説明するが、林氏には太刀川氏を「典型的な進化への誤解パターン」に安易に当てはめようとしている節があるように私には見える。そういう認知バイアスが初めからあるのか、または読解力が足りないゆえに最終的に見知った線に行き着いてしまっているのかは分からないが、文章をちゃんと読めば太刀川氏の主張がある程度見えるところでもそれが見えてなかったり、今回のように表現の意味を勝手に一意に決定してしまっていることが多い。
| 4 種の分化:住む場所や生存戦略の違いが発生すると、種が分化し| ていく(p.44)
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
4つ目の種の分化に関する説明だけは間違ってはいないが、これは種分化に関する説明であり「進化論の構造」としてここで挙げるものでもないだろう。
「進化論」は単なる「進化」とは別物であるので、種分化についても説明することにそれほど問題はないと思う。
| 自然界では、この「変異×適応」の仕組みがつねに働いている。(p.45)
今後も何回もこの「変異×適応」という記述が出てくるが、「変異と適応」ではなく「変異・淘汰・遺伝」である。著者の進化理解には形質が遺伝して集団内に固定されていくというプロセスがまるまる抜け落ちている。
💛林氏が先ほど引用していた太刀川氏の進化論の説明1, 2, 3, 4を見れば、「形質が遺伝して集団内に固定されていくというプロセス」を太刀川氏が全く理解していないとは言えないだろう。太刀川氏の理解ははっきりしないものの一応「遺伝」という用語を使っているし、世代を繰り返すことで適応的形質が集団に固定されていくことも明らかに理解しているように見えるからだ。ではなぜ太刀川氏が「変異×適応」という表現にこだわっているかというと、おそらく「遺伝」の部分は進化思考という行為論を論ずるにあたり重要性が低いからだろう。すなわち遺伝というのはこの地球に存在するDNA (およびRNA) を基にした生物らにおいては必然的に生じるものであり、生物進化において変異と選択が世代間に渡って連鎖していくための土台みたいなものだからではないだろうか?そしてこれは進化思考においても同様で、思考において遺伝を司るのは記憶・記録だと思うのだが、この記憶・記録も意識して態々するようなものでもなく(脳において基本的に記憶は行われるし、紙や電子媒体への記録、また創作物としての記録も特にそれが意識されることなく行われている)、土台のようなものとして進化思考という行為論とは関係が薄く存在している。こういった点から進化思考という行為論を論ずるにあたり、分かりやすさを重視するために土台となる遺伝の部分が省かれているのではないだろうか?(一応、記憶・記録方法を意識的に改善していくことで「変異×適応」をより強力に効かせることはできると思われるが、太刀川氏の中ではその重要性は相対的にあまり高くないということなのだろう)。
なお先ほど指摘した林氏の認知バイアス云々はここにも当てはまる。ここまでの太刀川氏の主張をちゃんと読めば太刀川氏が「形質が遺伝して集団内に固定されていくというプロセス」を全く理解していないとは言えないはずなのに、なぜか「著者の進化理解には形質が遺伝して集団内に固定されていくというプロセスがまるまる抜け落ちている」と明確に言い切ってしまっている。それまでの文脈を無視し、「変異×適応」という表面的な表現だけを以って太刀川氏が「遺伝」について全く理解していないと見做す林氏の態度からは、太刀川氏が進化についてよく理解していないことにしたいという強い認知バイアスの存在が窺える。「「進化思考」を提唱するという「目的」が「手段」で ある「進化学」や「生物学」あるいは「正確な文章」よりも優先されてしまっている」(p.119) という伊藤氏の発言を借りるならば、「太刀川氏が進化をよく理解していないことにしたい」という目的が、手段である「適切な読解」や「建設的な議論」よりも優先されてしまっているように見える。単なる読解力不足 (少し前に読んだことをすぐに忘れてしまうなど) という可能性もあるかもしれないが。
| こうした変異と適応を、実に38億年続けてきた結果、世界は無数の種 | 類の生物で覆われることになった。つまり生物の進化もまた、卵から| 毎回違う個が生まれる「変異」の仕組みと、それが🔶途中で死んだ
| り性競争に負けたりしないで無事に次世代に遺伝子をつなげられるか
| という「適応」の仕組み🔶を長期間繰り返している。このきわめて
| 単純なプロセスを前提とすれば、気の遠くなるような時間をかけて、
| 🔷個体の変異と自然選択による適応🔷を繰り返すことで、しぜんに| 美しいデザインが生まれるというわけだ。(p.45)
これは「適応」ではなく「選択(または淘汰)」の仕組みである。当書で著者が「適応」と表現するところを全部「選択(または淘汰)」に置換して読めば多少は違和感なく読み進めることができるかもしれない。また、「個体の変異」は自然選択のプロセスの中に含まれるものであり、自然選択と対をなす単語として用いられるものではない。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💛「これ」というのはおそらく下線の引かれた「途中で死んだり性競争に負けたりしないで無事に次世代に遺伝子をつなげられるかという「適応」の仕組み」のことを指しているのだと思われる。確かに「「適応」の仕組み」という表現に一瞬引っ掛かりを感じなくもないが、「適応」を非歴史的定義やプロセス的定義として取ればそれほど問題はないだろう。ここでも歴史的定義としてしか適応を理解していないという林氏の不理解が読解のネックになっている。
また個体の変異と自然選択を対にするのはおかしいという指摘については、まずそもそも太刀川氏は「個体の変異」と「自然選択による適応」を対にしてるのであって、「個体の変異」と「自然選択」を対にしている訳ではない。確かに自然選択についても書いてはあるが、「自然選択による適応」の主は明らかに「適応」だろう。また個体の変異と自然選択を対にするのが不適切という指摘そのものも大した妥当性はない。確かに自然選択は変異を要素として成り立つ現象であるが、変異の発生システムと自然選択のシステムは別物である。したがって大した問題はない。ここまでの林氏の「自然選択(変異・淘汰・遺伝)の3ステップ」(p.25)「「個体の変異」は自然選択のプロセスの中に含まれる」(p.32) といった記述を見るに、林氏は変異・淘汰・遺伝の三要素によって文字通りの意味で自然選択が構成されているかのように考えている可能性もあるが、自然選択はあくまでその三要素の存在下で成り立つ現象に過ぎない。すなわち、謂わば自然選択とはその三要素を入力とする写像のようなものである(変異の発生システム・様相、淘汰の様相、遺伝のシステムがどのようであるかによって出力が変わる)。したがって入力である変異と写像である自然選択を対にすることに別に不適切さはない。また先ほども言ったがそもそも正確には今は「変異と適応」が対にされている。そしてこの写像の考え方に沿うならば、ここでの「適応」は写像の入力(入力そのもの、及び次世代以降の変異の土台)または出力である(より厳密には自然選択という写像の出力一般は(平均適応度が増加した)次世代集団であるが、そのような各世代集団間の遺伝子や形質の変化一般を適応進化と定義でき、さらに適応進化のうち特に形質変化の過程により焦点を当てたものとしてプロセス的適応を定義できるだろう。そしてこのような考え方に加え、自然選択が遺伝子ではなく形質に働くことを踏まえれば、適応進化が適応にドライブされるという考え方が別にそこまでおかしなものではないことが分かる)。したがって、単に一世代での自然選択だけを考えるならば非歴史的定義としての適応がここでの適応に該当し、また出力のフィードバック性を動的に捉えるならばプロセス的定義としての適応が該当するだろう。特に太刀川氏はここで「「変異」の仕組み」「「適応」の仕組み」と言っており、これを見るに異なる動的な対象の関わり合いについて考えている可能性が高く、したがってプロセス的定義がここでの太刀川氏の主張によりフィットするように見える。なお、「適応」を「選択」に置換するべきということに関しては、以上説明したように絶対にそうしなければならない訳ではないが、一般に「選択」とした方が直観的に分かりやすいとは思う。ただ、「適応」とすることで、自然選択を経て平均適応度の増加した次世代集団以降がまた変異の土台になるというフィードバック的な往復性が分かりやすくなるというメリットも一応ある。
また、ここで太刀川氏が単に生存や繁殖において有利な個体が相対的に多くの子孫を残すこと (変異・選択・遺伝における選択) を自然選択と言ってしまっている可能性もある (こういう勘違いが生まれ得るので「変異・選択・遺伝」の「選択」は「適応度の差」などと言ったほうが良いと個人的には感じる)。 この場合であれば、上記の話に加えて、変異との並列はより自然なものになる。
またここで太刀川氏は「次世代に遺伝子をつなげられるか」とはっきり述べており、これを見れば太刀川氏が進化における遺伝の必要性を理解していることは明らかだろう。そうであるのに上で述べたように林氏は「変異×適応」という表面的な部分に拘泥し、太刀川氏が遺伝の必要性を全く理解していないと判断してしまっている (一応ページ順に読んで逐一批判し、かつ戻って訂正などもしていないのであれば、そのように判断してしまっていることも百歩譲って許せるかもしれないが (そうであってもこれ以前にある程度理解していることが読める部分はあったが)、この第二章の最後のまとめ(批判集p.61)でも同様に太刀川氏が遺伝の必要性を理解していないと言っているので、結局問題性は残る)。
| 進化は、🔶遺伝によるミクロな現象としての「変異」🔶と、🔷状況
| によるマクロな現象としての「適応」🔷の往復から自然発生する創
| 造的な現象だ。
| 〔中略〕
| では、これらの事実に通底する普遍性は何を示しているのか。それ
| は、あらゆる知的構造は、「変異」と「適応」の往復が生み出すとい| うことだ。変異と適応をめぐる自然の構造を深く理解すれば、そこか| ら創造性の法則を体系化できるかもしれない。(p.50)
この文からも著者が遺伝の意味を理解できていないことがわかる。発生したさまざまな「変異」の中から適応的なものが「選択」され、その形質が「遺伝」していく。「遺伝」によって「変異」が生まれることはない。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💛太刀川氏が「遺伝」の正確な意味を理解していないのは確かだと思うが、「発生したさまざまな「変異」の中から適応的なものが「選択」され、その形質が「遺伝」していく」というプロセスそのものはおそらく理解していると思われる。これは先ほども述べたが、それが分かるような説明が上の方に存在しているからだ。太刀川氏が理解していないのはそういったプロセスそのものではなくて、「遺伝」という言葉が何を指しているかではないだろうか?すなわち指示対象 (referent) そのものを理解していない訳ではなくて、記号 (sign) と指示対象の結合が間違っているだけではないだろうか?私には太刀川氏が「生殖細胞の生成及び受精プロセス一般」を「遺伝」として理解してしまっているだけのように見える。
また、ここでも著者は「適応」の意味を理解できていないことが示されている。進化の結果である「適応」が、なぜか進化の必要条件になっている。遺伝的でない「適応」は存在しないし、「適応」がなくても「進化」は起こる(図1)。 それが冒頭で触れた「遺伝的浮動」というメカニズムによる中立進化である。
💛我ながらしつこいとも思うが、批判集のどの部分から読んだ人でも、その妥当性について本稿が検討の参考になるように、同じようなことでもできるだけ繰り返し述べていく。既に何回も指摘した通り、ここで林氏が言っている「適応」は歴史的定義に過ぎない。適応には他に非歴史的定義やプロセス的定義が存在する。歴史的定義においては適応は適応進化の十分条件だが、非歴史的定義やプロセス的定義においては適応は適応進化の必要条件と言える(プロセス的定義を適応進化の必要条件と捉えるのは少々違和感があるかもしれないが、遺伝子及び形質の両方に関する広い概念である適応進化の内の特に形質(頻度)変化に着目したものとしてプロセス的適応を定義すればそれほど問題はない)。したがって「進化の結果である「適応」が、なぜか進化の必要条件になっている」というのは林氏の不理解による誤った指摘である。
なお中立進化についてはその通りではあるが、文脈的にここまで「適応進化」として「進化」を見てきているのだから、今更それに突っ込むのは野暮というものである。太刀川氏に突っ込むならば、先ほど適応進化を「進化」として説明していた長谷川氏の書籍に対しても同様に突っ込むべきである。とはいえ、中立進化について一度説明した上で、この本では今後適応進化のみについて話していくといったような断りを入れておいた方が良いのは確かである。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏は主に環境へのフィットそのものについて語っており、そういった非歴史的定義的な状況の意味が遺伝子レベルの変異発生とは異なるレベルの現象であるのは確かなので、「遺伝によるミクロな現象」の「遺伝による」を「遺伝子レベルにおける」などと修正してあげれば一応往復的な話は通る。
そもそも「進化」とは、『遺伝的な性質の変化』のことを示す単語である。つまり、一個体の中で完結する現象ではなく、複数世代を通して顕現する現象だ。そこには「自然選択」によって変化することもあるし、ランダムな「遺伝的浮動」によって変化することもある。この中で、「自然選択」によって得られた性質を進化生物学では「適応(的性質)」と呼ぶ。
💛「そもそも「進化」とは、『遺伝的な性質の変化』のことを示す単語である。つまり、一個体の中で完結する現象ではなく、複数世代を通して顕現する現象だ。」というのが「太刀川氏は進化が遺伝的な性質の変化であると理解しておらず、一個体の中で完結する現象であると考えている。しかしそれは誤りである」といった趣旨の発言であれば、上でも述べたようにそれは林氏の誤読である。太刀川氏は「自然のふるいによって、適応性の高い個体が残りやすい」「世代を繰り返すと、細部まで適応した形態に行き着く」(『進化思考』p.44) や「無事に次世代に遺伝子をつなげられるか」(同 p.45) といったように進化が一個体を超えた遺伝的形質の変化としての現象であることを明らかに理解している。
また繰り返しになるが、「「自然選択」によって得られた性質を進化生物学では「適応(的性質)」と呼ぶ」という部分については、それは歴史的定義としての適応の話に過ぎない。非歴史的定義においては、仮にある形質が過去に適応的であったため自然選択によって残ってきたとしても、今現在それが適応度増加に相対的に寄与しないのであれば今のそれは適応とは呼べない。
また「適応(的性質)」というように括弧でぼかしているように見えるが、「適応的性質」と言った場合には、そこでの「適応」は非歴史的定義でのそれを意味することが多いように個人的には感じる。実際、林氏もp.31で「生き残りやすい有利な性質を持つことを「適応的」と呼ぶ」と言っており、このようなある時点での性質の所持に関する定義に従うならば「適応的形質」は非歴史的定義としての適応を指す。しかし、ここp.32での「適応的性質」は歴史的定義としての適応を指す (おそらく歴史的定義として「適応」と言おうとしたものの、適応が形質そのもののことを言うのか否か自分の中で曖昧になったため、括弧付けで「的性質」を保険として付けたのだろう。または「適応的性質」という言い方も一般にはするのでそれを一応併記したか)。つまり、p.31の記述とp.32の記述は矛盾している。というように、あれだけ太刀川氏のことを批判しておいて林氏の中でも定義が曖昧なのである。
自然淘汰と遺伝的浮動については、『生き物の進化ゲーム』から引用しよう。
自然淘汰による進化が起こるには以下の3つが必要である。
変異:個体間である性質に違いがある。
淘汰:性質が異なる個体間では、残す子の数の平均や子の生存率が違
う。
遺伝:その性質は多少とも遺伝する。
〔中略〕
一方、ランダムな浮動による進化には淘汰という過程は必要ない。
〔中略〕
変異・淘汰・遺伝の3つが揃ったときに起こるのが自然淘汰による進
化、変異・遺伝があれば起こるのがランダムな浮動による進化であ
る。
また、放送大学教材『生物の進化と多様化の科学』からも自然選択(自然淘汰)と遺伝的浮動に関する解説を引用する。
自然選択が起こるには、以下の3つの要件が必要である。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
もともとは少数の個体にのみ見られた性質が、世代を重ねる中でその
生物種全体がその性質を持つように変化する。🔶これを自然選択に
よる適応形質の進化という🔶。形質とは生物に見られる形や性質の
ことをいう。
このように、進化生物学における「適応」とは、自然選択による進化で得られる『結果』のことであり、当書で書かれているような進化の必要条件を指す単語ではないことがわかる。
※本稿執筆者注:「🔶」で挟んだ部分は本来下線あり
💛繰り返しになるが、ここで林氏が述べているのは適応の歴史的定義に過ぎず、非歴史的定義やプロセス的定義においては適応は適応進化の必要条件になる。またそもそも放送大学教材『生物の進化と多様化の科学』における「自然選択による適応形質の進化」という記述が歴史的定義のことを言っているとは別に一意には読み取れない。非歴史的定義としての適応 (形質) も当然自然選択によって進化しうるからである (「自然選択による適応形質の進化」と「自然選択によって進化した形質を適応形質と呼ぶ」は異なる言明である)。また仮に歴史的定義のことを言っていたとしても、これは放送大学教材『生物の進化と多様化の科学』では歴史的定義を採用していたというだけの話であって、進化生物学一般において歴史的定義が「適応」のただ一つの正しい定義であると認められていることを別に意味しない。
また、これは批判集に対してではなく、かつだいぶ重箱の隅を突っつく指摘になるが、『生き物の進化ゲーム』における「性質が異なる個体間では、残す子の数の平均 ~ (中略) ~ が違う」という記述はやや不適切であるように見える。これがもし一腹や繁殖シーズンごとの子の平均について述べているのならば問題ないが、もし単にその個体が一生に産む子の数のことを言っているのであれば、「残す子の数の平均」と言う必要はなく、単に「残す子の数」(より厳密には「残す子の数の期待値」) と言えばよい。おそらくではあるが、この著者の頭の中には同じ遺伝的形質を持つ個体グループごとの平均があったのではないだろうか?しかしそうであるのならば「性質が異なる個体間では」という記述は不適切なのである。諸々を混同していたためにこのような記述になっているように私には見えた。また単に期待値の意味で平均と言っていたのであればまずそもそもそれは誤用である。一応残る子の数が一様分布しているならば例外として問題はないのだが、現実的にはそのような場合はほぼないように思われるのと、特に今そのような前提が置かれてる訳でもなさそうなので結局不適切だろう。
当書では「変異と適応によって進化する」と説明されるが、進化のトリガーとなる「変異」の多くは中立であり、適応的かどうかを問われない、自然選択による選別を受けない確率的なプロセスだ。
💛何を批判したいのか今一分からない。「進化のトリガーとなる「変異」の多くは中立であり、適応的かどうかを問われない、自然選択による選別を受けない確率的なプロセスだ」の部分は概ね正しいのだが、そうであったところで「変異と適応によって (適応) 進化する」という説明は特に否定されない。単に中立進化もあるよってことを言いたいのであれば、先ほども指摘したが太刀川氏はここまで明らかに適応進化について述べてきており、しかも批判集のここまでの文脈でも進化=適応進化として扱われてきたのに、それ今更言うか?という感じである。確かに進化=適応進化が厳密には誤りなのはそうだが、『進化思考』の主旨と中立進化は特に関係なく、一回指摘するならまだしも本筋と関係ないことをここまで繰り返す必要はないように思える (中立進化について林氏は既に一回指摘している)。
またこれは重箱の隅を突っつく指摘であるが、「適応的かどうかを問われない」という表現はおかしい。適応的かどうかは問われるものではない。適応的であるか、そうでないか、それだけの話である。まあおそらく何かそれっぽいことを言おうとして失敗しただけだと思うが、もし仮に失敗とかではなく真にそう思っているのだとしたらその理解はかなりおかしい。「確率的なプロセスだ」と最後に言っているので、変異 (mutation) のプロセスそのものは適応的かどうか問われるものではないと言いたいようにも見えるが (この意味であれば「適応的かどうかが問われるものではない」という表現は特に問題ない)、途中で「と説明されるが、~(中略)~ 中立であり、」というように中立であることが自然選択による選別を受けないことの理由であるかのように言っているのでその方向の解釈はおそらく違う。という訳でプロセスではなく結果としての変異の話をしているように思われるが、その場合中立な変異が自然選択によるバイアス的選別を受けないのは、その変異が適応度にプラスにもマイナスにも寄与しないからであって、適応的かどうか問われないからではない (ここでは「適応的かどうかを問われない」という擬人的表現を「適応度の観点でその変異の対象を評価することができない (そもそも適応度の増減に貢献する可能性のある存在物ではない)」と解釈している)。なぜなら変異が適応度にプラスにもマイナスにも寄与しないという評価が下されるということは、そもそもその変異の対象を適応度の観点で評価することが可能な訳なので、つまり適応的かどうかを問われているからである(ここで今私が言っている「評価」というのは人間が外部から適応度を評価することではなく、変異の対象が自然選択のふるいに参加し何らかの結果を得ることについてである)。という訳で林氏がどういう意図で「適応的かどうかを問われない」と言ったのかはよく分からないが、もし仮に今説明したような意味でそう言っていたのだとしたら、林氏は中立進化をよく理解していない可能性が高い。すなわち、中立進化のプロセスで起こる変異と適応進化のプロセスで起こる変異の違いはそれが適応的か否かではなく、そもそも適応のふるいに参加できるか否かにあると(そしてそのように質的に全く異なるものとして)考えている可能性がある。とはいえ個人的には、初めに言ったように林氏は単に表現を間違えただけのような気がする。
| 二つの思考の繰り返しから、創造的な発想が自然発生する。変異の思| 考では、🔶生物の進化に見られる変異のパターン🔶を学び、いつで
| もバカになれる偶発的な思考を手に入れる。🔷生物や発明には、あ
| る種の共通する変異パターンが存在している🔷。(p.59)
生物進化において、変異は意味のあるものからないものまで幅広く存在する。そこにパターンはない。そのパターンを学べると思っているところが完全に誤った進化の理解だ。長谷川眞理子氏の著作でも、
進化理論自体は、それほど難しい話ではないのですが、根本的な部分
でいくつか誤解されがちな点があるので注意が必要です。
まず一つ目の誤解は、自然淘汰が「目的を持って」働いていると考え
られやすいことです。🔶自然淘汰が働く大前提は、生き物に遺伝的
な変異があることですが、変異は環境とは無関係にランダムに生じま
す🔶。現れた変異がたまたま環境に適していて、生存や繁殖の上で
有利となる場合に自然淘汰が働き、その変異が継承されるのです。現
在では、変異は遺伝子の配列の変化によって生じることがわかってい
ますが、🔷すべての変異は偶然の産物なのです🔷。[18]
として、変異に共通のパターンがないことがきちんと説明されている。パターンがあるとしたらそれは変異ではなく、進化的制約、あるいは進化という現象そのものだろうだろう。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💛何を言いたいのかよく分からない。「変異は意味のあるものからないものまで幅広く存在する」ことは「パターンはない」を含意しない。長谷川氏の文章を引用して「変異に共通のパターンがないことがきちんと説明されている」と言っているが、もしここでの林氏の指摘の要点が"全ての"変異に共通するパターンがあるか否かにあるならば、ここまで引用されている範囲では太刀川氏は「全ての変異に共通するパターンがある」などとは一言も言っていない。また、全てには限らず単にパターンが一部存在するか否かについて指摘しているのならば、当たり前だがそういった変異のパターンは遺伝子レベルでも形質レベルでも存在する。
また先ほども同じような指摘をしたが、もし林氏の云う「変異のパターン」というのが「時系列的な変異の発生パターン (次にどのような変異がくるか)」のことであるのならば、確かに次にどのような変異が発生するかそのものは予測できない。しかし、太刀川氏はそんな話はしておらず、単に変異の類型的分類の話をしているだけのように見える。
また、これも先ほど述べたが「生物が環境相対的に有利な変異を偏って発生させている」という意味で林氏が「変異のパターン」と言っているのであれば、上記のように太刀川氏はそんな話は特にしていない気がする。太刀川氏は単にアイデアの幅を広げるために変異が模倣的に役立つと言っているだけであり、特定の有利な変異パターンを学ぶという話は特にしていないように見える。
📕『進化思考』を読んだので追記する。批判集p.30への指摘と同様の話になるが、太刀川氏は『進化思考』p.84,85にて「これらの変異のパターンそのものが、バカになるためのルール、つまり発想の型になる。こうしたエラーのパターンは日常生活のなかでも頻発しており、実際にこれらのパターンを取り入れた創造の痕跡を、歴史上のあらゆる発明やデザインに発見できる。」「またこれらのパターンは、不思議なことに生物進化によって獲得した形態やDNAエラーによる奇形にも共通して見られる。」「そのなかには触角が足に「転移」したかのように生えているハチや、卵管が余計に「増殖」したザリガニ、羽の模様が「欠失」した蝶などが見られる。そこには明らかに創造と共通する突然変異のパターンが存在する。」と述べており、これを見れば、太刀川氏が生物における変異の類型的パターンをアイデア創出に生かすという話をしていることは容易に読み取れる。確かにこのp.84,85まで読む前に、ここの指摘文を作成したのだとしたら分からなくもないが(ただp.84,85に限らずとも、ここでの「生物の進化に見られる変異のパターンを学び」や「生物や発明には、ある種の共通する変異パターンが存在している」という記述を見れば、太刀川氏が類型的なパターンの話をしていることは容易に理解できる気がする)、この第二章の最後のまとめ(批判集p.61)でも林氏はパターンに関してここと同様の突っ込みをしているので、もしp.84,85などのように類型的パターンの話をしていると極めて容易に分かる部分(例えば、太刀川氏はこの後の各変異(「変量」や「擬態」など)の紹介パート(『進化思考』p.90-199)にて「生物における変異」と「創造における変異」という類型的な比較を毎回行っている)を読んだ上で、そういった指摘をしているのであれば、申し訳ないが本の評者としては極めて読解力が低いと言わざるを得ない。また「太刀川氏は進化について理解していないはずだ」という認知バイアスが適切な読解を妨げ、変異に時系列的なパターンはないという手近な話に無意識に話を落とし込んでしまっている可能性も考えられるが、当然それも本の批評としては不適切である。
なお、改めて林氏の文章をよく読むと彼はここで「変異に共通のパターンがないことがきちんと説明されている」と述べており、これを見るに林氏は変異集合内の全ての変異に共通するパターンはないということを言っている可能性があるが、もしそうなのであれば、太刀川氏はそんな話は全くしていない。太刀川氏はここで「生物や発明には、ある種の共通する変異パターンが存在している」というように生物と発明(創造)"間"の共通性について話しているに過ぎず、生物における変異ら"内"の共通性については特に話していない。この部分をケアレスミス的に読み間違えていたのであれば解釈ミスするのも百歩譲って分からなくもないが、正直申し上げて、仮に読み間違えていたとしても生物の変異ら全てに共通パターンがあるという解釈はここまで及び本全体の文脈を踏まえれば普通は解釈として採用されないと感じる。上で述べたように、そんな話は太刀川氏は一切していないし、またそうでない別の解釈が非常に分かりやすく提示されているからである。
| 進化のスピードを研究した木村資生によれば、🔶DNAの変異(アミ
| ノ酸100個で作られるタンパク質のゲノム変異)が発生する頻度は二
| 八〇〇万年に一回🔶だという。これを三〇億対の人間のゲノムで考
| えれば、二年に一回ほどの頻度で人間のゲノムに変異が生まれるらし
| い。生物の進化という悠久の時間で考えれば、🔷二年に一回とい
| う驚異のスピード🔷にも驚くが、人の言語のエラー発生回数に比べ
| たら比べ物にならない。(p.82)
この記述はまったく完全に意味不明である。遺伝子の変異は少なくとも世代の更新を通して発生する。二年に一回もゲノムの変異が生まれるのだとしたら、人間は二歳で繁殖し次世代を残す生物になってしまう。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💛おそらくこれは単なる変異の発生ではなく変異の置換(集団全体に変異が固定されること)のことを言っている。すなわち、100アミノ酸鎖あたり約2800万年に1回のペースでアミノ酸置換が起こり、それをゲノム全体ベースで考えるとヒトでは約2年に1回のペースでアミノ酸置換が発生することについて述べている。そして実際、木村資生は1968年の論文「Evolutionary Rate at the Molecular Level」にてそれを述べている[130]。厳密には木村がそこで述べているのは哺乳類に限った話であり、またヒトに特化した話をしている訳ではないのだが、おおよその話は合っている。したがって、その後の「人の言語のエラー発生回数に比べたら」という記述も踏まえるに、おそらくここで太刀川氏は「変異の置換」と「変異の発生」を混同しているように思われるが、「この記述はまったく完全に意味不明である」とまで言えるものではない。林氏は上記の話を全て理解した上で敢えて細かい記述の誤りを厳しく指摘していたのかもしれないが、それは批評やり方としては少々強過ぎるかつ生産的でない。またもし仮に上記の話を全く理解せずに「まったく完全に意味不明である」と批判していたのであれば、意味不明と断定する前にまず太刀川氏がどういった理由でその数値を出しているのか調べるべきである。そういう訳でどちらにせよ批評としては質が低い。(なお、「変異の発生」と「変異の置換」の違いに着目している場合、「二年に一回」云々は大してクリティカルな指摘にはならないので(集団的平均という抽象レベルで考えずに、あくまで具体的な個体レベルで考えるならば、変異の置換に関しても同様に「人間は二歳で繁殖し次世代を残す生物になってしまう」という指摘は通るからである)、個人的な推測としては林氏は変異の置換に関する木村の主張を全く知らずに単に二年に一回という部分のみに関して批判しているように見える)。
| アレグザンダーの気持ちはよくわかる。なぜなら私は、創造という現| 象もまた、生物の進化と同じように、🔶適応に導かれて自然発生す
| る🔶と考えているからだ。(p.290)
ここまで解説してきた通り、自然選択による進化で得られる結果を「適応(的形質)」と呼ぶ。「適応」に導かれて進化は自然発生しない。進化生物学における「適応」の意味を理解できていない。
※本稿執筆者注:「🔶」で挟んだ部分は本来下線あり
💛繰り返すが、林氏が述べているのは適応の歴史的定義に過ぎず、非歴史的定義やプロセス的定義においては適応は適応進化の必要条件であり、この場合ある形質が適応であるためにはそれが適応進化してきた結果である必要は特にない。また批判集p.32への指摘と同様に、林氏がここでいう「適応(的形質)」は歴史的定義としての適応を意味するが、これはp.31の「生き残りやすい有利な性質を持つことを「適応的」と呼ぶ」という定義に従ったときの非歴史的定義としての「適応(的形質)」と自己矛盾している。また些細な点ではあるが、林氏はここp.36では「適応(的形質)」と言っているが、p.32では「適応(的性質)」と言っており、形質なのか性質なのか曖昧である。私の理解では進化生物学の議論の範疇(その生物のある性質が適応度の観点で評価可能であるような場合)においては形質と性質は同義なのだが、特に何らかの意図があって使い分けをしている訳でないのであれば、個人や書籍内で統一した方がよいと思う。また進化が適応に導かれて自然発生するか否についても、確かに「適応に導かれて」という表現はややレトリック的であるものの、言っている内容そのものは非歴史的定義やプロセス的定義において解釈できる。
なお、創造という現象が適応に導かれて自然発生するかどうかについては、この辺は進化生物学というよりは認知心理学や文化進化学らへんの話になってくるだろう。
| 生態の複雑な繋がりを理解するには、🔶個体同士に働く適応🔶を丁
| 寧に観察する必要がある。つまり物語の「登場人物」「必要不可欠な
| 道具」「それらが置かれた状況」を観察すると、人間同士やモノ同士
| の間に🔷適応関係が自然発生している🔷のがわかるのだ。(p 318)
| こうした生存競争は、🔶適応🔶を考える上で無視できないものだ
| (p.322)
| 生物は「変異による挑戦」と🔷「自然選択による適応」の繰り返し
| 🔷によって進化してきた。(p.446)
| そしてこの思考は、生物学において🔶動物の適応状態を確かめるプ
| ロセス🔶から、その本質を学ぶことができる。創造も生物と同じな
| のだ。🔷状況に適応すること🔷で価値を発揮し、時代に生き残る。
| つまり創造にも自然界と似た生態系があり、🔶モノにもつねに適応
| のため圧力が働き🔶、自然選択されている。モノを作るには、🔷こ
| の適応圧は無視できない🔷。
| そして、🔶創造のクオリティを上げるのもまた適応によるのだ🔶。
| 本当にその状況にふさわしいものを追い求めていくと、創造は必然に
| 近づき、クオリティが磨かれていく。(p.206)
| だからこそ知のバランスを取るために🔷適応側の思考🔷を更新した| いところだ。(p.287)
| 本質的な自然選択を無視し、🔶適応しようとしなければ🔶、創造性
| のクオリティは必然的に下がる。つまり人工物の創造よりも自然界の
| 進化の方がはるかに、本質的かつ強い自然選択圧に長い年月をかけて
| 応え続けてきたのだ。この違いが、生物と人工物のあいだにあるデザ
| インクオリティの、決定的な差を生み出している。(p.437)
ここで挙げられた「適応」という単語の使い方はまさにWilliams『適応と自然選択』の冒頭に添えられた訳者注で指摘されている誤用そのものだ[3][4][5]。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💛ここでいう訳者注というのが、既にp.26で引用されていた「本書では、適応(adaptation)を自然選択を受けて発達した形質、すなわち進化の産物という意味で使っている。しかし、日本語の“適応”は、動詞の適応(していない状態から適応している状態へ変化すること)の意味合いが強いので、訳では適宜(的形質)を追加した。」(『適応と自然選択』, xxii) のことを言っているのであれば、少なくともこの部分を見る限りは、訳者は別に適応の誤用を指摘している訳ではない。ただ『適応と自然選択』においてWilliamsが用いている「適応」の意味と日本語でのそれには違いがあると言っているだけである。
それで、個々の「適応」の語用についてだが、「「自然選択による適応」の繰り返し」「状況に適応すること」「モノにもつねに適応のため圧力が働き」「この適応圧は無視できない」「創造のクオリティを上げるのもまた適応によるのだ」「適応しようとしなければ」といった辺りは「していない状態から適応している状態へ変化すること」といった意味を持ちうるが、その点についてはプロセス的定義として解釈すればそれほど問題ないし、非歴史的定義的な状態の意味として解釈できるものもちらほらある。また、「適応」「個体同士に働く適応」「適応関係が自然発生している」「動物の適応状態を確かめるプロセス」「適応側の思考」に関しては記述の妥当性は置いておいて、少なくとも「していない状態から適応している状態へ変化すること」は含意しているとは別に言えないだろう(「Williams『適応と自然選択』の冒頭に添えられた訳者注で指摘されている誤用そのもの」という林氏の指摘には当たらない)。なお個別に見ていくと、「個体同士に働く適応」と「適応関係が自然発生している」に関しては、これは「環境との上手い関わり合い」といったような割と緩い意味であるので、非歴史的定義的な意味が関係してはいるものの、語用としては不適切である。また「適応」に関しては、文字通り「適応について考える上で」と述べているだけなので何も問題ない (文脈からするにここでの適応は非歴史的定義またはプロセス定義的なもの)。「「自然選択による適応」の繰り返し」に関しては、プロセス的定義としての適応プロセスといった意味であり、シンプルに「環境による選択」などと言った方が分かりやすいと思うが、全く的外れという訳でもないだろう。また「動物の適応状態を確かめるプロセス」は非歴史的定義的、「状況に適応すること」はプロセス的定義として解釈できるものであり、語用としてもそれほど問題ない。「モノにもつねに適応のため圧力が働き」「この適応圧は無視できない」「創造のクオリティを上げるのもまた適応によるのだ」の3つに関しては非歴史的定義またはプロセス的定義として解釈できるものであり、やや不適切さはあるが、全く間違っている訳でもない。「適応側の思考」に関しては、これは進化思考における「適応の思考」のことであるので、「環境へのフィットの観点で創造を評価・選択する」いったような非歴史的定義的な話であり、そこまで問題はない。「適応しようとしなければ」に関しては、ここは人工物の創造における話であるので多少目的論的な意味が入ってもいいとは思うが、厳密には不適切である。
ここで挙げられた「適応」という単語の使い方はまさにWilliams『適応と自然選択』の冒頭に添えられた訳者注で指摘されている誤用そのものだ[3][4][5]。この「適応」という単語の扱いにくさについては、Williams『適応と自然選択』の訳者あとがきに愚痴とも思えるような筆致で以下の追記がある。
生態学における(評者注:「適応」という単語の)定義のぶれのもう
一つが温暖化適応である。これは気候が温暖化したとき、暮らしやす
くするために、あるいは生き残っていくために、われわれが意識的に
生活を変えることである。これは、生物そのものの理解を目指す基礎
生物学ではなく、応用科学・社会科学的な概念である。Williamsの使
い方と違うのはいうまでもないだろう。本書が提案した、teleonomy
という用語を適応生物学と翻訳したのには、温暖化適応という用語が
広く定着している背景がある。進化生物学における適応概念が、一般
用語としての適応とは違い、特殊で限定的意味をもつことに光を当て
たかったからだ。とくに専門家以外と会話するときには、進化生物学
者は面倒でも繰り返しこれを説明する必要がある。[19]
💛「(評者注:「適応」という単語の)」という林氏による補足が入っているが、これは間違っている。訳者である辻󠄀氏はここで「定義のぶれのもう一つ」と述べているが、この定義のぶれの話は『適応と自然選択』[121] のp.262における「さあ、ここで生態学における用語の意味のぶれを指摘しよう。」から始まる。そして一つ目のぶれとしては「適応」ではなく「機能」について語られている(「たとえば、日本生態学会が責任編集した『生態学入門 第2版』(p.210) では、「ある生物とその遺体や排泄物は、他の生物にとってエネルギー物質としての資源だけでなく、すみ場所として機能している」、「生物を生態系での機能の面からいくつかに区別することができる」とある。これはWilliamsの定義に反する。Williamsの用語法に従えば、これらは効果であって機能ではない。」(同 p.263)、「その一方で、同じ教科書が、「植物にとって最も重要な生理機能である光合成」(p.88) と、Williamsの定義に従った使い方もしている。」(同 p.263))。そしてこういった「機能」の話に続けて、林氏が今引用している部分が始まるのである。したがって、ここで辻󠄀氏が言っている「生態学における定義のぶれ」の「定義」は別に「適応」に限った話ではなく単に「定義一般」を意味している。そういう訳で林氏の補足は誤りである。そしてこの辺の「定義のぶれ」の意味の読解は全く難しいものではなく、申し訳ないが本の評者としては力不足感を否めない。
なお、Williamsは『適応と自然選択』において「機能(function)」を持つものとして「適応」を捉えており、そういった意味では両者の関係は深くはある。しかし、これは両者が同一であることを意味しない。実際Williamsは『適応と自然選択』の中で「また、適応の結果も、それが偶然ではなく設計された産物であることが明らかな場合を除き、機能とよぶべきでない。」(同 p.xxi) と述べており、これは明らかに適応と機能が別物であることを示す (ここでの「適応の結果」というのは「進化プロセスとしての適応の結果」という意味ではなく、「適応形質によってもたらされる諸々の効果一般」を意味する)。したがって、件の林氏の補足が適応と機能を同一のものとして捉えてのものだとしたら、申し訳ないがそれも結局読解力不足によるものである。ただこの辺に関しては『適応と自然選択』のp.262において訳者である辻󠄀氏も「以上の世界観に照らして、Williamsは生物学で頻出する用語を厳密に定義した。適応(adaptation)と機能(function)を、彼はほぼ同じ意味で用いている。」と述べているので、林氏が辻󠄀氏のこの主張を無批判に受け入れたのであれば上記の補足ミスも分からなくもない。(他にも辻󠄀氏は生態学における「機能」の語用について語る中で「ウサギの死を、効果でなく、生態系にとって適応的な機能とよぶのはやはり無理がある。一方、キツネの捕食行動は個体レベルの選択で進化した適応で、機能に違いないが、その物質循環への貢献は適応の生態系レベルの単なる効果なのである。」(同 p.265) といったように、適応と機能を同じものとして捉えているようにも見える記述をしている)。ただ当然ながらそういった無批判な受け入れは問題であるし、もし仮にそもそも『適応と自然選択』の趣旨を全く読めていなかったのであれば無批判性そのものには問題はないものの、結局読解に失敗しているという問題性は残る(なお林氏はtwitterにて、彼が『適応と自然選択』の訳者あとがきの読解に難儀し、おそらく彼が師匠と呼ぶ人物(諸々の情報を繋ぎ合わせるとおそらく辻󠄀氏)に電話で質問し説明してもらったことを述べている[131]。またそのツイートでは林氏が「(訳者) あとがき」(Williamsによる「あとがき」は存在しない) から本を読み始めたとも述べているが、そのような読み方をしているのであれば、適応と機能を同一視するような辻󠄀氏の記述を読解の道しるべとしてしまい、その結果Williamsによる本文の読解にも歪みが生じ得るだろう)。
また上記の通り、適応と機能をほぼ同一の意味として捉えている辻󠄀氏の解釈も誤りである。上で挙げた反例の他にも、例えばWilliamsは「ある goal(目標、ゴール)、function(機能)、purpose(目的)のための means(方法)や mechanisms (メカニズム)といった名称は、自然選択が作り出した機械的装置が存在していて、それがゴールにいたらせたのだという意味合いを含む。」(『適応と自然選択』p.6。太字は原文ママ) と述べており、ここでのmeansやmechanismsというのが個体(および集団)における性質、すなわちここでは特に適応のことを指すのだが、これも明らかに適応とfunctionが別物であることを示している。そして、今引用した部分の直前の文は原著『Adaptation and Natural Selection』[122] (上で既に説明したように1996年版)では「Whenever I believe that an effect is produced as the function of an adaptation perfected by natural selection to serve that function, I will use terms appropriate to human artifice and conscious design.」(p.9) であるのだが、この部分を辻󠄀氏は「自然選択により形成された適応的機能がもたらした効果であると私が思う場合はいつも、人間の作り出した意識的設計になぞらえた用語を用いる。」(『適応と自然選択』p.6) というように訳している。すなわち、原著では「an effect is produced as the function of an adaptation」というように「適応の機能"として"効果が生じる」という話がされており、これは先程挙げた続く文(「あるgoal (目標、ゴール)、function ...」)と特に矛盾しないのだが、辻󠄀氏はここを「適応的機能がもたらした効果」というように、「機能」が「効果」を生む、すなわち「機能」と「適応」を同一的なものとして訳して(そしておそらくそのように理解して)しまっている。そういう訳で、辻󠄀氏は割と一貫的に適応と機能を同一的なものとして理解してしまっている可能性が高く、批判集p.26の記述への指摘部分で既に述べた「本書では、適応(adaptation)を自然選択を受けて発達した形質、すなわち進化の産物という意味で使っている。」(『適応と自然選択』p.2) という訳注がやや不適切ではないかといった話も含めて、辻󠄀氏もWilliamsの趣旨をよく理解できていない可能性が高いように個人的には感じる。(辻󠄀氏自身が『適応と自然選択』のp.6の「訳者追補」にて「本書『適応と自然選択』の焦点は言葉遣いにある。著者のWilliamsは適応・適応形質(adaptation)の機能(function)やメカニズム(mechanism)と、それに二次的に付随する効果(effect)の厳密な使い分けを強く主張している。」と述べているように、この辺の語や概念の整理がWilliamsの話の根幹である。したがって、もしそれらをよく理解できていないのであれば、それは『適応と自然選択』の読解に大きく失敗しているとも言える。なお、今引用した部分で辻󠄀氏は「適応・適応形質(adaptation)の機能(function)」というように適応(adaptation)と機能(function)が別物であるかのように述べており、これは一見正しく理解しているようにも見える。しかし、ここで辻󠄀氏はそれに加えて機能(function)とメカニズム(mechanism)を同列的に扱い、メカニズム(mechanism)さえも効果(effect)と混同され得るような立ち位置にあるかのように語っている。したがって、辻󠄀氏は機能(function)とメカニズム(mechanism)がアマルガムのように混じり合ったものとして適応(adaptation)を捉えているようにも見える。しかし、上述したようにそれはWilliamsの主張の解釈としては誤りである。先ほど引用した「また、適応の結果も、それが偶然ではなく設計された産物であることが明らかな場合を除き、機能とよぶべきでない。」(同 p.xxi) というのを見て分かるように、Williamsは適応(adaptaion)の設計的効果として機能(function)を扱っており、これと先ほどの機械的設計の話(functionのためのmechanism)を合わせると、Williamsが実在的な形質や性質としてmechanismとadaptationをほぼ同義的に捉えていることが読み取れる。(例えば、Williamsは「よって私は言いたい。繁殖と移動分散は、リンゴの実のゴールであり機能であり目的である。そしてリンゴの実は、リンゴの樹がそのゴールに到達するための方法あるいはメカニズムであると。」(同 p.7) と述べているが、この文における「機能」を「適応」に変換したら意味はよく通らないし、「機能」と「メカニズム」が混じり合ったものとして「適応」を見るのも不自然である。一方、「メカニズム」を「適応」と変換するとき最も自然に意味が通るだろう)。なお、辻󠄀氏のここでのmechanismへの言及はあくまで補足的・羅列的なものであって、特にmechanismとeffectの混同可能性について語っている訳ではない、という読みも一応可能ではあり、その場合はここに関しては特に問題ないのだが、結局「適応(adaptation)と機能(function)を、彼はほぼ同じ意味で用いている。」とはっきり言っている以上は、読解に不足があると言わざるを得ない)。
なお別件になるが、批判集でも何度か顔を出している「進歩主義」に関して、辻󠄀氏は「訳者あとがき」にて「変わることが目的であり善だとする進歩主義も、自然選択理論とは相容れないのが本書を読めば理解できる。「突然変異率への自然選択は、突然変異の頻度をゼロにするという、ひとつの方向しかありえない。」(第5章)のくだりを参照されたい。遺伝子レベルの "目的" は変わらないこと、それ以外には論理的にありえないのである。」(『適応と自然選択』p.270) というように進歩主義を否定する根拠として突然変異率の自然選択の話を持ってきているが、これはおかしいように思う。辻󠄀氏がここで引用しているWilliamsの記述を広く引くと「もしある遺伝子をもつ個体が繁殖前に死んでしまった場合、その遺伝子は繁殖に失敗したことになる。Aによるaの産生は、Aにとって失敗と同じくらい、あるいはそれ以上の失敗である。それにより競合する対立遺伝子の頻度を直接増やしてしまうからだ。最適な程度の安定性とは、絶対的な安定性のことである。突然変異率への自然選択は、突然変異の頻度をゼロにするという、ひとつの方向しかありえない(訳者追補参照)。」(同 p.124) となるのだが、私はこの説明そのものは間違っていると感じる。なぜならAとaの適応度貢献にまで踏み込まない限りは、Aとaの頻度競争的な話をしたところでそれは突然変異率の進化には繋がらないからである。「Aによるaの産生は、Aにとって失敗と同じくらい、あるいはそれ以上の失敗である。」とのことだが、Williamsはここで進化のスケールを見落としている。Williamsがここで言っているのはあくまで単世代内における遺伝子頻度の変化に過ぎず、それらがどのように選択されていくのかという世代を超えた進化レベルの話はここでは一切されていない。しかし、Williamsはこの辺の詳細な論理を認識できずに、世代内遺伝子頻度変化のみを語ることによって進化について十分に語ることができたと勘違いしてしまっているように見える。ただ実は多くの場合は、世代内遺伝子頻度変化のみについて語るだけでも進化について十分含意的に示すことができている。なぜなら多くの場合、世代内遺伝子頻度変化は何らかの相対適応度が絡む形で起こるからである。しかし、今の場合は単に変異しなければ遺伝子Aがそのまま残るというだけであって、変異の如何による相対適応度の変化については何も語られていないため、それを語るだけでは進化について説明したことにはならないのである。遺伝子にとっての成功・失敗というWilliamsの話に合わせて言うならば、相対適応度が絡むような遺伝子頻度変化であって初めて (進化的に) 成功・失敗という価値が生まれるのであり、相対適応度が絡まず世代を超えてどのように選択されていくのか分からないような遺伝子頻度変化には成功・失敗という価値は生じないのである (一応、世代内遺伝子頻度の増減そのものに対して「成功・失敗」を定義することは可能だが、それはその定義からして「世代内遺伝子頻度の増減」でしかないので、そのような「成功・失敗」は「"進化的な"成功・失敗」を含意せず、おそらくそれはWilliamsの趣旨とはズレるだろう)。それで、こういった勘違いが発生する原因の根っこは、Williams自身が『適応と自然選択』の中で繰り返し強調して語っているような「遺伝子レベルの自然選択」という考え方 (いわゆる「利己的な遺伝子」の考え方) にあるように感じる。すなわち、そういった遺伝子レベルの自然選択においては「遺伝子競争において有利な遺伝子はなんであれ集団に広まっていく」といったような考え方がされるのだが、そこにおける「なんであれ」というのは、あくまで「"何らかの有利性のために"広まるような遺伝子ならなんであれ」であって、単に「広まるような遺伝子ならなんであれ」ではないのである。しかし、単なる推論不足、および「進化は自身のコピーを次世代により多く残そうとする遺伝子の利己性によって進む」といった所謂「利己的な遺伝子」の考え方が持つ自己継承に関する擬人的考え方が、「何らかの有利性のために」という情報を落として、単に「自身を広めるような遺伝子ならなんであれ」という理解を生んでしまっているように見える。そしてそういった誤った一般化が相対適応度という有利性に加えて時間スケールをも透明化し、相対適応度が特に絡まない世代内遺伝子頻度変化のみを語ることを以って、進化についても語ることができているという勘違いを生むと考えられる。そして、延いてはそれが「自身を変化させないという頻度競争における利益のために突然変異率は低く進化していく」という誤理解に繋がっているように見える。しかし上述した通り、遺伝子が変わろうが変わらまいが、その変化による適応度貢献変動にまで踏み込まない限りは変わる変わらないに関して語ることに自然選択の観点では何も意味はないのである。また、辻󠄀氏はこのp.124のWilliamsの記述に関して同ページの訳者追補にても「論理的には反論の余地がないが、なかなか気づかない視点である。一般に流布されている適応の意味とは正反対に、"変われること"は個々の遺伝子にとって利益ではありえないのである。」(同 p.124-125) と絶賛しているが、上記の通り私には何がどのように論理的に反論の余地がないのか全く理解できない。「"変われること"は個々の遺伝子にとって利益ではありえないのである。」や先ほどの「遺伝子レベルの "目的" は変わらないこと、それ以外には論理的にありえないのである。」といった記述を見るに、辻󠄀氏もWilliamsと同様に「遺伝子レベルの自然選択」や「利己的な遺伝子」の考え方に由来して「広まるような遺伝子ならなんであれ」という誤った一般化言説を生み、それによって相対適応度が絡まないような世代内遺伝子変化のみを語ることを以って進化についても同時に語れていると勘違いし、最終的に「自身を変化させないという頻度競争における利益のために突然変異率は低く進化していく」という誤った理解を導き出しているように見える。特に「遺伝子レベルの "目的" は変わらないこと」辺りは「利己的な遺伝子」的な自己継承に関する擬人的考え方の存在を強く思わせる。(なお、ここの「"目的"」という表現は辻󠄀氏自身が重要だと思ってそう言っている訳ではなく、「変わることが目的であり善だとする進歩主義」という相手方の土俵に敢えて立った表現をしたようにも見えるが、敢えて相手の土俵に立ったところでやはり記述として誤りであるのは変わらないし、「"変われること"は個々の遺伝子にとって利益ではありえないのである」といった記述を見るに、辻󠄀氏は「遺伝子レベルの "目的" は変わらないこと」という表現に特に問題を感じている訳ではなさそうである)。そういう訳で、この辺の一部始終は「遺伝子レベルの自然選択」(及び「利己的な遺伝子」) という基礎的で権威的な堅守すべき「信念」が逆に悪く機能してしまったパターンであると個人的には感じる。すなわち、いわば「公理」として認識するほどにその考え方を強く権威的に信じているからこそ、その理解が誤った方向に向かってしまってもその誤りを認識することができないのではないかということである。特に「利己的な遺伝子」で顕著であるような擬人的・目的論な捉え方というのは、ある面では理解の容易性を生み、それは確かにメリットではあるのだが (辻󠄀氏も『適応と自然選択』の中で「つまり、適応的デザイン論とは、自然選択論が唯物的で機械論であることを合意のうえでの、目的論的な言い換えだといえる。その主たる意図は、説明がはるかに容易になるからである。」(p.267) というように、そういった言い回しの価値を認めている)、このような誤理解が発生し得るのでやはり取り扱いには注意すべきなのである。(また「変わることが目的であり善だとする進歩主義も、自然選択理論とは相容れないのが本書を読めば理解できる。「突然変異率への自然選択は、突然変異の頻度をゼロにするという、ひとつの方向しかありえない。」(第5章)のくだりを参照されたい。遺伝子レベルの "目的" は変わらないこと、それ以外には論理的にありえないのである。」(『適応と自然選択』p.270) という辻󠄀氏の記述に戻ってくるが、そもそもこれは反論として上手くない。進歩主義者が自然選択を通した適応進化をもとにその主義の正当性を("いわゆる"自然主義の誤謬的に)主張することに対して、「でも自然では遺伝子の目的は変わらないことなんですよ」と反論しているつもりなのだろうが、そもそも上述したように「自然では遺伝子の目的は変わらないことである」というのが誤りであるのはさておいて、仮にそれが原理的に正しかったとしても自然選択を通した適応進化という変化が起こっていることは紛れもない事実であるのだから、遺伝子云々の原理的説明は反論として大して機能しない)。
というように、ちゃんとした学術書であっても記述の誤りは存在するのである。別記事[97]でも述べたが、高名な学者であってもミスはするものであり、誤りが全くない本などほとんど存在しない。しかしそうであるのに、批判集の正誤表[132]には未だにケアレスミスを主とした些細なミスが21個記載されているだけであり、クリティカルなミスは存在しないとされている。また伊藤氏は本稿に関して「「もしかして『進化思考批判集』も信用できないの…?」と思ってしまう人もいるかもしれない。そういう人の不安を取り除くためにも「安心してください、間違ってませんよ」と言っておくのも大切だろう。」[92]というように批判集に誤りがほぼ全くないかのようにも述べているが、これは私には全く理解できないものである。そういう訳で、誤りがあって当然という気持ちで、今一度本稿の批判に向き合って欲しいと感じる。
当書における間違った進化理解の主要なポイントはここまで指摘した通りだが、本章では「変異」と「適応」の使い方以外にも見られるさまざまな間違った進化理解について指摘していく。
💜ここまで読んできた感想として、確かに太刀川氏の理解に全く問題がないかと言えばそうではないが、大筋としてそこまで問題があるようには私には見えなかった。少なくとも「適応」については林氏自身の不理解による誤った指摘がほとんどであり、また「変異」についても林氏は太刀川氏の意図を勘違いしているだけのように見える。とはいえ、仮にも博士号持ちの生物学者ですら読み違う内容であるのならば、一般人はさらに様々な解釈をする可能性があるので、単なる科学的記述の修正に加えて、太刀川氏独自の主張そのものについても誤解を受けやすい部分等に関して適宜修正を行った方が良いと思われる。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、既に追記で指摘したように「変異」に関してはほぼ明確に林氏の誤読による不適切な批判である。また、少なくとも変異に関してはその読解難度は極めて容易なものであり、一般的感覚から言って太刀川氏に非はない。実際、この「変異」に関しては、後述する「とある心優しい進化生物学者」や日本生物地理学会会長の森中定治氏も林氏の指摘の妥当性に疑義を呈している[20][71]。
| あらためて創造性の正体を探求するために、自然のなかにある知的構| 造に目を向けてみよう。生物科学的な観点で脳のなかに宿る創造的な| 知性や、🔶種が生き残るための知的な習性🔶をひもといてみると、
| そこにはバカと秀才の構造との興味深い一致が見られた。(p.37)
|
| 動物たちが同じ餌を奪い合うように、同じ目的を目指して開発された
| さまざまな道具が、同じユーザーのシェアを奪い合っている。たとえ
| ある段階で大差がないとしても、こうした状況では競争に対して🔷
| 変化が早いものが勝者🔷となる。競争相手の優位性を学び、🔶相手
| よりも早く進化したものが生き残るのだ🔶。
| 新しい想像を生み出したとき、それが🔷他の競争相手に淘汰されな
| いためには、周囲のライバルよりも早く進化する🔷ことの重要性を
| 頭の片隅に置いておきたい。〔中略〕その競争を予見し、🔶進化の
| 競争に勝てる🔶態勢をイメージしておくことが大切だ。そして逆説
| 的には、🔷進化を早めたい🔷のなら、領域内に適切なライバルをつ
| くることもまた、共進化の近道となるだろう。(p.337)
| テクノロジーの躍進と生態系の崩壊を同時に抱える現代は、変化が早
| くて読みにくいVUCAの時代だと言われている。こんな時代だから
| こそ、🔶強者であるよりも、誰よりも早く変化する、しなやかな者
| を目指したい。変化に挑戦してみよう。そして偶発性を手に入れ、生
| き残る進化へと進もう🔶。(p.339)
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
「種が生き残るための知的な習性」とはなんだろうか。これまで多くの政治家や活動家たちによって誤用されてきた進化の用法そのものである[20]。「変化が早いものが勝者」「相手よりも早く進化したものが生き残る」「周囲のライバルよりも早く進化する」…これらの記述はいずれも『種の起原』を読んだアメリカの経営学者メギンソンによる「It is not the strongest of the species that survives, nor the most intelligent that survives. It is the one that is most adaptable to change. (生き残る種とは、最も強いものではない。最も賢いものでもない。変化に最もよく適応したものである。)」という誤った解釈を未だにダーウィンの言葉であると信じていることによるものと思われる。このメギンソンの誤った解釈については、2020年6月に自由民主党広報部による憲法改正の正当化キャンペーンとして4コマ漫画の中でも取り上げられ、日本人間行動進化学会から即座に『「ダーウィンの進化論」に関して流布する言説についての声明』が出されたことでも注目された[21]。この一連の内容については松永(2021)に詳しい[22]。いずれにせよ、2020年には既にこうしたメギンソン流の進化理解は進化生物学における進化理解とはまったく異なるものであるという声明が進化生物学分野から出され、複数のメディアでも取り上げられる事態となった[23][24][25]。「科学的な客観性を備えた本にしよう」と述べた上でこのように誤った進化理解の記述を残したまま出版してしまうのは著者の不勉強と言わざるを得ない。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💛「種が生き残るための知的な習性」という表現は群淘汰的な意味がちらつかなくもないが、単にその種の適応的形質について述べていると解釈すればそこまで問題はないのではないだろうか?とはいえ、群淘汰的な誤解を招く表現なので修正した方がよいと思われる。
また「未だにダーウィンの言葉であると信じていることによるものと思われる」に関しては、もし仮に太刀川氏がメギンソン流の解釈を正しいものとして理解していたとしても、そのことと太刀川氏がそれをダーウィンの言葉であると信じているか否かは特に関係ない。なぜダーウィンの言葉であると信じていることによるものと思うのか謎である。
「変化が早いものが勝者」「相手よりも早く進化したものが生き残る」「周囲のライバルよりも早く進化する」といった太刀川氏の主張に関してはメギンソン流の解釈が見えるのは確かである。しかしこれらの発言は全て人工物の創造に関する話であり、生物進化そのものについて語っているものではない。また言ってることを好意的に弱めたり修正してあげれば全くの誤りと言えるものでもないだろう。とはいえ、生物進化の厳密な様相とはいくらかズレがあるのは確かなので修正した方がよいと思われる。
なおメギンソンの主張は一般に批判されることが多いが、全くの誤りと言われるものでもないような気がする。上で引用されている通り、彼はmost adaptable to changeと言っており、単に変化すれば生き残れると言っている訳ではない。その点で件の自民党の漫画はそもそもメギンソンの主張からさらに外れたものなのである。
なお余談だが、『「ダーウィンの進化論」に関して流布する言説についての声明』[11] には、「これは「⾃然の状態」を、「あるべき状態だ」もしくは「望ましい状態だ」とする⾃然主義的誤謬と呼ばれる「間違い」です」という記述があり、こういった意味での「自然主義的誤謬」という用語の使用は一般にも多く見られるが、正確にはこれは誤用である。このような意味での自然主義的誤謬は正確には「自然に訴える論証 (appeal to nature) 」、より一般にはヒュームの法則やヒュームのギロチン、またはis-ought problemと呼ばれるものであって、本来の意味での自然主義的誤謬とは別物である。なお本来の意味でのそれはメタ倫理学においてムーアによって提唱されたものである。
📕『進化思考』を読んだので追記する。太刀川氏はこれ以降の部分でバクテリアの化学走性に基づく採餌行動に関して「動物や植物の細胞よりずっと小さいバクテリアには、もちろん脳も目も備わっていない。それでも、バクテリアはあたかも知性を持っているかのように、食物を効率的に捕食する仕組みを持っている。」(『進化思考』p.41) や「バクテリアはこの単純な作業を延々と繰り返すだけだが、結果的には行き当たりばったりに動いているよりも、はるかに効率的に食物を摂取できる。興味深いのは、バクテリアは単純な動きを機械的に切り替えているに過ぎないが、この行動を外部から観察すると、まるでそこに「餌を探す思考」が存在するように見えることだ。この化学走性は、生命が持っている知的性質の中でも最初期に獲得されたものだ。そして化学走性の原理は、バカと秀才のたとえと同じような構造を持っている。」(同 p.41-42)、「こうして変異的なランダムさと適応的な知覚が伴えば、それが単なる科学的な反応にもかかわらず、知性的な構造が出現するという訳だ。」(同 p.42) などと述べている。また、太刀川氏はここ付近で群淘汰そのものや、群淘汰とバカと秀才を関連付けた話は特にしていないので、ここでの「種が生き残るための知的な習性」というのは、群淘汰ではなく、単に「外部の観察者からは知的に見えるその種の形質」を指していると思われる。したがって表現としてはやや誤解を招き得るものだが意図としては特に問題ないだろう。
また「変化が早いものが勝者となる」云々については、「こうした状況では」と述べているように、太刀川氏はここ一帯で特に競争が激しい環境での共進化の話をしている訳なのでそれほど問題ないだろう。メギンソンっぽい主張だから即誤りと林氏が考えているのならば、それは議論の本質を無視した表面的なパターンマッチングの批判に過ぎない。また、最後のテクノロジーの躍進云々のパートに関しても、ここは環境が激しく変動する(or した) 状況での話であり(「このように、環境は何らかの原因で激変することがある。そこで生き残るのは、激変以前の価値軸で強者だったものではなく、偶然にも変化に柔軟に対処できたものだ。」(『進化思考』p.338)、「こうした変化の激しい状況下では、強いものではなく、変化しやすいものこそが生き残りやすい。」(『進化思考』p.339))、そういった文脈の話であればメギンソン的な主張も一部擁護されうる。また、太刀川氏がそういったメギンソン的な主張をダーウィンの言葉であると信じていることが分かる記述は『進化思考』には特になく、何を以って林氏がそう述べているのか謎である。もし仮に、特に根拠はないけどメギンソン的主張を今でも述べているからそれをダーウィンの言葉であると信じているに違いない、と林氏が考えているのであれば、その推論はあまりにも雑過ぎる。
| それにしても、考えれば考えるほど、🔶進化と創造は双子のように
| 似ている🔶。あまりにもそっくりなので、ダーウィニズムの登場か
| ら160年を経た今では、「製品が進化した」「組織を進化させる」の
| ように、「新しいモノが生まれたり改善されたりすること」の意味で
| 「進化」が使われているくらいだ。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
「それにしても、考えれば考えるほど、進化と創造は双子のように似ている。」とは、進化学徒が持つ「創造」という単語へのイメージは想像したことがないのだろうか? もちろん著者の言う「創造」がいわゆる聖書から生まれた「創造論」の「創造」とは異なるものであろうということはさすがにそうであってほしいと期待するが、この文はかなり進化学徒にケンカを売っている。もしその理由がわからないというのであれば『空飛ぶスパゲッティ・モンスター教』が生まれた背景を調べてみてほしい[26]
※本稿執筆者注:「🔶」で挟んだ部分は本来下線あり
💛一体林氏は何と闘っているのだろう。なぜ進化学徒がどういうイメージを持つかを想像しなければならないだろうか。そもそもここまでの話から太刀川氏の云う「創造」というのが創造論のそれを指していないのは明らかだし、客観的に見てケンカなど特に売っていない。先ほども似たようなことを指摘したが、林氏は相手の主張の意図を読み取ろうとせずに、書いてある表面上の意味だけを見て反射的に「典型的な進化への誤解」という型に当てはめて批判する傾向が強いように見える。すなわち、「文章を評する」のではなくて、「文章を利用して自分が言いたいことを言っているだけ」のように見える。そしてそれは批評態度としては明らかに不適切である。またそういった批評態度の問題ではなく単なる読解力不足の問題であるならば、尚更評者として力不足だろう。
📕『進化思考』を読んだので追記する。太刀川氏はここまでずっとデザインや人工物に関して「創造」を語っており、また創造論に関する話も特にしていないため、ここで述べている「創造」が「創造論における創造」とは異なることは文脈から"極めて明らか"である。したがって、何を以って林氏が「もちろん著者の言う「創造」がいわゆる聖書から生まれた「創造論」の「創造」とは異なるものであろうということはさすがにそうであってほしいと期待するが」と述べているのか理解できない。もし、太刀川氏が「創造論の創造」のことを述べている可能性が多少なりともあると思ってのものならば、申し訳ないが本の批評者としては読解力不足と言わざるを得ない。また仮に「創造論の創造」のことを言っていることはあり得ないと思いつつも、相手の知的レベルを貶めたくて、馬鹿げたことを考えている可能性を挙げているのならば、それは評者として極めて問題のある行為である。さらにそもそもの話として、太刀川氏は『進化思考』p.271-276の「進化論の歴史をたどる」という小パートにて、6ページを割いて創造論が歴史的にどのように克服されていったのかという説明をご丁寧にしている。
またこの辺に関しては林氏のみならず、twitter上でも似たような批判が来ており、ノンフィクション作家である川端裕人(@Rsider)氏は「ぼくもつい2週間ほど前に「当書」の最初の50ページくらいを読んだけれど、苦痛だった。」「あと、自分が「ええっ」と思ったのは、進化論を語る場面で「創造」を語るなら、進化論が当時の宗教的世界観との相克を経験したことを踏まえた丁寧な記述と、今ここで扱う「創造」とどう違うのか説明がほしいこと。」と述べているのだが[119][120]、上で述べたようにそもそも太刀川氏の云う「創造」が「創造論における創造」と異なるのは自明であるので、別に「進化論が当時の宗教的世界観との相克を経験したことを踏まえた丁寧な記述」は必要ではないと私は感じるし、また上記したように太刀川氏はそういった創造論との関係性をちゃんと書いているのである。本文487ページ中の50ページ程度しか読んでいないのに「~を書いて欲しかった」というような本全体に関する批判を行うのは非常に問題のある批判態度である。といったように、『進化思考』及び太刀川氏は批判集の著者ら以外によっても不適切な批判による不当な貶めを受けているのである。
| 当初、🔶「進化」と「創造」を同じ意味で使うことは誤用だったは
| ず🔶だ。それがもはや何の違和感もない自然な表現として、世界中
| に広がってしまった。🔷ダーウィンが進化論を発表した当時でも、
| 人は「進化」ということばを聞いて、道具や社会の創造にも同じシス
| テムが働いていると考えたようだ🔷。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
また 、「 当初、「進化」と「創造」を同じ意味で使うことは誤用だったはずだ。」ともあるが、進化生物学の分野においては現在でも誤用である。日常的に用いられる「進化」という日本語に進歩史観が含まれていることを残念に思うが、それはそれとして、少なくとも進化生物学の分野でこの単語を用いるときに「新しいモノが生まれたり改善されたりすること」の意味で「進化」を使ったらそれは全く間違いであるという指摘を受ける。自己啓発本の中で進歩の意味で進化を使うのであれば別に何も言うことがないが(そんな本はたくさんありすぎるので)、「生物の進化」を謳いダーウィンの名前まで出してくる本の中でそれを誤用し、生物学的正しさを標榜した上で公教育への導入まで主張されれば、それは当然批判されるものだ。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💜林氏には文章をよく読んでもらいたいのだが、太刀川氏は「「新しいモノが生まれたり改善されたりすること」の意味で「進化」が使われているくらいだ」や「それがもはや何の違和感もない自然な表現として、世界中に広がってしまった」というようにそのような用法に対してやや否定的な見方を取っているように見えるし、進化生物学において正しい語用になったとは一言も言っていない。またここまでの文脈から考えても太刀川氏が生物進化における「進化」を単に「新しいモノが生まれたり改善されたりすること」の意味で理解しているようには見えないし、少なくとも生物進化の文脈ではそのような単なる進歩の意味で「進化」とは言っていないように見える。なお部分的には単なる進歩の意味で「進化」と言ってしまっているところもあるかもしれないが、太刀川氏は別に生物の専門家ではないのでミスすることはあるだろうし、文脈によってはそのミスが大した問題にならない場合もあるだろう。とはいえ、間違った部分や分かりづらい部分を訂正したほうが良いのは確かである。(なお、1点注意したいのは「進化という客観的現象を進歩的観点で見る (評価する) こと」と「進歩という客観的現象として進化を定義すること」は異なる話であり、前者は後者を含意しない。そして前者を言っているだけなのにそれを後者として捉えて批判している部分が批判集にはいくらかあるような気がする)。
📕『進化思考』を読んだので追記する。太刀川氏が「進化」を単に「新しいモノが生まれたり改善されたりすること」の意味で使っている箇所はいくらかあったと思うが、基本的には正しい意味で使用しているし、少なくとも生物進化の文脈においては単に「新しいモノが生まれたり改善されたりすること」の意味では用いていないはずである(もしかしたらほんの少数あったかもしれないが)。
さらに「ダーウィンが進化論を発表した当時でも、人は「進化」ということばを聞いて、道具や社会の創造にも同じシステムが働いていると考えたようだ。」とあるが、これは優生学の考えそのものである。社会のあり方にも進化の考えを無理やり応用しようとした試みが優生学であり、第二次世界大戦中に行われたホロコーストの論理的根拠とされた、誤った進化論理解そのものだ[27]。我々は歴史からその理解が完全に誤りであり、人類の大きな過ちであったことを強く認識しなければならない。
💛私はダーウィンの進化論が発表された当時の社会の反応について詳しくは知らないが、ここでの「道具や社会の創造にも同じシステムが働いていると考えた」を「優生学の考えそのもの」とするのは誤りだろう。前者は単に進化システムが働いているだろうという客観的事実に関する分析的思考に過ぎず、「社会においては自然選択が適切に働いていないので意図的に修正すべきである」というような意図的な介入を考える優生学とは話が違う。前者は後者の必要条件だが十分条件ではない。
先ほどから似たような指摘を何度かしているが、林氏はここでも文章をよく読まずに、見えている単語から想起される「よくある間違い」を反射的に述べているだけのように見える。
| 🔶創造という知的現象もまた、それがヒトという生物によって自然
| に起こっているのだから、何らかの自然現象であるはずだ🔶。なら
| ば、進化論の構造を理解し、進化と創造の類似を探求することは、創
| 造という現象を知る大きな手がかりになるだろう。(p.46)
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
また、「創造という知的現象もまた、それがヒトという生物によって自然に起こっているのだから、何らかの自然現象であるはずだ。」とは何を言っているのか意味がわからない。当書では「~~だから or ~~だとすれば、~~であるはずだ。」という、特に根拠の示されない著者の仮定に対して特に根拠のない断言が続くことがとても多い。
※本稿執筆者注:「🔶」で挟んだ部分は本来下線あり
💛主張に納得できるかどうかは置いておいて、本当に何を言っているのか分からないのであれば、申し訳ないが単にそれは林氏の読解力不足ではないだろうか。「創造という知的現象もまた、それがヒトという生物によって自然に起こっているのだから、何らかの自然現象であるはずだ。」という主張は、「創造」という行為そのものは学習的行動ではないので (個々の具体的な創造をするためにはある程度学習経験が必要だが、創造という行為そのものは非学習的であるということ)、何らかの一定のメカニズムを持ったヒトの形質の一つであるということを言っているように思われる。
なお具体的にその「創造」を「進化」と絡めて理解することの妥当性についての議論がここでは抜けているが、類似が多少あるのは事実なので全くの見当違いと言い切れるものでもないだろう。また、あくまで創造活動の方法論として進化をアナロジー的に使うのであればそれほど厳密に議論する必要はないが、もし創造という思考現象に厳密な意味で進化的な性質があると言いたいのであれば認知科学的な観点から研究していく必要がある。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はここの引用部位以前の同ページ内で進化と創造が似ているという話をしており、引用部位の直前にも「ダーウィンが進化論を発表した当時でも、人は「進化」ということばを聞いて、道具や社会の創造にも同じシステムが働いていると考えたようだ。たとえば、『種の起源』のわずか四年後には、すでにイギリスの小説家サミュエル・バトラーが「機械のあいだで動物界や植物界のような自然淘汰が行われる機械界がある」という考えを、ダーウィンへの皮肉を込めて小説のなかで提唱している。」(『進化思考』p.46) と述べている。また、これ以降「創造とは、言語によって発現した「疑似進化」の能力である。」(同 p.48) といったような話を太刀川氏は展開していくが、特にそれが生得的なものであるということまでは特に述べていない。したがって、ここでの「創造という知的現象もまた、それがヒトという生物によって自然に起こっているのだから、何らかの自然現象であるはずだ。」というのが、生得的な話を含んでいるのかどうかは分からないが、少なくとも「創造はヒトという生物において自然に見られる(遍く行われている)行動であるので、(生得的か社会学習的かは分からないが)何らかの一定の構造を持った形質である」といったことは言っているように思われる。という事で、太刀川氏の意図は明確には分からないが、大まかな意図は容易に読み取れる訳であり、もしこういった意図を全く思い付かずに「何を言っているのか意味がわからない。」と述べているのであれば、申し訳ないがそれは本の評者としては読解力不足と言わざるを得ない。(なお、ここからだいぶ離れた『進化思考』p.469では「本来的に学びは人生を豊かにする、楽しいものだ。創造的であることはヒトの生存戦略そのものであり、創造性の発揮に幸せを感じるように、私たちは進化してきたのだろう。」というように創造が人間の生得的形質であるかのように述べている)。
| 道具とは何か。それは🔶疑似的な進化🔶だ。道具はたいていの場
| 合、🔷それまでできなかったことを可能にするため🔷に発明され
| る。たとえば5000年前に、アジアで「箸」が発明された。熱い食べ物
| をつかんだり、衛生的に食べられるようにするためだ。この箸は、指| の持つ身体の限界を拡張するために生まれたと説明できる。箸と同じ
| ように、人間の身体が不自由だからこそ、🔶身体の一部を進化させ
| る🔶ためにさまざまな道具が作られたと考えると、あらゆる道具の
| 理由に説明がつく。創造性は、🔷疑似的な進化🔷を人類にもたらし
| てきたのだ。この🔶疑似進化能力🔶によって、私たちは身体を拡張
| し、無数の道具を使って日々を生きている。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
「疑似的」とつければ何を言ってもいいわけではない。道具が進化するか?という問いには「進化する」と答えてもいいだろう。たとえば、バイオリンの形態の進化に関する研究などがある[28]。
しかし、我々が「道具を使ってこれまでできなかったことができるようになる」ことを進化とは言わない。進化は、自然選択か遺伝的浮動によって、複数世代を通して結果として可視化される現象だからである。たとえば、評者は卒論のときにはWindows Meを使用していた。修論・D論まではWindows XPだ。そして、学位取得後しばらくはWindows 7を使用し、現在はWindows 10を使用している。これは進化だろうか? パソコンは進化していると言っていいかもしれない。複数世代(Me-XP-7-Vista-8-10)を通して(淘汰)、WindowsのUI は遺伝し形質が保持されている一方で(遺伝)、旧世代機とは異なる機能が実装されている(変異)。一方で、そのパソコンを使っている評者はたとえ疑似的にでも進化しているだろうか?していない。進化とは、「変異・淘汰・遺伝」のステップを介して複数世代を通して現れる現象だからである。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💛道具は「延長された表現型」のようにも見れるので、「道具を使ってこれまでできなかったことができるようになる」ことを「疑似的な進化」と見なすことにそこまで問題はないだろう。あくまで「疑似的」と言っているので。ただ、一般に人間の道具に関しては個々の道具そのものが遺伝子型と対応している訳ではないので、人間の道具を延長された表現型と見なすことは厳密には誤りではある。
また「進化は、自然選択か遺伝的浮動によって、複数世代を通して結果として可視化される現象だからである」における「可視化」というのはよく分からない。何を視ることを言っているのだろうか。人間が認識しようがしまいが進化の存在・不存在には関係ないし、もし形質として顕現されることを言ってるのであればそれは形質としては特に現れない分子進化を無視している。
あと「複数世代(Me-XP-7-Vista-8-10)を通して(淘汰)、WindowsのUI は遺伝し形質が保持されている一方で(遺伝)、旧世代機とは異なる機能が実装されている(変異)」とのことだが、これは製品レベルを観察したときの表面的な話に過ぎない気がする。Windowsという製品ブランドの進化について語るならば、製品化までのデザインプロセスなどを考えた方がよいのではないだろうか?少なくとも林氏の説明においては集団的な淘汰プロセスが見えない。特に、進化の3要素 (変異・淘汰・遺伝) における「遺伝」というのは集団レベルの淘汰結果が次世代に反映される点で重要なのだが、一方、林氏の云う「WindowsのUI は遺伝し形質が保持されている一方で(遺伝)」はただ単にある形質が世代間で保存されていることを言っているだけである。他にも「複数世代(Me-XP-7-Vista-8-10)を通して(淘汰)」も淘汰という集団レベルの選別の話ではないだろう。例えば「後世代の各機能は前世代のそれを基本的に元とすること (または松井氏風(?)に言うならばデザインの設計図(というミーム)が文化的に受け継がれるとかだろうか)」を「遺伝」、「製品そのもの及び製品の各機能が社内・市場にて評価されること」を「淘汰」とするならば、いわゆる「変異・遺伝・淘汰」に沿ってある程度説明できていると思うが、林氏の説明はそうはなっていない。そういう訳で、ここの不適切な例え話を見るに、林氏は進化という現象一般について本質的にはよく理解できていない気がする。すなわち生物進化については一般に多くの解説が存在し、それに沿って林氏も説明・理解ができているが、文化進化も含めた進化一般を説明できるだけの抽象的理解はできていないのではないかということである (あれだけ「変異・淘汰・遺伝」の3ステップが重要であると繰り返し言いながら、林氏自身がそれを上手く運用できていない)。そしてそういった不理解は当然『進化思考』の読みにも影響を与えるだろう。例えば、太刀川氏の記述を上手く分析できないゆえに見知った「よくある進化の間違い」に安易に当てはめただけのパターンマッチング的な批判がそれによって起き得る。
| 🔶卵の産卵数が多いほど生存可能性が上がる🔶のと同じく、大量の
| 変異的アイデアを短時間で生み出すスキルは、新しい可能性にたどり
| 着く確率を上げる。(p.59)
「卵の産卵数が多いほど生存可能性が上がる」、「生物でも、たくさん卵を産めば生存確率が上がるように、ここでは数が重要となる。」(p.89)とあるが、生物では産卵数が多くても個体の生存可能性は上がらない。数で勝負する戦略なのでむしろ個体の生存可能性は下がるだろう。
※本稿執筆者注:「🔶」で挟んだ部分は本来下線あり
💛「大量の変異的アイデアを短時間で生み出すスキルは、新しい可能性にたどり着く確率を上げる」という文脈から推測するに、太刀川氏がここで言っている「生存可能性」というのは子一匹あたりの生存確率ではなく、親一匹に対して繁殖年齢まで生存する子数 (またはもっと一般的にある相対経時時間における生存子数) の期待値のことだろう。確かに表現としては不適切であるので訂正は必要だが、これくらいの意図は読み取って欲しいところである。
またそういった文脈以外にも、そもそも太刀川氏が述べているのは「卵の産卵数が多いほど生存可能性が上がる」というように即時的な因果関係についてであって、これは林が云う「数で勝負する戦略なのでむしろ個体の生存可能性は下がるだろう」という進化的戦略の話とは質の違う話である。そして普通、産卵数 (産子数) の増加が生存確率にプラスに寄与することはない (血縁利他行動の存在や被捕食選択率の低下などでプラスに寄与することもありうるが、太刀川氏がそういった込み入った話をしているようにはあまり見えない。また餌資源の有限性の観点からは生存率にマイナスに働きうる) ことも踏まえれば、太刀川氏が本来の意味での生存可能性ではなく、親一匹に対して繁殖年齢まで生存する子数 (またはもっと一般的にある相対経時時間における生存子数) の期待値について語っている可能性が高いのは十分に読み取れる。意図を読み取った上で敢えて表面上の瑕疵のみを指摘している可能性もなくはないが。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はここの引用部位の直前に「それらのパターンを体得すれば、固定観念を打ち破るクレイジーな発想を、短時間のうちに無数に量産できるようになるだろう。」(『進化思考』p.59)、直後に「このプロセスを覚えると、考え方はもっと自由になり、すぐに他のアイデアを出せる自信がつけば、ひとつの発想にこだわる必要がなくなる。」(同 p.59) と述べている。したがって、ここでの太刀川氏の意図が、多量のアイデア創出により「当たり」を引く確率を上げることであるのは明らかであり、ゆえに件の卵に関しても「子一匹あたりの生存確率」ではなく、「一腹あたりの生存子数の期待値」であることが容易に読み取れる。そういう訳で、単に表現ミスに関して指摘している訳ではなく、以上のような意図を全く読み取れない故の指摘であるのならば、申し訳ないがそれは本の評者としては読解力不足と言わざるを得ない。
| 生物の進化は、魔法のようなデザインを生み出す。しかしそれは誰か| による設計ではなく、🔶自然発生する現象だと証明してみせたのが
| 『種の起源』という伝説的な本🔶だ。今を160年ほどさかのぼった
| 1859年に、🔷チャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ウォレスが
| 発表した驚異的な論文🔷である。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
『種の起原』はダーウィンの単著である。さらに、論文ではなく書籍だ。この点については、松井と伊藤による指摘のあとに著者による「それは誤植である」との主張があったが、以下に示す3ヶ所も含めると、全く同じ内容の間違いが4回も繰り返されている。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
単著かどうかについては特に否定しないが、書籍か否かについては一文目で「本だ」と言っているので単なるケアレスミスと見なして良いのではないだろうか?
それと一般に「論文」というと学術雑誌等における所謂「学術論文」を指す傾向があるが、そもそも「論文」の意味は「1. 論議する文。筋道を立てて述べた文。2. 学術的な研究の結果などを述べた文章」(デジタル大辞泉, [12]) であり、この場合は2の意味がより適切だが、ここには文章の発表形態に関する指定の意味は特に存在しない。したがって、太刀川氏がいわゆる学術論文を指して「論文」と言っていた訳でないのであれば特に問題はないだろうし、そういった意図抜きに単に客観的な結果として見た場合も太刀川氏の記述が間違っているとは別にならない。とはいえ、普通「論文」というと学術雑誌等における「学術論文」を想像する人が多いのは確かなので、誤解がないように訂正した方が良いだろう。(とは言ったものの、『進化思考』の2022/12/16付けの正誤表を見るに[13]、おそらく真相としては太刀川氏はダーウィンの単著である『種の起源』とその前年に出されたダーウィンとウォレスの共同論文を混同してしまっていたのだと思われる)。
また、「自然発生する現象だと証明してみせたのが『種の起源』という伝説的な本だ」、「種の起源から分化を繰り返して自然に発生したことを論理的に証明した」とされているが、『種の起源』は進化を論理的に証明したものではない。現在見られる多様な生物がどのように生まれたのか、どう解釈すれば整合性のある理解ができるのか、膨大な資料と実例を元に説明を試みたもので、ダーウィン自身はその証明に参加していない(そもそも「証明」という単語が適切でないと思う)。たとえば『種の起原』第5章「変異の法則」では、大西洋に浮かぶ海洋島、マデイラ島に生息する甲虫類を例にダーウィンは以下のような説明をする。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
ここでダーウィンは、一年中強風に晒されるマデイラ島に生息する多くの甲虫の翅が退化して飛べなくなっていることに注目する。その要因として、ヘタに飛べてしまう個体は風で飛ばされて海に落ちて死んでしまうからだろう、と考察しているにすぎない。ここでは仮説を述べているだけだ。そして、未だに我々はこの仮説よりも説明力のある解釈を提案できていない。ダーウィンのこの仮説を実証したのは誰か、といえば、たとえば最近発表されたニュージーランドに生息するカワゲラの仲間を対象にした研究などがそれにあたるだろう[31]。森林の残る地域ではもともとの翅が発達したカワゲラが生息しているが、森林伐採され地表面近くに風が強く吹く環境に変化してしまったところでは、翅があると吹き飛ばされてしまい死んでしまう。そのため、森林伐採によって環境が変化したこの数十年という短期間で翅が消失する方向に進化してしまった、という内容だ。これはダーウィンが提示した仮説を実証したものだと言っていいだろう。
💜カワゲラの研究を以って、ダーウィンの仮説が実証されたと林氏は述べているが、私にはとてもそうは思えない。カワゲラと甲虫類では体や羽の大きさや形態、行動様式などが異なるため、仮にカワゲラのそれが実証されたとしてもそれを甲虫類に簡単に適用できる訳ではない。また仮に甲虫類においても強風が翅の退化に寄与していることが正しかったとしても、強風で飛ばされて海に落ちて死ぬのではなく、適切な生息域から離されることによる餌不足や繁殖相手との遭遇率低下が繁殖成功率を下げている可能性もあるので、海に落ちて死ぬからというダーウィンの仮説が実証されたとは別に言えないだろう。(ここで引用されている以上の情報を林氏が持っていたのであれば問題ないかもしれないが)。
| 進化論で言えば、🔶古典的ダーウィニズムでは生存闘争というマイ
| ナスの適応関係の繰り返しによって自然選択が起こると言われてきた
| 🔶。しかし現在の進化論の観点では、生存競争による残酷な世界だ
| けが自然選択を引き起こすわけではなく、それとは対象的に生物同士
| が利他的に互いを支え合うプラスの共生関係も、また進化の重要な鍵
| だと考えられている。 進化論も進化し続けているのだ。(p.344)
これも著者の思い込みの先入観による勝手な引用だ。ダーウィンは生物の共生関係についても『種の起原』第三章「生存闘争」の中で以下の通り触れている。
私は〈生存闘争〉という言葉を、ある生物が他の生物に依存するとい
うことや、個体が生きていくことだけでなく子孫をのこすに成功する
こと(これはいっそう重要なことである)をふくませ、広義に、また
比喩的な意味に、もちいるということを、あらかじめいっておかねば
ならない。飢餓におそわれた二頭の食肉獣は、食物をえて生きるため
にたがいに闘争するといわれてよいことは、たしかである。しかし、
砂漠のへりに生育している一本の植物も、乾燥にたいして生活のため
の闘争をしているといわれる。だが、これは正しくいえば、湿度に依
存しているのである。年ごとに千粒の種子を生じ、平均してそのうち
一つだけが成熟する植物では、すでに地上をおおっている同種類また
は異種類の植物と闘争しているということが、前の場合よりもたしか
にいえるであろう。ヤドリギは、リンゴやそのほか数種類の樹木に依
存して生活しているが、しいていえば、これらの樹木と闘争している
ともいえる。おなじ木にヤドリギがあまり多く生育しすぎると、その
木はしおれて、枯れてしまうからである。しかしおなじ枝に密生した
ヤドリギの多くの芽ばえが、相互に闘争しているということは、いっ
そうたしかにいえるであろう。ヤドリギの種子は鳥によって散布され
るから、ヤドリギの存続は鳥に依存しているわけである。それゆえ比
喩的には、ヤドリギは果実をならせる他の植物と、他のものより多く
鳥をひきつけ果実をくわえて種子を散布させるために闘争していると
いうことができる。私は、🔷たがいにつうじるところのあるこれら
いろいろの意味で、便宜のために生存闘争という共有の言葉をもちい
る🔷のである。[32]
このように、ダーウィンは生存闘争という単語を用いながらも、それが字面通りの闘争を示すだけでなく、さまざまな生物間相互作用を含めたものであることを『種の起原』の中できちんと説明している。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💜林氏は「利他」という文字を読んでないのか、またはその意味を理解できないのかどちらなのだろう。太刀川氏は「生物同士が利他的に互いを支え合うプラスの共生関係」というように明らかに利他的関係について述べており、少なくとも引用されている範囲内ではダーウィンはプラスの共生関係については特に述べていない (鳥の種子散布に関しては確かに鳥と植物間に相利的な共生関係があるが、ここでのダーウィンの主題はそれではなく植物間の闘争である。ただ、ダーウィンは『種の起源』の第四章にて花と送粉者(蜂)の相利共生に基づく共進化についても語っているので[133]、結局ダーウィンがそういった相利的な共生を語っていないという太刀川氏の主張は誤りである)。
また、後に松井氏にも指摘されているが、語用に関しても誤りがある。まず生物学で「共生」といったとき、これはふつう種間における同所的な相互作用関係を指す。一方「利他行動」(自らのコストを払って、他個体に利益を与える行動) というのは基本的に同種個体に向けてしか進化し得ない。したがって、「利他的に支え合う共生関係」という記述は不適切である。例えば、太刀川氏が以降で述べているミーアキャットの話は利他行動ではあるが共生ではない。またクマノミとイソギンチャクは共生ではあるが、これは利他的関係ではない。そもそも生物学における「利他」というのは「利他行動」というように行動における話であり、関係性を述べる文脈では使わない。またクマノミとイソギンチャクは共生することで両者が利益を得る相利共生の関係にあり、片方がコストを払い、もう片方が利益を得る利他行動とはコストベネフィットの観点からも似ていない。共生関係において敢えて利他行動に相当するもの挙げるならば寄生や捕食-被捕食関係における寄生される側や食われる側がそれに当たるだろう (しかしあくまでコスト・ベネフィットの関係において似ているというだけであり、これらに対して「利他」という言葉を当てるのは誤りである)。
| だが、こうした発想法や戦略の類は、その成立ちの都合上、どれも効
| 率よく発想するための方法論(HOW)に終始していた。そして巷に
| あふれる発想法の大半は、🔶それを提案した人の経験則と主観的な
| 方法論に陥った、再現性の乏しい自伝的な内容🔶に思えた。
〔中略〕
| 私なりにたくさん探してみたものの、結局「🔷なぜ進化と発明は似
| ているのか🔷」に答える内容や、「進化に寄り添った創造の具体的
| な手法」は発見できなかった。
〔中略〕
| だが、🔶変異と適応を繰り返すのは、生物学的進化も創造的思考も
| 同じだ🔶という気づきによって、この謎は氷解する。(p.52)
当書に対しても巷にあふれる発想法の大半とまったく同じ、「それを提案した人の経験則と主観的な方法論に陥った、再現性の乏しい自伝的な内容」そのものであると評価したい。その理由はここに説明した通りだ。また、著者が期待する内容の書籍が見当たらないことも、ここに説明した通りそもそも著者の進化の理解が完全に間違っていることに要因がある。ここで説明してきた通り、進化は「変異と適応」の繰り返しではない。そのため、著者の言う「創造的思考」と進化はアナロジーにならないし、そのように説明してはならないのだ。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
📕林氏がここまで説明してきたのは単に進化に関する誤用のみであり、それと方法論としての再現性があるかどうかは別問題である。極論、科学的概念を全く間違った意味で援用していたとしても、その方法論の再現性が高いことは十分にあり得る。ただこの辺は太刀川氏自身も「メカニズム的な説明がないならば再現性がない」といったような推論をしているように見えるので、結局両者とも再現性については間違ったことを言っていると思う。なお『進化思考』を総評すると、大小の瑕疵や往復的な創造思考の実在性(&生得性)に関してはとりあえず置いておいて、単に実践レベルの方法論的思考及びプロダクト錬成過程だけを見てあげれば、生物進化における「創造的プロセス」をある程度模倣できているのは確かなので、十分に役立つと思うし、再現性もそれなりにあると個人的には思う。(なお一応補足するが、これは私が「進化思考」の使用に積極的に賛同していることを意味しない。あくまで客観的な評価としての話である)。
また「著者が期待する内容の書籍が見当たらない」のは、太刀川氏が云っているように単にそういう内容の本を見付けられなかったというだけの話であって、太刀川氏が進化をよく理解していないこととは特に関係ないだろう。ここまで述べてきたように、「適応」と「変異」に関しては基本的に林氏の理解不足や読解不足による誤った批判であるし、「遺伝」が抜けているという指摘も林氏の表面的な読みによる誤った批判である。また、「著者の言う「創造的思考」と進化はアナロジーにならないし、そのように説明してはならないのだ。」と述べているが、上記したようにある程度アナロジーとして機能しうるし、そのように説明してはならない訳では全くない。
| 進化の一つの前提は、完璧な生物は存在せず、🔶どんなものでもさ
| らに良くできる🔶、ということだ。(p.60)
やはりここでも「さらに良くできる」という、進歩史観を前提としている。「進化」の誤った用法そのものだ。
※本稿執筆者注:「🔶」で挟んだ部分は本来下線あり
💛「さらに良くできる」というのは別に進歩史観を含意しない。本当にほとほと疲れてきたが、林氏の批判には彼の文章読解力不足による不適当なものが多過ぎる。林氏はおそらく「可能性」と「目的・意志」と「可能性の唯一性」を混同している。
なお一応「どんなものでもさらに良くできる」という全称命題について突っ込むならば一理あるが、環境変動への対応可能性のことを言っているのならば別にそこまでおかしくはないだろう。また固定的な環境を考えたときも、ある形質に関与する遺伝子をどの範囲まで取るかは恣意的な訳なので、いわゆる進化的安定戦略においても何らかの点で良くなる可能性が全くのゼロとは別に言い切れない気がする。
ただ「進化の一つの前提」という太刀川氏の表現も不適切であり、正しくは「進化の前提」ではなくて「進化 (理論) から導かれること」である。一応「進化理論を考える上で前提とすべき (考慮すべき) 事実」という意味であれば、前提の話でも良いような気もするかもしれないが、「どんなものでもさらに良くできる」という全称命題は進化論抜きに証明されているものではないので不適切である。あくまでそういった例がいくらか見られているというだけであるので。
| 事実として人類史が始まって現在まで、完璧な道具が一度たりとも発| 明されたことはない。🔶これは地球史上に完璧な生物が存在しない
| ことと、 まったく同じことだ🔶。すべてのものは変わり続けている
| し、まだ、見つかっていない他の方法はいくらでもある。(p.69)
この文からも、「完璧な」という実に主観的な評価が生物にも応用しうるのだと考えていることが強く伺える。そもそも進化の過程で生まれてきた生物と、人間が作成する道具を同列に語る必要がないし、そのように並べるべきではない。
※本稿執筆者注:「🔶」で挟んだ部分は本来下線あり
💛「完璧な」というのは別に主観的な評価とは限らないだろう。確かに「どの観点で完璧か」などの具体的意味が曖昧なので表現に何も問題がないかと言えばそうではないが、文脈から考えるにここで太刀川氏が言っている「完璧」というのは単に「変わり続ける余地がない」程度の意味であるように思われる。また道具も文化進化する訳なので、生物と道具を同列に語ることが全く誤りであるかのような主張もおかしい。林氏のその主張は文化進化学を真っ向から否定するものではないだろうか?「進化」という現象の本質は、林氏自身が述べていたように、「変異・選択・遺伝」(中立進化では「変異・遺伝」) によって、対象集団の遺伝的性質頻度が変わっていくことにある。そして「人間が作成すること」はこの進化の主構造を必ずしも否定しない。
なお、p.132で松井氏が「最適をめざすのであって最適であるわけではない。進化は完璧な生物を産まないというのは当書の指摘する通り」と述べているが、「完璧」という表現を生物に使うことに否定的であるならば、松井氏の発言にも突っ込むべきだろう。本書は一応執筆者3人で相互チェックしているらしいが (p.11)、読み落としていたのか、読んだけど問題だと感じなかったのか、または問題だと感じたけどスルーしたのか、どれなのだろう。いずれにしても一冊の本として一貫性がない。
| この言語と遺伝子の類似性こそ、言語によって人が道具を発明し、
| 🔶自らを進化させられた理由🔶だと考えると、創造と進化が類似し
| ている謎が氷解する。(p.80)
それは進化ではない。進化とは、世代を通して遺伝的な変異が蓄積して結果として可視化される現象であり、自ら主体的に「進化する」ものではないからだ。
長谷川(2015)でも以下の通り、進化と進歩の違いについて丁寧に指摘されている。
🔷もう一つの誤解は、「進化の歴史のなかで生き物はだんだん進歩
してきた」と考えてしまうことです🔷。「進化」「進歩」という言
葉には、梯子や階段を一歩一歩上に登っていくようなイメージがあり
ます。ですから私たちは、生物は下等動物から高等動物へと進化し、
その頂点に人間が君臨していると考えてしまいがちなのです。
でも、🔶それは大きな間違いです。実際は、進化は梯子のようなプ
ロセスではなく、枝分かれの歴史なのです🔶。[33]
このように進化とは、著者が述べる創造や道具の利用による進歩とは全く異なるプロセスである。ここは進化生物学では特に厳しく教育されるところだ。Williams『適応と自然選択』でも
生息環境における自然のふるい分けの作用で生物の適応が自然発生す
るのであり、そこに創造主もいなければ目的もない。進化を進歩とい
う言葉に言い換えることはできない。[34]
と、進化と進歩の違いについて厳しく指摘されている。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💛ここで太刀川氏が述べている「進化させられた」というのが不適切であるのはその通りだが、それは人間そのものがその道具に関する集団的選択プロセスにかかっていないからであって(投擲道具との共進化といったような一部例外を除く)、「主体的」かどうかはあまり関係ない気がする。太刀川氏がここで云う「進化させられた」は受動の意味ではなく「進化させることができた」という可能の意味だと思うが、それは主体性を含意しない。また林氏は「進化とは、世代を通して遺伝的な変異が蓄積して結果として可視化される現象であり、自ら主体的に「進化する」ものではないからだ」と述べているが、「世代を通して遺伝的な変異が蓄積して結果として可視化される」ことと「自ら主体的に「進化する」」ことは質の異なる話であるし、実際矛盾もしていないので、対比の仕方としておかしい気がする(ここで林氏の云う「進化する」というのが本来的な「進化」とは全くの別概念であれば矛盾し得るが)。そういう訳で、一つ上の指摘部位で述べたように林氏は主体性と進化の関係をよく理解していない気がする。単なる主体的な進歩として進化を定義するのならばそれは間違いだが、進化的な構造に主体性が存在していても特に問題はない(生物進化としてはそのような進化は存在しないが)。
また、林氏は続けて長谷川氏が進化と進歩の違いを指摘していると述べるが、長谷川氏がそこで述べているのは「梯子的な変遷ではなく枝分かれ」という話であって、林氏が上で述べているような主体性に関しては特に言及していない (主体性とはまた違った観点で進歩と進化の違いを述べているという趣旨での引用なら問題はないが)。またそもそも長谷川氏は「「進化」「進歩」という言葉には、梯子や階段を一歩一歩上に登っていくようなイメージがあります。」と述べており、そしてその両者が持つ一歩一歩のイメージではなくという話をしている訳なので、長谷川氏は別に進化と進歩の違いを直接的に説明している訳ではない。確かに「「進化」「進歩」という言葉には」における「進化」を「世間一般が感じる進化概念」と解釈すれば、生物学的に厳密な意味での進化はそうではないという意味で比較には成り得るが、そもそも「梯子や階段を一歩一歩上に登っていくようなイメージ」に関しても「良い方向に進む」という意味ではなく(またはそれだけではなく)、単に「梯子⇔枝分かれ」といった構造に関する話をしているとも読み取れるので (実際、長谷川氏はここの引用部位直後に「ダーウィンはこれを「特徴の分岐」と呼んで『種の起源』のなかで図版を使って表現しています。1章末で紹介した「生命の樹」と題された図を見てください。これを見ると、人間が生き物の頂点などではないことがよくわかります。今、私たちとともにこの世界に存在する生き物──ミミズもハトも、イチゴもスギも──すべては、それぞれの枝の最先端に並列に位置しているのです。第1章の冒頭で「ゴリラはいずれ人間に進化すると考えるのは間違いだ」と私は指摘しましたが、その理由もこの図を見れば明らかです。ゴリラやチンパンジーや人間は、同じ祖先から分かれて進化しましたが、いずれも今は別々の枝の先端に立っています。ゴリラが何百万年もの時間のなかで、さらに別の生き物に枝分かれしていく可能性はありますが、それは決して人間に進化するということではありません。」[134] (『「ダーウィン種の起源 : 未来へつづく進化論』No.675-682。Kindle版を読んだゆえ書籍版のページ数ではなくKindle上のページ数(No.)を記載) というように「変化の良し悪し」というよりは単に「梯子⇔枝分かれ」といった構造の話をしているので)、やはり「進化と進歩の違いについて丁寧に指摘されている。」と明確に断言できるほどではないだろう。
また「このように進化とは、著者が述べる創造や道具の利用による進歩とは全く異なるプロセスである。」とのことだが、少し前に「疑似的な進化」と述べていたように、ここで太刀川氏が云っているのは道具利用による"人間社会"の進歩そのものではなく、あたかも"人間"が進化したかのように見える、ということであるように思われる(それを言いたいならば、最低限ちゃんと「疑似的な進化」と書くべきであるというのはその通りだが)。また、Williams『適応と自然選択』では「そこに創造主もいなければ目的もない。進化を進歩という言葉に言い換えることはできない。」と述べられているようだが、その変化が主体的・目的的であるかどうかは「進歩」とはあまり関係ない気がする。確かに「進歩」が主体性・目的性の意味を持つ場合はあるが、それは必須条件ではなく、「進化」と「進歩」の違いとしては重要なのは、単に進歩は進化の構造を含意しないということではないだろうか?例えば、その『適応と自然選択』の引用では「創造主」が話に出されているが、仮に創造主が生物の適応を人為的に発生させていたとしても、それを「進歩」と見做す必然性はない。また、一般的に「技術の進歩が著しい」と言ったとき、もちろん技術の進歩プロセスの中身には研究者個々人の主体性や目的性が絡む訳だが、「技術の進歩が著しい」という発言そのものにおいては進歩の主体性や目的性は必ずしも含意されていない(単に客観的に高度で良い方向に進んでいるといった意味で言っていることが多いのではないだろうか?)。なお、進歩は進化と違って何らかの「良い方向」を含意してはいるが、少なくとも適応進化に関しては環境に適するという意味での良さの方向を含意している訳なので、「良い方向」という観点で両者を区別するのもそこまで上手い方法ではないと個人的には感じる。また「主体性」そのものがそういった「良い方向」を含意する訳でもない。そういう訳で、もちろん進歩を進化の代用として用いることは不可能であるが、進歩は必ずしも主体性や目的性を含意する訳ではなく、それゆえ例えば進化(生物進化でさえ)を進歩的に見ることも場合によっては可能なのである。(なお、個人的には「進化を進歩として定義すること」と「進化を進歩で代用すること」と「進化を進歩的に見ること」の混同もこの辺の話を紛らわしくしているように感じる)。
また林氏はここで「Williams『適応と自然選択』でも ~(中略)~ と、進化と進歩の違いについて厳しく指摘されている。」というように述べており、これはその引用内容がWilliamsの言葉であるかのように思わせるものだが、実際にはこれは『適応と自然選択』の「訳者あとがき」において「Williamsの言葉遣いの意図を理解するため、つまみ読みした人にも理解できるよう、本書の背景となる生物世界観をあえてここに要約したい。」(『適応と自然選択』p.260) という文言に続く、訳者の辻󠄀氏によるp.260~p.262に渡る背景情報の説明の中で述べられているものである。そういう訳で、あたかもWilliamsがそう言っているかのように見える林氏のこの引用の仕方は不適切である。
| 逆に、目立つことで自分の身を守ろうとする者たちもいる。🔶この
| タイプの擬態をミミクリー(mimicry)という🔶。(p.107)
Mimicry が擬態を意味することは間違いではない。しかし、目立つことで自分の身を守ろうとする擬態を指してmimicryと呼ぶわけではない(そのような擬態を指してベイツ型擬態 Batesian mimicry、警告色 Aposematismという)。周辺環境の風景にまぎれて捕食から逃れようとする隠蔽擬態をはじめ、さまざまな戦略も含めてのmimicryである。
※本稿執筆者注:「🔶」で挟んだ部分は本来下線あり
📕太刀川氏はこの引用部位の前ページ (『進化思考』p.106) にて、「周囲の物に似ることで姿を消し、どこにいるかまったく分からなくなってしまう擬態生物たち。こうして隠れるタイプの擬態をカモフラージュ(camouflage)あるいはミメシス(mimesis)という。」と述べており、したがって、ここで太刀川氏は標識的擬態(mimicry)⇔隠蔽的擬態(mimesis)という枠組みで擬態を語っている[135][136][137][138][139]。したがって、隠蔽的擬態も含めてmimicryであるという林氏の指摘は文脈を無視した不適切なものである(この辺の擬態概念の分類は歴史的にも非常に複雑なものであり、様々な流派が存在する。太刀川氏の枠組みはやや古典的なものだが間違っている訳ではない。また林氏の云っている分類も正しい。この辺は先日(2026/1/31)の伊藤氏の応答記事[92]への返答記事[97]でも色々述べた)。ただ、標識的擬態にはチョウチンアンコウなどの攻撃目的の擬態(ペッカム型擬態)も含まれるので、身を守る擬態のみをミミクリーとするかのような太刀川氏の記述は不適切である(ただ、もし仮に「このタイプの擬態をミミクリー(mimicry)という」というのがミミクリーの定義説明ではなくて、単にそういったタイプの擬態がミミクリーに含まれるということを述べているのであれば一応論理的には問題ない。ただ、文脈的にはここは定義説明として解釈されやすいと思う)。
また「そのような擬態を指してベイツ型擬態 Batesian mimicry、警告色 Aposematismという」とのことだが、警告色そのものは擬態ではないのでこれは誤りである。
さらに、眼状紋の機能についてはアフリカで行われたユニークな研究が知られている[35]。アフリカではライオンが家畜であるウシを頻繁に襲う。そこで、ウシのお尻に眼状紋を描いて放牧したところ、ライオンによる被害が劇的に低下したことが報告されている。また、漁業で用いる刺し網の目印にするブイに、目玉模様のある風船をつけることで、海鳥の混獲が減少したという報告も知られている[36]。このように眼状紋自体が対捕食者効果を持つため、フクロウチョウが実際にフクロウをモデルにしているのかどうかは未だに議論が続いているところである(肯定的な研究もあるが[37]、かなり強引にこじつけた解釈で、眼状紋自体が持つ対捕食者効果の方が強いのではないかと評者は考えている)。
💛「眼状紋自体が対捕食者効果を持つ」というのがよく分からない。顔を模したような配列でなくとも、効果があるということを言いたいのだろうか?しかし、ライオンと海鳥の例だけを以って「眼状紋自体が対捕食者効果を持つ」というように眼状紋が普遍的に対捕食者効果を持つかのように語るのはおかしいだろう。
そういう訳で、挙げられている論文 (批判集における[35][36]) をざっと見たが、そこでは眼状紋は顔を模したように配列されている (一つだけだったり、二つ以上が非水平的に配列されている訳ではない) ので[14][15]、チョウ類の眼状紋がフクロウの顔を模している可能性の否定には大してなっていない。だが林氏の主張を見るに、彼はライオンと海鳥の例だけを以って「顔を模したような眼状紋配列には対捕食者効果が普遍的に存在する」と結論を出し、またその対捕食者効果はチョウ類においてフクロウの顔を模すことによる効果とは全く別物であると考えているように見える。もしそうであるならば、まず「顔を模したような眼状紋配列には対捕食者効果が普遍的に存在する」という結論を出すことは明らかに誤りであるし、そして大して根拠もないのにそのような対捕食者効果一般とフクロウへの擬態に関係がないと見做すことにも無理がある。もしライオンと海鳥が顔を模した眼状紋配列に何らかの生態的意味を感じて忌避しているならば、それとチョウ類の眼状紋をフクロウの目と誤認して忌避することは関係し得るだろう。そしてライオンと海鳥において特に生態的意味はないけど顔を模した眼状紋配列をなぜか忌避しているという可能性は低いだろう。顔を模した配列でない眼状紋による実験なのであれば、百歩譲って林氏の主張も分からなくはないが (ただその場合も眼状紋単体が「眼」と似たものと認識されているかどうかは結局不明)、少なくともこのライオンと海鳥の研究はそういうものではない。
また具体的にフクロウをモデルとして進化したのか否かについて引っ掛かっているのだとしたら、少なくともライオンや海鳥の例を以ってそれを否定することは別にできないだろう。例えば「顔を模した眼状紋配列を顔一般と認識することで忌避反応が生じており、具体的にフクロウの顔である訳ではない」と林氏が考えている可能性はあるが、ライオンや海鳥においても何らかの特定の生物種・生物グループが忌避反応に関係している可能性は十分にある。確かにフクロウのみをモデルとしているかどうかは微妙ではあるが、フクロウを一部モデルとしているという程度であれば、それはここでのライオンや海鳥の例で否定され切るものではない。なおあまり突っ込むとめんどい議論になってくるが、顔を模した眼状紋配列がどの生物種・生物グループへの忌避反応に主に対応して進化してきたのかと、進化の結果としてどの生物種・生物グループへの忌避反応を引き起こしているかは異なる話である。ある特定の生物種・生物グループへの忌避反応を誘発することが適応的なために初め進化してきたとしても、結果として途中からその眼状紋がそれ以外の生物種・生物グループへの忌避反応をも誘発する可能性はありうる。したがって、フクロウチョウの眼状紋が進化の経緯的に主にフクロウをモデルとして進化したものであるかどうかは、単に現在の機能を見るだけでは分からないような問題なのである。また複数種に関する忌避反応を誘発するとしても、その効果の程度というのも様々である可能性があり、そういった点でもどの種を主にモデルとして進化してきたかというのは複雑な問題と言える。
他にも「擬態」の章で紹介されるさまざまな事例について、それは本当に「擬態」と言えるのだろうかという、こじつけにしか思えない例が多数あった。たとえば、iPhone(p.113)は携帯電話に「擬態」しているのだろうか? また、馬が描かれていない馬車の図面を示し、車の発明は「馬車から馬だけを消し去ったものだ」p.120)と「欠失」の事例として紹介する。馬を消してできるのは馬がいない、動くことのない馬車である。自動車は馬の代わりにエンジンを搭載して動くものだ。あえて著者の言う変異の9パターンに当てはめるのであれば「欠失」ではなく「交換」の事例として紹介すべきものではないか。
📕この辺の太刀川氏の擬態の例に不適切なものが存在するのは確かだが、ここで林氏が述べているiPhoneに関しては「もしiPhoneが電話機能のない月額制の電子手帳だったら、ほとんどの人は買わなかっただろう。まったく新しいインターネットデバイスの契約体系をユーザーに理解させるには、彼らがすでに持っている携帯電話に擬態するのが手っ取り早かった。ユーザーはこの新しいデバイスを、今までの電話の代わりに契約するだけで良かった。」(『進化思考』p.113)といったように普及の過程で携帯電話に似せることに意味があったという話であり、これは仮装(masquerade)的な擬態と見做せなくもない。また、馬車に関しては確かに交換とも見做せるが、太刀川氏は「カール・ベンツによって発明された世界初の自動車は、見るからに馬の「欠失」した馬車であり、馬がエンジンに「交換」された、あるいは内燃機関と荷車が「融合」した馬車でもあった。ある意味ではエンジンが馬に「擬態」したともいえるだろう。」(同 p.86) や、「交換」のパートにて「馬の代わりにエンジンを載せ、さらにエンジンをモーターに換えるような発想は、形状はまったく違うが、動力という目的が共通している。」(同 p.161) や、第二章「変異」のまとめにて「変異のパターンはもっとあるかもしれないし、重複する思考もあるだろう。しかし肝心なのは、発想にはパターンが存在するということだ。」(同 p.201) と述べている。したがって、太刀川氏はある一つの創造に対して変異が重複することを許容している、かつ馬車に関しては「交換」の事例としても述べている。
| そんな視点で探してみると、文化と進化の類似性を指摘する論考が数
| 多く見つかった。前述したサミュエル・バトラーの小説や、🔶エド
| ワード・O・ウィルソンが一九七五年に出版した『社会生物学』
| 🔶、最近ではブライアン・アーサーの『テクノロジーとイノベーシ
| ョン』やケヴィン・ケリーの『テクニウム』などである。
| これらの論考では、社会やテクノロジーの進化を自然の進化と対比さ
| せることで浮き彫りにしようとしていた。彼らもまた私と志を同じく
| 持ち、ヒトも進化の産物である以上、🔷人間の社会行動や創造性も
| 生物学として同じように扱おうという信念🔷を持っていた。(pp.50-
| 51)
バトラーの小説やアーサー、ケリーについては評者の専門分野ではないのでここではコメントを控えるが、ウィルソンの『社会生物学』ではまったくそのようなことは書かれていないことを指摘しておきたい。ウィルソンは人類の社会構造の進化を生物学的手続きで説明しようとしたのであって、文化と進化の類似性を指摘しているわけではない。ジョン・オルコックは著書の中で以下のように述べている。
🔶社会生物学者が繰り返し指摘しているように、「これこれの形質
は自然淘汰によって生じた進化の産物だ」ということから、「これこ
れの形質はよいものであり奨励されるべきだ」という結論を導くこと
は絶対にできないのである🔶。
〔中略〕
何の感情も伴わない、盲目の自然淘汰のプロセスから、引き出すこと
のできる道徳的教訓は一つもない。また、🔷社会生物学者は、進化
から、そのような教訓を引き出そうとしているわけでもない🔷。そ
うではなくて、社会生物学的分析は、人間の社会的営みに対して、中
立的な説明を試みようとしているのである。🔶それは、正当化でも
なければ、道徳的処方箋でもなく、何をする「べき」かという規範的
宣言でもないのである🔶。[43]
もちろんここで「社会生物学者」とされる研究者の代表がウィルソンである。ここまで解説してきたとおり、ダーウィンの『種の起原』、リンネの『自然の体系』やウィルソンの『社会生物学』など、この著者は本に書かれてもいない内容を勝手に都合よく捏造して引用することに注意しなければならない。当書では生物学分野において正当な引用はないと言っていい。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💛「捏造して引用」ではなく、「本を読んだものの引用せずに誤解釈」ではないか?林氏の云う「捏造して引用」では、太刀川氏が本の文章を改変して、その改変後の文章がそのまま元の本に書いてあったかのように引用していることになってしまう。なお、以上は「人の言葉や文章を、自分の話や文の中に引いて用いること」 (デジタル大辞泉, [16]) という本来の意味での「引用」に基づく指摘であるが、「内容の紹介」という広義の「引用」に拠るならば「捏造して引用」という表現も妥当にはなりうる。しかし、そもそも「捏造」というのは意図的な事実改変を意味し、太刀川氏が意図的に事実改変していることは引用されている範囲内では特に読み取れないので、やはり「捏造して引用」という表現は不適切だろう。(なお既に指摘したが、林氏は少なくとも二つの引用部分において、特に断りなく勝手に下線を引くという改変行為をしている。もちろんこれは引用におけるルール違反である。改変の質が上の話とはやや違うが、引用のあれこれについて人を批判できる立場なのだろうかと思う)。
また「当書では生物学分野において正当な引用はないと言っていい」というのはあまりにも言い過ぎであり、もし本当に正当な引用が一切存在しないと思うのならばそれは林氏の深刻な文章読解力不足であり、そうではなく単に誇張して言っているのだとしたらそれは研究者としての倫理観を疑われるような不適切行為である。(例えば、『進化思考』p.208のニコ・ティンバーゲンの「四つのなぜ」は多少独自的な整理がされているが根幹は合っている。また、同 p.353の「生物学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、それぞれの生物が異なった世界の認識を持つことを、「環世界」と呼んだ。」も概ね正しいだろう(この表現だとそれぞれが異なった世界の認識を持つという世界理解について「環世界」と言っているように見えなくもないが、直後に「各々の生物にとっての環世界はそれぞれに正しいが、自分の視点でしか世界を認知できないので、他の種の環世界から見れば大いに歪んでいる」(同 p.353) と述べているので、ここは単に表現があまり良くなかっただけだろう。少なくとも主張を捻じ曲げて自論の強化に使っている訳ではない。また、批判集で引用されているもの以外についても挙げると、例えば、同 p.105の「一九五〇年代にケンブリッジ大学のウィリアムス・ソープは興味深い実験を行った。ズアオアトリという鳴き声の美しい鳥のヒナに、産まれてから一度も大人の鳴き声を聞かせずに育てたら、子供はいったいどうなるのかを実験したのだ。その結果、大人の鳴き声を聞かせたヒナは正常に大人の鳴き声を習得したが、聞かせなかったヒナは単調な鳴き声しか出せなかったという。つまり鳴き声は遺伝だけでなく、親から子どもに物真似を通して伝承されていることがわかった。」は細部(「親から子ども」辺り)にやや単純化が見られるが大筋は合っているだろう。また、同 p.179の「二〇一七年、イグ・ノーベル賞に輝いた日本人の研究で、トリカヘチャタテという昆虫の生態を研究したものだ。チャタテムシの一種であるトリカヘチャタテは、メスに突起が付いていて、オスの生殖器に挿入して受精する。共同研究者の吉澤和徳氏の言葉をそのまま借りると、「〈女の子におちんちんがついていた〉と子どもにもわかりやすい驚きがあるし、素直に面白い研究だと思っている。私たちの性に対するイメージを一変させ、進化や性の選択といった研究に重要な意味もある」とのだ。」というのも細部(「オスの生殖器に挿入して受精する」辺り)にやや単純化が見られるものの全体としてはそれほど問題ないだろう。また、参考元の記載がない事例的説明まで含めれば当然ながら正しい記述は多数存在する(これは厳密な意味での「引用」ではないが、「本に書かれてもいない内容を勝手に都合よく捏造して引用する」といったような適当なことばかりを言っている訳ではないという点ではそれを補強するものである。林氏の意図が引用することによる尤もらしさの付与にあるのならばこれは関係ないが))。実際のところはおそらく「正当な引用はほとんどない」程度のことを言いたかったのだろうが、そこで「ほとんど」で抑えられずに「全く」というように言ってしまうという、客観性よりも自己の感情を優先した発言をしてしまう者は「知」を扱う研究者としての信用を大きく失うだろう。なお敢えて誇張して言うことで一般人が『進化思考』を読む上でできるだけ文章を鵜呑みにすることを防ぎたいという意図があったという弁明も予想されるが、そうであるならばそういう意図を多少を書いた方が良い気がするし、これはあくまで私の主観だが彼にそういう明確な意図があったようにはあまり思えない (なぜなら「太刀川氏が進化をよく理解していないことにしたい」という認知バイアスがかかっているかのように感じられる批判がここまで山ほどあったからである)。
📕『進化思考』を読んだので追記する。私はウィルソンの『社会生物学』を読んでいないが、ネットの情報を見る限り、最終章である第27章「ヒト:社会生物学から社会学へ」では人間の社会行動や社会構造を生物学的な観点から分析しているものの、文化と進化の類似性について述べている訳ではなさそうである[140]。ただ、太刀川氏のこの辺の説明は他の書籍とのセットでの説明であるし、「人間の社会行動や創造性も生物学として同じように扱おうという信念を持っていた。」に関しても一部は合っている訳で、また生物学的な観点から社会行動・構造を分析することは文化的側面も持つ対象の進化的な発生について述べてもいると見ることができない訳でもないので、「まったくそのようなことは書かれていないことを指摘しておきたい。」とまで強く否定できるものでもないと思う。また林氏はここも含めて太刀川氏の引用の仕方が捏造であると批判するが、それは少々言い過ぎであると感じる。そもそもここで林氏はダーウィンの『種の起原』とリンネの『自然の体系』の引用を例に挙げているが、それに関して林氏が批判集で述べているのは、『種の起源』がウォレスとの共著ということになっていることや『種の起源』が進化を論理的に証明したかのように述べていること(p.43-45)、『種の起源』で相利的な共生関係に由来する進化について語られていないと述べていること(p.45-46。なお結論としては太刀川氏の主張は誤りなのだが、林氏の批判内容そのものは的が外れている)、また『自然の体系』の初版1735年には図が(ほぼ?)なかったり、後期版(1768)でも最後のほうに図版が少しあるだけなのに、太刀川氏が「彼の著書『自然の体系』(1735)は、美しい絵とともに彼の収集が紹介されていて、頁を開くだけでもわくわくする本だ。」というように挿絵が挟まれているかのように述べていること(p.53)に関してである(そして『進化思考』を全部通して読んでも、少なくともこの2つに関してはそれ以上のミスは特に犯していないように見える)。またp.55の変異と適応の繰り返しではない云々は上で何度も述べたように太刀川氏の記述が間違っているとは言い切れない。そういう訳で確かに太刀川氏にいくつか瑕疵はあるのだが、この程度を以って捏造して引用していると見做すのは強過ぎる批判であると感じる(唯一『自然の体系』に関しては何を以って太刀川氏がそう言っているのか不可解だが、これだけの情報から捏造していると言い切るのはやはり言い過ぎだろう。上で指摘したようにそもそも「捏造」という語用がおかしい)。
また、ここまで述べて来たように林氏自身も適応の定義に関して、Williamsの『適応と自然選択』や長谷川眞理子氏の『生き物をめぐる4つの「なぜ」』、放送大学教材の『生物の進化と多様化の科学』の記述から一意に導けないことを勝手に導いて自論の強化に使っている(「ここでも、やはり適応は進化の産物、つまり結果としての性質であり、進化の要因ではないことがきちんと宣言されている。」(p.26)、「「適応」については、うまくできていること、つまり進化の結果として「適応」という単語を使っており、」(p.29)、「このように、進化生物学における「適応」とは、自然選択による進化で得られる『結果』のことであり、」(p.33))。また、「進化的適応は特殊で誤解されやすい概念であり、必要なく用いるべきでない」というWilliamsの言葉を元の文脈から離れて適応の定義に関する単なる汎用的戒めとして使用したりもしている (「Williamsが「進化的適応は特殊で誤解されやすい概念であり、必要なく用いるべきでない」[3]というようにめんどくさい単語なので、このようにいいかげんに使ってほしくないところだ。」(p.31))。また、以降で説明するように長谷川氏が著書の中で「「適応(的形質)」は進化の結果であり、進化の原動力ではない」といったことを繰り返し述べているとしたり(p.56)、Andersson (1982) をランナウェイプロセスの例として紹介したり(p.59)、といった不適切な引用もしている。そしてこれらはここでの林氏の論理に沿うならば「本に書かれてもいない内容を勝手に都合よく捏造して引用する」に該当し得るだろう。(一応補足するが、これは私が「林氏は捏造して引用している」と思っている訳ではなく、林自身が述べている論理に従えばそうなり得るという話である)。
なお林氏は以下のようにtwitter(X)でも同様の批判をしており[141][142]、こちらは全称的主張ではないものの (とはいえ「~だろうが、~だろうが、とにかく~する」という高頻度的な表現は使われている)、デザイン分野に関しても同様に「捏造して引用する」と述べられている。林氏は太刀川氏の引用所作に関して「著者の知的不誠実さが進化思考の最大の問題点」「著者の知的不誠実さが改善されていないのであれば進化思考は相手にしてはいけないんです。先人が積み上げてきた成果と既知の知識に対する敬意と誠実さがないからです。」と批判するが、太刀川氏のあれでこれだけ明確に断定されるのならば、先ほど述べた点から言って林氏も同様に知的不誠実に該当するのではないだろうか?
これはなかなかいいところを抜き出してくれていて、引用のない文章ももちろんだし、生物学分野だろうがデザイン分野だろうがとにかく著者の思い込みに合わせて文献の中身を捏造して引用するという著者の知的不誠実さが進化思考の最大の問題点なんです。最大の問題は中身の正確さではないんです。 https://t.co/ak75lQohxc
— かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所 (@kamefuji) January 5, 2024
なので河田さんが監修してたとえ生物学的には間違いがなくなったとしても(見てないけどそれも無理だと思うけど)、著者の知的不誠実さが改善されていないのであれば進化思考は相手にしてはいけないんです。先人が積み上げてきた成果と既知の知識に対する敬意と誠実さがないからです。
— かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所 (@kamefuji) January 5, 2024
| 🔶もし進化が自然発生しているなら、デザインやアートなどの創造
| 性もまた、自然発生する現象と考えられる🔶のではないか。だとす
| れば、創造性を発揮する仕事が、偉大な天才だけに可能だと諦めがち
| な私たちにとって、これこそ大いなる福音となるだろう。
〔中略〕
| 🔷ダーウィンが言う通り、変異と適応が繰り返されれば、そこに誰
| かの意図がなくても、進化は自然発生する。それと同じように、変異
| と適応の往復によって、私たちは創造性を発生させられるという考え
| 方が、進化思考だ🔷。(p.276)
ここでも「もし進化が自然発生しているなら、デザインやアートなどの創造性もまた、自然発生する現象と考えられる」と何の根拠もなく自説が展開される。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
しかし、ここまで説明してきた通り、ダーウィンはそんなことを主張していない。変異と適応の繰り返しで進化は起こらない。Williams『適応と自然選択』や長谷川眞理子『ダーウィン 種の起源. 100分de名著』でも繰り返し説明されている通り、「適応(的形質)」は進化の結果であり、進化の原動力ではないからだ。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
💛「「もし進化が自然発生しているなら、デザインやアートなどの創造性もまた、自然発生する現象と考えられる」と何の根拠もなく自説が展開される」については、確かに「進化が自然発生している」ことは「デザインやアートなどの創造性もまた、自然発生する現象」であることを特に含意しないので論理構造としては不適切である。一方、進化と創造性にある程度類似性が見られることから創造性をも自然発生する現象として捉えようとする見方そのものは全く見当外れと断定できるものでもないだろう。
また「変異と適応の繰り返しで進化は起こらない」「「適応(的形質)」は進化の結果であり、進化の原動力ではないからだ」に関しては、本当に繰り返しになるが、それは適応の歴史的定義における話に過ぎず、非歴史的定義とプロセス的定義においては適応は適応進化の必要条件である。
あとそもそも林氏はここで「長谷川眞理子『ダーウィン 種の起源. 100分de名著』でも繰り返し説明されている通り」と述べているが、林氏が上で適応の定義として引用していた長谷川氏の書籍は『ダーウィン 種の起源. 100分de名著』[134]ではなくて『生き物をめぐる4つの「なぜ」』[70]である。また『ダーウィン 種の起源. 100分de名著』にざっと目を通したが、適応を歴史的定義として明確に説明している部分は私が読んだ限りでは存在しないし、なんなら「住んでいる場所の環境にそれぞれが適応することで、黒い肌の人種や白い肌の人種など、さまざまに外見の異なる集団が生じたとする単源説です。」(No.1360-1361。Kindle版を読んだゆえ書籍版のページ数ではなくKindle上のページ数(No.)を記載。以下同様) や「植物と昆虫が単独で変化していくのではなく、このように互いにとって一番よいかたちに適応しながら変化していく過程が考えられるのではないか。」(No.618-619) といったプロセス的定義的な説明や、「人間が進化の頂点にいるかのように見えるのも、たまたま今の環境に適応できているからに過ぎません。」(No.1028-1029) や「現在、この世に存在する生物はすべてそうした進化の過程のなかで生まれ、環境に適応しているのである。」(No.197-198) や「たとえば寒い地域において、ある生き物に体毛の薄い個体と濃い個体がいたとしましょう。この場合は、体毛が濃い個体のほうが薄い個体よりも寒さに対する適応がすぐれているため、生存競争に勝って生き残り、子孫を残す確率が高くなります。体毛の濃さは遺伝的な個体差、変異であるため、その子孫は同じ変異を受け継ぐことになり、最終的にはその個体群は体毛の濃いタイプばかりになっていく──これがダーウィンの考えた、変異が自然淘汰されていくプロセスです。」(No.561-565)といった非歴史的定義的説明もしている (3つ目の体毛の話は「「適応」は進化の結果生じた性質のことを指すのに、それが必要条件のように書かれているのが当書の最大の誤りである。」(批判集p.25-26) という林氏の主張と明確に食い違うものである)。また『ダーウィン 種の起源. 100分de名著』ではなく『生き物をめぐる4つの「なぜ」』の間違いだったとしても、少なくとも林氏が引用した範囲では適応の定義に絡む説明は一度しかしていない。また『生き物をめぐる4つの「なぜ」』もざっと流し読みしたが、歴史的定義と読み取られ得る解説はほとんどないというか林氏が引用している部位以外ではその直後の文である「生物とは実によくできているのもので、適応はどこにでも見られます。」(p.29) のみである(そして上で述べたが、そもそもこの部分の「適応」は歴史的定義とは一意に読み取れないし、どちらかというと非歴史的定義と読み取るのが穏当である)。また『生き物をめぐる4つの「なぜ」』における「適応」という言葉の他の登場は「ダーウィンは、自然淘汰という理論を提出することによって、生物がどのようにして世代とともに変化し、環境に適応していくのかを説明しました。」(p.26) と「ダーウィンは、これは、どうやって環境に適応して生存していくかの話ではなく、どうやって配偶する相手を見つけるかということに関係しているのではないかと考えました」(p.32) と「これに対しては、初めからさえずりが固定されているよりは、学習によってその時と場所に合わせて変更できた方が適応的だったのだろうとは考えられますが、果たしてそれが本当にどのように適応的なのかは、まだよく分かっていません。」(p.74) のおそらく3点だけである (流し読みなので読み落としの可能性もあり。なお「適応」の文字は入っているが明確に別の用語である「適応度」と「適応放散」は除いた)。そして以上の3点はプロセス的定義や非歴史的定義的な説明である。そういう訳で『ダーウィン 種の起源. 100分de名著』と『生き物をめぐる4つの「なぜ」』のどちらにしても、「長谷川眞理子『ダーウィン 種の起源. 100分de名著』でも繰り返し説明されている通り、「適応(的形質)」は進化の結果であり、進化の原動力ではない」と言えるほどの歴史的定義のみに関する繰り返しの記述は存在しない(私の見落としがある可能性もゼロではないが)。そしてこれは林氏自身がp.54で述べていた論理に沿うならば「本に書かれてもいない内容を勝手に都合よく捏造して引用する」に該当し得る。(一応補足するが、これは私が「林氏は捏造して引用している」と思っている訳ではなく、林自身が述べている論理に従えばそうなり得るという話である)。
📕『進化思考』を読んだので追記する。上では「確かに「進化が自然発生している」ことは「デザインやアートなどの創造性もまた、自然発生する現象」であることを特に含意しないので論理構造としては不適切である。」と述べたが、太刀川氏は「もし進化が自然発生しているなら、デザインやアートなどの創造性もまた、自然発生する現象と考えられるのではないか。」の直前に「創造と進化の壮大な論争の果てに、ようやく現在の進化論に実を結んだのである。創造的現象のように見える生物のデザインは、誰かによって作られた形ではなく、進化によって自然発生する現象だったのだ。」(『進化思考』p.276)」と述べているので、ここでの「もし進化が自然発生しているなら」というのはそのような「創造的現象のように見える生物デザイン」という意味が含まれていると読むのが自然であり、その場合論理構造としては特に問題はない。このように引用不足によって読者の解釈や読解が歪んでしまう部分が批判集には他にも多くあり、これは批評本としては致命的な問題だろう。
| 先に述べた通り、生物においては進化の結び目は発生しにくい。しか
| し、それでも創造と生物の進化は大変よく似ており、生物の進化でも
| 同じことが起こる。頻度の差は違えども、特に原始生物を中心に、実
| は生物にも「進化の結び目」は頻発しているのだ。
| 🔶近年のDNA解析によって、異生物間での外来遺伝子の交換がDNA
| に刻まれているという事実が確認されている🔶。たとえば、最強の
| 微生物といわれるクマムシをゲノム解析した結果、複数の生物界に由
| 来するDNAが大量に含まれていることが判明した。クマムシから発見
| された外来遺伝子は、細菌(一六%)、菌類(〇・七%)、植物
| (〇・五%)、古細菌(〇・一%)、ウイルス(〇・一%)のDNA
| で、研究者たちを驚愕させた。(p.287)
クマムシのゲノムに複数の生物由来のDNAが含まれるという研究は確かに発表された[44]。おそらく論文出版直後に掲載されたナショナルジオグラフィックの記事[45]をそのままコピー・ペーストしたのだろうが、この研究については翌年のうちにも複数の批判論文が寄せられ[46][47][48]、元の論文で外来遺伝子とされたもののほとんどが実験工程中のコンタミネーションに由来するものであったことが最終的に本人たちにも認められている[49]。このように2016年には既に決着のついている問題で、これも著者の不勉強である。ここでは「遺伝子の水平伝播」になぞらえて創造について何事かを主張したかったのだろうが、これもわざわざ生物に例える必要はないものだ。
※本稿執筆者注:「🔶」で挟んだ部分は本来下線あり
📕クマムシの例が実は実験ミスだったという指摘そのものは良いと思うが、「ここでは「遺伝子の水平伝播」になぞらえて創造について何事かを主張したかったのだろうが、これもわざわざ生物に例える必要はないものだ。」というのは別に妥当ではないだろう。ここ一帯で太刀川氏は創造の系統樹における異種間の融合(「進化の結び目」)の話をしており、生物においても類似的な現象として交雑及び水平伝播 (及びCRISPR-Cas9といった遺伝子導入技術) が存在し、それが生物進化全般に寄与しているのであれば、創造の進化においても同様に寄与しうると言えるし、また生物進化と創造の進化におけるその違いに着目することで方法論的に有効に働き得ることもあるだろう(「生物と創造の進化系統樹を対比したとき、特に違いが見られるのが交配だ」(『進化思考』p.286)、「この進化の結び目は、創造の系統樹では頻発するので特に注意を払って欲しい」(同 p.287))。
それと林氏は「おそらく論文出版直後に掲載されたナショナルジオグラフィックの記事[45]をそのままコピー・ペーストしたのだろうが」と述べているが、これはやや不適切であるように思う。たしかに林氏が引用しているナショナルジオグラフィックの記事を見ると「ゲノム解析の結果、全く異なる複数の生物界に由来するDNAが含まれることが判明した。その大部分は細菌(16%)のものだが、菌類(0.7%)や植物(0.5%)、古細菌(0.1%)、ウイルス(0.1%)のDNAもあった。」と書かれているが[143]、これは太刀川氏の記述と完全には一致しない。文章の骨子は同一であるので出典無しで記述しているのはやや問題であるが、少なくとも「そのままコピー・ペーストした」には当たらないだろう。個人の言葉の定義にもよるだろうが、「コピー・ペースト」と言ったときは多くの場合、元の文章を全く変えずにただ切り貼りすることを意味しないだろうか?また仮に文章の骨子・内容の大部分を流用するといった緩い意味で「コピー・ペースト」を定義していたのだとしても、「そのまま」という語が付いていたら多くの人は改変一切なしの切り貼りとして理解するように思われる。
| ではもし生物が進化に呼応して、本能的な欲求を進化させたのだとし
| たら、人間だけでなく他の生物種とのあいだにも同じ欲求が自然発生
| していることになる。(p.293)
まったく意味がわからないのだが、これは用不用のことを言っているのだろうか? ダーウィンの『種の起原』はまだ用不用の考えが完全に否定されていない時代の本なので用不用の記述が一部残っているが、現代の進化理解にこのような考えを持ち込むのはまったく筋違いである。
先ほども述べたが、当書ではこの文章のように「もし~~~だとしたら」という著者の仮定・仮説に対して「~~~であるはずだ。」という断言が来ることが非常に多い。そして、その仮説の根拠が示されることは決してない。著者の思い込みが出発点なので、結論もまた思い込みによる断言にしかなっていないものばかりである。
太刀川氏は単に本能的な欲求が適応進化したものであるならば、同様の適応的意義を持つ欲求は種間に渡って同じ欲求と見なすことができるということを言っているだけではないだろうか?「進化に呼応して」の意味が曖昧なのはそうだが、「適応進化の過程で」などというように読んでやれば、上で説明したように読むことは可能である。少なくとも用不用ではない気がする。用不用を言いたいならば「進化に呼応」ではなくて「必要性 (or目的) に呼応」などと表現するのが普通だろう。とはいえ、仮に太刀川氏がそういったことを言いたかったとしても、太刀川氏の記述には適応的意義 (または祖先的欲求?) に関する情報がないので、「本能的欲求の進化」と「種間で欲求形質が同じであること」の間に論理的なジャンプがある。したがって修正は必要だろう。
なお厳密に同じ欲求と見なせるかどうかは微妙で、もし系統的に過去から共有されてきたものであるならばある程度同じものであると見做せるかもしれないが、そうでないならば単なる相似と見なすのが妥当であるように思われる。しかし「欲求」を「生理的・心理的状態に応じた何らかの行動を促す精神作用」といったように機能的に定義するならば、細かいメカニズムは欲求の同一性にそこまで重要ではないかもしれない。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの引用部位の同ページ直前にダグラス・ケンリックらの欲求のピラミッドの話を引用して「これらの欲求の順番や分類は、生物が進化上で獲得してきた欲求に沿っていて、たしかに説得力がある。何より身体の進化によって生理的な欲求が生まれたという考え方はきわめて興味深いものだ。」(『進化思考』p.293) や「まず人間の欲求を思いつくかぎり羅列したうえで、生物の系統樹と重ね合わせる。すると、進化図のなかで、人間の欲求がいつ頃発生したのかを推測できることに気付いた。」(同 p.293) と述べており、また次の次のページ(p.295)で「ここに書いたのは系統樹から読み取れる欲求のごくごく一部だ。こうして分化するたびに生物は新しい欲求を獲得したと考えると、欲求の段階が自然と浮かび上がる。また身体の進化がなければ、それぞれの欲求は決して生まれなかった。私たちの生理的欲求は、系統樹から浮かび上がる理由と深い関係を持っていて、系統の発生には生理的欲求の発生も伴う。」と述べている。したがって、主張の妥当性はとりあえず置いておいて、ここの「生物が進化に呼応して、本能的な欲求を進化させた」にて太刀川氏が云っているのが、そういった進化の各段階ごとにその身体的形質に適した欲求が獲得され得るという話であることは非常に容易に読み取れる。申し訳ないが、これを読み取れずに用不用を持ち出すというのは、本の評者としては読解力不足と言わざるを得ない。
また、「先ほども述べたが、当書ではこの文章のように「もし~~~だとしたら」という著者の仮定・仮説に対して「~~~であるはずだ。」という断言が来ることが非常に多い。そして、その仮説の根拠が示されることは決してない。」とのことだが、これは不適切な批判であるように思う。例えば、林氏がここで「先ほども述べたが」で指しているのは「もし進化が自然発生しているなら、デザインやアートなどの創造性もまた、自然発生する現象と考えられる」(『進化思考』p.276) という太刀川氏の記述に対する指摘(批判集 p.55)のことなのだが、この「進化が自然発生しているなら」というのは特に説明なくても頷けるものであるし、そもそも太刀川氏はその前文において「創造的現象のように見える生物のデザインは、誰かによって作られた形ではなく、進化によって自然発生する現象だったのだ。」(『進化思考』p.276) と述べている。したがって、「その仮説の根拠が示されることは決してない。」という林氏の主張は明らかに誤りである。また他にも「もしiPhoneが電話機能のない月額制の電子手帳だったら、ほとんどの人は買わなかっただろう」(『進化思考』p.113) や「もし細胞分裂がわずか一回でも多ければ、私たちの身体はすぐに二倍の質量になってしまう」(同 p.94) といった記述を太刀川氏はしており、これらも条件文の妥当性に関しては特に問題ないだろう。また、林氏が批判集p.48で指摘していた「この言語と遺伝子の類似性こそ、言語によって人が道具を発明し、自らを進化させられた理由だと考えると、創造と進化が類似している謎が氷解する。」(『進化思考』p.80) に関しては、前提の妥当性そのものは低いが、これも一応前提の説明はされている訳なので (「言葉で相手の考えを一〇〇%理解するのは不可能で、私たちはつねに誤解しながらエラーを許容して生きている。誤解は、交配時のDNAのエラーと同じような性質を持つ。言語のエラーは創造にとっての進化的変異であり、創造を生み出す源泉になっている。」(『進化思考』p.82))、「その仮説の根拠が示されることは決してない。」というのは誤りである。したがって、やはり林氏の主張は極端な決めつけによる不適切なものであるように思う。少なくとも「非常に多い」「その仮説の根拠が示されることは決してない」などと量的に強い主張をするのならば、もう少し例を挙げて説明すべきではないだろうか?なんなら、ここのp.293の欲求云々に関しても太刀川氏は一応その後に具体例を挙げて説明している訳なので (「「二億二五〇〇万年前から「子を大切に育てたい」」:哺乳類になった後は、親密な親子関係による育児が生存のひとつの前提となった」(『進化思考』p.294) など)、林氏の云っていることに完全に当てはまる事例は1つも挙げられていないのである。
| 「欲求の系統樹」の思考は、私たちが自分ごとのように自然を理解
| し、自然との共生のために不可欠な視点を持ち得るものだ。たとえ
| ば、私たちは🔶ペットに対して慈しみの愛情を感じる🔶が、これは
| 自分とペットに共通する欲求による共感的な感情と考えられる。
何を言いたいのかがまったくわからない。著者はペットに対して慈しみの愛情を感じるのかもしれないが、みんながみんなペットを飼っているわけでもない。個人的な感情を勝手に普遍的なものとしてとりあげるばかりで生物進化に何一つ関係がない。
※本稿執筆者注:「🔶」で挟んだ部分は本来下線あり
人間が他生物種に対して慈しみの感情を持つ傾向にあるのは、その生物種と共通する欲求を介して共感的感情が生まれているからというのは誤りであると思うが、ペットを例示することそのものについては特に問題ないだろう (なお他生物種の赤ちゃんに対する人間の庇護欲はその動物の親のそれと似たものである可能性はあるが、それは別にその動物の親と共感していることを意味しない)。林氏は「みんながみんなペットを飼っているわけでもない」と言っているが、人間が他生物種に対して慈しみの感情を持つことは一般的な傾向として十分認められることであり、それが顕著なペットを例示したというだけの話であろう。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、この辺は直前から「身体の進化とともに生理的欲求が系統的に発達したとするなら、系統発生を見ることによって、人間だけでなく、さまざまな生物が内在的に持っている本能的欲求を推測でき、共感できるかもしれない。それが「欲求の系統樹」の考え方だ。」(『進化思考』p.295) といったような話をずっとしている訳なので、太刀川氏は別に個人的な話ではなく人間一般の共感可能性の話をしており、そして実際例えば人はペットに共感的な感情を持つよね、という身近な例をここで出しているということは容易に読み取れる(なお上でも述べたが、ペットに対する感情はそのペット種の親等が持ち得る感情という意味で共感"的"ではあるものの、厳密に共感である訳ではない)。そういう訳で内容に納得できるかどうか置いておいて、もしこれを読み取れないのであれば、申し訳ないが本の評者としては読解力が不足していると言わざるを得ないだろう。
| 🔶有性生殖の生物はすべて「モテたい」で共感できる🔶し、哺乳類
| はすべて「一人ひとりの未熟な子どもを大切に可愛がりたい」で共感
| できる。だからこそ、こうした視点で自然界の生態系を見直すことで
| 私たちはペットなどに共感できるように、🔷人間以外の種の「気持
| ち」を理解🔷し、共感関係を結ぶことができないだろうか。(p.295)
有性生殖の生物は繁殖のため、自らの遺伝子を残すために異性を獲得しようとはするだろうが、それを「モテたい」と表現するのはあまりに擬人化が過ぎる。このように擬人化された視点で自然界の生態系など見直すことができるはずもない。また「人間以外の種の「気持ち」」とはなんだろうか。生物多様性保全のアプローチに共感関係は不要だ。生態学の教育を受けていない方々からの外来生物の駆除事業に対する「かわいそう」という声も少なくない。このような安易かつ無責任な擬人化はむしろノイズにさえなるだろう。
※本稿執筆者注:「🔶」or「🔷」の同色で挟んだ部分は本来下線あり。二色あるのは一色だけだと複数下線存在時に下線箇所が分かりづらいゆえ。
「モテたい」という表現に何も問題がないかと言えばそうではないと思うが、別に「擬人化が過ぎる」と言うほどのことでもないだろう。また「このように擬人化された視点で自然界の生態系など見直すことができるはずもない」とのことだが、これも別に全く的外れというものでもないように思う。人類はこれまで長い間、人間以外は高度な知性を持たず、他の多くの生物は反射的・機械的に行動しているだけという考え方を保持してきたが、昨今そういった考え方が誤りであることが分かってきている (例えば魚類であるホンソメワケベラが意識を持つ可能性が示唆されている[17])。そのような生物の意識的側面の解明によって人間の自然に対する認識はいくらか変わりえるし、そういった観点で生態系を見直すことも可能だろう。そしてその見直しに全く価値がないということもないと思われる。
また「生物多様性保全のアプローチに共感関係は不要だ」とのことだが、なぜいきなり生物多様性保全の話が出てきたのかよく分からない。引用外の部分で太刀川氏がそれについて語っているのだろうか?もしそうであるならばそれが分かるように引用すべきである。また「安易かつ無責任な擬人化はむしろノイズにさえなる」とも言っているが、そういったマイナス面だけでなくプラス面があることも無視できないだろう。共感的感情が生物多様性保全に必要であると一概には言えないが、実際のところ共感的感情に起因している部分もあるのは確かであろう。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、生物多様性云々については太刀川氏は『進化思考』p.296にて「このように、「欲求の系統樹」から系統全体を視野に入れてその根本を理解すると、人間社会だけでなく、広大な生態系との共生へのヒントがたくさん見えてくる。そもそも私たちは、人間以外の生物に共感することが苦手だ。しかし生物多様性が急速に失われている現在、私たちにはさまざまな生物や自然への共感が求められている。」と述べているので、林氏が言っているのはそれである。また、「生物多様性保全のアプローチに共感関係は不要だ」や「安易かつ無責任な擬人化はむしろノイズにさえなる」といった主張に関しては、進化生態学者である深野祐也氏がついこの間(2026/2/2)「気もち」と自然保護の関係性に関する記事をみすず書房のオンラインマガジンにて書いており[144]、そこでは「これまで世界中で行われた研究を整理すると、保全政策支持の強力な予測因子となるのは「自然をどう捉えているか」や「生物の好き嫌い」であると報告されています(20)。この報告によれば、「人間と自然は比較的同等と考える人」や「自然や保全の知識がある人」がとくに保全政策を支持しやすいそうです。つまり、自然への共感という気持ちは、科学的な知識に劣らず、保全政策の推進に重要、というわけです。」といったように自然への共感には環境保全にプラスに働く面があると述べられている。
| たとえば、🔶ギガンテウスオオツノジカは、50キログラムにもなる
| 重さの角を持っていたが、その角の形成にカルシウムを消費しすぎ
| て、 7700年前に絶滅したといわれている。また、ユミハシハワイミ
| ツスイという鳥は、特定の花に合わせて、とても長いくちばしを発達
| させたが、その花の生息地が消滅したと同時に絶滅してしまった。こ
| うした行き過ぎた進化は、現在の進化生物学ではランナウェイ現象と
| 呼ばれている🔶。(p 326)
ギガンテウスオオツノジカの絶滅に関する記述は明確に誤りだ。もし、その角が原因で絶滅するようならそのような形質はそもそも進化しない。この絶滅に角の進化は一切関係ない。7700年前に絶滅したのは、気候変動による生息域の減少と人類による狩猟圧が要因であるとされている[50]。また、後半に続く文章もランナウェイ説の説明としてまったく不適切である。性選択の結果、生存に不利とも思えるような極端な形質が進化しうるメカニズムを説明した仮説のひとつをrunaway process と呼ぶ。ここでオオツノジカを例として挙げられたような「それ自体が絶滅にも至るような行き過ぎた進化」はそもそも存在しないし、ユミハシハワイミツスイの例もいわゆる普通の適応進化の一例であってrunaway process の例として挙げるべきものではない。runaway processの一例として、たとえばアフリカに住むコクホウジャクという鳥の研究を挙げておく[51]。コクホウジャクはスズメほどの大きさの小鳥だが、オスの尾羽はしばしば50cmほどにも伸長する。Anderssonは、一部のオスの尾羽を切り取り、別のオスに接着剤で取り付けさらに長い尾羽のオスを人為的に作り出した。その結果、尾羽を切られたオスの繁殖成功は下がる一方、余計に長い尾羽を手に入れたオスは通常の長さの尾羽を持つオスたちよりもさらに高い繁殖成功を示した。このように、自然下では長すぎてかえって邪魔になり存在しないレベルの尾羽に高い繁殖成功が見られたことは、メスが尾羽の長い個体を選ぶという性選択の効果が示されたものだ。
※本稿執筆者注:「🔶」で挟んだ部分は本来下線あり
💛「もし、その角が原因で絶滅するようならそのような形質はそもそも進化しない」という林氏の主張は誤りである。ある特定の環境において適応的だった形質がその後の環境の変化で非適応的となる可能性はありうる。これは性選択に限らず自然選択においても同様である。また環境の変化が絡まなくとも、進化的自殺 (evolutionary suicide) においては後に集団の絶滅に絡む形質が進化しうるとされている。
また、太刀川氏のrunaway processの解釈が間違っているのはその通りである。ここの引用部位直後に太刀川氏は「速すぎる車を運転できないのと同じで、狭い範囲での行き過ぎた競争は時に絶滅に直結する。」(『進化思考』p.326) と述べていることから、おそらく太刀川氏は絶滅に至り得るような諸々の意味で極度な適応進化をランナウェイ現象と見做しているのだと思われる。そして、「性選択の結果、生存に不利とも思えるような極端な形質が進化しうるメカニズムを説明した仮説のひとつをrunaway process と呼ぶ」という林氏の説明そのものは正しい。しかし、その後の「runaway processの一例として、たとえばアフリカに住むコクホウジャクという鳥の研究を挙げておく[51]。」という記述は不適切であるため、本当の意味でrunaway processを理解しているかは怪しい。その[51]の研究でAnderssonが示したのは単に「自然下に存在する程度を超えたものも含めてより長い尾羽を持つ雄のことを雌が(おそらく)好み、その結果そういった雄が高い繁殖成功を得る」ということに過ぎず、これは配偶者選択を通した性淘汰を強く示唆するものの、runaway processを示してはいない[145]。runaway processの肝は「雌の選好性」と「雄のその選好対象の形質」の共進化であるため、これを言うためには雌の選好性に遺伝的な分散があることや、雌の選好性と雄の形質の遺伝的相関、及び雄の形質が正直な信号か否かなどを見る必要がある(最後のは必須ではないが、もし仮に正直な信号でなければrunaway processである可能性は高まる)。なお、コクホウジャクは長い尾の他にカロテノイド色素による赤い羽根を肩に持つが、コクホウジャクと近縁であるアカエリホウオウ(この種も雌の選好性に寄与する長い尾を持つ)においては同様の赤い羽根(こちらは襟巻状)が雄間の縄張り争いに寄与していることが分かっている[146]。またアカエリホウオウにおいて赤い襟巻と尾羽の大きさにはトレードオフの関係にあることも分かっており[146]、これはアカエリホウオウにおいては長い尾が正直なシグナルである可能性を示唆する (Pryke & Andersson (2005) ではアカエリホウオウの尾羽がハンディキャップ仮説に基づくものである可能性も挙げている[147])。したがって、もしコクホウジャクにおいても同様に尾羽が正直な信号であるならば、長い尾羽の進化はランナウェイプロセスによらずとも発生し得る(なお、Pryke & Andersson (2002) では、比較的短い尾羽(7cm)を持つ種であるアカガタホウオウジャクにおいても尾長変更実験によって同様の結果が得られており、これは長い尾に対する雌の選好性が近縁一般に存在する可能性を示唆する[148])。そしてもし仮にランナウェイプロセスによるものでないならば、「runaway processの一例として、たとえばアフリカに住むコクホウジャクという鳥の研究を挙げておく[51]。」という林氏の記述は単に論文から言えることを超えたことを主張しているだけでなく、全くの誤りであることになる。また少なくとも論文から言えることを超えたことを述べていることに関しては、林氏自身がp.54で述べていた論理に沿うならば「本に書かれてもいない内容を勝手に都合よく捏造して引用する」に該当し得る。(一応補足するが、これは私が「林氏は捏造して引用している」と思っている訳ではなく、林自身が述べている論理に従えばそうなり得るという話である)。
また、細かい指摘になるが、林氏は「メスが尾羽の長い個体を選ぶという性選択の効果が示された」と述べているがこれは正確には誤りである。「メスが尾羽の長い個体を選ぶという配偶者選択(または選好性)の効果が示された」または「メスが尾羽の長い個体を選ぶことを通じた性選択の可能性が示された」が正しい。「性選択」は繁殖機会を巡る競争を通じて生じる選択 (selection) のことであって、配偶相手を選択 (choice) することを意味する訳ではない。また配偶者選択は性選択という進化プロセスの一要素であって、性選択の部分集合 (サブセット) ではない。
そういう訳で、林氏は全体的に「ランナウェイ仮説」や「配偶者選択」「性選択」といった概念をよく理解していない可能性が高いように見える。また、ついでに言うと「その結果、尾羽を切られたオスの繁殖成功は下がる一方、余計に長い尾羽を手に入れたオスは通常の長さの尾羽を持つオスたちよりもさらに高い繁殖成功を示した。このように、自然下では長すぎてかえって邪魔になり存在しないレベルの尾羽に高い繁殖成功が見られたことは、メスが尾羽の長い個体を選ぶという性選択の効果が示されたものだ。」という一連の記述も怪しい。「高い繁殖成功が見られたことは、 ~(中略)~ という性選択の効果が示されたものだ。」という日本語が不自然であるため、林氏の意図が今一分からないのだが、もし仮にこれが「尾が長い雄ほど高い繁殖成功を得られたことは、尾の長い雄を選ぶという雌の配偶者選択を通した性選択が働いていることを示す」という意味であれば、それは推論として誤りである。なぜなら当たり前だが高い繁殖成功に寄与するのは雌の配偶者選択だけではないからである。例えば今回のような場合、長い尾羽が雄間の縄張り争いにおいて有利に働く可能性や尾羽が長いほど雄の求愛行動の頻度が増加する可能性もあり得る。しかし、実際にはAnderssonはその論文においてそれらの可能性も考慮しており、そういった別の可能性を支持する結果が出なかったことを以って、雌の配偶者選択を主たる要因として結論付けているのである(ただ、長い尾による雌からの発見しやすさが効いている可能性も残している)。したがって、尾羽が長い雄が高い繁殖成功を得たことから雌の配偶者選択を通した性選択の働きを即結論付けられるかのような林氏の推論は誤りである。ただ、もし仮に件の記述が「尾が長い雄ほど高い繁殖成功を得られたのは、尾の長い雄を選ぶという雌の配偶者選択によるものである(ゆえにそれを通した性選択も働いているだろう)と、この論文では結論付けられている」という意図のものであるのならばその意図そのものは問題はない。しかしそれが十分に読める文章にはなっていない。また「尾が長い雄ほど高い繁殖成功を得られたのは、尾の長い雄を選ぶという雌の配偶者選択を通した性選択によるものであると、この論文では結論付けられている」というように高い繁殖成功という結果そのものの進化的背景を述べる意図も考えられるが、これも意図そのものは問題ないが、それが十分に読める文章にはなっていない。
| 地球史に登場した一〇〇〇万種類の生物のなかで、🔶人間だけが膨
| 大な道具を発明できたのは、人類のみが言語を発明できた🔶からで
| はないか。デザインと言語の類似性を研究していた私にとって、この
| 仮説は深く腹落ちする。(p.79)
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
また、「人間だけが膨大な道具を発明できた」というのは間違いだ。道具を使う生物は人間以外にもいる。Animal Tool Use(動物の道具利用)というテーマで一つの学問分野があるくらいだ。また、「人類のみが言語を発明できた」も誤りだ。シジュウカラの鳴き声には文法があることが最近明らかにされているし、その文法を異種間でも共有して理解しているようだ、という研究成果が日本から発表されている[53]。
※本稿執筆者注:「🔶」で挟んだ部分は本来下線あり
💜道具を使用する生物が人間以外にも存在するのは確かだが、”膨大な”道具を発明できたのは人間だけだろう。何も問題はない。林氏は本当に文章をよく読んだ方がいい。
またデザインと言語の類似性云々に関しては、個人的にはデザイン (創造性) と進化の類似性以上に隔たりがあると思うが、言語が人間における道具の発明に関係していることそのものは確かだろう。なお、「人間だけが膨大な道具を発明できたのは、人類のみが言語を発明できたから」に対してシジュウカラの囀りの話を持ってくるのはやや不適当である。確かに鳥類の囀りと人間の言語の類似性についての研究は存在するが、鳥類のそれは結局人間の言語とは大きく異なる。なぜなら学習によって際限なく語彙を増やすこともできないし、記号と指示対象の結合を自由に行うこともできないし、文構造を自由に拡張することもできないからだ。確かに「言語」の定義によっては鳥類等のそれも言語に該当しうるが、少なくとも膨大な道具の発明に必要な程度の高度な言語を発達させたのは現状人間のみである。
| 生物の解剖と家庭科の料理の材料を並べる思考プロセスは同じだ。
| (p.212)
著者は生物の解剖も料理もしたことがないのではないだろうか。両者はまったく異なるものだ。料理は並べた材料を組み合わせ、処理して一つの目的物を作成していくプロセスだが、生物の解剖は切り分けてそれぞれの部位を観察、場合によっては標本として固定していくプロセスである。これを同じと考える人は多くないだろう。
なぜ料理で例えようと思ったのか、また具体的にどのように同一なのかの文脈が今一分からないが、少なくとも引用範囲を見る限りでは、太刀川氏は「料理の材料を並べる思考プロセス」と言っており、それは林氏の云う「料理は並べた材料を組み合わせ、処理して一つの目的物を作成していくプロセス」とは別物である。「並べる」とだけ言っているところに、なぜ「組み合わせ、処理して一つの目的物を作成していく」ことを足したのだろう。見えた単語から適当に意味を想像するのではなく、文章全体をよく読んで欲しい。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はここの引用部位の前後で「時空間学習」に関して「実際に、この四つの観点は既存の教科にも応用できる。もっといえば、昔も今もカリキュラムの良し悪しによらず、優れた教師は暗黙的にそれをやってきたはずだ。」(『進化思考』p.212) や「しかし、そこには共通の体系がないため、同じ考え方を違う教科でまったく違う方法で教えてしまっている」(同 p.212) と述べている。したがって、ここの料理の話はそういったものの例示として、家庭科の授業において優れた教師は材料間の連関を踏まえた上手い並べ方の思考プロセスを既に教えているが、実はこれは生物の解剖において構成要素間の連関を考えて解剖していく思考と同一であり、しかし、現行の教育ではそういった「解剖的な思考」一般を教えている訳ではないので応用可能性が低いということを言っているように思われる。そういう訳で料理の材料を並べる思考プロセスが実際に解剖のそれと実際に同一かどうかは分からないが、少なくとも今重要なのはそういった材料の並べ的な思考な訳なので、「材料を組み合わせ、処理して一つの目的物を作成していくプロセス」という別の要素のみで指摘するのは不適切であるように思う。並べの思考プロセスとともにその辺の差異について語ったり、並べの思考プロセスについて比較した上で補足としてその辺も述べたりするのならば分からなくもないが、それのみで批判を構成するのは筋が悪い。また、実際に同一かどうかについては「同じだ」というのはさすがに言い過ぎだと思うが、全体ー構成要素の操作という観点で多少類似しているのは確かなので、「似ている」程度であればいくらか許容されうると思う。
| 分類学は、系統全体を一つの生物の身体と考えて解剖する学問だと言
| い換えてもよい。(p.267)
まったく完全に間違っている。分類学は、生物のグループを認識し、その特徴を記述してその他と区別し、一定のルールに基づいて生物を命名することで、どの言語においても共通の名前(学名)として認識を共有し、議論できるようにするための学問である。分類学は分類の基準を構築し整理する学問であり、系統関係を考慮しない(してもいいけどしなければならないわけではない)。
📕太刀川氏は引用部位の直前で「分類の思考(WHATの系統)は、解剖で触れた形態学(WHATの解剖)の思考とよく似ている。考察の対象が内部か外部かという観点が違うだけで、「それは何なのか(WHAT)」を定義して分類するという点では、探求の方法は同じだ。」(『進化思考』p.267) と述べているので、外部の分析を「解剖 (内部分析)」的に見るために「一つの生物」という箱を比喩的に用いたのだろう。また箱になりうる候補はいくつもあるだろうが、解剖パートとの繋がりでこちらも「生物」を用いたのだと思われる。そういう訳でこの辺はあくまで比喩的な話であるし、またそう考えることがまったく完全に間違っている訳でもないと個人的には思う。また、やや似たような話として生物系統学者の三中信宏氏が系統樹を四次元の「時空ワーム」と見做したりもしているので[149]、もしかしたら太刀川氏はそれを意識していたのかもしれない。(三中氏は垂直に伸びる時空ワーム(系統樹)を水平に切断したときの切断面に特定の時間点における「分類」が現れるといったような話をしている。「時空的な連続体(時空ワーム)である系統樹をある特定の時間平面で切断することにより、時間軸をもたない分類体系のマップとして視覚化することができる。」(『系統樹曼荼羅』[149] p.32)、「一般に系統樹とは、直観的にいうならば、一本の「幹」とそこから分岐するたくさんの「枝」によって形づくられている。したがって、系統樹を切断すればその切り口には大小の「円」がみえるはずである。分類パターンはこれらの「円」の配置の様相だと解釈すればよい。」(同 p.32) など。このように時空ワームといった生物性だけでなく、系統樹の切断面に分類を見分けていく点も太刀川氏の云う「解剖」とそれなりに親和性があるように見える。なお、この『系統樹曼荼羅』は『進化思考』巻末の参考文献欄に挙げられており、太刀川氏がこの辺の時空ワームのくだりを読んでいた可能性はそれなりにある)。
当書のような根拠薄弱な思い込みによって教育に口を出し、ここまで解説してきた通り完全に間違った進化の理解を広められることに生物学者として強い危機感を覚える。
💛ここまで批判集を読んできたが、部分的な誤りはそれなりに存在するものの、太刀川氏の進化への理解が完全に間違っているとは特に思わなかった。何度も指摘した通り林氏は「適応」についてよく理解していないし、「変異」についても太刀川氏の主張を読み取れていないだけのように見える。また他にも生物学的・論理的・読解的に誤った記述が多く見られ、こういった誤りの量・質は批判本において一般に許容されるそれを優に超えている。しかもこの第二章は批判集の中でも特に生物進化について詳説するパートであり、そうであるのにこの誤りの多さとなれば、残念ながらその目的は十分に果たせていないと言ってよいだろう。
またここで自身で言っているように林氏は博士号持ちの生物学者であり、それとデザイナーが書いたビジネス本を批判するという文脈も踏まえると、林氏が述べていることを無批判に受け入れてしまう人は多いだろう。だからこそそういった批判本の作成には高い正確性が求められるのである。批判集を読んで納得したつもりになってしまった人が本稿を読んでその妥当性を再検討していただければ幸いである。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、「変異」に関してもほぼ間違いなく林氏の誤読による不適切な批判である。太刀川氏は単に形質や創造に関する変異の類型パターンについて述べている。
また、著者は松井と伊藤(2022)による批判が公開されたあとも、指摘された間違いを修正することなくセミナーを開催して高額の参加費を徴収しているようだ。このような科学的な誤りに満ちた内容をセミナーやメディアを通して拡散し続けるとして続けるのは似非科学を用いた詐欺的商法であると批判されても仕方のないことだろう。
💛一応ここで述べられている「『進化思考』批判–文化進化学と生物学の観点からの書評と改訂案–」[18]を確認したが、そこで言われている指摘の大体は本稿で無効化されている (例示的な細かい知識やヒューマンエラーの分類については適切な指摘だと思うが、これらは別に太刀川氏の主旨を大きく否定するものではない)。またそもそも林氏はセミナーの内容を確認したのだろうか?もし特に内容を確認せずに、「進化思考」のセミナーを開いているということだけを以って「間違いを修正することなくセミナーを開催して」と言っているのであれば、それはだいぶ問題があるだろう。
また先ほど進化思考関連の経緯をいろいろ調べていたところ、『進化思考』を批判する林氏のブログ記事「『進化思考』における間違った進化理解の解説」[19] (このブログを加筆修正したのがこの批判集第二章である[150]) に関して太刀川氏に「とある心優しい進化生物学者」からコメントが来ていたことを確認したが[20]、そこでは以下のように「適応」の定義について本稿で指摘したこととほぼ同様の指摘がされている。
本書の一番の問題は、扱いが難しい「適応」という単語をその場その場で都合よくいいかげんに使用していて、進化生物学における「適応」の意味で使われていないところです(このことは後述します)。本書における「適応」を「選択」と読み替えればそれなりに読めないことはないのですが(それでも間違っているけど)、この単語のブレブレ具合が本書の進化理解の致命的なところです。
>>> 適応と言う概念は、進化学的には難しい概念であることはそのとおりです。ただ、批判者、適応を結果としてとらえる定義(それは間違いではありません)を採用しているので、プロセスとしてとらえる定義を採用していません。以下は、外国で使われている進化の教科書での定義です
集団における遺伝的変化のプロセスで、自然選択の結果、集団が何らかの環境に適した状態になったと考えられること。
(Futuyma, D. & Kirkpatrick, M. Evolution (forth edition). Oxford University Press, 2018).
とあります、この定義だと遺伝的変異が自然選択によって集団中に広がっていくプロセスを適応としています。この定義だと「変異と適応」でも必ずしも間違いとはいえません
※本稿執筆者注:第一段落は林氏のブログから引用したもの。それ以降の「>>>」に続く部分が「とある進化生物学者」による指摘
そしてそのコメント集を確認した趣旨の発言を彼は以下のようにX (旧twitter) にて行っているが [21]、その1年以上後に出版された批判集において「適応」に関する彼の主張は一切変えられていない。
進化思考著者のSPAMメッセージによれば国立大進化生物学教授らしいのですが、査読のレベルに達してません。僕に誤解があると勝手に読み取られていますが、こちらの解釈では「オレサマ定義をどこかに書いておけば問題ない」としかフォローできておらず、僕の指摘への反論になっていないと考えます。 pic.twitter.com/DIHvVqPnem
— かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所 (@kamefuji) July 30, 2022
私にはどう考えても林氏に誤りがあるように見えるのだが、彼は自分の主張は間違っていないと考えているのだろうか?林氏は誤りを指摘したのに訂正せずに有料セミナーを行うことを詐欺的商法と言っているが、それで詐欺的商法と言われるならば、私からすれば林氏も同様に「詐欺的商法」をしているように見える。自らの主張の誤りを訂正せずに、それを「当書の最大の誤り」(p.26) など含め、多くの箇所で繰り返し誤りであると述べる本を出版している (ように少なくとも私からは見える) からである (一応林氏はゲスト参加的な立ち位置ではあるが)。また適応の定義以外にも私には十分に納得できる指摘が「とある進化生物学者のコメント」にはいくつも存在するが、それらに関しても訂正されていないものが多い (例えば、p.40の優生学云々に関して本稿で行ったものと同様の指摘がされているのに、その後の批判集において林氏の主張は一切変わっていない)。
なお「適応」の定義云々については、松井氏と伊藤氏も同様に自身に不都合な情報を見て見ぬふりしている可能性がある。詳しくは本稿最後の「終わりに」を参照。
この調子で一つ一つの事例について指摘していくと本当にキリがないのだが、
• 「変異」になんらかのパターンがあると考えている
• 「適応」を「選択(または淘汰)」の意味で使っていることが多く、場
面によって意味がバラバラ
• 「進化」なのに「遺伝」のプロセスがまるまる抜け落ちている
• 「進化」と「進歩」の区別がついていない
というところが当書の「進化」の理解に関する主な問題点である。
💛これらについては既に上で反論してきたが、改めて説明する。
一つ目の「「変異」になんらかのパターンがあると考えている」に関しては、変異の類型的パターンは存在するし、もし林氏が時系列的な発生パターン (次にどのような変異が発生するか) や環境相対的な変異パターン(生物が生息環境で有利な変異を偏って発生させている)といったことに関して言っているのであれば、それは太刀川氏の主張を読み違っているように思われる。
二つ目の「「適応」を「選択(または淘汰)」の意味で使っていることが多く、場面によって意味がバラバラ」に関しては、既に何回も指摘したが、林氏が「適応」の定義として歴史的定義の一つしか知らないことによるものであり、非歴史的定義やプロセス的定義を取るならば太刀川氏の主張にそれほど問題はない。とはいえ、選択のことを言っているように解釈できる場面があるのも確かであり、分かりづらい部分は修正したほうが良いように思われる。
三つ目の「「進化」なのに「遺伝」のプロセスがまるまる抜け落ちている」ということに関しては、太刀川氏の文章を読めば彼が遺伝のプロセスを全く理解していないとは言えないことは容易に分かる。林氏がただ「変異×適応」という表面的な表現に捉われているだけである。なお太刀川氏が「変異×適応」という表現を使っているのは、「進化思考」という行為論において遺伝という土台的前提の重要性が相対的に低いため、説明の分かりやすさを重視した結果の省きであると思われる。
四つ目の「「進化」と「進歩」の区別がついていない」に関しては、これも林氏の勘違いであり、太刀川氏は進化と進歩の区別は一応ついているように思われる (とはいえ一部怪しい部分があったり、また表現的に誤解を招きかねない部分があるのは確かなのでその辺は訂正することが望ましい)。
以上のように林氏の主な指摘はどれも不適切性をもつ。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、「変異」に関してもほぼ間違いなく林氏の誤読による不適切な批判である。太刀川氏は単に形質や創造に関する変異の類型パターンについて述べている。また「適応」に関しては、ネット上の断片的な情報を見る限り、どうやら増補改訂版では適宜「選択」に置き換わっているようだ。
「進化」の理解以外のところについては、生物とデザインについて無理矢理こじつけているだけという印象がぬぐえない。「生物の形態に学ぶ~」とだけ言っておけばいいところに「進化」を持ち出さなくてもいいだろう。発想法の自己啓発本としても、たとえば古典だが梅棹忠夫著『知的生産の技術』[56]の方がコンパクトにまとめられているし、発想法の技術についてもオズボーンのチェックリストも含めて読書猿著『アイデア大全』[57]でほとんど網羅されている。発想法を生物進化にこじつけたところに新規性を主張しているのだと思うが、内容に目新しさはなく、ここに解説した通りその生物進化の理解も完全に間違っているので発想法の自己啓発本としても生物進化の本としても見るところのない一冊になっている。
📕太刀川氏は生物進化と創造に類似性があり、頭の中でのアイデア錬成過程 (及びプロダクト生成レベルのトライ&エラー) にてそういった進化の構造を方法論的に生かせるという話をしている訳で、単に生物の形態の真似をしている訳ではない。もしそういった意図が全く読み取れずに「「生物の形態に学ぶ~」とだけ言っておけばいいところに「進化」を持ち出さなくてもいいだろう」と言っているのであれば、申し訳ないが林氏は『進化思考』の主旨を全く読み取れていないと言っても過言ではない (無論それは評者としては力不足であることを示す)。また、既存の発想法を生物進化でこじつけただけで新規性がない云々についても、何らかの観点で発想法を統一的に理解・整理できるのであればそれには十分に価値があるし、発想そのものにおいてもアナロジーというのは十分な有効性を持つだろう。
| 私たちはだれしもさまざまな経験を積み重ねるなかで、徐々に固定観
| 念を積み重ねていく。カサエルの言う通り、人は自分の物差しでしか| 物事を測ろうとしない。そうすると、そのモノが何で構成されている
| のかに無自覚になったり、周囲の繋がりに気がつかなくなったり、過
| 去からの恩恵に目が向かなくなったりする。思い込みの発生だ。思い
| 込んでしまうと、わかったつもりになって、実はわかっていない自分
| に気づかなくなる。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
| 創造的であるには、世の中に張り巡らされている見えない本質を観察
| して、自分だけの思い込みを外す方法を培う必要がある。(p.207)
ここに書かれたように、著者が積み重ねてきた進化に関する固定観念を見直し、「自分だけの思い込みを外す」ために進化生物学をきちんと学びなおしてほしいと切に願う。学生時代を終えてしまい、なんだかんだと忙しい立場の学び直しには、本稿でも紹介した放送大学の「生物の進化と多様化の科学」の受講をお勧めしたい。普通の大学の講義であれば1コマ90分だが、放送大学ではなんと1コマ45分という半分の時間によく練られた講義が用意されている。動画での受講なので1.5倍速再生でもストレスなく聞くことができる。短時間で学び直しを目指すには最高の教材であると自信をもってお勧めする。
ここまで指摘してきた通り、林氏も生物学に関して理解していないことが多くあるので、彼も学び直した方が良いと私は思う。
📕『進化思考』を読んだので追記する。林氏の指摘には生物学的・論理的・文章読解的誤りが非常に多い。そして、そういったような誤りが存在するという話を批判集出版一年以上前から太刀川氏がしていたにも関わらず、林氏は批判集において十分な内容の修正(またはどのように太刀川氏の反論を否定できるかの説明)を行っていない。また、以下のツイートのように自身の理解に絶対の自信を持っているかのような発言もしている[151]。一方、太刀川氏は最終的には正誤表による訂正や増補改訂版の出版によって自らの誤りの修正を行っている。したがって、私には林氏の方がよっぽど思い込みや固定観念が強いように思える。また本稿公開後も林氏からは間接的なものも含め一切の応答がない。当時あれだけ太刀川氏の誤りを繰り返し強く批判していたのに、自らへの批判に対しては応答しないというのはどうなのだろう?それとも私の指摘のほぼ全てを否定し切れると思っているということなのだろうか?
なおこちらもツイ消しされてしまいましたが、当方といたしましては対話したところで進化思考の進化理解が完全に間違っていることが揺らぐわけでもないので、対話の必要性を感じていません。 pic.twitter.com/aibfUy2PYh
— かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所 (@kamefuji) July 24, 2022
| 本当に創造的な人は、より良い方法があれば自分のアイデアを即座に
| 捨て去り、他者のアイデアであっても躊躇なく採用する。こうした創
| 造的成長は、適応の判断に客観的自信を持てるかと、変異的思考によ
| って代案をすぐ出せる自信を持てるかにかかっている。(pp.72-73)
「この本が生物学的に矛盾がないことはとても大事」[11]という著者のコメントには強く同意する。しかし、本稿で解説してきた通り当書に書かれている「進化」は生物学における進化とは全く異なる「太刀川進化」とでも表現すべき特殊概念である(よくある誤解ともいう)。「今西進化論」や「千島学説」など、これまでも提唱者の名前を冠した主張はある。そこで、当書における進化を「太刀川進化」、変異を「太刀川変異」、適応を「太刀川適応」とし、生物学とは全く異なり矛盾もしない新たな概念『太刀川思考』として提唱するのが最適な改訂方法ではないかと代案を提案して本稿の結びとしたい。
💛よくここまで馬鹿にできるなと思う。ここまで指摘して来た通り林氏の指摘には、進化に関する不理解・論理的誤り・誤読が多く含まれており、林氏が思うほどには太刀川氏の問題点は大きくない。また既に似たようなことを指摘したが、ここで「よくある誤解」と言っているように、林氏は太刀川氏の主張を読み取ろうとする努力をせずに、表面的な言葉だけを拾って、太刀川氏を「典型的な進化への不理解」の型に当てはめている節が強いように見える。そしてそれは批評者(および研究者)が持つべき姿勢とは真逆のものである。
なお、今直近で引用した二つの林氏の文章は「以上、ここまで『進化思考』の進化理解について間違っているところを指摘し解説してきたが、本文中にいくつかいいことを言ってるところがないわけでもないので、最後にその部分を紹介したい」(p.62) という非常に皮肉的な文章から始まっている (太刀川氏のことを肯定するのかと思いきや、結局太刀川氏自身の言葉を使って太刀川氏を批判している)。これを見ても林氏がどのような目的でこの論稿を書いたのか色々察しがつくものである。そして少なくともそれが「対話」ではないことは確かであろう。(後半は林氏への人批判が多くなってしまったが、あまりにも彼の態度が酷かったので敢えてそういう批判をした)。
3 山本七平賞選評を読む (伊藤 潤)
私は、生物の進化という現象を研究する進化生物学者の一人である。
本書の著者は、そのような進化生物学者ではない。つまり本書は、題
名から思い浮かぶものとは違って、進化生物学の書そのものではない
のだ。そうではなくて、著者が著者なりに「進化」という現象の意味
を理解し、その本質を抽出して、それを、人間が生み出す技術の発展
やイノベーションの創成に応用しようとした考察である。
人間は生物であり、生物は進化の産物である。生物が見せる現象のす
べてには進化が関わっている。だから私は、人間がやることのすべ
て、つまり、人間の社会の仕組みも個人の意思決定も文化の変遷も、
すべては、進化的思考で解析する余地があると考えている。経済学
も、社会学も、法学も、文学も、進化で分析してみてわかることはた
くさんあるにちがいないのだ。実際、そのような進化◎◎学という新
分野は、今やどんどん創設されている。
本書は、そのような試みの一つではあるのだが、そこにとどまらない
ところがユニークである。技術的、芸術的創作という人間の活動が、
進化に照らしてどのように解釈できるか、というのは基本であるのだ
が、その先に、その仕組みを利用して、より新規な創作をするには、
進化的な考えをどのように使おうか、という提案がなされている。ヒ
トの活動は進化の産物なのだが、今度は、進化の法則を積極的に利用
して、新たなものを生み出そうという提案であるところが新しい。[9]
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
第3文は「進化」の語が通常想起させるであろう内容と本の内容が異なっている、と指摘しており、題名に「進化」を使っていることについて不適切だと捉えていることが窺われる。
※本稿執筆者注:引用部は『Voice』2022年1月号に掲載された長谷川眞理子氏の山本七平選評である。
不適切であると捉えているとはそれほど言えない気がする。少なくとも私はそうは思わなかった。二文目からの繋がりを踏まえると、単に進化生物学について詳説した本ではないということを言いたいだけな気がする。「つまり」という繋がりから、単にそのような専門家レベルのことが書ける力量はないと言ってるのではないかということである。そしてそれは「進化」という語を使うことの不適切性を含意しない。
人間は生物であり、生物は進化の産物である。生物が見せる現象のす
べてには進化が関わっている。だから私は、人間がやることのすべ
て、つまり、人間の社会の仕組みも個人の意思決定も文化の変遷も、
すべては、進化的思考で解析する余地があると考えている。経済学
も、社会学も、法学も、文学も、進化で分析してみてわかることはた
くさんあるにちがいないのだ。実際、そのような進化◎◎学という新
分野は、今やどんどん創設されている。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
次に第2段落であるが、第5文から第8文にかけては『進化思考』のコンセプトにやや好意的な書きぶりであるが、第七文で敢えて「進化的思考」という「進化思考」と1文字異なる語を用いている。ここにも『進化思考』に対する否定的なスタンスが見え隠れする。第9文も難解な文である。「進化◎◎学」に対して肯定的なのか否定的なのかよくわからない。肯定的であるならば、具体例をひとつくらい挙げても良さそうなものだ。
※本稿執筆者注:引用部は『Voice』2022年1月号に掲載された長谷川眞理子氏の山本七平選評の第二段落である。
💜第7文で「進化的思考」というように「的」を入れたのは単に「進化的思考」と言いたかっただけであろう。ここで長谷川氏が言っている「進化的思考」と太刀川氏が言っている「進化思考」は別物である。長谷川氏は単に進化の観点で解析をしていくという客観的分析の話をしているが、太刀川氏の云う「進化思考」は進化をアナロジーとして思考法に活かすという応用的実践の話をしている (実際、第三段落において単なる進化的思考とは違うことを説明している)。つまりむしろここで長谷川氏が「進化思考」と述べるのは否定的なスタンスの有無に関係なく誤りなのである。したがって、「『進化思考』に対する否定的なスタンスが見え隠れする」という伊藤氏の解釈は誤りであると思われる。
第9文に関しては別に難解とは感じない。それ以前の文章の流れから見れば、肯定寄りの主張であることは明らかではないだろうか?「私は、人間がやることのすべて、 ~(中略)~ すべては、 進化的思考で解析する余地があると考えている。 ~(中略)~ 進化で分析してみてわかることはたくさんあるにちがいないのだ。実際、」という文章の流れで否定的と取るのは不自然であるように感じる。
本書は、そのような試みの一つではあるのだが、そこにとどまらない
ところがユニークである。技術的、芸術的創作という人間の活動が、
進化に照らしてどのように解釈できるか、というのは基本であるのだ
が、その先に、その仕組みを利用して、より新規な創作をするには、
進化的な考えをどのように使おうか、という提案がなされている。ヒ
トの活動は進化の産物なのだが、今度は、進化の法則を積極的に利用
して、新たなものを生み出そうという提案であるところが新しい。[9]
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
最終段落のはじめの第10文の「そこにとどまらない」という言い回しも褒めているのか皮肉なのかわからない。第10文では「ユニーク」、最終文では「新しい」と評して締めくくっている。例えばプロアスリート―仮に大谷翔平選手としよう―がファンから「こんな握りの独自の変化球を考案したんですけどどうですか?」と訊ねられたとしたら「ユニーク」で「新しい」ですね、くらいは言うだろう。ただこれをプロのお墨付きと言うのは無理があると思う。
以上、全体としてあまり是認しているとは感じられない文章であった。
※本稿執筆者注:引用部は『Voice』2022年1月号に掲載された長谷川眞理子氏の山本七平選評の第三段落である。
私は普段選評など読まないのだが、選評というのはこのように難解な皮肉を含めて書くことがよくあるのだろうか?私には不必要な深読みとしか思えない。むしろどのように書けば是認している文章と解釈するのか気になる。新規性の理由に関してはちゃんと説明されている訳で、これを態々皮肉的に取る必要はあるのだろうか?
進化にはさまざまな法則が認められている。著者はそれらを参考にし
て、いわゆるイノベーションの参考資料にしようとする。
各論については、本書を読んでいただくしかないが、進化における諸
法則を応用して考えるという着想の新しさは、たんなるノウハウ本の
域をはるかに超えている。各項目に関して述べられる事例も生き生き
としていて、読み物としても面白い。この点は、著者が絶えず思考を
止めないことを示している。地球上での三十五億年の生物進化の解答
が現在のわれわれであって、その過程がわれわれを創りあげてきた。
それならその過程を左右した法則が、今後の過程の進行の参考になら
ないはずがない。著者の方法は基本的にはアナロジーであり、動物行
動学者のコンラート・ローレンツはノーベル賞受賞講演のなかで、自
分の方法はアナロジーだけだ、と述べた。いわゆる「独創性」を重視
する学問研究の世界では、これをいう人は少ない。しかしイノベーシ
ョンのように「独創性」が重視される局面では、アナロジーのもつ意
味は重要で、本作品はその意味で貴重であり、山本七平賞に値するも
のといえよう。[10]
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
第4文の「述べられる事例も生き生きとしていて」というのは表現としてよくわからない。当書に生き物の事例が多いのは確かだが、「生き生きと描写する」というような場合も基本的には生き物を対象として使う語だと思うのだが。
※本稿執筆者注:引用部は『Voice』2022年1月号に掲載された養老孟司氏の山本七平選評である。
伊藤氏は言葉や比喩表現に疎いのだろうか。私には突っ込む必要性が全く感じられない。「生き生き」は「活気があふれていて勢いのよいさま。また、生気があってみずみずしいさま。」 (デジタル大辞泉, [22]) を意味し、「生き生きした筆致」と言ったように非生物にも使用される。今回における「生き生き」は、事例を目新しく感じたとか、説明の仕方にリアルさや活気が感じられたとか、そんなところだろう。
次は「Y染色体の刻印」[13]として、蔵琢也や竹内久美子らを引用しながら神武天皇のY染色体が引き継がれることが重要だと唱える八木秀次による選評である。もしY染色体に突然変異が起きた場合は神武天皇と同じY染色体ではなくなってしまうがどうするのか、という素朴な疑問への答えに詰まるような論なので(神武天皇より「進化」した天皇になったから良い、とでも言うのだろうか)、その提唱者の選評が進化学的に重要だとは思わないが、一応読んでみる。
💜先ほどの章の林氏もそうだが、人を馬鹿にしないと気が済まないのだろうか?果たしてこの部分はこの本に入れる必要があったのか自問して欲しい。仮にどうしても必要なのであれば、もう少し言い方を変えるべきである。また、今は厳密な科学的記述ではなく単なる選評についての話ではあるものの、何を言ったかよりも誰が言ったかをまず重視するかのようなこの伊藤氏の発言は研究者としていかがなものだろうか?
なお、そもそもY染色体が引き継がれることが重要という主張は、一般的に考えて遺伝的に全く同じものが引き継がれることが重要と言っている訳ではないと思われる。その辺はいわゆるテセウスの船であろう。人間はある対象の全体の一部が取替えられても対象の同一性を維持するように認識する傾向がある。例えば部分的改修を繰り返した歴史的建造物に対して、それはもはや元々の物とは全く別物であるから今後残しておくことに価値がないと考える人は稀ではないだろうか?
知的刺激に満ちた著作だ。読み進めるごとに目の前が開かれ、新しい
世界を見る思いがした。
デザイナーとしてすでに名を知られた著者は学生時代からの長い経
験・思索の末に「進化思考」という独自の発想に辿り着く。
「創造(イノベーション)」に似た現象が生物の進化にあると気付
き、独学で生物学や進化学を学んで得たのは、生物の進化も創造も
「変異」と「適応」の繰り返しで生じているという結論だった。
「変異」は「変量」「融合」など九つのエラーのことで、たとえば
「変量」では「超大きく」することで全長二四メートルの「シロナガ
スクジラ」、商店を大きくした「スーパーマーケット」が生まれた。
「超小さく」することで最小の哺乳類「コビトジャコウネズミ」、ラ
ジカセを小さくした「ウォークマン」が生まれたなどとする。
「変異」だけでは自然界で生き残れないことから、「適応」が必要に
なる。 「適応」には「解剖」「系統」など四つがあるとする。
三十五億年の生物の進化を体系化する試みには、選考委員会でも細部
に異論があるとの指摘もあったが、それをおいても、生物の進化と創
造の近似性の指摘、生物の進化から自然と調和する創造を導き出そう
とする試みは著者の発明発見であり、「進化思考」を教育に応用した
いとの志を含めて、他に代えがたい優位性があるとされた。
多くの人に読んでほしいとの思いによる丁寧な本づくりも評価され
た。本書の内容が広く共有され、「創造」に寄与することに期待した
い。[12]
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
ちょっと驚くのは最後の「丁寧な本づくり」である。装丁が評価されたのだろうかと思ったが、授賞式の八木の講評によると「図や写真を多用したわかりやすい説明や、巻末に詳細な目次をつけているなどの工夫」[14]のことだという。図や写真を用いるのはごく普通のことだと思うのだが…。
※本稿執筆者注:引用部は『Voice』2022年1月号に掲載された八木秀次氏の山本七平選評である。
伊藤氏には「多用」の文字が見えないのだろうか?八木氏は単に図や写真を用いていると言っている訳ではない。なお、批判集には『進化思考』内の図について批判しているところが複数存在するがその全てで図が一切引用されていないため非常に分かりづらい。「ごく普通」の感覚を自身の書籍にも適用して欲しいと感じる。
創造ということは、いろいろな分野の人たちがそれぞれの視点で考え
るテーマだ。ただ、自分の領域を超えて創造や創造性のあるべき姿に
ついて考える機会は少ない。ましてや創造について体系化して考えよ
うという人はもっと少ないだろう。その意味では本書は野心的な試み
である。本書では、生物の進化の考え方に基礎を置いて、創造のある
べき姿について徹底的に詰めた議論をしている。
「生物は〝変異による挑戦〟と〝自然選択による適応〟の繰り返しに
よって進化してきた」が、創造は「『どうできるか(HOW)』試し
続ける偶発的な変異と『なぜなのか(WHY)』に基づいて選択し続
ける適応を往復する進化ループ」から生まれると著者は主張する。そ
うした主張が説得的であるのは、変異を九つのパターンに、適応を四
つの特徴整理し、著者の専門であるデザインの分野での事例などを使
って具体的に説明しているからだ。変化の九つのパターンは生物の変
異の事例を使って説明しており、そうした変異を描いた挿絵や写真で
の描写が説得的である。
生物学の進化を論じた本としてみると専門的な知見と異なることがあ
るのかもしれない。ただ、生物の進化のプロセスに徹底的に拘りなが
ら創造や創造性について論じた点が本書を魅力的にしている。本書を
読みながらあらためて創造や創造性とは何か真剣に考える読者も多い
はずだ。それも他人事としての創造ではなく、自分がどう動いたら良
いのかというHOWの部分に拘っていることが本書の魅力で
もある。[15]
第2文、第4文の「創造や創造性のあるべき姿」や「創造のあるべき姿について徹底的に詰めた議論」が本のどの辺りを指しているのか不明である。創造の方法論については書いてあるが。本当に当書を読み通したのかやや疑問が残る。
※本稿執筆者注:引用部は『Voice』2022年1月号に掲載された伊藤元重氏の山本七平選評である。
伊藤元重氏がこう言っているのはおそらく自然に訴える論証 (appeal to nature) 、もしくは人は効率的な行動を取るべき、といったような考え方を彼が持っているからではないだろうか?
本年度の山本七平賞受賞作となった『進化思考』は、日本文化と「創
造性の方法」をめぐる戦略という、長年にわたる私自身の関心に有力
な示唆を与えてくれた作品です。
歴史や国際関係を専門とする私の立場からは、もとより専門的な視点
からの評価をするだけの自信はないのですが、著者の強い問題意識に
裏打ちされた本作は、今日の日本を取り巻く諸状況を考えるとき、た
いへん重要な知的貢献を行なっている試みと感じました。
創造性の源泉を探る試みには多くのアプローチがあり得るが、日本人
には伝統的に感性に傾斜しやすい特性のゆえか、いわゆる「ひらめ
き」を重視する傾向がとりわけ強いように思われます。つまり直感、
それもたいへんに個人的あるいは属人的なものによってこそ真に価値
ある知的創造がなされるのだ、という考え方です。
こうした発想の背景にはとても深遠で高邁な精神の志向が横たわって
いて、これはこれで高く評価すべきアプローチだと思います。ただ、
そこには多くの人が追随したり応用したりすることができる方法論が
欠如しており、ともすれば職人的な「縮み志向」が壁となって、〝創
造性の普及〟が阻まれている実態があるように思います。
本書はこうした隘路をぶち破るため、われわれ人間界の周囲に広がる
自然界に眼をやり、生物進化のなかに見出しうる「匠の技」の構造を
果敢に解明することで、創造性の根幹に関わるロジックに光を当てよ
うとしている。専門的な見地からは、おそらく多くの留保や異なる評
価もあり得るでしょうが、世代や分野を超えた関心と現下の社会的課
題に答えようとする試みとしても、受賞作として価値ある一作ではな
いでしょうか。[16]
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
中西は15年ほど昔の著書『本質を見抜く「考え方」』(2007)で「「直感」を大事にすることです」[17]と書いているのだが、この選評では直感重視は第6文で「多くの人が追随したり応用したりすることができる方法論が欠如して」いるとして批判的な見解を示している。しかし第2文後半で「たいへん重要な知的貢献を行なっている試み」と「感じ」て評価をしているのだから、結局のところ「考えるな、感じろ」派なのだろうか。
※本稿執筆者注:引用部は『Voice』2022年1月号に掲載された中西輝政氏の山本七平選評である。
💜まず今回の選評における「多くの人が追随したり応用したりすることができる方法論が欠如して」というのは直観重視を一般に批判している訳ではなく、"創造性の普及の観点では"問題もあるという話である。したがって、今回の記述が「「直感」を大事にすることです」というかつての記述と即矛盾する訳ではない。またそもそも「「直感」を大事にすることです」という記述の前後の文脈は不明だが、『本質を見抜く「考え方」』という本における言葉なので、もし仮にこれが「本質を見抜くためには直観が大事である」という趣旨の文章であるならば、それと今回のような発想法の話を比較するのは不適切ではないだろうか?実際「直観」と一言でまとめて表現されてはいるが、本質の見極めにおける直観と創造性の発揮における直観はその様相がだいぶ異なる気がする(本質の見極めが直観的に得意な人が創造においても同様に直観的に得意とは限らない。逆もまた然り)。つまり、伊藤氏は自身がp.180で指摘している媒名辞曖昧の誤謬に近いものをここで犯している可能性がある。「直観」という広い意味の語に「本質の見極めにおける直観」と「創造における直観」という異なる対象を同居させ、それによって異なる話を不適切に繋いでしまっているように見えるからである。という訳で以上のような理由から伊藤氏の比較評は不適切であるように思われる。
また、「第2文後半で「たいへん重要な知的貢献を行なっている試み」と「感じ」て評価をしているのだから、結局のところ「考えるな、感じろ」派なのだろうか」に関しては、本当に驚くばかりなのだが、伊藤氏はこれが本当にまともな批評だと思っているのだろうか?伊藤氏の認識では中西氏の主張が自己矛盾しているという前提の下での主張ではあるのだろうが、「~と感じました」という文を以って「考えるな、感じろ」派にされるのであれば、ほとんどの人はそうなる。
専門的な見地からは、おそらく多くの留保や異なる評価もあり得るで
しょうが、世代や分野を超えた関心と現下の社会的課題に答えようと
する試みとしても、受賞作として価値ある一作ではないでしょうか。
[16]
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
最終文には「世代や分野を超えた関心と現下の社会的課題に答えようとする試みとしても」価値がある、とあるが、「高邁な精神」で「隘路をぶち破るため」という目的が「試み」にすぎない手段を正当化してしまっている。
※本稿執筆者注:引用部は『Voice』2022年1月号に掲載された中西輝政氏の山本七平選評の最終文である。
💜これについてはだいぶ的外れである。中西氏が「高邁な精神」と言ったのはこれまでの直観頼りの属人的な創造性言説の根底に潜む精神志向に対してであり、一方「隘路をぶち破るため」というのはこうした属人的な創造性に関する考え方が創造性の普及を妨げる壁となるのでこれを突破しようという話である。したがって「「高邁な精神」で「隘路をぶち破るため」」に相当することを中西氏は"一切"言っていない。よって「という目的が「試み」にすぎない手段を正当化してしまっている」についても何も妥当性ない。ちゃんと文章を読んでいないのか、読んだ上で理解できなかったのかは分からないが、申し訳ないが選評を読んで評価するレベルに達していない。
また「世代や分野を超えた関心と現下の社会的課題に答えようとする試みとしても、受賞作として価値ある一作ではないでしょうか」における「試み」の目的はどう見ても「世代や分野を超えた関心と現下の社会的課題に答えよう」であり、この部分を引用して「とあるが、「高邁な精神」で「隘路をぶち破るため」という目的が ~(後略)~」と続けるのはおかしいだろう。一応「試みとしても」というように「も」と言っているので「隘路をぶち破る」目的についても間接的には言及してはいるのだが、それについて言いたければ、その前の部分を引用すべきだろう (ただ先ほども述べたように「「高邁な精神」で「隘路をぶち破るため」」という伊藤氏の理解がそもそも間違っているのだが)。
進化学会で聞いた人の話では、長谷川・養老両博士は『進化思考』の選出に大反対したが、他の審査員が聞く耳持たなかったとのことである。また、これも筆者松井を通した伝聞の伝聞なのだが、長谷川博士ご本人が「過去の失点なので考えたくない」と言っているらしい。本書の企画にあたり、長谷川博士に本書への寄稿依頼の文書をお送りしたのだが、特に返答は頂けなかったため、確証は得られていないが、以上のように、彼女が進化生物学者の観点から『進化思考』を高評価した、ということはなさそうなのである。
💛確かにこのような前情報を持っていれば、あのように皮肉的に深読みするのも理解はできる。しかし、本心では低評価しているからといって選評も皮肉や低評価の意味で書いているとは限らない。したがって、伊藤氏が他の解釈も浮かんでいた上で敢えてあのような皮肉的・低評価的解釈のみをしたのか、またはそれしか思いつかなかったのかは分からないが、どちらにせよあのような偏った解釈のみを述べるのは批評としては不適切だろう。またもし仮に偏った解釈しか思いつかなかったのだとしたら、そこには批判集における誤読一般と同様の問題が発生しているように見える。すなわち、何らかの認知バイアスに引っ張られて、それに沿う解釈しか考えられなくなっているのではないかということである。「長谷川氏は進化思考を低評価している」「太刀川氏は進化に関するよくある間違いを犯している」といった認知バイアスが、文章をフラットに精査して多様な解釈を比較・考慮するという適切な文章批評を妨げているように私には見える。もちろん人間である限りはこういった認知バイアスを完全に0にすることは不可能であるが、批評をする者はそれをできる限り減らす努力をすべきである。
本書の企画にあたり、長谷川博士に本書への寄稿依頼の文書をお送りしたのだが、特に返答は頂けなかったため、確証は得られていないが、以上のように、彼女が進化生物学者の観点から『進化思考』を高評価した、ということはなさそうなのである。だが、結果としては賞を与えてしまったため、著者に余計な自信を与えてしまった。著者が講演などで
| 昨年、養老孟司先生や長谷川眞理子先生が、山本七平賞という賞をこ
| の本に授けて下さいました。だから、この本は学術的な根拠のない議
| 論を連ねたとんでもない本ではなくて、生物学的に見ても、経済学的
| に見ても、ある程度読める本になっているんじゃないかなと思いま
| す。[18]
と吹聴してまわるのも無理からぬことではある。長谷川と養老の責任は重い。
💛「まえがき」(p.8) と第二章(p.27)への指摘でも述べたが、批判集著者らの自信に満ちた批判内容・態度、太刀川氏からの反論への動じなさ、本稿投稿後も誤りをほぼ全く認めないことなどを見るに、彼ら自身も周囲の人々からの同意や賛同によって「お墨付き」的な自信を得てしまったように私には見えている(実際、そういった周囲の人々や信頼の置ける人からの同意・賛同によって彼らが安心や自信を得たかのような発言がいくつか存在する[90][101][102][103][107])。当時、批判集の著者らに同意・賛同していた研究者・専門家など(一般に知識人とされるような立ち位置の人)は非生物系含め非常に多くいたのだが[75][76][78][79][80][81][82][83][84][86][87][88][89][119][152][153][154][155][156][157][158][159][160]、一方内容に関して指摘をしていた人は極少数であった[20][71][161] ([81][161]のEiji Domon/ Bernardo Domorno(@Dominique_Domon)氏はDNAの変異のタイミングの一点だけ指摘しているが、基本的には批判集の著者らに賛同しているようである[162]。なお、上記挙げた同意・賛同は批判集の著者らの発信に直接触れていたもののみであり、それとは独立に『進化思考』批判をしていた人は他にも多くいる[163][164][165])。同意・賛同のみをしていた研究者・専門家らが一体どのような理由や意図でそうしていたのかは分からないが、本稿でこうやって長々と指摘しているように当時の伊藤氏・松井氏による指摘リスト[166]、林氏の批判ブログ[19] 及び批判集の内容には非常に多くの誤りが存在していた訳であり(伊藤氏と松井氏の指摘リスト及び林氏の批判ブログは批判集第四章・第二章の前身である)、そうであるのにそれらに対する批判・指摘が同意・賛同に比べて圧倒的に少なかったために、批判集著者らに「余計な自信を与えてしまった」と私は感じる。なお批判・指摘が無かった理由としては、①読んだけど問題点を見つけられなかった、②問題点を見つけたけど筆者に忖度して黙っておいた、③問題点を見つけたけど進化思考擁護側だと思われたくなくて黙っておいた、④問題点を見つけたけど周りが皆賛同してるから自分の判断に自信が持てず黙っておいた、⑤問題点を見つけたけど純粋に指摘する必要がないと思ったからしなかった、⑥実は読んでないけど周りが皆賛同してるからそれに倣って賛同してただけ、⑦実は読んでないけどSNS上の断片的な情報からたぶん典型的な進化の誤謬or似非科学を批判してそうだから賛同してただけ、⑧全部は読んでないけど一部だけ読んで問題なさそうだったから賛同しといた、⑨全部は読んでないけど一部だけ読んで典型的な進化の誤謬や似非科学批判をしてそうだったから賛同しといた、などが考えられるが、⑥⑦⑨は論外として、⑧も研究者・専門家の発信態度としては問題があるだろう。また①であれば単に能力不足であるし、②であれば自浄作用が効いていない。③④⑤はそこまで責められるものではないが、できれば指摘・批判の声を上げた方が良いと感じる。なお、私が問題視しているのは肯定的な意見のみが集積することなので、一切発言せずに静観したり、賛同でも否定でもないような発信をすることはそこまで問題ないと思っている。一方、批判集著者らに対して指摘や批判をすることなく、彼らと同様に太刀川氏を批判したり、批判集著者らに賛同したりすることは、そうする理由はなんであれ、結果的には同意や賛同の集積を生む訳なので問題であると考えている。つまり、私は単に賛同や同意をするなと言っている訳ではなく、対象の記述の正当性を判別できるべき(故に周りからは判別できていると見做される)人が本当は問題が多い対象に対して賛同や同意だけするのは問題であると言っている。どの程度の専門性を持っているかは人それぞれではあるだろうが、研究者・専門家の声というのは一般には相対的に強い権威性を持つ訳であり、その権威性に無自覚に軽々しく批判・賛同を行うことは特に今回のような一般書(一般人)批判の文脈では避けるべきではないだろうか?なぜならそうすることで批判空間のパワーバランスが大きく偏るからである(この辺については別記事でも述べた[110])。
そういう訳で本件における周囲の研究者・専門家らの「責任は重い」と私は感じる。なお、伊藤氏が批判している長谷川氏と養老氏は「進化学会で聞いた人の話では、長谷川・養老両博士は『進化思考』の選出に大反対したが、他の審査員が聞く耳持たなかったとのことである。」(批判集p.75) というように一応きちんと生物学者としての批判の責を果たしている訳なので、そもそも「責任は重い」などと批判されるものなのだろうかと個人的には思うが、批判集著者らに関してはそもそも彼らを批判・指摘をしていた人は極少数な訳なので、そのように批判せずに賛同・同意していた研究者・専門家の責は伊藤氏がここで言っているそれよりも、より重いだろう。
また、時期的にはだいぶ終盤になるが、生物系統学者の三中信宏氏が主催した『進化思考』に関する学会シンポジウム〈進化思考の光と影〉[127] に批判集著者ら三人が発表者として登壇したことも、彼らに「お墨付き」的な自信を与えたのではないかと個人的には感じる。私はシンポジウムに参加していないので、シンポジウムの中身がどうであったかはほとんど把握できていないのだが、批判集著者ら側への指摘・批判などが特に無かったのであれば、やはり問題であるように思う。(なお、現在唯一公開されている松井氏の発表[128]を最近閲覧したが、残念ながらその発表内容のほとんどは的外れで不適切なものであるように個人的には感じる。参考記事:「日本生物地理学会主催シンポジウム〈進化思考の光と影〉について」[129])。
「書籍は情報源として信頼性が高いと一般的に思われている」[22]し、過去の多くの著者や編集者の良心によって積み上げられてきた出版の文化がそれを担保している。そこに賞という「お墨付き」まで加わったとなれば、よほどの強い関心がない限り、無批判で受容してしまうのも無理からぬことである。
💜「賞」ではないが、このような権威性・信頼性はこの批判集に対しても言えるだろう。デザイナーが書いたビジネス本を博士号持ちの3人の学者が批判するという構図は、読者がその内容を無批判に受け入れるバイアスを与える。販売サイトの内容紹介でも「山本七平賞を受賞した巷で話題の本『進化思考』の疑似科学を徹底的に検証。日本インダストリアルデザイン協会最年少理事長の衒学的物言い、論理の破綻、目に余る不勉強に対してデザイン界と進化学界から3人の博士が立ち上がり、一刀両断。自分の得にはならない、だが誰かがしなければならない、雪かきのような重労働。話題の検証本『土偶を読むを読む』の著者・松井実が博士論文を携え本格参戦。単なる糾弾に留まらず、進化学、デザインと進化の関係性、創造性教育に関する正しい理解を得られる一冊となっています。」[3] というように説明されている。加えて、「自分の得にはならない、だが誰かがしなければならない、雪かきのような重労働」という功労的文脈も批判集の内容が正しいと思わせるバイアスを働かせるだろう。
したがって、このような批判本は通常の本に比べてより正確性が求められる。しかし、残念ながらここまで指摘してきたようにこの本はそのような出来にはなっていない。「進化学、デザインと進化の関係性、創造性教育に関する正しい理解を得られる一冊となっています」というように情報の正確性について豪語しているが、そう言えるほどの正確性はない。批判集の内容を無批判に受け入れてしまった人に対して、本稿がその内容の妥当性を再検討する助けとなれば幸いである。
審査員というのは責任が重いものだ。一度与えてしまったお墨付きを消すのは難しい。賞はすぐに権威化するし、権威化しない賞は存在意義がないとも言えるだろう。「見破る判断力が社会の側に求められる」と言えなくもないが、一応「専門家」「有識者」として選ばれている筈の審査員が見破れなかったものを社会に見破れというのは無理な話だ。朝日放送テレビ『M-1グランプリ』のように、審査員の発する評や点数が話題になるくらいが健全なのかもしれない。
💛二つ上の指摘部分で述べたように、本稿初期バージョン投稿後およそ10カ月経った現在(ver.2.0.0公開時)でも批判集の著者らがほぼ誤りを認めていないのを見るに、当時周囲で同意・賛同していた研究者・専門家などによる一種の「お墨付き」が今なお批判集の著者らに強く残っているのではないかと感じる。また、同様にそういった周囲の研究者・専門家など及び批判集の著者らによる批判の集積が一般人に対して『進化思考』が「全面的かつ完全」(p.22) に間違った似非科学本であるかのような印象を今なお強く残しているように思われる。なお、生物学的な話に関しては確かにその辺りに詳しくない人には主張の妥当性の判断はやや難しいとは思うが、批判集の著者らの批判にはそれ以外にも論理的・文章読解的誤りが多く存在する訳なので、そういった部分に気付ければ、「権威の呪縛」を解除し「生物学的な指摘にも誤りがあるのかもしれない」といったような知的に誠実な態度を取ることは可能であったように思う。
また細かい指摘になるが、最後の「朝日放送テレビ『M-1グランプリ』のように、審査員の発する評や点数が話題になるくらいが健全なのかもしれない。」というのは何を言いたいのかよく分からないコメントである。まずそもそもM-1グランプリは優勝すれば多少は有名になる訳なので、それは今の話における賞の受賞による権威化とさほど変わらないだろう。また、それを見落としていた、または単にSNS等で審査員評や点数が話題になることのみについて言及したかったのだとしても、だとしたら今回の話に何を求めているのかよく分からない。伊藤氏自身が「審査員というのは責任が重いものだ。一度与えてしまったお墨付きを消すのは難しい。賞はすぐに権威化するし、権威化しない賞は存在意義がないとも言えるだろう。」と言っているように賞を取ったらほとんどの場合権威化する訳なので、審査員評を楽しむだけで権威化せずに終わるということは実質的に不可能だろう。また、権威化しないようなしょぼい賞にすればいい、という主張だったとしても、それは自身の「権威化しない賞は存在意義がないとも言えるだろう」という主張と矛盾する。話が通る解釈案としては、「賞」や「順位」といった概念がもはや存在しない単なる「評価会」みたいなものを所望しているというのが考えられるが、そういうことなのだろうか?またはこれまで通りの賞や審査で良いけど、その結果を見聞きする人はそれを権威的に捉えずに、M-1程度の話題性で留めるべきであるという規範的主張、またはそういう世界が望ましいという理想論だろうか?しかし、現状それは人間及び人間社会の性質上難しい訳なので、特に対策案・改善案を出さずにそれを言ったところで社会的には特に響かない主張である。
4 『進化思考』を校閲する (伊藤 潤・松井 実) (~p.131)
この章の引用内における地の文の、文章初めの「I」と「M」は伊藤氏と松井氏どちらのコメントであるかを意味する。
| あらゆる種のなかで、私たち人間だけが特にモノを作れるのは、いっ| たいなぜなのか。〔中略〕そんな人類がある日突然、約五万年ほど前| に爆発的に道具の創造を開始している。(p.21)
M: その後自ら書いているがチンパンジーやゴリラ、カラスも道具は使うし、鳥は巣を作るし、ビーバーはダムを作る。ハチの巣、ニワシドリの求愛用の飾り付けは太刀川の考えでは作られた「モノ」ではないのか?ここで太刀川の提示する疑問「なぜ石器を作っていた私たちがこうなったのか」の回答は『繁栄』の冒頭[11]にあるので、そちらを読めばこの本を読む必要はないように思う。人類はある日突然爆発的に道具の創造を開始したわけではない。人類はある日突然人類になったわけではない。
💜「特にモノを作れる」と言っているので (単に「モノを作れる」と言っている訳ではない)、人間のモノを作る能力が他種に比べて優れている、といったように単なる道具の使用や構造物の作成以上の意味が込められているように見える。そして人間の作るモノの種類・量・質が他の生物種のそれを遥かに超えていることは誰もが同意するところだろう。
また人間だけが道具を作れるということを言いたい場合は、「特に私たち人間だけがモノを作れる」というように「私たち人間」の前に「特に」を置くか、またはそもそも「特に」を入れないのが普通ではないだろうか?一応「私たち人間だけが特にモノを作れる」を「人間だけがモノを作れる」と解釈することも可能ではあるが、その後に「爆発的に道具の創造」や動物の道具使用について言っていることから考えても、ここでの太刀川氏の意図は創造能力の卓越性だろうし、そう読むのが自然であるように思う。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、この引用内で松井氏が中略している箇所にも「それほど人間に近い存在のチンパンジーでも、原始的な道具を作ることは報告されていても、人と同じように闊達な創造性を発揮しているようには見えない。サルだけでなく地球上にいる人間以外のほぼすべての動物は、創造性の発揮という意味では、人間と完全に一線を画している。」(『進化思考』p.21) というように、多少の物は作れるが創造性の程度が人とは異なるということが明確に記載されている。したがってこれを以っても、今話題となっている「特にモノを作れる」という表現は創造性の程度の差と読むのが自然であり、チンパンジー等はモノを作れないかのような太刀川氏の記述はおかしい、という松井氏の指摘は誤りと言っていいだろう。また単に文章表現の指摘をしているのではなく、中略した部分も含め太刀川氏が上記のような創造性の程度差の話をしているのだと全く読み取れなかった故の指摘であるのならば、申し訳ないが本の評者としては読解力不足と言わざるを得ない。
| 狂人性と流動性知能性の一致をここに見ることができる。(p.31)
I: 狂人性は犯罪を犯すことと同義となってしまう。p.30の定義「人のやらないことをやること、すなわち常識からの変異度を指している」と違う。
💜文脈が今一分からないが、これは太刀川氏がこれ以前の部分で「流動性知能性=犯罪の犯しやすさ」と述べていたということなのだろうか?おそらくではあるがそのようなことは述べていないような気がするが。あくまで想像だが、精々、流動性知能と犯罪の犯しやすさに相関があるとかその程度のことを言っていたのではないだろうか?その場合であれば、そういった説明のあとに「狂人性と流動性知能性の一致をここに見ることができる」と言ったところで、それは狂人性と犯罪を犯すことが同義であることを意味しない。
📕 『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏は引用部位直前に「この流動性知能の曲線が、犯罪をどの年齢で犯しやすいかを調査した「年齢犯罪曲線」のピークとほぼ一致することだ。」(『進化思考』p.31) と述べており、これを踏まえるに、太刀川氏は犯罪の犯しやすさを媒介にして狂人性と流動性知能に関連があると言っているだけのように見える。そしてこれを言うためには、狂人性と犯罪の犯しやすさが同義である必要はなく、ある程度相関があれば十分である。したがって、太刀川氏が単に相関について述べているのならば「人のやらないことをやること、すなわち常識からの変異度を指している」という太刀川氏の立てた狂人性の定義との矛盾はない。
| さらに調べていく中で発見した興味深い事実は、図1-2(33頁)のよ
| うに、この流動性知能の曲線が、犯罪をどの年齢で犯しやすいかを調
| 査した「年齢犯罪曲線」のピークとほぼ一致することだ。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
I:元のグラフと思われるもの(グラフの出典元については☞{出典一覧}にて述べる)を以下に示す。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
そもそも10代後半にピークを迎え、その後ゆるやかに衰えるというデータは無数に存在しそうである。「一番好きな飲み物がコーラの人の割合」とか「TikTokに毎日動画を上げている人の割合」とか。
📕今は狂人性と犯罪のしやすさに関連があるから犯罪のしやすさを挙げているのであって、10代後半にピークを迎え、その後ゆるやかに衰えるというデータ"一般"が無数に存在することは議論に関係ない。TikTokの話はまだしも、「一番好きな飲み物がコーラの人の割合」を挙げてる辺り、おそらく伊藤氏は太刀川氏の話の趣旨を全く読み取れていない。
| こうした考察を通して、私はひとつの結論に達した。
| 創造性とは、「狂人性=変異」と「秀才性=適応」という二つの異な| る性質を持ったプロセスが往復し、うねりのように螺旋的に発揮され| る現象である、という考えだ。(p.39)
I: これが『進化思考』における独自の「創造性」の定義であろう。とすると
「創造性」=「螺旋的に発揮される現象」ということになり、
一般化すると
「○〇性」=「××する(される)現象」
ということになってしまう。だが、言葉の定義として
「○〇性」≠「××する(される)現象」
であろう。この時点で定義が破綻しているため、はっきり言ってしまえばこの後の議論はすべて無駄である。
💛太刀川氏が真に言いたいのは「創造性とは ~(中略)~ 螺旋的に発揮される性質またはそういった能力」であると、文脈的に普通分かると思うのだが、些細な表現ミスをあげつらって「定義が破綻しているため、はっきり言ってしまえばこの後の議論はすべて無駄である」とまで言い切るのはどうなんだろう?これは前章の林氏もそうだったが、太刀川氏が言いたいことを理解しようとせずに、表面的な瑕疵を批判して満足している印象を受ける。そしてそれは評者の仕事ではないだろう。
またそもそも「~性」は「[接尾]名詞の下に付いて、物事の性質・傾向を表す」(デジタル大辞泉, [23]) という意味を持つが、人間の思考における性質や傾向というのは心理的・認知的現象と見ることもできるので、文字通り「現象」と解釈したところで特に問題はない。特にひらめきといったような「創造」は一般には意図的な制御が難しいものとされており (ひらめこうと思ってすぐに思い通りにひらめくものではない)、そういった点でも「現象」というように客観的に捉えることはおかしなものではないだろう。
なお、伊藤氏は「「創造性」=「螺旋的に発揮される現象」」を一般化して「「○〇性」=「××する(される)現象」」とし、しかし「「○〇性」≠「××する(される)現象」」であることを以って、背理法的に「「創造性」≠「螺旋的に発揮される現象」」であると言いたいように見えるが、そもそも「「創造性」=「螺旋的に発揮される現象」」という個別命題から「「○〇性」=「××する(される)現象」」という一般命題は論理的に導き出せない訳なので伊藤氏の推論はおかしい。一応、「「○〇性」=「××する(される)現象」」を存在命題として扱い(○〇と××の二項を量子化)、かつ「「○〇性」≠「××する(される)現象」」を全称命題とすれば問題ない推論となり得るが、それが十分に読み取れるような記述にはなっていない。また上で述べたように創造性といったような人間の性質や傾向は心理的・認知的現象として見ることもできるので、「「○〇性」≠「××する(される)現象」」という全称命題は別に成り立つ訳ではない。
| そして化学走性の原理はバカと秀才のたとえと同じような構造を持っ| ている。つまり 「ランダムに動く不規則性(狂人性=変異の思
| 考)」と「周囲の食物に対する知覚(秀才性=適応の思考)」の二つ| のプログラムにおける、最小の組み合わせとして説明できる。
| (p.42)
M: 個人の頭の中での発散と収束を変異と適応に言い換えているようだが、生物での変異も適応も集団的な現象であることがまるまる抜けている。
💜他の人やチーム間で比べることを考えれば集団的な現象であるとも見れるし、個人内で考えたときも各アイデアを個体とすれば集団的なものと見ることは可能ではないだろうか?
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏が『進化思考』で述べている「適応の思考」というのはある対象に関して環境とのフィットを考えるものであり、上記の通り各アイデアを個体とすれば変異に関しても適応に関しても何も問題はない。
| あらゆる生物は、不思議なほど、形態や行動、身体機能などが、その
| 生存戦略とうまく合致している。
| 〔中略〕
| 生物学ではこの合致を指して「適応」と呼ぶ。(p.42)
M: 適応はその生物が環境の提供する諸条件への合致であり、生存戦略との合致ではない。また、あらゆる生物のあらゆる形質が適応的であるわけではない。
💜この辺の指摘はその通りである。私は太刀川氏は「適応」の意味をある程度は理解していると思っているが、単なる理解の不足に加え、こういっただいぶ外れた理解との境界が曖昧であるのは確かである。
なお、ここで松井氏が云う「適応はその生物が環境の提供する諸条件への合致であり」というのが「適応とは (その生物が) 環境の提供する諸条件への合致"に関する概念である"」という意味で言っているのであれば特に問題ないが、もし「適応とは環境への合致である」という意味で言っているのであれば、これは非歴史的定義としての適応に近いものであり、p.20で述べられていたことと食い違う。p.20を含む第一章は伊藤氏と松井氏の連名だが、もし松井氏が当該部分を認知していたとしたら、松井氏の中で定義が揺れている可能性があるだろう。
また些細な突っ込みになるが、「あらゆる生物のあらゆる形質が適応的であるわけではない」とのことだが、少なくとも引用されてる範囲では太刀川氏はあくまであらゆる生物においてその多くの形質が適応的であると言っているだけであり、「あらゆる生物のあらゆる形質が」とまでは言っていない。ただ、太刀川氏への直接の指摘ではなく単に一般論として補足的に述べたのであれば問題ない。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏は特にあらゆる生物のあらゆる形質がそうであるとは言っていない。
| では進化とは何なのか。まさに進化とは、エラー的な変異と自然選択
| による適応を繰り返す、生物の普遍的な法則性のことなのだ。(p.43)
I: 「変異」は進化学以前からある語であり、variationのことを指していた。「バリエーション」はほぼ日本語として通じるであろう。一方、進化学では多くの場合「突然変異」mutation を意味する。この生物学と遺伝学での「変異」の語が意味するものの違いは問題視されている[13]。どちらの意味で「変異」を用いているのかを明確に宣言する必要があるが、「エラー的な変異」と言うからにはどうやら著者は遺伝学の立場に立っているようではある。ところが次ページには「1 変異によるエラー」(p.44)と書いている。これではエラーと変異の循環定義(無限ループ)である。詳細は次章参照。
💜「進化学以前」「一方、進化学では」「この生物学と遺伝学での」のいずれかにおそらく誤字があると思うのだが、このせいで伊藤氏がどのようなものを遺伝学的 or 進化学的と考えているのかよく分からない。引用されている「「Variation」の訳語として「変異」が使えなくなるかもしれない問題について: 日本遺伝学会の新用語集における問題点」[24] を読んでみたが、そこではむしろ「進化学ではvariationが重要な概念であるが,この用語はダーウィンの『種の起源』においても表現型の変異を示すために使われている用語である(Darwin1859).日本においてダーウィンの進化論は石川千代松の 『進化新論』によって紹介された.1891年に出版されたこの本の中で石川は「変異」という訳語をvariationに当てており(石川1891),1897年の訂正増補再版版では巻末の「進化論ニ関係アル原語ノ訳」という項目で,variationの訳が変異であると明示されている(石川1897)」や「つまり,時系列的にはまずvariationの概念があり,その日本語訳である変異が使われはじめ,その後に地球上でmutationの概念や遺伝学が誕生したといえる.」や「現行の数研出版,東京書籍,第一学習社3社の高校生物の教科書をチェックしたところ,『遺伝単』で扱われているそのほかの遺伝学用語と異なり, 変異は遺伝分野ではなく,生物の進化の項目で扱われている.数研出版と東京書籍では「変異(variation)」「遺伝的変異」「環境変異」等を太字の重要用語としてクローズアップしており,第一学習社では「環境変異」のみを太字で記載している.」というように、進化学では変異がvariationの意味で用いられることが多いかのような記述がされている。これは伊藤氏の「進化学では多くの場合「突然変異」mutation を意味する」とは食い違う内容だが、上で述べたようにおそらくここでは誤字が存在しているように思われるので、伊藤氏の主張の真偽についてはスルーしておく。
また伊藤氏は「エラー的な変異」と「変異によるエラー」で循環定義になっていると主張するが、私としてはこの二つを定義文と見なすのは無理やり感が強いと感じる。前者の「エラー的な変異」における「エラー的な」というのは単なる修飾語ではないだろうか?確かにエラー的な変異 (やりそこない的なmutation) というのは重複表現のようでもあるが、一般的に言ってそれほど問題はないように見えるし、この場合少なくとも変異の定義文ではない。また後者の「変異によるエラー」(mutationによるやりそこない) に関しても、これも重複表現的なものであるが、エラーの定義文には見えない。またそもそも「「エラー的な変異」と言うからにはどうやら著者は遺伝学の立場に立っているようではある」と伊藤氏は主張するが、ここでの変異をvariationの意味で取ることは十分可能である。「エラー」という語は「1 やりそこない。失策。2 理論的に正しい数値と、計算・測定された値とのずれ。誤差。」 (デジタル大辞泉, [25]) という意味を持ち、伊藤氏は1の意味でしか取っていないようだが、2の意味を取るとき集団の既存のメジャーな形質とのズレという意味で変異 (variation)と合わせることは可能である。また重複表現的ではあるが同様に「変異によるエラー」における変異をvariationの意味で取ることも可能である。また「変異によるエラー」に関しては、先程のように変異をmutaionの意味で取った場合においてもズレの意味でのエラーを合わせることが可能である(mutationによるズレ)。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、「1 変異によるエラー」というのは「変異によるエラーは「1 変異によるエラー:生物は、遺伝するときに個体の変異を繰り返す」といった中で述べられているものである。したがって、これは文字通り「変異によるエラー」といった意味であり、別に「エラー的な変異」との間で循環定義になっているとは言い切れないだろう。伊藤氏はtwitter上での応答[91]やnote記事[92]でもこの点について尚も循環定義であると主張しているが、伊藤氏はこれまで一度も何がどのように循環しているのか説明してない。単に同じ言葉を反転的に使った表現を安易に「循環定義」と見做しているのならば、それは誤りである。循環定義とはAの定義にBを用い、かつBの定義にAを用いることを指すが、「エラー的な変異」は「エラー」を「変異」で定義している訳でもその逆でもないし、「変異によるエラー」に関しても同様である。まあおそらく伊藤氏は「「変異によるエラー」というのはエラーが変異によって発生することを述べている」と言いたいのだろうが、その論理で攻めるならば「エラー的な変異」が「変異がエラーによって発生すること」を含意する必要がある。しかし、「エラー的な変異」から「変異がエラーによって発生すること」を一意に導くことは不可能であるし、一般にそう解釈する妥当性も大してない。したがって、残念ながら私には伊藤氏は何となく雰囲気で「循環定義」と非難しているように見える。もし循環定義と主張するならば、何がどう循環しているのか詳細に説明すべきである。それが「論理的な読み手」[91][92] のすべきことだろう。またそもそも仮に「エラーが変異によって発生する」と「変異がエラーによって発生すること」の循環の線で説明し切れたとしてもそれは「循環定義」ではなくて単なる「因果的な循環」に過ぎない。例えば「物価上昇が賃上げを促す」と「賃上げが物価上昇を促す」は因果的に循環しているが、これは明らかに循環定義ではない。鶏と卵も同様である。なお、伊藤氏は太刀川氏のそれを定義文と見做すのはやや無理があるという私の主張に対して、「「定義文」などと大袈裟なことを言わなくても、この循環がまずいと思わない時点で「私は論理的な読み手ではありません」と宣言しているようなものだ。」[91] や「「循環定義をする」という表現は別に「これが「定義文」です」と宣言することを意味しない。見なすも何も、書いていることが循環ができていないために前掲の6/16のツイートでも書いたが、非論理的な読み手であることの宣言のようなものである。」[92] と述べており、これを見る限りやはり伊藤氏は「循環定義」の意味を理解していないように思われる。 あとここの「エラー的な変異」と「1 変異によるエラー」は2ページ弱ほど離れており、この程度の離れ方であれば多少の表現の揺れは許容されうるだろう。
| チャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ウォレスによる共同論文で| あり、追ってダーウィンが一八五九年に発表した『種の起源』という| 驚異的な書籍だ。(p.44)
M: 『種の起源』がダーウィンとウォレスによって発表されたということになっている。p.270 図 14-3、p.274、p.476 も。これは著者から「誤植だ」とのコメント [14] があり、その後正誤表で訂正された。
太刀川氏がダーウィンとウォレスの共同論文とダーウィンの単著である『種の起源』を混同していることそのものは第二章の林氏の指摘における引用から分かるが、少なくとも今松井氏が引用している部分については特に誤りは存在しないように見える。それでこれは調べると分かるのだが、松井氏がここで引用している文章は2022/12/16付けで訂正された後のものである[13]。したがって、単に引用対象のバージョンを間違えたのか(普通引用する際に気づきそうなものだが)、または訂正バージョンを引用していることを理解しながらズレたコメント(あたかも引用している文が間違っているかのようなコメント)をしてしまっているか、または訂正バージョンにおいても間違っていると言いたいのか、のどれかであると思われる。いずれにせよ、ここは何らかの修正をした方がよいだろう。
| 生物の形態は神がデザインしたものではなく、種の起源から分化を繰
| り返して自然に発生したことを論理的に証明した、まさにコペルニク| ス的転回である。(p.44)
M: 「自然発生することはないと証明した」(p.122)「白い光になることを証明した」(pp.174, 175)「パターン形成仮説が分子生物学的にも証明された」(p.250)「間違いが証明されてしまう」(p.274)「ダーウィンらは、論の構成とその証明に慎重を期して」「ダーウィンらの進化論を証明する科学的証拠は」(p.275)「進化論の証明に繋げていく本なのだ」(p.460)というふうに科学的仮説に対して証明という言葉を多用しているが全て間違いだ。証明は数学のような形式科学において命題に対してなされる。検証されたとか確かめられた、であれば問題ないだろう。この区別は非学術系の読者にはどうでもよいかもしれないが、どうでもよくない者にとっては、シリコンとシリコーンの混同、JavaとJavaScript の混同、ガソリンと灯油をごちゃまぜにするようなものだ。そして、人はたいていガソリンと灯油をごちゃまぜにするバス運転手のバスには乗りたくないものだし、もし乗ろうとしている人がいれば止とめたくなる。
💜「証明」の意味は「1. ある物事や判断の真偽を、証拠を挙げて明らかにすること。2. 数学および論理学で、真であると認められているいくつかの命題(公理)から、ある命題が正しいことを論理的に導くこと。」(デジタル大辞泉, [26]) であり、ここで松井氏が述べているのは2番の意味に過ぎないように思える。確かに1番に関しても真偽がある程度はっきりしたものでないと証明とは言わないと思うが、一般に数学的な意味での厳密に一意な導出のみが「証明」とされている訳ではない。
また松井氏は「検証されたとか確かめられた、であれば問題ないだろう」と述べているが、それらは証明とどう違うのだろうか?確かに「確かめられた」に関しては一般に「証明」より広い意味であるとは思うが (前者が後者の必要条件) 、「検証」に関しては「1. 実際に物事に当たって調べ、仮説などを証明すること」(デジタル大辞泉, [27]) である。したがって検証は証明を含意している。
なお最後のガソリンと灯油については上手いことを言ったつもりなのだろうが、ガソリンと灯油を混ぜることと「証明」の意味の混同はその問題性の程度が明らかに異なるので例としては不適切だろう。
| 1 変異によるエラー:生物は、遺伝するときに個体の変異を繰り返
| す
| 2 自然選択と適応:自然のふるいによって、適応性の高い個体が残
| りやすい
| 3 形態の進化:世代を繰り返すと、細部まで適応した形態に行き着| く
| 4 種の分化:住む場所や生存戦略の違いが発生すると、種が分化し| ていく(p.44)
M: ルウォンティンは変異-適応度の差-継承の3条件が揃えば必ず自然選択が生じるとした[15]。1−3はこれらの3条件をそれぞれ大幅に改悪したものに対応するように思う。まずはこれらをルウォンティンの示した自然選択の3条件と同内容に書き換えたほうがよい。1の改善:生物は遺伝しない(遺伝するのは遺伝子)し、個体は変異しない(変異するのは遺伝子)し、系統が世代を更新しない限り、変異は繰り返すことはできない。「変異:生物の遺伝子は変異することがあり、その結果集団内の個体は多少異なる特徴を備えることがある」とすべきだろう。
💛この辺については第二章の林氏のそれでもコメントしたが、太刀川氏の云う「個体の変異を繰り返す」というのは、単にそれぞれの個体において変異が発生し、それが世代内・世代間に渡って繰り返されるという意味ではないだろうか?実際、それ以降の部分で「卵から毎回違う個が生まれる「変異」の仕組み」(『進化思考』p.45) と言っており、したがってこの解釈で合っていると思われる。
また太刀川氏はおそらく「遺伝」の意味を「生殖細胞の生成及び受精のプロセス一般」と勘違いしており、したがって以上をまとめると、彼の云う「生物は、遺伝するときに個体の変異を繰り返す」というのは、「生物においては、生殖細胞の生成及び受精のプロセス一般を通して、それぞれの個体において変異 (variation) が存在している」ということを意図していると思われる。そしてこの真意そのものはそれほど問題ない。ただし、これでもまだ曖昧なところがあり、もしここでのvariationがDNAや遺伝子について言っているのであれば特に問題ないが、もし形質について言っているのであればやや問題がある。というのは、形質レベルの変異が全ての個体に毎回現れるとは限らないからである。ただその辺は種によっても変わるだろう。DNAや遺伝子の変異に関しても無性生殖の種では必ず起きるとは限らない気がする。また、もしここで言っている変異というのがmutationのことであるならば、「個体において変異が発生する」という表現は不適切である。なぜならmutationは基本的にDNAにおける塩基の変化そのものについての話であり、またその変化は生殖細胞系列にて起こるからである (その時点ではまだ個体ではない)。なお、「変異するのは遺伝子」と松井氏は言っているが、ここで松井氏が言っている変異がmutationのことであれば問題ないが、variationのことであれば厳密にはやや足りない。なぜなら上記の通りvariationは形質に関しても使う言葉だからである (個体が変異する訳じゃなくてという文脈ではあるが)。
また「系統が世代を更新しない限り、変異は繰り返すことはできない」とのことだが、多回繁殖の種では世代を更新しなくても変異の繰り返しは起きる。おそらく松井氏は一回繁殖の種しか想定できていない (またそもそも上で述べたように太刀川氏の云う「繰り返し」というのは同腹の子の間での相違についても述べているように思える。要するにただ単に各個体のゲノムや形質は違うということを述べているだけな気がする)。
| 2 自然選択と適応:自然のふるいによって、適応性の高い個体が残| りやすい
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
2の改善:自然選択というより適応度の差を説明すべきだろう。「残りやすい」ということがそもそもふるいなので、トートロジーのような表現になっている。「適応度の差:そのような変異の中には、個体の適応度を高めるものや、逆に低くするものがある」ならよいと思う。適応度という表現を使いたくなければ、生存率や繁殖率ともいえる。
💜これも松井氏のコメントである。先ほどの続きであるが、長く続くと見にくいので分けた。以降の3, 4についても同様。
「「残りやすい」ということがそもそもふるいなので、トートロジーのような表現になっている」とのことだが、これは引用内の「ふるい」という語を「篩にかける」を意味する「ふるう」の連用形が名詞化したものとして解釈した場合の話であり(例: 彼の走りによってなんとか間に合った)、一方「ふるい」を「篩」という道具を表す名詞として解釈する場合は「ふるい」は自然選択を起こす環境として解釈できるので特に問題はない(その環境(そういった網目構造をもつ篩)にフィットした形質を持つ個体が残りやすいということ)。なお、林氏が同じ引用部分について「「自然のふるいによって、生き残りやすい個体と生き残りにくい個体が選別される」くらいの表現が適切ではないだろうか」(p.31) と述べているが、松井氏の論理に従えばこの林氏の記述もトートロジーであるのでそう指摘すべきである。この批判集は著者三人によって相互にチェックされているらしいが(p.11)、松井氏は林氏のこの記述を読んでいないのか、読んだけど問題性に気付かなかったのか、問題性に気付いたけどスルーしたのかどれなのだろう?いずれにせよ一冊の本として一貫性がない。
また、太刀川氏のこの記述に関して「適応性の高い」と「残りやすい」でトートロジーになっているという見方もあるが、これは林氏が同じくこの部分を指摘したときに説明したように、確かにトートロジー的にも解釈できるが、仮にトートロジーであったからといってこの文章が無意味である訳ではない。「適応度が高い個体が子孫を残しやすい」と解釈したとき、確かにこれは論理的にはトートロジーであるが、適応度は単なる結果的数値ではなく、期待値として予測されるものであり、個々のケースにおいてこの命題に従っているかどうかを検証することに意味がある(どのような形質が適応度に貢献しているかを見つけることに価値がある)。
| 3 形態の進化:世代を繰り返すと、細部まで適応した形態に行き着| く
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
3は残念ながらどう好意的に解釈しても意味がわからない。削除し、遺伝/継承についての記述にしたほうがよいと思う。たとえば、「継承:遺伝子内の変異は次世代に引き継がれることがある」などとする。
💜記述そのものに関しては特に問題なく解釈できると思う。どこに引っかかっているのかよく分からない。ちなみに林氏はこの部分について進歩史観的な意味が読み取れるとして批判していたが、それに関しては別にそうは読み取れない (そう読み取ることも可能ではあるが少なくとも一意ではない) と反論済み。「行き着く」という語はそれ以降一切動かないことを含意しない。
遺伝的変異が次世代に継承されることそのものについて説明した方が良いのはそうだが、「形態の進化:世代を繰り返すと、細部まで適応した形態に行き着く」というのはそれをおおよそ含意するので、そこまでズレた記述ではないだろう。なお個人的には「形質」を「形態」にだけ限定してるところが気になった。
| 4 種の分化:住む場所や生存戦略の違いが発生すると、種が分化し| ていく(p.44)
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
4の記述じたいは受け入れられるが、「進化論の構造」の一部とすべきではない。種の分化は進化の結果であって、進化に必須の条件でも「構造」でもないというのが私の理解だ。種の分化は至近要因としては遺伝子距離の乖離によってうまれるし、究極要因としては地殻変動などの環境変動があげられると思う。「種分化:住む場所や生存戦略の違いが発生すると、種が分化することがある」ならまだ受け入れられるが、4は削除して、1−3について「進化論の構造」ではなく「自然選択の3条件」として上記のように書き換えて提示したほうがよい。p.30 「「変異」と「適応」の使い方に見られる誤った進化理解」 でも林が同じ箇所を批判しているため参照してほしい。
💛ここに関しては林氏も同様の批判をしていたが、「進化」と「進化論」は別物である。進化論は単に「複数世代に渡る遺伝子頻度の変化」についてのみ述べるものではない。なお、松井氏はp.119にて「進化のプロセスの話をしているのだから、単に形質としての分離だけではなく、集団の分離として地理的隔離をはじめとした生殖的隔離を紹介してほしかった」というように種分化が進化プロセスの一つの要素であるかのような発言をしているが、もしそうであるならばそれはここでの「種の分化は進化の結果であって、進化に必須の条件でも「構造」でもないというのが私の理解だ」という発言と自己矛盾している。
それと「種の分化は至近要因としては遺伝子距離の乖離によってうまれるし、究極要因としては地殻変動などの環境変動があげられると思う」とのことだが、こういった意味での「至近要因」「究極要因」の使用にはやや違和感がある。ここでの「至近要因」「究極要因」というのはティンバーゲンの4つの問いに関して言っているのだと思うが (ティンバーゲンの4つの問いが有名だが、「至近要因 (proximate factor)」「究極要因 (ultimate factor)」という言葉を初めに使ったのはA. L. Thomsonであるとされる[28])、ティンバーゲンの4つの問いはそもそも生物の行動に関する分析法である。行動以外の形質について適用するくらいならまだ頷けるのだが、種分化といったように形質以外の現象について当てはめるのは本来の使用法からだいぶ離れている。とはいえ、本来の使用法から離れていようと価値のある使用がされるのであればとやかく言うことでもないだろう。しかし、今回の「種分化」に関してはあまりそうは思えない。まずそもそも「種分化」というのは「種が分化していく"プロセス"」である。したがって、種分化に関して至近要因と究極要因を分ける意味はあまりないように思える。確かに地殻変動などの環境変動は遺伝的距離の拡大の遠因ではあるが、結局時系列的に連続した大きなプロセスの一部に過ぎないからである。一方行動形質においては、ある行動の至近要因 (メカニズム・発生) ・究極要因 (機能・進化) は個体レベル・進化 (系統) レベルという異なる次元の話であり、そうであるから分けて議論することに価値がある。そういう訳で、種分化に対して至近要因・究極要因を当てはめることが全くの無意味であるとは言わないが、あまり価値はないように思える。(また松井氏はp.139でも至近要因・究極要因に関して不適切な適用をしている)。
なお松井氏は「至近要因としては遺伝子距離の乖離」と言っているが、「遺伝子距離」は染色体上の異なる遺伝子間の距離を表す用語なので、松井氏のこれは誤用である。文脈的に集団間の遺伝的分化の程度に関して言いたいのだろうが、その場合「遺伝的距離」などと言うべきである。
また「「種分化:住む場所や生存戦略の違いが発生すると、種が分化することがある」ならまだ受け入れられる」とのことだが、これは太刀川氏が提示している「種の分化:住む場所や生存戦略の違いが発生すると、種が分化していく」とほぼ同一である。「分化することがある」という可能性 (非必然) の部分が重要ということだろうか?しかし、そもそも松井氏は一番初めに「4の記述じたいは受け入れられる」と言っているので、「~ならまだ受け入れられる」という記述は矛盾しているように思われる。
| 道具とは何か。それは擬似的な進化だ。(p.47)
M: デザイン〔人工物の仕様〕は進化するが人工物は進化しない[16]。人工物はデザインというアイディアの乗り物(ヴィークル)と考えたほうがよい。道具は人工物だから、道具は進化の主体ではない。擬似的なものでもない。「パソコンが進化する」とか「ヴァイオリンの形状が進化する」といっても問題ないと思うが、たとえば「耳が進化する」といっても耳の形質が親の耳から子の耳に受け継がれて進化するのではなく耳を生じさせる遺伝子が受け継がれて進化するように、パソコンもパソコンじたいが自己複製するのではなくパソコンを作れるような人工物の仕様=デザインが自己複製し進化する。本書7章で同様の内容を詳述しているので参照してほしい。
💛「人工物は進化しない」と言いつつ、その後で「「パソコンが進化する」とか「ヴァイオリンの形状が進化する」といっても問題ない」と言ったり、今一言っていることに一貫性がない。そう言っても一応受け入れられるけど、厳密には違うと言いたいのだろうか?しかし「パソコンもパソコンじたいが自己複製するのではなくパソコンを作れるような人工物の仕様=デザインが自己複製し進化する」とのことだが、「人工物の仕様=デザイン」も別に自己複製はしない。もし自己複製するのならば一度発明された人工物にはもうデザイナーは必要ないだろう (例えば冷蔵庫という人工物にはもはやデザイナーは必要なくなる。勝手に冷蔵庫の仕様が自己複製するらしいので)。それに「人工物の仕様」も紛れもなく「人工物」である。したがって「人工物は進化しない」ならば人工物の仕様も進化しない。彼の主張は色々矛盾しているように見える。
要するに、人工物か否かで進化するか否かを判別することは彼が真に言いたいこととマッチしていない。「人工物はデザインというアイディアの乗り物(ヴィークル)と考えたほうがよい」という発言から見るに、おそらく彼は何らかの還元的な設計図 (遺伝子や人工物の仕様など) の世代に渡る変化のみを「進化」と見なしているのだろう。しかし、「進化」の定義はそれだけではない。昨今は「世代に渡る遺伝子頻度の変化」を生物進化の定義と見なすことが多いが、ここで挙げられている「耳の進化」といったように遺伝的形質の世代間変化のことを進化と見なす用法も一般的である。(なお、ここでいう「人工物」が実際のプロダクトレベルの人工物のみを指している可能性もあるが、結局「人工物」と「人工物の仕様」を分けて、後者のみが自己複製すると考える妥当性はあまりないような気がする)。
| 創造とは、言語によって発現した『疑似進化』の能力である。(p.48)
M: 創造は疑似進化ではない。疑似というタグをつければ科学的に妥当でない牽強付会のアナロジーを展開しても問題ないことにはならない。「もし言語が文化の進化のカギを握っており、ネアンデルタール人が言語を持っていたとしたら、彼らの道具はなぜ文化的な変化をほとんど見せなかったのだろう?」[17]
I: 唐突な「言語」の話はどこから出てきたのか? また 「能力」はむしろ「創造性」ではないか。次章で詳細に述べるが、「創造」と「創造性」の用法が破綻している。
💜別に疑似って言ってるなら良くないだろうか?また「「もし言語が文化の進化のカギを握っており、ネアンデルタール人が言語を持っていたとしたら、彼らの道具はなぜ文化的な変化をほとんど見せなかったのだろう?」」は何が言いたいのかよく分からない。引用するならどういう意図で引用したのか説明する(または意図が容易に分かるような文脈で引用する)のが読者及び被引用者へのマナーではないだろうか?なおネアンデルタール人が人間と同様レベルの言語を持っていたとは特に分かっていないはずなので、それを仮定した議論に特に意味はない。松井氏はネアンデルタール人は多少言語を持っていたけど文化的な変化が無かったから言語は関係ないと言いたいのだろうか?でももしそうだとすればそれは言語能力の程度を無視している。
また「創造」と「創造性」の用法について伊藤氏は先ほどから熱心だが、これはそんなに重要な部分なのだろうか?ただの語用ミスだと思うのだが、「破綻している」と言うほど何か重要なのだろうか?次章で詳細に語られるらしいので期待しておくが。
| おまじないレベルの発想法が横行していて、創造性の仕組みは天才的| な人の暗黙知のなかにあり、今もまだ魔法のままだ。(p.53)
I: 既存の「発想法」を「おまじないレベル」 とし 、「創造性の仕組み」は「天才的な人の」「 魔法」としていることから、おそらく「おまじない」は子供だましのもの、「魔法」は不思議なすごいもの、という使い分けをして揶揄しているのだと思うが、本来 「呪い」は「魔法」と同じような言葉である。「横行している」と具体的な批判もなく罵倒するのは感心しないし、既存の「発想法」には当書では存在が蔽隠されている「オズボーンのチェックリスト」ことSCAMPERのように優れたものは多数ある。
💛太刀川氏の云う「おまじない」の意図を「子供だましのもの」と解釈する妥当性は特に無いような気がする。普通に願掛けとかそういった意味だと私は理解した。後半の既存の発想法の有効性については概ね同意。しかし隠蔽かどうかは言い切れるものではないのではないだろうか?「隠蔽」は主体の故意性が絡む概念なので、それを他者が断定するためにはそれなりに妥当な理由が求められる。しかし、伊藤氏は少なくともここでは特にそういった理由を提示していない。伊藤氏はすぐ上で「横行している」という太刀川氏の記述に対して具体的批判がないと非難しているが、「横行」は主体の故意性は絡まない概念であるため断定のハードルは低く、これよりもよっぽど「隠蔽」の方が具体的な理由が求められる。なお一応、批判集第五章でその辺の理由について書かれてはいるのだが、それを以ってしてもあくまで推測に過ぎず、「隠蔽されている」と断定するのは問題があるだろう。どんなに自分の中では「隠蔽しているに違いない」と思っていたとしても、確証に近いものが取れない限りは「隠蔽していると思われる」というように弱く表現するのが知的に誠実な態度である。
| 創造は、進化と同じく変異と適応の繰り返しによって生まれる。
| (p.54)
M: 生物進化のことを単に進化と呼んでいるのだとしたら、略さず生物進化と書くべきだと思う。生物の進化は進化というクラスの1インスタンスである。
ここまで明らかに生物進化として進化の話をしてきているのに、態々そんなことを言う必要はあるのだろうか?それとも松井氏は、例えばここまで説明してきたような話を対面でしているときに、途中でいきなり「ん?その進化ってのは生物進化のことなの?生物進化のことを言いたいのならば略さず生物進化って言って?」とか言うのだろうか?「進化」という用語が『進化思考』において初めて出てきた辺りで突っ込むならまだ分かるが、ここまで長々議論してきた中でする指摘ではない気がする。なお、文脈的に生物進化のことを言っているのか進化一般を言っているのか分かりづらい、またどちらを取るかで文章解釈に大きな影響を与える場面での指摘であるならば分からなくもないが、少なくとも今引用している部分は生物進化のことを言っている可能性が高いし、どっちで取っても文の趣旨には大して影響を与えないだろう。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、この引用箇所の直後に太刀川氏は「ここまでの発見をまとめると、進化思考の本質はこの一文に集約される。つまり進化思考は、生物進化のように二つの思考プロセスを繰り返すことで、本来誰のなかにも眠っている創造性を発揮する思考法だ。」(『進化思考』p.54)というように述べており、太刀川氏が生物進化について述べている可能性はかなり高い。また、一つ前のページであるp.53でも太刀川氏は「だが変異と適応を繰り返すのは、生物学的進化と創造的思考も同じだという気づきによって、この謎は氷解する。」と述べており、これを以ってもやはり生物進化について述べている可能性が高いだろう。したがって、もし仮にこれらを読めていない上での指摘であるのならば、申し訳ないがそれは本の評者としては読解力不足だろう。また、意図は読めているけど、文脈的に分かるような場合でも必ず略さず「生物進化」と書くべきだと松井氏が言いたいのであれば、そのばあい話の筋そのものは通っているが、主張の妥当性はそこまで高くないように思う。少なくとも本ケースに関しては今の述べたように太刀川氏が生物進化について述べていると推測できる記述が周辺にあるし、上でも述べたように仮にここでの「進化」が進化一般を指していたとしても、それは太刀川氏の主張に大きな影響は与えないからである。
| 自然のように考えるための新しい哲学とも言えるだろう。(p.54)
M: 自然という環境は考えたり学習したりしている「かのように」ふるまうことはあっても「考え」たりはしない。
📕外部からは自然が知的に振る舞っているように見えるという話を太刀川氏はここまでの部分で何度かしているが、ここでの「自然のように考える」というのは「自然に習って考える」といったような意味であるように思われる。実際、直前の文で太刀川氏は「つまり進化思考は、生物進化のように二つの思考プロセスを繰り返すことで、本来誰のなかにも眠っている創造性を発揮する思考法だ。」(『進化思考』p.54) というように述べており、断言できる訳ではないが、「生物進化のように」と「自然のように」というのは繰り返し的表現であるようにも見える。また自然が知的に振る舞っているように見えるという観点で言っていたとしても、そもそも「自然のように考える」の「考える」の主語はあくまで人間な訳で、このとき「自然が考えている」は明確には含意されていない。自然が知的に振る舞っているように"見える"という意味で取っても十分全体の意味は通る。
| 進化思考では、進化における生物の知的構造と同じように、(p.54)
M: 「進化における生物の知的構造」という語が何を意味しているのかを理解している自信がないが、遺伝子じたいは当然考えることができないので進化する生物の遺伝子に知的構造を認めなくても、遺伝子は進化する、というのが進化学の考え方だ。そのため、完全に間違った記述としか解釈できない。私のこの解釈が完全に誤解であるか、著者が進化を全く理解できていないかのふたつにひとつである。
この辺については擬人的表現がいただけないのは確かではあるが、太刀川氏はおそらく「知的に見える構造」と言いたいのだろう。すなわち自然選択を通して環境にフィットしていくことが外部からは知的に見えると言いたいのだろうということ。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、この「知的構造」といった表現は『進化思考』においてここの引用部分以前から何度も使用されてきており、例えば、p.41では「それでも、バクテリアはあたかも知性を持っているかのように、食物を効率的に捕食する仕組みを持っている。」、p.41-42では「興味深いのは、バクテリアは単純な動きを機械的に切り替えているに過ぎないが、この行動を外部から観察すると、まるでそこに「餌を探す思考」が存在するように見えることだ。この化学走性は、生命が持っている知的性質の中でも最初期に獲得されたものだ。」、p.42では「こうして変異的なランダムさと適応的な知覚が伴えば、それが単なる科学的な反応にもかかわらず、知性的な構造が出現するという訳だ。」と述べており、またその直後のp.43で「自然界に存在する知的構造の極めつけとして、創造に大変よく似た自然現象がある。それは進化だ。」と繋げていることを踏まえると、ここで太刀川氏が言っている「知的構造」というのは、私が上で述べたように「外部から知的に見える構造」であることが容易に読み取れる。また、p.50の「そして不思議なことに、この構造は進化だけにとどまらず、さまざまな知的現象にもそっくりな構造が見られる。こうした類似性を知るにつれ、私は自然物にも人工物にも共通する、普遍的な創造の法則があるのではないかと考えるようになった。」「それは、あらゆる知的構造は、「変異」と「適応」の往復が生み出すということだ。」という記述を見ても、p.42,43と同様に太刀川氏は知的構造という用語を進化に限らず外部から知的に見える構造一般に対して当てているのが分かる。したがって、松井氏が述べている遺伝子自体が思考するか否かという観点は全くの的外れの読解である。ここも読解難度としては非常に容易な部類であり、もし以上のことを読み取れない上での指摘であれば、申し訳ないが本の評者としては読解力不足と言わざるを得ない。また、以上述べたように太刀川氏は特に進化に限ったものとして知的構造という用語を当てている訳でもないので、上では擬人的表現として不適切であると述べたが、そのような一般的な意味での使用であればそれなりに許せるレベルの語用であると感じる(意志的な進化を強く想起させる訳ではないので)。実際、個人的な経験としてもこの程度の擬人的表現は科学エッセイの類ではそれなりに見る気がする。
| 創造とは、変異によって偶発的な無数のエラーを生む思考と、適応に| よって自然選択する思考の繰り返しであり、自然に則った形でその構| 造を捉えられるのだ。(p.54)
M: 意味がわからない。進化学における適応は自然選択の結果生まれる環境への適応のことであって、適応によって自然選択する、というのは…何を意味しているのだろう…? よくいって怪文である。
💛確かに「適応によって自然選択する」という表現だけ見ると不適切であるように見えるが、今は純粋に生物進化について述べている訳ではなく、あくまで主は創造であること、及び「変異によって偶発的な無数のエラーを生む思考」という並列部分を見るに、ここでの「適応によって」は「適応のアナロジーによって(or沿うように)」といったような方法論的な活用の意味が強いように思われる (松井氏の論理でいけば、そもそも「変異によって偶発的な無数のエラーを生む」という部分もおかしい (偶発的な無数のエラーが生まれることが変異(mutation)な訳なので))。なお、「適応のアナロジーによって(or沿うように)自然選択する思考」と解釈したところで意味はあまりはっきりとはしないのだが、適応的形質(ここでは非歴史的定義の)が自然選択によって次世代に残りやすいことや適応(プロセス的定義)が進むような自然選択という意味で言っているのであれば、全く的外れという訳でもないだろう。ただやはり表現としてはあまり上手くないとは思う。なお、「進化学における適応は自然選択の結果生まれる環境への適応のことであって」という主張そのものに関して言うと、非歴史的定義の適応においてはそれが自然選択の結果である必要はない。
またそもそも「進化学における適応は自然選択の結果生まれる環境への適応のこと」というのは循環定義のようになってしまっている。ここでの「環境への適応」の「適応」は生物学用語のそれではなく、単に説明として日本語のそれを用いただけであるという解釈も可能だが、今は適応の定義について議論している訳なので純粋に分かりにくい。またその場合、文脈よりおそらく松井氏はここで歴史的定義について述べているつもりなのだろうが、「自然選択の結果生まれる環境への適応のこと」というのはプロセス的定義としての適応により近い。一応「環境への適応"について"のこと」というように、環境へのフィットに関する話であるという意味で読めば歴史的定義もそれに含まれるが、そうであるならばもう少しそれが分かる表現を取るべきである。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、ここで太刀川氏は引用箇所の直前に述べている「適応の思考:適応状況を理解する生物学的なリサーチ方法」(『進化思考』p.54) について述べており、ここでの「適応によって自然選択する思考」というのは、適応状況(その対象が環境にどれだけフィットしているか)の観点でアイデア等を選別することに関してである。したがって、上で述べたようにここでの「適応によって」は方法論的な活用の意味である可能性が高い。またこの場合、「適応」を非歴史的定義やプロセス的定義的なものとして捉えることは可能である。ただやはり分かりづらい表現ではあると思う。
| 変異を生み出すミクロな構造と、適応性によって自然選択されるマク
| ロな構造は、そもそもまったく質が異なる。(p.55)
M: この記述じたいはかなり*正しい記述だと思う。分子レベルの、どこまで大きく見積もっても表現型レベルのミクロな変異と、集団的でマクロな自然選択、という区別は本を通して維持してほしかった。残念ながら、きちんと書かれているのはこの一文を含めごく一部である。
📕『進化思考』では集団レベルでの自然選択に対する”直接”の方法論(自然選択そのものをどういじるか)は書かれていないが、太刀川氏は特にそういった集団レベルの自然選択を否定する主張は特に述べていないはずである。したがって、松井氏が何を以って「本を通して維持してほしかった」と言っているのかよく分からないのだが、もし太刀川氏が集団レベルの自然選択を否定していると思っての発言であるのならば、それはおそらく間違いであるし、また集団レベルの自然選択についてもその後定期的に書いて欲しいということならば、それはただの松井氏の好みによる個人的願望でしかない。
| この進化思考の変異と適応の往復を説明するとき、私はよく「暗闇で| の玉入れ」 を例にあげる。(p.55)
M: 適応と自然選択と変異に関する暗闇での玉入れアナロジー。懐中電灯で照らすのが適応で、玉投げが変異、自然選択は適応が「わかる」とおのずと発生するらしい。理解が追いつかない。ここではカゴではなく、進化学でよく用いられる適応度地形 fitness landscape を使ったほうがよいのではないだろうか。適応度地形のようにすでに非常によく使われ、有用であることが知られている考えを借用するのではなく、より不正確で理解の浅い自前の考えを使うことで読者を一層混乱させているという意味で、車輪の再発明よりもたちが悪い。Framework is like a toothbrush; everyone has one, but nobody wants to use anybody else’s.*
💜玉入れの例が今一分からないのは同意であるが、適応度地形を持ってくるのもよく分からない。適応度地形はある形質の変異度とその適応度の対応を示しているだけなので、集団の中にたくさんの変異が生まれ、それらが選択を受けるという過程を表現することはできない気がする。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、ここでの「進化思考の変異と適応」は引用部位少し前の『進化思考』p.54における「適応の思考:適応状況を理解する生物学的なリサーチ手法」と「変異の思考:偶発的なアイデアを大量に生み出す発想方法」のことであり、その観点で言うならば玉入れのアナロジーはそこまでおかしなものではない。太刀川氏は『進化思考』p.57にて「適応を探求するには、好奇心を持って状態を解明し、懐中電灯で照らすように適応条件の定義をすることが目標になる。部屋の地図やカゴの位置、障害物の性質が定義されると、成功の確率は格段に上がっていく。つまりリサーチは創造の成功率を高める。」と適応について述べており、また変異に関しても同じくp.57にて「当てずっぽうでも玉を投げまくる」「しかしこのゲームは、新しい球を無数に投げてエラーを起こしつづけなければ絶対に達成できない。逆に変異的に玉を投げ続ける人は、いつのまにかコントロールが良くなり、偶発によって答えを発見するかもしれない」と述べ、加えて「適応の考察で本質的なゴールを探求しながら、変異でタフにアイデアを何度も投げまくる。その結果、自然選択は必然的に起こる」(同 p.57) といったまとめ的説明もしている。したがって、これらを踏まえるに太刀川氏は「懐中電灯で周りを探って当たりを付けること」(適応) と「当てずっぽうに投げること」(変異) の合わせ技で、当てずっぽうに投げてた試行が狙いを定めた投擲になっていく(自然選択)ということを言いたいように見える。懐中電灯で照らしながら投げればいいのではないか、懐中電灯でまず照らさずにいきなり当てずっぽうで投げ始めるのは現実的にはほとんどありえないのではないか、といった突っ込みどころはあるものの、「理解が追い付かない」というほど全く例として的外れなものではないと思う。ここも読解難度は大したものではなく、喩えの妥当性に納得できるかどうかは置いておいて、以上のような意図を全く理解できないのであれば、本の評者としては力不足であると感じる。なお、ここでの適応は非歴史的定義的なものであるので、もし仮に松井氏が適応を歴史的定義としてしか理解していないのであれば、そういった点で喩えの理解に難しさが生じている可能性もなくはないが、そもそもの話としてここでの「適応」は直前に説明してきた「適応の思考」という非歴史的定義的な話であると容易に理解できるし、松井氏自身も代案として適応度地形を出しているので、別に適応の定義がどうであるかが理解のネックになっている訳ではないように見える。また、上でも述べたように、ここで太刀川氏が言っているのは沢山の変異が自然選択的に淘汰される全体像であり、適応度地形ではそれを表現することはできない。松井氏はそういった意図を読み取れずに、単に適応と変異というワードだけを拾って適応度地形という見知った考え方に安易に帰着させようとしているように見える。
| このときの懐中電灯が『適応』を、玉投げが「変異」を表している。
| 〔中略〕しかしこのゲームは、新しい玉を無数に投げてエラーを起こ
| しつづけなければ絶対に達成できない。 (p.57)
M: この記述が筆者のいう「適応の思考」であるとしたら、適応の思考は進化学で言うところの適応とは無関係である。デザインの淘汰には、生物進化とはやや異なる淘汰のフェーズがある。大きなスケールでは市場などの資源をめぐる大規模なシェア争いがある。これはダーウィンのいう「生存闘争」と類似する。あるスマホのモデルが他社のスマホモデルのシェアを奪うといったケースがこれにあたる。これはデザインにとっては「本番」の淘汰環境である。野に放たれたデザイン案の成否を握るのは多数の、財布を握った消費者によるドル投票であったり、ある部署が提案したものが社内の他部署に拒絶されるような企業内などでの淘汰もあるだろう。あるプロジェクトである人が提案した案ではなくもうひとりの同僚の提案した案が採用されるようなデザイン室での淘汰もありえる。これは実験的な淘汰であり、品種改良する際などに行われる非社会的学習のプロセスである「誘導された変異guided variation」に相当する。意識的に行われるなかではおそらく最も小さな実験室による耐久試験が、個々人のなかにある。ここではいくつものアイディアが生まれるが、実現性や面白さ、伝えやすさ、他人に伝えたときに得られる評価など様々な要素が勘案され、問題がないと判断されたときのみ、口や手などを伝って体外に漏れ出る。アイディアが体外に漏れ出るだけでなくそれを同僚や上司、友人などの他人に伝えようとすればもう少し大きなスケールに移行する。そのため、もし「意志をもって、意図をもって、方向性をもって独力で新しいデザイン案を考えつく」ことを懐中電灯でたとえているのならば、それは誘導的な変異である。
💛例え話の作成には物事の抽象的構造を把握する高度な技術が必要であり、これは一般に思われているよりも簡単ではない。またその対象を理解しているかどうかは適切な例え話を作成できるか否かに関わってはいるが、前者をできているからといって後者も可能とは限らない。したがって、世の中には本質からズレた不適切な例え話が多く存在しているものの、そういった例え話の適切性を以ってその人の理解度を強く測るのはあまり良い方策だと私は思わない。
そういう訳で、確かにここでの玉入れの話はかなりズレたことを言っているような気がするが、それ以外の部分で太刀川氏が適応についてある程度理解していることは分かる上に、「適応の思考」が生物学における適応と全く無関係という訳でもないことも十分に読み取れるので、「適応の思考は進化学で言うところの適応とは無関係」と見なすのは早計であると思う。
また、私は文化進化について詳しくないので、松井氏が言っていることを適切に理解できているかは微妙なのだが、「これは実験的な淘汰であり、品種改良する際などに行われる非社会的学習のプロセスである「誘導された変異guided variation」に相当する」というのはおかしい気がする。この文章をそのまま読むならば「Aという淘汰はBという変異に相当する」という意味になると思うが、淘汰が変異に相当するというのは明らかにおかしいだろう。もしかしたら「実験的な淘汰では、対象となる変異は「誘導された変異」のみである」ということを言いたいのかも知れないが、それが適切に読み取れる文章にはなっていない。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、ここで太刀川氏が言っている「適応の思考」というのは環境における適応状態(環境にどれだけフィットしているか)を考えるものであり、したがって、「適応の思考は進化学で言うところの適応とは無関係である」という松井氏の主張は明確に誤りである。批判集第一章における「自然選択によって適応が生じる」(p.20) という記述を見るに、松井氏は「適応」を歴史的定義としてしか理解できていないために、関係ないと言っているのかもしれないが、その場合はそれは松井氏の知識不足による誤った批判である。また、「もし「意志をもって、意図をもって、方向性をもって独力で新しいデザイン案を考えつく」ことを懐中電灯でたとえているのならば、それは誘導的な変異である」という記述を見るに、松井氏は集団的な選択過程そのものに直接介入できなければ「適応」を応用したことにはならないと言いたいようにも見えるが、もしそうならばそれは松井氏の個人的な思想の話であって一般的に言えることではない。確かに太刀川氏の「適応の思考」はあくまで個人や広く見積もっても共同デザイナー間におけるアイデアの選別(または環境との関係性を踏まえた上での適応的な変異の認識)の話に過ぎないのだが、「適応」が関係している以上は「適応とは無関係である」とは言えない。松井氏が集団的な選択過程そのものに介入できなければ"真の"進化の応用ではないと考えている可能性が高いことに関しては、日本生物地理学会主催のシンポジウム「〈進化思考の光と影〉」[127]における松井氏の発表「賢いデザイナー、本質主義、ビンゴカード」[128]に関する批評においても述べた[129]。以下の記事参考。(あとそもそも「もし「意志をもって、意図をもって、方向性をもって独力で新しいデザイン案を考えつく」ことを懐中電灯でたとえているのならば」というのは太刀川氏の意図とはだいぶズレている。太刀川氏は環境との関係性の把握のことを懐中電灯で喩えている。また「デザイン案を考えつく」ことを懐中電灯で喩えるというのも感覚的におかしいだろう)。
| 逆に変異的に玉を投げ続ける人は、いつのまにかコントロールが良く| なり、偶発によって答えを発見するかもしれない。(p.57)
I: 「コントロールが良」いかどうか、はエラーの発生率の問題であるが、あらゆる可能性を試す、あるいはパラメーターを変化させる、のが「当てずっぽうでも玉を投げまくる」ことである。
M: 変異するだけでなぜコントロールがよくなるのかよくわからない。適応度地形において、生物(より正確には生物の遺伝子)は適応度地形の全体を理解していなくても、一部さえ理解していなくても、適応度地形のより高いところへ登っていけるのが生物進化のアルゴリズムのプロセスとしての根幹である。それに対して、たしかに人間による文化形質の創造においては、ある程度適応度地形を理解していることがある(たとえば、鉄ではなくチタンを使えば同じ重さで強くできる、など。さらに高度に、スマホを薄くすればより売れる、などの理解もありうるだろう)。そのため方向性をもたせた変異、「誘導された変異」を生み出すことが可能な場合がある。このように適応度地形を不完全ながらも把握(コントロールがよくなる現象)できるためには様々な筋道があるが、たしかに教育や訓練によって適応度地形を他の人よりもより正確に把握できるようになることはある。しかしそれは「変異的に玉を投げ続ける人」だからとは限らない。その意味で、「リサーチだけで創造を生み出すのは不可能」と断言する意味がよくわからない。リサーチも適応度地形の(より)正確な把握には役立つことがありうる。ランダムな、あてずっぽうな変異に関しては、意図しないコピーミスなどの「文化的変異cultural variation」という概念があるが、ここでのカゴの考えとはかなり違った考えであるように思うので割愛する。
物質文化における自然選択に比するべきものはドル投票、つまり市場での受容だと思う(他にも、生殖や発生の時点での自然選択に比するべきものとして前述のデザイン室内や発案者個々人の脳内から外へでるときの自然選択はある)のだが、そうではなくアイディア発想段階で「おのずと生じる」「必然的に起こる」とされているのがよくわからない。
玉入れの例全体がきちんと引用されていないので正確な判断はできないが、文脈から察するに太刀川氏はおそらく「命中率」の意味で「コントロール」と言っているのではないだろうか?コントロールにそのような意味はないので誤用ではあるが、命中率と言いたかったのであれば言ってることそのものは誤りとは言えない気がする。偶然に命中率が高くなることはありうるし、暗闇でかごが見えなくとも、かごに入ったまたは当たったことが音などの何らかの要因で把握できるならば、命中率を上げることはできるからである。しかし「いつのまにか」という表現を見るに、単に偶然命中率が高くなることだけを言っていそうではある。
なお本来の意味での「コントロール」であっても、上記のようにかごへの命中を把握する術があるならば、コントロールを増加させることは可能だろう。またこれは微々たるものだろうが、そういったフェードバック情報がなくとも、玉を投げ続ければ理論的には多少はコントロールが高くなるだろう。玉入れの玉を投げるという動作への慣れが起こるので。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、確かにこの辺の太刀川氏の主張は少し的を外しているように感じるが、「しかし、このゲームは、新しい玉を無数に投げてエラーを起こしつづけなければ絶対に達成できない。」(『進化思考』p.57) という太刀川氏の直前の文を踏まえると、太刀川氏の主旨は「カゴ及びその周辺情報を懐中電灯で把握しても、結局一発じゃカゴには普通入らないので何度も投げる必要がある(普通の運動会の玉入れのように)」ということであるようにも見える。したがって、「リサーチだけで創造を生み出すのは不可能」というのがそのような意図の記述であれば特に問題ないだろう。この辺の太刀川氏の記述を広く引用すると「しかし、このゲームは、新しい玉を無数に投げてエラーを起こしつづけなければ絶対に達成できない。逆に変異的に玉を投げ続ける人は、いつのまにかコントロールが良くなり、偶発によって答えを発見するかもしれない。すなわち、リサーチだけで創造を生み出すのは不可能なのだ。」となり、「すなわち」の直前がコントロールの話をしているのでやや分かりづらい構成になっているが、この二文目はあくまで補佐的な話であって、「すなわち」というのは一文目の話にもかかっているように思う (そう解釈すると意味が自然に通るので)。したがって、もし仮にその意図であれば「リサーチだけで創造を生み出すのは不可能」に関しては特に問題はない(厳密に0%かと言えばそうではないが)。なお、「逆に変異的に玉を投げ続ける人は、いつのまにかコントロールが良くなり、偶発によって答えを発見するかもしれない」に関しては、上記の文脈に沿うように好意的に解釈してあげると、「変異的に玉を投げ続けているうちに、偶々カゴの方向に向かって投げるようになり(またはそういうフェーズが来て)、それで偶然的にカゴに入ることもある」と読むことは可能ではある。ただやはりこの辺の文章全体として分かりづらくはある。
また、松井氏は「そうではなくアイディア発想段階で「おのずと生じる」「必然的に起こる」とされているのがよくわからない。」と述べているが、太刀川氏がここで云っている「自然選択」というのはアイデア群が個人内で環境へのフィットを基に選択されていくことについてである(例えば、あるプロダクトデザインにおいてユーザーが求めているものがある程度判明したとき、それに反するアイデアははっきりと思い付くまでもなく自然にボツとされるだろう)。したがって、実際にアイデアが市場に出た後の自然選択などについて述べている訳ではないが、自然選択的な観点が入っていることは確かであるのだから、言っていることそのものは別におかしなものではない。ここでも松井氏は「物質文化における自然選択に比するべきものはドル投票、つまり市場での受容だと思う」や「そうではなく」というように、「自然選択」の応用幅を勝手に個人的に固めて、それ以外の可能性の理解を安易に閉じてしまっているように見える。
| 創造的な人の脳内ではこの往復が暗黙的に行われていて、吟味された
| 発想が飛び出すから、いきなり的を射ているように思えるのだ。
| (p.57)
M: 非常に惜しいところまできていると感じる。ここで著者が「吟味」と表現するプロセスはたしかに生物進化における自然選択に比することのできる、文化・アイディアがフィルター=ふるいにかかるプロセスのひとつだ。しかし真に進化的に思考するなら、もっと集団的思考を織り込んだほうがよいと思う。いくつもの対立するアイディアの集団がある人の脳内にあるとしよう(集団)。脳内にあるアイディアたちのうち、実際に人に伝えたり(伝達、社会学習)、より磨き上げたり(個体学習)することのできるアイディアは少数だ。どれを選択してお話しようか/磨き上げようか、という吟味をして選ばれてから、次のステップ(他人に伝達したり、個体学習として試行錯誤するプロセス)に移る(継承)、というような説明ができるだろう。
この吟味は、アイディアが市場で成功するかとか、アイディアが社内で承認されるかとかの適応度地形上の争いではなく、個人の頭の中での適応度地形上の争いなので、文化小進化よりもさらにミクロなすステージでの進化であり、ミーム学以来ろくにとりあげられていない分野でもある。こここそがまさにデザイン・創造性の観点から文化進化にアプローチする際の独自性になるのではないかという気もする(し、そうでないかもしれない…。ノーエビデンス)。
なんにせよ、カゴと球のアナロジーは進化の観点からいうと絶望的にわかりにくいというか端的に言えば完全に間違っているのでぜひとも改善を望む。
💛「非常に惜しいところまできていると感じる」というように随分上から目線だが、私にはむしろこの部分こそが松井氏が太刀川氏の意図を読めていない部分であると思われる。まずそもそもここでいう集団的思考を太刀川氏は意図しているように見えるし、太刀川氏の主旨はここで「脳内で~暗黙的」と言っているように無意識的なアイデア吟味にあるように思われる。一方松井氏が言っている「吟味」は「いくつもの対立するアイディアの集団がある人の脳内にあるとしよう(集団)。脳内にあるアイディアたちのうち、実際に人に伝えたり(伝達、社会学習)、より磨き上げたり(個体学習)することのできるアイディアは少数だ。どれを選択してお話しようか/磨き上げようか、という吟味をして選ばれてから、次のステップ(他人に伝達したり、個体学習として試行錯誤するプロセス)に移る(継承)」というように、個人内レベルでも集団レベルでも意識的なものである。「どれを選択してお話しようか/磨き上げようか、という吟味」というのを無意識的なそれと取ることもできなくはないが自然な解釈ではないし、また先ほど「意識的に行われるなかではおそらく最も小さな実験室による耐久試験が、個々人のなかにある。ここではいくつものアイディアが生まれるが、実現性や面白さ、伝えやすさ、他人に伝えたときに得られる評価など様々な要素が勘案され、問題がないと判断されたときのみ、口や手などを伝って体外に漏れ出る」(p.93) と似たようなことを言っているので、おそらく意識的なそれという解釈で合っているだろう。
確かに「脳内で~暗黙的」というのを単に「口に出さず」という意味で解釈することは可能だが、『進化思考』全体における太刀川氏の主張からいってここでの趣旨も無意識的なそれである可能性が高い。『進化思考』5ページでは「では創造とは何なのか。それはとても不思議な現象だ。」と言っており、これは意識的に制御し切れない無意識的要素を持つものとして創造を捉えていることを示唆する。また、同62ページでは「創造性のことを、二つの思考を往復しながら生み出す螺旋的な現象として捉えれば、頭のなかで何度も作り直し、世代を発展させるように創造の強度を高める視点に慣れてくる。このプロセスを体得すると、はるかに効率的に創造的な仮説に辿り着けるようになるのだ。そして何より肝心なこととして、このプロセスは誰でも一つ一つ丁寧に学ぶことができる。つまり創造性は暗黙知ではなく、学べるものになるだろう。」と言っており、ここまで読めば、創造は通常無意識的に行われるものであるが、鍛錬を積めばそれをある程度意識的に行う (または無意識的過程を意識的にドライブする) ことができる、というのが『進化思考』の本旨であろうことが読み取れる。またここよりだいぶ後にはなるが、同276ページの「創造性もまた、自然発生する現象と考えられるのではないか」「創造が自然発生するプロセスを解き明かし」「ダーウィンが言う通り、変異と適応が繰り返されれば、そこに誰かの意図がなくても、進化は自然発生する。それと同じように、変異と適応の往復によって、私たちは創造性を発生させられるという考え方が、進化思考だ。」、同446ページの「生物の進化が、誰の意図も介さずに偶然の変異と自然選択の繰り返しで発生するように、 進化思考では創造もまた偶発する現象だと捉えている。」などからも、彼が創造を自然で無意識的な現象であると考えていることが読み取れる。また、詳しくは本稿の「終わりに」でも述べるが、批判集の出版一年前に批判者向けに太刀川氏が書いたnote記事[58]でも「「創造は意志によらない現象」という進化思考の仮説」といったことが述べられている。なお、ここでの「自然発生」とか「意志によらない」というのは往復的思考推移そのものについて言っているだけであって往復の両端での個々の思考は意識的である (「なんかアイデアを出したりそれを選別したりしてたら自然と良いものが創造できた」とか) という解釈も可能ではあるものの、「創造的な人の脳内ではこの往復が暗黙的に行われていて」や「頭のなかで何度も作り直し、世代を発展させるように創造の強度を高める視点」、また上記note記事[58]における「もし創造性が進化的な構造なら、必然(適応)と偶然(変異)には意思がなく」といった記述を見るに、個々のアイデア生成や選別も往復とともに一括的な無意識的現象の一部として扱われている可能性が高い。
という訳で、以上のように『進化思考』全体の論旨などを踏まえれば、太刀川氏が無意識的なそれについて述べていることは十分読み取れると思うのだが、松井氏がそれを読み取れずに自説を長々と開陳しているのは、おそらく太刀川氏の主張をまともに読み取ろうとする気がないからであろう。すなわち、太刀川氏の言っていることがそもそも検討する余地もない的外れなものであるという思い込みがあり、いかに自分の領域である文化進化一般の話に持ち込むかという態度で文章を読んでいるのではないかということである。そしてもちろんそういったバイアスの入った読み方は批評者(及び研究者)として非常に不適切なものである。または単に読解力が不足しているために意図が読み取れなかっただけかもしれないが、その場合も結局評者としては力不足と言っていいだろう。
📕『進化思考』を読んだので追記する。太刀川氏はここで松井氏の云う「集団的思考」を否定する発言は特にしていないし、何なら同ページ直前まで話していた玉入れの話はまさに集団的なアイデア群の話だろう。したがって、松井氏が何を以って「もっと集団的思考を織り込んだほうがよいと思う」と言っているのか謎なのだが、もし仮に太刀川氏が集団的なアイデア群の話を全くしていないと思ったゆえの指摘ならば、それは本の評者としては読解力不足と言わざるを得ない。松井氏はここで「なんにせよ、カゴと球のアナロジーは進化の観点からいうと絶望的にわかりにくいというか端的に言えば完全に間違っているのでぜひとも改善を望む。」と玉入れの例を酷評しており、先ほどもここでの太刀川氏の趣旨に全く合わない適応度地形を薦めていたが(「ここではカゴではなく、進化学でよく用いられる適応度地形 fitness landscape を使ったほうがよいのではないだろうか。適応度地形のようにすでに非常によく使われ、有用であることが知られている考えを借用するのではなく、より不正確で理解の浅い自前の考えを使うことで読者を一層混乱させているという意味で、車輪の再発明よりもたちが悪い。」(批判集p.92))、先ほど追記で述べたように玉入れの例はそれなりに妥当性を持ち、かつ読解も割と容易な部類な訳なので、やはり太刀川氏の主張をよく読み取ろうとせずに、如何に自分の知っている話に落とし込むかという読解姿勢を感じずにはいられない。(そういうバイアス的な読解姿勢も結局は読解能力の一部と言えるだろう。なお、もしそういうバイアス的な読解姿勢は無いと言い張るのならば、シンプルに読解力が低いということになる)。
なお、上で私は太刀川氏の"本旨"は「無意識的な思考」にあると述べていたが、ここはやや結論を急ぎ過ぎてしまったと感じる。というのは太刀川氏は確かに本の序盤(第一章以前)では思考の無意識性について述べているのだが、第二章以降の具体的な方法論の話ではそのような無意識性の話は減り、意識的な思考法の話が続くからである。したがって、本来無意識的な創造の思考を意識的な進化思考によって単に「模倣する」ということを言っているのか、またはそういった意識的な進化思考の鍛錬を積むうちに無意識的な創造の思考を鍛えることができると言っているのか(またはさらに他の解釈なのか)は明確には分からないのだが、いずれにせよ松井氏はこのような無意識性については批判集内で特に言及しておらず、やはりその辺は批評としては片手落ちであると感じる。また、太刀川氏が個人の頭の中でのアイデア錬成過程のことを言っているのか、プロダクト生成レベルのトライ&エラーのことを言っているのかも曖昧なことが多いのだが、本全体の文脈からするに主題は前者であるように個人的には感じる (例えば「こうした発想と取捨選択を超高速度で繰り返しているのが思考の構造なら、私としては大いに納得がいく。天才と呼ばれる人たちは、誰でもできることを、高速で繰り返す癖がついているのではないか。」(『進化思考』p.40)、「そんな私にとっても、この変異と適応の往復が、アイデアを考える頭のなかで起こっている感覚が確かにある」(同 p.40)、「先述の通り創造的な人の脳内では、これらの往復がシームレスに行われていると考えれば、納得できるのではないだろうか。しかし、特に背反する二つの思考を同時に行うのは、慣れないとお互いをロックしてしまい、思考停止に陥る。何しろバカなことを考えながら、秀才的に選択するのだから、まるで二重人格のような構造だ。そのため進化思考では、慣れるまでは変異と適応の思考で考える時間を物理的に分け、バカになる時間と、本質を見つめる時間、それぞれに集中することを推奨している」(同 p.58) 、「変異と適応を往復しつづけると、最初は偶然にすぎなかったアイデアが徐々に必然的な理由を帯びるようになり、ついにはまったく揺れ動かない強固な思考の結晶にまで育つ。それが創造という現象だ」(同 p.448) など)。
| イノベーションを目指すさまざまな現場での間違いにも気付くかもし
| れない。(p.57)
M: いくらなんでも藁人形論法ではないだろうか。
📕何がどのように藁人形論法であるかよく分からない。藁人形論法とは相手の主張を歪めてそれを批判することで元々の主張への批判を成功させているかのように見せる論法のことであるが、太刀川氏はこの引用直後で「よく調べれば発想はおのずと生まれる(適応だけの思考に陥る)」「ともかく思いつきを書くのが発想法だ(変異だけの思考に陥る)」(『進化思考』p.58) といったように発想法に関する言説には片手落ちであるものがあり、それだけに頼るとイノベーション(良いアイデア)を生み損ねるというような話をしている。したがって、藁人形論法の要素は特にないように見える。太刀川氏は単に「あるイノベーションを目指す現場での間違い」について述べているだけであり、「そういった片手落ちの発想法を理由としてそのイノベーション現場の何から全てが間違っている」などとは述べていない。もし太刀川氏が後者を述べていると松井氏は解釈して藁人形論法と言っているのであれば、それは松井氏の明らかな誤読である。また、そういった適応の思考と変異の思考を両方使うべきという考え方がそもそもおかしいからそれで論を組み立てるのが藁人形論法であると述べている可能性もなくはないが、適応の思考と変異の思考の両方を用いることが適切であるのは十分に納得できるものであり、「いくらなんでも」などと明確に否定できるものではないと思う。もしそう考えているのであれば少なくともどこがどうおかしいのか説明をすべきだろう。松井氏は私が引用した一文しかここでは述べていない。また、そもそもそんな片手落ちの現場は存在しないということを述べているのであれば、確かにそれは一理あるかもしれないが、そういう現場が存在しないことに関する経験的な説明すら一切ないので「いくらなんでも」と言ったところでそれは水掛け論だろう。なお、以上のように私は松井氏の一文だけのコメントに対して様々に松井氏の意図を想像して批評しなくてはならない訳なのだが、批判をするのであればもう少し詳細に説明すべきではないだろうか?
| 卵の産卵数が多いほど生存可能性が上がるのと同じく、大量の変異的
| アイデアを短時間で生み出すスキルは、新しい可能性にたどり着く確| 率を上げる。(p.59)
M: もしこの記述が真ならば、なぜ人間の女性は毎年1億の子を産まないのだろう?めちゃくちゃな記述である。進化思考よりMCMC*思考のほうが近いのでは…試行、評価関数による吟味(ただしこの評価関数がとてもノイジー)、確率的な移動、また試行、吟味、確率的な移動などの概念が説明できる。そのサイクルが速いほうが「新しい可能性にたどり着く確率を上げる」のは確かだ。
💛もし松井氏が個体の生存確率について語っているのだとしたら、「大量の変異的アイデアを短時間で生み出すスキルは、新しい可能性にたどり着く確率を上げる」という文脈から推測するに、太刀川氏がここで言っている「生存可能性」というのは子一匹あたりの生存確率ではなく、親一匹に対して繁殖年齢まで生存する子数 (またはもっと一般的にある相対経時時間における生存子数) の期待値のことだろう。確かに表現としては不適切であるので訂正は必要だが、これくらいの意図は読み取って欲しい。(そういう文脈抜きにしても、そもそも普通、産卵数 (産子数) の増加が生存確率にプラスに寄与することはない (血縁利他行動の存在や被捕食選択率の低下などでプラスに寄与することもありうるが、太刀川氏がそういった込み入った話をしているようにはあまり見えない。また餌資源の有限性の観点からは生存率にマイナスに働きうる) ことを踏まえれば、太刀川氏が本来の意味での生存可能性ではなく、親一匹に対して繁殖年齢まで生存する子数の期待値といったことについて語っている可能性が高いのは十分読み取れる)。
またそうではなく、「親一匹に対して繁殖年齢まで生存する子数の期待値」といった意味で取ってるけど、じゃあ人間も1億人産む方が適応的である、と言っているのであれば、それは人間 (及び哺乳類) の繁殖形式を全く無視した暴論であるのでお話にならない。また「子一匹あたりの生存確率」の意味で言っていたのだとしても、結局同様に人間の女性が毎年1億人の子を産むことは適応度とか関係なく進化的制約から不可能な訳なので、「なぜ人間の女性は毎年1億の子を産まないのだろう?」という松井氏の突っ込みはおかしい。一般に「~なほど、~になる」という主張はそれが際限なく適用されるとは特に言っておらず、それに対して極端すぎる例え話を持ち出して否定するのは議論の方法として不適切である。例えば、一般に雄同士の闘争においては体サイズが大きいほど有利であるが、それに対して「じゃあなんでトナカイは体長10mにならないんですか?」という突っ込みをしたところで、それは体サイズを大きくするデメリットを無視したものなので反例とはならない。松井氏はp.138にて「進化は試行錯誤の連続であって「おのずと決定」しない。」「(自然選択は)長期的には極めて優れた機能を形作る可能性のあるプロセスである」(括弧内は本稿執筆者補足) 、「生物は決して最適化された体を持っていない。それどころか我々は最適化されていない体の、放置された問題箇所に苦しみながら生きている。」などと述べているが、最適な形質に長期的にはおのずと至るかのように、松井氏自身が今ここで言っていないだろうか?
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏は引用部分の直前に「それらのパターンを体得すれば、固定観念を打ち破るクレイジーな発想を、短時間のうちに無数に量産できるようになるだろう。」(『進化思考』p.59)、また直後に「このプロセスを覚えると、考え方はもっと自由になり、すぐに他のアイデアを出せる自身がつけば、ひとつの発想にこだわる必要がなくなる。」(同 p.59) と述べている。したがって、ここでの太刀川氏の意図が、多量のアイデア創出により「当たり」を引く確率を上げることであるのは明らかであり、ゆえに件の卵に関しても「子一匹あたりの生存確率」ではなく、「一腹あたりの生存子数の期待値」であることも容易に読み取れる。そういう訳で、単に表現ミスに関して指摘している訳ではなく、以上のような意図を全く読み取れない故の指摘であるのならば、申し訳ないがそれは本の評者としては読解力不足と言わざるを得ない。
| これはまさに進化論のプロセスの図示そのものだ。(p.60)
| 図1-8 進化の螺旋(p.61)
M: 「進化の螺旋」図においてなぜ適応側でも枝分かれしているのかわからない。同様に、変異側でもバツ印はついていないにしても剪定が起きている。単に、枝分かれ=変異、剪定=適応なら非常にわかりやすい。しかしこの図はそうなっておらず、適応側でも変異側でも枝分かれと剪定が起きている。
「最適に向かうデザインの収束」が生物進化とはかけ離れている。(さまざまな局所)最適に向かうデザインの発散、枝分かれが進化と理解しているが。これでは樹状になっているとは言い難く、ダーウィン以前の、梯子を登っていくかのように単純→複雑に、よりよくなっていくというチェインモデルの側面を強調したもののように思える。
進化とは「どんなものでもさらに良くできる(p.60)」ことらしいのだが、それは進化ではない。生物を死に至らしめる有害変異も進化の重要なプロセスの一部だ。著者は全体的に「進化とは進歩で、よりよくなっていく梯子を登る行為」というダーウィン以前の考えで創造を説明している。cf. p.468への指摘
I: なぜ「振り子」ではなく螺旋なのか? 中心軸からの距離は何を表しているのか?なぜ縦軸のGenerationが等間隔でないのか? 仮にこの「Generarionが進むにつれてコンセプトが上昇(?)する」というモデルを受け入れるとしても、進化においては変異の発生確率は変わらず、横軸方向への動きが狭まっていくのはおかしいのではないか? いずれにしても単位が何なのか不明である以上、この「なんかそれっぽい図」を読み解きようがない。
💜まず松井氏のコメントについてだが、適応側でも枝分かれしていたり、変異側でも剪定が起きているのは、別に明確なターン性ではないということが言いたいのではないだろうか?また『進化思考』が手元にないので、ネット記事上 (「世界的デザイナーがやさしく解説「誰でもつかめる、創造的なアイディアを生む進化思考」~太刀川英輔氏」[29]) の同様のものと思われる図を見た上での話になるが (画像1)、少なくともこの図のおいては変異側ではバツ印はついておらず、ただ枝分かれしたものが止まっているだけである。これは別に剪定ではないのではないだろうか?アイデアというものは意識的にも無意識的にもたくさん出てくるけどそれを全て精査している訳ではないということだと思った。
また「最適に向かうデザインの収束」に関してはある特定の環境に対する話としては特に問題ないように思える。松井氏は樹状であることを求めているが、それは系統樹全体を見たときの話に過ぎない。系統樹においてある一つの種から遡るように見ていくとそれは一直線のものになっている。また私が見ている記事を見る限りでは、この進化の螺旋の図はあくまで進化思考の図であって、生物進化について語っているものではないように見える。したがってそこまで厳密性を求める必要はないように思われる。
また「どんなものでもさらに良くできる」に対して、有害変異の存在を以って突っ込んでいるが、ここで太刀川氏が言っているのは明らかに適応進化における適応的形質の話なのだから的外れではないだろうか?厳密にはその通りだが。また太刀川氏が「進化とはどんなものでもさらに良くできることである」というような定義的主張を本当にしているのであれば、上で述べたように厳密には誤りとなりうるが、もし仮にそうではなくて「進化はどんなものでもさらに良くできる」というようにただ単に進化の性質の一部を述べる主張をしていたのであれば、ここでの松井氏の指摘は不適切だろう。
振り子にすべきというという伊藤氏の主張もよく分からない。振り子にしたら縦の次元が無くなるので言えることがほとんど無くなるのでは?また中心軸からの距離や縦軸 (generation) の幅に関して突っ込んでいるが、中心軸からのズレはコンセプトからのズレであるとごく普通に読み取れるし、縦軸の幅の変化は更新スピードの変化 (初期は頻繁にプロトタイプを作って試して改良していくといった感じ) を示しているのではないだろうか?したがって「Generarionが進むにつれてコンセプトが上昇(?)する」という伊藤氏の解釈は彼の読解力不足による単なる誤読であり、正しくは「Generarionが進むにつれてコンセプトに適切に収束する」という図である。
また「進化においては変異の発生確率は変わらず、横軸方向への動きが狭まっていくのはおかしいのではないか?」とのことだが、まずこれは生物進化そのものではなく、進化思考の話なので変異の発生確率はプロダクトの精錬具合によって変わり得るだろう。意識的にも無意識的にも最終段階で出てくる新規アイデア数はプロトタイプ段階に比べて減るのが普通である。またそもそも横軸方向への動きの大小は変異の発生確率というよりは、変異の質や程度に依存するものだろう。そして質の差異や程度についても段々と小さくなっていくのが普通である。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、まず、図1-8と私が引用した図は同一である。また太刀川氏は引用部位の直前に「生存戦略が変わり、枝が他の方向に伸びて分化していくと、そこには別の螺旋が現れる。」(『進化思考』p.60) とも述べている訳なので、樹状性についてはちゃんと考慮している。したがって、松井氏がこれを読まずに「樹状になっているとは言い難く」と言っているのであれば、それは松井氏の読解ミスである。また松井氏は「これでは樹状になっているとは言い難く、ダーウィン以前の、梯子を登っていくかのように単純→複雑に、よりよくなっていくというチェインモデルの側面を強調したもののように思える。」というように述べているが、もしこれが系統樹において梯子的な進化は一切存在しないという主張であるのならば、それは端的に松井氏の理解が間違っている。上でも述べたように系統樹における各分岐間の間は紛れもなく梯子的進化(分岐のない進化)をしている。しかし、ここで松井氏の云う梯子的な進化というのが"必ず"最適解に行き着くような"単調的"な進化についてであればそれは確かに誤りであり、また太刀川氏の螺旋図がそのような必然的な最適解への一直線の到達を意味しているように見えなくもないのも事実であるので、その辺についてはある程度批判は通る。ただ、もしここで太刀川氏がある固定的な環境における適応的形質の獲得プロセスについて述べているのであれば、必然性や単調性の問題を考慮したとて螺旋図が全く以っておかしいとまでは言えないだろう。また太刀川氏は『進化思考』p.74にて「進化という語感は、前よりも良くなる進歩的現象だと誤解されている。しかし実際の進化は必ずしも進歩ではなく、ランダムな変化の連続だ。」と述べており、進化が単調的な前進でないことは一応理解している。しかし、上記のように螺旋図に単調的な前進を読み取る人が存在し得るのは確かなので、その辺は図の修正または文字での補足的な説明をした方が良いだろう。なお、もし仮に松井氏がここで言っている「梯子を登っていくかのように単純→複雑に、よりよくなっていくというチェインモデル」というのが下等な種から高等な種への進化という意味でのものなら、それは太刀川氏の主張とは全く関係ないだろう。また梯子的進化の中でも特に「単純→複雑」という方向性について言及しているのであれば、それは太刀川氏の記述から大して読み取れるものではないし、そもそも「単純→複雑」と梯子・樹状は大して関係ない。樹状的進化に「単純→複雑」を見ることも可能であるし、梯子的進化に「複雑→単純」という逆方向の要素を見ることも可能である。
あと「進化とは「どんなものでもさらに良くできる(p.60)」ことらしいのだが、」と松井氏は述べているが、これは松井氏の誤読である。太刀川氏が述べていることを正確に引用すると「進化の一つの前提は、完璧な生物は存在せず、どんなものでもさらに良くできる、ということだ。」であり、これは「進化とはどんなものでもさらに良くできることである」を意味しない。太刀川氏の記述は有害進化や中立進化を否定していない。(やや少しズレた喩えになるが大雑把に喩えるならば、松井氏がここで言っているのは「トレードの一つの前提は、価格上下を完璧に予測することは不可能だが、種々の情報を基に予測の精度を上げることはできるということである」という主張に対して、「ふむふむ、トレードとは種々の情報を基に予測精度を上げること(または上げることができること)を意味するのか」と言っているようなものである)。これまで何度か誤読について指摘しているが、この部分も読解としては非常に簡単な部類のものであり、申し訳ないが本の評者としては読解力不足と言わざるを得ない。なお、第二章の林氏の同様の指摘部分で述べたが、「進化の前提」という太刀川氏の表現は正確には誤りで、正しくは「進化論から導かれること」である(この誤りのために先程は正確な喩えが難しくなっていた)。
| 変化はエラーが引き起こす(p.70)
I: 「エラー」を十把一絡げに扱い議論をしているので、破綻が生じている。 ドナルド・ノーマンの『誰のためのデザイン?』[20]に従い、「エラー」を計画段階での「見当違い」である「ミステイクmistake」と、実行段階での「し損い」である「スリップslip」に分けるとする。創造性で必要とされる「エラー」は様々な可能性を試し、正解以外を選んだ「ミステイク」である。一方、DNAの変異は複製を正しく遂行できなかった「スリップ」である。本文中の「エラー」を正しく「ミステイク」と「スリップ」のどちらかに置換すると相当読みやすくなり、また論理の破綻もより明らかになるだろう。詳細は次章参照のこと。
「エラー」を2種類に分けて考えることは世間一般的とは言い難いかもしれないが、質的に異なることは明らかであるし、著者の提唱する「解剖」の視点を「エラー」に適用しさえすれば達することのできる視点であろう。少なくともデザイナーがノーマンのベストセラーを読んでいない、では不勉強の誹は免れられまい。
一般にエラーついて詳細に分類することの価値そのものは否定しないが、それは今の話においてそれほど重要なものなのだろうか?次章で詳しく述べられるそうなので楽しみにしておくが。
なお「少なくともデザイナーがノーマンのベストセラーを読んでいない、では不勉強の誹は免れられまい」とのことだが、『誰のためのデザイン?』ではアフォーダンス理論という私が前々から疑義を呈している科学理論をさらに誤解釈して援用しているらしく、そういった点から私はあまり読む気にならない。後になって誤解釈を訂正した改訂版が出版されたらしいが、問題は未だ存在すると思われる。彼はドアノブをアフォーダンスの例として出しているらしいが[30]、ドアノブ及び扉を開くといった極めて非自然的な対象すら拾うようにアフォーダンス理論における直接知覚が進化してきたとは私はとても思えない。私はアフォーダンス理論にだいぶ懐疑的だが、生態的に瞬時の判断が要求されるような知覚に限定すれば、正しい可能性もあるかもしれないと思っている。しかし、ドアノブ程度であれば既存の知覚理論における学習で十分説明が可能である。したがって、そんな例を紹介する本を私は信用できない。とはいえ、アフォーダンスの提唱者であるギブソン自身が「郵便ポストのアフォーダンス」なるものがあると言っているらしいので[31]、そういうのに納得していればドアノブの例を出すことに特に疑問を持たないのかもしれない。私にはギブソンは不適切にアフォーダンス概念を拡張しているように見えるが。
| では、何が創造を洗練させるのか。欠陥があるものや需要のないもの
| は自然淘汰される。物を作る人はエラーしつづけることで創造を🟢| 前進🟢させるが、創造を🟢洗練🟢させるのはユーザーや市場への適| 応なのだ。(p.72)
M: この記述はほぼ同意する。当書での数少ない集団的思考への言及である。市場こそが自然淘汰の舞台だ。とはいえ色々と改善できるのではないかと思う表現はある。創造を洗練させる、というのはやや主観的な表現だし、適応が洗練「させる」という表現はピンとこない。自然淘汰という言葉は生物進化にとっておいてほしい(自然naturalという言葉が、人為的でもhigher entityによるものでもないことを意味するので)。また、創造という言葉選びも当書を通して同意しがたい。デザインもしくは設計のほうが私はしっくりくる。
※本稿執筆者注:実際の引用部では🟢で挟んだ「前進」「洗練」の上に傍点が付いているが、noteでは再現不能なのでこのように示した。
💜「創造を洗練させる、というのはやや主観的な表現だし」とのことだが、別にそこまで問題ないだろう。「この厳しい環境が彼の能力を洗練させるだろう」というように非主体的対象を主語とした「させる」という表現が単に客観的な因果性を述べる意味で使われることは一般に受け入れられている。また「適応が洗練「させる」という表現はピンとこない」とのことだが、これは「適応」をプロセス的定義として取るならばそれほど問題ないだろう (厳密にはプロセス的定義においても適応とは洗練されていくことそのものを指す訳だが、そういった洗練的プロセスを通して結果的に洗練されているとは言えるので)。(なお、「ユーザーや市場への適応」のように「環境へ(の)適応」といった表現は一般に生物学の文脈でもしばしば用いられるが、厳密には(プロセス的or歴史的)適応とはある環境において適応度が大きくなる方向に進化する過程orした結果であり、あくまで環境との適合具合の観点から形質を評価する概念に過ぎないので、「環境へ(の)適応」という表現はやや違和感があるとも言える(結果的には環境"に適応"しているように見えるが、進化メカニズムとしてはあくまで環境"との適合の良さ"があるだけであるということ)。したがって、「環境に適合するような適応」などと述べたほうが良いような気もするが、これはやや冗長であるし、またこの場合そもそも適応(adaptation)という語を使っている意味がないとも言える(適応やadaptationはそもそも「への (to)」を取る語である。語源からして接頭辞「ad」は「~へ(to)」を意味する)。そういう訳で、「適応(adaptation)」という語を用いる根本的な意義の話はおいておいて、現状の語用としては「環境への適応」で問題ないだろう)。
また「自然淘汰という言葉は生物進化にとっておいてほしい(自然naturalという言葉が、人為的でもhigher entityによるものでもないことを意味するので)」とのことだが、ここで太刀川氏が言っているのはユーザーや市場全体による多数決的な淘汰であり、これを自然選択と呼ぶことはそこまでズレていないと思う。なぜならユーザーや市場全体による多数決的な淘汰そのものには特定の少数の人による人為性は存在しない(また仮に不可避的に存在するとしても少なくともそれが強く影響している訳ではない)からである。個々の人間はもちろん意志を持って製品の選択を行っているが、その個々の選択が製品の淘汰を即決める訳ではないので、品種改良などにおける人為選択とは全くの別物である。またそういった個々人の選択の集積としての多数決的な淘汰はその集団全体が持つ嗜好(選択)傾向を反映したものであるため、人間集団というある種の自然環境によって選択されたと見ることはそこまで的外れではないだろう。
なお「デザインもしくは設計」というのは批判集p.90におけるデザインの自己複製云々の話のことだと思うが、これは松井氏が進化の定義を狭く取っていることによるものであり、松井氏独自の主張なので一般に言えることではない。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、第一章を含むここまでの文脈から言って、ここでの「創造を洗練させるのはユーザーや市場への適応なのだ」における「適応」は「環境にどれだけフィットしているか」といったような非歴史的定義的な意味として解釈するのが最も適切であるような気がする。
| そもそも失敗=変異的エラーがなければ、成功=創造的進化もないの
| だ。(p.73)
M: ここでの失敗・成功の定義が曖昧だが、適応度の上下につながる変異をすべて変異とするのなら、失敗の要因⊂変異だし、成功の要因⊂変異となる。有害変異は失敗である、というのであれば、有害変異がなければ成功しないという論は成立しない(実際には有害変異なしで有益な変異ばかり作り出す、という)ので、この記述は間違いになる。
💜文脈が分からないので、太刀川氏がどういった意図で「失敗」と言っているのかはっきりとは分からないが、単に変異 (variation) や突然変異 (mutation) の意味で「失敗」と言っているのだとしたら特に問題はないだろう。また有害変異の意味で「失敗」と言っていた場合、確かに有害変異が必ず成功に必要であるという記述そのものはおかしいものの、有益な変異が出てくるまでには有害な変異が出てくることも多いことから傾向的・教訓的に「失敗がなければ、成功もない」と言っているのであれば、その内容そのものは一般に受け入れられるものである。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はここの引用部位直後に「けれども我々は失敗を悪しき経験として捉えてしまい、挑戦を躊躇する。こうしたバイアスが生まれる背景には、教育の常識のなかに失敗を避けさせようとする構造上の問題があるだろう。」(『進化思考』p.73) と述べているので、ここでの「失敗=変異的エラー」というのは有害変異に相当するものを言っている可能性が高いだろう。したがって、上記したように「失敗=変異的エラーがなければ、成功=創造的進化もない」というのは厳密には誤りになるが、傾向や教訓的な話として大雑把に読めば受け入れられるものではある。
| 部下の発想は論破するのに代案を出せない残念な上司のような、非創
| 造的な人が社会に増えてしまう。(p.73)
M: この上司は「非創造的な人」か? 変異と適応が両輪だというのなら、部下の提出した変異を適応(というか吟味による棄却)するのはたいへんに創造的な人だと思う。また部下の(実現すればたくさんの複製を産めるようなポテンシャルを秘めた)有益な変異をもってきていたとして、それを棄却するのもまた進化のプロセスの一部だろう。
💜変異と適応が両輪であることには同意しているようだが、その両方を持ち合わせている人が「創造的な人」であるというのが太刀川氏の趣旨ではないだろうか?部下の案を吟味をすることのみを以って「たいへんに創造的な人」と見なすのは明らかにここまでの太刀川氏の趣旨から外れているし、一般的感覚から言ってもおかしい。太刀川氏が具体的にどういう文脈で両輪と言ったのかは分からないが、一般に比喩的に両輪という語が使われるときはその両方が必要であることを意味している。またここでの「両輪」というのは松井氏独自のもので太刀川氏は特にそうは言っていなかったとしても、結局上で述べたように松井氏は太刀川氏の趣旨を理解できていないように見えるし、両輪という比喩表現の意味も理解できていないように見える。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はここの引用部位のすぐ前に「それどころか、失敗してエラーを起こす方法なんて、とんでもないと考えられている。規範的な秀才が評価される教育の仕組みでは、予測不能な変化を起こす人は当然、評価されない。これは創造性の本質から逆算すると、教育上の大きな誤りだ。」(『進化思考』p.73) と述べており、また少し後に「進化思考では、変異と適応にまつわる両方の思考力を育む」(同 p.73) とも述べているので、ここでの太刀川氏の意図が変異と適応の両方が必要ということであるのは容易に読み取れる。またここ以前からも太刀川氏はそういった話をずっと述べている。したがってここは松井氏の読解ミスであるように思われる。またはそういった文意そのものは理解できていたけど、それを松井氏の頭の中で「変異と適応の両輪」という表現に変換し、そして松井氏が「両輪」という比喩の意味を一般的に間違って理解していたために、片方だけ満たしていればOK、というおかしな結論を導いてしまった可能性も考えられる(当たり前だが二輪車は片側が無かったら動かない)。いずれにせよここは松井氏の指摘がおかしい。ここも読解としては非常に容易な部分であり、このような変な指摘が存在すること自体が驚きなのだが、あまりにもレベルの低い指摘なので、ここは太刀川氏のことを批判したいという欲求による認知バイアスが理解を歪めたのではないかとも思われる。
| 進化という語感は、前よりも良くなる進歩的現象だと誤解されてい
| る。しかし実際の進化は必ずしも進歩ではなく、ランダムな変化の
| 連続だ。(p.74)
M: こういう進化学にとって基礎的で重要な記述は確かに当書に登場するのだが、それが全文に反映されていないのは残念だ。ただし、自然選択は非ランダムなプロセスなので進化はランダムな変化の連続だという表現は適切ではない。*
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
* 以下林からのコメント。「ここは「適切でない」と断言するほどのと
ころでもないと考えます。変異はランダムだが選択は非ランダム、とい
うのはその通り。ランダムな「変異」が含まれるので「自然選択はラン
ダムな変化である」というのは生物学者としてそれほど不自然な記述で
はなく、僕も流してしまったところ。一方で、「進化は無目的である」
という意味での「ランダムな変化の連続だ。」という解釈はありうる
し、僕はそのように受け取ったのでここは流しています。「自然選択は
非ランダム」と「進化は無目的」の間の説明がないとイチャモンに見え
ます。当書では珍しく「進歩ではなく」と留保がついていますし、少な
くとも僕はここは「適切でない」と一言で断じるところでもないと考え
ます。」
※本稿執筆者注:「*」以降の字下げされた記述はp.98下部の注釈文である。
💜太刀川氏が周辺知識含め進化を完全に正確に理解している訳ではないことは確かだが、批判集の執筆者らが言うほど理解してない訳ではないと私は感じる。ここまで指摘してきたように、この批判集には執筆者らの生物学的知識の不足や単なる読解力不足による勘違いが多く存在する。
また、「ランダムな変化」に関しては補足にて林氏からも突っ込まれているが、変異がランダムであることから「進化はランダムな変化の連続」と表現することにそれほど違和感はない。また「進化は無目的である」という意味でのランダム性である可能性が林氏から提示されているが、「前よりも良くなる進歩的現象だと誤解されている」や「必ずしも進歩ではなく、ランダムな変化の連続だ」というのを見るに、ここは単に常に有益な変異が起きる単調的なものではないという意味で太刀川氏はランダム性を持ち出しており、「目的」といった意志性については特に言及していない気がする。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの引用部分の次の次の文以降で「もちろん、すべてのエラーが役立つわけではない。ほとんどのエラーは欠陥として子孫に現れ、うまくいかない。しかし稀に自然に適応した変化が偶然生まれ、それが定常化していくと、その方向に何世代もかけて種が分化する。」(『進化思考』p.74) と言っており、これを見ても、太刀川氏がここでいう「ランダムな変化の連続」というのは無目的かどうかという意志性に関する意味ではなく、常に有益な変異が起きる訳ではないという非単調性の意味であろうことが読み取れる。もちろん100%そうであると断言できる訳ではないが、このように読むのが自然であると思うし、批評をするのならば最低限こういう解釈も考えられるといったように解釈の一つとして提示して欲しいと感じる (上記の引用だけを見ると太刀川氏は間違いなく非単調性について述べているようにも見えるが、その次の段落ではここの生物進化における記述を以って、意図的に狙ってアイデアを創出する必要は無いということ、及び良いアイデアは偶にしか生まれないという方法論に関する2点の結論を導いているので、「意図性」の意味が含まれている可能性も残る)。なお、もし仮に林氏がここでいう「無目的」というのが、常に有益な変異が起きる訳ではないという意味も含めてのものであったのならば、それは林氏の語用がおかしい。意志性の無さ(無目的)と非単調な進化は異なる概念であり、一般に「意志あり(目的あり) → 単調な進化」が成り立つとされることは多いが、仮にそうであったとしてもそこから「意志なし(無目的) → 非単調な進化」は導き出されないし、一般的感覚から言ってもこれは別に成り立たない。したがって、「無目的」という語で非単調な進化まで表現することは普通はできない。
| 進化思考的に今考えてみれば、ボケは変異、ツッコミは適応だ。
| (p.76)
I: それをいうなら「ツッコミ」は「淘汰圧」(p.83)である。
ここまで読んできたことから察するに、伊藤氏も「適応」を歴史的定義のみで理解していると思われるが、非歴史的定義やプロセス的定義で考えれば、ある形質が環境にフィットしているか否かという意味で適応をツッコミと表現することはそれほど間違いと言えるものではない。確かにそのツッコミは還元的には環境の淘汰圧に由来するのだが、そのような観点で見るならば「淘汰圧じゃなくて環境がツッコミだろう」と言うこともできる訳なので、要するに大した問題ではない。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、ここまでの話の流れからして、太刀川氏がここで云う「適応」というのが環境へのフィットを基にアイデアを選別する「適応の思考」であることは明らかである。したがって、もしそういった太刀川氏の意図を理解した上で敢えて表面的な問題について突っ込んでいるのであれば一応話の筋そのものは通っているが、もし仮に太刀川氏の意図を全く理解せずに指摘したのであれば、それは伊藤氏の誤読による誤った指摘である。
| 人類は爆発的なスピードで道具を発明し、発展してきた。(p.78)
I: 当書の論旨に沿えば、ここは道具を「創造」し、であるべきではないのだろうか。と思ったら既に「発明」と「創造」はあちこちで混用されていた。読みやすさのために同じ語の繰り返しを避け、類義語を使う、という文章の技法はあるのだが…。
💜別に「発明」でも良くないだろうか?その本の趣旨に沿った単語のみを使うべきというのはおかしい。またその後「だが…」という語尾を取っているが、言いたいことがあるなら「…」じゃなくてはっきりと自分の主張を述べるべきだろう。伊藤氏限らずこの本にはこういった皮肉的表現が数多く存在するが、そういうのを見るに彼らは建設的議論をしたい訳ではないように思えてしまう。
| その後、紀元前三五〇〇年頃にシュメール人が文字を開発すると、人
| 類が道具を創造するスピードもさらに速くなった。(p.78)
I: スピードをどう計測するのかわからないが、「人類は言語の発明によって、変異的な構想が自然発生する仕組みを身に付け」(p.79)たかどうかはなんとも言えないだろう。相関関係があるとしても、それが因果関係と言えるのかは別である。1つの可能性として、言語によって知識の伝達、継承が可能になり、変異の結果が残りやすくなったため、次なる変異に至れるようになった、ということは考えられる。
📕確かに言語の進化のみが人間の道具創造の加速をもたらしたかのような太刀川氏の説明には留保が付くが、少なくとも言語が道具進化の加速に一部影響を与えていたのは事実と言っていいのではないだろうか?伊藤氏は因果関係は言えないと言っているが、言語によって知識の伝達や伝承がジェスチャーなどに比べて容易になるのは自明であり、またそれが道具の創造において有利に働くのもほぼほぼ演繹的に言えるような気がする。
| この言語と遺伝子の類似性こそ、言語によって人が道具を発明し、自
| らを進化させられた理由だと考えると、創造と進化が類似している謎
| が氷解する。(p.80)
M: 言語そのものが進化するので、この記述は「人間の進化と遺伝子の進化の類似性が、人間がこんなに複雑な人工物を発展させた理由だ」と言っているようなものだ。原因と結果がめちゃめちゃになっている。
I: 「謎が氷解する」、「この仮説は深く腹落ちする」(p.79)、「創造性という人類だけに起こった奇跡に合点がいく」(p.83)。このように論証なく独り合点で論を進めてしまうのには閉口する。小学生でなくとも「それってあなたの感想ですよね?」*と言いたくなる。
言語と遺伝子の類似性 (と太刀川氏が称するもの) は、言語によって道具を発明してきたことと特に関係ないので、ここでの太刀川氏の主張が誤りであるのは確かだが、もし仮に関係があったならば、それが創造と進化が類似している理由になりうるので、松井氏の指摘はズレている気がする。松井氏はおそらく「言語進化」と「道具と人間の共進化」を混同している。また「言語進化」が文化進化の側面も持つことを理解していないように見える。
また「このように論証なく独り合点で論を進めてしまうのには閉口する」とのことだが、一応仮定について議論はしているようなので、「論証なく独り合点で」というのは少し言い過ぎな気がする。ただその議論が質的に足りてないのは確かであるが。
| 〈創造にとっての言語≒進化にとってのDNA〉(p.82)
M: この記述じたいはなるほどとは思う。しかし図面は?楽譜は?手にとって触れる実物は?言葉がないビーバーにとってのダムづくり遺伝子は?となり、言語以外にもDNAの座の候補はいくらでもある。一言で言えば、「メディア」はすべてDNAの座の候補だ。
私はあまりなるほどとは思わない。確かにこの記述単体で見れば、見るところはあるかもしれないが、ここ以前に彼が単語や文法を言語とDNAの類似性として挙げていることから見るに、ここでもそういう話をしている可能性が高く、太刀川氏は言語が他者とのコミュニケーションや個人内の思考における道具となる点で創造において進化におけるDNAに相当するものであると言っている訳ではないような気がする。
また私はビーバーに大して詳しい訳ではないが、ビーバーのダムはここで言っている「創造」とは特に関係ないのではないだろうか?ダム作り行動が多少社会学習されるものである可能性はあるが、基本的には行動の幅は遺伝的に決まっており、人間における道具の創造といった非遺伝的な人工物作成 (個々の具体的な道具と対応する遺伝子が存在する訳ではない) とは異なるものであると思われる。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの引用部位の直前に「創造の源泉である言語は、伝達ミスや誤解をつねに引き起こす。言葉で相手の考えを一〇〇%理解するのは不可能で、私たちはつねに誤解をしながらエラーを許容して生きている。誤解は、交配時のDNAのエラーと同じような性質を持つ。言語のエラーは創造にとっての進化的変異であり、創造を生み出す源泉になっている。」(『進化思考』p.80-82) と述べており、やはりこの観点のみで言語とDNAの類似性を語ってもそれは創造と進化を繋げることにはならないだろう。もちろんそういった誤解や言い間違えなどのエラーが創造の源泉になり得るというのは確かだが、それのみが創造の源泉である訳ではない。ただ、上で述べたような他者とのコミュニケーションや個人内の思考における道具となる点で言語が創造に役立つという観点も合わせれば、言語とDNAの(機能的な)類似性を語ることは全く不可能ではないかもしれない。
| これらの会話がDNAの交配に相当するなら、(pp.82-83)
M: 会話はたしかに言語に変異を生む重要なメカニズムのひとつではあると思うが、ひとつにすぎないし、交配という有性生殖のメカニズムとは関連が薄い。「会話はアイディアのセックスだ」という言葉のキャッチーさはわかるし主旨にも同意するが、それを科学的に妥当な仮説だと捉え、科学的に検証するには非常に長い道のりが待っている。交配は遺伝子変異とはイコールではない。しかもDNAは交配しないのでは?個体が交配する。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
I: 相当しないだろう。DNAの交配は物理的に交換されるが、会話における言語のやりとりは「交配」あるいは「交換」ではないだろう。日本語と英語の交配はルー大柴の「ルー語」みたいになるとでも言いたいのであれば別だが。言葉の誤解の例としては「sewing machine」の「sewing」が「欠失」した「ミシン」だろうか。
💜引用の少なさ故に、ここで太刀川氏が言っている「相当」というのが具体的にどういうことを指しているのか不明なので、何を検証すべきなのかが分からない。もし単に「二個体それぞれから由来する対象 (今でいう言葉やDNA) が関係し合って新しい何かを生む」という意味での類似性について言っているのであれば、その相当性は正しいだろう。そしてそれ以上の相当性は個人的に思いつかない。もしそれ以上のことを言おうとしているのであれば、それは明確な誤りか、もしくは科学的対象ではない可能性が高い。なお「会話はアイディアのセックスだ」という主張は、これを文字通り読ませるならば科学的に検証可能な対象ではない。しかしここでの「セックス」の定義を上手いこと定めてやれば科学的に検証可能な対象となることは可能だろう。
「交配」は個体に関する言葉であるという松井氏の指摘はその通り。一方「DNAの交配は物理的に交換される」という伊藤氏の指摘はよく分からない。前述の通り交配はDNAに関する言葉ではないし、個体の交配においてDNAが個体及び生殖細胞の間で交換されることはない。相同染色体間で組み換えが起きることはあるが、「交配」というワードピックからはそれを意図しているようには見えない。なお一応、遺伝子プールといった集団レベルの話においてはまるで交換されているかのように振る舞うと言い得るが (AB集団とCD集団 (アルファベットは対立遺伝子を示す) からAC個体とBD個体が出来ることはAB集団とCD集団が対立遺伝子を交換しているように見える)、伊藤氏がここまで考えているかは不明である。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、ここで太刀川氏は会話とDNAの構造的な類似性の話をしており、特に会話における誤解がDNAにおける突然変異(または単に変異)と同等であるということを言っている。したがって、上記のように「DNAの交配」という表現の不適切性や、誤解が創造を生む唯一のメカニズムではないのは確かなのだが、「後代に伝わり、かつ他個体間でやり取りもあるような伝達的事物がエラー的に一部変換される」という緩い類似性の観点では似ていると言うことはできるだろう。この辺はDNAの突然変異と有性生殖諸々を太刀川氏が混同しているように見える。
| 言語から創造につながる変異の発生数は、進化より桁違いに多くな
| る。(p.83)
M: 意味がわからない。比較できるものではない。まず言語の変異と創造につながる変異は違う。仮にここで言いたいことが、言語の変異は生物進化での変異よりも頻繁であるということだとしても、変異が多ければよいということでもない(生物進化でも、遺伝子の変異率が今より高くなるとうまくいかないと読んだ記憶がある)。変異率はたしかに文化伝達のほうが高いと言われているが、それは「会話がDNAの交配に相当する」からではないし、その数が1年間に4京880兆語にのぼるからでもない。変異が発生しうる回数だけでいえば、細菌の数、彼らの分裂頻度、彼らの染色体の総塩基数を考えれば「(生物)進化のほうが桁違いに多くなる」ことは容易にわかりそうだ。言語の進化が生物の進化よりも早い、という主張であれば同意できる。
「言語の進化が生物の進化よりも早い」というのは一般的にはそうかもしれないが、具体的にはそれぞれの進化対象に拠るだろう。松井氏自身が挙げているように、細菌などのように世代交代が早い種では進化速度は速い。
| 結果として、文化の進化は自然の進化よりもはるかに速く、進化に比| べて淘汰までの時間が短い。(p.83)
M: 「淘汰までの時間」とは何を指すのだろうか?生まれて数分で死滅する細菌は淘汰までの時間が短いのではないのか。もし人間進化のみを比較対象にしているならそのように書くべきだ。たとえば、ここ数十万年の人類にとっては表現型の進化よりも文化の進化のほうが重大な影響を及ぼした、という記述であれば同意する*。
淘汰と進化の話は若干別物ではあるが、結局速いかどうかがそれぞれの進化 (淘汰) 対象に拠るということは一緒なので、松井氏は言ってることにいまいち一貫性がないような気がする。1つ前の指摘で「言語の進化が生物の進化よりも早い、という主張であれば同意できる」と言っていたのだから、淘汰の速度についても同意できると言うのが自然ということ。言語の淘汰と生物の淘汰においてもここで松井氏が言っているような細菌の進化速度は反例となりうるので。
なお以上は「進化に比べて淘汰までの時間が短い」における「進化」を生物進化として解釈したもので、文脈的におそらくこの解釈で合っていると思われるが、文字通り「進化に比べて淘汰までの時間が短い」と読むと、だいぶよく分からない文章になっているので訂正したほうが良い。
| 自然のほうがデザインが巧妙なのは、こうしたスクリーニングのプロ
| セスの圧倒的な違いが原因だと考えられる。(p.83)
M: 文化においては変異が桁違いに多く、また淘汰圧がゆるすぎるからだという主張だ。研究開発にかけた時間と資源の差ではないかと思う。デネット『ダーウィンの危険な思想』[26]のリバースエンジニアリングについての記述も参照してほしい。
ここに関しては太刀川氏が言っていることにも一理あると思う。前者の変異が桁違いに多いというのはとりあえず置いておくが、少なくとも後者の淘汰圧に関しては、淘汰圧が緩いために大して上手くないデザインプロダクトでも市場に割と出回りがちというのは正しいのではないだろうか?例えば、ちょっとした新規性で話題になったけど数年で廃れたみたいな製品はよくあるだろう。
| 地球上で人間以外に言語を操る生物が確認できていないことを見れ
| ば、創造性という人類だけに起こった奇跡に合点がいく。(p.83)
I: そんなことはない。すぐ後に著者自ら書いている鳥の鳴き声の言語性については中学国語の教科書にも取り上げられている。本書p60も参照。「言語」ではなく「文字」と言いたいのではないかと思うが、人間においても文字の発明と言語の発明は明らかに異なる事象である。
💜これは既に別のところ (p.60) でも指摘したが、「言語」の定義によるだろう。確かに鳥類などで人の言語に近いものが見られるのは確かだが、学習によって際限なく語彙を増やすこともできないし、記号と指示対象の結合を自由に行うこともできないし、また文構造を自由に拡張することもできないので人間の言語には遠く及ばない。中学国語というのはおそらくシジュウカラのことを言っているのだろうが、シジュウカラの鳴き声は基本的に非学習性のはずなので、もし仮にシジュウカラがモノを言葉で命名でき、かつそれを他個体と共有できたとしても (実際はそんな自由な命名は不可能であると思われるが) 、何らかの対象に付ける名前のストックには限りがあるので、書き文字関係なく人間のように口伝で文化を再帰的に発展させ続けることはできない (言語的能力を持つ他の生物種も何らかの不完全性を持つ)。したがって道具といったような人工物を自由に創造及び発展させるのに必要なレベルの言語を持つのは人間のみである (確かに文字は言語コミュニケーションをより円滑にするものであるが、理論的には口伝のみでも道具の創造・発展は可能である)。
I: 「オズボーンのチェックリスト」の派生版と言えよう。p.89にオズボーンの言葉を引用しているのに、チェックリストには触れていないのは不自然である。盗用とまでは言わないが、様々な「共通」性を見付け出すことに興味があるのであれば、異なる観点から始まり、たどり着いた発想法のパターンが9つと「共通」したことについて何らかの言及があって然るべきではないか。次章参照。
📕これは「変異の9パターン」(『進化思考』p.84-85) という小パートへの指摘であり、太刀川氏の記述を具体的に引用しての指摘ではない。それで伊藤氏の主張についてだが、たしかにオズボーンのチェックリストと似ているというのは確かだが、全く同一という訳でもないし、太刀川氏は『進化思考』p.52-53にて「だが、こうした発想法や戦略の類は、その成り立ちの都合上、どれも効率よく発想するための方法論(HOW)に終始していた。そして巷にあふれる発想法の大半は、それを提案した人の経験則と主観的な方法論に陥った、再現性の乏しい自伝的な内容に思えた。また創造が起こる不思議を生物学的に論じた考え方はほぼなく、なぜその方法が生物である私たちが創造できるのか(WHY)に答えてくれるものは皆無だった。私なりにたくさん探してみたものの、結局「なぜ進化と発明は似ているのか」に答える内容や、「進化に寄り添った創造の具体的な手法」は発見できなかった。」と述べており、これを見るに単なる方法論を超えた進化との関連を重視しているようなので、そういう観点でオズボーンのチェックリストに言及することにそれほど重要性を感じなかったのかもしれない。より詳しくは伊藤氏がそこで述べている次章の指摘部分において述べる。あと、多少重複はあるものの「変異の9パターン」と「オズボーンのチェックリスト」には異なる項目もいくつかある訳なので、9つで一致したことに関しては大した意味はなく、またその一致性について語る必要は特にないように思える(仮に9つの項目がそれぞれ対応するように類似しているのであれば、9という数字の一致は剽窃疑惑を強化するが、今はそうではない)。
| 言語のエラーには特有のパターンがある。言い忘れたり、何度も同じ
| ことを言ったり、誇張してしまったり、別の単語を言ってしまったり
| する。
〔中略〕
| そのなかで私が見つけた言語的エラーのパターンを羅列してみよう。
| (p.84)
I:「特有の」パターンというからには他にも別のエラーを想定しているのだろうか。この例は言語に「特有の」パターンだとは思えない。前出の玉入れの例で考えてみよう。玉を投げ忘れたり、何度も同じ方向に投げたり、剛速球で投げてしまったり、別の物(小石とか)を投げてしまったりする。
いかがだろうか。つまり、言語的エラーではなくヒューマンエラー全般の話なのである。まあ「ヒューマン」の定義をカッシーラーに倣い「ホモ・シンボリクス(Homo symbolicus)」だとすれば言語と不可分だということにはなってしまうが。ただ少なくとも、玉入れの玉ではなく小石を掴んで投げてしまった場合は言語的ではなく視覚的エラーということになるだろう。
📕全てが全て言語特有のエラーではないのはそうだが、そういったエラー種を複数孕んでいるという点は言語の特徴と言ってもいいのではないだろうか?伊藤氏は玉入れでアナロジーを試みているが、少なくとも「玉を投げ忘れたり」と「別の物(小石とか)を投げてしまったり」は玉入れにおいて普通起こり得ない行為であるし、「剛速球で投げてしまったり」というのも「誇張して言ってしまったり」とは発生の認知的メカニズムが異なる訳なのでアナロジーになっていない。したがって、玉入れの話は太刀川氏の主張への反論として機能していない。
なお先ほども似たようなことを述べたが、創造において太刀川氏の云う「言語的エラー」に類似した変異的発想が存在することは事実だと思うが、そういった発想は太刀川氏が言っているような「やりそこない」的なエラーとは限らない訳なので、「言語的エラー」によって根拠づけるのはあまり上手くないと感じる。そういう訳で、やりそこないかどうかについてはあまり語らずに、単に結果としての変異に着目した説明をしたほうが良いと個人的には思う。
| 創造におけるエラーのパターンの根源には言語的性質がある。だから
| こそ言語にそっくりな構造を持ったDNAが引き起こす進化上の変異
| も、同じパターンを生み出すのではないか。こうした考察から、言語
| 構造がもたらす変異的エラーが、創造と進化の本質に共通するパター
| ンを形成しているという仮説に至った。(p.86)
I: 著者の「言語的」の定義は、「たとえ話や誇張やイントネーションのような言語的性質があり、また言語的に伝達しやすいアイデアを、明快なコンセプトとして捉えているようだ。」(p.76) ということらしい。だが上述した通り、言語的性質というよりヒューマンエラー、あるいは認知の問題である。従って、創造におけるエラーと進化におけるDNAの変異がどちらも言語的である、という論は誤りである。創造と進化を結びつける根拠は棄却された。創造と進化は残念ながら無関係なのだ。
💛太刀川氏の云う「言語的性質」によって創造と進化を結びつけることが誤りであるのはそうなのだが、両者が無関係ということは別にないのではないだろうか?「言語的性質」云々は創造と進化の結び付けに尤もらしさを出すためのオマケみたいなもの (はっきり言ってしまえば蛇足) に過ぎず、太刀川氏の主張の本質ではないような気がする。創造と進化が現象の発生メカニズムとして完全に同一であるということはまずありえないのだが、類似性に関しては検討する余地がない訳でもない。太刀川氏がこれまで説明してきたように少なくともアナロジーとしては多少似ているところはあるし、実際に創造 (アイデア発想) という認知現象が進化的な性質を持つ可能性もなくはない。もし仮にそうであったとしたら、それを意図的に引き起こすという観点で進化のアナロジーを使うことに多少は価値があるだろうし、もしそうでなくとも進化のアナロジーの使用にはある程度が価値があるのではないだろうか?
科学的には保留が付くけど、方法論としては有用ということは割とあり、例えば、J. J. ギブソンが本来言っていた意味での「アフォーダンス理論」(環境に意味が存在していて、主体は環境に存在する意味をピックアップするだけ) というのは、私は疑わしいと思っているが、そういったようにモノが主体に意味を与える (例: 適度な高さ・大きさの頑丈な物体が座ることをアフォードする) という比喩的な考え方はモノのデザイン等で役立つことはあるだろう。私の知る限りではギブソンが本来言っていた意味でのアフォーダンス理論は現状実証されていない訳だが、それでもまるでアフォーダンス理論が科学的に正しいかのような論調で、世の中のデザイン界隈ではアフォーダンス理論が広まっているように見える (美大など、アフォーダンス理論の講義が行われている大学もある) 。私はかつてはこの現状に非常に否定的だったが、あくまで方法論として使われるなら別に良いかもしれないと最近は思うようになった。それで、これと同様に進化のアナロジーを使うことにもある程度価値はあるように思われる。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、一つ上でも述べたように太刀川氏の云う「言語的性質」というのは創造における変異に対してメカニズムとして厳密に言えるものではない(一部それに由来するものはあるとは思うが一般に言えるものではない)ので、太刀川氏が云う意味での「言語的性質」を媒介にして創造と生物進化を繋げるのはあまり上手くない。言語の話は抜いて、単に創造におけるアイデアと生物進化における遺伝子・形質の類似性で語った方がよい気がする。(言語とDNAの類似性によって創造と生物進化の類似性を説明することが全く絶対に不可能であるとは言い切れないが、少なくとも今太刀川氏が述べている「言語的性質」のみで語るのは不可能)。
| 創造が生まれるとき、偶然にあとから理由がつくのか、それとも論理| を積み上げた先にあるのか。この問いに対して私は、つねに偶然の変| 異が先にあると考える。歴史上の発明や法則の発見の多くは、偶然起| こってしまったエラーや、計算式のなかのわずかなエラーの発見をき| っかけに起こっている。(p.88)
M: この問いに対して「偶然の変異が先にある」が答えである、というのは対応しない。偶然にあとから理由がつく、というのと偶然の変異が先にあるというのは同じことを言っていない。さらに続けて、「歴史上の発明や法則の発見の多くは、偶然起こってしまったエラーや、計算式のなかのわずかなエラーの発見」から来ているとするが、その2つのエラーは別物だ。前者はアクシデントとしてのエラー、後者は測定と理論の差としての誤差(エラー)だ。多義的に用いられる語を定義せずに曖昧なまま記述しているために論理が破綻している。「エラー」や「進化」のように一般的に広く用いられる語はどうしても多義的になりがちだ。「適応度」のような専門用語ですら定義が錯綜するので、「あれもこれもエラーだよね」と独り合点する前に一度立ち止まって、語の用法を見直したほうがよいように思う。また、天動説(というか地動説)も相対性理論もエラーの発見というよりも実測値と旧理論がずれるという後者の「誤差としての」エラーに関する議論をもとに構築されており、それはまさに「論理を積み上げた先にある」創造だ。アクシデントをきっかけに起きた創造として有名なペニシリンやポストイットを例にあげればよかったと思う。
I: 重要なパートだが、ここも「エラー」が問題である。「偶然の変異が先にある」「偶然起こってしまったエラー」はスリップである。一方、創造性を高めるための「エラーへの挑戦の数」はミステイクである。上で松井が言う「多義的」とは、この「エラー」の語のように質の違う意味を複数包含していることを指している。
💜「この問いに対して「偶然の変異が先にある」が答えである、というのは対応しない。偶然にあとから理由がつく、というのと偶然の変異が先にあるというのは同じことを言っていない」とのことだが、「偶然の変異が先にある」は「偶然にあとから理由がつく」の必要条件であるし、「(偶然なしに) 論理を積み上げた先にある」ことと排反なので別に大して問題はないのではないだろうか?
それと「その2つのエラーは別物だ。多義的に用いられる語を定義せずに曖昧なまま記述しているために論理が破綻している。」とのことだが、エラーを詳細に分類できるのは確かであるものの、だからといって別物としないなら論理が破綻しているというのはよく分からない。「測定と理論の差としての誤差(エラー)」に基づく創造は「偶然にあとから理由がつく」のではなくて「論理を積み上げた先にある」に該当すると言いたいのだろうか?しかし、測定と理論の誤差というのは言うなれば予測の外れな訳なのでそういう意味でアクシデント (偶然) 的な要素は多少はあるのではないだろうか?ある測定法とある理論が与えられたとき、それの数値差がどうであるかは客観的には必然である訳だが、そもそもその測定法と理論を与えたのは人間であるし、何らかの予測を持って人は実験するものなので、誤差が無いと予測して誤差があったり、予測誤差とのズレがあったりすればそれはアクシデント的である。要するに太刀川氏が言いたいのは何らかの想定外のことが元となって創造が生まれることが多いということではないだろうか?確かに「つねに偶然の変異が先にある」というような全称性については言い過ぎだと思うが、傾向的な話をしているのであればある程度納得できなくもない話であるし、この観点においてはエラーの詳細な分類にあまり意味はないように思われる。なおさっき引用に際して何も言わずに補足したが、「偶然にあとから理由がつく」と「論理を積み上げた先にある」は別に排反ではないので、後者について「"偶然なしに"論理を積み上げた先にある」というように訂正したほうが良い。
また伊藤氏曰く「「偶然の変異が先にある」 「偶然起こってしまったエラー」はスリップである。一方、創造性を高めるための 「エラーへの挑戦の数」はミステイクである。」とのことだが、そもそもそのように一意には分類できないと思われるし、そういった分類の如何は太刀川氏の主張を論理破綻として無価値化するものではないと思う。どちらの種類のエラーも結局創造に行き着く可能性がある訳で、どちらも重要であるということではいけないのだろうか?
| ノーベルやオズボーンが語るように、肝心なのは成功確率ではなく、
| エラーへの挑戦の数だ。(p.89)
M: そうではなく、成功確率も試行回数と同様に重要なのだが、成功確率は試行回数のようには線形には伸ばせず、訓練によってある程度伸びるにしても頭打ちであるが、試行回数は誰でも伸ばせるからがんばろうねということだと思う。
ここで太刀川氏の云うオズボーンの語りというのは、その直前で引用した「創造的な成功は通常、案出した試案の数に正比例する。」 (『進化思考』p.89) のことだと思うのだが、太刀川氏の言ってることは別に誤りと言えるものでもないだろう。太刀川氏は要するに成功率の高いような挑戦を時間をかけて吟味して1つだけやるよりは、成功率が高くなくてもよいのでたくさん挑戦したほうが結果的に成功度の期待値は高いと言っていると思われる。松井氏は太刀川氏の話を、本質的な単純比較として成功確率よりも試行回数のほうが重要という話として解釈したようだが、現実的な実践の話をしているのだから成功度の期待値の観点から解釈するのが適切ではないだろうか?なお、個人的には太刀川氏の主張のほうがオズボーンの意図と合致している気がする。オズボーンは成功確率は成長率が低いからなんて話はしていないように見えるからである。要するに、長期的に(一つの創造プロジェクトを超えるスパンで)成功度がどう伸ばしていくかという話をしている訳ではなく、単に今その時点で(一つの創造プロジェクト内といったように短期的に成長が望めないスパンで)成功度をどう伸ばせるかという話をしているのではないかということである。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、ここでのオズボーンの語りというのは「創造的な成功は通常、案出した試案の数に正比例する。」 (『進化思考』p.89) で合っている。
| 生物でも、たくさん卵を産めば生存確率が上がるように、ここでは数| が重要となる。(p.89)
M: あるひとつのサケの卵が生存する確率≫ある一頭のゾウの子の生存確率ではないので、たくさん卵を産んでも生存確率は上がらない。むしろたくさん卵を産めば産むほどひとつひとつの卵の生存確率は下がるというのが一般的な傾向だろう。
💜似たようなことを既に別のところ (p.43, p.95) でも指摘したが、オズボーンの「創造的な成功は通常、案出した試案の数に正比例する」という発言を引用し、アイデア出しの量について話している文脈を踏まえれば、ここで太刀川氏が言っている「生存確率」というのは、子一匹あたりの生存確率ではなく、親一匹に対して繁殖年齢まで生存する子数 (またはもっと一般的にある相対経時時間における生存子数) の期待値のことだろう。確かに表現としては不適切であるので訂正は必要だが、これくらいの意図は読み取って欲しい。(意図を読み取った上で敢えて表面上の瑕疵のみを指摘している可能性もなくはないが)。
またそういった文脈以外にも、そもそも普通、産卵数 (産子数) の増加が生存確率にプラスに寄与することはない (血縁利他行動の存在や被捕食選択率の低下などでプラスに寄与することもありうるが、太刀川氏がそういった込み入った話をしているようにはあまり見えない。また餌資源の有限性の観点からは生存率にマイナスに働きうる) ことを踏まえれば、太刀川氏が本来の意味での生存可能性ではなく、親一匹に対して繁殖年齢まで生存する子数 (またはもっと一般的にある相対経時時間における生存子数) の期待値について語っている可能性が高いのは十分読み取れるだろう。
もちろん親一匹に対して繁殖年齢まで生存する子数が産(卵or子)数の増加に対して延々と増加することはほとんどないだろうし、具体的なラインは種によって異なるとは思うが、一般的に言ってある程度の産(卵or子)数までは増加傾向にあるとは言えるだろう。特にここで太刀川氏は「卵」と言っているし。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、ここの引用部位は一つ上の引用部位(「ノーベルやオズボーンが語るように、肝心なのは成功確率ではなく、エラーへの挑戦の数だ。」(『進化思考』p.89)) のすぐ後であり、その間にも太刀川氏は「エラーは偶然の発生確率を高め、結果として創造性を高める。変異の思考は、バカになって、たくさんの新しい挑戦への可能性を妄想する技術だ。」と述べており、また『進化思考』p.59でも同じような文脈(変異の思考と卵の話)で「それらのパターンを体得すれば、固定観念を打ち破るクレイジーな発想を、短時間のうちに無数に量産できるようになるだろう。」や「このプロセスを覚えると、考え方はもっと自由になり、すぐに他のアイデアを出せる自信がつけば、ひとつの発想にこだわる必要がなくなる。」と述べている。したがって、ここでの太刀川氏の意図が親一匹(または一腹)に対して繁殖年齢まで生存する子数 (またはもっと一般的にある相対経時時間における生存子数) の期待値であることは明らかである。したがって、そういった意図を理解した上で敢えて表面上の誤りについて指摘しているのならばそれそのものは問題ないが、もし仮に太刀川氏の意図を全く理解できずに指摘しているのであれば、申し訳ないがそれは本の評者としては読解力不足と言わざるを得ない。
| 宇宙飛行士の毛利衛氏は「宇宙からは国境線は見えなかった」と語っ
| ている。(p.100)
M: とても良い言葉だと思うと同時に、好むと好まざるとにかかわらず、国境線は大きな文化の差を近距離で保持しうるため環境の差異を産みうる。北朝鮮と韓国は採用しているシステムが非常に異なり、その差は宇宙からも明るさの差として国境線沿いにくっきり見えたはずだ[30]。統合して久しい東西ベルリンについても未だに言える[31]。均質な環境で似たような遺伝子をもっていた生物の集団が地理的隔絶[32]により種分化することがある。国境線もまた文化的な断絶と種分化(と表現するには非常にためらいがあるが)を生む重要な要素だといえる。
文脈が分からないので、太刀川氏がどういった意図でその言葉を言っているのかは分からないが、少なくとも引用されている範囲では松井氏の指摘は的外れのような気がする。言っていることそのものは正しいのだが、それは太刀川氏の発言とは特に関係ないように思われる。もし引用外で何か関係あることを言っているのであれば、それが分かるように引用すべきである。なお、別に指摘をしている訳ではなく単に補足的説明をしてるだけなのならば特に問題はないが、もしそうならば指摘ではなく補足話である趣旨を一言言っておいてもらえると分かりやすい。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、この部分は太刀川氏が日本・中国・韓国の文化交流の機会に際して、「私たちの誰もが宇宙から地球を見下ろせるなら、国家間の緊張なんて取るに足らないことに見えるかもしれない。」(『進化思考』p.100) という意図で、アジアを超縮小した地球の夜景を再現した展示を行ったことについてである。したがって、ここでの太刀川氏の意図はあくまで過度な国際緊張に対するものであって、別に国境線や国という括り一般を否定している訳ではないだろう。そういう訳で松井氏のコメントの内容そのものは間違ってはいないのだが、文脈としては不自然である。少なくとも指摘なのかただの補足コメントなのかの説明が欲しい。(「最近国際緊張がすごいけど、宇宙から見ると国境線なんてなくて皆一つの地球なんだなと思わされるよね」などと話しているところに、横からいきなり「いや、でも国境線は文化圏を保持するための~、、、」などと話し出したら、「あ、そうですか」となる)。
M: 擬態と真似、模倣は違う。モノマネは擬態ではない。子が親の鳴き声に影響を受けるのも擬態ではない。模倣imitationは集団内、特に親子の社会的学習の方法のひとつで、サルや鳥もする。擬態が真似に似ているからといって、これらを結びつけることはできず、擬態でくくるのはあまりに乱暴だろう。擬態はほとんどの場合種間だろう(脱皮後の弱さを隠して強がるなどの同種をだます擬態もある)
本稿執筆者注:この引用部分は「擬態」パートの最冒頭に付けられているものであり、太刀川氏の記述は引用していない。
📕この辺については本稿への伊藤氏の応答記事[92]への返答記事[97]でも書いたが、厳密には擬態と模倣は異なるものの、擬態に関して「模倣」や「真似」という語が当てられることはあるので、結果的に模倣しているように見えるという観点で類似性を見ることは全く間違いという訳でもない (そもそも擬態は英語でmimicryであるし、擬態に関する論文の中で「mimick」や「imitate」といった動詞が用いられることもある[167][168])。ただ太刀川氏はこの擬態パートの最初2ページ(p.104~105)で単なる模倣(真似)について語った後に(「お笑いにモノマネというジャンルがあるように、私たちは日常会話のなかで、特徴を真似ながらコミュニケーションを取っている。」(『進化思考』p.104)、「学びのために物真似をするのは人間だけでない」(同 p.105)、「つまり鳴き声は遺伝だけでなく、親から子どもに真似をさせることで行動を覚えさせているようだ。物真似は言語的現象だけでなく、生物のあらゆる学びの本能と結びついている。」(同 p.105))、擬態に話を繋げているので(「物真似や比喩的な形態は、生物の形態にも頻繁に観測される。そう、擬態のことだ。」(同 p.106))、両者をやや混同しているように見えなくもない。しかし、そうであると十分に読み取れることが述べられていない以上は、ここでは単に上記したような「結果的に模倣しているように見える」という観点で繋がりを語っていると解釈するのが妥当だろう。そういう訳で、太刀川氏が真似(と模倣)が擬態に含まれるように理解していると断定できるかのような松井氏の批判の仕方は不適切である。
また、「擬態はほとんどの場合種間だろう」というのも何を言いたいのかよく分からない指摘である。自分ですぐ後に「(脱皮後の弱さを隠して強がるなどの同種をだます擬態もある)」と補足しているように「擬態」一般の定義に種内か種間かは関係ない訳なので、もし仮に太刀川氏の云う種内での真似は擬態でないということを言うために、それを持ち出しているのであれば、それは論理的に不適切である。
| さらに遡れば数万年前、人類も国家やコミュニティを作るよりも前か
| ら、動物の声真似をしていたと考えられている。(p.104)
M: 動物の声真似をしていたことが言語の起源であるとする、ダーウィンも採用した19世紀の「ワンワン説」[33]と呼ばれる学説からそう言っているのだとしたら、少なくともその説は現在は支持されていない。模倣する能力じたいは言語の進化に影響を与えていたにしても。また、そのはるか前からヒトは集団で生活していたと思うのだが、それはコミュニティではないということだろうか。
文脈が明確には分からないが、少なくともその文章において太刀川氏が言っているのは、動物の声真似をしていたというだけであり、別に言語の起源が声真似であったかどうかは今は特に関係ないのではないだろうか?
また、ここで太刀川氏が云う「コミュニティ」というのは単なる生物集団とは異なるものではないだろうか?
📕『進化思考』を読んだので追記するが、この引用部位の記述はただの単発の例示であり、この前後でこれ以上のことは述べていない。したがって、ワンワン説のことを言っているのかどうかは分からない。また、松井氏が何を否定をしているのかはっきりとは分からないが、少なくとも「言語の起源が動物の声真似であったこと」と「動物の声真似をしていたこと」は別の話であり、前者の否定は後者の否定を含意しない。
| 相手の目を欺く擬態は、生物の生存戦略にとって主流な方法として観
| 察される。 (p.106)
M: 主に視覚的なものが多いのはたしかだが、擬態はそれだけにとどまらない。音を真似するもの、化学的なもの、触覚的なもの、はてには電気的なものさえあるらしい[34]。
これは「相手の目を欺く」というのを非制限用法として解釈したために出てくる指摘であり、制限用法として解釈する場合は特に問題はない。太刀川氏がどっちの意図で書いたかは分からないが。なお、指摘ではなく単に補足的説明をしただけなのであれば特に問題ない。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの直前に「物真似や比喩的な形態は、生物の形態にも頻繁に観測される。そう、擬態のことだ。見た目をごまかせば存在を消したり、別のものに誤認させたりすることができる。」(『進化思考』p.106) と述べており、またこれ以降も視覚的な擬態のみを例示していっているので、太刀川氏は視覚的なもののみとして擬態を捉えている可能性が高い。
| このように、自身の天敵にとって嫌な相手に化け、強いふりをするタ
| イプの擬態はベイツ型擬態と呼ばれている。(p.107)
I: ベイツ型擬態の「嫌な相手」は「有毒」あるいは「食べると不味い」ということであって、「強いふり」ではない。強いふりは直前の「トラカミキリは強力なアシナガバチにとても似た外観を獲得している」のmimicry(標識的擬態)の例が妥当だったのに、何故余計なことを書いてしまったのか理解に苦しむ。
💛これは本稿の冒頭で触れたもので、p.21では「非常に単純で深刻な間違い」「初歩的な事実誤認」と評されているが、全くの的外れの批判である。前半の「ベイツ型擬態の「嫌な相手」は「有毒」あるいは「食べると不味い」ということであって、「強いふり」ではない」という部分だけ読むと、「強いふり」における「強い」を「戦闘的強さ」として捉え、それで「有毒」や「食べると不味い」種への擬態は「強いふり」ではないと批判しているようにも見えるが、後半を見るとそうでもないらしい。後半では強いふりの例としてトラカミキリの標識的擬態を挙げているが、ベイツ型擬態は標識的擬態の一部であるし、そもそもトラカミキリの例は紛れもなくベイツ型擬態である。伊藤氏はベイツ型擬態が標識的擬態に含まれることを理解していないように思われる。一体彼の中で両者がどのように定義されているのか非常に気になる。
またアシナガバチへの擬態が強いふりの例として妥当と言っているが、アシナガバチへの擬態が有効なのはその有毒性による。しかし伊藤氏は「ベイツ型擬態の「嫌な相手」は「有毒」あるいは「食べると不味い」ということであって、「強いふり」ではない」とも言っており、これは明らかに矛盾している。ここで伊藤氏が言っているベイツ型擬態の「有毒」というのが、捕食後に効いてくる毒のみを言っている可能性もあるが、その場合その後の「食べると不味い」と合わせて、伊藤氏は捕食後に対抗策を持つ種に関してのみベイツ型擬態を定義している可能性がある。しかし、それはベイツ型擬態の理解として間違っている。
なお、「有毒」あるいは「食べると不味い」種の特定の非有害的形質を模倣することで有害能力にタダ乗りするベイツ型擬態を「強いふり」と表現することは一般的にそこまで問題ないだろう。
📕『進化思考』を読んだので追記する。この辺については最近(2026/1/31)公開された本稿への伊藤氏の応答記事[92]への返答記事[97]で詳しく述べた。簡潔に説明すると、おそらく伊藤氏はトラカミキリをベイツ型擬態と見做していなかったように思われる。また、伊藤氏のこの記述は彼の真意(?)の説明としてはズレていたようで、伊藤氏としては「ベイツ型擬態は非行動的な形質なのに、それに対して「強いふり」という行動的表現を当てるのはおかしい」と言いたかった(またはそう言うべきであったということ)らしい。なお、この伊藤氏の真意に関してもそれほどの妥当性はない。なぜならそもそもベイツ型擬態は形態に限らず、行動的なものも含むからである。また突き詰めて考えると形態のベイツ型擬態であっても、それを機能させるためには基本的には行動によって捕食者に見えるようにする必要がある訳なので(逆に言うと見せないこともできるのにそれをしていない訳なので)、どこまでを「強いふり」とするのかは割と曖昧なのである。詳しくは返答記事[97]を参照。
また、伊藤氏は応答記事[97]及びtwitter[94][169]にて「また「強いふり」という表現は私が書いたものではない。『進化思考』本文での表現である。この辺りも『進化思考』を読んでいないという設定から生じる不毛な批判である。」[97] や「「強いふり」のトラカミキリ云々は『進化思考』の本文の前後に書かれているのである。「間違っている」とされているのは私のではなく太刀川氏の理解なのだ。我々も『進化思考批判集』単独でも読めるように、と編集執筆したつもりではあるが、こういった誤読が起こるので、『進化思考』を参照しないでの批判は無理があるし、あまりに枝葉末節であろう。」(続く二つのツイート[94][169]を結合) といったように、私が「強いふり」という表現そのものを批判しているかのように述べているが、私はそんな話は一切していない。上の私の記述のどこをどう読んだらそのような解釈が出てくるのか全く理解できない。また伊藤氏は、私が『進化思考』未読ゆえに伊藤氏が「強いふり」という表現を使い出したのだと勘違いしてしまっている、といったようなことも述べているが、上記の通りそんな勘違いはしていないし、そもそも伊藤氏自身が今ここで「このように、自身の天敵にとって嫌な相手に化け、強いふりをするタイプの擬態はベイツ型擬態と呼ばれている。」と太刀川氏の文を引用しているのだから、太刀川氏が初めに「強いふり」と言い出したのはあまりにも自明であり、伊藤氏が言い出したと勘違いすることなど普通起こり得ないだろう。そういう訳でここの伊藤氏の反論は一貫して支離滅裂と言わざるを得ない。『進化思考』の読解で度々発生していた誤読が私の記事の読解においても発生し、議論がまともに成り立っていない。またここ以外にも伊藤氏は応答記事[92]内で本稿及び河田氏の記事[9]の内容を誤読しており[97]、本当に申し訳ないがやはり伊藤氏は他者の文書を批評するのに十分な読解力を持ち合わせてはいないと言わざるを得ない。
なお、太刀川氏の記述について細かく指摘するならば、太刀川氏は引用部位以前に「逆に、目立つことで自分の身を守ろうとする者たちもいる。このタイプの擬態をミミクリー(mimicry)という。ミミクリーのなかには、自分よりも強い種に化けることで身の安全を守ろうとする擬態も多くある。」(『進化思考』p.107) と述べているが、自分の身を守ろうとする擬態をミミクリーとした後で、ミミクリーの中には自分よりも強い種に化けるものがあると説明するのはやや不適切感がある。なぜなら自分の身を守るミミクリー (『進化思考』の文脈に沿ってここでのミミクリーはミメーシス(隠蔽的擬態)を含まないものとする) はその全てが自らを「強い種」に見立てるからである。ただ、ミミクリー一般にはチョウチンアンコウのような攻撃目的の擬態も含まれるため、これを念頭にし、かつ初めの「このタイプの擬態をミミクリー(mimicry)という」というのが定義的説明ではなくて属性的説明(「このタイプの擬態はミミクリーに属する」)を意味するのであれば特に問題はない。(ただ一般的にこの文脈では定義的説明と取られるだろう)。
| フクロウチョウは、その名の通り、羽の上に目を開いたフクロウそっ
| くりの模様が描かれている。(p.107)
M: フクロウチョウは人間から見れば確かにフクロウの頭部っぽいが、フクロウを模しているかはわかっていないようだ。また、目のような模様は非常にポピュラーだが、それが「驚かせるため」「強そうに見せるため」ではなさそう、というのが最近の学説だったと記憶している。むしろ、お腹を攻撃されるよりは、羽の端っこが破れるほうがまだマシだという囮としての役割が確認されている。つまり、羽の辺縁部に目のような目立つ模様を設け、そこを攻撃されてもお腹への攻撃に比べればクリティカルなダメージを避けられるということだ。
💜これもこの引用部分を見る限りでは特に問題はない。「フクロウチョウは、その名の通り、羽の上に目を開いたフクロウそっくりの模様が描かれている」という文章は単にフクロウチョウの模様がフクロウの目に似ているということを述べているのであって、その模様が実際にフクロウの目玉として鳥類等に認識されているだとか、その結果忌避反応が起こるだとか、そういった機能については全く述べていない。ただ実際には第二章で林氏が同じ部分を引用しており、そこで太刀川氏が目玉模様の機能についても語っていることが読み取れるので、松井氏の指摘そのものは適切である。しかし、そういうことを言いたいのであれば、ちゃんとそれが分かるように引用して欲しい。本稿の「初めに」でも述べたように、仮にも一冊の本として上梓したならばその本単独で論理的に完結させるべきではないだろうか?今回はたまたま林氏が同じ所を引用しているので一応一冊の本の中で議論を追うことは可能だが、それは健全な読ませ方ではない。そしてこれまで何度も指摘してきたように、こういった引用不足によって批判の妥当性の判別が付かない箇所はこの批判集に数多く存在する。
また「目のような模様は非常にポピュラーだが、それが「驚かせるため」「強そうに見せるため」ではなさそう、というのが最近の学説だったと記憶している」というのも校閲と云う割にはだいぶ曖昧な情報ですねという感じなのだが、内容に関しても一応述べておくと、確かに囮としての機能に関する研究は存在するが、チョウ類の目玉模様の機能に関してはまだはっきりとしたことは分かっていないと記憶している (正直私も一々文献を調べるのは面倒なので「記憶」で失礼させていただく (特に、まだよく分かっていないということを引用して説明するのは中々骨が折れるので))。例えば、チョウ類の目玉模様にはフクロウチョウのように主に大きな目玉模様が1つだけ存在する種と、ヒメウラナミジャノメのように中くらい以上の目玉模様が複数個存在する種がおり、また目玉模様の位置に関しても前翅・後翅また表裏等で様々な種差がある。したがって、種によってその機能が異なる可能性は十分にありうる(類内及び単一種において忌避反応説と囮説の二者択一であると考える必要はない)。
| 擬態的な思考プロセスで発想された発明やデザインは数多く存在す
| る。たとえば人型ロボットやノート型パソコン、迷彩柄(葉っぱ型の
| 洋服)など「~型~」と呼ばれるものは例外なく擬態的な思考による
| 発想だ。(p.110)
M:「ノート型パソコン」はノートっぽいだけでノートに擬態しているわけではないと思う。ノートを半開きにして横にして指で打つことはないからだ。擬態のような設計例なら、無害な添付ファイルのふりをするコンピュータウイルスとか、信頼できる仲間であるように思わせる潜入捜査とか、ステマとか、偽ブランド品とか、監視カメラありますとか猛犬注意とか、伊達メガネとかのほうがよい例だと思う。迷彩柄もよい例だと思うが、迷彩服を「葉っぱ型の洋服」と呼ぶ人はいないのではないだろうか。
「既にあったAと新奇のBは似ている。だからBはAの擬態だ」 というのはさすがに無理がある。タラバガニはズワイガニの擬態ではない。「既にあったAに似せて、Aの外見的・構造的特徴を真似てBを作ったら、それは擬態的発想だ」と『ラビット』(p.112)の例をあげているが、これも違うと思う…。「外見的・構造的特徴を似せることで、環境に溶け込んだり相手(たいていはデザインにとっての資源を持っている人。たとえばウイルスメールを開こうとしている人のPCとその連絡先)を騙して資源を奪おうとしているデザイン」であれば擬態的発想からうまれていると言えると思う。この定義でいえばたとえば地球儀は地球に擬態したものではなくて、単に似せることによって情報を記述しようとしている媒体だ。
人工物における擬態の例が悪すぎる。すべて単なる模倣である。たとえば外国のパッケージの、(本当は全く意味をなさない)日本語の表記はどうか。読める人からは珍妙な日本語に思えるのだが、当地の消費者に「日本っぽい商品だ」ということを伝えるには十分なレベルまで擬態している。生物の擬態も目的を達成するまで似せるので、人間には到底似ていないように見えるものでも十分うまみのある擬態できている場合がある。
📕「(広義の)擬態」の本質は擬態先の対象として知覚者を誤認させるところにあり、その観点から言えば、何かしらの対象を模すことで人々の認識にその模倣要素を秘密裏に忍ばせる・刷り込ませるといった人工物におけるやや緩い意味での認識操作も擬態と言えなくはないだろう。例えば、そこで挙がっているノート型パソコンもノートのような薄型軽量を思わせる効果はあるだろう。なお「ノートパソコン」というのはどうやら和製英語のようだが、NECの98NOTEと(エプソンの286NOTE?)がノートパソコンの名を広める要因となったらしい[170][171][172]。また当時ラップトップに「ブック」の名を与えるメーカーもあったようだが、98NOTEの命名に関しては「ユーザー自身が必要とする情報を入力して使うのがパソコンの用途であり、我々が開発した製品は、持ち運びながら、情報を書き込めるノートの名称のほうがピッタリくる」「ノートのように自由に情報を書き込んで使いこなして欲しい」といったNECの想いがあったようだ[171][173]。この辺は「名前」と「実際の形態・機能」の二つが複雑に関わり合って人の認識を形成していると思われるが、こういった人工物における模倣的形態・機能及び名前には多少は上記した認識操作的な擬態的効果があるだろう。
ただ、確かに太刀川氏の例に不適切なものがあるのも確かで、例えば、『進化思考』p.111で説明されるベルクロ(面ファスナー)におけるゴボウの実の模倣は、単に構造・機能を真似ているだけであって、その模倣先に関する認識操作をしている訳ではない(面ファスナーにゴボウの実を見て取らせている訳ではない)ので「擬態」とするのは誤りである。また上記の認識操作的な意味においても、リリエンタールのグライダー (『進化思考』p.110-111) など極めてその要素が薄いものから、上記のノートパソコンのように多少は擬態要素があるもの、また迷彩柄のように極めて強いものまで程度は様々である。
なお、「既にあったAと新奇のBは似ている。だからBはAの擬態だ」とのことだが、太刀川氏はこれを直接に示す発言は特にしていなく、さすがにそこまでの一般化はしていないように思う。少なくとも「というのはさすがに無理がある」というようにはっきりと意図を批判されるほどのことは述べていない。また、「タラバガニはズワイガニの擬態ではない」というのも太刀川氏は特に言及していないので、ここは松井氏による例示ということになるのだが、これも少々太刀川氏の主張を弱くし過ぎた藁人形論法的な喩えであると感じる。また「既にあったAに似せて、Aの外見的・構造的特徴を真似てBを作ったら、それは擬態的発想だ」というのも太刀川氏は"直接的には"述べておらず、またそれが読み取られ得る記述から「ラビット」の話に繋げている訳でもないので、「「既にあったAに似せて、Aの外見的・構造的特徴を真似てBを作ったら、それは擬態的発想だ」と『ラビット』(p.112)の例をあげているが、」という記述はおかしい。確かに上で挙げた面ファスナーのように「既にあったAに似せて、Aの外見的・構造的特徴を真似てBを作ったら、それは擬態的発想だ」と太刀川氏が考えているように見えなくもない箇所はあるにはあるのだが、少なくともここでの『ラビット』は、一見バルーンのウサギのようだけど実はステンレス鋼で出来ており、それがアメリカ白人社会のキッチュ性云々、、、という作品としての騙し的な二重構造そのものに擬態的要素を見ることはできるので、単に「既にあったAに似せて、Aの外見的・構造的特徴を真似てBを作ったら、それは擬態的発想だ」という考え方に沿ったものとして太刀川氏が『ラビット』を持ち出していると一意に断定している松井氏の主張はやはり不適切だろう。太刀川氏は基本的には「擬態的な形を受け継ぐと、私たちを含めた生物の認知は見た目に容易に騙される」(『進化思考』p.110) というように私が先ほど述べたような認識操作的な観点で擬態を語っている訳なので、安易に「既にあったAに似せて、Aの外見的・構造的特徴を真似てBを作ったら、それは擬態的発想だ」と主張を落とし込んで批判するのは藁人形論法的だと感じる。また「人工物における擬態の例が悪すぎる。すべて単なる模倣である。」とのことだが、以上述べたように事実としてそれは間違っていると思うし、松井氏は上で迷彩柄に関してはある程度認めていた訳なので「すべて単なる模倣である」というのは不適切な誇張ではないだろうか?(ここでの「人工物」はプロダクトのことであって、一方「迷彩柄」はプロダクトではなく単なるデザインである、ということであればまあ問題ないが)。
そういう訳で、ここでの松井氏の批判には妥当なものも多くあるものの、批判の仕方や内容に問題があるものも多い。
| 擬態的な発想は、意図して真似ようとしなくても、偶発的に発生する
| ことがある。ある日、大学の食堂で誰かが皿を投げ上げて遊んでい
| た。皿がグラグラと揺れる動きを眺めていたリチャード・ファインマ
| ンは、その動きを方程式にすることを思いついた。この皿の動きを真
| 似た方程式によって電気力学と量子力学が融合し、彼は一九六五年に
| ノーベル物理学賞を受賞した。(p.113)
I:「動きを真似」るのはタモリのモノマネ(p.104)のようなことを言うのではないか。動きを「再現」する数式を考えることまで「擬態」に含めるのは妥当ではないように思う。そもそも「擬態的な発想」以外の発想も「偶発的に発生する」と思うのだが。
前半の指摘はその通りだと思うが、後半の「そもそも「擬態的な発想」以外の発想も「偶発的に発生する」と思うのだが。」は何を言いたいのかよく分からない。「擬態的な発想は、意図して真似ようとしなくても、偶発的に発生することがある」という文章は擬態的な発想のみが偶発的に発生することを意味しないし、偶発的に発生することが擬態的発想の特徴であるとも別に言っていない。
| あらゆる形態には理由が宿っている。(p.113)
M: 生物のあらゆる形質はすべて適応的であるといったん仮定(いわゆる作業仮説を設定)して、そのメカニズムを究明しようとするアプローチを適応主義という。この記述はそれに近い姿勢であり、非常に賛同できるものなのだが、わずかな変更が必要で、「あらゆる形態には理由が宿っているはずだという姿勢で臨もう」であれば賛同できる。偶然によって形態が決まっている(遺伝的浮動、中立進化など)ことも十分にあるし、理由が解明できないものもある。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
すべての形質が適応である、あらゆる形態には理由が宿っている、というのは汎適応主義の誹りを免れない。
💜松井氏が言いたいことには概ね同意ではあるが、これは「あらゆる形態には理由が宿っている」における「理由」を「単なる理由一般」ではなく「適応的な理由」と解釈したときの話に過ぎず、そのように解釈する必然性は別にない。単なる理由一般として取れば太刀川氏の文章には何も問題はない。中立進化による形質も遺伝的浮動という確かな理由を持つし、なんなら別に進化的な理由に限らず、発生的理由を述べても良い (そしてその場合全ての形態において理由は簡単に宿り得る)。
しかし、実際のところはおそらく太刀川氏も「理由」というのを「適応的な理由」として言っていたと思われる。ではなぜ「適応的な理由」と書かなかったのか (また、なぜ松井氏はそれを適応的な理由として疑いなく読み、そしてそれ以降の部分で「理由」を適応的な理由の意で使っていたのか) というと、おそらくではあるが目的論的な視点が多少存在していたからではないだろうか?すなわち「適応的」という情報が見かけ上落ちていたのは、単に文脈的に適応進化の話をしていることが自明だから (「適応」という情報を”省いた”) というよりは、「理由」という語に目的論的な意味を無意識に見てしまったために、目的論的な理由となりうる適応的理由が「理由」に"既に内包されている"と自然に取ってしまったからではないだろうか (遺伝的浮動や発生メカニズムは目的論的な理由とはなりえないので)?以上はあくまで私の主観的推測に過ぎないが、これ以前の部分で目的論的に見えるような記述をいくらかしていた太刀川氏においてそう思われるのはもちろんのこと、また松井氏に関しても、言葉の使い方に厳密であろうとする批判をここまで山ほどしてきたのにこの部分では珍しく語の使用法が雑なので、その可能性があるのではないかと思った。結局人間は「理由」に目的論的な意味を見てしまう傾向があるのではないかということである。とはいえ、多少は文脈からの自明性による省略もあるとは思われる。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの前後で生物進化ではなく創造・デザインの話をしているので、ここでの「理由」を単に生物学的な適応主義の観点から分析するのは不適切であるように思う。確かに太刀川氏は引用部位の直後に「つまり別の形態から学び、その形を宿すことは、そこに秘められた理由そのものを獲得することに繋がるのだ」(『進化思考』p.113)と述べており、これだけ見ると生物の形態から学ぶという話をしているようにも見えるが、太刀川氏はこの直前まで電子メールが手紙に擬態したり、iPhoneが携帯電話に擬態したりといった非生物への模倣の話をしているし、小パートを跨ぐがこの直後にも月を真似たライトの話をしているため、ここでは形態一般に宿る「理由(価値)」について語っていると読むのが自然ではないだろうか?また「別の形態から学び」という表現を見ても、やはり非生物も含めた形一般について言っている可能性が高いように思う。なぜならもし「形態」を生物のそれのみとして考えているのであれば「別の形態」ではなく単に「形態」と言えば良いからである。またこの変異パートのまとめ部分でも「別のモノの形態から学び、その形質を得ることは、視覚に影響されやすい私たちの観念の殻を破り、新しい発想を生み出すための強力なツールとなるのだ。」というように「モノ」に関して「形態」という語を当てている訳なので、少なくとも「形態」が生物のそれのみを必ず指すという訳ではないようだ。そういう訳でこの辺も文脈を踏まえれば割と読み取れる部分であり、可能性の一つとして生物の形態だけを言っている場合について述べるならまだしも、それだけが一意に読み取れるかのように批判を構成するのは、申し訳ないが本の評者としては少々力不足であると感じる。
| 地球史を遡ってみると、闇夜を照らしつづけてきた最も明るい光は、
| 月にほかならない。つまりあらゆる照明は、すべて月をコピーしたも| のだ。(p.114)
I: 何故ここで「擬態」ではなく「コピー」という新しい語を用いるのか理解に苦しむ。これまでの話ではこここそ「擬態」と言うべきなのではないか。「コピー」には「模倣」の意味もあるが、語源は「たくさん」であり[38]、日本語訳としては「複製」が第一義である。『進化思考』第二章的には「増殖」で使うべき語ではないか。
別に違う言葉を使っても良いのではないだろうか?「べき」とまでは言えない気がする。少なくとも「模倣」の意味もある訳なので。
| 擬態的な思考は現在まで、「見立て」や「メタファー」など、人類史
| の数千年にわたってさまざまな文化領域で発想の手法として用いられ
| てきた。(p.116)
I: その通り。既に名前の付いた概念に新たに別名(「擬態的な思考」)を与えるのは単なる無駄である。「見立て」と「メタファー」でおそらくほとんどの日本人に通じるのだから。
💜新たな名前を当てても別に良くないだろうか?学術的な用語の話をしている訳でもないので。特にアイデア発想においてはガワというのは割と効いてくると思うので、新たなガワを与えることにはそれなりの価値があると思われる。今は思考法の話をしているのでメタ的ではあるが、思考法における新たなガワを立てることを否定することは、例え話を否定することに近い気がする (思考法レベルにおける例えを否定しているということ)。またこれはあくまで可能性の話に過ぎないが、人間における個々の具体的な状況での思考プロセスというのは抽象的な思考プロセスを状況に応じて逐次応用したものであるとは限らないことが言われており (心のモジュール性) 、「擬態」(または真似) という生態的要素が絡む思考プロセスが単なる「見立て」や「メタファー」と質が異なる可能性もなくはない。
また「擬態的な思考」とすることで進化思考における他の「変異」をセットで感覚的に掴める効果もありそうではある。
| たとえば猫型ロボットを考えているなら、猫についてしっかり観察し
| ていないロボットはうまくいかない。(p.117)
I: 「猫型ロボット」が最適な例なのだろうか。文中で既に「犬型ロボット」を揶揄しているので猫にしたのかもしれないが、クマとかブタとかでも良かったのではないだろうか。世界中で最も有名な「猫型ロボット」は耳がなく、青い。2足歩行が基本だし、爪もない。擬態という点ではどちらかというと不出来な方であろう。逆に「猫型ロボット」を考えろと言われて「耳がなく青い」ロボットはまず思い付かない筈であり、藤本弘*の天才ぶりをこれ以上ないくらいに示しているとも言えよう。
あまりにもしょうもなさすぎる難癖である。猫は愛玩動物として人間と関わりが深く、犬と並んで動物としてかなりメジャーであるため、何かしらの動物型ロボットの例示として別におかしな点はない。某猫型ロボットを想起させ、その場合は正確な観察云々の記述とリンクしないと言いたいのだろうが、仮に当記述を読んで頭の隅に某青い狸がよぎったとしても、それによって話の意図が読み取れないということはほぼありえないだろう。
M: 欠失はDNAの一部が失われることであって、退化とは違う(「系統発生における退化とは、進化の過程における器官の縮小、萎縮、消失など…」)。退化という言葉を使わなかった理由はなんとなくわかるが、欠失を使う積極的な理由もない。なぜこの区別にこだわるのかというと、遺伝子の欠失ではなくむしろ「ある遺伝子があることによって」なにかの部位が親個体のようには発生しない・成長しない・形成しない場合が十分ありえそうだからだ。何かを阻害する働きをする遺伝子というのはよく聞く。つまり、DNAの欠失によって生物になんらかの機能が追加される・形質が複雑化する、ということもありうるし、なにかが退化をしたからといってそれが欠失によって引き起こされているとは限らないということだ。
本稿執筆者注:この引用部分は「擬態」パートの最冒頭に付けられているものであり、太刀川氏の記述は引用していない。
📕太刀川氏がDNAの欠失を意識して言葉を選択した可能性はなくはないが、「欠失」は普通に一般的にも使われる言葉であり、実際、太刀川氏は羽根の無い扇風機など人工物含めた一般的対象に対して用いている訳なので別に問題ないだろう。生物学用語が初出である「進化」などとは話が違う。もし仮に「欠失」が生物学用語に限る言葉であると松井氏が思っているのであれば、申し訳ないがそれは本の評者としては力不足と言わざるを得ない。(「1 欠けてなくなること。2 あやまり。おちど。3 生物で、染色体やDNAの一部が切断されて消失すること。突然変異の原因となる。」[174] デジタル大辞泉「欠失」, 使用例省略)。またそもそも生物学の文脈に限っても「欠失」という語が形質に当てられることは割とある[175][176][177][178][179][180][181]。この辺も非専門家による批評の限界と問題点をよく表しているだろう。
| またクマの一種であるコアラも同じようにクマにはある尻尾がない
| し、トカゲに近接する種であるはずのヘビには足がない。(p.119)
M: コアラはクマの一種ではなく有袋類だ。
I: 「近接する種であるはず」の「はず」の意味が不明だが、トカゲやヘビという「種」は存在しない。同じ有隣目に分類され、トカゲはトカゲ亜目、ヘビはヘビ亜目である。亜目の下には科、属、種の3階級がある。この「八段階のフォルダに分けて分類されている」(p.267)という認識は太刀川も有しているようだ。例えると、東京都(有隣目)23区内(ヘビ亜目)中央区(科)銀座(属)四丁目(種)と東京都23区外(トカゲ亜目)武蔵野市(科)吉祥寺本町(属)一丁目(種)くらいの感じである。「近接する」とは言い難い。
💜いや、トカゲとヘビは一般的感覚として近接していると言ってよいだろう。地名によって種まで例えることで近接していない感 (自宅を中心とした日常生活感覚でいう近所ではない感) を出しているつもりなのかもしれないが、そもそも今は「種」で比較していないので話がズレているし (太刀川氏の種発言はただのミス (蛇足) であり本質ではない)、仮に種を比較していたとしても「東京都(有隣目)23区内(ヘビ亜目)中央区(科)銀座(属)四丁目(種)」と「東京都23区外(トカゲ亜目)武蔵野市(科)吉祥寺本町(属)一丁目(種)」は関東レベル (爬虫類) や日本レベル (脊椎動物門) で見れば十分近い。なおコアラとクマに関しては指摘の通り。
| 形ばかりでなく色が欠失することもある。多くの種では一定の確率で
| 色素を持たない個体、アルビノが生まれてくる。(p.119)
M: アルビノは色が欠失した個体ではなくメラニン色素の生成に障害をもつ個体であり、このふたつは同じではない。小人症が身長が欠失する障害ではないように。
💜「色が欠失した」という表現は別に問題ないのではないだろうか?通常存在する色が無いということなので。また、身長の話を例示として出しているが、色というのは厳密には連続的であるものの、実際には赤、青、緑などある程度カテゴリー化されて認識されており、そういった点で連続的性質の強い身長は比較として不適切であるように思われる。また、色は混ぜたり足し引きできるような対象であるが身長はそうではない点も踏まえると、やはり例として不適切だろう。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、二つ上の指摘部分からするに、松井氏はここでも「欠失」をDNAや遺伝子の欠失といった意味でのみ取っている可能性がある。しかしそれは特に一般に認められるものではない。このパートで太刀川氏は羽根の無い扇風機など一般的対象にも「欠失」を当てている訳なので、一般用語的な「欠失」と解釈するのが妥当だろう。
| ダイソンは羽根のない扇風機を発売しているし、共鳴胴(振動音に共
| 鳴する胴)を持たないサイレントギター、バイオリン、チェロがヤマ
| ハから発売されている。(p.121-122)
M: 既存のものから不合理な部分を取り除くのは人工物における退化(という言葉をここでは使う)なのか? 一見合理的に見える足をなくしてしまったヘビ、バランスとるのに有利そうな尻尾をなくしたApe、顎を小さく弱くした人間、そういう大胆なトレードオフをあげたほうがいいのではないだろうか。
今一文脈が分からないが、別に退化と言っても良いのではないだろうか。別の観点が重視されたために元々は合理的であった部分が無くなるor弱化することは、人工物でも生物でも同様に退化と言えるだろう。何を以って「大胆なトレードオフ」と言いたいのか今一分からない。羽根のない扇風機もサイレント楽器も十分大胆だと思うが。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はこの引用付近というかこの「欠失」パートにて一切「退化」というワードを出していないので、松井氏が何を問題としているのか全く分からない。また太刀川氏が述べている内容そのものにも全く問題は見当たらない。ここの引用部位は直前の「ベンツの自動車のように、発明でも欠失的現象は頻繁に登場する。」(『進化思考』p.120) という文に続く欠失的デザインの例示パートである。また、松井氏が述べていることそのものに関しても、上記の通り羽根の無い扇風機やサイレント楽器は合理的な部分を無くした大胆なトレードオフだろう。それとも「既存のものから不合理な部分を取り除くのは人工物における退化(という言葉をここでは使う)なのか?」という記述からするに、羽根の無い扇風機やサイレント楽器はただ不合理な部分を無くしただけであって、何のデメリットも受けていないと考えているのだろうか?だとしたらそれは明らかに誤りだろう。羽の無い扇風機には、騒音が大きい・電気代が高い・商品価格が高い、といったデメリットがあり(羽根の無い扇風機は消費電力や発生音に対する風量効率が悪い)、楽器に関しても、そもそも共鳴胴は音を増幅させるために非常に重要な部分であり、それを失ったサイレント楽器では生音が限りなく小さくなるというデメリットを受ける。あとそもそも論として今太刀川氏は単に欠失的なデザインについて話している訳なのだからトレードオフの存在云々は特に関係ない (しかも上述の通り、トレードオフは存在する)。また、この引用部位の次の段落で太刀川氏は「こうした不合理を取り除く発想をすれば、必然的に欠失的な発想を生み出すことになる。」(同 p.121) というように「不合理」について語っているので、もしかしたら松井氏はそれ (その不合理の取り除きは適応的なメリットを得ているのか?) に関して述べているのかもしれないが、羽根の無い扇風機もサイレント楽器も不合理な部分を取り除くことでメリット (前者は安全性、後者は静音性) を得ている訳なので何も問題ないだろう。
| あるのが当たり前だと思っていた概念がないことを仮定したときに、
| 科学や社会が一気に進むこともある。たとえば〇(ゼロ)という数字| もそうだ。(p.121)
M: ゼロの概念が欠失だというが、ゼロという概念はむしろ付け加えられたことによって数学を進歩させたので、それは欠失でも退化でもないのでは…。たとえばなにかを仮定して解けないはずのナヴィエストークスを解けるようにする、とか、モアレフィルターなくして画質向上なら退化かも。いや、前者は違うな…。
💜松井氏はゼロという概念が既存の数字概念に対する欠失であったことと、ゼロという概念を導入したことそのものを混同している。引用されている文章を見る限りは太刀川氏は前者について「欠失」を語っているように見えるし、ここまでの発想法という文脈から考えても前者の意味で取るべきだろう。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、この引用部位の直後に太刀川氏は「ゼロは紀元六五〇年頃にはインド数学で使われはじめたことがわかっており、一二〇二年にはフィボナッチによってインド数学の概念にあったゼロが再発見され、数学を飛躍的に前進させた。」(『進化思考』p.121) と続けており、これを見ても明らかに太刀川氏の意図は既存の数字概念に対する欠失にあることが分かる。これも読解難易度としては非常に簡単な部類のものであり、人の本を批判するのならば最低限この程度は読み取れて欲しいと強く感じる。
| 当然のように起こっている差別もまた、存在する必要はないはずだ。
| (p.122)
M: お気持ちは大変そのとおりだと思うのだが、差別のメカニズムと著者のお気持ちは関係がない。進化の看板を掲げるなら差別はなぜ起こるのか?のメカニズムを進化的に説明すべきで、差別をすることが適応的であるからこそ根が深く厄介なのであって、「差別は悪いですね、存在する必要がないからやめましょうね」というのは中学の道徳の授業である。よそもの差別の適応的メカニズムについてはヘンリックの『文化がヒトを進化させた』[24]、ミラーの『消費資本主義!』[39]が詳しい。
💜太刀川氏がここで云う「必要はないはず」というのが現代社会における実践的な話についてであれば、これはその通りであり何も問題はない。一方、必要ではないからすぐに消せるかと言えばそうではないのはその通りである。ただ、差別を差別感情の適応的意義だけで語ろうとするのは片手落ちであり、差別の文化的な側面 (単に個々人が生得的な差別感覚に従って行動しているだけではない) についても考える必要があるだろう。
また「差別をすることが適応的である」とのことだが、これがもし全称命題であるならばそれは誤りではないだろうか?例えば男女差別のどこに適応的意義があるのだろう。内外集団に関する話は多少当てはまるかもしれないが、総合的に見て適応度にプラスに寄与しているようには私には見えない。総合的にプラスになるかどうかではなくて単に差別的行動が適応進化の影響をいくらか受けているということを述べたいのであれば問題ないかもしれないが、そういうことを言い始めると、人間の行動のほぼ全ては大小何らかの点で適応的であるはずなので、そういった薄い意味での適応性を語ることに大した意味はない気がする。
また「「差別は悪いですね、存在する必要がないからやめましょうね」というのは中学の道徳の授業である。」という発言は差別を道徳的に否定する姿勢を馬鹿にしているようにも見えるが、道徳というトップダウン的および実践的価値付けは人間社会においてそれなりに意味のあるものである。「メカニズムを進化的に説明すべき」という発言も踏まえると、松井氏は皆がメカニズムを理解できれば差別はなくなると考えているようにも見えるが、まず現実的に皆が差別のメカニズムを理解するのは無理である。加えてメカニズムを理解したところで実際のところ大した手立てはないように思える (メカニズム理解を基に差別が起こりにくい社会システムを作ることは理論的には不可能ではないだろうが、それが現実的に可能であるのか、またその効果量が導入するコストに見合ったものなのかどうかはまだ未知数であるように思う。またもっと小さいレベルの話であれば、多少は差別を減らす仕組みは作れるだろうが、それが道徳を馬鹿にできるほどの大きな効果は持つことはないだろう)。研究者としてはメカニズムの理解に高い価値を置きたくなるのだろうが、社会実践的には道徳的説明をした方が現状よっぽど役に立つのではないだろうか (別に二者択一という訳ではないが)。これは自戒を込めてだが、この話に限らずメカニズムを理解することで何か他人より優位性を得た気になって、それで満足して終わるようにはなりたくないものである。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、この引用部位の直後に太刀川氏は「差別者にとって差別はすでにある常識的環境であり、それが差別として認識すらされていないこともある。その常識は未来の非常識であり、なくせると示すこともひとつの創造だ。」 (『進化思考』 p.122-123) と続けており、これを見るに、「当然のように起こっている差別もまた、存在する必要はないはずだ。」というのは差別における適応的な意味や社会構造などを一切無視した単なる道徳的発言 (松井氏の言葉を借りるならば「お気持ち」) ではなく、現状として何らかの理由があって差別が発生していたとしてもそれは社会にとって必要であるとは限らない(差別が無くなっても社会は成立し得る)という実践要素を含んだ主張であるように見える。したがって、そういった解釈可能性に一切触れずに単に「お気持ち」として解釈するのは不適切であるように感じる。また、以上のような解釈は太刀川氏の記述を広く見れば得られうるものなのだが、ここでは狭い範囲しか引用されていないためそれが妨げられており、引用されている部位だけを見ると太刀川氏が単に道徳的発言をしているだけのようにも見えてしまう。一般に引用する際には誤解が発生しないように気を付けるべきなのだが、ここに限らず批判集にはそういった「雑な」引用が多々見られる(批判集p.55, p.142の「もし進化が自然発生しているなら、デザインやアートなどの創造性もまた、自然発生する現象と考えられるのではないか。」や批判集p.125の「失敗するくらいなら、やらないほうがましだ。」など)。そしてもちろんこれは批評本としては致命的な問題である。
| 牛、羊、山羊などは反芻動物と呼ばれ、四つの胃を持っている。消化
| しにくい草を食べるので、第一胃に飲み込んだ食べ物を、第二胃を使
| ってまた口に戻し、何度も咀嚼しながら食べる。そして十分に咀嚼し
| たものを第三胃と第四胃で栄養に変える仕組みだ。どうやら四つの胃
| のうち三つは正確にいうと食道を変形させたものらしいが、その様子
| を見れば明らかに胃袋が増えている様子がわかる。(pp.129-130)
I: 反芻動物の四つの胃は草のセルロースなどを分解吸収するための仕組みであるが、「三つは正確にいうと食道を変形させたものらしい」という由来もさることながら、役割も異なっている。焼肉としてもミノ(第一胃)とハチノス(第二胃)だけを比べても色も形状も触感も全く違うことが一目瞭然であろう。同じものを増やすのが当書の言う「増殖」ではないのか。内臓(焼肉)で言うならば肺(フワ)や腎臓(マメ)が左右2つあることの方がまだ「増殖」の例と言えるように思う。
文脈がはっきりとは分からないが別に増殖といっても良いのではないだろうか?似たような機能のモノを増やしたという意味で。また胚と腎臓の方が増殖の例としてふさわしいとのことだが、「腎臓」に関しては進化の初期からの二つあったはずなので (これを直接的に示すリファレンスが見つからないが、脊椎動物の左右相称性と発生メカニズムを考えるにそうである気がする)、 増殖の例としては相応しくない気がする。
📕『進化思考』を読んだので追記する。確かに太刀川氏は基本的には同じものを増やすという話をしているが、ある程度似たようなものが増えているのならば別にそれほど突っ込む必要はないように思える。
| わずかに違う同じようなものをアソートした(分類して組み合わせ
| た)、 トランプ、色鉛筆、マニキュア。 (p.135)
I:「わずかに違う同じようなものをアソートした」というのは「増殖」ではなくパラメータの「変量」ではないのだろうか。色鉛筆を例に出すならば、進化ワーク03「超~なx」(p.103) 的に「超色がいっぱいある色鉛筆」となるであろう。トランプやタイプライターは数と文字の問題なので、「増殖」なのか?と思うが、まあ著者の考えということで尊重しておく。
📕太刀川氏が「変量」パートで言っているのは"単一"の物体の性質をどう変化させるかであり(大きく、小さく、薄く、厚く、高く、長く、軽く、速く、遅く、柔らかくなど)、一方「わずかに違う同じようなものをアソートした」というのは"複数"の物体の話な訳なので特に問題ないだろう。確かに個々の「わずかに違う同じようなもの」単体は変量的対象とも見れるが、ここではそれらの「セット」を一つの対象を見ているのだから増殖と呼ぶことに違和感はない。太刀川氏はここの引用部位の段落の最後でも「このように、要素の数を変えるタイプの創造を「増殖的な創造」と定義して見ると、」(『進化思考』p.135) というように述べている。
| メンデレーエフが発見した元素の周期表なども、元素がたくさん発見
| された末に誕生した増殖的な創造といえるだろう。(p.138)
M: メンデレーエフの元素周期表は増殖的らしい…わからない…。当書であげられる9つの変異はどれも互いに独立でなく、馬車から馬が「欠失」させたのが車で、馬をエンジンに「交換」したのが車で、馬車に「擬態」したのが車で…といわばラベル状に付与できるのが違和感がある。
📕周期表を増殖見做すのが不適切なのはそうだと思うが、変異が独立でないからおかしいという批判は別に妥当ではないだろう。ここでの「変異」というのは何らかの要素の変化に過ぎず、それをどのようにパターン的に解釈するかという話なのだから、異なるパターンが一つの変異対象に当てはまることは普通にあり得る訳で、そこに問題はない。確かに変異のパターンをそれぞれ独立な変異メカニズム(どのようにしてその変異が生じるか)として考えるならば複数被りはおかしいが、太刀川氏は特にそのような話はしていない。実際、太刀川氏は『進化思考』p.201にて「変異のパターンはもっとあるかもしれないし、重複する思考もあるだろう。しかし、肝心なのは、発想にはパターンが存在するということだ。」と述べている。
M: 最も一般的な「転移」の用法ははガンのそれであって、変異のパターンとして適当ではないように思う。水平転移=水平伝播は生物進化では世代間(垂直)ではなく世代内での遺伝子のやりとりだし、文化進化では水平伝達、垂直伝達、斜めの伝達を類似の意味で使い分ける。このあと水平転用(p.146)という横井軍平の水平思考のような言葉も出てくるが、これらをまたぐ転移という曖昧な言葉を使うことでこれらを結びつけようとしているが実際にはメカニズム的な繋がりは薄い。生物にとって移動することやニッチが重要なのはそのとおりだが、それと水平転移はつながらない。転移よりもたとえば「移動」「移住」のほうが近いのではないだろうか。
本稿執筆者注:この引用部分は「擬態」パートの最冒頭に付けられているものであり、太刀川氏の記述は引用していない。
📕太刀川氏は何かしらの対象が元の場所とは異なった場所で新たな価値を発揮するという話をしている訳なので、別にそれを転移という言葉でまとめることは問題ないように思える。転移という移動的意味が変異というある対象そのものの変化の意味とは合わないと言いたいようにも見えるが、「転移の"結果"」として考えればそれほど問題はないだろう。また「メカニズム的な繋がりは薄い」とも述べているが、太刀川氏は別に転移現象がメカニズム的に皆同じという話はしていないし、文脈からしてもそのようなメカニズムの同一性は今は重要ではないだろう。また生物のニッチ獲得に関して「移動」「移住」という代替案を出しているが、転移を純粋に場所の変化という意味で広く取った場合、移動も移住も移りの結果としては転移と言える訳なので、転移で括ってもそこまで問題はない。
| 日本人としてアボリジニの皆様にかたじけない気持ちである。(p.142)
I: 「かたじけない」(忝い)は現代語では感謝の意を表す語である。さすがに編集者もこれくらいは気付いて欲しい。確かに古語では「面目ない」の意味もあるが…。
古語ではあるが、そういった意味の用法も割と見るような気がする。それこそが誤用だと言われればそうかもしれないが。時代劇とか時代設定が昔の漫画とかそういった中での使用が現代において古語の意味での使用が残っている原因かもしれない。
| イチイヅタは急速に大量発生し、毒を持っていたため数年のうちに在
| 来種の海藻を死滅させ、地中海の生態系に壊滅的なダメージを与えて| しまった。 (p.143)
I: この書き方だとイチイヅタがアレロパシー(Allelopathy、他感作用)を持っているように読める。だが、イチイヅタの「毒」であるコーレルぺニン(Caulerpenyne)は捕食者(つまり動物)に対する「毒」である。イチイヅタだけ生存能力が高く、結果的に繁殖したと解釈するべき現象である。
確かに太刀川氏の主張はアレロパシーを想起させるものであるので表現として不適切であり、また実際おそらく太刀川氏はそのように理解してしまっているように思われる。一方、伊藤氏の云う「イチイヅタだけ生存能力が高く、結果的に繁殖したと解釈するべき現象である」というのもやや片手落ちであり、イチイヅタが地中海でこれほど生息域を拡大させた要因としては、単に生存能力が高い (毒による捕食圧の低下、海底基質の非選択性や波浪への抵抗性) だけではなく、繁殖形態が主に栄養繁殖であることや生活環の噛み合いで他種との競争で有利を取っていることなどが挙げられる[32]。なお最近の研究では、死滅とまではいかないがコーレルペニンがアレロパシーとして機能している可能性も示唆されている[182]。
| カッコウの托卵も、交換によって適応した進化だ。 (p.157)
M: 交換によって適応する、適応した進化、托卵が進化である、と、この文すべての表現に問題があるが、表現はさておき、托卵はBrood Parasiteという片利共生的・寄生的な習性である。寄生であることはこのページでも述べられており、なぜp.340の寄生ではなく交換としたのかわからない。
I: 托卵はどう考えても「交換」ではなく、孵化させる場所の「転移」だろう。カッコウが托卵先の「巣にある卵を一つ落と」すのではなく、一つ持ち帰り自分の卵として孵化させて育てていくのであれば「交換」と呼べるが。
📕「交換によって適応する」はプロセス的定義として取ればそこまでおかしくないだろう。また、「適応した進化」「托卵が進化」も進化を「進化的形質」としてあげれば、一応意味は通る。また、寄生だから寄生パートに書くべきという主張も別に妥当ではない。先ほども述べたが、ある「変異」が属するカテゴリーが独立的なものである必要はないし、そもそもそこで松井氏が言っている「p.340の寄生」は「変異」ではなく「適応」のパートの話である。「なぜp.340の寄生ではなく交換としたのかわからない。」という記述への回答は、申し訳ないが読解力不足の一言に尽きるだろう。(「交換」としている理由についてはすぐ下の伊藤氏へのコメントも参照)。
また、「交換」ではなく「転移」であるという伊藤氏の指摘に関しては、確かに産む巣の移動という観点では転移だが、托卵された雛は托卵先の別種の卵や雛を巣から落とし、騙された親によって養育投資を多く受ける訳なので、そのように寄生先の雛と入れ替わるという観点で「交換」とすることは別におかしくない。実際、太刀川氏も『進化思考』p.158にて「カッコウのヒナは他の卵より先に孵化し、まだ目も見えないうちに、他のすべての卵を巣から落とす。そして巣の親鳥からの餌を独り占めにし、しまいには親鳥よりも大きくなるのだが、親鳥はその頃になっても、まさか自分の子が偽物だとは気づかない。なんともサスペンスドラマ的な生態だ。こんな交換が成立するのは、偽物が本物にそっくりだからだ。」と述べており、そういった観点で太刀川氏が「交換」としていることは明らかである。「どう考えても」と自信満々に述べているが、申し訳ないがここも本の評者としては力不足と言わざるを得ない。「カッコウが托卵先の「巣にある卵を一つ落と」すのではなく、一つ持ち帰り自分の卵として孵化させて育てていくのであれば「交換」と呼べるが。」という「交換」の独自定義も述べられているが、これに沿うならば伊藤氏にとってはいわゆる「電球の交換」は交換ではなくて(古いのは捨ててしまうので)、古いのをどこか別のソケットに付けたり、飾りとして再利用したり、小物として愛でたりして初めて「交換」が成り立つと考えているということなのだろうか?しかしそうではなく、おそらく伊藤氏はこの批判の場においては主体が二人いる「物々交換」という非常に狭義の意味で「交換」を勝手に定義してしまった(そしてその定義がおかしいことに自分で気づけていない)ように見える。また、仮にそういう独自定義を一時的に持ってしまったとしても、相手が言っていることと照らし合わせたり、両者の相違から自らの理解を再検証したりすれば、この程度の簡単な語であれば普通は正しい理解に至れるものなのである。申し訳ないが、そういった言葉の分析・解釈・使用を柔軟に行える能力がない者には本の批評は難しいと感じる。ちょっと指摘のレベルが低すぎる。(本の批評というのは、自分の理解を開いて他者の記述とすり合わせていくそれなりに技量の要る作業であり、自分の理解を固定させてそれに沿うように他者の記述を安易に〇✕判定することは批評ではない)。
| 親鳥はその頃になっても、まさか自分の子が偽物だとは気づかない。
| (p.158)
M: そういう場合もある。托卵された側の親鳥は、差に気づいてはいるが、それに対する反応を持ち合わせていない場合が多いという研究がある。
言葉の曖昧さが気になる。カッコウの托卵の「交換」と電球の「交換」は交換という言葉でのみつながっていて、メカニズムもなにも違う。
📕本稿に対する伊藤氏の応答記事[92]において、私の引用が少ないことについて伊藤氏は突っ込んでいたが、批判集もそれほど引用がしっかりしているようには私は感じない。基礎的な概念・理論に引用がないのはそれほど問題ないと思うが、このような個別的な事例情報については引用を付けるべきではないだろうか?昨今はAIの発達でこの辺の文献検索は楽になってはきているが、やはり不親切ではあるのと、「~という研究がある」というように論拠としている以上基本的にその研究を引くべきだと思う。ここ以外にもp.107の「脱皮後の弱さを隠して強がるなどの同種をだます擬態もある」、p.125の「つまり、本能的に勘定するリスクは過大評価しがちなので、努めてその感覚に抗って、「怖く思えるけれど、実際のリスクは今私が感じているものよりも矮小なはずだ」と思えるかが成功の鍵となる、という研究がある。」、p.162の「むしろカクレクマノミを捕食しようとやってくる魚をイソギンチャクが捕食することもあるらしい」など、別に論文でなくてもいいので、何かしら引いてくれると助かる部分が多い。伊藤氏は上記の記事内で「これが斯界の権威のような人物であれば論拠を示さずともある程度の信頼性は担保されるかもしれないが、匿名の人物ではそういう訳にもいかない。」と述べているが、生物の専門家である訳でもない松井氏と伊藤氏にも同様に大した信頼性はないのだから、人に対してそう述べるのならば、自らもその基準に従うべきではないだろうか?実際、批判集の著者らは生物学的に間違ったことを多く述べているため、私から見て信頼性は低い。
また「交換」という言葉の使用に関しては、太刀川氏の話はある変異カテゴリー内の変異らがメカニズム的に同一であることを必要としている訳ではないので、交換的な現象を「交換」と広くまとめても別に問題ないだろう。またメカニズムとしても、托卵において寄生種の卵の色や模様及び雛の口内模様が被寄生種のそれに似ていることは、電球における規格と似ていると言えないだろうか?太刀川氏も「こんな交換が成立するのは、偽物が本物にそっくりだからだ。交換的思考を生物から学ぶうえで、交換したいものにサイズや形態を似せることは大変重要な意味を持つ」(『進化思考』p.158)、「托卵鳥の卵は、騙される側の色や形に似るように擬態するし、種によってヒナの顔さえ似るようになった。」(同 p.157-158)、「規格化されたものは、交換を容易にするためのデザインが施されている。」(同 p.159)、「規格化されたソケットがあったからこそ、白熱電球からLED電球へと、より性能が良いものに交換して効率を高めることが可能となったのだ。」(同 p.159) などと述べている。そういう訳でもし仮に上記のようなことを全く読み取れない上での指摘であるのならば、申し訳ないがここも本の評者としては読解力不足と言わざるを得ないだろう。
| 手段がなければ目的は達成されないが、目的は手段よりも常に優先さ
| れる(p.161)
I: この本を貫く哲学と思われる。「進化思考」を提唱するという「目的」が「手段」である「進化学」や「生物学」あるいは「正確な文章」よりも優先されてしまっている。
💜既に別のところでも書いたが、この批判集では「太刀川氏が進化についてよく理解していないことにしたい」「太刀川氏の主張を既存の文化進化の話に落とし込みたい」という「目的」が、「適切な文章読解」という「手段」よりも優先されてしまっているように感じる。そうでなければあれだけの誤読は発生しないように思われるからだ。単に文章読解力が低いという可能性もあるが。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、この引用部位の前後に太刀川氏は「同じ目的を持つものに交換される場合を、ここでは意味的な交換と定義する。意味的な交換では、交換する対象同士が同じ目的(WHY)を果たすことが一つの条件になる。」「目的とは適応圧そのものであり、変異側ではなく適応側を探求しないと見えてこない。」「目的は適応であり、変異は手段だ。この二つのバランスが創造性そのものだろう。」(いずれも『進化思考』p.161) と述べている。したがって、伊藤氏が引用している太刀川氏の文は、「目的を把握していないと結果物は環境にフィットしない不適切なものになり得る(だからまず初めに目的という大まかな導線を与えてやる必要がある)」または「あらゆる手段は何らかの目的に先行されるものである(だからこそ適切な目的を探す必要がある)」ということを言っているものであって、単に目的と手段のどっちが価値的に優れているかという話をしている訳ではないし、ましてや目的達成のためなら不適切な手段も取り得るといった話をしている訳ではないだろう。実際、今引用したように太刀川氏は二つのバランスの重要性も述べている。したがって伊藤氏の指摘は曲解的である。そして、このように引用を曲解的に使用する伊藤氏のここでの行為そのものが、まさに手段(適切な文章読解・解釈)より目的(太刀川氏を批判したい)を不適切に優先するものではないだろうか?(純粋に太刀川氏の意図を読み取れなかっただけの可能性もあるが)。
また上で述べている認知バイアス的な話に関してだが、『進化思考』を読むと批判集には誤読に基づく非妥当な批判が極めて多いことが分かる。そしてそれらには上記のような認知バイアスが働いているように見えるものもあるが、「進化」に絡まない部分など、太刀川氏を否定することに大して旨味がない部分においては、そういうの関係なく単に読解力不足などで誤読しているだけのことも多いように個人的には思う。(なお、認知バイアスの存在非存在及びその強度を読解能力の構成要素の一つと見做すことも可能である。『進化思考』を読んでの指摘で度々述べている読解力不足云々はこの辺も含めてであることも多い)。
また、ここも引用部位の周辺含めて読むかどうかでだいぶ印象が変わる部分である。伊藤氏の引用の仕方だと太刀川氏が、単に目的は手段よりも価値的に優れていると考えていたり、目的のためなら手段を選ばないという偏った思想を持っていたりするようにも読めてしまう。批判集にはこのように引用不足による誤読誘発が非常に多い。もちろんこれは批評本の在り方としては致命的な問題である。著者の意図を正しく汲むように引用出来ているのならば引用範囲が最小限でも構わないが、少なくとも批判集はそうはなっていない訳であり、一般に批評をする際は自身の文章読解力に大層自信がない限りは広めに引用した方が良いと感じる。
| 生物進化における「分離」(p.165)
M: 進化のプロセスの話をしているのだから、単に形質としての分離だけではなく、集団の分離として地理的隔離をはじめとした生殖的隔離を紹介してほしかった。
💜これは好みの範疇の話ではないだろうか?松井氏はこの引用部分以前にも集団の分離に強いこだわりがあるかのような発言をしているが(p.107の国境線の話において種分化を語っている)、集団の分離について特に話さなければならない訳ではない。なお、p.31で林氏が「種分化に関する説明であり「進化論の構造」としてここで挙げるものでもないだろう」、p.89で松井氏が「「進化論の構造」の一部とすべきではない。種の分化は進化の結果であって、進化に必須の条件でも「構造」でもないというのが私の理解だ」というように種分化は進化論の構造に含まれないと言っていたのに、ここでは種分化が進化のプロセスに含められているように見える。松井氏個人としてはもちろん、一冊の本としても一貫性がない。(「進化のプロセスの話」というのが「進化のプロセスそのものの話」ではなくて「進化のプロセスに関する話」であるのならば問題ないとも言えるが)。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、太刀川氏はここ周辺で「進化のプロセス」一般の話は特にしていない。したがって、上記の通り松井氏の好みとしての指摘に過ぎない。また、生殖的隔離は形質の分離に比べて創造的デザインに生かしにくいので、言及しないことに特に不適切さはない。
| 膜にほぼ等しい、さまざまな素材でできた分離壁で何層にも包まれて
| いる(p.167)
I: 膜と壁の使い分けが不明である。膜は生物で壁は人工物と言いたいのか?とも思ったが 、「進化の過程で袋状の分離壁を発達させたのだろう」(p.165)と書いているので、生物にも壁はあるらしい。厚みのあるものが壁なのか?
📕太刀川氏はここの引用部位の直前含めて「そして分類には分離壁がつきものだ。あらためて考えると、私たちは何度も分離壁を再発明してきている。生活のなかでも、分離のための膜のような道具をたくさん使っている。カプセル、外装、プラスチック容器、コップ、缶、瓶、鍋、弁当箱、引き出し、靴、袋、包帯や服などの布、カーテン、コンドーム、上水道と下水道、壁、天井、部屋など、あげればきりがない。そうした日用品のほとんどは、さまざまな素材でできた分離壁で何層にも包まれている。」 (『進化思考』p.167) というように、さまざまな用途・素材を例として挙げているので、ここでの「膜」と「分離壁」に厳密な意味の違いはおそらくなく、単に機能に関する緩い比喩的なものであるように思われる。
| その結果として、私たち人間の六人に一人は左利きとなって左右が逆
| 転するし、一三人に一人がLGBT(性的マイノリティ)として性自
| 認が逆転し、二万二〇〇〇人に一人が内臓逆位、つまり体内のすべて
| の内臓が鏡のように左右を反転した状態で生まれてくる。こうした反
| 転は特別なことではなく、ただ一定の確率で生まれるし、進化のため
| に必要なエラーでもある。(p.177)
M: 左利きは左右が逆転しており、LGBTは性認識が逆転しているわけではない。「正常」から逆転しているのではなく、単なるバリエーションだ。LGBTはエラーという立場なのだろうか。確かに「染色体異常」とかも異常・エラーなのかという話はあるとは思う。
(中略)※この中略は本稿執筆者によるものである
逆転の生物をあげるならハルキゲニアが最もよいと思う。彼らは何も逆転していないが、人類は彼らの前後ろや上下をさかさまに勘違いし続けていた。「逆」という感覚そのものが人間の固定観念由来の主観な気がする。
少なくともLGBTのBに関しては当てはまらないと思うが、左利きとT (LGも見方によっては (少なくとも性自認は関係ない)) に関しては逆転的と言ってもよいのではないだろうか?「「正常」から逆転しているのではなく、単なるバリエーションだ」とのことだが、そのバリエーションの一つとして逆転的な性質を持つと言える訳なので。また「個体 (個人) は逆転していない。皆それぞれ一人の人間 (バリエーション) である」というようなことを言いたい可能性もあるが、今ここで太刀川氏が言っている「逆転」というのはあくまで「利き手」や「性」についてであって、「個体 (個人) 」について言っている訳ではないだろう。
ただ「進化のために必要なエラーでもある」という太刀川氏の主張は不適切だろう。エラー一般が進化のために必要であるというのは確かだが、ここで言っているような逆転が進化のために必要とは別に言えない。ある特定の進化において必要という話ならば問題ないが、それを指定していない限りはあまり意味がない主張である。
また、松井氏はハルキゲニアを逆転の適切な例として挙げているが、これは人間が勘違いしていたというだけの話であり、むしろ不適切な例だと思われる。「「逆」という感覚そのものが人間の固定観念由来の主観な気がする」とも言っているが、二者択一的または対称性のある尺度において片方側から見てもう片方は逆である。これは主観ではない。一方ハルキゲニアにおいては主観的に逆だと勘違いしていたのであって、そもそもそこには客観的な逆はない。(「そもそも「逆」という概念が存在することが主観に拠る」という反論が予想されるが、そういった現象学的な話とは別に「逆」というのは客観的に定義可能なものであるので、その反論に大した意味はない。またそういった現象学的な観点で攻めたところで、それは単にハルキゲニアにおいて「逆」という概念付けが浮き彫りになったというだけであり、それを「逆転の生物」とは言わないだろう)。
| 融合的な思考から発明された道具は、身近なモノでも挙げていたらき
| りがない。カレーうどん、弓矢、ペットボトル、水陸両用車、多機能
| ナイフ、カメラ付き携帯電話、レンズ付きフィルム、電気こたつ、ク
| レーン車、車椅子、原動機付き自転車、合金、ブレンデッドウイスキ
| ー……(p.193)
I:「融合」と「結合」は違うと思うが、そこは受容するとして、「弓矢」は弓と矢を融合したのではなく、矢を飛ばすために弓が発明された、あるいは石を投擲する弾弓が発明されそれに合わせて投槍器の槍(ダーツ)が小型軽量化して矢が生まれたと考えるべきではないか*。「ペットボトル」はガラスボトルの「ガラス」を「ポリエチレンテレフタレート」と「交換」したものだろう。「白熱電球からLED電球へと、より性能が良いものに交換」したのと同じ「交換1 物理的な交換(WHAT)」(p.159)の事例とするべきだ。「電気こたつ」もp.86で『馬がエンジンに「交換」された、あるいは内燃機関と荷車が「融合」した馬車でもあった』という例で挙げているように、炭火から電熱器に熱源を「交換」した例である。馬車の場合には、元々動力である馬と荷車が分離していたのを「融合」したといえるが、こたつは元々熱源の上にふとんをかぶせるという構造は変わっていないのではじめから「融合」している。自分で提唱する分類の適用があやふやでは困る。それくらいは自力で精度を高めてもらいたい。
📕弓矢や電気こたつに関しては指摘の通りだと思うが、ペットボトルに関しては妥当ではないだろう。太刀川氏が「交換1 物理的な交換(WHAT)」で述べていたのは、「同じくらいの大きさや性質のものは、物理的に交換できる。」(『進化思考』p.157) ということであって、素材を別のものに交換することは扱っていない。ここで挙げられている電球云々も規格化されたソケットという交換容易性のおかげで技術の普及が進んだという話である。
| イノベーションを提唱したシュンペーターも「郵便馬車を次から次へ
| とつなげるようなことをしても、鉄道は決して生まれてこない」と語
| る。つまり融合から発想するには、足してもなおシンプルな状態を保
| つ工夫、すなわち最適化を目指すデザインが不可欠だ。(pp.197-198)
I: シュンペーターの郵便馬車の話の原文を確認したわけではないが、同じものを「増殖」させるのではなく、異質なものを新たに結合することがイノベーションには必要だというような文脈だと推測する。それが著者のシンプル云々という見解とどうつながるのか全く理解ができない。
シンプル云々は冗長性や統一性に関して言っているのではないか?最適化とも言っているし。ただ足しただけでは機能に冗長性があったり、統一性に欠けるところがあるので、足したものが「一つのモノ」 (というシンプルなもの) になるためには、そういった部分への工夫が必要という話であるように思われる。とはいえ、引用されているシュンペーターの言葉がこのシンプルさに関するものなのかどうかは謎である。
| 進化は、偶然だ。(p.200)
M: キャッチコピーかなにかか? 生物の変異や中立進化はたしかに偶然といってもいいが、文化の変異(特に誘導された変異)、自然選択、バイアスのある伝達は偶然ではない。「あらゆる生物進化は、偶然からはじまる」であればまあ問題ないと思う。進化をはじめとした難しくて巨大な概念を、よく読むと意味のわからない、短くてそれっぽい言葉で断定的に決めつけることに魅力を感じる読者むけの本であることは重々承知しているが…。
💜変異が偶然であるのならば、それを基とする進化は当然偶然の現象であるのだから別に問題はないだろう。太刀川氏は「進化」について述べているのだから、それを個々の要素に分解して偶然・必然を語ったところで大して意味はないように思う。要するに太刀川氏が言っているのは「麻雀は運ゲー」といったようなことである (プレイそのものはランダムではないが、プレイの基となる配牌はランダム) 。
また後半のような皮肉的な文は本当にやめた方がいい。ここから松井氏がどういったモチベーションでこの批判集を書いているかがだいたい分かるものだ。少なくとも真面目に対話する気はないのだろう。
| 無数の変異的挑戦による、壮大な結果論なのだ。(p.200)
M: 結果論とは、結果がわかってからあとづけで結果のみを根拠に説明することだと思っているのだが、違うのだろうか。進化理論じたいは後付けではないし、適応主義にしても結果のみを根拠にするアプローチではなく、結果をもとに原因まで逆流する推論で、リバースエンジニアリングに近いものだ。
💜引用範囲が狭すぎて太刀川氏の文章における主語が何なのかよく分からないが、太刀川氏は単に「目的があって進化した訳ではない」(ある適応的形質の存在は偶然に基づく結果であって何らかの目的を持って形成されたものではない) というよくある説明をしているだけではないだろうか?目的論ではないという意味で結果論と言っているだけだと思う (「結果論」の適切な語用からは多少ズレているとは思うが)。「進化は無数の偶然的変異に基づく、壮大な結果だ」とすれば特に問題ないだろう (「結果論」が意図していたと思われる非目的性を「偶然的」の部分で表現した)。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、この引用部位の一つ前の文章が「進化は、偶然だ。」であるので、ここでの主語は進化である。また引用部位のすぐ後に「まずはやってみよう。変わってみよう。理由はあとから付いてくる。偶発性を高めた先には、それが偶然選ばれる適応が、諦めなければいつか必ずやってくる」(『進化思考』p.200) とも言っており、したがってここでの太刀川氏の意図は私が上で述べたように進化の無目的性ということで合っているだろう。また、この部分は第二章である「変異」の最後のまとめなのだが、同じく第二章の序盤であるp.74でも「一つは「理由は後からついてくる」ということだ。理由を最初から狙って考える必要はない。偶発に任せてさまざまなアイデアを出してから、理由にかなったものが選択されれば、きちんと進化する。進化は壮大な結果論だ。」というようなことが書かれているので、無目的性という意図で合っている可能性が極めて高い。したがって、そういった意図を把握した上で敢えて「結果論」という語の語用について指摘しているのであれば、その指摘意図そのものに問題はないが、もし仮に無目的性の意図が全く読み取れない故の指摘であるのならば、申し訳ないがそれは本の評者としては読解力不足と言わざるを得ない。
| そして変異のパターンとは、結果を恐れずに偶然に向かおうとする挑
| 戦のパターンそのものでもある。(p.200)
M: 偶然に向かおうとする挑戦のパターンとはなにものをさすのか理解できている自信がないが、生物の変異は挑戦ではなくエラーである。文化の変異についても、挑戦であるとは限らず、偶然によってうまれたコピーミスだったりする。デザインにおいて新しいアイディアを創造することは挑戦だ!と著者が閃くことは自由に表現していただければと思うが、そのひらめきを説明し正当化するのに「変異」という学術的な用語を使ってよい妥当性はないと私は思う。
💜文脈が分からないのではっきりしたことは言えないが、「結果を恐れずに偶然に向かおうとする挑戦のパターン」というのは成功率の高い挑戦を吟味してごく少数だけ実行するのではなくて、失敗を恐れず多くの挑戦を試してみるということについて言っているのではないだろうか?
そういう訳で「そのもの」というのはさすがに言い過ぎだと思うが、類似性があるくらいであれば特に問題はないだろう。生物進化における変異についても上記のような「失敗への恐れ」は存在せず、多くの変異が自然に起きる訳なので。
📕『進化思考』を読んだので追記するが、ここでの「変異のパターン」とはこの第二章「変異」においてここまで長々と説明してきた (そしてこの引用部位のページ冒頭で述べられている)「進化と創造に共通する変異の九つのパターン」(『進化思考』p.200) のことだろう。また、太刀川氏は引用部位の直前に「進化は偶然だ。無数の変異的挑戦による、壮大な結果論なのだ。」と述べ、直後に「まずはやってみよう。変わってみよう。理由はあとから付いてくる。偶発性を高めた先には、それが偶然選ばれる適応が、諦めなければいつか必ずやってくる。そのために、継続的に前例がない挑戦を続けることが大切なのだと、進化は教えてくれている。」と述べていることから、ここでの「変異のパターンとは、結果を恐れずに偶然に向かおうとする挑戦のパターンそのもの」というのは、変異の九つのパターンが偶発的で盲目的な変異の数々に相当するということであるように思われる。要するに、ここまで長々学んできたことが進化における変異に相当しますよ、ということだろう。したがって、ここでの「挑戦」というのは比喩的ではあるが、別にそこまで外れたことは言っていないように思う。
また、「そのひらめきを説明し正当化するのに「変異」という学術的な用語を使ってよい妥当性はないと私は思う」とのことだが、太刀川氏は「変異」を単に生物進化と創造に共通する変化・変質として持ち出しており、これは学術用語としての変異からそこまでズレている訳ではない。したがって、これくらいの語用であれば許容される範囲であると私は感じる。厳密に学術的な用法でなければ学術用語を用いてはならないというのは言葉使用の独占ではないだろうか?あとそもそも「デザインにおいて新しいアイディアを創造することは挑戦だ!と著者が閃く」と松井氏は述べているが、その「デザインにおいて新しいアイディアを創造することは挑戦だ!」というのは進化思考そのものとは特に関係ないものであり、太刀川氏はその「閃き」を説明し正当化するのに「変異」という用語を使っている訳ではない。ここはさすがにケアレスミスだと願いたいが、もし本当にそういう閃きのために太刀川氏が「変異」という用語を使っているのだと松井氏が考えているのならば、それはここの引用付近限らず、『進化思考』全体の趣旨を全く読み取れていないと言わざるを得ない。そしてその程度の趣旨も読み取れないというのは、当然本の評者としては力不足である。申し訳ないが。
⭐「4 『進化思考』を校閲する」の途中だが、前編はここまで。続きは後編で。(一応、ここで『進化思考』の第二章「変異」が終わり、次から第三章「適応」への指摘が始まるので、多少切りが良くはある)。
参考文献
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Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2023/12/24)「最初の方で「創造性」が「創造力」に変わってたところがあって、多分全体を通して多少は改善されて読める文になっているだろうとは思われたけど。
『進化思考批判集』の5章は卒論書いてて先生に「文章が論理的なじゃない」と指摘された学生の役に立つんじゃないかなと思って書いたところもあります。」, X. https://x.com/itojundesign/status/1738585761107316771Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2023/12/24)「例えばp48「私は、創造という現象について次のような仮説を立てた。創造とは、言語によって発現した「疑似進化」の能力である。」現代文や英文読解的に書けば、前文からは「創造」=「現象」、後文からは「創造」=「能力」、となるが、明らかに「現象」≠「能力」であるため、もう理解不能だ。23/n」, X. https://x.com/itojundesign/status/1598973773038120960?s=20
イトウジュン (2022/12/31)「意見書とその撤回を受けて(進化思考関連)」, note. https://note.com/phd_itojun/n/nb1ea0fa0bd54
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/6/16)「ただ残念ながら、 ・この期に及んで匿名 ・『進化思考』は未読 ・非論理的な読み(ご自身は「読解力」だと誇っているようですが) という欠点がありますね。 文字数が多ければ良いというものでもないです。まずはこの鼻息の荒さで本歌の『進化思考』をお読みになってはと思います。憤死必死ですが。」, X. https://x.com/itojundesign/status/1934571009463783864?s=20
かきのね@hmn38n (2025/4/10)「あと他の批判者のツイートにて以下の画像のような記述を見たので、ベイツ型擬態(とランナウェイ仮説)については別におかしくないのではないかと思い、批判集の該当部分を読みましたが、普通に不適切な批判だと思いました。https://x.com/katzkagaya/status/1908533396390740010」, X. https://x.com/hmn38n/status/1910139356788240780
進化思考 (2022/7/28) 「『創造性の誤解を解く鍵としての進化論』」, note. https://note.com/shinkalab/n/n767884b40a54
松井実 (2022/7/28)「誤読者より」, note. https://note.com/xerroxcopy/n/n1c266544f43b
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2022/7/30)「進化思考著者の反論の中でリンク貼られてますよ。是非読んでみてください。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1553278970593828864
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Hiroki Gotoh@静大5年目@Cyclommatism (2022/7/21)「かめふじさんの渾身の解説。ほぼ全面的に支持します。 「進化」って言葉を専門用語として正しく理解している人って本当に少なくて、生物学者でも誤った理解をしている人が少なくありません(むしろ多数派かもしれない)。 『進化思考』における間違った進化理解の解説 http://kamefuji-lab.seesaa.net/article/489743059.html」, X. https://x.com/Cyclommatism/status/1550093990846148609
阿部真人|Masato S. Abe@a_symap (2022/8/16)「「進化思考」批判ブログを執筆したかめふじさん@kamefuji には頭が上がらない。あれだけ時間かけて調べて書いたって1円も入らないわけで。彼にあるのは進化の正しい理解を広めたいという思いだけですよ。(ほしい物リストが公開されていたので応援のためAmazonギフト券を贈った)」, X. https://x.com/a_symap/status/1559538711661907968
Tetsukazu Yahara@TetYahara (2022/8/1)「『進化思考』は以前に購入してページをめくってみたが、そっとページを閉じた。進化についてに多くの記述が不正確であることに加え、創造性研究という研究分野の先行研究がほとんど参照されていない。先行研究に対するリスペクトと理解抜きに自説を展開した本は、私にとっては価値がない。」, X. https://x.com/TetYahara/status/1553859229110321153
Sakaguchi Yukitoshi@Sakaguchi920 (2022/8/20)「メタ的に見て、社会としてこういった一般書にどこまでの科学的正当性を期待するべきかの議論は面白そう。科学的言説にこだわって8割方のビジネス書を出版停止に追い込むのか、それとも一般書なんだからと、単なる「宗教」なんだと割り切るのか。」, X. https://x.com/Sakaguchi920/status/1560745296455692288
H. Tanaka@Hayato_1117 (2022/7/21)「とても勉強になる解説。 それにしても、よくここまで丁寧に解説できるなぁ。本は読んでないけど、引用されている部分だけで発狂しそうになる。」, X. https://x.com/Hayato_1117/status/1550112035161092096
Shohei Takuno@ShoheiTakuno (2022/7/22)「すごい読み応えのある記事やった。適応っていう言葉をちゃんと使いたい人は読むべし。」, X. https://x.com/ShoheiTakuno/status/1550348228054650880
Eiji Domon/ Bernardo Domorno@Dominique_Domon (2022/7/31)「ウムウムとうなずきながら読んだけれど、これを読むとお金を払って原典(『進化思考』)にあたる気がしなくなるのである。」, X. https://x.com/Dominique_Domon/status/1553610095258324994
Katsushi Kagaya@katzkagaya (2022/7/21)「思い出すのは、脳の「活性化」ですが、ここでは「適応」が主。教育的価値のある投稿、ありがとうございます。」, X. https://x.com/katzkagaya/status/1550106191933476865
深野 祐也@Alien_Evolve (2022/7/22)「お疲れ様です。某面接で「それは進化なの?適応じゃないの?」と言われたことを思い出しました。 この本、私も少しだけ読みましたが、著者のアイデアは自然選択による進化の枠組みではなく、文化進化の枠組みにきちんと乗せた方がよかったのではないかと思っています。」, X. https://x.com/Alien_Evolve/status/1550278908049649664
Ryusuke Niwa@TsukubaNiwaLab (2022/7/24)「素晴らしい力作。」, X. https://x.com/TsukubaNiwaLab/status/1551144632314015744
佐伯恵太@Keita_Saiki_ (2022/7/22)「本当は専門家でも理解するのが大変なのに、表面上キャッチーなテーマというのは、扱うのが本当に難しいです。科学を利用するのであれば、科学に誠実でなければならないと思います。科学の知識や理論を、誰のために、何のために使うのか。」, X. https://x.com/Keita_Saiki_/status/1550325367826956288
Takefumi Nakazawa@Take_Nakazawa (2022/7/21)「おつかれ」, X. https://x.com/Take_Nakazawa/status/1550093036621021187
ら@mutselbalance (2022/7/25) 「社会的意義が大きい」, X. https://x.com/mutselbalance/status/1551465235239686144
勝川 俊雄🐬@katukawa (2022/7/31)「面白かった。 進化は、生態系の多様性の源泉のメカニズムなので、多くの研究者の関心が注がれてきた一方で、ポケモンの進化のように、誤用が多い概念でもある。一般人ならいざ知らず、他人にものを教える立場なら、正しく用語を使うべきですね。」, X. https://x.com/katukawa/status/1553614978674225152
Toru Miyamoto@toooochan0514 (2022/7/24)「やっと読み切った。渾身の記事でした。」, X. https://x.com/toooochan0514/status/1551098486493696000
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2023/12/19)「進化思考批判集、師匠から一ヶ所ツッコミが入ったけどだいたいよろしいというおホメの感想が来てとても安心している。これでもうこの件についてやり残したことはない。マサカド思考はもう知らん。あとは任せた。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1737040055032774794
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/6/16)「例えば非論理的だと感じる部分。 >>「エラー的な変異」と「変異によるエラー」を変異とエラーの定義文と見なす伊藤氏の解釈にはやや無理やり感がある 「定義文」などと大袈裟なことを言わなくても、この循環がまずいと思わない時点で「私は論理的な読み手ではありません」と宣言しているようなものだ。」, X. https://x.com/itojundesign/status/1934572008689561889?s=20
イトウジュン (2026/1/31)「『進化思考批判集』批判への応答」, note. https://note.com/phd_itojun/n/na9ea62198fec
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/6/16)「「ヒットするアイデアが出てくる」云々の「普通の人ならなんなく理解できる表現に引っかかっていることからも、残念ながら伊藤氏の文章読解力は大して高くないだろう」に至っては笑止である。「なんなく理解できる表現」だとて誤りは誤りである。トークであれば聞き流すが文字にするとなれば話は別だ。」と宣言しているようなものだ。」, X. https://x.com/itojundesign/status/1934574806785228927?s=20
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/6/16)「生物学の事実誤認だとして私に向けられたものの一例に「ベイツ型擬態」に関するものがある。ここでは字数が足りないので後日noteにでも書くが、「強いふり」のトラカミキリ云々は『進化思考』の本文の前後に書かれているのである。「間違っている」とされているのは私のではなく太刀川氏の理解なのだ。」, X. https://x.com/itojundesign/status/1934573829311115478?s=20
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/6/16)「批判集への批判が出ること自体は健全で良いことなのだが、残念ながら批判としての質には大いなる疑問符がつく。また一連の流れだけを見て、内容を読まずに「批判集も批判されているんだから大したことないな」と思う向きも多そうなので、とりあえず編者として明確に反論をしておく。」, X. https://x.com/itojundesign/status/1934576994110574825?s=20
minoru matsui@minoru_matsui (2025/6/14)「この記事を「進化学の専門家による」ものだと読み取るリテラシーをみると、最初の学会発表の時点で著者本人の意見を変えることを諦めたのは正しい判断だったと改めて思います 「社会の各セクターを進化へ導くデザインパートナー」に進化学は早すぎた」, X. https://x.com/minoru_matsui/status/1933786426317156675?s=20
persimmon (2026/2/11)「「『進化思考批判集』批判への応答」への応答」, note. https://note.com/prime_ivy5995/n/ne874057305ce
河田雅圭 (2024/10/16) (2026/2/26 追記)「『進化思考』の生物学監修の経緯と専門家の役割」, note. https://note.com/masakadokawata/n/n7dcf9549d4cd?sub_rt=share_pw#e7bbc6bc-5123-4471-a225-57d6316a24ef
minoru matsui@minoru_matsui (2026/2/26)「林・松井を名指しして「適応概念の議論をよく把握していないと思われる」とありますが、具体的に私のどの記述のどこが誤りでしょうか。誤りがあれば改訂しますよ!記事中では「修正点がある場合は太刀川氏や私に直接指摘してほしい」とも書かれていますが、ご自身による批判には適用なさらないんですか」, X. https://x.com/minoru_matsui/status/2026809491656782090?s=20
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2022/7/24)「デタラメ言う方は言うだけ言って聴衆を煙に巻ければそれでいいのでしょうけど、ファクトチェックしなければならない方は例の記事みたいに専門書やら論文やらいちいちチェックしてからなるべく誤解のないように丁寧に説明しなきゃいけないので、努力も労力も非対称なんですよね…。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1551038002809704448?s=20
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2022/7/21)「進化学徒どもからの批判はとりあえず現時点で来ていない。よかった。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1550121866378952706
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2022/7/21)「ほぼ全面的に支持してくれる研究者がいて安心した。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1550098607462023170?s=20
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2022/7/22)「おおむね好評のようで安心している。著者の進化理解の更新は諦めているので、既に購入してしまった人と潜在的読者層に届いてほしい。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1550318170086735872?s=20
minoru matsui@minoru_matsui (2022/7/6)「適応と選択が逆なのでは、と思っていたのだけど不勉強で確たることを書けなかった。やはりそうだそうです」, X. https://x.com/minoru_matsui/status/1544343927347523584?s=20
minoru matsui@minoru_matsui (2022/7/21)「本当に素晴らしい解説になっとる。ありがたすぎる 特に「自然選択によって発生する適応は進化のすべてではなく浮動による中立進化もある」というのは「あっそうかそういえばよかったんだ」という中立進化でD論書いた人としては忸怩たる思いが」, X. https://x.com/minoru_matsui/status/1550109226856374274?s=20
minoru matsui@minoru_matsui (2022/7/22)「かめふじさんの記事を読んだあとだと、この「別のプロセス」ってのよくなかったかなと思い始めている(始めているだけで確信には至っていない 至るための知識がない)適応という結果が生じるプロセス=自然選択、とするのがいいのかな」, X. https://x.com/minoru_matsui/status/1550266544025874432?s=20
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2022/12/3)「『進化思考』に対する私からの批判は学会の梗概とZennに書いた通りであり、徒に繰り返す気はないのだが、進化学周辺からの批判がこれほど燃え上がるとは想像していなかった。博士の皆さんがこれだけ激しく批判しているのだから、著者の進化に関する理解は間違っているのだろうと思う。21/n」, X. https://x.com/itojundesign/status/1598973268102615040?s=20
あきらこさくらい@AkrSakr (2025/10/01) 「太刀川たれがしの「進化思考」の進化てのはポケモンの進化のことか。だったらあれは進化でなく変態だから、変態思考、いやH思考とよべ(それならゆるす」, X. https://x.com/AkrSakr/status/1973370230773784821?s=20
姫岡 優介@yhimeoka (2022/7/21)「いや、あの本は「クリエイティブと進化は似ている!」みたいな話と「進化=進歩だ!」みたいは激ヤバ進歩史観&歴史知らなさすぎ優生思想(批判記事読む限り)らしいので、単にヤバいだけですよ」, X. https://x.com/yhimeoka/status/1550110843559297024?s=20
persimmon (2026/1/17)「『進化思考』の件を振り返ることの重要性について」, note. https://note.com/prime_ivy5995/n/n5caf8e6e6adf
Matsui M. & Ito J. (2022) Data for Critique of Evolution Thinking. https://osf.io/r864c/overview
Yuta Kashino@yutakashino (2022/7/4)「『進化思考』批判 日本デザイン学会第69回春季研究発表大会 - YouTube https://buff.ly/3NA3NQs 講演も公開されてますね。擬似科学で間違いだらけと一刀両断。良い。」, X. https://x.com/yutakashino/status/1543884607548002306?s=20
シャンメリエンヌ@Chanmerienne (2022/7/22)「めちゃくちゃ笑った。ビジネスの人って好き勝手な自分語を他人が別の意味で定義した言葉に当てはめるよね、悪びれもせずに。 >当初、「進化」と「創造」を同じ意味で使うことは誤用だったはずだ。(p. 46) 現在でも誤用です。 『進化思考』における間違った進化理解の解説 http://kamefuji-lab.seesaa.net/article/489743059.html」, X. https://x.com/Chanmerienne/status/1550381314942967814?s=20
Yuki Yokoyama@dagastein (2024/1/4)「進化思考批判集、とても興味深くて年末にサクサク1-2部読了。自分が何故こんなに進化思考に対して激しい怒りや悲しみを抱いてるのかについて的確に指摘されてて言語化してくれてるのが非常に助かる… 「著者の思い込みが出発点なので、結論もまた思い込みによる断言にしかなっていない」 ほんこれ…」, X. https://x.com/dagastein/status/1742893987252596749
Alan S. & Jean B. (1997) / 田崎晴明, 大野克嗣, 堀茂樹 訳 (2012)『「知」の欺瞞』岩波書店
浜地貴志@hamajit (2022/7/30)「進化生物学に関しても、この本で描かれた騒動はまさしく当てはまる、ということです。わたし世代にとっては常識ですが、後の世代では秘匿されていくのではないかと危惧する→「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)」, X. https://x.com/hamajit/status/1553393187816763392?s=20
Yasuyuki Hashiguchi@hashiyuki0909 (2022/7/31)「私もこの件に関してはまさにこの本が思い浮かんだ ソーカル事件のように、進化生物学の側が専門用語を駆使したデザイン理論(?)の論文を書いて界隈に投稿し、話題になってから種明かしする、とか考えたけど趣味の良い話ではないし、現代の研究者は忙しいので、変なのに関わっている時間はない」, X. https://x.com/hashiyuki0909/status/1553599795465715714?s=20
Eiji Domon/ Bernardo Domorno@Dominique_Domon (2024/5/27)「昔、ソーカル事件というのがございましてな。 最近では「進化思考」というのもそうですが、他分野の概念を玩具にして、いや玩具という価値判断を抜きにすれば、本来の文脈から切り離された不正確な概念の援用をして自説を展開する人は様々な分野に散見されますな。」, X. https://x.com/Dominique_Domon/status/1795062159442948459?s=20
川端裕人・「新版・色のふしぎと不思議な社会 2020年代の色覚原論」(ちくま文庫)が出ました!@Rsider (2023/12/16)「ぼくもつい2週間ほど前に「当書」の最初の50ページくらいを読んだけれど、苦痛だった。最初の大きな引っ掛かりは「進化」を「変異と適応」という言葉で表現すること。変異があって、自然選択があって、結果、適応的なものが残っていく、くらいならまだしも。大小細々ありすぎて、読み進められなかった」, X. https://x.com/Rsider/status/1735982156189675602?s=20
川端裕人・「新版・色のふしぎと不思議な社会 2020年代の色覚原論」(ちくま文庫)が出ました!@Rsider (2023/12/16)「PDF版が無料公開された『進化思考批判集』でもその点、はっきりと指摘されていた。あと、自分が「ええっ」と思ったのは、進化論を語る場面で「創造」を語るなら、進化論が当時の宗教的世界観との相克を経験したことを踏まえた丁寧な記述と、今ここで扱う「創造」とどう違うのか説明がほしいこと。」, X. https://x.com/Rsider/status/1735983538728784293?s=20
Williams G.C. (2018)/辻󠄀和希 訳 (2022)『適応と自然選択―近代進化論批評―」共立出版
Williams G.C. (1996)『ADAPTATION AND NATURAL SELECTION―A Critique of Some Current Evolutionary Thought―』Princeton University Press.
Williams G.C. & Nesse R.M. (1991) The Dawn of Darwinian Medicine. The Quarterly Review of Biology, Vol.66, No.1, p.1-22. https://www.journals.uchicago.edu/doi/abs/10.1086/417048
Sober E. & Wilson D.S. (2011) Adaptation and natural selection revisited. Journal of Evolutionary Biology, Vol.24, Issue 2, p.462-468. https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/j.1420-9101.2010.02162.x
Sober E. (1984) 『The Nature of Selection: Evolutionary Theory in Philosophical Focus』Cambridge MA: MIT Press
Lewens T.「Adaptation」In: Hull D.L., Ruse M., eds. (2007)『The Cambridge Companion to the Philosophy of Biology』Cambridge Companions to Philosophy, Cambridge University Press, p.1-21. https://www.cambridge.org/jp/universitypress/subjects/philosophy/philosophy-science/cambridge-companion-philosophy-biology?format=PB&isbn=9780521616713#contents
Minaka Nobuhiro 〈みなか食堂〉店主@leeswijzer (2024/4/10)「[欹耳袋]日本生物地理学会第78回大会シンポジウム〈進化思考の光と影〉2024年4月14日(日)15:00〜17:00(zoom開催)【演者】伊藤潤「増補改訂版を読む」/松井実「賢いデザイナー、本質主義、ビンゴカード」/林亮太「特級呪霊に育つ前に:ダーウィンの呪いと解呪の試み」(続」, X. https://x.com/leeswijzer/status/1777800320002785522?s=20
Minoru Matsui (2024/06/27)「松井実(2024) 賢いデザイナー、本質主義、ビンゴカード. 第78回生物地理学会大会シンポジウム」youtube. https://www.youtube.com/watch?v=yrSpJ-6tq7Y
persimmon (2026/2/7)「日本生物地理学会主催シンポジウム〈進化思考の光と影〉について」, note. https://note.com/prime_ivy5995/n/n59d7b4a0dc50
Kimura M. (1968) Evolutionary rate at the molecular level. Nature, Vol.217, p.624-626. https://dosequis.colorado.edu/Courses/MethodsLogic/papers/Kimura1968.pdf
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2022/7/12)「あとがきから読み始めた師匠本、アタマでいきなりよくわかんないとこが出てきてめんどくさくなり電話で質問した。「こんなとこでつまづいてんじゃねぇ」と怒られるかと思ったが、わりと丁寧に説明してくれた。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1546844807456509953?s=20
「伊藤, 林, 松井(2023)進化思考批判集 印刷版(V1.0.0)正誤表」, Google スプレッドシート. https://docs.google.com/spreadsheets/d/1kBQVRnizuNQKd_WJDbRE76dxKoDw117orOidol-hVOI/edit?sharingaction=ownershiptransfer&gid=1515657852#gid=1515657852
Darwin C.R. (1859)『On the origin of species by means of natural selection, or the preservation of favoured races in the struggle for life』 London: John Murray. [1st edition] (Cite as: John van Wyhe ed., 2002-. The Complete Work of Charles Darwin Online). https://darwin-online.org.uk/content/frameset?itemID=F373&viewtype=text&pageseq=1
長谷川眞理子 (2020) 『ダーウィン種の起源 : 未来へつづく進化論』NHK出版, NHK「100分de名著」ブックス, kindle版
「mimesis」, 世界大百科事典(旧版), 小学館, コトバンクにて2026/3/16閲覧
小西泰正「昆虫界の真と贋——擬態」, 西野嘉章 編 (2001)『真贋のはざま: デュシャンから遺伝子まで』 東京大学出版, 東京大学コレクション, Web公開版. https://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/dkankoub/publish_db/2001Hazama/index.html
宇津木成介 (2010) コミュニケーションと擬態. 国際文化学研究 : 神戸大学大学院国際文化学研究科紀要, Vol.35, p.127-155. https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/81002671/
江口英輔 (2002)「擬態の不思議—嘘も立派な生存戦略」横浜市立大学論叢自然科学系列, Vol.53, No.3, p.27-42.
von Beeren C., Pohl S. & Witte V. (2012) On the use of adaptive resemblance terms in chemical ecology. Psyche: A Journal of Entomology, Vol.2012, Issue 1, 635761. https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1155/2012/635761
小池孝範, 清多英羽, 奥井現理, 紺野祐, 走井洋一 (2011)「「タブラ・ラサ」説と教育万能論 ––「生まれか育ちか」論争をてがかりに––」秋田県立大学総合科学研究彙報, 12号, p.1-15. https://akita-pu.repo.nii.ac.jp/records/106
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2024/1/5)「これはなかなかいいところを抜き出してくれていて、引用のない文章ももちろんだし、生物学分野だろうがデザイン分野だろうがとにかく著者の思い込みに合わせて文献の中身を捏造して引用するという著者の知的不誠実さが進化思考の最大の問題点なんです。最大の問題は中身の正確さではないんです。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1743271662735507937?s=20
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2024/1/5)「なので河田さんが監修してたとえ生物学的には間違いがなくなったとしても(見てないけどそれも無理だと思うけど)、著者の知的不誠実さが改善されていないのであれば進化思考は相手にしてはいけないんです。先人が積み上げてきた成果と既知の知識に対する敬意と誠実さがないからです。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1743273893048254819?s=20
Langley L. / 米井香織 訳 (2015/12/02) 「「最強生物」クマムシ、衝撃のDNA構成が判明」, ナショナルジオグラフィック日本版. https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/a/120100053/
深野祐也 (2026/2/2)「「気持ち」でながめる自然保護(前編)」WEBみすず. https://magazine.msz.co.jp/series/evolution-ecology/11/
Andersson M. (1982) Female choice selects for extreme tail length in a widowbird. Nature, Vol.299, p.818-820. https://www.nature.com/articles/299818a0
Andersson S., Pryke S.R., Örnborg J., Lawes M.J. & Andersson M. (2002) Multiple Receivers, Multiple Ornaments, and a Trade‐off between Agonistic and Epigamic Signaling in a Widowbird. The American Naturalist, Vol.160, No.5, p.683-691. https://www.journals.uchicago.edu/doi/abs/10.1086/342817
Pryke S. R. & Andersson S. (2005) Experimental evidence for female choice and energetic costs of male tail elongation in red-collared widowbirds. Biological Journal of the Linnean Society, Vol.86, Issue 1, p.35-43. https://academic.oup.com/biolinnean/article-abstract/86/1/35/2691528?login=false
Pryke S. R. & Andersson S. (2002) A generalized female bias for long tails in a short-tailed widowbird. Proceedings of the Royal Society B: Biological Sciences, Vol.269, p.2141-2146. https://royalsocietypublishing.org/rspb/article-abstract/269/1505/2141/71598/A-generalized-female-bias-for-long-tails-in-a
三中信宏 (2012)『系統樹曼荼羅―チェイン・ツリー・ネットワーク』NTT出版.
kamefuji (2024/3/5)「『進化思考批判:デザインと進化学の観点から』について」, note. https://note.com/kamefuji/n/nb25baced9306
かめふじ@ハイアイアイ臨海実験所@kamefuji (2022/7/24)「なおこちらもツイ消しされてしまいましたが、当方といたしましては対話したところで進化思考の進化理解が完全に間違っていることが揺らぐわけでもないので、対話の必要性を感じていません。」, X. https://x.com/kamefuji/status/1551036897480552449?s=20
アサイ@poplacia (2023/12/18)「主にまえがき、1章、2章、あとがきを中心に読んだ。お疲れさまです。本当に。」, X. https://x.com/poplacia/status/1736670393350693115?s=20
KN(生物系翻訳)『家畜化という進化』『世界のサメ』『世界のクモ』『地球博物学大図鑑』など@KanaeNishio (2023/12/16)「100回ぐらいリツイート(リポスト)したい!」, X. https://x.com/KanaeNishio/status/1735819339062997191?s=20
小坪 遊 Yu Kotsubo@SciKotz (2024/1/3)「新年最初の読書は「進化思考批判集」を読み始めましたが、気分が悪くなってやめてしまいました。これはこの本が原因というより、元の本の内容がきちんと引用されているため、改めてあの「ドヤァ!」と自信満々で間違っている記述に何度も向き合わざるを得ないのと、自分の知識では分からなかった 続」, X. https://x.com/SciKotz/status/1742388223224267177?s=20
こなみひでお@konamih (2024/2/23)「かめふじさんらの『進化思考批判集』のサポートページ。立派な仕事だ! 自分の得にはならない、だが誰かがしなければならない、雪かきのような重労働。話題の検証本『土偶を読むを読む』の著者・松井実が博士論文を携え本格参戦。」, X. https://x.com/konamih/status/1760892409075146937?s=20
保科英人@hidetohoshina (2025/4/14)「本学の図書館に『進化思考』は所蔵されているが、『進化思考批判集』はない。今年度の図書推薦で『進化思考批判集』を購入希望図書に挙げておこう。出版社に在庫はあるはず。」, X. https://x.com/hidetohoshina/status/1911752174746673327?s=20
かなW@oookanaW104 (2022/7/22)「こうばしい本があるもんだ
言葉の誤用(というか理解していない言葉を乱用すること)には気をつけなければならないね」, X. https://x.com/oookanaW104/status/1550275035021348864?s=20海ゴリラ@the_kawagucci (2022/8/10)「こういうのスゴい大事だし、こういうのをオーソライズしてアーカイブするために学会の和文誌ってのが存在しているのではないかと思う。」, X. https://x.com/the_kawagucci/status/1557101466459840514?s=20
伊藤洋志/Ito Hiroshi@marugame (2022/7/24)「「進化思考」だけではなく、進化を誤用したビジネス本は多く一個一個誤りを指摘するのは頭が痛くなるし手間。こんな面倒な仕事を未来ある学生のために労を取っていただき感謝しかない。」, X. https://x.com/marugame/status/1551066902700601344?s=20
Yuta Kashino@yutakashino (2022/7/31)「『進化思考』における間違った進化理解の解説: かめふじハカセの本草学研究室 https://buff.ly/3blH9y7 かめふじさんの「進化思考」批判がまとまってます.取り付く島も無い容赦無さが良い.そう,インチキな人たちが「適応」にこだわるの,操作可能と思わせないと信者商売に結びつけられないので…」, X. https://x.com/yutakashino/status/1553696057166528512?s=20
Eiji Domon/ Bernardo Domorno@Dominique_Domon (2022/7/31)「"『進化思考』批判"もななめ読みした。 こちらも、少し気を付けてほしいのだけれど、「エラー」 (p70)について「DNAの変異は転写翻訳を正しく遂行できなかった「スリップ」である。」と指摘しているが、DNAの変異は複製の際に発生する。https://zenn.dev/xerroxcopy/books/9d41f9b4f1701f」, X. https://x.com/Dominique_Domon/status/1553612688369938433?s=20
Eiji Domon/ Bernardo Domorno@Dominique_Domon (2022/7/31)「こんな感じですので、お金を出して原典を読むことはないと思います…」, X. https://x.com/Dominique_Domon/status/1553628773718695936?s=20
姫岡 優介@yhimeoka (2022/7/28)「あらかじめ存在している用語を使いながら、それが間違っていると指摘されると「私の用法(『進化思考』)においてはそういう意味ではありません」と言うのはすごいな
進化論における「創造」含め、用語が出来上がってきた歴史やそれに由来するものを都合よく無視したいなら自分の言葉で語ればいいのに」, X. https://x.com/yhimeoka/status/1552476288757116928?s=20Hoso🐌@MasakiHoso (2022/7/30)「進化思考家さんのFBコメント欄を覗いてみて驚いた。150年かけて積み上げてきた進化生物学の体系を捨て置いて、学術用語をファッションとして弄んでいる人たちの群れがいた。」, X. https://x.com/MasakiHoso/status/1553367387151355905?s=20
Yasuyuki Hashiguchi@hashiyuki0909 (2022/7/27)「284ページからの「系統樹」についての記述を一読するだけでも、著者が進化生物学はおろか、科学もまともに理解していないことがわかる」, X. https://x.com/hashiyuki0909/status/1552113564181495808?s=20
松井実 & 伊藤潤「『進化思考』批判」, Zenn. https://zenn.dev/xerroxcopy/books/9d41f9b4f1701f
Paul S.S,. Ron R.H., Itai C. & Tsevi B. (2017) Walking like an ant: a quantitative and experimental approach to understanding locomotor mimicry in the jumping spider Myrmarachne formicaria. Proc Biol Sci, Vol. 284, Issue 1858, 20170308. https://royalsocietypublishing.org/rspb/article/284/1858/20170308/78593/Walking-like-an-ant-a-quantitative-and
Davis Rabosky A.R., Cox C.L., Rabosky D.L., Title P.O., Holmes I.A., Feldman A. & McGuire J.A. (2016) Coral snakes predict the evolution of mimicry across New World snakes. Nature Communications, Vol.7, Article no.11484. https://www.nature.com/articles/ncomms11484#citeas
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/6/16)「我々も『進化思考批判集』単独でも読めるように、と編集執筆したつもりではあるが、こういった誤読が起こるので、『進化思考』を参照しないでの批判は無理があるし、あまりに枝葉末節であろう。」, X. https://x.com/itojundesign/status/1934574197499666881?s=20
「ノートパソコン」, Wikipedia, (2026/3/20閲覧). https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%91%E3%82%BD%E3%82%B3%E3%83%B3
大河原克行 (2025/4/7 09:54)「ニュースリリースで振り返る、時代を築いたPCたち【NEC編 PC-9801N~PC98-NX】」PC Watch. https://pc.watch.impress.co.jp/docs/topic/feature/2004547.html
佐々木潤 (2017/12/19 08:05)「“国民機”と銘打って登場したEPSONの「PC-286・386」シリーズと、数多くの作品を発売した老舗ソフトハウス「エニックス」」AKIBA PC Hotline!. https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrosoft/1090204.html
本田雅一 (2009/10/16)「【本田雅一の週刊モバイル通信】“ネットノート”という言葉に込めた東芝の想い」PC Watch. https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/mobile/322105.html
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「中学社会 定期テスト対策【世界の歴史】 ルネサンスとは?」ベネッセ教育情報. https://benesse.jp/kyouiku/teikitest/chu/social/social/c00772.html
「ルネサンス」, 実用日本語表現辞典, weblioにて2026/3/23閲覧
「ルネサンス」, デジタル大辞泉, 小学館, weblioにて2026/3/23閲覧
「ルネサンス」世界史の窓. https://www.y-history.net/appendix/wh0902-001.html
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/6/16)「拙編の『進化思考批判集』の批判、というnote記事が公開されたようだ。まずはこれまでほとんど反応がなかったので、大変ありがたいことだと感じる。特に紙の本は最近全く売れていないのでそろそろ絶版にしようかと思っていたところなので、これを機に再度図書館などに蔵書してきただければと思う。」, X, https://x.com/itojundesign/status/1934568036675293628?s=20
かきのね@hmn38n (2025/11/13)「そういう訳で、本件は巷では良い科学コミュニケーションの例として捉えられているようですが、私は全くそうは思いません。なぜなら上で述べたように、批判集の著者らは太刀川氏の反論を一切聞き入れず、太刀川氏が全面的に間違っていると言い続けていただけだからです。(続く)」, X. https://x.com/hmn38n/status/1988639439514698050?s=20
佐伯恵太@Keita_Saiki_ (2022/7/30)「250箇所以上もの誤りを指摘され真っ当な批判を受けておいて「重箱の隅をつつかれるってこれかー」って。その重箱、隅しかないのか?そうなのか!?さては進化思考によって生み出された新たなデザインの隅しかない重箱なのか!?さすがにいかんです。遺憾です。」, X. https://x.com/Keita_Saiki_/status/1553374938501103616?s=20
「スピリチュアル」, デジタル大辞泉, 小学館, weblioにて2026/3/25閲覧
「子」, デジタル大辞泉, 小学館, コトバンクにて2026/3/25閲覧
「遺伝子」, 『改訂新版 世界大百科事典』, 平凡社, ジャパンナレッジにて2026/3/25閲覧. https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1754
「主知主義」, デジタル大辞泉, 小学館, コトバンクにて2026/3/28閲覧
井上颯樹 (2024)「反主知主義を改訂する」人文公共学研究論集, 48号, p.1-14. https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900122281/
新井理志 (2022)「「反知性主義」の概念分析 知の運用へのまなざしの一考察」『人文×社会』, 6号 , p.27-47. https://scicom.c.u-tokyo.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2022/12/006002.pdf
「ANTI-INTELLECTUALISM」, Merriam-Webster, (2026/3/28閲覧). https://www.merriam-webster.com/dictionary/anti-intellectualism
「主知主義」, Wikipedia, (2026/3/28閲覧). https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E7%9F%A5%E4%B8%BB%E7%BE%A9
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2022/12/3)「p62には「創造性のことを、二つの思考を往復しながら生み出す螺旋的な現象として捉えれば」とあり、「創造性」もイコール「現象」になっている。進化と創造の関係について論じる以前に私はここで脱落。これ以上読めない。学生になら付き返す。とにかく「創造」と「創造性」周りはリライト必須だ。24/n」, X. https://x.com/itojundesign/status/1598974533771591681?s=20
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/6/16)「あと「普通」とか「一般的に」という言い回しは巧妙に相手に反論させにくくする常套句であり、議論に誠実でありたい場合は多用しない方が良い。私も意識せずに使っていないとも限らないので自戒を込めて指摘しておく。」, X. https://x.com/itojundesign/status/1934575603216421251
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/6/16)「我々も『進化思考批判集』単独でも読めるように、と編集執筆したつもりではあるが、こういった誤読が起こるので、『進化思考』を参照しないでの批判は無理があるし、あまりに枝葉末節であろう。」, X. https://x.com/itojundesign/status/1934574197499666881?s=20
太刀川英輔 (2022)「進化思考で考える地層処分事業の未来」原環センタートピックス, No.141, p.3-16. https://www.rwmc.or.jp/library/file/Topics_No141.pdf
「変異」, 『精選版 日本国語大辞典』, 小学館, コトバンクにて2026/3/29閲覧
太刀川英輔 (2022)「進化思考批判 への意見書」Internet Archiveにて閲覧 (Added date: 2023/9/12). https://web.archive.org/web/20230912021313/https://docs.google.com/document/d/1wKacpCXHtoqQPabA6Fy_Hzciz0dL_cCAvSZTbVajGpo/edit#heading=h.ev6jxjxcnsdk
minoru matsui@minoru_matsui (2026/2/26/09:00)「以前「Note記事にコメントがあるならメールで」とメールをいただきましたが、ご自身には適用なさらないんですか。伊藤先生の理解は私と林さんの入れ知恵を鵜呑みにしているせいだという憶測で私をも批判していますが、これも「事実を十分に確認しないまま、憶測に基づいて批判を行うことは、」, X. https://x.com/minoru_matsui/status/2026809495486157059?s=20
minoru matsui@minoru_matsui (2026/2/26/09:00)「研究者倫理の観点から問題がある行為」とはお考えになりませんか。なお『進化思考』の著者は批判書の出版停止や書籍回収を要求する法的措置をとられていますが、その「適応研究者」の倫理は論じませんか。慶應義塾大学の特任教授を慶應義塾大学のガイドラインをひいて批判してはいかがですか。」, X. https://x.com/minoru_matsui/status/2026809497763577858?s=20
かきのね@hmn38n (2026/2/26/12:29)「言えない。」)。また伊藤氏の鵜呑み云々については河田氏は「おそらく共同批判者である林亮太氏および松井実氏の見解をそのまま受け入れているのであろう。」というように「おそらく~だろう」と述べているので、「同僚くらいの感じで「知り合い」とさらっと書かれていますが、会社の役員と」, X. https://x.com/hmn38n/status/2026862074551525656?s=20
minoru matsui@minoru_matsui (2026/3/28)「そういえばこの件、伊藤先生が私や林さんの意見を鵜呑みにしているという記述は憶測だったとして修正いただきました」, X. https://x.com/minoru_matsui/status/2037546367107858784?s=20
「Annex II: Glossary」, IPCC. https://www.ipcc.ch/report/ar6/wg2/chapter/annex-ii/
Smit B. & Pilifosova O. (2001) Adaptation to Climate Change in the Context of Sustainable Development and Equity. Climate Change 2001: Impacts, Adaptation, and Vulnerability, p.877-912. https://www.ipcc.ch/report/ar3/wg2/chapter-18-adaptation-to-climate-change-in-the-context-of-sustainable-development-and-equity/
「ADAPTMENT」, NOSIGNER. https://nosigner.com/projects/adaptment/
NOSIGNER (2024/2/21)「都市は気候変動に適応できるのか? | WHY & HOW by NOSIGNER Vol.02」, note. https://note.com/nosigner/n/n56b01952c3dd
太刀川英輔 (2023/10/13)「地球温暖化への適応策を加速させる「適応進化」の思考」, 宣伝会議, ブレーン. https://www.sendenkaigi.com/creative/media/brain/027523/
太刀川英輔 (2023/04/14 05:25)「気候変動適応 進化に学ぶ…4月の店主は太刀川英輔さんです」,読売新聞オンライン, https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/column/20230411-OYT8T50001/
「自然界」, デジタル大辞泉, 小学館, コトバンクにて2026/3/30閲覧
Hiroki Gotoh@静大5年目@Cyclommatism (2023/12/15)「昨年の夏にTLを賑わわせた「進化思考」に関して、その内容的な問題点を指摘した「進化思考批判集」が無料公開されたようです。例の書籍の問題点を客観的、科学的な視点から整理・指摘しています。すげー労作よ、これ。」, X. https://x.com/Cyclommatism/status/1735640545790402967
Katsushi Kagaya@katzkagaya (2023/12/16)「工学的デザインやバイオインスパイアードロボティクスの方々がご縁あってフォローしてくださってるので、おすすめします。直接私と議論された方には耳タコかもですが…」, X. https://x.com/katzkagaya/status/1735688422298370369
佐伯恵太@Keita_Saiki_ (2023/12/15)「“学術的に認められたかのように喧伝するのであれば、学術の民の目が光ることは避けられません。” 学術の民の目が、状況の改善に繋がることを願うばかりです。圧倒的ボリューム、内容。気迫を感じます。微力ながら宣伝📣」, X. https://x.com/Keita_Saiki_/status/1735655207135318487?s=20
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2022/12/3)「今回独学の限界も見えた気がする。例えば読書猿@kurubushi_rmさん(以前からblogに感嘆している)の著作『独学大全』が売れているようであるが、学び続けるということ自体は素晴らしいのだが、独学は勘違いや誤解に陥ってしまった場合、それに気付くのが難しい。33/n」, X. https://x.com/itojundesign/status/1598977264309661698?s=20
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/12/28)「『進化思考批判集』出版局にも記述4ヶ所が「およそ研究活動に基づく本件書籍に対する正当な批判論評に必要な限度を超えて不必要に本件書籍の内容及び通知人の人格を揶揄する、行き過ぎたもの」だとして「発売の停止、回収、表現の訂正、その他の必要な措置を講じること」を請求する催告書が来ました。」, X. https://x.com/itojundesign/status/2005021439389565020?s=20
イトウジュン (2025/12/28)「『進化思考批判集』発売停止して回収しろってよ」, note. https://note.com/phd_itojun/n/ncb2379eae092
かきのね@hmn38n (2025/12/28)「私は本件における太刀川氏と批判集著者らのやり取りそのものに割って入るつもりは特にないのですが、一応批判集を批判した者として、また私のnote記事が太刀川氏が本件について再度話題にした要因ともなっていたようなので、コメントさせていただきます。(続く)」, X. https://x.com/hmn38n/status/2005094774278349088?s=20
太刀川英輔 / Eisuke Tachikawa / NOSIGNER@NOSIGNER (2025/11/17)「【ご報告】『進化思考』に関する議論は、出版以来、多様なご意見とともに育ってきました。一方で、ご批評くださった一部の方々については、科学的誤解に基づく誤った情報・デマの拡散について早期に指摘しても修正していただけず、事実と異なる内容に基づく誹謗中傷が約三年にわたって継続しました。 さらにはこうした誤解や誤り、および悪質な誹謗中傷を含む批判書籍が、著者の所属する大学内に設立された出版社から刊行され、関係者の安全や事業活動に影響が及ぶような状況がありました。 そこで本日、関係者および該当大学出版会への第一の法的措置として弁護士より通知書を送付しました。当事者には適切な対応を期待します。 私たちは学術の価値と言論の自由を尊重しています。また言論の自由には誤解する自由があります。しかし学術の名を借りて誤った内容に基づく誹謗中傷を繰り返す行為は別物であり、適切に対応せざるを得ません。 本件の共有は、同様の事案の再発を防ぎ、創造に携わるすべての人が安心して活動できる環境を守るためのものです。 創造を探究するうえで批判的思考は欠かせないものであり、私たちも肯定的な意見も正当な批判も、その両方から多くを学びながら進化思考を進化させてきました。 進化思考の活動については、これからも健全な批判については今後も前向きに受け止め、対話を大切に誠実に取り組んでまいります。 いつも活動を支え、応援してくださる皆様に、心より感謝申し上げます。」, X. https://x.com/NOSIGNER/status/1990363017398415629?s=20
Jun ITO/イトウジュン@itojundesign (2025/12/28)「当然ながら、書籍の発売の停止、回収には応じません。 以上が太刀川氏側からの唐突なアクションに対する対応です。産業デザイン研究所出版局はスラップやキャンセルカルチャー的なものに屈することなく今後も学術に誠実な書籍を刊行していく所存です。どうぞよろしくお願いいたします。」, X. https://x.com/itojundesign/status/2005023109024485603?s=20
minoru matsui@minoru_matsui (2025/12/3)「私の『進化思考』批判に不法行為があったとは考えていませんので、今後も科学的に妥当でない内容に関して学術の場を含め粛々と批判していきたいと考えています。」, X. https://x.com/minoru_matsui/status/1996137966079521136?s=20
かきのね@hmn38n (2025/11/13)「そういう訳で、本件は巷では良い科学コミュニケーションの例として捉えられているようですが、私は全くそうは思いません。なぜなら上で述べたように、批判集の著者らは太刀川氏の反論を一切聞き入れず、太刀川氏が全面的に間違っていると言い続けていただけだからです。(続く)」, X. https://x.com/hmn38n/status/1988639439514698050?s=20
Yoshitugu Tuduki/都築良継@TSMoon56 (2025/8/9)「河田雅圭氏のnoteで、河田氏が以前著された「はじめての進化論」が注釈付きで全文公開されている 進化思考絡みもあるのであんまり印象は良くないけれど、今西進化論についてきちんと批判と分析が為されているっぽい?(そして注釈で福岡伸一氏への批判もきちんとしてある)」, X. https://x.com/TSMoon56/status/1954107070149509396?s=20
いるま@irumandal (2023/12/24)「ということで、ちゃんとスタンスを書くと「進化学会の現副会長(次期会長?)が監修をする」という相当に強いお墨付きを与えてしまったことを進化学会会員諸氏は重く受け止めて対応すべきだと思います。 次は「進化思考(の監修を務めた河田氏)に進化学会の教育啓発賞を与える」とか来かねませんよね?」, X. https://x.com/irumandal/status/1738783499510022263?s=20
原 拓史@haltaq (2025/4/5)「河田さんのこれは本当に残念だった。 晩節汚しすぎだからマジで御隠居をお勧めする。」, X. https://x.com/haltaq/status/1908372909397070098
更新履歴
・ver.1.0.0 (2025/6/11):【魚拓】『進化思考批判集』批判|persimmon
・ver.1.0.1 (2025/6/12):閲覧方法に関する追記を最初に追加 【魚拓】『進化思考批判集』批判|persimmon
・ver.1.1.0 (2025/6/20):些細な点から割と大きな点まで内容の修正。詳しい修正内容は以下の通り【魚拓】『進化思考批判集』批判 ver.1.1.0|persimmon
・ver.1.1.1 (2025/6/21):前回の修正ミスの訂正、及び新たな修正を少々。詳しい修正内容は以下の通り【魚拓】『進化思考批判集』批判 ver.1.1.1|persimmon
・ver.1.1.2 (2025/6/25):少々の修正。詳しい修正内容は以下の通り【魚拓】『進化思考批判集』批判 ver.1.1.2|persimmon
・ver.1.1.3 (2025/7/20):少々の修正。詳しい修正内容は以下の通り【魚拓】『進化思考批判集』批判 ver.1.1.3|persimmon
・ver.1.2.0 (2025/12/26):大幅な修正。詳しい修正内容は以下の通り【魚拓】『進化思考批判集』批判 ver.1.2.0|persimmon
・ver.2.0.0 (2026/5/4):主に『進化思考』読了に基づく大幅な修正。詳しい修正内容は以下の通り

