Deftones - private music
2025年・年間ベスト記事の導入部として書き始めたものですが、あまりにも長くなってしまったので単独記事として独立させました。
(年間ベスト記事の論点はうまく網羅できたと思うのでそちらの冒頭にもURLを付記する予定です)
Deftones:private music
結成37年目にして到達した最高の入門作。Deftonesの音楽には独特の“滞留感覚”があり、ハマると抜けられない魅力の源になっていたのだが、これを活かすためには曲やアルバムの構成からあえてメリハリを排す必要があり、それがこのバンドへの取っ付きにくさを高めてもいた。しかし今作では、各曲の尺が徹底的にコンパクトになった(11曲中9曲が4分以内、うち4曲は3分以内で終わる)ことにより曲単位での停滞感が薄まる一方で、アルバム全体としては先述の滞留感覚がこれまで同様に保たれている。カラフルで聴きやすいポップソングがテンポよく繰り出される構成(これはいわゆるハイパーポップやGacha Pop以降の構造にも通ずる)に身を委ねれば、組曲全体を貫くドープな居心地にも浸ることができ、そうした流れを乗りこなすための回路までいつの間にか築かれる…。クセのある持ち味を損なわず徹底的に聴きやすくした上で、過去作に慣れるためのガイドにさえしてしまった本作は、あらゆる意味において最高の入門編と言えるだろう。そしてこれは、2020年代に入ってシューゲイザーが新たに注目を集め、それらの主要な影響源となったDeftonesが若い世代の間で人気を博す現状に少なからず触発されたものであるようにも思われる。
◆ 滞留感覚
冒頭で述べた“滞留感覚”とは、音楽における音の響き(瞬間)と時間の流れ方(俯瞰)の双方が絡み合って生まれる引っ掛かりのようなものだ。まず、Deftonesには圧倒的に心地よいバンドサウンドがある。7〜9弦を駆使した重低音と空間系エフェクトの活用がうますぎるギター、超タイトだが柔らかく包容力のあるドラムス、その双方を密に繋ぐベース、そこに乗る官能的なヴォーカル(世界一ロングトーンのうまい歌手の一人だと思う)、以上の全パートをさりげなく繋げて仄暗い光沢で彩るキーボード。このようなアンサンブルはメタルに留まらない無二の妙味に満ちていて、曲展開がしっくりこなかったとしても理屈抜きにハマれる魅力を生んでいる。それに加えて、Deftonesの音楽には特有の時間の流れ方がある。淀んだアンビエントが長いスパンで続くようなマクロの引っ掛かりと、RushやMetallicaにも通ずる変則拍子(5+6拍や7+8拍のリフも多い:2010年頃からはMeshuggahの影響もあってかdjent的なところにも接近していく)が生み出すミクロの引っ掛かりが巧みに混ぜ合わされる展開は、先述のような演奏感覚も相まって、肌にこびりつきながら染み入るような酩酊感を与えてくれる。Deftonesはこうした引っ掛かりを生み出すために独特の曲構成をしており、それがアルバム全体の構成にも適用されていたこともあって、初めてこのバンドを聴く人たちにとってはかなりの取っ付きにくさが生まれていた。
例えば、2012年発表の7thフル『Koi No Yokan』に収録された「Rosemary」は次のような構成になっている。
0:00〜0:59:イントロ(ダークアンビエント的なインスト)
0:59:ボーカルin Aパート(0:59〜1:28)
1:28〜:ギター&ベース(&バスドラ)in
ここの粘りある質感(Sleepあたりに通ずるストーナーロック的な響きも漂う)がミクロの滞留感覚をわかりやすく醸し出している
1:44〜:Bパート
1:57〜:Aパート(すぐにここに繋がる展開は序盤の勿体ぶった流れとは対照的)
2:24〜:Bパート(“Time shift〜”)
2:39〜:Cパート前半(“Stay with me〜”)
シューゲイザー的な音色変化(プリズム偏光的な歪みを伴う渦の響き)とともに官能的なコード進行が前面に出る(寸止め的にすぐに終わる)
3:00〜3:15:ブリッジ的な間奏(4:58〜の長いインストの前置き/匂わせみたいにもなっている)
3:16〜:Aパート
3:44〜:Bパート
4:14〜:Cパートフル版(寸止め感が減少、じっくり展開するがやはり短め)
いずれの歌メロも印象的だが解決感に乏しい、R&B的な下降音型の繰り返し
(CパートはA・Bパートよりも解決の兆しは明確に見えるが、解決そのものには至らず断ち切られてしまう:それこそが語り口として大事なポイントでもある)
4:58〜:Meshuggahあたりにも通ずる遅重リフパート(Meshuggah的な変則4拍子〜擬似ポリメーターには収まらない)
拍構成は16分音符カウントで 6×7+4 → 6×8+4 → 6×8+4 → 6×4+4+4
ドラムスは常に8ビート(8分音符4拍のうち3拍目にスネアが入る)を保ち、リフが繋ぎの16分音符4拍フレーズになる部分でフィルを入れる
5:39〜:官能的で軽やかなアウトロ(ここで解決感が出てはいる)
こうしてパーツごとに分解すると見えやすくなるのだが、Deftonesの曲は一般的な楽曲に比べると展開の随所に妙な引っ掛かりがある。全体的な印象はアンビエント寄りのゆったりしたものなのだが、勿体ぶったかと思えばすぐに次の展開に移ったり、前半と後半で寸止めの度合いを変えるなど、流れを堰き止めたり解放したりするギミックが端々に仕込まれているのだ。例えばネオソウル的なアンサンブルがリズム構成や演奏の打点などのアクセントをズラすように、Deftonesは(演奏自体にも粘りや引っ掛かりがあるが、それとは別の層として)曲構造自体に“アクセントをズラす”仕掛けを細かく施している。そして、こうした楽曲を並べることにより、アルバムとしての構成にも独特の引っ掛かりが生まれる。以上のようなつくりはこのバンドならではの生理感覚や美意識のもと巧みにコントロールされてきたのだが、他の音楽にはあまりない(というか存在しないとさえ言い切れそうな)ものであるために、慣れるためにはこのバンドの音楽そのものを繰り返し聴く必要があるわけだ。ハマると抜け出せない魅力があるが取っ付きにくい、みたいな印象がDeftonesに付きまとってきた背景には、こうした構造が少なからず関わっているように思われる。
◆ Deftones入門の難しさと意外な突破口
ここまで述べてきたような「取っ付きにくい」印象は、既存の(主にメタル系の)音楽メディアがDeftonesを的確に紹介してこなかったことからも生まれやすくなっていたのかもしれない。そもそも、代表作として挙げられることが多いヒット作『White Pony』(2000年発表の3rdフル)はどちらかと言えば過渡期の作品であり、非常に充実した曲集ではあるが、このバンドならではの聴き味はこの時点では確立されていなかった。これまで繰り返し述べてきた “滞留感覚”は活動の初期から曲単位では示されてきていたが(1997年発表の2ndフル『Around the Fur』の冒頭を飾る名曲「My Own Summer(Shove It)」など)、アルバムの大部分で取り組まれるようになったのは『Deftones』(2003年発表の4thフル)からであり、明確な手法として確立されるのは『Diamond Eyes』(2010年発表の6thフル)、アルバム全体の構成まで含めて完成されるのは『Koi No Yokan』を待たなければならなかった。それなのにいつまでも『White Pony』が最初の一枚みたいに語られ続けるのは、例えばBUCK-TICKの入門編として挙げられるべきなのは『狂った太陽』(1991年発表の6thフル)や『memento mori』(2009年発表の16thフル)、『No.0』(2018年発表の21stフル)あたりなのに、いつまでも『惡の華』(1990年発表の5thフル)が引き合いに出され続けるような状況に通ずる。Deftonesがいわゆるニューメタルの代表格として語られ(そうしたジャンルの枠内で語れたのは『Around the Fur』までだったにも関わらず)、それでいて『White Pony』(ニューメタルの定型から大幅に逸脱し始めた作品)が代表作に挙げられ続けてきたのは、ニューメタル的なものを好む人にとってもそうでない人にとっても、不幸な誤解を重ねる誘因にしかなっていなかったのではないか。ただ、だからと言って『Diamond Eyes』や『Koi No Yokan』をはじめの一歩とするのも、エッセンスの提示という点では適切でも慣れるまでにかなりのハードルがあるという点で難しいものがある。こうした諸々の要因により決定的な「入門編」が提示されずにきてしまったのが、今に至るDeftonesの語られ方に大きく影響しているように見える。
こうしたことを踏まえて興味深いのが、Deftonesが以上のような「ニューメタル」方面とは異なる文脈から人気を博すようになってきたということだ。2023年12月18日にWebメディアSTEREOGUMに掲載された「TikTok Has Made Shoegazer Bigger Than Ever」(TikTokがシューゲイザーをかつてなく“大きなもの”にしている)という記事では、2020年代に入ってからのシューゲイザーのリバイバル…というか新生/変遷の様子が次のようにまとめられている。quannnicやWispのような20歳前後のシューゲイザー・アーティストがTikTok経由で一夜にしてブレイクする例がここ数年増えていて、My Bloody ValentineやSlowdive、Rideといった90年代のオリジネーターも急激に注目されてきている(Spotifyではリスナーの6割以上がZ世代、つまり90年代中頃から10年代序盤に生まれた若年層になっているという)。その背景には、Dusterのような90年代当時は完全に無名だったスロウコアバンドや、00年代のドリームポップ代表格であるBeach House、そしてDeftonesの存在がある。なかでもDeftonesは、その影響下にあるニューゲイザー(00年代以降にデビューしたバンド群を指す言葉だが、ニューメタル通過後のシューゲイザーというニュアンスもある)の流れも相まって、ヘヴィな質感を取り込む近年のシューゲイザー・サウンドに強いインスピレーションを与え、自身も絶大な人気を博している……というふうに。
その一つの象徴となっているのが前掲の「Rosemary」だ。2012年のリリース当時はシングルカットされず(SpotifyやApple Musicのような定額ストリーミングサービスが普及しはじめたのは2015年頃からだったため、アルバムを買わなければ聴けない時期が長かった)、注目される機会をほとんど得られなかったこの曲は、TikTokでのバイラルヒットを経て大人気曲となり、YouTube公式アカウントでの再生数は、2024年6月時点で3000万回以上、2026年5月時点では6500万回以上になっている。また、『Diamond Eyes』収録の名曲「Sextape」も、シングルカットされたもののリリース当時は目立ったチャート成績が見られなかったのが、TikTokなどで注目されたことにより、2024年6月時点のYouTube再生数は1600万回以上、2026年5月時点では5800万回以上になっている。The Smithsのカバー「Please Please Please Let Me Get What I Want」も、本家の再生数が2026年5月時点で1500万回ほどなのに対し、Deftones版は1800万回を超えるなど、2020年代に入ってからのDeftonesの人気はこれまでからは考えられない経路で高まり続けてきたのだった。
その理由は様々な角度から掘り下げることができるが、一つの要因として考えられるのが、ショート動画(15〜60秒)のために曲の一部を切り抜くからこそ生まれるキャッチーさだろう。先述のように、「Rosemary」では長い盛り上げパート(ビルドアップ)と解放感が醸される短いサビ=Cパート(ドロップ)があえてメリハリを欠く形で並べられているのだが、TikTokでは2分24秒からのBパート(Time shift〜)または2分39秒からのCパート前半(Stay with me〜)が好んで切り抜かれている(サビ的な解放感が強いCパートよりも、爆発寸前のタメ感が際立つBパートの方が多用されているように見える)。ここは曲全体の中トロと言える部分であり(4分14秒からの大トロ部分が選ばれていない理由を考えるのも面白い)、曲やアルバムを最初から再生する昔ながらの聴き方では、Deftonesのような特殊な音楽性だと到達する機会を失ってしまう可能性が少なくない。しかし、切り抜きが前提となっているTikTokのような場であれば、曲の最もキャッチーな部分を真っ先に聴くことができる。「アルバムを聴かなければアルバム曲に出会えない」「クセのある構成の曲を聴き通さなければ魅力的なサビに出会えない」ような構図が、そうした聴き方からは最も遠いところにあるSNSだからこそ解消されたわけだ。そして、15秒の切り抜きで満足してしまう人も多いだろうが、そこから興味を持ってフル版を聴き、Deftonesというバンドそのものにハマっていく人も少なくない。前掲のようなYouTube再生数の急増はそうした流れの賜物だ。上の世代の人々(特に、LPやCDなどのフィジカルで聴くことを至上とする層)は倍速聴取や切り抜き再生をバカにしがちだが(筆者も自分ではあまりやりたくないが)、そうした接し方が広まってきたからこそ生まれた活路も確かにあり、それが再評価や大きな潮流を生んでいる。WispらがDeftones的な音作りを「シューゲイザー」の一部と認識し、この言葉が包含する範囲や質感を新生/変遷させていったのは2020年代前半を代表するトピックの一つだが、それは若い世代ならではの感覚や接し方があって初めて成し遂げられたことだった。こうした状況にはDeftones自身も大きく触発されたのだろうし(再生数の多い曲を並べたCoachella 2024のセットリストが示すように)、それを機に受け手との交流や距離感について意識的になったからこそ、『private music』(アルバムタイトルおよび曲題がすべて小文字になっているのも示唆的)における洗練の極みと言うべきプレゼンテーションも実現したのだろう。
◆ 「シューゲイザー」を経由したメタル的質感の無自覚的な拡散
ここで(少し脇道に逸れるが)考えてみたいのが、「シューゲイザー」の拡大解釈が広範囲のリスナーにもたらす感覚の変容だ。
例えば、これはシューゲイザーというよりもいわゆるギターロックの話なのだが、TVアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』のサウンドトラックおよび劇中バンド「結束バンド」の作編曲を担当した三井律郎氏にインタビューした際に印象的だったのが、メタルの影響をほとんど意識していないことだった。歌メロの裏で終始ソロを弾き続けているような右チャンネルのギター(後藤ひとりのキャラクター性を反映したアレンジ)は、リードブレイク的に前面に出てくる場面は確かに少ないが、この取材に先行して寄稿したアルバムレビューでも述べたように、テクニカルなメタルの文脈で語ることもできる、少なくともルーツは間違いなくそちら方面にあると言えるものだ。しかし、三井氏によれば、こうしたアレンジはいずれも下北沢的なギターロックの文脈に回収できるものなのだという。それはおそらく大部分が事実で、エモ〜ポストロック〜マスコアなども含むギターロックの系譜を聴き込んでいれば、結束バンドにおける流麗なリードギターのアレンジを構築できるのだろう。しかしそのルーツを辿れば、ハードコアを介したメタルからの影響も間違いなくあるし、後藤ひとりのアカウント名「ギターヒーロー」を介して想起される現代の若きテクニカルギタリストたち(Ichika Nitoやマーシン、Polyphiaのティム・ヘンソン、Unprocessedのマニュエル・ガードナー・ヘルナンデス、マッテオ・マンクーゾなど、メタルの系譜で最先端にありながらもむしろメタル領域の外で世界的な人気を得ている達人たち)のテイストを、メタルと思わず無意識的に取り込んでいた面もあったかもしれない。ここでは「ギターロック」の発展的解釈が(おそらくは無自覚的に)行われ、「ギターロック」という言葉が指す質感や手法自体が書き換えられている。
これは「シューゲイザー」についても言えることだろう。メタルの文脈から現れたDeftonesが、メタルならではの要素(作編曲における様式美というよりも、音作りの手法〜質感、フレージングにおける“コブシ”的なクセなど)を主な構成要素の一つとしつつ、それを他ジャンル(シューゲイザー、グランジ、オルタナ、ギターロック、R&B、ヒップホップなど)の要素と原型が分からなくなるくらい高度に混ぜ合わせることで、シューゲイザーに興味のある(それでいてメタルに触れてこなかった)人にとっては単に「シューゲイザー」とみなしてしまえる音塊(脱ジャンル的というよりは超ジャンル的な、分類困難な一方で何にでも分類してしまえるサウンド)が生まれる。そういう質感や聴き味に影響を受けた後続バンドが「シューゲイザー」と呼ばれることにより、「シューゲイザー」という言葉が指す質感や手法にメタルやハードコア由来のものが人知れず混入し根付いていく。そうやって築き上げられていったのがDeftones以降のいわゆるヘヴィ・シューゲイズの系譜なわけだ。そして、メタルやハードコアのリテラシーをあまり身につけてこなかったリスナー層がグランジやオルタナ経由でそうしたサウンドに接することにより、次のような事態が生じていると考えられる。
① メタル由来の音に別のラベルが貼り付けられることにより、ジャンル文脈の上で剽窃的な受容がなされてしまう。
② その別のラベル/文脈のなかにメタル的な要素が取り込まれ、それこそ遺伝子のように密かに根付き侵食していく。
これは90年代のグランジの頃から少なからず起きてきたことであり、そもそもそういうことが繰り返されてきたのがメタルとそれを取り巻く音楽シーンの歴史なのだとも言える。こちらの記事などでも述べてきたように、メタル内とメタル外の双方が互いに興味を持たずリテラシーを培わずにきてしまったからこそ上記①の問題が拡大している(もちろんメタルは剽窃されるだけの側ではなく、メタル内で①②のような無自覚的侵食がなされてきた面もある)のだが、それは本項の主題から逸れるのでさておく。ここで注目したいのは②の方だ。Deftonesがいまこの時代に強いのは、ジャンル一般の傾向としてテクスチャに自覚的なところがあるメタルの要素を根っこに持っていて(メタルは“メタリック”な質感さえあれば何でもそう呼んでしまえる柔軟な括りであるため、様々なジャンルとの混淆が起こりやすいわけだが、裏を返せばそれは“メタリック”な質感に徹底的にこだわるということでもある)、それらを持たないシューゲイザーやインディ/オルタナ一般のバンド群に比べ、滋味や幅の量で有利なところにいるからではないか。そして、そうしたメタルの要素は、これまで繰り返し述べてきた“滞留感覚”を形成するにあたって不可欠な成分でもあるのだ。
◆ Deftonesサウンドが示す、時間と質感の連関
このところ意識的に語られるようになってきたテクスチャというキーワード(前掲記事では、〈物質的・感覚的な触知の話〉〈「響き」が「どのような音が鳴っているか」という即物的な話であるのに対して、「テクスチャ」はもっと「どのように鳴っているか」「どのように聴いているか」という効果の話だ〉というふうに説明されている)を考えるにあたって重要な、意外と見逃されがちだと思われる事柄に、時間と質感の連関がある。
「Rosemary」の楽曲構成のところで述べたように、Deftonesは演奏(質感、瞬間)と曲展開(時間の流れ方、俯瞰)の双方に “アクセントをズラす”仕掛けを細かく施しており、それらが総体として独特の居心地や引っ掛かり、“滞留感覚”のようなものを生み出している。自分はこれこそがDeftonesの音楽における「テクスチャ」であると考えるのだが、それは質感と時間の相互作用により生じる手応えであり、質感だけで説明できるものではない。そして、この「相互作用」こそがDeftonesとそのフォロワーを分かつ部分なのだろう。シューゲイザーの系譜におけるヘヴィ・シューゲイズにしろ、2020年代に入ってからメタルコアの系譜で注目を集めるようになったdeftones-coreにせよ、音響構築の面ではDeftones的な手法を巧みに取り込んでいるが、曲構成や時間感覚の面ではシューゲイザー(アンビエント寄りのロングスパン)またはメタルコア(比較的短いスパンできびきび展開していく)のジャンル流儀をそのまま受け継いでいるものが多く、Thornhillのような優れたバンドでさえその点ではDeftonesの特性を盗むことができていない(その違いこそが大事な個性に結びついてもいる)。つまり、Deftonesフォロワーの多くがDeftonesのような時間と質感の相互作用=滞留感覚を生み出せていないわけで、そこを意識せずに瞬間的な音響の触感だけで比較すると、質の違うものを同類だと混同してしまうことになりかねない。こうした観点は、「テクスチャ」的なものを考える(さらには、その言葉を用いることで感覚の切り分けをやめてしまう、みたいな事態を避ける)にあたって大事なことだろう。
なお、こうしたジャンル比較みたいなことは、Deftonesの過去曲どうしを聴き比べて行うこともできる。例えば、初期の名曲「Be Quiet and Drive(Far Away)」(1997年発表の2ndフル『Around the Fur』収録)は90年代的なシューゲイザーの質感が軸になっており、Deftones自身が独自の滞留感覚を確立する前の作品ということもあって、現代ヘヴィ・シューゲイザーの直接的な原型みたいに聴くこともできる。また、『Ohms』(2020年発表の9thフル)終盤における「Radiant City」「Headless」の並びは、このアルバムの音作り自体がdjent/プログレッシヴ・メタルコアに接近したものだということもあってか、deftones-coreの最高峰を速い曲と遅い曲の双方で達成してしまったような趣もある(Loatheが2020年に発表した傑作『I Let It and It Took Everything』が以上3曲の間に位置する感じなのも興味深い)。アルバムごとに音作りも語り口も大きく変えてきたにも関わらず「Deftonesっぽい」というイメージを強固に保ってきたこのバンドは、「テクスチャ」的な受容の例としても、それを具体的に掘り下げるにあたっての入り口としても、きわめて優れた対象だと思われるのだ。
◆ private music
冒頭で述べたように、最新作『private music』(2025年発表の10thフル、11曲42分22秒)は、Deftonesが結成37年目にして編み出した最高の入門編だ。「Rosemary」のところで述べたような変則的な展開は最小限に抑えられ、各曲の全箇所がキャッチーなフレーズで構成されているのに、アルバムの流れにおいてはそれらが絶妙な引っ掛かりとして機能し、組曲全体としては過去作と同様の滞留感覚が保たれている。カラフルで聴きやすいポップソングがテンポよく繰り出される構成に身を委ねれば、組曲全体を貫くドープな居心地にも浸ることができ、そうした流れを乗りこなすための回路までいつの間にか築かれる。これはアルバムというフォーマットの歴史における輝かしい達成であり、マニアックな味わいを持ったバンドを紹介するにあたっての最高の手法だと言える。これからは最初の一枚として『White Pony』や『Koi No Yokan』を挙げる必要はない。Deftonesを聴いたことがなかった人は、ぜひ本作から聴き始めてみてほしい。
それにしても、本作も本当に面白いアルバムだ。パーツ単位では既存の何かになぞらえることもできるが、総体としてはDeftones以外の何ものでもない音楽に仕上がっている。そして、先述のように徹底的に聴きやすく磨き抜かれている一方で、随所に細かい捻りが施され、何度聴いても飽きない奥行きが生み出されている。ジャンル傾向みたいなものをあえて挙げるなら、「infinite source」や「milk of the madonna」などで90年代シューゲイザー的な質感が引き立っている印象はあるし(シューゲイザー・リバイバルへの接近およびdeftones-coreとの差異化みたいな目論見もあったのかも)、「cXz」のボンゾ的ドラムフィル(「Moby Dick」あたりに通ずる)や「cut hands」リフの「Out on the Tiles」感、「departed body」の『Presence』的コード感など、Led Zeppelinを想起させられる場面が多かったりもするが、時間と質感の相互作用から生まれる居心地はやはりDeftonesとしか言いようがない。ここまで独特の個性や癖に満ちた音楽が広く開かれ、しかもそれが「私的な音楽」と題されていることの趣深さ。5月18日から20日にかけて開催される来日ツアーも間違いなく素晴らしいものになるだろう。興味を惹かれた方は、本作を入り口にいろいろ聴いてぜひ行ってみてほしいものである。


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