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照りつける太陽が、コンクリートの熱を肌に突き刺してくる。
かつて「田辺」という名で恐れられた、裏社会最強のハッカーとしての自負は、今やこの火照った白い肌の下に深く沈んでいた。
「……はぁ、重いな。この体」
俺――いや、今の「私」は、ホテルのプールサイドで仰向けに寝転がっていた。
視界に映るのは、抜けるような青空と、視界の端に揺れる自分の長い黒髪。
そして、水着の布地から溢れんばかりの、見慣れない自分自身の豊満な肉体だ。
すぐ数メートル先を、黒いスーツを着た男たちが血眼になって歩き回っている。
「おい、田辺の足取りは!?」
「……消えました。端末の信号も、防犯カメラのログも、あの路地裏でプッツリと」
男たちの会話が耳に届く。
滑稽だ。
探している獲物は、目の前で際どいビキニに身を包み、虚ろな瞳で空を仰いでいるこの「女」だというのに。
枕元に置いたカクテルグラスを手に取り、私は小さく唇を寄せた。
指先が震えているのは、恐怖じゃない。
細胞が書き換えられた時の、あの焼けるような劇痛の名残だ。
【細胞再構築薬:プロトタイプ】
とある製薬会社の極秘ラボから盗み出した、奇跡の劇薬。残りはあと2つ。
脳波、骨格、声帯、そして性別。事前に設定した「別人」に、遺伝子レベルで変身する。
(「田辺」という男はこの世から消した。今の私は、このリゾートに滞在中の身元確かなセレブ女性。……データ上はね)
私は傍らのトートバッグに隠した、薄型のノートPCに指を這わせた。
ハッキング能力さえあれば、偽の戸籍、銀行口座の残高、過去のSNS投稿に至るまで、数秒で「真実」に仕立て上げられる。
「あーあ……。あのバカ、今ごろ祝杯でもあげてるのかしら」
思わず口から出た声は、自分でもゾクっとするほど艶やかな女のものだった。
「おい、そこの女」
不意に影が落ちた。
組織の男の一人が、不審そうに私を見下ろしている。
私はわざとらしく、虚ろだった瞳に媚びた光を宿し、ゆっくりと上体を起こした。
重力に従って、豊かな胸が露骨に揺れる。
「……何か、御用? 暑苦しい格好ね、お兄さん」
「……いや。このあたりで、冴えない男を見かけなかったか。眼鏡をかけた、中肉中背の」
「さあ? 興味ないわ。私、イケメン以外は視界に入らないことにしてるの」
男は舌打ちをして、私の体を一瞥してから去っていった。
その背中を見送りながら、冷えたカクテルを飲み干すと、再びタイルに体を預けた。
逃走劇と復讐劇の幕は、まだ上がったばかりだ。
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……と、かっこよく決めたものの。
(……やばい。死ぬ。心臓が口から出そう。今の、今の完璧だったか!? 噛まなかったか!?)
内心、私はパニックの極致にいた。
「田辺」だった頃の私は、薄暗い部屋でブルーライトを浴び、エナジードリンクを啜りながら、匿名掲示板でレスバトルを繰り広げるのが唯一の社交だった男だ。
今の「セレブ美女」という設定は、とりあえず組織から逃げるために、とりあえず考えた中二病の設定。
「ふぅ……」
男が立ち去ったのを確認し、深く息を吐く。
それだけで、ビキニの細い紐が弾けそうなほどの圧迫感を感じて、顔が別の意味で熱くなった。
男の時はこんな重り、胸についてなかったのに。重心が違いすぎて、歩くだけで転びそうになる。
「あー、マジでしんどい……。早く部屋に戻って、コード書きたい。匿名掲示板に『今、追っ手の目の前でカクテル飲んでやったわw』って書き込みたい……」
そんな陰キャ特有の独り言が漏れかけた、その時。
「お一人? 綺麗な人だね」
まただ。
また影が落ちた。
今度はスーツの男じゃない。
仕立ての良さそうなアロハシャツを着た、いかにも「夏、満喫してます!」と言わんばかりの、日焼けしたチャラそうな男だ。
(げっ、出た。陽キャの捕食者だ……!)
「あー、はい。一人ですけど」
思わず、田辺時代の「他人と目を合わせない」癖が出てしまう。
伏し目がちに、ボソボソと答えてしまった。
「えっ、何? 声、可愛すぎて聞き取れなかったんだけど。もしかして、モデルさんか何か? どこの事務所?」
男はグイグイと距離を詰めてくる。私の隣のサマーベッドに腰掛け、こちらの顔を覗き込んできた。
ダメだ。こういう手合いは、陰キャが一番苦手な「根拠のない自信」で殴りかかってくる。
(落ち着け。私は今、セレブ美女なんだ。えーと、こういう時は……)
私は脳内の「理想の女性データベース」を高速で検索する。
「事務所? 興味ないわ。私、自分の自由を切り売りするほど、お金に困ってないの。邪魔しないでくれる? 今、空の色と、このカクテルの色の波長が、どうしてこうも不協和音を奏でているのかについて、深く考察してたところなのよ」
「……えっ?」
男がポカンとした顔になる。
しまった。つい理屈っぽいオタク特有の言い回しが出てしまった。
「あ、いや……つまり、その……独りにしてってこと。不規則なノイズが混ざると、私のバイオリズムが狂うの」
「あ、あはは! 面白いこと言うね。ミステリアスな美人は嫌いじゃないよ。……ねえ、この後、バーで一杯どう? 俺、君のこと、もっと詳しく『デバッグ』したくなっちゃったな」
(デバッグ!? こいつ、今デバッグって言ったか!? 素人が浅い知識でIT用語を使うな! 腹立たしい!)
無意識に、ハッカーとしての矜持が顔を出した。
私はノートPCを叩く時のように、冷徹で、かつ素早い視線を男に突き刺す。
「いい? 貴方みたいなセキュリティホールだらけの男に、私のコアシステムを触らせるわけないでしょ。誘いたければ、せめて私のファイヤーウォールを突破するくらいの知性と、その安っぽい香水をどうにかするセンスを持ってから出直して。……それ以上近づいたら、貴方のスマートフォンのブラウザ履歴、このプールの巨大モニターに一瞬でミラーリングしてあげるけど?」
「……えっ。あ、ああ、……そう。……ごめん、なんか、ごめん」
男は私の「圧」に押されたのか、引き攣った笑いを浮かべて後ずさりし、そのまま逃げるように去っていった。
「……ふん。勝った」
私は再び倒れ込む。
……が、数秒後、あまりの恥ずかしさにタオルで顔を覆った。
「……あああああ! 何がミラーリングよ! 何がファイヤーウォールよ! 痛い! 今の私の発言、めちゃくちゃ痛いよ! 完全にネット弁慶のセリフじゃない……!!」
悶えながら足をバタつかせると、そのたびに豊かな肉体が揺れ、周囲の視線をさらに集めてしまう。
追っ手の男たちは、まだあちこちで「冴えない男」を探している。
だが、今の私の最大の敵は、組織の暗殺者ではなく、この隠しきれない「陰キャの魂」なのかもしれなかった。
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「……よし、撤収。これ以上ここにいたら、羞恥心でオーバーヒートする」
私は逃げるようにして立ち上がり、その場を離れることにした。
慣れない高さのビーチサンダルに足を取られ、膝がガクガクと震える。
歩くたびに、自分の一部とは思えないほど重たい胸が「ぷるん」と存在を主張してくるのが、どうしようもなく落ち着かない。
(落ち着け、田辺。お前は今、世界で最も高価なカモフラージュを纏っているんだ……)
必死に自分に言い聞かせながら、プールサイドを離れて更衣室へと向かう。
道中、ホテルのエントランスにある高級セレクトショップのガラス越しに、自分の姿が映った。
「……本当に、誰だよこれ」
数時間前、薬を飲んでのたうち回り、劇的な変身を遂げた直後のことを思い出す。
鏡に映る絶世の美女に腰を抜かした私は、震える足でこの店に駆け込んだ。
「私に……その、似合う水着を。一番、目立たないやつで」
そう言ったつもりだった。
だが、対応した店員は「なんて美しい方……!」と言わんばかりの恍惚とした表情で、
「お客様のその素晴らしいプロポーションを隠すなんて、罪悪ですわ! こちらの最新作こそ、貴女のためのものです!」
と、断る間もなくこの『布面積がバグっているビキニ』を押し付けてきたのだ。
されるがままにカードを切り、無人だった更衣室の個室に逃げ込んで、必死に布を体に巻き付けた。
あの時は追っ手の足音が背後に迫っている恐怖で、自分の裸を直視する余裕すらなかった。
ただ、データの書き換えを完遂するように、事務的に「女の服」を装備しただけだったのだ。
だが、今は違う。
静かな廊下を歩くほどに、この格好の異常な心許なさが肌に突き刺さる。
(……早く、早く服を着たい。あのダボダボのグレーのパーカーが、今の私にはフルプレートアーマーより頼もしく思える……)
ようやく更衣室の重厚な扉の前に辿り着いた。
手をかけようとした、その時。
「――ねえ、聞いた? さっきのプールの騒ぎ」
扉の向こうから、華やかな、それでいてどこか刺のある女性たちの声が漏れ聞こえてきた。
私は反射的に、指先をドアノブから離し、壁の陰に身を潜めた。
陰キャの特技である「聞き耳を立てる」習性が、こんな場所でも発動してしまう。
「見たわよ。黒スーツの男たちが誰かを探してるんでしょ? 怖い。でも、それより……」
「あのご令嬢(・・・)のことでしょ? さっきからプールサイドで男たちを蹴散らしてる、あの黒髪の」
(……げ。私のことだ)
心臓が跳ねる。
組織の追っ手とは別の、さらに厄介な「同性(?)からの品定め」という未知のフェーズに、私は直面しようとしていた。
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(……ふぅ。逃げてちゃ始まらない。私は今、最強のハッカーにして、完璧なセレブ美女なんだ。プログラムのバグを潰すように、この不自然な空気も上書きしてやる)
私は大きく一つ深呼吸をして、震えそうになる指先をギュッと握り締めた。
そして、わざと音を立てるようにヒールを鳴らし、更衣室の重い扉を堂々と押し開けた。
「――あら」
中に入った瞬間、談笑していた数人の女性たちの視線が一斉に私に突き刺さる。
値踏みするような、鋭く、それでいて圧倒的な美貌への敗北感を孕んだ眼差し。
田辺だった頃なら、この視線だけでブラウザを閉じてログアウトしているところだ。
だが、今の私は違う。
「……少し、騒がしいわね。外も、中も」
氷のように冷ややかな声を響かせた。
鏡の前で髪を整えていた一人の女性が、気圧されたように一歩下がり、それから取り繕うように愛想笑いを浮かべて話しかけてきた。
「あ、あの……! もしかして、さっきプールサイドでもお見かけして……その水着、とっても素敵で……」
(……来た。陽キャのコミュニケーション攻撃……! 応答コードを返さなきゃ……!)
私は内心の動揺を「冷徹な気品」というフィルタで加工し、ゆっくりと彼女の方へ視線を向けた。
「ええ。でも、素敵かどうかを決めるのは私であって、貴方じゃないわ。……失礼、少し疲れているの。独りにしてくれるかしら」
「あ、はい……ごめんなさい……っ」
完璧だ。我ながら、この中二病全開の「高飛車な女」の設定が、これほどまでに防御壁(ファイヤーウォール)として機能するとは思わなかった。
彼女たちは蜘蛛の子を散らすように、そそくさと更衣室から出て行った。
「……はぁ。やっと、一人か」
静寂が戻った更衣室。
私は膝の力が抜け、豪華なソファに崩れ落ちた。
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「……ったく、心臓がいくつあっても足りないわよ」
誰もいなくなった更衣室で、私は小さく毒づいた。
鏡に映る自分を見る。
湿った黒髪が白い肩に張り付き、ビキニの隙間から覗く肌は、冷房の冷気にさらされてかすかに粟立っていた。
この「ガワ」は完璧だ。だが、中身の田辺が悲鳴を上げている。
「まずは拠点だ。このままじゃ、ただの動く標的(ターゲット)だし……」
私はトートバッグから、愛機である超薄型ノートPCを滑り出させた。
膝の上に広げ、流れるような指捌きでホテルの基幹システムへ潜入(ダイブ)する。
数多のセキュリティをバイパスし、宿泊客リストのデータベースを書き換える。
『302号室:本日キャンセル』
そのフラグを、物理的なチェックインが完了したかのように、一瞬で「宿泊中」へと上書きした。
これで、フロントを通らずとも、マスターキーさえあれば私の「聖域」が手に入る。
「よし。次は……装備(コスチューム)の変更ね」
私は立ち上がり、更衣室の奥にある「忘れ物コーナー」のバスケットと、放置されたままのロッカーへと目を向けた。
手元にあるのは、田辺時代からの遺産――薄汚れたグレーの巨大なダボダボパーカー。
だが、今のこの豊満な体でそれを着れば、不審者どころか「訳ありの家出少女」にしか見えない。追っ手の目を引くには十分すぎる悪手だ。
「……背に腹は代えられない。これもハッキングの一環だと思えば……ッ!」
私は震える手で、バスケットの中から状態の良いものを「検収」し始めた。
まずは、下着。
幸いなことに、新品のタグがついたまま放置された、予備と思われる上下セットを見つけた。
「……くっ、何だこの構造。フロントホック? いや、後ろか? どっちが前だ……!?」
物理デバイスの接続なら目をつぶっていてもできるのに、ブラジャーという名の「拘束具」の装着には、冷や汗が止まらない。
寄せては逃げる自分の肉体に翻弄されながら、なんとかホックを掛けた。
パツパツに張る感覚。呼吸をするたびに、自分の女性としての記号が強調されるようで、顔が火を吹くほど熱い。
次に、サマードレス。
ロッカーの隅に忘れられていた、淡いラベンダー色のシフォン素材のドレスだ。
これを頭から被り、腰の紐を結ぶ。
「……よし。これで、少なくとも『逃走中のハッカー』には見えないはず」
鏡の前に立つ。
そこには、少し着崩した、気だるげな雰囲気の令嬢がいた。
長い黒髪を指先で無造作にまとめ、パーカーのフードではなく、拾った大きな麦わら帽子を目深に被る。
「……行くわよ、田辺。いや、私」
私はノートPCをバッグに叩き込み、更衣室の鏡に一度だけ冷ややかな視線を送った。
それは、かつての「冴えない男」への決別であり、この狂ったゲームの続きを戦い抜くための、自分への鼓舞でもあった。
扉を開け、再びホテルの廊下へと踏み出す。
302号室までの距離は、わずか50メートル。
だが、その一歩一歩が、地雷原を歩くような緊張感に満ちていた。
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廊下に出た瞬間、冷房の冷気がドレスの薄い生地を通り抜けて肌を撫でた。
(落ち着け。鼓動を制御しろ。パケットの送受信と同じだ。一定のプロトコルを守れば、誰も私の内側(ソースコード)までは覗き見れない)
自分にそう言い聞かせながら、私はわざとゆっくりと歩を進める。
だが、その決意をあざ笑うかのように、廊下の向こう側から「黒い影」が二つ、角を曲がって現れた。
「チッ、どこへ消えやがった」
「あんな地味な男、目立つはずなんだがな。誰か協力者がいるのか?」
組織の男たちだ。
彼らは血走った目で、廊下ですれ違う人々を一人ずつチェックしている。
心臓が警報音(アラート)を鳴らし始めた。脳内のCPUがオーバーヒート寸前まで跳ね上がる。
このまま引き返せば、逆に不審に思われる。
私はあえて速度を落とさず、バッグから取り出したスマートフォンに視線を落とした。
「もう、遅いわね。エステの予約、キャンセルしなきゃ」
独り言を、艶やかな「女の声」で紡ぐ。
男たちが私の横を通り過ぎる。その距離、わずか30センチ。
「…………」
一瞬、一人の男が足を止め、私の背中に視線を走らせるのを感じた。
(来るか!?)
指先がドレスの裾を強く握りしめる。
だが、男の視線が留まったのは、私の顔ではなく、シフォン素材越しに浮き上がる背中から腰にかけての、あどけないほど瑞々しい曲線だった。
「おい、何見てる。行くぞ」
「ああ、悪い。……今の女、凄かったな」
「バカか。仕事中だぞ。あんな上玉が、あの根暗な田辺と関係あるわけねーだろ」
足音が遠ざかる。
(勝った。いや、負けたのか? どっちだ?)
屈辱的なほどの「女扱い」が、今は最高の盾になっている。
だが、危機はそれだけではなかった。
「お、おい見ろよ、あの人……」
「モデルかな? 綺麗すぎるだろ。……っていうか、あのドレス、どこのブランド?」
一般の宿泊客たちからの視線。それは組織の男たちの殺気よりも、ある意味で鋭く私を射抜いた。
田辺だった頃、私は風景の一部でしかなかった。
誰の視界にも入らず、誰の記憶にも残らない「モブ」だった。
それが今や、歩くたびに人々の視線を吸い寄せ、ひそひそ話の種になっている。
まるで、無防備なサーバーにDDoS攻撃を受けているような、圧倒的な情報量の暴力。
(見ないで……お願いだから誰も見ないで……!)
私は麦わら帽子の庇をさらに深く下げ、逃げ込むように302号室の前に辿り着いた。
事前にスマホ経由で細工した電子ロックが、小さな電子音と共に解放される。
滑り込むように室内へ入り、ドアを閉めてロックを三重にかけた。
「っ、はぁ、はぁ……!」
そのままドアに背中を預け、ずるずると床にへたり込む。
安物のビジネスホテルではない、それなりに上質な客室。
だが、今の私にはここさえも「脆弱」に思えた。
「ダメだ。ここは安全じゃない」
私は即座にノートPCを開き、高速でタイピングを開始した。
この「302号室」は、とりあえずの避難先として設定した中層階の一般客室だ。
今の私の格好、そして放っているオーラは、明らかにこの「普通の部屋」には不釣り合いすぎる。
もし組織がホテルの宿泊名簿を強引にチェックすれば、不自然な「当日キャンセル・当日宿泊」のログから、ここが特定されるのは時間の問題だ。
「もっと『それっぽい』場所に隠れないと……」
私は近隣の超高級ホテル、『ザ・レガリア・タワー』の予約状況をハックした。
そこは、一泊数十万は下らない、プライバシーが徹底されたセレブ御用達の要塞だ。
最上階のスイートルームに空きを見つけ、偽造した身分証と、海外のダミー口座を紐付けたクレジットカード情報で予約を完了させる。
「チェックインは……夜。暗くなってからね」
それまでは、この狭い部屋で息を潜めるしかない。
私はベッドに倒れ込み、柔らかなシーツに顔をうずめた。
「何やってんだろ、俺」
あ、いや、「私」か。
一人称のゲシュタルト崩壊を起こしながら、私は自分の胸の重みと、ドレスの擦れる音に、ただただ翻弄され続けていた。
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「落ち着け。まずは、この心許ない『借り物』の状態を脱するのが先決よ」
302号室のベッドに這い上がり、私はノートPCのキーボードを叩いた。
今の私に必要なのは、物理的な防壁――つまり、自分の意思で選んだ「服」だ。
だが、この姿でホテルのショップへ買い出しに行く勇気など、今の私には1ビットも残っていない。
「ハッカーならハッカーらしく、ネットワーク経由で全てを完遂させる……!」
私は、即日配送を謳う高級デパートのオンラインコンシェルジュにアクセスした。
幸い、このリゾート地はセレブのワガママに応えるためのデリバリーインフラが異常に発達している。
問題は、サイズだ。
「田辺」だった頃のサイズ感なんて、1ミリも役に立たない。
自分の体の寸法なんて測ったこともないし、ましてや今の私は「細胞再構築薬」が生み出した、バグのように完璧なプロポーションの美女だ。
「ええい、いちいち計測なんてしてられるか! 失敗は許されないのよ」
私は苦肉の策として、ゆったりとしたシルエットの「フリーサイズ」のラウンジウェアや、伸縮性の高いニットのセットアップを選択肢に並べた。
これなら、多少の誤差は布のゆとりが吸収してくれるはずだ。
そして、最大の問題は「下着」である。
今、この肌に食い込んでいる「忘れ物」のブラジャーと、先ほどまで着ていたあの「布面積がバグったビキニ」。
私は、そのタグに刻まれた絶望的なほど大きなカップ数とアンダーの数字を、脳内のメモリから読み出した。
「信じられない。男の時には縁もゆかりもなかったアルファベットが、今の私の規格(スペック)だっていうの?」
顔が火照るのを無視して、私はその数値をベースに、さらに「寄せても逃げない」ホールド力の高そうなスポーツブラタイプと、高級感のあるシルクのセットをカートに叩き込んだ。
『お届け先:302号室 前。チャイムを鳴らして立ち去ること。対面は不要』
備考欄に冷徹な命令を書き添え、決済ボタンをクリックする。
もちろん、支払いは組織の追跡を攪乱するために用意した、仮想通貨経由の匿名口座だ。
「よし……。あとは、夜を待つだけ」
注文完了のログを見届けると、私はPCを閉じて、大きく溜息をついた。
不意に、窓の外から組織の男たちの怒号がかすかに聞こえた気がして、私はビクッと肩を揺らす。
今の私は、世界最強のハッカー。
……のはずなのに、フリーサイズの服が届くのを待つ間、私はただの「震える迷子の女の子」のように、シーツを固く握りしめていた。
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「ふぅ」
PCを閉じ、静寂が戻った客室で、私は一人、ベッドの上に座り込んでいた。
服が届くまで、まだ時間がある。
この「302号室」は、私の隠れ家だ。
誰にも邪魔されない、私だけの空間。
「まずは、このスペックを正確に把握(デバッグ)しとかなきゃな。このガワを使いこなせなきゃ、逃げ切るなんて無理ゲーだろ」
自分に言い聞かせるように呟いた声は、まだ慣れない、艶やかな女のものだった。
だが、口調は「田辺」のそれに戻っている。
一人の時は、無理をしてセレブ美女を演じる必要はない。
私は意を決してベッドから降り、更衣室で着たサマードレスの腰紐を解いた。
シフォン素材が滑り落ち、続いて、悪戦苦闘して着けたあの「忘れ物」の下着も脱ぎ捨てる。
「…………っ」
冷房の冷気が、無防備になった全身にダイレクトに触れた。
私はゆっくりと、壁に設置された姿見の前に立った。
鏡の中には、完璧な、あまりにも完璧な「裸体の美女」が立っていた。
湿った黒髪が白い肩に張り付き、鎖骨から胸元にかけての、滑らかな曲線。
そして、その下に重そうに、しかし傲然と鎮座する、双丘。
「マジかよ。これ、本当に俺か……?」
私は自分の両手を持ち上げ、恐る恐る、その白い肌に触れてみた。
二の腕、ウエスト、太もも。
どこを触っても、かつてのゴツゴツとした、締まりのない男の肉体の感触はない。
指先を押し返してくるような、柔らかで、吸い付くような、弾力。
「次は、ここか」
私は唾を飲み込み、視線を胸元へと落とした。
下着の圧迫から解放されたそれは、重力に従って、驚くほど豊かに、しなやかに垂れ下がっている。
「む、むねをさわるけど、これは仕方がないことで……。物理的な質量と、重心のバランスを確認するための、不可避なデバッグ作業なんだからなッ!」
誰に弁解するでもなく、早口でそう捲し立てると、私は震える両手を下から差し入れた。
「あっ!?」
その瞬間、手のひらにずっしりとした、圧倒的な重みが乗った。
柔らかい。
温かい。
そして、指を少し広げると、その隙間から肉がこぼれ落ちそうになる。
男の時には絶対に感じることがなかった、圧倒的な「肉の質量」の感触。
「す、すげぇ……。何だこれ、本当に肉なのか?」
私は無意識のうちに、その感触を確かめるように、ゆっくりと持ち上げたり、少し力を込めて握ったりしてみた。
そのたびに、手のひら全体に、言いようのない、甘やかな、痺れるような感覚が広がっていく。
「あ……」
不意に、胸の奥底から、自分でも驚くほど艶っぽい吐息が漏れた。
手のひらの刺激が、ダイレクトに脳の快楽中枢を直撃している。
そして――。
「あ、れ?」
指先が、その双丘の頂(いただき)に触れた瞬間。
キューっと、胸の先が固くなる感覚が走った。
それは、男の時の「そこ」とは全く違う、鋭敏で、かつ体の芯までとろけさせるような、痺れるような快感だった。
「ひぁっ、なに、これ……」
私は自分の意志とは無関係に、その快感に酔いしれ始めていた。
指先で、固くなったその場所を、優しく、愛おしむようにコリコリと弄ぶ。
そのたびに、下腹部の奥深くが、熱く、甘く、痺れていく。
男の時には決して感じることのなかった、全身を駆け巡るような、濃厚で、溺れるような快感。
「ああっ、だめ、こんな、デバッグ中に、なに、俺っ」
口調は田辺のままだが、声は快楽に濡れ、甘く、高く、掠れている。
私は鏡の中の、顔を真っ赤にし、瞳を潤ませて、自分の胸を弄んでいる「見知らぬ美女」を、ただ呆然と、しかし、その快感に逆らうことなく、見つめ続けていた。
それは、組織からの逃走という極限状態の中で、私が初めて見つけた、自分自身の「女性としての記号」がもたらす、狂おしいほどの悦楽だった。
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「は、ぁっ。なんだよ、これ。反則だろ、こんなの」
鏡の中の女が、俺と同じタイミングで、潤んだ瞳を細めて吐息を漏らす。
指先が白い膨らみの頂点に触れるたび、脳内の回路がショートしそうなほどの衝撃が走る。
男だった頃の快感なんて、もっと単調で、局所的で、ただの「放出」に向けた作業に過ぎなかった。
だが、今は違う。
指先から伝わる刺激は、神経の束を伝って全身を駆け巡り、肌の一枚一枚が粟立つような、層の厚い快感となって押し寄せてくる。
「っ、くぅ、……あぁっ!」
俺はたまらず、両手でその豊かな肉を左右から挟み込み、中心へと寄せた。
指の隙間から溢れ出し、手の甲にまで伝わる肉の弾力。重力に逆らって持ち上げると、その重みがダイレクトに掌を圧迫し、熱を帯びた皮膚同士が吸い付くように密着する。
その中心で、いよいよ硬度を増した「先」が、俺の指の腹をコリりと弾いた。
「ひぅ……あ、あぁっ! 痺れる、体の奥が、勝手に熱くなって……」
自分の声なのに、聞いたこともないほど甘く、高い音が喉からこぼれる。
男の時、こんなに敏感な場所なんてなかった。
ただ少し触れるだけで、下腹部の奥にある、今はもう存在しないはずの「何か」の代わりに、新しく作り替えられた「子宮」がキュンと疼き、熱い液が満ちていくような錯覚に陥る。
鏡の中の美女――「私」は、もう恥ずかしがる余裕さえ失っていた。
首筋を反らし、艶やかな黒髪を背中に散らしながら、自分の胸を無心に弄り回している。
左手で下から重みを支え、右手でその柔らかい丘を円を描くように撫で回す。
時には少し強く握り、指を沈めると、焼きたてのパンのように柔らかく、それでいて命の躍動を感じさせる力強い跳ね返りがある。
「あ、はぁ……っ、やばい、これ、止まんねぇっ」
指先を湿らせ、その突起を優しく、時には執拗に摘み上げる。
そのたびに、脊髄を電流が走るような鋭い快感が、波紋のように四肢の先まで広がっていく。男の頃の快感が「点」だとするなら、今のこれは「面」、いや「空間」を支配する圧倒的な情報の奔流だ。
高解像度のハッキングソフトを脳内に直接インストールされたような、制御不能な感覚の同期。
「っ、ふぅ、あ……っ、ん……!」
鏡に映る自分の顔は、快楽に蕩け、どこか淫らで、それでいて神聖なほどに美しい。
その姿を見ているだけで、さらに興奮が加速する。
「田辺」という陰キャな男が、この究極の「女」というガワを弄んでいるという背徳感。
そして、その「女」が自分自身であるという、逃れようのない現実。
俺は膝を震わせ、鏡に片手を突いた。
指先で執拗に弄られ続け、限界まで熱を持った胸の先が、今や衣服の擦れさえも激痛に近い快感に変えてしまいそうなほど、過敏に、そして美しく色づいている。
「あぁ……っ、すご、い。女って、いつもこんなっ、こんなヤバい感覚、隠して歩いてんのかよ……」
もはやデバッグという言い訳すら消え去り、俺はただ、細胞レベルで書き換えられたこの新しい肉体が奏でる、未知の快楽の旋律に、身を任せることしかできなかった。
外界の追っ手のこと、偽造した部屋のこと、そんな現実は、今この瞬間の、指先から伝わる圧倒的な「女」の情報の前に、霧散して消えていく。
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「はぁ、っ、はぁ……」
どれくらい、鏡の中の自分に見惚れ、弄り続けていたのだろう。
気がつけば、全身の毛穴から吹き出した汗が、白い肌を滑り落ちていた。
熱を帯びた吐息が鏡を白く曇らせ、私の視界を曖昧にする。
快感の余韻で指先は微かに震え、膝は笑い、立っているのがやっとの状態だった。
「あー、クソ……。マジで、脳が溶けるかと思った……」
独り言は、まだ「田辺」の低さを引きずっている。
だが、その声さえも湿り気を帯び、どこか色っぽい響きを帯びてしまっているのが、今の自分にはどうしようもなく可笑しく、そして恐ろしかった。
ベタつく肌の不快感と、まだ内側にくすぶっている熱を冷ますため、私はふらつく足取りでバスルームへと向かった。
シャワーを捻ると、勢いよく溢れ出したお湯が、熱を持った体に容赦なく叩きつけられる。
「ひゃっ!?」
思わず、また変な声が出た。
男の頃なら気にも留めなかった水圧が、今の鋭敏な肌には、まるで無数の指先で愛撫されているような、くすぐったくも刺激的な感覚として伝わってくる。
私は棚に備え付けられていたボディソープを手に取った。
上品なローズの香りが、蒸気と共に狭いシャワールームに充満する。
泡立てネットで丁寧に作ったきめ細かな泡を、まずは首筋へと滑らせた。
「っ、ふぅ……。自分で洗ってるだけなのに、なんでこんなに……」
滑らかな泡が、先ほどまで執拗に弄り回していた双丘を包み込む。
指の腹で円を描くように、丁寧に、かつ慎重に。
石鹸の滑りの良さが、逆に肉の柔らかさを強調し、手のひらの中で形を変えるたびに、またしても体の奥がキュンと疼き始めた。
谷間の奥、脇の付け根、そして……。
「っ! あぁ……!」
丁寧に洗おうと指を動かすたび、自分の肉体が「女」であることを、否応なしに主張してくる。
指が触れる場所すべてが敏感なスイッチと化し、石鹸の泡が肌を滑る摩擦さえも、甘美な痺れとなって脊髄を駆け上がる。
汗を流すはずが、お湯と、自分の指の感触と、そして立ち込める花の香りに、再び体が火照っていくのがわかった。
頬は上気し、鏡を見るまでもなく、自分の瞳がまた蕩け始めているのが自覚できる。
「だめだ。これ以上やったら、本当に動けなくなる……」
私は必死に理性を繋ぎ止め、冷たい水に切り替えて全身を無理やり引き締めた。
急激な温度変化に、肌がキュッと収縮し、さっきまで熱を持っていた場所が、今度は別の意味で疼く。
バスタオルを体に巻き付け、滴る雫を拭いもせず、私は逃げるようにバスルームのドアを開けた。
「……っ、……ふわぁ」
冷房の効いた室内に出た瞬間、冷えた空気が火照った肌に心地よく突き刺さる。
一気に現実に引き戻された私は、部屋のドアの隙間から、何かが差し込まれているのに気がついた。
カサリ、と乾いた音が、静かな部屋に響く。
そこには、私がネットで注文した、高級デパートのロゴが入ったいくつもの紙袋と、密閉された配送用の箱が置かれていた。
指定通り、チャイムを鳴らしてすぐに立ち去ったのだろう。
「……届いたか。私の……新しい『鎧』が」
タオルを胸元で押さえながら、私はその荷物を見つめた。
この中には、私の体を守るための、そしてこの「セレブ美女」という偽りの設定を完結させるための衣装が入っている。
そして、サイズが合うかどうかすら怪しい、未知の「拘束具」たちも。
私は濡れた髪をかき上げ、まずは最も小さな箱に手を伸ばした。
中身は、今の私の規格(スペック)に合わせて選んだはずの、下着のセット。
箱を開けた瞬間、淡いレースと、男の頃には一生かかっても触れる機会がなかったであろう、繊細な布地が目に飛び込んできた。
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302号室の重厚なドアが、カチリと静かな音を立てて閉まった。
その瞬間、私は「田辺」という人格の残滓を、意識の最深部にある暗号化フォルダへとパージした。
今の私は、名もなきセレブ。気まぐれにこのリゾートを訪れ、退屈に飽き足らなくなった、気高い放浪者だ。
廊下に出ると、数メートル先を先ほどのスーツ姿の男たちが通り過ぎるのが見えた。
彼らはまだ、スマホの画面に映し出された「眼鏡をかけた中肉中背の男」の画像と、周囲の宿泊客の顔を照合し続けている。
滑稽なほどに、彼らのサーチエンジンは旧時代的だ。
「……ふふ」
私はわざと、彼らのすぐ後ろを音を立てて歩いた。耳元で揺れるイヤリングが、チリンと挑発的な音を奏でる。
男の一人が反射的に振り向くが、私の顔を直視した瞬間、その殺気立った瞳は即座に「畏怖」と「羞悸」へと書き換えられた。
「あ、失礼しました」
男が慌てて道を譲る。私は視線すら合わせず、ただ冷ややかな香水の残り香だけを彼の鼻腔に叩きつけ、エレベーターへと乗り込んだ。
鏡張りのエレベーターの中で、私は自分の指先を見つめる。先ほどまで自分の体を弄っていたあの熱い感覚は、今はもう、薄いシルクのドレスの下で静かに燻っている。
ロビーに降り立つと、私は迷うことなくコンシェルジュデスクへと向かった。
「ハイヤーを。今すぐに」
「かしこまりました。どちらまで行かれますか?」
「街のメインストリートへ。あとのことは、その時の気分で決めるわ」
用意されたのは、漆黒のセンチュリーだった。
運転手が恭しくドアを開ける。
私はドレスの裾を捌き、豊かな肉体が座席に沈み込む感触を楽しみながら、後部座席に身を預けた。
車窓を流れていくのは、組織の人間が必死に路地裏を覗き込んでいる光景だ。
そのすぐ横を、最高級の遮光ガラスに守られた私が、優雅に通り過ぎていく。
(追いかけなさい。影も形もない「田辺」という亡霊を。私は今、光の中にいる)
ハイヤーが街の喧騒へと滑り込んでいく。
ネオンが彩るメインストリート。
そこは、金と欲望が渦巻く、この偽りの姿に最も相応しい舞台だ。
車を降りると、夜の湿った風が私のメイクを施した顔を撫でた。
「……さて」
私は、軒を連ねるハイブランドのブティックを見渡した。
今着ている服は、あくまで「忘れ物」と「急造のデリバリー」で仕立てた、暫定的なパッチ(修正プログラム)に過ぎない。
本気で組織の目を欺き、完全にこの「女」という役割を血肉化するためには、もっと圧倒的な、他者を沈黙させるほどの「武装」が必要だ。
ハッキングで得た、出所不明の数億の残高。
これを単なるデータから、物理的な「威圧感」へとコンバートする。
「私を殺しに来たのなら、せいぜいその目が潰れるほどの輝きで迎えてあげるわ」
私はバッグを肩にかけ直し、ハイヒールの音を石畳に刻みつけながら、最も煌びやかなショーウィンドウへと足を踏み出した。
それは、逃走劇を華麗な「収奪」へと塗り替える、私なりの宣戦布告だった。
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足を踏み入れたのは、シャンデリアが眩い光を放つ、高級ランジェリーの専門店だった。
店内にはシルクとレース、そして高価な香水の香りが満ちている。
客は私以外に一人もおらず、完璧なプライベート空間が確保されていた。
「いらっしゃいませ。どのようなものを……?」
物腰の柔らかい店員が、まるで獲物を探すハッカーのような鋭い観察眼で私をスキャンする。
だが、その視線はあくまでプロフェッショナルで、私の纏う「セレブの皮」を完璧に信頼していた。
私はあえて、田辺時代には一生口にすることのなかったであろう冷徹な口調で告げた。
「肌に馴染むものが欲しいの。今着ているものは、どうも構造的に最適化されていないようで……ストレスが溜まるのよ」
「左様でございますか。では、まずはフィッティングルームへ。お客様の本来のサイズを、正確に計測させていただきます」
案内されたのは、ベルベットのカーテンで仕切られた個室だった。
中に入ると、店員は手慣れた手つきでメジャーを取り出す。
「失礼いたしますね。少し、背筋を伸ばしてください」
店員が私の背後に回り、冷たいメジャーが脇の下から胸元へと回される。
(まずい。心臓の音がうるさい。こいつに聞かれる……!)
私は必死に、荒ぶる鼓動を抑制するコマンドを自分に送り続けた。
メジャーが私の胸のトップを締め付ける。
そのたびに、さっきのシャワーで敏感になった肌が過剰に反応し、内側から熱がこみ上げてくる。
店員の手が、私の柔らかな肉に触れる。それは無機質な計測作業のはずなのに、彼女のプロの指先が触れるたび、まるで電気信号のような快感が全身に走り、私は小さく肩を震わせた。
「ふむ。……やはり」
店員は驚いたような表情を浮かべ、それから感嘆のため息をついた。
「お客様、お胸が非常に豊かですので、一般的なサイズでは合わなかったはずです。……計測結果ですが、アンダーに対してカップ数が……こちら、Hカップで間違いありません」
「――H、カップ?」
思わず、私の口からマヌケな男の声が漏れそうになった。
Hカップ。
ハッカーとして膨大なデータを扱ってきたが、これほど「衝撃的な数値」は聞いたことがない。
私の体は、男の常識を遥かに超越した質量を抱え込んでいたのだ。
店員は手慣れた様子で、Hカップ用の高級ランジェリーを次々とラックから引き抜いてくる。
「こちらが新作でございます。これほどのボリュームを支えるには、機能性と美しさを両立させたこのタイプが一番ですわ」
目の前に並べられた、繊細なレースをあしらったHカップのブラジャーたち。
それはもはや衣類というより、特殊な設計が施された「精密機械」のように見えた。
(これが、俺の……いや、私の重りか)
フィッティングルームの鏡に映る私は、今まさに、信じられないものを見るような目で自分の胸を見つめていた。
店員が去り、一人になった個室で、私は震える手でその「Hカップの拘束具」を手に取る。
ずしり、と手応えのある重量感。
これを装着した時、私は一体どんな姿になるのだろう。
そして、この圧倒的な「肉のデータ」が、私という存在をどう書き換えていくのか。
私はカーテンを閉め切り、新たな「自分」を完成させるために、その複雑なフックを外した。
Hカップのその重みと、これから始まる「試着」という名の背徳的な作業に、私の鼓動は先ほどよりもずっと激しく、かつ甘美に高鳴っていた。
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下着という名の完璧な「内部装甲」を身に着けた私は、店員たちの羨望と驚嘆が入り混じった視線を背に受けながら、次なる目的地へと向かった。
目指すは、この街で最も格式高いと言われる高級ドレスサロンだ。
重厚なマホガニーの扉を押し開けると、そこには数千万クラスのドレスが美術館の展示品のように並んでいた。
「いらっしゃいませ。……お言葉ですが、お客様のような方は、今夜の主役になられるべきです」
現れたのは、銀髪を隙なくまとめ上げた初老の女性スタイリストだった。
彼女は私の姿をひと目見るなり、確信に満ちた足取りで一着のドレスをラックから引き抜いた。
「今季の新作、シャイニー・ローズのミニドレスです。この鮮やかなピンクと、大胆なカッティング。お客様のその素晴らしいレッグラインと、溢れんばかりの……そう、その圧倒的なプロポーションを披露するには、これ以上のものはございません」
差し出されたのは、視覚を焼くようなショッキングピンクのミニドレスだった。
布面積は裾は太ももの付け根をかすめるほどに短い。
(ふざけるな! ピンクのミニだと!? そんな視認性の高い、しかも回避行動の取れない装備で戦場に出ろと言うのか!)
田辺としての本能が、真っ赤なエラーログを吐き出しながら警告する。
ハッカーにとって、目立つことは死と同義だ。
さらに言えば、この重いHカップの胸を抱えてミニスカートで歩くなど、物理演算のシミュレーションをするまでもなく、重心の乱れから転倒するリスクが高すぎる。
「光栄な提案だわ。でも、私は『獲物』として街を歩くつもりはないの」
私は、無理やり顔に張り付かせた「冷徹な令嬢」の仮面を維持しながら、そのピンクの毒々しい布地を指先で退けた。
「ピンクは……今の私のバイオリズムには波長が合わない。私が求めているのは、夜の静寂に溶け込みながら、光を飲み込むような色。……あれよ」
私はサロンの最奥、スポットライトさえ届かない影の中に展示されていた一着のドレスを指差した。
それは、深海をそのまま切り取ったかのような、重厚で気品溢れる濃紺のロングドレスだった。
素材は最高級のシルクサテン。
光の当たり方によって、黒に近いネイビーから、微かに銀色を帯びた深い青へと表情を変える。
「そちらですか? 確かに素晴らしい品ですが、あまりにも控えめすぎますわ。お客様のその華やかさを隠してしまうのは、宝の持ち腐れかと……」
「隠すのではないわ。支配するのよ」
私はスタイリストの反論を遮り、有無を言わせぬ足取りで試着室へ向かった。
着替えを手伝われながら、私はそのドレスの「重み」に驚いた。
先ほどの軽薄なミニドレスとは違い、足首まで届くスカートの裾にはたっぷりと生地が使われ、歩くたびに重厚な衣擦れの音を立てる。
そして、Hカップを支える上半身の設計は驚くほど堅牢だった。
深いVネックでありながら、脇から背中にかけてのボーンが肉体を完璧にホールドし、私のコンプレックスである「不自然な重み」を、抗いようのない「威厳」へと昇華させている。
鏡の前に立った私は、思わず息を呑んだ。
濃紺の闇を纏ったその姿は、追っ手から逃げるハッカーでも、浮ついたセレブでもなかった。
夜そのものを司る、冷徹で美しい執行官。
「……完璧だ。これなら、どんな監視カメラのセンサーも、私の『本質』を捉えられない」
独り言は、ドレスの裾が床を撫でる音に消えた。
深いネイビーに包まれたHカップの双丘は、過剰な露出を抑えることで、かえって見る者の目を逸らさせないほどの、静かな、しかし暴力的なまでの存在感を放っている。
私は、この夜という名のネットワークを完全にハックするための、最強の「ステルス迷彩」を手に入れたのだ。